第801話 第五章「手で外す歯車」前編

機械を直す者は、壊れた物を元へ戻す人だと思われている。

 これは、修理される側が好む説明である。

 元とは何か。

 誰にとって正常だった時を、元と呼ぶのか。

 監獄の歯車を設計どおりに戻せば、監獄は設計どおりに人を閉じ込める。

 直すことと、従わせることは似ている。

 外すことと、壊すことも似ている。

 違いは、作業の後に残る者が、何を選べるかで決まる。

【空冠要塞・第六収容環/制動機室前】

「最初に言っとく」

 ロロ・ピクスは、開きかけた大扉の前で右手を胸へ上げた。

「俺の再機は出ねえ。補助腕は一本、固定輪に噛まれたまま。右の三番四番は痺れ三。工具箱は取り返してねえ。だから、いつもの三倍かかる」

「三倍で済む?」ハル。

「そこは依頼人が『無理するな』って言う場面だ!」

「無理するな」

「今言っても見積りは下がらねえ!」

 怒鳴った拍子に咳が出た。

 ロロはすぐ背を丸めず、吸入筒の代わりに鼻から短く吸い、口をすぼめて長く吐く。吸入薬も没収されている。喘鳴はまだ一。

 エリアが紙地図の端へ記す。

『ロロ・呼吸一。右指三。作業時間、通常比三以上』

「三以上って値上げ表示みてえだな」

「作業を急かさないための表示」

「それならもっと大きく書け」

「自分で申告できたから、ここで十分」

 ロロは一瞬だけ黙り、ゴーグルを下ろした。

 大扉の向こうには、歯車があった。

 歯車、という単数では足りない。

 直径八メートルの外輪。

 その内側へ噛み合う六つの減速輪。

 さらに細い歯を持つ調速輪。

 鉄骨の天井――今の重力では左壁――まで延びる鎖。

 油槽。

 振り子。

 制動爪。

 牢の回転を作る心臓ではない。

 回転し続ける空冠要塞の中で、牢だけを一定周期へ遅らせる制動器だった。

「止めてる機械」とロロ。

「回してるんじゃない?」ハル。

「要塞本体が回ってる。こいつは牢を引っ掛けて、十三分二十秒ごとに一段ずつ離してる。止めるために、動かしてる」

「止めるために動く。牢らしい」とカイル。

「王家の政治みてえに言うな」

「政治より歯車の方が、壊れた場所を見せてくれる」

「政治家がそれ言って安心してんじゃねえ」

 制動爪には、三本の欠けがあった。

 欠けを埋めるため、銀色の薄板が後から打ち込まれている。

 ニアの工具痕。

 六顎スパナの歯幅と合う。

「姉ちゃんがここを触った」

 ロロは断定しかけ、手を止める。

「触った可能性が高い。工具痕が同じ。本人へ確認はまだ」

 セレナが頷く。

「採用します」

「毎回それ言われると、俺が自分の口を修理されてるみてえだ」

「改善です」

「修理より高い言葉だな!」

 制動機室には、監獄の取扱札が残っていた。

『通常周期 八百拍』

『収容区画移送時 四百拍』

『中枢儀礼時 百拍』

 空冠は、囚人を閉じ込める時だけゆっくり回す。

 中枢へ何かを運ぶ時は、八倍速く反転させる。

「ソウジを運ぶ周期」とハル。

「推測」とセレナ。

「放送で三回転後って言った」

「何を一回転と数えるか未確認です」

「でも、急ぐ理由は増えた」

「焦る理由と、急ぐ手順を分ける」とエリア。

 ハルは言い返さない。

 左肩を一度回し、痛みを確認してから赤いマフラーを鉄柱へ結んだ。

 三十六人の解放囚人は中央待機区へ移り始めている。

 元監視兵四人は、水槽の手動弁を開け、床開口の固定へ回った。

 子供二人は、史料保全責任者が数えている。

 ハルたちが制動機を止めれば、全員の床が変わる。

「作業前に告知」とカイル。

「止められるか分からねえ」ロロ。

「変化する可能性を告知する」

「その言い方、何も言ってねえのと同じだぞ」

「なら、君の言葉で」

 ロロは送風管へ口を寄せた。

「中央待機区! これから牢の回転周期をいじる! 速くなるか、止まるか、最悪どっかで噛んで傾いたままになる! 固定索を二本以上! 水槽の蓋閉めろ! 歩けねえ奴を一か所へ集めんな、床ごと落ちたら全滅する!」

 向こうから怒鳴り声。

「どれくらいで終わる!」

「分かんねえ!」

「技師だろ!」

「見積りに必要な図面も工具も指も足りねえ! 分からねえを隠す方が技師失格だ!」

 沈黙の後、別の声。

「固定完了したら三打する!」

「了解!」

 ロロは管から離れた。

「言えた」とハル。

「何が」

「分からないって」

「そこ褒めると、俺が普段ごまかしてるみてえだろ」

「普段は修理代でごまかす」

「ごまかしてねえ、換算してる!」

 ニアは、制動機の反対側にいた。

 壁の中を通る保守溝。

 厚さ二十センチの鉄板を隔て、頬骨で振動を読んでいる。

 ロロが歯車の歯を小槌で打つ。

 一。

 間。

 二、二。

 返事。

 一。

 三。

 一。

「『爪を抜くな。軸が走る』」

「抜くつもりだった?」ハル。

「今、抜かない理由を探してた!」

「同じ答えに見える」

「経路が違う!」

 ニアから、もう一つ。

 長、短、短。

 擦り音。

「『戻しばね、左』」

 ロロは左を見る。

 今の左だ。

 次の反転では下になる。

 細い戻しばねが、油に埋もれている。

「姉ちゃん、向こうから見えてんのか」

「振動で型番を読んでいる可能性」とセレナ。

「この制動器、旧終端規格だ。終端議会で触ったんだろ」

「本人の作業歴の範囲内」

「それで十分だ」

 ロロは六顎スパナを取り出した。

 握る。

 右手の三番、四番が遅れる。

 金属が指から落ちかけた。

 一本の補助腕が背中から伸びる。

 固定輪へ噛まれているため、可動範囲は肩の後ろ三十度だけ。

 役に立たない。

 いつものロロなら、そう言う。

 今回は、違った。

「ハル。スパナの尾、持て」

「どう持つ」

「右から押す。俺は顎を合わせる。回すのはカイル」

「私?」

「王子の筋肉、税金分働け」

「今は無給だ」

「じゃあ労働債権で相殺!」

 エリアが紙へ役割を書く。

 ロロ――顎位置。

 ハル――滑り止め。

 カイル――回転力。

 セレナ――角度監視。

 アムナ――拍数。

 ニア――反対側から振動指示。

「俺の修理じゃなくなる」とロロ。

「嫌?」ハル。

「請求書の署名欄が増える」

 それだけ言って、笑った。

 最初のボルトは、動かなかった。

 錆。

 圧力。

 古い締め癖。

 再機なら、壊れる前の手順を残響として呼び戻せた。

 今は何も返らない。

 ロロは錆を削る。

 一周を一度に剥がさず、六分の一ずつ。

「回す」とカイル。

「まだ」

「時間」ハル。

「知ってる。急かすなら代替案」

「待つ」

「よし」

 小槌。

 油。

 布。

 ニアが反対側から一打。

 ロロが返す。

 姉弟の会話は、謝罪でも赦しでもない。

 何度締めたか。

 どこへ力を掛けるか。

 失敗したら誰が手を離すか。

 共同作業とは、感情の一致ではなく、次の危険を同じ言葉で呼べることから始まる。

「今」

 カイルが左腕で柄を押す。

 ハルが尾を支える。

 ロロが顎のずれを読む。

 ぎ、と金属が鳴った。

「動いた!」

「一度だけ。戻すな!」

 六分の一。

 さらに六分の一。

 ボルトが抜ける。

 外したのは制動爪ではない。

 戻しばねの支点。

 ばねが張力を失い、爪は歯車へ深く食い込まなくなる。

「止める機械を、弱くした」とハル。

「元へ戻してねえ。次に誰かが手で選べる位置まで外した」

 ニアが三打する。

 ロロは眉を寄せる。

「『遅い』」

「姉らしい」とカイル。

「言い返す」

 ロロは一打、長い擦り、二打。

「何て」

「『触れねえ奴より安全だ』」

 向こうで、しばらく音がない。

 それから、一打。

「返事」

「『正しい』」

 ロロは笑わなかった。

 正しいと言われたことが、嬉しいのか腹立たしいのか、自分で決める時間を取った。

 機械を分解する前には、動きを止める。

 止められない機械なら、人間の方が動く範囲を決める。

 ロロは制動機室の床――三十秒後には壁になる面――へ、炭で六つの円を描いた。

「ここから出るな。円一、工具。円二、外した部品。円三、まだ外してねえ部品。円四、負傷者。円五、記録。円六、何か分からねえ物」

「最後が広い」とハル。

「分からねえ物を工具箱へ入れる奴が一番事故る」

「人は?」カイル。

「勝手に円へ入れるな。自分で立てる場所を言え」

 カイルは円四の外へ立つ。

「負傷はしているが作業者」

「肋部三、背中三。回転力一回三十秒まで」

「技師の診断?」

「壊れかけを扱う経験」

「僕を機械へ」

「人間だから交換部品がねえ。大事に使え」

 セレナは円五へ座る。

 左眼の焦点を合わせるため、灯りを背にしない位置。

 エリアは円の位置を地図へ写し、次の反転後の場所も重ねた。

「円四が天井になる」

「負傷者を天井へ置く設計、却下」とハル。

「だから次の反転前に円を移す」ロロ。

「円が固定じゃない」

「安全区画は床の塗料じゃねえ。今いる人間に合わせて動かす」

 監獄の規則は、場所へ人を合わせる。

 修理工の規則は、人に合わせて場所の意味を変える。

 ロロは、それを思想だとは思っていない。

 思想にすると請求できないからである。