第815話 第十二章「父が器になる準備」前編
犠牲には、古くから二種類の書き方がある。
一つは、誰かを選んで差し出した者が書く。
国を救うため。
民を守るため。
他に道がなかったため。
もう一つは、差し出される者が書く。
自分で選んだ。
皆のためになりたい。
迷惑をかけたくない。
二つの文章は、同じ出来事を互いに正当化する。
選んだ側は、本人が同意したと言う。
同意した側は、皆が必要としたと言う。
こうして責任は輪になる。
誰も最初ではなく、誰も最後ではなく、輪の中心に一人の身体だけが残る。
王冠は、その輪へ宝石を付けた物である。
空冠中枢の二つの座は、千年分の比喩を機械へ戻した姿だった。
【空冠要塞・最終中枢/暫定受容開始まで二回転未満】
「父さん」
呼んでしまった言葉は、戻らなかった。
ハルは一歩進み、止まる。
ソウジの首から胸へ伸びる管が、床の溝へ入っている。
左の星晶義手は手首から外され、白い接続架の側面へ固定されていた。義手の七つの歯車だけが、本人の脈と違う速度で回る。
触れれば外せそうに見える。
見えるだけである。
「触る前に観測」とセレナ。
「分かってる」
「分かっている時ほど、口にしてください」
「触らない。先に聞く」
ハルはソウジを見る。
「生きてる?」
「今は」
「今を数字で」
「体温低下三。星酔い四。右脇腹三。呼吸二。意識は……二、と言いたいけど、順序が時々混じる」
「接続」
「準備段階。胸と背中は感覚導路。脇腹は受容試験。首は記録同期。義手は――」
「説明が専門的になった」
ソウジの言葉が止まる。
責任を問われると、受動態と専門語が増える。
ハルは父親の取扱説明書など持っていないが、八年間待った身体がその逃げ方だけは知っていた。
「誰がつないだ」
「接続は、旧手順に従って――」
「誰が」
「アザルが機構を起動した。僕が座へ入った。固定具は空冠の保全員が付けた」
「本人同意」セレナ。
「した」
「同意時刻」
「正確には分からない。収容前。空冠外壁で、アザルへ伝えた」
「条件」
「七空域の生活機構を一時再起動する。アザルを受容座から外す。その間、僕が破約を受け取る」
「終了条件」カイル。
ソウジは答えない。
「終了条件」とハル。
「次の設計ができるまで」
「何日」
「未確定」
「撤回」
「接続前ならできる」
「今は」
「暫定受容が始まれば難しい」
「難しいは、できる?」
ソウジが一度、目を伏せた。
「現在の設備では、ほぼできない」
「アザルと同じ言い方」
「機械が同じだから」
「人まで同じになる理由じゃない」
ハルの声は大きくならない。
大きくすれば、父へ届く代わりに、他の全員の言葉を押しのける。
「同意、撤回する?」
「しない」
「今、聞き直した」
「今も、しない」
「俺が来た後でも」
「来たからこそ」
「それ、俺を理由にした?」
「ハルたちが来たことで、外部の退路と生活線が残っている。僕が入れば、その線を動かせる時間が――」
「俺を理由にしたかって聞いた」
ソウジの義手の歯車が止まる。
恐怖が漏れる時の音だった。
「した」
「却下」
「同意を却下する権利は、君にない」
「俺を理由にした部分は、俺が拒否できる」
「それを外しても、僕は選ぶ」
「じゃあ残りを一個ずつ言って」
「世界が止まっている」
「誰の生活」
「七空域の全域」
「全域を一人の言葉でまとめない」エリア。
彼女は靴を片方失ったまま、手描き地図を床へ広げる。
白階市。
補給峡谷。
落雷原。
翠獣環の移動群れ。
雷鎖環の自治車両。
王都下面区。
重ね消しの都。
全部を描けてはいない。
見えていない生活が、紙の外にある。
「確認できている停止影響だけでも、水、医療、配給、交通、温度管理、重力設備。だから急ぐ必要はある。でも『世界』という一語にすると、誰がどの程度待てるかが消える」
「だから一時的に動かす」とソウジ。
「一時の長さがない」とエリア。
「長さを決める前に死ぬ人がいる」
「いる可能性が高い。だから何もしないとは言っていない」
「代替案は」
エリアは答えない。
ハルも答えない。
ない。
少なくとも、今この部屋で、すぐ七空域を動かす別の方法はない。
正しい反対は、方法ではない。
だが方法がないことは、誤った方法を正しくしない。
アザルは黒い座の横へ立っていた。
胸の七つの空洞は暗い。
髪先から黒い星砂も落ちない。
誓星術が完全に止まった空間では、彼もまた能力を持たない一人の青年に近い。
「ハル」
一拍置いて、名を呼ぶ。
「君は、ソウジへ何を約束させたい」
「約束させない」
「では、止める理由は」
「一人へ集めるから」
「集めなければ、今は動かない」
「だからって、君からソウジへ荷物を移しただけで配達完了にするな」
「僕は荷物?」
「人。ソウジも人。世界が二人を受取箱みたいに使ってる」
「世界は使わない。人が設計した」アザル。
「訂正。設計が使ってる。使い続ける人もいる」
「僕も?」
「今は」
被害者だった。
千年、器にされた。
それでも現在、次の器を用意している。
どちらかを消せば、話は簡単になる。
ハルは簡単にしない。
「今、アザルは加害側」
アザルの黒い瞳が、わずかに細くなる。
「君は僕を救いに来たのでは」
「迎えに来るって言った。でも、迎えに来た相手が誰かを代わりに座らせるなら、先に止める」
「約束を破る?」
「目的地を聞き直す。君を座から出す。ソウジを座へ入れない。今は、その両方」
「両立しない」
「今の機械では」
「機械の外に答えがある?」
「まだ分からない」
「分からないのに止める」
「分からないから、戻せないことを先にしない」
アザルは口元を動かした。
笑いではない。
千年前、自分が言ったかもしれない言葉を、別の少年から聞いた顔だった。
「ソウジも、昔はそう言った」
「昔のソウジを証拠に、今のソウジを正しくするな」
「君たちは似ている」
「似てる所を、命令に使うな」
セレナは白い接続架を観察する。
見た範囲。
四本の人体導路。
義手から七本の機関導路。
足元に手動解除輪。
解除輪の上へ赤い封蝋。
封蝋の文字。
『暫定受容開始後、逆転禁止』
「禁止の理由」と彼女。
中枢扉脇の保管筒に、旧手順書の分散写しが残されていた。
史料保全現場責任者が下部退路へ向かう前、セレナへ渡した三枚のうち一枚である。本人は三十三人とともに外へ渡り、ここにはいない。
セレナは、見える文字だけを読む。
「逆転時、現行受容体と新受容体の双方へ破約負荷が戻る可能性」
「可能性の資料」
「旧実験記録の要約。原本は空冠下層」
「死亡例」
「三」
「成功例」
「記録なし」
「記録なしは零ではない」
「そのとおりです」
「解除輪は今なら回せる?」ロロ。
セレナが手順書を指で追う。
「準備段階なら可能。七分の三回転」
「変な数」
「七導路のうち三つを開放する設計。残り四つは人体側の固定を先に外す」
「順序」ニア。
「首、脇腹、背、胸」
「なぜ首が先」
「記録同期を止めるため」
「身体負荷は」
「胸が先では」ロロ。
「旧手順では記録保全が優先された」
ロロの顔が歪む。
「人より記録」
「受容体の人格が失われても、破約記録を残す目的だった」
「人格が失われたら、人を外したことにならねえだろ」
手順書の欄外には、責任者の筆で追記があった。
『その通り。現行手順として弁護しない』
ここにいない記録者も、自分が守ってきた手順を正当化してはいなかった。
「現在の解除順を変える」とニア。
「勝手に?」ハル。
「案。胸の負荷を先に逃がす。ただし記録管へ逆流」
「ソウジの記憶」アムナ。
「混ざる可能性」
「本人へ聞く」
アムナはソウジの正面へ立つ。
「名前。もう一度」
「凪野ソウジ」
「記録同期を先に外せば、身体負荷が上がる可能性。胸を先に外せば、記憶の一部が中枢へ残る可能性。何を選ぶ」
「接続を外さない」
「二択へ答えてない」
「外さないから、順序を選ばない」
「それも選択。今の公開範囲」
「この場。ナツミへは……全部。僕が言えなくなったら、事実だけ」
ナツミの名を口にした時、ソウジの姿勢が一センチ縮む。
「『全部』は広い」とアムナ。
「接続へ同意したこと。ハルが止めたこと。僕が撤回していないこと。体の状態。説明できなかったこと」
「謝罪は」
「本人へ」
「受領」
アムナは、記憶の所有者にならない。
覚えるのは伝える範囲まで。
白い接続架が鳴った。
一回。
空打ち。
中枢の床へ、七本の導路から機械振動が来る。
「暫定開始の前兆」とセレナが手順書を読む。
「残り」とハル。
「二空打ち」
「止める」とロロ。
「本人が拒否している」とセレナ。
「接続を止めることへソウジは同意してない」カイル。
「だから何もしない?」ハル。
「違う。本人の同意と、他者へ不可逆な負担を移す権限を分ける」
王太子は白い架を見る。
「ソウジ。あなたは自分の身体を差し出せる。だが王国と七空域は、その差出しを受領する権限を、あなた一人へ与えていない」
「王家が言うか」ソウジ。
「王家だから言う。私の祖先は、受領する側の印を押した」
「今、王命で止める?」
「王命にはしない。私個人は拒否する。王国代表としては、現行の受容制度へ同意しない。二つを分けて記録する」
「王国が停止している間に、民が死ぬ」
「その責任を、あなた一人の死で買わない」
「買わなければ、誰が払う」
「分からない。分からないと言う責任を引き受ける」
二回目の空打ち。
時間がない。
言葉だけでは止まらない。
ロロとニアが解除輪へ走る。
「全部外さない!」ロロ。「準備輪を七分の一だけ戻す!」
「そんな位置、手順にない」と史料保全責任者。
「手順にないから機械が止まるかも!」
「壊れる可能性」セレナ。
「壊さず遅らせる。爪一つだけ外す」ニア。
「どの爪」ハル。
「義手導路の第一。人工晶質だから、生体管より外しやすい」
「外したら」
「開始時刻がずれる。停止保証なし」
「ソウジ」ハル。
「同意しない」
「聞いた」
「なら止めるな」
「君の身体を勝手に外すんじゃない。世界が君を戻せなくする時刻を遅らせる」
「同じだ」
「違う。身体へ触る範囲、言う。義手側の導路一。胸も首も触らない。止まったら、もう一度聞く」
「拒否する」
「記録」とセレナ。「本人拒否あり」
「それでも?」ソウジ。
ハルは喉を詰まらせる。
本人の意思を尊重する。
それは、本人が他者へ不可逆な害を渡す選択まで、誰も止めてはいけないという意味ではない。
だがその線を、自分に都合よく引けば暴力になる。
「今の接続は、アザルを外して世界へ破約を戻す。他の人にも届く。だから止める。君を助けたいだけじゃない」
「それで、触る正当性が出る?」
「完全には出ない。後で責任を取る」
「後で、がある保証は」
「ない」
ソウジは目を閉じる。
「正直になったな」
「遅い?」
「八年」
「そっちが言うな」
目を開ける。
「七分の一。義手導路だけ。三十秒。外れなければ止める」
条件付き同意。
「受領!」ロロ。