第814話 第十一章「空冠へ登る」後編
上部処理炉から、外壁へ出る。
そこに廊下はなかった。
王冠の外側。
七空域の空が、下にある。
空冠要塞が回転するたび、星のない夜と、雲海と、遠い都市灯が足元から頭上へ移る。
外壁は金属の斜面。
冠の棘が百本。
棘と棘の間に保守足場。
魔法があれば、飛べた。
路図があれば、光の橋を引けた。
王盾炎があれば、風圧を受けられた。
再機があれば、折れた足場を戻せた。
ない。
あるのは、手すり、ロープ、紙、板、工具、体温、声。
「最終中枢は、冠の内側上部」とニア。
「距離」とエリア。
「外壁沿い百八十間。途中に回転継ぎ目三。最後に手動機関」
「風」
「外壁一周ごとに正面風。二分十秒」
「監獄周期と違う」とハル。
「本体周期」ロロ。「俺が変えたのは房帯。ここは速い」
「戻せる?」
「戻すな。房帯は残留三人いる」
「別の速度のまま」
「橋と同じ」とエリア。
一つへそろえない。
交差時刻だけ使う。
外壁の第一継ぎ目が、二分十秒ごとに水平になる。
「渡れる窓、七秒」とニア。
「全員七秒?」カイル。
「一人ずつなら次を待つ」
「父の接続」ハル。
「急ぐ」とエリア。「全員を一窓へ詰めない」
ハルは歯を噛む。
父へ近づくほど、急ぐ理由が強くなる。
強い理由は、他人の速度を奪いやすい。
「三組」と言う。
第一、ノクス、ハル、アムナ。
第二、エリア、セレナ、ニア。
第三、カイル、ロロ。
「第三、負傷重い」とセレナ。
「だから二人。窓を二回使う」
「私一人で」とカイル。
「却下」とロロ。「お前、今板以下の盾しかねえ」
「板は置いてきた」
「じゃあ盾以下!」
ロロが腰索をカイルへ結ぶ。
「自分で外せる?」
「左手で」
「確認」
外す。
結び直す。
第一窓。
風が止む。
ハルは一、二、三で走る。
今回は三を言う。
ノクスが先。
アムナが中。
ハルが後。
左肩でロープを引かない。
腰。
右腕。
継ぎ目が動く。
七秒。
渡る。
第二窓。
エリアは地図紙を口へくわえない。
濡れれば読めなくなる。
胸の内側。
ニアが先に行こうとする。
「触覚零」とセレナ。
「足場は目で」
「滑りは手で感じられない」
「なら、中央」エリア。「私が先、セレナ後。ニアは両方のロープへ」
「挟むの?」
「支える」
「言葉がきれい」
「きれいでなく、構造」
渡る。
第三窓。
カイルがロロを先へ押す。
「喘息」
「肋五!」
「王子命令」
「期限」
「渡るまで!」
「拒否!」
また同じ争い。
今回は、ロロが決める。
「俺先。向こうで腰索引く。お前は槍杖を手すりへ掛ける。落ちたら俺一人で受けない。ニアとハルが引く」
「了解」
ロロが渡る。
カイルが続く。
五秒で背中が固まる。
六秒。
足が止まる。
「置いていけ!」とカイルが自分で言う。
言った瞬間、顔をしかめる。
自分が最も嫌う命令を、自分へ出した。
「却下!」ロロ。
「期限は!」
「一生!」
「長すぎる!」ハル。
「訂正! この継ぎ目を渡るまで!」
腰索を引く。
ニアとハルが別の固定点から引く。
エリアが足場角度を叫ぶ。
セレナが残り秒を数える。
アムナが次の風向を管支柱の震えで読む。
ノクスがカイルの前へ戻り、進む方向を身体で示す。
七秒を越える。
継ぎ目が傾く。
カイルは手すりへ槍杖を掛け、左腕で身体を滑らせる。
八秒。
落ちない。
安全に渡れたとは言えない。
渡った。
カイルは外壁へ仰向けになる。
「命令、撤回」
「どれ」とハル。
「置いていけ」
「記録」とセレナ。
「そこまで記録する?」
「次に同じ台詞を言った時、本人撤回済みと示せます」
「恐ろしい監査官だ」
「褒め言葉として記録」
第二継ぎ目の先で、外壁砲が動いた。
魔法砲ではない。
圧縮空気で鎖網を撃つ旧式捕縛器。
白階市から拘束環油は来ていない。
それでも、すでに装填された一発は残る。
監視塔から手動照準。
「伏せろ!」ニア。
鎖網が飛ぶ。
外壁に伏せれば、次の回転で滑り落ちる。
「棘裏!」エリア。
全員が冠の棘へ走る。
ハルが最初に着く。
振り返る。
カイルが遅い。
戻ろうとする。
「役割!」エリア。
ハルの役割は、今いる側からロープを張る。
カイルを直接取りに行くことではない。
赤いマフラーを棘へ回す。
ロロの工具帯を延長。
ニアの保守索。
ロープを投げる。
カイルが左手で掴む。
鎖網が背後へ落ちる。
網の端が右脚へ絡む。
「切る!」ニア。
断機はない。
手鋸。
鎖は太い。
ロロが鉄縁を網の輪へ差し、てこの原理で一輪だけ広げる。
ニアが鋸を入れる。
触覚がないため、ロロが刃角を言う。
「左二。押し一。戻し長」
カイルは自分の脚を動かさない。
刃が近い。
「怖い?」ハル。
「非常に」
「言えるなら元気」
「その診断、君から広がったな」
「撤回可能」
鎖一輪が切れる。
ニアは全部を切らない。
一輪で脚が抜ける。
残りの網は外壁へ残す。
後続者が足場に使えるよう固定する。
捕縛具を橋へ変える。
監視塔が二発目を装填しようとする。
空気圧が上がらない。
補給峡谷でティアとミラが一門を止め、圧縮槽の交換筒が来ていない。
遠い外部作戦は、砲を破壊しない。
一発目のあとを止めただけだった。
その一発を避けたのは、ここにいる者たちである。
第三継ぎ目。
外壁の一部が、上下へ二つに分かれる。
片側は空冠中枢。
片側は外部救難索。
遠く、ティアとミラが開いた峡谷路の灯火が見える。
下にはガンガとイヴァの移動基盤。
白階市からは生活物資の中立棚が上がってくる。
外殻の別面で、エメとバズが荷重索を手動で支えている。
出口はある。
今なら外へ出られる。
ニアが言う。
「ここで選択。外部索、八分後に接近。乗れば要塞外へ」
ハルは空冠中枢を見る。
「ソウジは」
「上」
「行く」
すぐ言う。
それを全員の答えにしない。
「一人ずつ」とセレナ。
エリア。
「中枢へ。地図の不明を残したまま」
カイル。
「中枢へ。ただし私の身体が進行を止める場合、置いていく命令は出さない。外部索へ移す判断を他者と共有する」
ロロ。
「中枢。クランク見たら触る。修理代は後」
セレナ。
「中枢。記録継続。視認不能部分は不明とする」
アムナ。
「中枢。名前を器に使わせない」
ニア。
「中枢。切断は一人で決めない」
ノクス。
二つの道を嗅ぐ。
外部索。
中枢。
中枢側へ前脚を置く。
「本人選択」とハル。
全員、中枢。
同じ答えでも、別々の理由。
外部索を拒否したのではない。
退路として残す。
ニアがエメへ手旗を送る。
『中枢へ。外部索、八分ごと維持。来る者を確認して運ぶ。待機命令なし』
エメが返す。
『了解。英雄待ちしない』
過去の同行者たちは集まらない。
ゼロスター号を見送るために、各地の仕事を止めない。
中枢前の手動機関は、直径十メートルの輪だった。
魔法なしで回す手動機関〈クランク・ハート〉。
八本の取手。
中央に停止灯。
上部扉は、輪を一回転させている間だけ開く。
「一人一取手」とハル。
「ノクスは?」カイル。
「足踏み板がある」とロロ。
「誰が設計した」
「昔から夜獣も荷役に使ったんだろ。用途が尊重かは別」
八取手。
ハル。
エリア。
カイル。
ロロ。
セレナ。
アムナ。
ニア。
七。
ノクスは足踏み板。
八。
人数が合うから正しいのではない。
機械が八人を要求したから、人間を八個の部品にするわけでもない。
「交代条件」とエリア。
「痛み一段上昇。呼吸四。手の出血増。混同二」とセレナ。
「止めたら扉閉じる」とロロ。
「一回転中に交代できる構造を作る」ニア。
「どう」
盾の革帯。
捕縛網の一部。
槍杖。
取手同士を、緩い環で結ぶ。
一人が離しても、隣二人へ急に全荷重が行かない。
「荷重分散」とニア。
「また一人で計算した?」ロロ。
「案。異議」
「結びを二重に。切れた時、戻らない」
「採用」
姉弟が同じ輪を別々に確認する。
ハルは左肩を使わず、腰で押す。
エリアは踵を浮かせ、前足部と背中。
カイルは右腕を休ませ、左腕と脚。
ロロは左手、補助腕、胸当て。
セレナは右手首を使わず、前腕。
アムナは短い歩幅。
ニアは手の感覚に頼らず、肘と肩。
ノクスは自分の拍。
「開始」とハル。
輪は動かない。
「重い!」
「知ってる!」ロロ。
「王冠だから?」
「比喩で軽くなるか!」
もう一度。
一。
二。
三。
動く。
数センチ。
停止灯の横に、小さな火打ち機構。
ロロが足で蹴る。
火花。
消える。
「油不足」とニア。
「白階市が止めた」
「生活油は別路」アムナ。
「届いてない」
セカンド・ライトが点かない。
扉は開かない。
外部作戦の正しい停止が、内部では障害になる。
誰かを責めれば簡単である。
簡単な責任は、たいてい間違った場所にある。
「油なくても、熱で薄膜を膨らませれば」とロロ。
「熱源」
「体温は足りねえ」
「処理炉の火」とハル。
「遠い」
セレナが自分の外套を見る。
烏翼の黒布。
「燃料」
「燃やす?」カイル。
「証羽を失っても外套はただの布です」
「本人の同意」とアムナ。
「同意。全焼は避ける。裾一尺」
ロロが切る。
「切断記録」
「必要?」
「後で『勝手に燃やした』にしない」
黒布を油皿へ。
火打ち。
燃える。
小さな熱が薄膜へ入り、赤いランプが点く。
一度止まった装置の再点灯〈セカンド・ライト〉。
奇跡ではない。
外套一尺分の損失と、八人一頭の筋力と、白階市が止めなかった生活灯油の残滓で点く灯り。
「一回転だけ」とロロ。
「十分」とハル。
「十分は時間?」
「足りるって意味」
「紛らわしい!」
輪を回す。
四分の一。
カイルの肋部が五。
「交代」とセレナ。
「代わりが」
ノクスが足踏み板から降り、カイルの側の板へ移る。
自分で選ぶ。
空いた足踏み板へ、ハルが片脚を置く。
自分の取手は腰帯で維持。
荷重を二つへ。
「一人二役」とエリア。
「短時間」
「期限」
「八拍」
八拍後、ニアがカイル側へ肩を入れる。
「手、使わない」とロロ。
「肩」
「出血」
「二のまま」
「見てる」
半回転。
外壁風が変わる。
エメとバズの索が外殻を支え、輪の反動を一度受ける。
三分の二。
遠く、下部移動基盤の車輪音。
十五、十九、二十三。
空冠は一つの拍へ戻らない。
外の複数の拍に支えられ、内部の輪が少しずつ進む。
四分の三。
アムナの名前混同が二へ上がりかける。
「数える」と言う。
名前ではなく、取手。
「一、二、三、四、五、六、七、足踏み」
ノクスを番号へしない。
役割を数える。
最後の八分の一。
輪が戻ろうとする。
全員が押す。
ハルは父の名を叫ばない。
叫べば力が出るかもしれない。
同時に、全員がその名のために押しているように変えてしまう。
それぞれの理由のまま、押す。
一回転。
赤灯が白へ変わる。
上部扉が開く。
扉の向こうは、静かだった。
無音塔の静けさではない。
大きすぎる機械が止まり、人の息だけが残った静けさ。
円形の中枢室。
七本の巨大な導路が、空冠の各方角へ伸びている。
光はない。
天鍵の反応もない。
中央に、二つの座。
一つは黒い。
古い拘束環。
千年分の擦り傷。
もう一つは白い。
新しく作られた接続架。
白い架へ、凪野ソウジが固定されていた。
左の星晶義手は外され、導路へ直接つながれている。
胸、背、首、右脇腹。
四本の管。
生きている。
呼吸している。
目を開ける。
「遅かったな」
声は弱い。
それでも、いつもの温かい低音を作ろうとした。
ハルの口から、先に出た言葉は一つだった。
「父さん」
呼んだあとで、自分が呼んだことに気づく。
ソウジの目が、痛そうに笑う。
「うん」
黒い座のそばに、空白王アザルが立っていた。
拘束されていない。
武器もない。
誓星術もない。
ただ、千年座っていた場所の隣で、次の人間が器へ接続される準備を見ている。
「脱獄、おめでとう」
アザルは静かに言った。
「ここから先は、牢の外だと思う?」
ハルは答えない。
中枢へ着いた。
監獄からは脱出した。
だが父の身体へつながる管は、世界そのものへ伸びている。
扉の向こうで、クランク・ハートの白灯が一度揺れた。
次の回転が始まるまで、時間は多くない。