第800話 第四章「鏡になった羅針盤」後編

 歯車が動くまでの二拍に、ハルは工具庫の棚へ戻った。

 グリムリリーを持ち上げる。

 重い。

 光の路図が出ない今は、白い長槍でしかない。

 エリアの両踵では、長距離を持って走れない。

 だが本人へ聞かずに置いていくのも違う。

「エリア。槍」

「持てる?」

「持てる。持ってく?」

 返事まで二拍。

「今は置く。所在と状態を記録して」

「大事じゃない?」

「大事だから、逃走経路で誰かの肩を壊す重さへしない」

「受領」

 盾型籠手。

「カイル」

「右腕へ付けると肋部へ負担。持ってこなくていい。半盾を返してくれれば十分」

「王家の宝」

「今、宝なのは手が空くことだ」

 ロロの工具箱。

「全部!」ロロ。

「重い」

「中身を言え!」

 ハルは箱を開ける。

 長レンチ。

 小槌二。

 平やすり。

 銅線。

 絶縁布。

 吸入筒。

「吸入筒!」

「これ最優先」

「工具箱の中で薬を工具扱いするな!」

「一番壊れたら困る機械、ロロだから」

「人を機械扱い――いや今のは、ちょっとだけ許す!」

 吸入筒、短レンチ、小槌、やすり、銅線だけを選ぶ。

 証羽はセレナが言う。

「黒羽片一本。証拠能力なし。外套縫い目へ戻せるため持参」

「思い出?」

「識別具。感傷は未確認」

「広い欄」

「あなたの感情欄ほどではありません」

 持ち出さない物にも、本人の選択がある。

 荷物を軽くすることを、価値の序列にしない。

 ハルは各棚へ、所在札を置く。

『所有者確認後に返却。

 緊急避難のため移動せず。』

「牢へ返却を頼むの?」カイル。

「牢じゃない。後で来る誰か」

「来る保証」

「ない。でも、持ち主不明の物を放置した理由は残せる」

 扉の錠が、落ちる。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 想定より多い。

 ハルはノクスを見る。

「一緒に戻る。途中で別の道を選ぶなら、止まって二回」

 ノクスは一度だけ鳴いた。

「返事は一回」

「ノゥ」

「今の二回目」

 ノクスはハルの靴へ前脚を載せた。

「了解。一緒」

 開いた扉の向こうから、三十六人分になる前の、ばらばらな足音が近づいてきた。

 次の反転が始まる。

 ハルは工具庫の鏡板を一つ目の角へ立てる。

 零星針の蓋を二つ目に使う。

 灯火が横へ流れる。

 監視所の小窓へ、一度。

 二度。

 偽の開錠合図。

 向こうで歯車が動く。

 工具庫の扉ではない。

 廊下の四方向から、同時に錠が落ちる。

「連動四列!」セレナ。

「開く数!」

 アムナが音を数える。

「七。十一。十四……二十一!」

「多い!」ロロ。

「少ないより問題が増えた」カイル。

「問題は人数じゃない」とハル。「出た後に出口がないこと」

 扉が開く。

 最初に出てきたのは、武装した反乱者ではなかった。

 毛布を肩へ巻いた老人。

 片腕を吊った配給係。

 靴を片方失った子供。

 制服を脱いだ元監視兵。

 顔を白布で覆った無登録区の住民。

 罪状は分からない。

 罪があるかも分からない。

 危険でないとも分からない。

 分からない者を、善人へ分類しない。

 同時に、囚人という一語で敵へもしない。

「止まって!」

 ハルは廊下へ出る。

 重力が変わりかけ、全員の身体が同じ方向へ傾く。

「次の反転まで四十秒! 固定点を一つ選んで! 走る人は走る理由を言って!」

「出口は!」

「まだ不明!」

「ならなぜ開けた!」

「閉じたまま話せなかったから!」

「無責任だ!」

「そう。開けた責任は俺たちにある。だから、俺の後ろへ全員ついてくるな!」

 命令としては奇妙だった。

 脱獄者は、出口を知っている者へ集まる。

 出口を知らない者は、知っているふりをしやすい。

「選択を三つ」とセレナの声が管から届く。「元房へ戻り内側から仮固定。中央待機区へ移る。探索組へ一名ずつ代表を出す。どれも安全保証なし」

「安全がない選択を選べと?」

「安全があると偽るより正確です」

 元監視兵が言う。

「中央待機区には水槽がある。だが次の反転で床が開く」

「情報の出所」とセレナ。

「勤務経験」

「現在の身分」

「収容者」

「記録します。名前は」

「出したくない」

「匿名で可。確認可能な勤務痕は後で」

 彼は袖をまくり、鍵輪の擦過痕を見せた。

 アムナが人数を聞く。

 二十一房。

 生存者三十六。

 歩行困難七。

 子供二。

 現在の監視側から離反した者四。

 名前は後。

 反転まで二十秒。

「毛布を索に!」ハル。

「切るな!」配給係。

「結ぶだけ。戻す保証はない。使った箇所を残す」

「毛布の所有者は」

「共同房」

「共同房の同意!」

 声が重なる。

 全員一致を待てば落ちる。

 多数決で少数の毛布を奪えば、救助が略奪になる。

「今持ってる人が一枚ずつ決めて!」ハル。「出さない人を責めない!」

 八枚出る。

 足りない。

 カイルの半マントを一本。

 セレナの外套の内紐。

 アムナの空欄縄。

 反転。

 廊下が壁になる。

 ハルは先に跳ばない。

 子供二人の腰索を固定し、歩行困難者を壁環へ渡す。

 自分は最後。

 左肩へ全体重を掛けない。

 赤いマフラーを鉄環へ通し、右腕で滑る。

「一、二、三!」

 今回は三を合図にする。

 三十六人が、一つの群れへならず、八つの小組へ分かれて新しい床へ移る。

 移動中、廊下の奥で警報鐘が鳴った。

 魔法の警報ではない。

 大きく、遅く、手で打つ鐘。

 監視兵が来る。

 解放された三十六人の中には、監視兵を殴ろうとする者もいた。

 元房へ戻る途中、片腕を吊った男が、落とされた拘束棒を拾う。

「同じ目に遭わせる」

 止めたのはカイルではない。

 以前監視兵だった収容者が、自分から棒の前へ立った。

「俺も殴られる側か」

「お前は何人縛った」

「十二。命令で」

「なら十二回」

「回数で責任を払えば、十三人目を縛った理由は消えるのか」

 男の腕が止まる。

 ハルは棒を奪わない。

「今殴ると、次の反転でその人を運ぶ手が一人減る」

「助けろって?」

「助けるかは後で決めて。今、落とさない」

「後で逃げる」

「名前を出したくないなら行動時刻を残す」とセレナ。「拘束した事実も、今殴らなかった事実も、両方」

「記録で腹が満ちるか」

「満ちません。だから水と道を先にします」

 片腕の男は棒を床へ置かず、自分の腰へ差した。

「武器は持つ」

「人へ向けない条件」とカイル。

「王子へも?」

「特に私へ」

「気に入らねえ」

「同意は好意ではない」

 男は拘束棒を杖として使い、歩行困難者の一人を支えた。

 赦したわけではない。

 復讐を諦めたわけでもない。

 ただ、今この反転で誰を落とさないかを先に選んだ。

 ハルは工具庫から持ち出した鏡板を、廊下角へもう一枚置いた。

「何する」と元監視兵。

「合図を増やす」

「偽合図は一度で形式が変わる」

「だから同じ二光は使わない」

 零星針の蓋を傾ける。

 一度。

 間。

 三度。

 存在しない信号。

 監視兵は止まる。

 分からない合図を無視するか、確認するか。

 組織は、命令が不明な時に人間の性格を露出させる。

「確認班、止まれ!」

 向こうで声。

 時間が生まれる。

「走る」とハル。

「出口は」と配給係。

「工具庫の隣に、元の房へ戻る保守溝。中央待機区はそっち」

「本当か」

「一部見た。全部は見てない」

「信じろと」

「信じなくていい。見た範囲を言った。代表を一人、先に確認へ」

 元監視兵が出る。

「私が見る」

「戻る期限」

「次の灯火二回」

「戻らなければ」

「進行停止。別経路」

 条件を言って、彼は走る。

 ハルはその背へ「必ず戻れ」と言わない。

 工具庫から房へ戻る扉を、小鍵で開く。

 エリアたちが出てくる。

 エリアは最初にハルの左肩を見る。

「三」

「二」

「肩を上げないで」

「今、上がどっち」

「逃げるな」

「会話で逃げただけ」

「それも逃げ」

 セレナは開放人数を聞き、アムナの線と照合する。

「三十六。元房組十一、中央待機希望十九、探索代表六」

「探索代表、多い」とカイル。

「代表という名で全員が先頭へ来たがる」セレナ。

「先頭は役職じゃない」とハル。

「危険手当が必要だ」とロロ。

「ミラがいれば請求する」

「いなくても請求しろ!」

 ロロは六顎スパナを見る。

 補助腕が一度上を向き、すぐ止まった。

「姉ちゃんの」

「緊急使用」とハル。

「傷、増やすなよ」

「工具に?」

「使う奴に」

 ロロは受け取らず、ハルの鞄へ戻させた。

「今は俺の右指が三。持つのは後」

 助けが必要だと、工具名でなく自分の状態を言えた。

 小さな成長は、警報鐘の大きさに負けない。

 元監視兵が戻る。

「中央待機区、水槽あり。床開口は手動。今は閉。だが警報で全列封鎖が来る」

「時間」

「一反転以内」

「全員を移す」とカイル。

「探索は」ハル。

「先に生活を置く」とエリア。「水、負傷者、固定点。出口探索はその後」

「ソウジの三回転」

「焦って三十六人を落とせば、父へ着く人数が減る」

 正しい。

 正しいことが、間に合う保証にはならない。

 ハルは零星針の蓋を見る。

 針は動かない。

 蓋には灯火の黄色い傷が残った。

「羅針盤、使えた?」カイル。

「鏡として」

「降格?」

「配置換え」

「本人の意向は」

 ハルは蓋を閉じる。

「俺が聞けてなかった。だから、元に戻す義務もない。壊さず、今役立つ使い方をする」

 その時、偽合図で開いた最奥の扉が、ゆっくりと動いた。

 別の収容列。

 暗い向こう側から、鎖ではなく巨大な歯車音が聞こえる。

 ロロが顔を上げた。

「制動機」

「牢の回転を止める?」ハル。

「止めるか、速くするか、見ねえと分からねえ」

「工具庫一個、届いた」

「請求したのは工具庫で、監獄全部じゃねえ!」

 歯車がもう一度鳴る。

 警報鐘より深い音だった。

 閉じた牢の意味が、今度は機械の方から開き始めた。