第804話 第六章「峡谷の二つの規則」後編
無署名路の石が、十九から十八へ減った。
「一人足りない」とミラ。
名を取らない道は、名前を呼んで探せない。
通過前に置いた石は十九。
出口で崩した石は十八。
「誰」とティア。
「聞かない道だ」
「特徴」
通行者同士が答える。
青い頭巾。
片手に鳥籠。
歩行は可能。
話さない。
それ以上を、本人の許可なく増やさない。
二人は道を戻る。
落石区の手前、岩の陰に青い頭巾。
鳥籠の中は空。
「救助」とティア。
本人は首を横へ振る。
「通行しない?」ミラ。
頷く。
「戻る?」
横。
「ここに残る?」
縦。
ティアが言う。
「理由を言わなくてよい。ただし、三分ごとに落石。ここに残る場合、岩陰を二重にする。私たちは次の巡回で状態確認を求める。拒否できます」
青頭巾は、鳥籠を見せた。
籠の底に、小さな骨。
誰かを埋めるため、峡谷のこの場所へ来た。
避難路は、全員を同じ方向へ運ぶ道ではない。
危険から離れたい者と、危険の中で果たすことがある者へ、異なる条件を残す道だった。
「一人を未通過として数える」とティア。
「行方不明じゃない」とミラ。
「選択残留」
「長い」
「正確」
石は崩さない。
本人の所在を名前なしで示す青石を、危険板の端へ置く。
あとで追跡名簿へ転用できないよう、道が閉じたら石も本人へ返す。
時間が過ぎる。
ハルたちへ近づく時間は減る。
だが、峡谷を通る人々は「ハルたちを助けるための遅延」ではない。
彼ら自身の暮らしが、そこにある。
ティアは焦っている。
規則の文末が短くなり、右膝を隠そうとする癖が戻る。
ミラが気づく。
「膝、四」
「三」
「嘘一」
「あなたに診断権はない」
「海賊には値切り権がある。三で登って四で落ちるより、今四って言え」
「……三・五」
「端数で抵抗」
「正確です」
「休め」
「外壁砲の旋回まで七分」
「六分休んで一分で登る」
「無謀」
「七分立ち続けるよりまし」
ティアは岩へ背を預ける。
「友達として命令?」
「契約外の助言」
「拒否可能」
「もちろん」
「受領」
彼女は六分すべてを休まない。
四分で立とうとして、ミラが義足を横へ置く。
「障害物」
「どけて」
「所有者の許可が必要」
「あなたの物でしょう」
「今は道の備品」
「規則を悪用している」
「学習した」
ティアは、笑ってしまった。
笑うと膝の力が少し抜ける。
六分後。
外壁砲が動き始めた。
外壁砲が動いたのは、十四台目の荷車が峡谷中央へ入った時だった。
空冠要塞の外殻から、巨大な砲身がこちらへ向く。
誓星術の光はない。
だが、砲は圧縮鉄塊を火薬で撃てる。
旧式兵器ほど、魔法が止まった世界では新しくなる。
「伏せろ!」
ティアが叫ぶ。
全員へ同じ姿勢を求めかける。
右脚を曲げられない子がいる。
荷車の下へ入れない大柄な船員がいる。
「低くなれる者は岩陰! 伏せられない者は中央溝へ! 荷車は倒すな、盾に使う!」
別条件。
ミラは義足の滑車を外し、索へ直接かける。
「砲の次弾、九十拍!」
「止めるの?」
「一門だけ。全部止める値段は高すぎる」
「私は同行する」
「膝」
「申告済み。登攀は左脚始動。降下は別の者」
「規則に自分を入れた?」
「今まで入れていなかった」
二人は岩壁を登る。
風盗も同律陣もない。
ミラは索の張りを手で読み、ティアは目盛りで距離を測る。
砲手は三人。
命令札を胸へ下げている。
『補給峡谷を封鎖。通行者を敵性輸送とみなす。終了時刻なし』
「期限のない命令は、任務ではない」とティア。
「では、何です」と砲手。
「支配」
「拒めば家族が処分される」
ミラが砲架の陰から顔を出す。
「家族の名前、言うな。どこへ逃がすかも言うな。助けてほしいかだけ答えろ」
砲手は黙る。
ティアが言う。
「沈黙を同意として数えません。砲を撃つか、止めるか、保留するか」
「保留したら、次弾が装填される」
「だから、九十拍だけ私が臨時指揮を取る。終了後、あなたへ返す」
「責任は」
「私の名で記録する。ただし、あなたの選択まで引き受けない」
砲手の一人が、装填槓を離した。
もう一人は離さない。
全員の賛成がそろったわけではない。
ティアは剣を抜かず、装填路へ目盛り棒を差し込む。
ミラは砲尾の火種箱を奪わず、濡れ布で覆う。
砲を壊さない。
次弾だけを止める。
「九十拍!」ティア。
子供の頃から一定の声で条文を読んできた拍を、今度は権限の終わりへ使う。
一。
二。
途中で砲手が手伝った。
七十三。
外壁の向こうで、空冠が早く回り始める。
八十九。
固定楔が入る。
「九十。指揮権を返します」
砲手は装填槓を見た。
それから、命令札を裏返した。
「撃たない」
「理由」とティア。
「家族のため。家族を理由に撃ち続けないため」
ティアは、その矛盾を正そうとしなかった。
「記録します。公開範囲は後で選んでください」
峡谷へ戻ると、避難路はまだ詰まっていた。
ハルたちを救うためだけの最短作戦なら、二人は外壁砲を止めた時点で空冠へ向かうべきだった。
だが、橋の手前に歩けない者が九人残っている。
軍用補給の荷車には、監獄へ送る食料と水がある。
「奪う?」ミラ。
「徴発記録を残して避難民へ配る」
「署名できない奴にも」
「配る」
「後で返せって言わない?」
「救命分は債務にしない」
「契約成立」
「あなたは署名しないのでは」
「今のは口約束。破ったら私が怒るだけ」
「監査として不十分」
「友達としては十分」
配る段階で、また規則が割れた。
軍の配給表は、一人一日、水二杯、乾燥食一袋。
ミラの無契約路は、名前も人数も出さない者を通す。
「人数が分からなければ、水量を決められない」と軍の配給係。
「名前を言わないと喉が増えるの?」ミラ。
「人数確認は必要だ」ティア。
「名簿はいらない」
「同意します。数える者と、名前を知る者を分ける」
峡谷の壁へ、空の木札を並べる。
水を受け取る者は、自分の名を書かない。
札を一枚、左の箱から右の箱へ移す。
歩けない者の分は、本人が視線か指で選ぶ。
返事できない者だけ、介助者が仮札を置く。仮札には赤い紐。本人が話せるようになった時、残すか外すかを聞く。
「同じ人が二回来たら」と配給係。
「腹が二つあるかもしれない」ミラ。
「冗談ではなく」
「手に水墨を付ける案は?」
避難民の一人が腕を隠す。
「追跡に使われる」
「却下」とティア。「受取時刻の違う穴を札へ開ける。身体へ印を付けない」
「札を交換される」
「交換されたら、誰かが二杯必要だった可能性もある」ミラ。
「配給の持続時間が減ります」
「減る事実を公開。余裕がない時は二杯目を止める。最初から泥棒扱いしない」
配給係は納得しない。
納得しないまま、穴あけ鋏を取る。
制度は、全員が同じ思想になった時だけ動くものではない。
異なる疑いを持つ者が、どこまでなら共同作業できるかを決めるものでもある。
九人へ水が渡る。
十人目が来た。
軍服を着た少年だった。
年齢はティアより下。肩章なし。右手に空の水筒を三本。
「誰の分」と配給係。
「言えない」
「軍規では所属確認」
少年は後ろを見る。
峡谷の岩陰。
脱走兵がいるのか、負傷者がいるのか、家族がいるのか分からない。
「危険情報だけ」とティア。「感染症、武器、運搬困難の有無」
「武器なし。熱一人。歩けない一人」
「人数二?」
「三」
「残り一人」
「水筒を持ってこいと言った人」
「本人は」
「戻らないかもしれない」
ミラが三本へ水を入れる。
「一杯ずつ」
「軍の水だぞ」と配給係。
「徴発記録。受取者、匿名三。運搬者一。返済義務なし」ティア。
「私の権限では」
「私の臨時救難権限を七拍だけ使います。七拍後に失効。継続するなら、あなたが異議を含めて判断」
「また責任を戻すのか」
「戻すのではなく、置き場所を明示します」
七拍。
配給係は水筒を見る。
「継続。ただし残量を毎回表示する」
「採用」
少年は走りかける。
「待って」とティア。
少年が身を固くする。
「名前ではありません。戻る予定時刻」
「分からない」
「戻らない場合、捜索してよい?」
「だめ」
「了解。では、あなたが戻らなくても裏切りと記録しない」
少年は一度だけ振り返り、峡谷の暗がりへ消えた。
誰を救ったか、二人には分からない。
分からない救命を、失敗と呼ばない。
ティアの右耳後ろの編み込みが、風へ揺れた。
「その分類は、保留します」
「いいね。保留できるようになった」
二人は空冠へ入らない。
峡谷に残る。
軍規へ参加する者と、参加しない者が、同じ危険を別の仕方で越えるまで。
その遅れによって、監獄の内側へ直接手は届かない。
代わりに。
空冠外壁の一門が、沈黙した。
脱獄者が外へ出た時、撃たれない角度が一つだけ生まれた。