第808話 第八章「幻を使わない公開再演」後編
公開再演の合間、ソムナは避難所の鍋を見た。
豆粥。
薄い。
人数より椀が七つ少ない。
「子供から」と配給係。
「年齢だけで順番を決めません」とソムナ。
「じゃあ負傷者」
「自分で待てると言う人が、いつも後になる」
「平等に半分ずつ」
「薬を飲む人は一杯必要」
夢の中なら、空腹を一時的に遠ざけられた。
今は鍋の量が増えない。
ソムナは椀を三種へ分ける。
一杯必要。
半分でよい。
今は保留。
「保留したら後でなくなる」と女性。
「保留分を先に別鍋へ置く。十分後にもう一度聞く」
「誰が見張る」
「私一人にはしない」
患者組合の二人、配給係一人、名前を出さない避難者一人。
ユノが半分の椀を取る。
「あなたは一杯」とソムナ。
「耳鳴りだけだ」
「右手薬指の痛み、演奏中止後も三。火傷一。今日は食事が一回」
「よく見ている」
「夢が見えないので、現実を見ます」
「前からそうすべきだった?」
「前から、夢と現実の両方を見るべきでした」
ユノは一杯を受け取り、半分をリゼへ渡そうとする。
「本人へ聞いて」とソムナ。
リゼは言う。
「私は半分。後で追加を選ぶ」
食事の小さな手続が、空冠への補給を分ける大きな手続と同じ形を持つ。
制度は会議で発明されるのではない。
鍋が足りない夜に、誰の空腹を見えなくしないかから始まる。
公開再演の第二幕は、補給箱だった。
夢灯環から空冠へ送られる箱を、用途ごとに並べる。
飲料水。
乾燥食。
止血布。
解熱剤。
灯油。
拘束環油。
回転軸油。
薄膜交換紙。
鎖杭。
監視塔吸音綿。
「全部止めれば、空冠は三日で止まる」と予測整備官ベレト・カーム。
「囚人は?」ユノ。
「水は一日。医療は負傷状態次第」
「全部送れば」
「監獄の回転と中枢接続が継続する」
「分ければ」
「空冠側が箱を取り替える可能性」
「可能性の根拠」
「過去二回、救難物資へ拘束部品を混載した記録」
青札ではない。
原本がある。
白札。
広場がざわめいた。
「誰が混ぜた!」
声が飛ぶ。
ベレトは答えない。
ユノも、答えさせない。
「今は、混載をどう防ぐか」
「犯人を隠すのか!」
「責任調査は別机。今日の補給判断へ必要な範囲を先にする」
「分けると逃げる!」
「混ぜると、誰か一人を殴って水まで止める」
「言葉で逃げるな!」
「言葉は逃げ道にもなる。だから出口を表示している」
ユノは第四退出口を示した。
怒鳴った男は出ていかない。
「俺の娘が、空冠へ油を運ぶ組に徴用された」
「本人の意思」
「拒否すれば配給を止めると言われた」
「記録してよい?」
「名前は出すな」
「職種、時刻、命令文は」
「出せ」
青札。
氏名非公開。
命令文公開。
ソムナが、男の隣へ椅子を一つ置く。
座れとは言わない。
男は立ったまま証言する。
娘の乗った補給艇は、医療箱を積んでいる。
同時に、空冠中枢の手動軸へ使う粘性油も積んでいる。
箱の封は一つ。
途中で分けられない。
「なら艇ごと止めろ!」
「娘も止まる!」
「危険な任務へ行かせるな!」
「帰路の燃料が足りない!」
広場の論争は、紙人形より生々しい。
正しさは、人が生活を持つと不純になる。
不純とは、悪いという意味ではない。
水だけを救い、油だけを止められると思った瞬間、同じ艇の帰還燃料が問題になる。
ユノは弓を置いた。
「再演を変更する」
「途中で?」危機局長。
「現実が紙より詳しくなった」
補給艇の紙模型を中央へ置く。
その左右へ二本の縄。
一本は、空冠へ届く路。
一本は、帰還路。
「医療箱を渡し、粘性油を渡さず、艇を帰す方法」
「空中で荷を分ける」ベレト。
「魔法なしでは接舷が必要」
「接舷したら空冠兵が奪う」
「峡谷外の中立棚へ置く」と危機局長。
「中立棚の鍵は軍と夢灯市の二鍵。軍が拒否する」
「第三鍵を住民へ」
「誰が住民代表」
また一人へ集めようとする。
ソムナが言った。
「箱ごとに違う人」
「毎回?」
「薬を使う人。水を運ぶ人。帰還燃料を確認する人。全部を知る代表を作らない」
「遅い」ベレト。
「遅いです」
「空冠では時間が」
「急ぐために同意を一人へ預けた結果が、今です」
十五歳の声は大きくない。
大きくない声が聞こえる広場を、先に作ってあった。
第三幕の途中、空冠支持派が紙壁へ火を投げた。
火炎瓶ではない。
灯油を浸した布を巻いた短棒。
魔法がない世界では、火は古く、安く、平等に危険だった。
「伏せて!」
危機局員が走る。
ユノは幻の防壁を出せない。
アルマの弦も、火を曲げない。
ソムナが紙壁を倒す。
燃える壁を、見物人と反対へ。
「触れていい人、腕を上げて!」
避難誘導員が腕を上げた者だけを掴む。
返事できない幼児は保護者へ確認。
火が近い者は生命危険の一時介助。誰が触れたかを後で記録する。
ユノは右手で弓を握り、左手で燃える布を払い落とした。
薬指が痛み、弓が飛ぶ。
リゼが拾う。
「演奏は」
「中止」
「公開再演も?」
「続行。形式変更」
紙が燃えれば、口で読む。
口を塞がれれば、縄へ結ぶ。
縄を切られれば、人数で覚える。
歴史が紙だけに依存すれば、火を持つ者が歴史家になる。
「犯人を!」と誰か。
火を投げた二人は、広場の端で取り押さえられている。
一人は空冠兵の父。
一人は補給業者。
「裁くのは後」とユノ。
「また後か!」
「今、燃えている」
「逃がす気か!」
「逃走防止は危機局。殴打禁止。手首の拘束は本人の負傷を確認してから」
「あなたは何をする!」
「燃えた資料の欠落を表示する」
黒札を、焼けた穴へ貼る。
『ここに何が書かれていたか、現在不明』
英雄なら、焼ける前に全文を覚えていたと言うかもしれない。
ユノは言わない。
彼は人の記憶が編集される怖さを知っている。
美しい像を作る能力が、正しい像を作る能力ではないと知った。
「覚えている人」と彼は呼びかける。「一人ずつ別卓で。互いの証言を聞く前に書いてください。一致しない箇所は一致させません」
六人が手を上げる。
三人は途中退出する。
二人は「見ていない」と書く。
一人は、燃えた箇所と違う文章を覚えていた。
それも残す。
夕刻、空冠へ向かう補給艇が白階市上空へ来た。
低い機関音。
手動補助翼。
船腹に、医療と油を一つへまとめた灰色封印。
船首で若い操舵手が白布を振る。
証言した男の娘だった。
広場の人々が空を見る。
「止めろ!」
「通せ!」
「薬だけ!」
「帰りの燃料!」
声は一つにならない。
危機局長が手動信号旗を取る。
「市の命令で着陸させる」
「一人で?」ユノ。
「時間がない」
「拒否した者の路を残して」
「空でどう残す!」
ソムナが紙壁の支柱を二本抜いた。
「広場を滑走路にします」
「短い」
「止まらず通過。荷箱だけ索で下ろす」
「落ちる」ベレト。
「夢灯祭の灯籠回収索が倉庫にある」
「魔法前提だ」
「縄は残ってる」
祭りの道具が、祭りではない日に救難具になる。
文明とは、専用の道具を増やすことだけではない。用途を独占しないことである。
住民が倉庫から太縄を出す。
紙灯籠を空へ上げるための滑車。
手回し台。
布袋。
ユノは四本の縄へ確度札を結ぶ。
白――医療箱。
白――飲料水。
黄――帰還燃料、量未確認。
赤――拘束環油と回転軸油、混載。
「赤だけ切る」と補給業者。
「切れば落下する」ベレト。
「受ける」
「誰が」
火を投げた補給業者だった。
両手は拘束されていない。逃走防止の二人が脇にいる。
「俺は箱の重心を知ってる。拘束油を止めたいわけじゃなかった。息子のいる空冠が止まるのが怖かった」
「今も?」ユノ。
「怖い」
「なら、勇気で上書きしない。作業参加は本人希望。監視二。中止条件、手袋破損か索の振れ三尺」
「犯罪者へ仕事をさせるな!」
「処罰と救難参加を混ぜない。参加しても罪は消えない。参加させなくても人間性は消えない」
艇が来る。
滑車が鳴る。
補給箱が一つずつ、広場へ落ちるように降りる。
水。
薬。
止血布。
帰還燃料は、操舵手の艇へ残す。
赤札の箱だけ、索が大きく振れた。
「一尺!」
「二尺!」
補給業者が縄を腰へ巻く。
ソムナが聞く。
「支えます。触れていい?」
「今聞くのか!」
「今だから」
「いい!」
三人で引く。
箱が石畳を削り、紙壁の残骸へ突っ込む。
封が割れる。
黒い粘性油が流れた。
同じ箱の底から、拘束環の交換爪が出る。
広場が静まる。
公告は言った。
補給を止めれば囚人が死ぬ。
箱は示した。
補給をそのまま通せば、牢も生きる。
どちらも真実の一部だった。
「選択」と危機局長。
住民へ向く。
「水、医療、食料、帰還燃料は継続。拘束具、監視塔吸音材、中枢回転軸油は停止。生活灯油は収容区へ直接渡す中立棚ができるまで保留。異議」
手が上がる。
全員一致ではない。
空冠兵の家族は、回転軸油を少量だけ送る案を出す。
囚人家族は全面停止を求める。
補給労働者は自分たちの賃金と帰還保証を要求する。
条件を書き換える。
回転軸油は送らない。
ただし空冠の生活区手動ポンプへ使う低粘度油は、用途別の透明容器で送る。
受取時に囚人側と監視側の双方が確認できる中立棚へ置く。
誰も受け取らなければ、八時間後に回収。
受取拒否を反乱と記録しない。
危機局長は署名する。
住民代表は一人置かない。
水、医療、労働、囚人家族、監視兵家族、無登録者の六机が、別々に印を置く。
七つ目は空白。
「誰の席」と少年。
「今、ここにいない人」とソムナ。
「空冠の人?」
「それも含む」
「署名できないノクスも?」
ユノは紙人形の黒い耳を見る。
「本人が選べる形式で、後から」
少年は納得しきらない顔をした。
納得しきらない顔を残すため、ユノは説明を足さない。
夜、白階市の供給塔で主軸油の弁が閉じられた。
閉じた者の顔は映されない。
広場の英雄にはしない。
六机の確認札と、空白の一席だけが記録される。
弁は重い。
魔法補助がないため、十二人で回す。
一回転。
二回転。
三回転。
ユノは演奏しない。
ソムナは夢を見せない。
人々は、自分の腕の重さで決定の重さを知る。
最後の半回転で、管の中から低い唸りが消えた。
空冠へ送られていた回転軸油が止まる。
水の管は鳴り続ける。
医療箱を運ぶ滑車も止めない。
「停止完了」とベレト。
「空冠内部への影響」ユノ。
「中枢ポンプの一基が、次の周期で圧を失う。どの区画かは不明」
黒札。
「届く?」ソムナ。
「保証できない」
「どこか別の場所でも、同じ言葉が出ていそうですね」
「伝羽がないのに?」
「同じ状況は、似た言葉を作ります」
ユノは焼け残った紙人形を箱へ戻す。
ノクスの人形だけ、少年が持っていた。
「返す?」
「本人へ見せたい」
「いつ」
「分からない」
「なら、預かり期限を」
「明日の夕方。来なければ危機局へ」
「契約成立ではないけど、記録する」
遠い空冠要塞で、主軸へ送られる油圧が一拍だけ落ちた。
牢の中の誰も、白階市の広場を見ていない。
白階市の誰も、牢の中の答えを決めない。
それでも、回り続ける監獄のどこかで、機械が一度だけ遅れた。
住民側が補給を止めたのではない。
止める補給と、止めない補給を、自分たちで分けたのだった。