第816話 第十二章「父が器になる準備」後編

 義手導路の第一爪は、白い架の裏にある。

 ニアの両手には触覚がない。

 ロロの右指は痺れている。

 二人とも、一人では正確に外せない。

「俺が角度」ロロ。

「私が力」ニア。

「触れねえのに?」

「肩で押す」

「出血」

「二。増えたら交代」

 ハルが義手導路の管を支える。

 左肩を使わない。

 エリアが床へ機構図を描く。

 見えている爪は実線。

 裏側は破線。

 セレナが三十秒を数える。

 アムナはソウジの名前を呼び続けない。

 名前で意識を縛る代わりに、状態を聞く。

「体温」

「四」

「混同」

「三。ハルが七歳と十五歳、時々重なる」

「今、十五」

「分かる」

 カイルは解除輪の戻りを左腕で受ける。

 背中四。

 肋五へ上がりかける。

 ノクスが足元の革帯を噛み、輪が急に戻らないよう引く。

 人間の設計に足踏み板しか与えられなかった夜獣が、自分で役割を選ぶ。

「十秒」とセレナ。

 爪が動かない。

「錆じゃねえ。圧力」ロロ。

「義手側から歯車が押してる」とニア。

「ソウジ、義手の親指を止められる?」

「義手は外れてる」

「癖の歯車」ハル。

 ソウジは、考え込む時に義手の親指を一回転させる。

 今、義手は架へ固定されているのに、同じ命令信号を出し続けている。

「右手で、空の親指を回す動きを止めて」

「何の意味が」

「身体が義手へ送ってる癖を止める」

「そんな」

「試す。十秒だけ」

 ソウジは右手を握る。

 義手の七歯車が、一拍遅れる。

「今!」

 ニアが肩で押す。

 ロロが爪角を合わせる。

 カイルが輪を七分の一戻す。

 ハルが管を受ける。

 ノクスが革帯を引く。

 第一爪が外れた。

 白い接続架の灯りが、一つだけ消える。

 魔法の光ではない。

 機械式表示板が白から黒へ反転する。

 第三の空打ちは、鳴らなかった。

「停止?」ハル。

「遅延」とニア。

「何分」

「分からない」

「推定」とセレナ。

 ロロが回転計を読み、セレナが手順書の換算表と照合する。

「次の空冠主回転まで。最短十二分、最長二十七分」とセレナ。

「時間できた」とハル。

「答えはできてない」とエリア。

「分かってる」

 脱獄は、完成した。

 第六収容環の三十六人は、三十三人が外部退路へ渡り、三人が自分で中央待機へ残った。

 監視兵たちは勤務を続ける者、拒む者、残留者確認へ回る者に分かれた。

 空冠の房扉は手動で内側から開けられる状態へ置かれた。

 ハルたちは牢から出た。

 その事実は、世界を救っていない。

 父も外れていない。

 アザルも自由になっていない。

 代替案もない。

 脱獄成功と問題解決は、同じ言葉ではなかった。

 扉を開けた者が正しいとも、残った者が間違いとも決めない。

 出た三十三人には、出た後の生活がある。残った三人には、残る理由と、後から出る権利がある。監視をやめた兵にも、続けた兵にも、これから説明すべき行為がある。

 牢の外は、責任の外ではない。

 だからこそ、牢の外だった。

 セレナは、責任者から渡された旧勤務簿の分冊を一冊だけ開いた。

「脱獄者」と書く欄がある。

 三十六人。

 監視兵。

 固定メンバー。

 ノクス。

「何と記録する」とセレナ。

「旧様式なら、逃走、扇動、物品紛失」とセレナ。

 ノクスの尾が床を打つ。

 分冊の最終頁には、責任者の筆で記されていた。

『旧様式は使わない』

 セレナは新しい紙へ、まず事実を書く。

『房扉、内側から開閉可能。

 外部退路、複数。

 三十三名、本人選択で移動。

 三名、本人選択で残留。

 監視兵、勤務継続・終了・保留に分かれる。

 夜獣ノクス、物品区分を拒否。自力移動。』

「脱獄の成功条件」とハル。

「収容者が施設の許可なく出たこと、ではない」

「じゃあ」

 セレナは少し考え、記録者判断として答える。

「施設が、残る者を含めて行き先を独占できなくなったこと」

 その定義を、事実とは別の欄へ置く。

『記録者判断』

 勝った側の言葉を、事実欄へ紛れ込ませない。

 それでも、牢の意味は変わっていた。

 ソウジは、外れた第一導路を見る。

「もう一度つなげば、開始できる」

「つながない」とハル。

「今は」アザル。

「今は、じゃない」

「永遠に?」

「永遠って言わせるな」

 アザルの視線が、出口へ動く。

 嫌いな言葉を聞いた時の癖。

「次に聞くまで、つながない」ハルは言い直す。「聞く条件は、他の案を探した後。ソウジ一人、アザル一人、俺一人で決めない」

「誰を入れる」とソウジ。

「まだ決めない」

「全員へ聞く時間がない」

「全員って誰」

「七空域」

「七空域を一つの会議にするな」エリア。

「では、誰へ」

 答えはない。

 答えのない場所へ、急いで万能な名詞を置かない。

 セレナは紙へ書く。

『現在案A――ソウジを新受容体とし、一時再起動。効果時間、終了条件、撤回方法未確定。現行集中制度を継続。

 現在案B――接続せず停止継続。生活被害増大。停止期間、救命範囲未確定。

 その他――未提示。』

「二択」とソウジ。

「現在見えている二案」とセレナ。「世界の全選択肢とは記録しません」

 エリアは、地図の中央を空白にする。

「道がない?」ハル。

「まだ描けない」

「希望が歩ける余白」

「今回は、希望と呼ぶ許可を出していない」

「厳しい」

「空白は空白」

 ハルは頷く。

 美しい名前を先に付けると、その名前に合う証拠だけを集めてしまう。

 中枢の外から、手動鐘が鳴った。

 一。

 間。

 十五。

 十九。

 二十三。

 外部の複数拍。

 続いて、管の中を別々の打音が走る。

 峡谷の一門停止。

 移動基盤の次回交差。

 白階市の生活補給。

 外殻三者弁の維持。

 誰も中枢へ集合していない。

 誰も「準備ができたから犠牲になれ」と言わない。

 各地で、自分の場所を動かしている。

 ソウジが聞く。

「この音を、何だと思う」

「待てる時間」とハル。

「待てない人もいる」

「いる。だから急ぐ。でも、君を急がせる拍にはしない」

「君は、僕が死ぬのが嫌なだけだ」

「嫌だよ」

 即答。

「嫌だから止めた。それだけじゃ足りないから、制度の話もした。両方本当」

「私情を混ぜるな、と言われるぞ」

「私情を隠して正義のふりする方が危ない」カイル。

「王子がそれを言うのか」

「王子だから、私情を国益と呼び替えた歴史を知っている」

 ソウジは小さく息を吐く。

「ナツミにも、止められた」

「いつ」

「八年前」

「止まらなかった」

「うん」

「今回も、俺が止めても行く?」

「……行こうとしている」

「受動態じゃない」

「今は」

「今だけでも」

 ソウジはハルを三回呼び直そうとする。

「ハル」

 一回。

 次が出ない。

「謝るなら、今ここで全部済ませるな」とハル。

「分かってる」

「分かってない顔」

「顔は証拠か」

「予測。訂正可能」

 エリアが、ほんの少し顔を背けた。

 この親子は、似ている。

 似ていることは、同じ結末の証拠ではない。

 ノクスが白い架へ近づく。

 ソウジの右手が動く。

 頭を撫でようとして、途中で止めた。

「触っていいか」

 ノクスは匂いを嗅ぐ。

 星晶義手が外された左側。

 右脇腹。

 靴。

 ハル。

 最後にソウジの右手へ鼻をつける。

 許可。

 ソウジが耳の後ろを一度撫でる。

「覚えてる?」

「ノゥ」

「どっちだ」

「本人の返事を人間語へしない」とアムナ。

「そうだな」

 ノクスは次にアザルへ行く。

 アザルは手を出さない。

「僕は、触れていい?」

 ノクスは近づかない。

 尾を一本、身体へ巻く。

「拒否」とアムナ。

「分かった」

 アザルは一歩下がる。

 千年の被害は、夜獣へ触れる権利にならない。

 現在の拒否を受け取ることが、最初の小さな責任だった。

 アムナが彼へ尋ねる。

「名前。もう一度」

「アザル」

「空白王は」

「役割。今は、そう呼ばれたくない」

「記録していい?」

「アザルは。役割を拒否したことも」

 紙を分ける。

『アザル』

 別紙。

『旧役割:空白王/本人、現在呼称を拒否』

 器から降りることは、名を変えれば終わるほど簡単ではない。

 それでも、役割を名前から剥がすことはできる。

 セレナが、その二枚を別々の封筒へ入れる。

「同じ封へ入れないの」とハル。

「同じ封へ入れると、後の記録者が同じものとして読む」

「面倒」

「面倒を減らした結果が、この座です」

 アザルは黒い座を見る。

「面倒を、一人へ預けた」

「今度は預からない」とアムナ。

「忘れる?」

「忘れる選択も、あなたへ聞く」

 アザルはすぐには答えない。

「今は、覚えていて」

「期限」

「次に聞かれるまで」

「長い」

「では、空が一度動くまで」

 その時点で、誰も空が本当に動くとは知らなかった。

 空冠の主回転が始まった。

 最初は、床の奥の低い振動。

 次に、七本の巨大導路が一つずつ軋む。

 第一。

 零星針の金属蓋が、ハルの胸元で勝手に傾く。

 針は動かない。

 蓋だけが、遠い光を映す。

 第二。

 遠い翠獣環で共同保管される王獣鈴が、誰にも鳴らされず、器の内側だけで震える。

 第三。

 鏡砂環の双界鏡が、像を映さず、枠だけを回す。

 第四。

 雷鎖環の天雷錨が、地域小網を引かず、鎖の向きを一度変える。

 第五。

 夢灯環の夢灯籠が、眠りを作らず、紙の芯を軋ませる。

 第六。

 潮骨笛の六つの孔へ、音のない空気が順に通る。

 第七。

 空冠そのものが、王冠の輪を外側へ傾ける。

「起動してないのに」とロロ。

「起動ではなく、少なくとも物理的には位置合わせ」とロロ。

「何の」セレナ。

「不明」ロロ。

 七天鍵が、力を取り戻したわけではない。

 誓星術はまだ消えている。

 ただ、七つの物理的な器と、七空域の空が、同じ回転へ入り始めた。

 白い接続架の外れた第一導路が、床へ打ちつけられる。

 ニアとロロが押さえる。

「再接続しようとしてる!」ロロ。

「自動復帰爪」とニア。

「止める!」ハル。

「手で?」カイル。

「手で」

 全員が動く。

 ハルは管を支える。

 エリアは回転後の位置を描く。

 カイルは解除輪を左腕で保持する。

 ロロは復帰爪へ楔を入れる。

 セレナは外れた時刻と戻ろうとした時刻を記録する。

 アムナはソウジとアザルの名を、本人へ確認した範囲だけ覚える。

 ニアは機構を切らず、振動から次の荷重を読む。

 ノクスは床を滑る楔へ身体を当て、自分の拍で押し返す。

 ソウジは白い座の上で、右手を握る。

 義手へ送る癖を止め続ける。

 アザルは黒い座の横で、誰にも触れない。

「君たちは、いつまで持つ」と問う。

「分からない!」ハル。

「持てなくなったら」

「その時、もう一度聞く!」

「同じ答えなら」

「同じ質問でも、同じ時刻じゃない!」

 七空域の空が回る。

 青い空。

 翠の空。

 鏡の空。

 雷雲の空。

 夢灯の空。

 逆さ海の空。

 色のない終端の空。

 それぞれ別の土地で、別の人々が見上げる。

 誰も同じ景色を見ていない。

 それでも、空だけが同時に回っていた。

 ハルは動かない零星針を胸へ戻す。

 方向は示されない。

 答えもない。

 ただ、嫌な方向へ勝手に戻ろうとする管を、全員で押さえる。

 世界は再起動の姿勢へ入る。

 父は器になる準備を止めきれていない。

 息子は代わりの道をまだ持っていない。

 脱獄は終わった。

 最後の選択だけが、牢の外で始まった。