第810話 第九章「無音監視塔」後編

 無音塔へ向かう廊下は、二度上下を変えた。

 案内兵は、音でなく指を使う。

 一本――停止。

 二本――次の固定点。

 握り拳――監視孔。

 掌を下――伏せる。

 カイルは同じ合図を返す。

 王子の作法ではない。

 誰でも読める手で話す。

 途中、隊長派の二人が追ってきた。

 弩の矢が鉄壁へ刺さる。

 魔法の盾はない。

 カイルは半盾を右腕側へ構え、左手で壁環を掴む。

 反転直前。

「撃つな!」案内兵。

「命令違反者を拘束する!」

「命令者がいない!」

「空白王がいる!」

「本人へ確認したのか!」

 答えの代わりに、二矢目。

 カイルは受ける。

 盾の残った板が割れる。

 矢は抜けず、半盾がさらに半分になる。

「四分の一王盾」とハル。

「税率みたいに言うな」

 反転。

 床が壁へ。

 追手は固定索を持っている。

 カイルたちは一本足りない。

 カイルが自分の腰索を外し、案内兵へ渡す。

「あなたは!」

「盾がある」

「板だ!」

「王家では板を盾と呼んだ歴史がある」

「ない」とセレナ。

「今作る」

 カイルは四分の一盾の縁を格子へ噛ませ、左腕だけで身体を吊る。

 背中が裂けるように痛む。

 ハルが戻る。

「一人で持つな」

「戻るな!」

「命令期限」

「着地まで!」

「拒否!」

 ハルのマフラーがカイルの胴へ回る。

 エリアの糸は支えにならないが、次の格子位置を示す。

 ロロが小槌を投げ、追手の固定環へ挟む。

 セレナが弩の再装填時間を指で数える。

 アムナが反転拍を口形だけで告げる。

 ノクスが壁を走り、追手の視線を外す。

 一人の盾ではない。

 着地。

 カイルの肋部が四。

 右膝をつく。

「動ける」

「状態」とハル。

「肋四、背中四、右腕三。左手二。笑える」

「最後いらない」

「必要だ。笑えない時に言うから」

 ソムナがいれば、現実の痛みを夢で薄めず休ませただろう。

 今はいない。

 だから休む時間を、本人たちが作る。

 次の反転一回を見送る。

 父へ急ぐハルも、異議を出さない。

 無音監視塔の扉は、厚さ三十センチあった。

 外側に把手なし。

 案内兵が床の小蓋を開き、機械鍵を差す。

 鍵の片側だけが磨耗している。

「上下反転時だけ回す」とセレナ。

「塔自体は回らない」と案内兵。「周囲の監獄だけ回る。入ったら、音は一切届かない」

「管も?」アムナ。

「配管振動は残る。耳では聞こえない」

「頬で」

「何?」

「聞く」

 扉が開く。

 音が、切れた。

 完全な無音は、人へ静けさを与えない。

 自分の血流、関節、歯の接触だけを大きくする。

 カイルが「入る」と言ったはずだった。

 声は出た。

 自分の頭蓋内では聞こえる。

 隣のハルには届かない。

 塔内壁は吸音綿。

 床は厚い木。

 監視孔の向こうは黒い。

 エリアが紙へ書く。

『声を捨てる。手で話す』

 全員が読む。

 声を捨てる、と書いた直後、最初の誤解が起きた。

 カイルが人差し指を二度曲げる。

 王宮護衛の手信号では「前方二名」。

 監視兵の信号では「二歩後退」。

 ハルの配送店では「二個不足」。

 三人が別々に動いた。

 ハルは前へ。

 案内兵は後ろへ。

 エリアは荷物を数え始める。

 監視孔の向こうで、黒い影が動く。

 カイルが全員を止めようとして拳を上げる。

 拳も意味が違う。

 王宮では集合。

 監獄では警戒。

 終端環の工具場では打撃開始。

 ロロが壁へ小槌を振りかけ、セレナが手首を掴む。

 音はしない。

 怒鳴ることもできない。

 エリアが紙へ大きく書く。

『共通信号を先に作る』

 急いでいる時ほど、知っている合図を使いたくなる。

 知っている合図ほど、別の集団では別の命令になる。

 七空域同盟戦で作った共通符号も、今いる監視兵は知らない。

 教える時間が必要だった。

 停止――掌を正面。

 進行――人差し指を床へ一度。

 危険――拳ではなく、両手首を交差。

 本人選択確認――胸、自分、相手の順。

 分からない――空の四角を指で描く。

 最後の合図を最初に練習する。

 分からない。

 案内兵が空の四角を描く。

 ハルが同じ形を返す。

 理解したのではない。

 理解していないことを共有した。

 それだけで、黒い監視孔の前を通れる。

 無音塔の内側には、監視員用の生活室があった。

 狭い机。

 温められない食事缶。

 家族写真を入れるための空枠。

 交替予定を刻む木板。

 木板の最後の線は、十一日前。

 その後は、同じ勤務者番号が毎日繰り返されている。

 案内兵が自分の番号を指す。

 四日目から、交替していない。

 カイルが問う。

『睡眠』

 兵は指を三本。

 三時間。

『一日?』

 首を横。

『四日合計』

 カイルの顔から王子の冗談が消える。

 疲労した兵が危険だからと、全員を無罪にはできない。

 危険な命令へ従った責任も残る。

 同時に、責任を問うために眠らせないのは拷問である。

 彼は紙へ書く。

『無音塔勤務者。交替停止。終了命令なし。現在判断能力へ疲労影響』

 セレナが追記する。

『免責ではない。審査条件』

 兵は、その一行を長く見る。

 自分を助ける記録と、自分を裁く記録が同じ紙にある。

 彼は木板の裏を見せた。

 家族宛ての短い文が、細い字で刻まれている。

『白階市第五紙灯通り。妹へ。勤務終了時刻不明。生存。返信不要』

 送る方法がないため、十一日分が並ぶ。

 カイルは「届ける」と書きかけ、止める。

 保証できない。

『持ち出し可なら、外部退路へ渡す。到着保証なし』

 兵が頷く。

 木板を外そうとする。

 固定釘が一本、内側から曲げられている。

 ロロが工具を出す。

 兵は首を横に振る。

 自分で外す。

 何日も監視を続けた手で、家族への文を一枚ずつ持ち出す。

 救助される人間と、責任を問われる人間は、同じ身体に存在できる。

 案内兵は、壁の機械式記録機を指す。

 穴の開いた厚紙が、歯車で一枚ずつ送られている。

 魔法記録が止まっても、転送計画だけは打刻され続ける。

 セレナが一枚を抜く。

 見た範囲を先に書く。

『対象S-01』

『上部空冠・受容座』

『身体接続準備』

『左上肢人工晶質、外部導路へ転用可』

『三回転後、暫定受容開始』

 ハルの指が紙を破りかける。

 セレナが右手首を庇いながら、左手で押さえる。

 口だけが動く。

『証拠』

 ハルは手を離す。

 別の厚紙。

『現行受容体A-00』

『停止中』

『交換後、切離し可』

 アザル。

 交換。

 ソウジを助ければ、アザルが残る。

 アザルを外せば、ソウジが入る。

 二択の形が、機械の穴として並んでいる。

 エリアが黒鉛で囲む。

『機械の選択肢。世界の選択肢とは未確定』

 カイルは頷く。

 打刻機は、一枚の命令だけを出していなかった。

 受容座への搬送。

 医療準備。

 義手導路。

 旧受容体の切離し。

 監獄回転の加速。

 別々の機械が、別々の厚紙へ穴を開ける。

 セレナは五枚を並べる。

 紙質が違う。

 穴の縁の毛羽立ちも違う。

 同じ偽造原本を複写したものではない。

 エリアが順番を置く。

『搬送計画 先』

『身体検査 後』

『本人同意記録 さらに後』

 カイルが眉を寄せる。

 同意してから準備したのではない。

 準備してから、同意欄を埋めた。

 ただし、ソウジ本人が後から同意した可能性は残る。

 ハルが紙へ書く。

『同意は嘘?』

 セレナは首を横へ。

『順序が問題。本人発言は未確認』

 ハルは歯を噛み、空の四角を描く。

 分からない。

 案内兵が、打刻機の下から一枚の薄紙を出す。

 巡回命令。

『受容準備を妨げる者を再収容』

 発信者欄は空白。

 終了時刻も空白。

 異議窓口も空白。

 空白戦争の直前に七空域へ届いた封鎖命令と、同じ欠落。

 だが筆跡や印章の一致だけで、同じ発信者とは断定できない。

 セレナは三つの空白を黒鉛で囲む。

 案内兵が自分の胸を指し、次にその紙を指す。

『これに従った』

 カイルは問う。

『今も?』

 兵は長く迷う。

 監視孔。

 木板。

 家族への文。

 槍。

 最後に、巡回命令を裏返す。

 裏へ書く。

『今は従わない。収容者へ武器を向けない。無音塔から下部退路まで案内。以後の処遇審査を受ける』

 署名欄へ、本人番号だけ。

 名は書かない。

 アムナが見て、名前を補わない。

 選択は、名前を公開しなくても現在のものになれる。

 もう一人の案内兵は署名しない。

『まだ決めない』

 そう書く。

 カイルは急かさない。

 命令拒否を強制すれば、それも命令である。

 代わりに条件を示す。

『武器を人へ向けない間、同行可。再び向けた時、距離を取る。拘束は生命危険時のみ』

 兵は頷く。

 同じ塔から、二つの違う選択が出る。

 無音は、人を同じにしなかった。

 黒い監視孔の向こうで、灯りが点いた。

 塔内側よりさらに小さな部屋。

 椅子が一つ。

 手動レバーが三本。

 中年の監視員が、こちらを見ている。

 声は届かない。

 扉もない。

 監視員は紙を窓へ押し当てた。

『侵入者を報告済み。拘束命令、待機中』

 カイルが返す。

『命令者、終了時刻、異議窓口』

 監視員は三つとも空白の紙を見せる。

『ない』

『待つ期限』

『交替まで』

『交替予定』

 監視員は木板を指す。

 十一日前で止まっている。

 それから、自分の胸を指し、両手を開く。

 どうすればいい。

 王子へ判断を求める形だった。

 カイルは、王命を書かない。

『私が決めない。選択肢を出す』

 一――現行勤務を続ける。ただし、現在命令の欠落を記録。

 二――監視を停止し、武器を封印。塔内待機。

 三――下部退路へ移動し、後の審査を受ける。

 四――保留。生命危険時だけレバーを操作。

 監視員は二を指す。

 その直後、塔外で警報灯が赤く点く。

 監視員は三本目のレバーへ手を伸ばす。

 カイルが両手首を交差する。

 危険。

 監視員の指が止まる。

 どのレバーか。

 左――塔内吸音綿の石灰清掃。

 中央――下部保守口の表示板。

 右――塔全閉鎖。

 文字札は監視員側にしかない。

 彼女は中央を指す。

 次に、下を指す。

 移動基盤へ合図を出せる。

 カイルは選択肢二の紙へ追記する。

『監視停止後も、救難表示を操作してよい。操作は本人判断。後で理由を記録』

 監視員は読んだ。

 中央レバーを引く。

 塔床の下で、表示板が赤から白へ変わる。

 ガンガとイヴァが遠くで確認した変化である。

 ハルたちが橋を作ったのではない。

 外部の橋を、内部の監視員が自分の判断で「見える」に変えた。

 監視員は次に、右の全閉鎖レバーへ木楔を入れる。

 破壊しない。

 動かせないようにする。

 自分が二を選んだ証拠として、楔へ時刻線を引く。

 最後に、窓へもう一枚。

『私はここへ残る。家族は空冠内。全員が逃げた後、生活水弁を守る』

 カイルは問う。

『強制?』

『自分で選ぶ。八時間後、再選択』

 期限がある。

 カイルは頷く。

 監視員は王太子へ敬礼しない。

 カイルも王として命じない。

 透明な板一枚を隔て、互いに現在の選択だけを確認する。

 その時、塔の床が、ごく弱く震えた。

 十五。

 間。

 十九。

 間。

 二十三。

 下部の移動基盤。

 第一の退路が来る。

 同時に、上の管が一度だけ熱を持った。

 アムナが膝をつく。

 頬を配管へ当てる。

 声は届かない。

 けれど管の中で、何かが流れている。

 水ではない。

 油でもない。

 空気。

 外気。

 無音塔では、巡回音が使えない。

 だからアムナは、音のない配管を聞き始めた。