第813話 第十一章「空冠へ登る」前編
王冠は、上へ載せるものだと思われている。
頭より高い場所。
民より高い席。
法より高い例外。
だが王冠を裏から見れば、輪と爪と汗止めしかない。
宝石を支える金具。
額へ食い込む角。
落ちないよう締める留め具。
権力は遠くから見ると光り、内側から見ると荷重になる。
空冠要塞〈クラウン・ゼロ〉は、その比喩を建築へしすぎた。
七空域の上に浮かぶ王冠。
千年分の破約を一人へ載せる輪。
誰かを世界より下へ置くため、世界より高く作られた牢。
第三十四の夜、八人と一頭は、その王冠を正面から攻めなかった。
汚水管から内側へ入り、歯車を回し、外壁を這い、荷重そのものを登った。
【空冠要塞・上昇排水幹管/洗浄前兆まで不明】
管は、人一人が肩を斜めにして通れる太さだった。
先頭のノクスは通れる。
アムナも通れる。
エリアは地図紙を胸へ入れれば通れる。
問題はカイルだった。
「王子、太い」とロロ。
「筋肉は公共財だ」
「詰まったら下水栓」
「言い方を選べ」
「太い王子」
「選び直せ」
笑うと肋部が痛む。
カイルは息を止め、槍の柄を先へ渡し、四分の一盾を背から外す。
「盾、置く?」ハル。
「置かない」
「通らない」
「板を二つに割れば」
「八分の一王盾」とハル。
「税率の次は分数か」
ニアが板の金具を見る。
「盾としては寿命。楔として使える」
「本人の同意」とセレナ。
カイルは割れた板を撫でる。
王盾炎が消えたあと、普通の板として何度も人を支えた。
もう一度盾へ戻す必要はない。
「分解」
ロロが左手で金具を外す。
板二枚。
革帯。
鉄縁。
「返還時、盾じゃなくなるぞ」
「王家の財産目録を改訂する」
「名称」
「移動用楔二、腰帯一、鉄縁一」
「減価償却済み」
「王家に請求するな」
「国に?」
「私個人へ」
「高くなるぞ」
「なぜ」
「王子の個人信用、今低い」
道具を役割へ分ける。
人間は分けない。
カイルは肩をすぼめ、管へ入る。
背中の傷が鉄へ擦れる。
「状態」とハル。
「肋四、背中四、右腕三。通れる」
「通れると進んでいいは別」
「休む場所がない」
「今、作る」
ハルはロープを管の継手へ通す。
カイルの腰帯を輪にし、体重の一部を預ける。
「私を荷物に?」
「人間用の結び。自分で外せる」
「なら乗る」
自分で外せる拘束は、拘束ではなく支えになり得る。
ただし外せることを本人が知っている必要がある。
アムナが管を叩く。
返り一。
次の弁まで近い。
温度は低い。
洗浄前兆なし。
彼女は位置を頭へ置き、縄へ結ぶ。
一重。
短間。
二重。
後ろの者は縄を指で読み、同じ角を曲がる。
名前は書かない。
現在地だけ。
エリアは紙へ管の傾斜を描く。
「上へ十二度」
「今の上?」ハル。
「空冠中心方向。重力基準では横」
「短く」
「王冠へ近づく」
「分かりやすい」
「正確さが減った」
「足す。王冠へ近づく、現在横」
「採用」
管の中で、上下は三度変わる。
要塞本体の回転。
管内部の逆止弁。
中枢へ向かう遠心力。
最初の反転で、全員が右壁へ落ちる。
ハルは一、二まで数え、三を言わない。
「待つ!」
ノクスが前脚を止めている。
管の先から、油ではない匂い。
熱。
焼けた布。
ノクスは右耳を伏せる。
前方危険。
エリアが紙図を見る。
「迂回管、点線」
「未確認」とセレナ。
「今確認する」
ハルが行こうとする。
左肩をエリアが見る。
「誰と」
「ノクス」
「人の補助」
「俺が小さい」
「肩は大きさで治らない」
ハルは一拍止まる。
「アムナ。音」
「行く」
「先頭はノクス。俺、ロープ。アムナ、分岐。撤退、温度上昇か空打一回」
役割を頼む。
三人と一頭で進む。
迂回管は細い。
途中で、焼けた吸音綿が詰まっている。
白階市で止められた補給の代わりに、古い綿を再使用したのかもしれない。
原因は断定しない。
ハルが綿を引く。
左肩に力が入る。
「二」
「肩?」アムナ。
「三になりかけ」
「交代」
「俺が」
「交代」
アムナは力が強くない。
代わりに、綿の結びを解く。
力で引かず、巻き込み方向を見つける。
ハルがロープで支え、ノクスが歯で端を引く。
綿が抜ける。
熱気が流れた。
処理炉。
直接行けば火へ出る。
迂回管の先には、炉の外周点検口がある。
「道」とハル。
「まだ穴」とアムナ。
「穴から道にする」
戻り、全員へ伝える。
点検口の蓋は、外から四本の爪で固定されている。
内側には手掛かりがない。
ロロが金属へ耳を当てる。
「爪四。上二、下二」
「見える?」セレナ。
「見えねえ。叩いた返り」
「経験則」
「格上げしろ」
「分類」
ニアが頬骨を当てる。
「爪五」
「四!」
「中央に一」
「中央は蝶番だ」
「蝶番なら返りが長い」
「この規格、短い!」
姉弟の意見が割れる。
昔なら、ニアの職位が答えになった。
今は職位がない。
ロロの反抗も、正しさの証明にはならない。
セレナが提案する。
「小孔を一つ開け、観測」
「蓋傷つく」とロロ。
「脱獄中に保存価値?」カイル。
「壊したら後で閉まらねえ」
「観測孔なら栓を作る」とニア。
「誰が開ける」
「私」
「触れねえだろ」
「だから回転角を言って」
ニアが錐を持つ。
ロロが柄の角度を声で伝える。
「右へ五度。押し二。止め。戻し半」
ニアの手は痛みを返さない。
ロロは血の色を見る。
アムナは回数を数える。
小孔。
エリアが紙を丸め、光を通す。
セレナが単眼鏡の無魔法倍率だけを使う。
「爪四。中央は蝶番。ロロの仮説と一致」
ロロが勝ち顔。
「ニアの観測提案で確定」とセレナ。
勝ち顔が半分になる。
「共同勝利って、取り分減るな」
「安全が増える」とハル。
「安全、換金できねえ?」
「生きて請求できる」
「高収益」
四爪を、内側から一つずつ押す。
鉄縁。
六顎スパナ。
槍の柄。
盾だった楔。
最後の爪が外れる。
点検口が開いた。
炉外周は、赤い暗闇だった。
火は小さい。
空冠の主軸油が止まり、処理炉も低出力になっている。
その代わり、未処理の蒸気が天井へ溜まっている。
魔法灯なし。
壁の手動灯は消えている。
「灯り」とカイル。
「油を使えば酸素減る」とロロ。
「外気管を少し開ける」とニア。
「洗浄弁と連動」
「だから少し」
少しという数字を決める。
四分の一回転。
十五秒。
異臭が増えたら閉。
カイルとハルが弁を回す。
ニアは手を添えず、目で角度を見る。
外気。
ロロが火打ち歯車を三度擦る。
一度止まった装置の再点灯〈セカンド・ライト〉。
この言葉は本来、星脈炉が停止後に再起動する儀式を指した。
今夜は違う。
油皿へ小さな火を一つ戻すだけ。
灯りは弱い。
それで十分だった。
炉外周に、手動昇降機が見える。
鎖。
籠。
巨大な回転取手。
「上部処理炉まで三十間」とニア。
「手で?」カイル。
「手で」
「何人」
「籠に四。取手に四。途中で交代」
「全員同時に行けない」エリア。
「二往復」
「洗浄前兆」アムナ。
管へ頬を当てる。
まだない。
「第一便」とハル。
「誰を先に?」
怪我の軽い順なら、重傷者が残る。
怪我の重い順なら、上で籠を引く人が足りない。
技能順なら、人間が道具になる。
「上で取手を回せる人二。地図一。音一」とハル。
「名前で」エリア。
「エリア、アムナ、カイル、俺」
「カイルは肋四」とセレナ。
「籠内なら休める」とカイル。
「上で回せない」
「交渉する」
「機械に?」
「上に人がいたら」
「いなければ」
「板になる」
「王家の自己評価、低い」とロロ。
「君に言われたくない」
第一便は、エリア、アムナ、カイル、ハル。
下で取手、ロロ、ニア、セレナ。
ノクスは籠へ乗らない。
鎖横の点検梯子を自分で選ぶ。
「落ちる」とハル。
ノクスは「ナァ」と鳴き、梯子へ前脚を置く。
「本人選択」とセレナ。
「安全索だけ」
ノクスは腰環へロープを通すことを許す。
取手が回る。
一周。
籠が一尺上がる。
「遅い」とカイル。
「歴史的には、王が上がる速度は遅い方が安全」とエリア。
「戴冠式と脱獄を一緒にするな」
「どちらも王冠へ登る」ハル。
「上手い?」
「保留」
下でロロが怒鳴る。
「喋る空気あるなら鎖引け!」
籠内にも補助鎖がある。
四人で引く。
上へ。
昇降機の中ほどで、第一の空打ちが来た。
ごん。
管の奥。
洗浄弁が準備位置へ入る音。
アムナが籠床を三回叩く。
下へ伝える。
停止条件。
ロロたちが取手を止める。
籠は中空で揺れる。
「戻る?」カイル。
「一回は停止」とハル。
「前兆一。二回で退避」とエリア。
「次までの時間、不明」
アムナは管へ頬を当てる。
水が遠く移動している。
まだ弁二つ向こう。
「進める」と言いかけ、止める。
彼女が決めることではない。
「情報。水、二弁向こう。次の空打ちまで、分からない」
ハルが選択を聞く。
上へ。
下へ。
保留。
カイルは上。
エリアは上。
アムナは上。
ハルは上。
下の三人へ、縄の引きで伝える。
上――一長。
下――二短。
保留――輪を緩める。
返事。
ロロ、上。
セレナ、上。
ニア、上。
全員同じ答えでも、聞く手順は省かない。
前回同じだったことは、今回も同じという署名にならない。
取手が回る。
籠が上がる。
王冠内部の壁には、古い刻字がある。
『受け取る者は一人』
『送る者は万人』
『破約は中央へ』
千年前の標語。
エリアが読み、紙へ写す。
「制度の説明」とセレナの声が下から管を通してわずかに届く。
「正当化」とカイル。
「両方」とエリア。「説明であり、正当化に使われた」
「一人へ送る方が効率いい」とハル。
「効率がいいことと、許されることは同じではない」
「分かってる」
「分かっていても、急ぐと戻る考えだから言う」
ハルは返事をしない。
ソウジが一人で入れば、七空域が動く。
今の機械に限れば、効率はよい。
そのよさが、いちばん危険だった。
二回目の空打ち。
ごん。
今度は近い。
「退避!」アムナ。
上まで、あと八尺。
下へ戻るより、上が近い。
撤退とは、来た道へ戻ることだけではない。
危険域から出ることである。
「上へ全力!」ハル。
下の取手が速くなる。
ロロの喘鳴が管を通して聞こえる。
ニアの手は触覚がない。
セレナの右手首は二。
「交代!」ハルが縄を引く。
下から返事。
『交代済み』
誰が回しているか、見えない。
見えないからこそ、任せる。
籠内の四人も鎖を引く。
カイルの背中が四から五へ上がる。
「止める」とエリア。
「あと」
「止める!」
カイルは鎖を離す。
ハルとエリアが引く。
アムナは拍を数える。
ノクスが梯子を駆け上がり、上部の留め爪へ噛みつく。
籠が上端へ着く前に、第三の空打ち。
ごん。
洗浄水が来る。
管の下で、轟音。
「蓋!」
上部点検口は閉じている。
内側把手なし。
ノクスが留め爪を引く。
一つ外れる。
ハルが赤いマフラーを爪へ投げる。
届かない。
一。
二。
左肩へ投げれば届く。
「肩使う」とハル。
「条件」とエリア。
「一回。投げた後、引くのは二人」
「許可ではない。記録する」
「分かった」
三。
投げる。
左肩に痛み。
四。
マフラーが爪へ掛かる。
ハル一人で引かない。
エリアが腰へ巻く。
アムナが結びを固定。
カイルは肋部で引けないため、足で籠壁を押す。
爪が外れる。
蓋が開く。
水が下から迫る。
四人と一頭が上部床へ転がり出る。
ハルはすぐ戻る。
「第二便!」
籠を下へ戻す時間はない。
水が昇降路へ入る。
鎖が濡れ、取手が空回りする。
下にはロロ、ニア、セレナ。
「別路」とエリア。
「点検梯子!」
ノクスが登った細い梯子。
人間一人ずつなら通れる。
だが水が先に来る。
上部からロープを下ろす。
ハルのマフラー。
カイルの腰帯。
エリアの地図糸。
盾だった革帯。
全部を結ぶ。
長さが足りない。
ニアが下から工具袋の肩帯を外す。
ロロが自分の黄色い上着を裂く。
「服!」ハル。
「修理代に衣料費追加!」
届く。
「順番!」
セレナが下から言う。
「ロロ先。喘息。次ニア、出血。私最後」
「記録者が最後の癖やめろ!」ロロ。
「最後に観測する必要」
「必要ねえ! 姉ちゃん先、セレナ次、俺最後! 俺は梯子型知ってる!」
ニアが怒鳴る。
「ロロ先!」
「触れねえ手で最後やるな!」
「右指三で言うな!」
姉弟の喧嘩は、水より速い。
ハルが割る。
「順番を一人で決めない! 条件!」
ニア――触覚零、出血二、脚可。
ロロ――喘息二、右指三、脚可、構造知識。
セレナ――右手首二、左眼三、脚可、最後の留め爪を観測。
役割を分ける。
ニアが先に登り、上で引く。
ロロが二番、途中で水圧弁を閉じる。
セレナが最後、弁閉鎖を確認してから登る。
「弁失敗時」とセレナ。
「ロロは登る。セレナは水へ逆らわず脇空洞。ニアと俺たちで引く」
「了解」
ニアが登る。
触覚がないため、指へ力を入れすぎる。
アムナが上から結び目の位置を声で数える。
「一。右足。二。左膝。三、休む」
「名前を呼ばないの」ニア。
「呼んでいい?」
「いい」
「ニア。三、休む」
許可は一度取れば永遠ではない。
今、この場で呼ぶ許可。
ニアが上がる。
次、ロロ。
水が足元へ来る。
ロロは梯子途中の手動弁へ六顎スパナを掛ける。
右指が滑る。
「左で位置! 補助腕で柄!」ニア。
「命令?」
「提案! 嫌なら別!」
「採用!」
一本の補助腕が背中から動く。
可動域は狭い。
柄を押すだけなら使える。
左手で顎。
補助腕で柄。
上からニアが角度を見る。
「右三度!」
「今の右?」
「お前の右!」
「正確!」
弁が閉じる。
水圧が減る。
ロロが上がる。
最後、セレナ。
彼女は下を見る。
水。
弁。
鎖。
「確認」と言う。
「早く!」
「弁閉。漏れ一。鎖損傷二。洗浄流は迂回管へ」
「今それ!」
「後で『閉めたはず』にしないため」
登る。
右手首を使わない。
左手と脚。
途中、左眼の焦点がずれる。
「次の結び、一尺」とアムナ。
「見えている」
「見えてるを言って」
「見えている」
上がる。
全員。
ハルが点呼。
「一、ハル。肩四」
「二、エリア。肺三、踵三」
「三、カイル。肋五、背中五。歩行可、牽引不可」
「四、ロロ。喘息三、右指四、補助腕一」
「五、セレナ。左眼三、右手首三」
「六、アムナ。頭二、混同一」
「七、ニア。両手触覚零、出血二、脚二」
ノクスが「ノゥ」と鳴く。
「八、ノクス。左後脚一。本人返事」
八。
史料保全現場責任者は下部へ行った。
人間七人と、ノクス。
九ではない。
ノクスを物品へ戻さない。