第809話 第九章「無音監視塔」前編
命令には、音がある。
号令。
鐘。
靴音。
紙を机へ置く音。
印章が責任を押しつぶす音。
しかし、命令の本体は音ではない。
誰が出したか。
いつ終わるか。
拒んだ者が何を失うか。
従った者が誰へ説明するか。
そこが空白の命令は、声が大きいほど命令らしく見える。
空冠要塞の監視兵たちは、千年前から同じ誤解の中で働いていた。
王の声が聞こえるから王命なのだ、と。
王が死んでも、声だけが管の中へ残ることはある。
命令者が消えても、勤務表だけは翌朝を要求する。
人は、悪意だけで牢番になるのではない。
昨日の続きを今日も行うことで、牢番になれる。
【空冠要塞・第六収容環/主軸油圧低下から四分後】
鐘が、一拍遅れた。
ロロが顔を上げる。
「外で油止めた」
「水も?」ハル。
「管が違う。水圧は残ってる」
「誰が」
「知らねえ。知らなくていい。今の一拍だけ使う」
監獄は三分十二秒で回転するよう調整されていた。
だが主軸油が落ち、次の回転は三分二十六秒へ伸びた。
十四秒。
革命史なら短い。
脱獄史なら長い。
十四秒あれば、扉を一枚支えられる。
担架を一つ渡せる。
怒鳴る前に質問を一つ増やせる。
「監視兵、来る」とアムナ。
足音は、前より多い。
「十二」とハル。
「十五」とアムナ。
「数え方」
「足。片脚を引く人が一人」
「人は八?」
「八。たぶん」
「推測」とセレナ。
「たぶんを付けた」
カイルが半盾を左手へ移した。
本来、彼は左利きである。
王盾炎を右腕へ宿していた年月が長すぎて、敵は右を警戒する。
能力を失った時、彼に残ったのは弱体化ではなかった。
昔の利き手を敵が忘れているという、地味な不公平である。
「交渉する」とカイル。
「何を渡す」とロロ。
「退路」
「俺たちの?」
「彼らの」
「高えぞ」
「王家の会計で」
「その王家、今収監中!」
「だから信用が低い。条件を細かくする」
カイルは深紅の半マントを外し、床へ置いた。
王太子の色を捨てるのではない。
交渉相手に、それを踏ませないためである。
監視兵が曲がり角へ現れる。
八人。
長槍四。
拘束棒二。
手回し弩一。
隊長だけ、短剣。
魔法はない。
だから武器は、昔の形へ戻っていた。
「全収容者、伏せろ!」
隊長が叫ぶ。
カイルは伏せない。
盾も上げない。
「命令者」
「何?」
「その命令を今、出したのは誰だ」
「私だ」
「終了条件」
「収容完了まで」
「収容完了の定義」
「全員が房へ戻ることだ!」
「戻った後は」
「次の命令を待つ」
「次の命令が来なければ」
「待つ!」
「何日」
「黙れ!」
「黙る期限」
隊長の額へ血管が浮く。
言葉遊びではない。
期限のない沈黙は、命令ではなく没収である。
「王太子殿下」と監視兵の一人が言った。
隊長が睨む。
「殿下と呼ぶな。収容番号だ」
「番号で話したい者は番号でいい」とカイル。「私はカイル。呼称は強制しない。質問は変えない。君たちの勤務はいつ終わる」
「交替鐘まで」と若い兵。
「交替鐘は鳴る?」
誰も答えない。
七天鍵停止後、交替鐘を動かす中央時刻脈も死んでいる。
手打ち鐘はある。だが誰が何時に打つかを決める命令が、発信者不明の封鎖文へ置き換えられていた。
「家族は」とカイル。
「関係ない!」隊長。
「関係ある者だけ答えて」
槍兵の一人が唇を噛む。
「補給峡谷の第五宿舎」
「今、峡谷門は一門停止。避難船が通っている可能性」セレナ。
「情報源!」隊長。
「管圧の変化、外壁の二一拍信号。発信者未確認」
「嘘だ!」
「その部分は見ていません。だから可能性と述べました」
別の兵が言う。
「白階市に母がいる」
主軸油が一拍落ちた。
白階市が補給を分けたことを、彼らは知らない。
知らないままでも、油が来ない事実は分かる。
「空冠を止めれば収容者も死ぬ」と隊長。
「水は鳴ってる」とロロ。「生活管は止めてねえ」
「なぜ分かる」
「技師だから」
「術がない!」
「耳まで没収された覚えはねえ!」
ロロが配管を小槌で叩く。
高い返り。
水。
隣の管。
鈍い返り。
油圧低下。
「能力と職業を同じ箱へ入れんな。箱代請求するぞ」
「黙れ、囚人!」
「囚人は会計できねえ規則あんのか!」
隊長が短剣を抜いた。
交渉は終わったのではない。
一人の交渉能力が終わっただけだった。
隊長は速かった。
カイルへ直線。
右腕を狙う。
王盾炎があった位置。
カイルは右を上げない。
左の半盾を、刃ではなく隊長の手首へ当てる。
乾いた音。
右足を引く。
背中の古傷が引きつる。
肋部が三から四へ上がりかける。
「止まれ」
短い。
冗談が消えた声は、王命より個人の声に近かった。
隊長は止まらない。
短剣を返す。
カイルは受けず、盾の割れ目へ刃を噛ませる。
半分の盾だから、刃を挟む隙間がある。
「欠損も用途になるか」とハル。
「実況するな!」
左肩を使わず、ハルが隊長の背後へ回る。
赤いマフラーを短剣の柄へ一周。
「一、二」
三を言う前に、若い槍兵が自分の槍で隊長の肘を押さえた。
「やめてください」
「反逆か!」
「勤務終了時刻を確認したいだけです」
「手を離せ!」
「その命令の終了条件は」
隊長の顔が歪む。
言葉は感染する。
正確な質問も感染する。
残る七人のうち、三人が武器を下ろす。
二人は構えたまま。
一人は泣きそうな顔で隊長と若い兵を交互に見る。
片脚を引く一人は、壁へ寄り、戦闘へ参加しない。
全員を同時に善人へしない。
全員を同時に敵へもしない。
「条件を出す」とカイル。
「王命か」と槍を下ろさない兵。
「私個人の提案。拒否可」
「聞く」
「武器を床へ置かなくていい。穂先を人から外す。三十六人の水と負傷者の移動を妨げない。無音塔まで案内する者は、途中撤回可。外部退路が開いたら、収容者、監視兵の区別なく選択肢を聞く。事件後、拘束行為の責任調査は免除しない」
「助けても裁くのか」
「助けたことを消さない。傷つけたことも消さない」
「得がない」
「家族へ戻れる可能性」
「保証は」
「ない」
「王子のくせに」
「王子だから、保証できないものを保証して国を壊した例を知っている」
歴史上、王の保証はしばしば現物より高く売られた。
そして現物が足りなくなった時、保証を信じた民から先に飢えた。
「期限」と若い兵。
「次の反転二回までに無音塔へ。退路確認できなければ、三十六人を中央待機区の水槽側へ戻し、別案。私たちだけ先へ行く選択も分ける」
「あなたは父親の所へ急ぐんじゃないのか」
「急ぐ」
「なら置いていけばいい」
「急ぐ理由に、他人を荷物へする権利は付いていない」
ハルが、ほんの少し眉を上げた。
「俺の台詞」
「王家使用料を払う」
「ロロへ?」
「なぜ彼へ」
「何でも請求するから」
「名誉毀損料追加!」
緊張は消えない。
冗談が、その上へ薄い板を一枚渡す。
若い兵が槍を横へ向けた。
「案内する。無音塔の手前まで」
「理由を聞いていい?」
「妹が白階市にいる。生きてるか確認したい」
「記録」セレナ。
「名前は出さない」
「役割と理由だけ」
片脚を引く兵も手を上げた。
「私は無音塔の保守経験がある。戦闘はしない」
「参加条件」
「中で私の名を呼ばない。塔は口形を読む監視孔がある」
「音がないのに?」アムナ。
「音がないから、口を見る」
無音塔。
巡回音が使えない場所。
アムナの煤色の瞳が、配管へ向いた。
隊長を拘束した後、カイルは武器を下ろした兵へ一人ずつ同じ質問をした。
「名前は、出してよい範囲だけ。勤務終了。家族。今やること」
最初の若い兵は、左足の第二拍が浅い。
「アデン。姓は出さない。この房まで。勤務は五十二分前に終わった。妹が白階市。今、無音塔まで案内する」
ハルが目を上げる。
「アデン」
「知ってた?」カイル。
「本人が房で言った。公開範囲、この房だった」
アデンが迷う。
「今、この場へ広げる」
「受領」とアムナ。「名前。もう一度」
「アデン」
二人目。
「名は出さない。交替鐘までのつもりだった。鐘は来ない。家族なし。今は隊長の負傷を確認する」
「敵を?」収容者。
「上官だった」
「だから助ける?」
「違う。意識があるか確認したい。裁かれるなら生きて」
三人目。
「名前非公開。子が補給峡谷。勤務終了は命令解除までと答えていた。今、終了時刻を自分で決める。次の反転二回」
「その後」カイル。
「もう一度選ぶ」
四人目は武器を下ろさない。
「名も家族も言わない。今やることは、あなたたちを房へ戻す」
「提案を拒否」セレナ。
「そうだ」
「穂先を人から外さない?」
「外さない」
「なら移動経路を分ける。あなたを拘束する可能性」
「やれ」
善意へ変わらない兵も残る。
カイルは説得の失敗を、人間性の欠如と呼ばない。
「拘束する。時間、下部退路が開くまで。水、傷の処置、異議申立て可。無条件の解放は約束しない」
「王子が牢番か」
「今の役割は、移動中の危険管理。王権ではない」
「言い換えだ」
「そう見えることを記録する」
セレナが書く。
『カイル・アークレイの判断で監視兵一名を一時拘束。本人は王権の行使を否定。被拘束者は言い換えによる権力行使と異議。』
「そこまで書く?」ハル。
「後で勝者の説明だけにしない」
隊長は意識を取り戻した。
「裏切り者」と吐く。
アデンが答える。
「勤務が終わった後の選択です」
「命令は終わっていない!」
「命令者、終了条件、異議窓口がない」
「空白王の命令だ!」
管からアザルの声は来ない。
「本人へ確認していない」とアデン。
「お前は兵だ!」
「今も。だから、命令の出所を確認する」
兵であることを捨てず、昨日の手順だけを捨てる。
監視兵の休憩室には、食べかけの粥が八椀残っていた。
魔法停止から三日。
勤務表だけが回り、交代しなかった者の食事は冷えて固まっている。
「食べる?」ハル。
「没収品」とセレナ。
「所有者は監視兵」とカイル。
アデンが言う。
「食べていい。全員へ」
「あなた一人の所有?」
「共同食。残りの兵へ聞く」
同意四。
拒否一。
保留一。
隊長は答えない。
「拒否した人の一椀を分けない」とエリア。
「どれが本人の?」
「決まってない」
「なら全体の八分の一を残す」とロロ。
「冷えた粥を数学で守るな」とカイル。
「所有権は温度で消えねえ!」
七椀分を、収容者と兵で分ける。
誰がどちら側かで順番を決めない。
カイルは自分の半椀を食べ、笑う。
「王宮より味が正直だ」
「不味いって言え」とアデン。
「不味い」
「王子が言った」
「今、王命になった?」ハル。
「食堂への個人感想だ」
短い食事の間、敵味方の分類は消えない。
だが同じ冷えた粥を、同じ不味さとして共有できる。
それは和解ではない。
次の反転で互いを落とさない程度の、現在だった。
中央待機区の三十六人へ、選択を伝える。
史料保全責任者が板へ書く。
一――水槽側で待機。
二――下部退路の確認後、移動。
三――無音塔まで同行し、途中で分岐。
四――元房へ戻る。
「四を本気で出すのか」と元監視兵。
「房が一番固定点多い人もいる」とエリア。
「また閉じ込められる」
「外から錠めない。本人側固定」
「選んだら、裏切り扱い?」
「しない」とハル。
子供二人は別々の選択をした。
一人は下部退路。
一人は水槽側。
「一緒にしろ」と大人。
「家族じゃない」と史料保全責任者。
「子供だぞ」
「年齢だけで同じ希望にしない。ただし単独移動にはしない」
歩行困難七人のうち、三人が下部退路。
二人は待機。
一人は無音塔。
一人は答えを保留。
保留を人数から外さない。
「三十六」とハル。「選択後も三十六」
「逃げない人は脱獄者に数えないのか」と配給係。
「扉が開いた後、自分で残る人も脱獄してる」
「言葉がおかしい」
「牢が決めた残留と、自分で決めた残留は違う」
「残る脱獄」
「長い名前」
「制度は長い名前から始まる」とセレナ。
第一の下部交差まで、十九分。
イヴァたちの移動基盤は見えない。
ただ、床下の鉄板へ十五、十九、二十三の異なる拍が遠く伝わる。
ガンガの獣群は、七歩、四歩、十一歩。
同じ速度ではない。
だから監獄の周期がずれても、次の交差がある。
「第一組、十二人」とハル。「歩行困難三、介助四、子供一、選択確認四」
「確認が人?」カイル。
「本人が途中で変えた時に聞く人」
「役割だ」
「人数でもある」
人は役割だけではない。
だが救難時、役割を数えなければ人が落ちる。