第818話 第一章「世界が羅針盤になる」後編

 空冠要塞の主軸から、重い鐘が鳴った。

 一回。

 七空域の空が一段回る。

 二回。

 地球の海が、王都の青空の下へ滑り込む。

 三回。

 ゼロスター号の保管区から、船体が何かへ衝突する音。

「船!」ロロ。

「収容区は上層」とエリア。

「いまの上は?」

「十四秒前の左上。現在は後方下」

「日本語で!」

「後ろへ降りる!」

「それは落ちるって言うんだ!」

 遠くで金属が裂けた。

 片帆の星帆船ゼロスター号が、保管鎖ごと主軸へ滑り落ちてくる。

 船は三十四巻分の傷を持っている。

 片方の主帆は継ぎ布だらけ。

 船首の星形金具は三本が別の土地の金属。

 右舷へ自由港の係留索。

 左舷へ雷鎖列車の連結具。

 甲板下へ逆潮用の圧力弁。

 客員席の周りには、過去の仲間が置いた傷と癖と生活痕が残る。

 完成した船ではない。

 完成したことにすると、誰かの修理場所が消える船だった。

「保管鎖、四本!」ロロ。「二本は空冠規格、一本は王都旧軍、一本だけ俺の!」

「一本だけ私物多いな!」ハル。

「所有権を細かくしろって流れだろ!」

「今は拾う!」エリア。

 船が主軸へ落ちれば、七空の回転歯へ噛み込む。

 空冠は止まるかもしれない。

 止まるのは機械だけで、慣性を持った空は止まらない。

 八つの空が、それぞれ別の方向へ裂ける。

 エリアが手描き地図へ線を引く。

「ハル、右の保守桁から船首へ。距離十八。途中の重力反転が一回」

「十八メートル?」

「歩数」

「俺の?」

「あなたの。いまは」

「いまは、が怖い!」

「途中で変わるから正確」

「正確な怖さだな!」

「カイル、管を」

「任せろ。期限は?」

「ハルが戻るまで」

「終了時刻になってない」とセレナ。

「四十秒」とニア。「次の復帰歯まで」

「四十秒だけ任せろ!」カイル。

「終わったら」

「誰かへ渡す!」

「誰へ」

「その時、聞く!」

 ハルは走った。

 一。

 右足を保守桁へ。

 二。

 左肩を使わず、右手で吊り鎖を取る。

 三。

 床が壁になる。

 身体が横へ落ちる。

 赤いマフラーが先に翻り、ハルはロープを腰へ回した。肩ではなく骨盤で衝撃を受ける。左肩へ痛み四。吐き気二。

 十八歩目で、ゼロスター号の船首が目前へ来る。

「ノクス!」

「ナァ!」

 黒い夜獣が先に跳んだ。

 二本の尾で別々の鎖へ触れ、片方を選ばない。匂いではなく、鎖の震えを耳で読む。

 右尾が強く振れる。

「右?」

「ノゥ!」

「違う! 左!」

「ナァ!」

「肯定?」

「本人の返事を人間語へしない!」アムナの声が遠い。

「じゃあノクス、先!」

 ノクスが左の保管鎖へ噛みつく。

 ハルはその選択を追う。

 鎖を切らない。

 留め輪を一つ外し、落下の向きを変える。

 船体が回った。

 主軸へ船首から突っ込むはずだったゼロスター号が、腹を見せて空冠の外輪へ滑る。左舷の雷鎖連結具が突起へ噛み、右舷の自由港索が伸び、片帆が地球側の湿った風を受けた。

 船は落下を、航行へ言い換えた。

 それは飛行ではない。

 墜落の速度と方向を、ぎりぎり荷物として扱える範囲へ包み直しただけである。

「止まった!」ハル。

「止まってない!」エリア。「周回へ入った!」

「落ち続けてる?」

「空冠の外側を!」

「それ、飛んでるって言わない?」

「操舵できたら!」

「できるようにする!」

 ハルは船首へ着地した。

 左肩へ重さを逃がさず、右手を甲板へつく。

 甲板の中央。

 客員席の前。

 古びた羅針盤ケースが開いている。

 第一の天鍵たる無針羅針盤〈ゼロスター〉

 七つの星座孔。

 その中央の、何も刻まれていない丸い空白。

 針は動かない。

 魔法は戻らない。

 それでも中央の空白だけが、地球の海を映していた。

【現実/空冠要塞・外輪収容区/自動復帰まで二十六分】

 ゼロスター号を拾っただけでは、船は飛べなかった。

 船を飛ばすには人が要る。

 人を乗せるには、まず人を荷物として扱う設備から外さなければならない。

 空冠外輪の収容区には、空冠要塞からの脱獄で外部退路へ移った三十三人がいた。

 正確には、いたことになっていなかった。

 収容名簿は空白。

 移送票は破棄。

 魔法停止と同時に、旧式の非常扉が「登録収容者なし」と判定し、区画を無人倉庫として封鎖したのである。

 人がいるのに、帳簿がいない。

 制度はしばしば、この順番を逆にする。

 名があるから人がいる。

 票があるから移送した。

 数字が零なら、助ける対象も零。

 零は軽い。

 だから行政は、重い現実を零へ丸めたがる。

「三十三!」

 アムナが叫ぶ。

「数えた?」セレナ。

「声二十八、壁打ち三、呼吸二。重複確認まだ」

「未確認込み三十三」

「人の数を未確認込みって言うな!」ハル。

「未確認を確定人数へ混ぜる方が危険」

「危険なのは分かるけど言い方!」

 外輪は回転していた。

 扉は床になり、床は壁になり、壁に開いた排気孔が次の瞬間には天井から人を吸い上げる穴になる。

 ハルはゼロスター号の自由港索を腰へ巻き、収容扉まで走った。

 右肩へ索。

 左肩は使わない。

 左肩を使わないために右腰へ負担が寄り、右腰を庇うと足が一歩短くなる。

 身体は、故障箇所を一つ閉じると、別の場所へ請求書を送る。

「扉、開く?」

「開く」とロロ。「ただし非常開放輪は区画内!」

「外から開かない非常扉って何!」

「脱獄防止!」

「今、脱獄後!」

「機械は章を読まねえ!」

 ノクスが扉の下縁へ鼻を寄せた。

 二本の尾が別の方向へ振れる。

 一方は人の匂い。

 一方は油と熱。

「中の開放輪、動いてる?」

「ナァ」

「誰かが回してる?」

「ノゥ」

「肯定と否定を同じ顔で――」

 扉の向こうから、三回、鉄を叩く音。

 空冠要塞の脱獄時に中央待機区へ残ると選んだ三人のうち、一人が内側の輪を回していた。

 残ることを選んだ者は、救われることを拒んだのではない。

 自分の証言と、残留者の経路を守るために残った。

 だが、残る選択は、閉じ込められ続ける同意ではない。

「外から何が必要!」ハルが叫ぶ。

 壁打ちが返る。

 三、二、三。

 旧軍の手動符号。

 外圧を三段落とし、第二留めを外し、三人で輪を押せ。

「三人?」

「人手条件」とニア。「一人で解除できないようにした物理鍵」

「今は正しい?」

「内外に人がいるなら」

「いなかったら?」

「棺」

「正しい仕組みって、条件外だと怖いな」

「条件を書かない正しさが怖い」

 ハルが右の押し棒を取る。

 カイルが左。

 中央は誰か。

 ソウジを呼べば速い。

 ハルは呼ばなかった。

 呼ばないことを罰にもしない。

「セレナ、中央お願い!」

「右手首は使わない」

「左で!」

「押力が足りない」

「じゃあ俺と位置を替える!」

「あなたの左肩」

「カイル、俺の右へ!」

「命令か」

「お願い!」

「受領!」

 三人の配置が決まるまで七秒。

 最短ではない。

 最短ではないから、誰かの古傷を前提にしない。

「一、二――」

 ハルは三の前に息を止めた。

「三」と内側から壁打ち。

 全員で押す。

 輪が一度戻る。

 カイルの肋部が鳴る。

 セレナの左腕が滑る。

 ハルの右足が空へ出る。

 ノクスが赤いマフラーを噛んだ。

「首! 首で助けないで!」

「ナァ!」

 自由港索が張る。

 ゼロスター号の片帆が地球側の風を受け、船体が半度だけ外へ逃げる。その半度で外圧が下がり、非常輪が最後まで回った。

 扉が開く。

 三十三人は一斉に飛び出さなかった。

 前の者が後ろへ聞く。

 歩けるか。

 抱えられるか。

 名前を呼ばれてよいか。

 どの出口へ行くか。

 王都へ戻りたい者。

 自由港へ行きたい者。

 まだ空冠へ残りたい者。

 行き先を決めたくない者。

「ゼロスター号へ全員!」とカイルが言いかけた。

 言葉を飲み、言い直す。

「ゼロスター号は、現在使える一つの退路だ。選択は――」

「長い!」ハル。

「お前が短くしろ!」

「船、外輪通路、中央待機区! 三つ! 今決めなくてもいい! 落ちる側から離れて!」

「短いが雑!」セレナ。

「補って!」

「ゼロスター号、定員未確定。外輪通路、次回転まで四分。中央待機区、構造安全未確認。保留者は黄色索へ!」

 色を見分けにくい者へは結び目。

 文字が読めない者へは穴数。

 名を言いたくない者は名乗らない。

 三十三人の移動が始まる。

 その最中、地球の海を映す中央空白が一度だけ大きく開いた。

 防波堤の向こう。

 紺色の配送エプロンを着た女が、空へ浮いた見知らぬ帆船を見上げている。

 黄色い腕時計を確かめ、携帯端末を耳へ当てる。

 声は届かない。

 唇だけが読めた。

 ――何時。

 ――どこ。

 ――誰が見た。

 泣いたかどうかは、遠過ぎて分からない。

 少なくとも、彼女は奇跡と呼ぶ前に時刻を記録した。

「母さん」

 ハルの足が止まる。

 黄色索へ移る途中の一人が、ハルの肩へ触れようとして、手を止めた。

「触っていい?」

「右なら」

 右肩を一度叩かれる。

「見るのは後でもできる。今は、こっちの人数が一人足りない」

「誰」

「数えた奴が、自分を数えてない」

 アムナだった。

 彼女は三十三人を数え、記録し、自分を退路人数から外していた。

「アムナ!」

「私は記録側」

「記録側は人数じゃないの?」

「そういう意味ではない」

「同じ間違いに聞こえる!」

 アムナは一拍だけ黙り、自分の腰へ黄色索を結ぶ。

「訂正。保留者、一人追加」

 人を数える制度を直す最初の仕事は、数えている者自身を例外へしないことだった。

 三十三人と、三人の残留者と、乗組員たち。

 誰も同じ目的地へは向かわない。

 それでも一度、同じ外輪を渡る。

 世界はすでに一つの羅針盤になっていた。

 だが、その針へ乗せられた人間まで、一つの北を持つ必要はなかった。

【現実/空冠要塞・最終中枢/自動復帰まで二十三分】

 ゼロスター号を外輪へ係留し、ハルとノクスが戻った時、白い受容架の表示板が開いていた。

 電光ではない。

 薄い石板が、機械仕掛けで一枚ずつ反転している。

 古星語。

 その下に、王家が後世へ追加した共通空語。

 セレナが左眼の焦点を合わせる。

 右手首を使わず、左手で記録する。

「二案」

「読んで」とハル。

「第一案。現行器アザルの全記録を破約とともに消去。集中負荷を一度無に戻し、七天鍵を再起動」

 アザルが黒い座を見る。

「僕を消す」

「記録上は」とセレナ。「身体、記憶、役割を分けていません。したがって、全て」

「死ぬ?」ハル。

「事実上」

 石板が次へ反転する。

「第二案。新受容体ソウジへ破約負荷を移送。旧器アザルを解放。基幹誓術を再起動」

「終了条件」とエリア。

「記載なし」

「撤回方法」

「記載なし」

「負荷上限」

「記載なし」

「代替器の判断能力が失われた後」

「記載なし」

「それを同意と呼ぶ?」ハル。

 ソウジが答える。

「今、同意した」

「質問が足りない」

「時間がない」

「時間がない時に永遠を決めるな」

「永遠とは書いていない」

「終わりが書いてないのを、永遠って言うんだよ」

 アザルがハルを見る。

「僕を選べば、父は残る」

「君が消える」

「千年より短い」

「比べるな」

「比べなければ、決められない」

「決めないと死ぬ人がいる」とソウジ。

「だから二人のどっちかを殺す?」

「僕は死ぬとは限らない」

「生きるとも書いてない」

 白い受容架の針が、ソウジの胸へもう一段入る。

 黒い座から、アザルの足元へ細い亀裂が走る。

 七つの空がさらに回る。

 地球の海が、空冠の真上へ来る。

 波が重力境界を越え、一滴だけ中枢へ落ちた。

 水滴は床へ落ちなかった。

 アザルとソウジの間で止まり、どちらへ落ちるか決められず、震え続ける。

 石板の最後の行が反転した。

『選択者――零星針保持者』

 ハルの名は書かれていない。

 役割だけがある。

 持っている者が決める。

 その者が誰かは、制度にとって重要ではない。

「二十三分」とニア。

「何が」とハル。

「自動接続まで。世界回転が中央負荷を上げている。早まる」

「二つから選べって?」

「表示は」

「世界は?」

 誰も答えない。

 世界は、昔から二択を好む。

 支配するか、壊すか。

 残るか、帰るか。

 救うか、見捨てるか。

 父を取るか、知らない少年を取るか。

 二択は速い。

 速いから、考えた気になれる。

 ハルは零星針の蓋を、親指で三回弾いた。

 一。

 二。

 三。

 針は動かない。

 動かない羅針盤へ、世界が命じる。

 ――どちらを北にする。

 ハルは、まだ答えなかった。