第812話 第十章「配管音の出口」後編
無音塔外の扉が叩かれる。
聞こえない。
木床の震えだけ。
案内兵が戻った。
紙へ書く。
『第一組、十二。下部棚へ移動。四秒橋。全員通過。次、十九拍系』
ハルは人数を確認する。
中央待機区、残り二十四。
『保留者』
『一人、下部へ変更。本人発言』
人数は変わらない。
選択が変わる。
史料保全責任者は第二組へ入るという。
記録板を持って。
セレナが問いを書く。
『原本を優先?』
返事。
『人を先。板は持てる範囲』
名前を残す仕事をしてきた者が、名前の板より人間を先に選ぶ。
それを美談にしない。
板を失えば、後で権利立証が難しくなる。
救命の選択にも費用はある。
セレナは記録板の要点を三枚へ写す。
一枚を責任者。
一枚を元監視兵。
一枚を自分。
同じ写しではない。
人数。
負傷。
本人選択。
拘束記録。
分散する。
アムナは名前を書かない。
本人が公開した符号だけを縄へ結ぶ。
縄の結びで残す文字〈ノット・スクリプト〉。
一重――歩行可。
二重――介助。
輪――保留。
端を内側へ――名前非公開。
結びは、名簿にならない。
救難へ必要な範囲だけを持つ。
「名前。もう一度」
無音の中、アムナは口だけで言った。
史料保全責任者は首を横へ振る。
言わない。
アムナは頷く。
役割だけを覚える。
第二交差。
十九拍系の車両が、下部保守棚へ近づく。
今度は九秒。
担架二。
歩行困難者四人と介助者六人。
史料保全責任者。
元監視兵一人。
十二。
ハルは塔外へ出ない。
自分が数えなければならないと思いかけ、止める。
中央待機区には配給係がいる。
元監視兵がいる。
責任者本人がいる。
数える役を渡す。
ハルは紙へ書く。
『点呼担当、誰』
返事。
『子供本人』
第二組の子供が、十二人を数える。
大人が代わりに言わない。
一。
二。
三。
九で一度止まる。
史料保全責任者が待つ。
十と教えない。
子供が自分で十と言う。
十一。
十二。
橋が来る。
下部棚の向こうで、巨大獣の林台と独立車両が数秒だけ並ぶ。
ガンガとイヴァの姿は遠い。
彼らは手を振らない。
次の交差を作るため、歩き、走り続ける。
第二組が渡る。
最後の責任者が、記録板を一枚落とした。
板は裂谷へ落ちる。
本人は手を伸ばさない。
人間が先。
板に書かれていた名前を、アムナは見ていた。
覚えている。
だからこそ、勝手に復元しない。
失われた記録は、記憶者の所有物へ変わらない。
塔内の石灰が薄くなる。
外の管から、ニアの打音が近づいた。
遠い継手。
次の継手。
壁のすぐ向こう。
保守溝は、無音塔の排気壁へ接している。
ロロが指で三を出す。
三分二十六秒後、排気口が外側溝と重なる。
エリアが紙へ図を描く。
円。
円の外側を回る房帯。
中心に固定された塔。
螺旋管。
「排水は下へ」とカイルが口形。
エリアは首を横へ。
『下は位相で変わる』
空冠要塞では、排水が重力へ従わない瞬間がある。
だから管の内部には逆止弁が連なり、回転ごとに水を一段ずつ中心方向へ送る。
中心方向。
王冠の上部。
牢の「下水」は、地上へ落ちない。
中枢へ上がる。
汚物も廃油も、空冠上部の処理炉へ送られる。
「出口じゃない」とハル。
エリアが書く。
『監獄からの出口。要塞からの出口ではない』
「ソウジへ近い」
『推定』
セレナが打刻紙を示す。
『上部空冠・受容座』
排水管が上部処理炉へ。
受容座も上部。
同じ階とは限らない。
だが方向は一致する。
ハルは父へ行く。
それを全員へ同じ目的にしない。
紙へ選択を書く。
『下部退路へ行く』
『上部管へ行く』
『中央待機へ戻る』
『保留』
カイル――上部。
エリア――上部。
ロロ――上部。
セレナ――上部。
アムナ――上部。
案内兵一人――下部。
もう一人――保留。
塔保守経験者――下部。
ノクスへ紙を置く。
ノクスは「上部」の紙を嗅ぎ、前脚を置く。
「本人選択」とセレナ。
ハルは自分の紙を最後に置く。
『上部』
父のためだけではない。
誰か一人へ世界の破約を集める機械へ行く。
代替案はない。
止める方法も分からない。
それでも、分からないまま近づくことと、分からないから従うことは違う。
第三交差まで、十一分。
中央待機区の残り十二人は、選択が割れた。
下部退路へ七。
中央待機へ戻る三。
無音塔まで来る一。
保留一。
保留者は、靴を片方失った老人だった。
「橋が怖い」と言う。
元房も怖い。
無音塔も怖い。
「決めろ」と監視兵。
ハルが止める。
「決めないと危険は増える。増えるって伝える。決めない権利が無傷とは言わない」
「じゃあどうする」
「次の交差まで中央。交差を見てから決める。本人が動けなくなった場合の一時介助だけ、今聞く」
「落ちそうなら、掴んでくれ」老人。
「どこを」
「左腕は痛い。腰帯」
「記録」
保留には、準備が要る。
何も決めないことと、何も備えないことは違う。
第三交差。
二十三拍系の車両。
下車保留席。
老人は橋を見た。
獣の背の林台。
車両。
裂谷。
四秒ではなく、二十四秒後に別路が来る。
「行く」
「どこへ」
「車両。次の駅は、乗ってから聞く」
イヴァの制度を、本人は知らない。
それでも必要な言葉へ自分で辿り着く。
十二人目まで渡る。
中央待機へ戻る三人には、内側から開けられる固定具と水の量を残す。
残留を失敗にしない。
三十六人。
下部へ三十三。
中央残留三。
全員、生存確認。
元監視兵四人のうち、二人は下部。
一人は中央残留。
一人はハルたちと無音塔。
責任は同じでない。
行き先も同じでない。
下部の橋は消える。
ガンガとイヴァは次の交差へ向かう。
彼らの作戦は成功して終わらない。
次に誰が来るか分からないまま、空席を残して回り続ける。
排気口が、保守溝と重なる時刻。
三。
二。
一。
ロロが内側の支点を外す。
ニアが外側から板を引く。
鉄壁が横へ滑る。
石灰の向こうから、灰色の短髪が現れた。
ニア・ピクス。
両手に薄い布を巻いている。
触覚がないため、皮膚が裂けても気づきにくい。
腰へ工具袋。
六本の機械補助腕はない。
頬へ、管の錆が一本ついている。
ロロが最初に見るのは姉の顔ではない。
工具袋。
「俺の六顎」
「持ってる」
声は互いに聞こえない。
口形。
「傷」
ニアが自分の工具柄を見せる。
新しい擦り傷。
ロロが借りた六顎スパナも見せる。
傷が増えている。
ニアは眉を一度動かす。
「返却時に査定」と口形。
ロロが笑う。
「姉ちゃん、俺より請求が細かい」
ニアには聞こえない。
それでも口形で読んだらしく、中指を立てかける。
触覚がないため、指の位置が少しずれる。
ロロが手を伸ばしかける。
握手ではない。
触れてよいか聞く前に止める。
「肩、掴む?」
ニアは首を横へ。
「腕の布を確認して」
ロロが目で見る。
血がにじんでいる。
セレナが記録する。
『ニア両手、裂創複数。痛覚確認不能。出血二』
「大丈夫」は禁止されている。
大丈夫かどうかを本人が感じにくいからである。
ハルが布を差し出す。
「巻き直す」
「上で」
「今」
「時間」
「出血した手で上へ行けば、時間が減る」
ニアは一拍考え、両手を出す。
許可。
アムナが巻く。
名前を呼ばない。
右、左、締め具合を一つずつ確認する。
「右、強い?」
「見えない」
「色」
「指先、白。緩める」
触覚がなくても、本人の身体である。
他者が所有してよい理由にはならない。
ニアが保守溝の外側図を出した。
紙ではない。
薄い銅板へ手で引いた線。
外壁。
保守索。
排水幹管。
中枢処理炉。
エメとバズは外側に残っている。
空冠外殻の荷重を監視し、切らずに支える。
ニア一人だけ、保守溝へ入った。
「救出へ来た?」ロロ。
「入口を作りに」
「同じ?」
「違う。出るかはそっちが決める」
設計どおりの答えだった。
姉らしい。
姉だから正しいわけではない。
ニアは銅板の上部を指す。
「排水幹管、上部処理炉へ。途中に三弁。二つは外から止めた。一つは中枢側」
「中枢側が開いたら」ロロ。
「洗浄水」
「量」
「管一杯」
「時間」
「油停止で自動洗浄が遅れてる。いつ来るか不明」
黒札。
ハルは問う。
「ソウジの位置」
「上部受容座。直接見てない。移送索の荷重だけ」
「生きてる」
「荷重は人一、機材四。生命は未確認」
「アザル」
「位置不明」
「最短」
ニアは銅板の一本を指す。
「排水幹管」
「危険」
「洗浄、水圧、逆止弁、回転時せん断」
「別路」
「監視塔外壁。兵が多い。三十六人を逃がした警報で増えた」
「選ぶ」とハル。
「誰が」
「全員」
ニアは一瞬、ロロを見る。
昔の彼女なら、荷重と時間を計算し、一つを選んだ。
今も計算はする。
ただし結果を命令にしない。
「排水管なら、途中撤退は二弁まで。第三を越えたら上へしか行けない」
「期限」とセレナ。
「次の洗浄開始まで。開始時刻不明。前兆、管温度上昇と三回の空打ち」
「撤退条件」エリア。
「空打一回で停止。二回で退避。三回目を聞く前に弁を越えない」
「聞こえる?」カイル。
「無音塔を出れば」
「管の中では」アムナ。
「頬で」
ニアとアムナの答えが重なった。
音を聞けない二人ではない。
違う場所で聞く二人だった。
排気口から、一人ずつ保守溝へ入る。
先頭、ノクス。
匂い。
次、アムナ。
音。
エリア。
紙図。
ロロとニア。
工具。
セレナ。
記録。
カイル。
後衛。
ハル。
点呼とロープ。
案内兵は下部退路へ行く。
最後に、カイルへ槍の柄を差し出した。
「武器?」
「杖。背中、痛いだろ」
「返却条件」
「生きて会ったら」
「会えなければ」
「家族へ。白階市、第五紙灯通り」
「名前」
兵は言いかけ、止める。
「今は役割で」
「了解」
カイルは杖として受け取る。
借り物の槍で、誰かを刺す約束はしない。
塔を出る。
音が戻る。
最初に聞こえたのは、警報でも足音でもなかった。
水。
上へ流れる水。
ごう、と頭上から聞こえ、床下へ消える。
実際には逆だった。
管の向きと要塞の回転が、耳の上下を騙している。
アムナは頬を当てる。
返りを置く。
一弁。
二弁。
三弁。
外気は、上部から来ている。
排水も、上部へ送られている。
牢から外へ出る道は、下へ降りるのではなかった。
空冠のいちばん高い所へ、汚水の道を登る。
「出口、上」とアムナ。
ハルが見上げる。
天井は、次の反転で床になる。
そのさらに上で、父が器へつながれようとしている。
「行く」
排水管の蓋を、ニアとロロが左右から外す。
暗い穴から、冷たい外気が落ちてきた。
落ちてくる風へ、彼らは登り始めた。