第802話 第五章「手で外す歯車」後編

 制動爪の裏には、古い刻印があった。

『破約受容体搬送用』

 文字は薄い。

 新しい管理札で半分隠されている。

「昔から、器を運ぶための機械」とセレナ。

「アザルが入れられた時から?」ハル。

「年代未確認。部品の腐食は少なくとも百年以上。交換履歴は三十三年前まで」

「千年ずっと同じじゃない」

「機械は交換される。役割だけが残る」カイル。

「人間は交換部品じゃねえ」とロロ。

 言いながら、彼は制動爪を指す。

「でも、この要塞はそう扱ってる。爪が欠けたら薄板を足す。器が壊れたら次を入れる。止まらないことを正常って呼んでやがる」

「外せる?」ハル。

「外すだけなら」

「戻せない?」

「戻す必要があるか決めてねえ」

 ロロは歯車へ手を当てた。

 再機は出ない。

 過去の作業手順も聞こえない。

「昔なら、壊れる前の音を呼べた」

「今は」

「今の音を聞く」

 能力は、過去を正解へしてくれる。

 手工具は、現在の錆と向き合うしかない。

 ロロは小槌で六点を叩く。

 一点目、澄む。

 二点目、鈍い。

 三点目、二重。

「空洞」

「どこ」エリア。

「三番の裏。補修板の下に隙間。力を掛けたら板だけ割れる」

「見えないのに」ハル。

「聞こえる。高音は苦手でも、鈍い返りは骨で分かる」

 彼は自分の身体を能力の代用品とは呼ばない。

 先にあった身体を、能力が後から便利にしただけだ。

 中央待機区から、固定完了の三打がまだ来ない。

 代わりに、短い連打。

 助けを求める符号。

「何人」ハル。

 管越しの声が途切れる。

『水槽蓋、閉まらない。蝶番に毛布』

 全員が一度、ロロを見る。

「俺が行けば作業止まる」

「俺が行く」とハル。

「蝶番の構造分からねえだろ」

「言って」

「現物見てねえ!」

 ロロは苛立って小槌を握り、右指が遅れ、落とす。

 音。

 全員が止まる。

「状態」とセレナ。

「右指四。怒り二。喘息一」

「怒り、数字にするの」とハル。

「工具落とした理由を錆のせいにしねえためだよ!」

 それは自分への記録だった。

 ロロは深く一度息を吐く。

「蝶番は二軸のはず。毛布を引くな。噛み込みが締まる。蓋を一センチ持ち上げて、反対側から押し出す」

「持ち上げる人」カイル。

「今いる元監視兵二人。力が足りなきゃ水を半分抜く。ただし飲料減る」

「水を捨てる?」ハル。

「捨てるな。食器へ移す。容器数」

 アムナが中央へ問い、返りを数える。

『椀十九。桶二。瓶一』

「移せる量、三割」とエリア。

「じゃあ三割だけ抜く。蓋の荷重を減らす。蝶番へ木匙を差し込む」

「匙は私物棚」とハル。

「持ってこなかった」

「正解だった?」

「持ち主不明の匙を勝手に工具へしなかったのは正解。今は待機区の食器から、本人の同意がある物を借りろ」

 管へ手順を送る。

 ロロ自身は動かない。

 自分が行けば早いという誘惑を、役割を渡すことで止める。

 五分後。

 三打。

 固定完了。

 続いて、一打、長い一打。

「水損失なし、蓋閉鎖」とアムナ。

 ロロの肩が少し下がる。

「俺が直してない」と彼は言う。

「直った」とハル。

「俺の手じゃない」

「手順を渡した」

「それ、修理に数える?」

「請求書へ何て書く」カイル。

 ロロは考える。

「遠隔口頭技術支援。現地作業者へ全額配分」

「無料?」

「王家へは請求する!」

 自分一人が直したことにしないため、金額を分ける。

 彼の金銭感覚は、時に最も具体的な功績配分になる。

 二本目の支点は、一本目より悪かった。

 ねじ山が潰れている。

 六顎スパナでは噛まない。

「切る?」ハル。

「切断術が使えりゃ一秒。でも今は、切った後に位置がずれる」

 ニアが壁向こうから三打。

 短、短、長。

「『頭を作れ』」ロロ。

「頭?」

「潰れたボルトに新しい平面を削る」

 やすりを使う。

 右手では角度が保てない。

 左手だけでは押圧不足。

 補助腕は固定輪から三十度しか動かない。

 ロロは背を制動柱へ向けた。

「補助腕を、やすりの押さえにする」

「動かないんじゃ」とハル。

「動かねえ位置を使う」

 一本の補助腕を鉄柱へ噛ませ、その間へやすりを通す。

 腕は動かない。

 だから一定角度を保つ治具になる。

「能力なし、腕一本、指二本不調」とカイル。

「数えるな。値切る気か」

「逆だ。使える物が減っても、役割はゼロにならない」

「格好よく言うと修理代が上がるぞ」

「王家予算で」

「破産しろ!」

 ハルがやすりを前後へ動かす。

 ロロが音で角度を止める。

「右一ミリ」

「これ?」

「一ミリだ! 一センチ動かすな!」

「配達員の一ミリは荷札の厚さ」

「今は機械工の一ミリ!」

 カイルが柄へ均等に力を足す。

 セレナが削り屑の量を記録する。

 エリアは次の反転までの残りを読む。

 アムナは交代時刻を呼ぶ。

 新しい六面が、潰れた頭へ少しずつ現れる。

 元へ戻したのではない。

 今の工具が掴める形へ、傷を作り直した。

「回す」とカイル。

「まだ」

「あと何分」ハル。

「三」

「反転まで二分四十」

「じゃあ反転を一回見送る」

「ソウジは」

「知ってる!」

 ロロの声が制動機室へ響く。

「知ってるから、今外すボルトで全員落としたくねえんだ!」

 ハルは黙る。

 急ぐ人の焦りを、作業者へ押しつけていた。

「ごめん」

「謝罪は受領。次の役割、反転時にやすりを持ってろ」

「了解」

 反転。

 全員が円を移る。

 やすりを落とさない。

 ボルトへ横荷重を掛けない。

 新しい床へ着いた後、ロロはもう一度削る。

「今」

 スパナが噛む。

 ボルトは、今度こそ動いた。

 第二の支点を外す前に、中央待機区から三打が届いた。

 固定完了。

 ロロは制動室の手動レバーを見る。

 大きな赤い札。

『非常時、制動解除』

 解除すれば、牢は空冠本体の回転へ近づく。

 十三分二十秒の反転が、二分以下になる。

 止まらない。

 速くなる。

 だが、速くなれば監視兵の巡回表は使えない。

 上下反転時にしか動かない死角も、増える。

「脱獄に有利」とハル。

「生活には不利」とエリア。

「ソウジへ近づくには有利」とカイル。

「三十六人と監視兵には危険」とセレナ。

「選択を分ける」とアムナ。

「どうやって」とハル。

「全区画を速くしない」ロロ。

 制動機の外輪には、六つの区画爪がある。

 彼らの第六収容環。

 中央待機区。

 保管区。

 監視塔。

 補給区。

 中枢搬送路。

 一つずつ支点を外せば、周期を別にできる。

「そんな設計?」

「本来は区画ごとに囚人を搬送するため。牢が人を分ける構造を、逃げる時間を分ける構造に使う」

「全部同じ速度にしない」とエリア。

「第六収容環と保管区だけ速める。中央待機区は今の周期。監視塔は一回遅らせる」

「手動で?」

「手で外す」

「何個」

「三つ」

「時間」

「通常なら二時間」

「今は」

「十四分」

「計算が合わない」

「だから手を増やす!」

 元監視兵二人が来た。

 配給係も来た。

 史料保全責任者は記録板を抱えたまま、工具の受渡しを担当する。

 名前を出したくない者は、役割だけを言う。

「油布」

「楔」

「拍読み」

「固定索」

 ロロは全員へ同じ手順をさせない。

 右手を傷めた者へ締付けを任せず、視力の弱い老人へ色札を読ませない。

「公平じゃない」と子供が言う。

「同じ仕事じゃないから?」

「俺だけ楔を数える」

「一番なくなる道具を数えてる。一本消えたら歯車へ噛む。嫌なら交代」

「やる」

「じゃあ責任は俺と半分。全部じゃねえ」

 作業が始まる。

 一本目。

 二本目。

 三本目。

 魔法はない。

 光る線もない。

 工具が勝手に正しい位置へ戻ることもない。

 だから、間違いは音になる。

 滑ったスパナ。

 浅い打撃。

 呼吸の乱れ。

 人間が聞き、止め、やり直す。

 最後の支点が抜けた時、ロロの右手から小槌が落ちた。

 ハルが拾う。

「返す?」

「持ってろ。次の反転まで」

「手は」

「四」

「作業停止」とセレナ。

「もう終わった!」

「終わった後に壊れる身体も作業記録です」

「俺を部品扱いすんな!」

「部品なら交換します。人なので休ませます」

 ロロは反論を探し、見つからず、床へ座った。

 作業中、子供が数えていた楔が一本足りなくなった。

「誰が持った!」ロロ。

 誰も答えない。

 歯車の中へ落ちていれば、次の回転で全区画が噛む。

 全員の手を上げさせれば早い。

 身体検査をすればもっと早い。

 ロロは言いかけ、止めた。

「持ってる奴を犯人にしねえ。置いた場所を一人ずつ言え」

 工具係。

 油布係。

 固定索係。

 拍読み。

 子供は最後に言う。

「円六。分からない物の所」

 円六を見る。

 外したボルトの下に、楔が一本隠れている。

「俺が置いた」とロロ。

「技師だろ」と子供。

「技師でもなくす。だから数える奴がいる」

「俺が見つけた」

「見つけた。作業を止めた時間二分。事故零。請求書へ、お前の名前を――」

 子供が首を横へ振る。

「名前、書かない」

「じゃあ役割。楔係」

「報酬」

「一ルク」

「安い」

「値切る才能まであるのか!」

 三ルクで成立する。

 金額は小さい。

 だが「子供が手伝った」という美談へ仕事を吸い込まず、本人が値段を交渉した記録になる。

 制動レバーを三人で引く。

 外輪が鳴った。

 牢全体が、一度ためらうように止まる。

 次の瞬間、回転が早まった。

 床が壁へ。

 壁が天井へ。

 天井が床へ。

 二分。

 一分四十秒。

 一分二十秒。

「速すぎる!」エリア。

「減速爪が戻らねえ!」ロロ。

「外したから?」ハル。

「外した三つじゃない! 中枢搬送路が勝手に百拍へ入った!」

 アザルの計画が、監獄の機械を先に動かしたのだ。

 制動室の奥で、閉じていた搬送扉が開く。

 その向こうを、白い固定台が通過した。

 星晶義手の左腕。

 灰色の髪。

 ソウジ。

 拘束台の上で、目だけをこちらへ向ける。

「ハル!」

 声は一瞬で遠ざかる。

 ハルが走ろうとする。

 ロロが左手でマフラーを掴んだ。

「今行ったら、回転に挟まる!」

「見えた!」

「見えたのと届くのは別だ!」

 搬送路が閉じる。

 同時に、空冠全体の重力周期が、さらに早まった。

 監獄は脱獄を防ぐためではなく。

 誰かを中枢へ運ぶための速度へ、切り替わった。