第819話 第二章「犠牲の二択」前編
記録は、残すためにある。
この言葉は半分だけ正しい。
残すことが目的なら、石へ刻めばよい。
燃えない金属へ打てばよい。
人の名を、本人が逃げられないほど深く制度へ彫ればよい。
しかし記録は、残った後に使われる。
誰が読める。
誰が訂正できる。
誰が隠せる。
誰が、残された名の代わりに話す。
人類は長く、記録されることを存在の証明と考えた。
そのため、記録する者が存在の所有者になる危険を、ずいぶん遅くまで見落とした。
アムナ・エクリプスは、忘れられた者の名前を覚える。
だからこそ、自分の記憶を最後の台帳にしない。
【現実/ゼロスター号・客員席前/自動接続まで二十一分】
アムナは二枚の紙を並べた。
左。
『第一案
対象:アザル
処理:現行器の全消去
利益:中央負荷の一時初期化、七天鍵再起動見込み
損失:身体、記憶、役割、責任、被害記録の区別なく消去
終了条件:処理完了
撤回:不能』
右。
『第二案
対象:凪野ソウジ
処理:破約負荷の全移送
利益:アザル解放、七天鍵再起動見込み
損失:新受容体の身体、記憶、判断能力、寿命
終了条件:未記載
撤回:未記載』
中央。
空白。
紙が足りないのではない。
まだ書いてよい答えがない。
「書かないの」とハル。
「書けない」
「同じ?」
「違う。書かないは選択。書けないは能力か情報の不足」
「今は」
「両方」
「器用に不器用だな」
「褒めてない」
「半分」
アムナは炭筆を置いた。
右の薬指を左手で押す。感覚は薄い。いつもの薄さ。
ゼロスター号は空冠の外輪を落ち続けていた。
周回航行と呼ぶには操舵が足りず、墜落と呼ぶには同じ場所へ戻ってくる。
甲板の重力が一周ごとに九十度ずつ変わるので、全員は客員席と主檣を結ぶ索へ身体をつないでいる。
ロロが船底から叫ぶ。
「右舷圧、三割! 片帆の継ぎ目二本切れ! あと保管料を請求されるなら、空冠へ逆に保管損害を請求する!」
「生きてから」とセレナ。
「生きてるから請求してんだ!」
「請求先の法主体が未確定」
「じゃあ確定させるまで利息!」
「利率の根拠」
「俺の気分!」
「却下」
「世界が終わりそうでも厳しい!」
人は、自分の人生の途中でしか生きられない。後世の歴史家だけが、あの日を一つの終端として記す。
アムナは八枚の航路札を、甲板へ円形に置いた。
七枚が鳴る。
一枚は沈黙している。
「何をする」とソウジ。
「比べる」
「時間がない」
「時間がない記録を比べる」
「過去の危機は条件が違う」
「違う条件で、同じ壊れ方をした」
ソウジが黙る。
アムナは最初の札へ指を置く。
学院の白い規則札。
ティア・グランツが残した一枚。
札の穴へ風が通る。
音ではなく、一定間隔の振動が紙へ移る。
七拍限定の臨時権限。
一人の指揮が七拍で失効し、一拍の空白後に別の者へ渡る。
死亡脚本を解いた時に試され、七空域の封鎖を止める際にも使われた仕組み。
成功した。
そして、問題も起きた。
引継ぎの一拍で担架が止まった。
空白拍を責任逃れへ使う者が出た。
影響を受ける生徒が規則改訂へ参加できなければ、権限を短くしただけで命令者は変わらない。
アムナは左の紙の下へ書く。
『集中点:一人の指揮官
故障:終了しない権限、異議不在』
二枚目。
自由港の黒い契約札。
ミラは契約を守った。
契約外の者を救うため、別の無署名救難路を作った。
成功した。
だが、費用を見えなくすれば、救助者の無償労働と港の赤字が一人へ集まる。
払えない者を犯罪者にしないことと、費用が存在しないことは違う。
『集中点:契約を持つ港主/費用を抱える救助者
故障:非参加者の排除、見えない負担』
三枚目。
王獣の骨片を編んだ札。
ガンガは七群れの鼓動を聞いた。
大きい拍だけを群れの総意としなかった。
成功した。
しかし、決めない時間を無期限にすれば、水場は乾く。
沈黙を賛成へ数えないことと、沈黙へ永遠の拒否権を与えることは違う。
『集中点:多数拍/聞き手
故障:少数の消去、決定停止』
四枚目。
鏡片の縁に白い塗料。
ユノは幻像へ確度を表示した。
成功した。
だが、白い縁、中央配置、明るさ、美しい音楽は、真実と書かなくても人を誘導した。
表示する者が情報の額縁を独占すれば、嘘をつかなくても選択を奪える。
『集中点:表示者
故障:真実の顔をした誘導』
五枚目。
穴の多い切符。
イヴァは乗客へ目的地を選ばせた。
成功した。
しかし意識のない患者、読み書きできない者、決められないほど疲れた者へ、選択だけを返せば放置になる。
代理判断を一人へ集めれば、再び監獄になる。
『集中点:中央管制/代理決定者
故障:行き先の上書き、選べない者の遺棄』
六枚目。
焦げた紙灯籠の芯。
ソムナは夢から目覚める権利を守った。
成功した。
だが治療拒否を一度記録しただけで永久に固定すれば、本人が後から選び直せない。
逆に、治療者が「今は判断できない」と決め続ければ、拒否は消える。
『集中点:治療者/一回の同意記録
故障:拒否の無効化、選択の固定』
七枚目。
工具傷のある三孔札。
ニアは切断を一人で決めないため、住民、技術者、記録者の三鍵へ分けた。
成功した。
だが三者の一人が不在なら救命切断が遅れる。
鍵を持つ者の身元を非公開にすれば、不正を隠せる。
公開すれば脅迫される。
『集中点:単独執行者/三鍵保持者
故障:速過ぎる犠牲、遅過ぎる救命』
八枚目。
何も書かれていない黒い札。
アムナ自身。
名前を一人で覚えた。
混同した。
橋上の住民を危険へさらした。
記録を分けた。
分けた先が焼ければ、今度は誰も全体を知らない。
『集中点:最後の記憶者/中央台帳
故障:所有、消去、断片化』
アムナは八つの記録を並べた。
「全部、一人が悪かったわけじゃない」とハル。
「うん」
「正しいことをした人もいる」
「うん」
「じゃあ」
「正しいことを、一人へ集めた場所が壊れた」
ソウジが船縁へ目を向ける。
外では八つの空が回っている。
「だから分散する、と?」
「まだ書いてない」
「結論は見える」
「見える結論ほど、書く前に疑う」
「分散にも集中点は生まれる」
「うん」
「遅れる」
「うん」
「責任が曖昧になる」
「うん」
「なら、今の二案の方が」
「今の二案は、分かりやすいだけ」
アムナは二枚の紙を重ねた。
アザル。
ソウジ。
名前の場所だけが違う。
処理欄を透かす。
『一人へ全破約を集中』
『一人へ全破約を集中』
同じ文。
「二択じゃない」とアムナ。
甲板の全員が彼女を見る。
「同じ制度。器の名だけ違う」
「第一案は消去だ」とソウジ。
「移す前に、今の器を消す。第二案は、消さずに次へ移す。破約は一人へ、は同じ」
「しかし、受容体がなければ」
「その前提を、誰が書いた」
「基幹誓文だ」
「最初から?」
ソウジは答えない。
アザルが黒い座の傍らで、膝を抱える。
「最初は、違った」
声が低い。
静か。
長く声を出すと、喉が他人の記憶へ引かれるように震える。
「知ってる?」アムナ。
「身体が知っている。記憶は、後から入れられたものと混ざる」
「分けて」
「分けられない」
「分けられない、と記録する」
アザルは一度、目を閉じた。
「古い声。七つ。『私へ』『私へ』『私へ』。中央へは、『余ったものを置け』ではなく――」
そこで呼吸が止まる。
黒い座の亀裂から、細い黒煙が上がった。
煙は言葉の形になろうとして、崩れる。
帰る。
守る。
払う。
待つ。
許す。
破られた約束の断片。
ノクスが低く唸る。
二本の尾を別方向へ立てるが、魔法の匂いは追えない。
「無理しなくていい」とハル。
「今は答えなくていい」とソムナの航路札が、一拍遅れて鳴るような錯覚がした。
アザルは首を振る。
「今、言いたい。後で言える保証がないから」
「保証を理由に急がせない」とアムナ。「でも、今を止めない」
「最初は、『余ったものを空へ返せ』」
全員が黙った。
「空へ」とエリア。
「一人へ、ではない?」
「たぶん」
「たぶんを事実にしない」とセレナ。
「本人記憶。由来未確認」とアムナ。
セレナが同じ文を別の筆跡で記す。
同じ事実を一冊へ集めない。
同じ誤りを二冊へ増やす危険もある。
だから互いに違う欄を持つ。