第803話 第六章「峡谷の二つの規則」前編

道は一本でも、通り方は一つではない。

 関所は長く、この事実を嫌ってきた。

 通る者へ同じ書類を求め、同じ列へ並ばせ、同じ速度で歩かせる。そうすれば管理は簡単になる。しかし、脚を失った者、字を書けない者、名を出せない者、追われている者にとって、同じ手順は同じ負担ではない。

 規則の反対は無秩序ではない。

 別の規則である。

 問題は、二つの規則が同じ峡谷で出会った時、どちらが道そのものを名乗るかだった。

【空冠要塞外縁・補給峡谷/誓星術停止三日目】

「第一条。空冠へ向かう軍用補給は停止」

 ティア・グランツは、灰白い岩壁の間へ張った縄の中央で宣言した。

 同律陣は出ない。

 双規刃アレイオンも、今はただの二本の刃である。

 それでも彼女は、縄の結び目を等間隔へ直し、停止札を左右同じ高さへ掲げた。

 右膝が痛む。

 長く立つほど、背筋が過剰に伸びる。

「第二条。避難民、負傷者、飲料水、医薬品は通行」

「第三条は?」

 岩棚の上からミラ・ベルウェザーが声を落とした。

 左膝下の星晶義足は、風を盗めない。

 小帆も開かない。

 代わりに踵へ細い滑車を付け、岩へ打った索を右手で送りながら降りてくる。

「第三条。危険情報を確認し、通行札へ署名する者だけを通す」

「契約資格がない奴は?」

「代筆、印、口頭確認」

「名前を出したくない奴は?」

「匿名番号」

「番号も追跡に使われると怖い奴は?」

 ティアは答える前に、右親指で双剣の目盛りをなぞった。

「危険を知らせず通すことはできない」

「知らせるのと、記録へ縛るのは別勘定」

「無記録で事故が起きれば、誰が責任を取る」

「記録されて殺されたら、誰が責任を取る?」

 峡谷入口には、二十三台の荷車と十一隻の小艇が詰まっていた。

 空冠の術停止に巻き込まれ、浮力を失った補給艇。

 軍の徴発を逃れた家族。

 自分の村名を答えれば追跡される無登録者。

 監獄へ食料を運んでいた民間船員。

 全員を「避難民」と呼べば事情が消える。

 全員を「不審者」と呼べば権利が消える。

「その親切、いくら?」とミラ。

「今は金銭の話ではない」

「だから危険なんだよ。無料の規則は、代金を後で名前で取る」

「あなたの無契約救難も、費用を誰かへ押しつける」

「押しつける先を公開する。今日は自由港基金が四割、私の未払い報酬が二割、通行後に払える奴が任意で四割」

「合計が一〇〇ではない場合は」

「払えない奴が多けりゃ赤字。算数はできる」

「持続しない」

「生き残らなきゃ持続する必要もない」

 二人の間で、峡谷の風だけが通った。

 魔法の風ではない。

 粉塵と鉄臭を運ぶ、ただの横風だった。

 ティアは規則を捨てなかった。

 代わりに、道を二本に分けた。

 左側。

 登録救難路。

 危険説明、人数確認、行き先、連絡先を残す。軍規へ参加する者、後の補償申請を求める者、家族照会を希望する者が通る。

 右側。

 無署名救難路。

 名前、出身、目的を記さない。人数は石の数で数え、通過後に石を崩す。危険情報だけ、絵札と実演で示す。

 中央。

 共有危険板。

『落石 三分ごと』

『外壁砲 旋回周期九十拍』

『上段索 耐荷重四人』

『戻る場合 赤布を二度振る』

「第一条」とティア。「どちらの路も、危険情報は同じ」

「第二条」とミラ。「どっちへ入ったかは、後で身分に使わない」

「第三条。救難費を通行者の債務へしない」

「第四条。私が赤字で泣く」

「それは条文ではない」

「会計注記」

 ミラは硬貨を一枚、危険板の端へ打ちつけた。

 無償の親切を借りにしないための一ルク。

 誰から誰へ渡すのか決められないため、道そのものへ払った。

「成立?」ティア。

「保留。終わるまで」

 ティアは初めて、紙の端を直さずに頷いた。

 最初に通ったのは、名を出さない母子だった。

 母は軍の追跡を恐れ、子は右脚へ木の支持具を付けている。

「走れません」と母。

「同じ速度を求めません」とティア。

 彼女は右膝の補助帯を外套の外へ出した。

 隠していた古傷を、条件として公開する。

「私も長い着地を避けます。三十歩ごとに止まる別条件を置きます」

 子が補助帯を見る。

「隊長も壊れてる?」

「負傷しています。壊れたとは規則に書きません」

「第一条さん、子供に条文で意地張るな」とミラ。

「誰がその呼称を教えた」

「学院の商売相手は口が軽い。情報代、一ルク」

「払わない」

「借りにしとく」

「それを拒否する」

「契約終了」

 ミラが短く三回笑った。

 二本の道を作っただけでは、人は二種類にならなかった。

 登録路へ並びながら、途中で名を出せなくなる者がいる。

 無署名路へ並びながら、行方不明の家族へ自分の生存を知らせたい者がいる。

 文字を残したくないが、治療歴だけは医師へ渡したい者もいる。

 道の入口で人を分類し、その分類を出口まで固定すれば、二本道は二つの牢になる。

 最初に列を移ったのは、白髪の荷車夫だった。

「登録路へ行く。補償を申請したい」

 左袖へ、軍補給隊の古い紋章。

 ティアが帳票を出す。

「氏名」

 男は口を開き、閉じた。

「言えない」

「では匿名番号」

「番号も、昔の部隊に照合される」

「補償申請には本人確認が必要です」

「だから諦めろって?」

 ティアは、すぐ制度の限界を説明しようとした。

 説明は正しい。

 正しい説明は、時に扉の施錠音に似る。

 ミラが横から硬貨を一枚弾く。

「補償を受けたい。追跡されたくない。両方だな」

「欲張りか」

「欲張りは、欲しい物が二つあるだけだ。片方を捨てた奴だけ立派に見せる言葉じゃない」

「方法は」ティア。

「本人確認を今しない。証拠だけ封じる」

「何の」

 荷車夫は袖をまくった。

 掌へ、軍用荷車の綱でできる固い胼胝。

 右耳へ、火薬事故の欠け。

 古い運搬札の半片。

「この三つを別袋へ。袋の鍵は本人。補償窓口へ出す時だけ開ける。道の通過記録には載せない」

「後で別人が袋を使う可能性」

「本人が選ぶ合言葉を、今は誰にも言わない」

「本人が忘れた場合」

「忘れた時の第二条件を本人が決める」

 ティアは眉を寄せる。

「制度として脆い」

「人間は制度より先に脆い」

 荷車夫が笑った。

「二人とも、俺が死ぬ前提と生きる前提を同時に話すな」

「どちらもある」とティア。

「それは正直だな。袋を作れ」

 補償権を諦めず、現在の名も出さない。

 完全な解決ではない。

 後で窓口が拒む可能性もある。

 ティアは帳票へ、通行者名ではなく制度上の欠陥を書く。

『匿名補償請求の正式手順なし。暫定封印袋一。制度改訂まで本人保管』

「私たちが救出へ遅れる」と彼女は言った。

「俺のせいか」と男。

「違います。あなたの選択を処理できない制度の分です」

 遅れの責任を、列の弱い者へ置かない。

 次に問題になったのは、危険説明だった。

 文字を読めない者へ絵札を使う。

 だが落石の絵を「山へ戻れ」と読む地域もあれば、「頭を守れ」と読む地域もある。

「絵は共通語ではない」とティア。

「文字もだ」とミラ。

「実演する」

 ティアは落石警報の鐘を一度鳴らし、自分で岩陰へ移る。

 右膝を曲げきれず、最後の一歩で体勢が崩れた。

 子供が手を伸ばす。

「触れていい?」

 ティアが先に聞く。

 子供は頷き、肘を支えた。

「今のが危険?」

「私の膝は危険条件の一つ。鐘一回は落石。赤布が下がった方向へ移る」

「鐘二回は?」

「外壁砲」

「三回は」

「現在、決めていません」

「決めてない鐘を鳴らしたら」

「止まって、周りを見る。勝手に意味を補わない」

 子供は三回鳴らしかけ、母に止められた。

「試したい」と子供。

「本番で混乱する」母。

「訓練場所を分ける」とティア。

 峡谷の手前に、音だけ試せる小さな広場を作る。

 人は一度、鐘を聞き、赤布を見る。

 何も起きない状態で、逃げ方を選ぶ。

「救難が学校になった」とミラ。

「学校の試験より実用的です」

「学院へ喧嘩売ってる?」

「私は学院所属です」

「内部告発は高く売れる」

「売らない」

「無料の告発、一番怖い」

 峡谷の中央で、荷車一台が横転した。

 積荷は監獄用の乾燥豆。

 袋が裂け、茶色い粒が岩の斜面を転がる。

 避難民が一斉に手を伸ばす。

 軍補給係が槍を構えた。

「軍物資だ!」

「今、誰へ届ける物資」とミラ。

「空冠収容者と守備隊」

「収容者へ届く保証」

「命令票がある!」

「票は腹に入らない」

 ティアは袋の刻印を見る。

『収容区糧食 四割』

『守備隊糧食 四割』

『中枢従事者 ニ割』

「奪えば収容者の食料が減る」とティア。

「通せば守備隊と中枢にも行く」とミラ。

「分ける」

「どこで」

 峡谷には計量器がない。

 魔法秤も止まっている。

 ミラは義足を外した。

 中空の星晶脚は、能力を失っても形は残る。

 彼女は脚の外殻を二つの受け皿へ分解する。

「左皿、豆百二十粒。右も百二十。これを一単位」

「義足を食料計量器へ使うの?」ティア。

「元船長の威厳も再就職」

「衛生」

「洗う!」

 子供たちが豆を数える。

 早い者が多く取らないよう、一袋ごとに別の数え手。

 収容者分は、透明な網袋へ。

 守備隊分は、砲を止めた者と止めていない者を一括せず、生活区へ置く。

 中枢従事者分は、同じ量を送らない。従事者の食事と、器接続設備の運用を切り分けるため、食堂前の中立棚へ置く。

「中枢の人間も食べる」とティア。

「装置は食べない」とミラ。

「食べ物を止めて服従させない」

「機械部品は止める」

「同意」

 峡谷の避難民へ配る分は、転がって泥へ入った豆と、軍票上の予備二割。

「軍票の予備は軍の所有」と補給係。

「非常時使用条件」とティア。

「指揮官許可」

「指揮官は」

「通信不能」

「期限」

「定めなし」

「なら現地非常権限を九十拍だけ私が取る。食料予備を救命へ転用。九十拍後、残量と使用先を公開」

「勝手だ!」

「異議を記録します。代替案は」

「指揮官を待つ」

「待機中に食べない者が倒れる」

「責任は指揮官だ」

「現在ここにいない人へ、目の前の選択を全部渡さない」

 ティアは命令札へ自分の名を書く。

 同時に、終了時刻を書く。

 権限を取る時、自分も規則の外へ置かない。

 ミラが横から言う。

「食べた奴の名前は取るな」

「人数だけ」

「返済義務なし」

「救命分は債務にしない」

「あとで寄付したい奴は」

「任意。未寄付を記録しない」

「成立」

 九十拍で、豆は分けられた。

 食べる速度までは揃えない。