第798話 第三章「手描きの監獄図」後編

 セレナは、食事口の金属縁を左指でなぞった。

 新しい擦り傷。

 右から左。

 その下へ古い傷。

 左から右。

「小鍵は横送り継ぎ目を通る」と彼女。

「工具庫へ届く?」ハル。

「位置関係上は可能。ただし、反転時にどの溝へ落ちるか未確認」

「取っ手に鍵穴がない」

「機械合図式。鍵は連動開閉の解除札かもしれません」

「拾えば便利」

「拾うことを前提にしない。鏡合図案も並行」

 ハルは零星針の蓋を開けた。

「これ、傷つけるかも」

「何に」エリア。

「鏡に使えば、灯火の煤が付く。角へ当てればへこむ」

「道具を無傷で守ることと、意味を守ることは同じではない」

「さっきは重りにするの止めた」

「あなたが、使えない羅針盤を壊すことで自分を罰しようとしているように見えたから」

「今は」

「使うために傷つけると説明している」

「違い、小さい」

「小さい違いを消すと、結果だけが同じものを全部同じにしてしまう」

 セレナが加える。

「傷の前後を記録します。蓋内面、現在は浅い擦過三、歪みなし」

「そんなに」

「戻った時に、あなたが何を失ったか分かるためです」

「戻れたら」

「戻ることを事実にはしない。作戦目的には置く」

 ハルは蓋を閉じた。

「作戦目的。全員で戻る」

「ノクスを含める」アムナ。

「七人」

「ニアは」ロロ。

「本人確認後、本人が選ぶ」セレナ。

「ソウジ」

 ハルが言う。

 全員が一瞬、黙る。

「生存と意思を確認」とエリア。「救出を本人へ押しつけない」

「でも、器になるって言った」

「一度の同意を残り全部へ貼らない、とあなたが言った」

「俺、便利なこと言ったな」

「便利ではない。守るのが難しい言葉」

 難しいから、誰か一人へ任せない。

 セレナは作戦票の上へ書いた。

『目的――生存者の選択可能範囲を増やす。

 手段――死角通過、工具庫確認。

 撤退――四秒超過、左肩三以上、巡回兵視線移動。

 未確定――工具庫扉、ノクス籠、ニア経路、ソウジ位置。』

「脱獄って、もっと格好いい言葉じゃないの」とハル。

「格好いい言葉ほど、撤退条件を書き忘れます」

「じゃあこれで」

「読んで」

 ハルは一行ずつ読む。

 自分の走る理由と、戻る理由を同じ声で言う。

 そうして初めて、四秒は勇気の長さではなく、皆で止められる期限になった。

 閉じた空間から、音がした。

 こん。

 間。

 こん、こん。

 ロロの補助腕が、固定輪の中で一斉に――一本しかないので一斉というには寂しいが――上を向いた。

「今の」

 こん。

 間。

 こん、こん。

「姉ちゃん」

 声が、専門用語を失った。

 本当に助けを求める時、ロロは工具名ではなく人の名を呼ぶ。

「ニア?」ハル。

「正常音一回。切断前二回。下面区の合図」

 ロロは壁へ耳をつける。

「高い音、拾えない」とセレナ。

「壁で読む」

 指ではなく、頬を鉄へ当てる。

 こん。

 こん、こん。

「返す」とロロ。

 固定された補助腕の先で壁を一度。

 人間の左拳で二度。

 向こうが止まる。

 それから、三回。

「三?」ハル。

「切断じゃない。工具の本数」

「何がある」

「分からねえ。聞く」

 一回、間、三回。

 向こうから、一回、間、一回、間、一回。

「ばらばら?」

「一本ずつ。工具を一つずつ使えって意味」

「本人確認」とセレナ。

「ロロ坊って呼ばせりゃ一発だ」

「呼称は他者も知り得ます」

「じゃあ、俺が十二の時に隠した――」

「私的情報を公的場で本人確認へ使わない」とアムナ。

「何ならいい!」

「現在の身体」セレナ。「ニアは両手の触覚を失っている。高温と低温を区別できるか。工具振動を何で読むか」

 問いを打音へ変える。

 ロロが苦労して送る。

 返事は遅い。

 向こうから、長い一回。

 短い二回。

 最後に、壁を擦る低音。

「触覚零。前腕位置はある。頬骨で振動」ロロ。

「既知身体情報と一致。ただし単独で本人断定しない」セレナ。

「まだ?」

「次。六本の補助腕」

 向こうから、六回ではない。

 零。

 沈黙の後、一本の金属が床へ落ちる音。

「ない」とロロ。

「過去の確認記録と一致」とハル。

「言い方がセレナに似てきたな」とカイル。

「正確さは感染する」

「感染扱いするな」とセレナ。

 最後にロロが、自分の工具名を一つ送る。

『揚げパン』。

 昔から使う細い楔の名。

 向こうは二回打ち、三回擦り、最後に一回止める。

「『焦がしたから名前変えろ』」ロロ。

「本人らしい」とハル。

「感想。本人確認の補助」とセレナ。

「じゃあ書け! ニア・ピクス、向こう!」

 アムナが言う。

「名前。もう一度」

 ロロは壁へ向けて、ゆっくり打つ。

 ニ。

 ア。

 返事は、二回。

 アムナは手の甲へ書かない。

「本人が公開を止めてない?」ハル。

「この場の六人へ。位置は書かない」

 セレナは地図へ人物名を置かず、閉じた空間へ記号を一つ入れる。

『応答者N。本人可能性高。工具三。触覚零。補助腕零』

「名を書かないのにN」ハル。

「記号」

「ニアのN?」

「応答者一の意味です」

「一はIじゃ」

「あなたを地図記号へ参加させません」

 ニアは、外から来た。

 断片的な打音をつなぐと、そう読めた。

 魔法停止後、逆潮環から旧式の手動補給索をたどった。

 空冠下部の保守口へ到達。

 切断術は使えない。

 三鍵も揃わない。

 だから外板を切らず、点検扉を手で開けた。

 開けた先で捕らえられた。

「二日前?」ハル。

「打音の回数だと、収容から一日以内」とロロ。

「逆潮環からどうやって」とエリア。

「旧終端補給線。世界が止まる前から終端議会だけが持ってた物理路だろ」

「本人が説明していない部分を補わない」とセレナ。

「じゃあ、外から来て捕まった。そこまで」

「採用」

 ニアは、彼らより外側の保守隙間にいる。

 閉じた空間ではない。

 人が入り、捕らえられた道がある。

 エリアの地図の空白へ、出口という文字はまだ書かない。

 代わりに。

『外部から到達可能』

 可能性が、一段、物理になる。

 工具庫の位置は、ニアの打音で分かった。

 房から見て、第二反転時の右。

 第三反転時の上。

 固定環からは下。

「方向が三つある」とハル。

「全部同じ場所」とエリア。

「地図って、答えを増やして一個へ戻すの?」

「地形が増やした答えを、条件つきで同じ場所へまとめる」

「言葉も?」

「今は走る準備」

 作戦を決める。

 第四反転。

 巡回兵Aが小窓へ来る。

 百三十八度から百五十度の死角、四秒。

 ハルは格子下の隙間を抜ける。

 左肩を床へつかない。

 赤いマフラーは外す。

 腰へ糸。

「糸の強度は人間を止めない」とエリア。

「帰り方向」

「引かない?」

「引けば切れる。切れたら危険合図」

「帰り道を糸へ任せないのは採用」

「俺の道、信用してる?」

「あなたの段差記憶を。方向感覚は信用していない」

「細かい」

「正確」

 カイルは格子を持ち上げる。

 王盾炎なし。

 右腕ではなく、本来利き手の左で支える。

「十五秒」とセレナ。

「四秒じゃ」ハル。

「死角四。格子保持十五。戻れなければ降ろす」

「俺が挟まる」

「だから戻り合図を二系統。糸断、床三打」

「助けに来る?」

「あなたが『手伝って』と言えば」エリア。

 ハルは一瞬、黙る。

 いつもなら、行ってくると言う。

 失敗してから助けられる。

「……手伝って」

「具体的に」

「四秒後、格子の位置を声で言って。戻る道を間違えたら、正しいじゃなく近い方を」

「採用」

 エリアの声が、少しだけ柔らかい。

「ハル。今の下へ二歩。百四十度で右壁が床になる」

 歯車が鳴る。

 一。

 二。

 房が傾く。

 巡回兵の靴音。

 カイルが左腕で格子を浮かせる。

「肋部三。継続」

「百三十」ロロ。

「死角へ入る」セレナ。

「今!」エリア。

 ハルは滑った。

 走るのではない。

 傾く床へ足を置き、身体が落ちる先を一歩ずつ変える。

 格子下。

 狭い。

 左肩を薄くするため、右腕を先へ。

 一。

 鉄の角。

 二。

 油の匂い。

 三を言わない。

 代わりに、エリアの声。

「右。今の床へ一歩。そこは二秒後に壁」

 踏む。

 壁になる前に蹴る。

 監視窓の下を横切る。

 兵の目は、回転する盆へ向いている。

「二秒!」セレナ。

 ハルは工具庫の取っ手へ手を伸ばす。

 閉じている。

 鍵穴はない。

 代わりに、小さな光窓が二つ。

 機械式の合図受け。

「開かない!」

「観測して戻って!」エリア。

 その時、工具庫の下から黒い耳が見えた。

 右耳先に三角の欠け。

 金の瞳。

 ノクス。

 小さな鉄籠の札に、こう刻まれている。

『物品区分七』

 ハルの中で、怒りが声量を失う。

「名前はノクスだ」

 ノクスが、鉄越しに一度だけ「ノゥ」と鳴いた。

「戻って!」

 死角が終わる。

 巡回兵の目が、こちらへ動く。

 ハルは工具庫の光窓と、動かない零星針の蓋を同時に見た。

 蓋の内側は、磨かれた金属だった。

 針が道を示さなくても。

 光なら、返せる。