第820話 第二章「犠牲の二択」後編

 ゼロスター号の船底から、ロロの声がした。

「古い機械声、拾った!」

「どこ」とニア。

「主軸と船の連結具! 音じゃなく歯車の刻み! 七、七、七、八、七!」

「異常」

「八が一個あるから?」

「七空域の機関なら七拍が基本」

「じゃあ八は異物?」

「未確定」

「便利な言葉だな、未確定!」

「誤確定より安い」

「姉ちゃんが会計覚えた!」

 ロロが甲板へ這い上がってくる。

 一基だけの補助腕が、錆びた薄板を持っていた。

 板には古星語の溝。

 摩耗しているが、王家の追刻より古い。

 セレナが単眼鏡を寄せる。

 左眼の焦点差が強くなり、眉間へ皺が寄った。

「読める範囲だけ」

「うん」とハル。

「『七心……応答……各地……余剰……空……』」

「一人、は?」

「見える範囲にない」

「裏」とニア。

「触覚ないのに分かる?」

「板厚が片側だけ違う」

 ロロが裏返す。

 後世の追刻。

『破約、中央へ集めよ。

 受容体一。

 証人一。

 最終決定一。』

 刻みの深さが違う。

 字体も違う。

 古い七拍の歯へ、後から一つの大きな歯を足した痕がある。

「戦争の改修」とソウジ。「第八証言で見た」

「いつの」とハル。

「空白戦争中期。複数地点の応答では間に合わず、王家が中央受容体を」

「アザルへ」

「そうだ」

「知ってた?」

「構造は。個人名は、最近まで」

「知ってた範囲を小さく言う癖、やめろ」

「……中央受容体の制度が、一人へ長期負荷を強いる可能性は知っていた」

「可能性?」

「確定資料が」

「人が座ってる」

 ハルの声が低くなる。

「資料が足りないって言ってる間、アザルは千年座ってた」

「僕が始めた制度ではない」

「続けようとした」

「世界を止めないために」

「それ、始めた人も言ったんじゃない?」

 ソウジは返せない。

 ハルは怒っている。

 父を失いたくないから。

 アザルを知らないまま消したくないから。

 自分が選択者と呼ばれたから。

 そして、怒りだけで第三案が作れない自分へ。

 その全部を一つの正義にしない。

「俺、ソウジを助けたい」

 はっきり言った。

「うん」とアムナ。

「アザルも消したくない」

「うん」

「だから第三案を探す、でいい?」

「理由としては」

「制度の証明には足りない?」

「足りない。でも、隠さなくていい」

「私情」とソウジ。

「私情だよ。父親が死ぬの嫌だ。君が死ぬのも嫌だ。嫌だから探す。見つけた案が他の人を殺すなら、嫌だけじゃ通さない」

 アザルが聞く。

「僕が、自分を消すことへ同意したら?」

「今の君は、消さないと世界が壊れるって脅されてる」

「脅しているのは世界?」

「制度」

「制度は人ではない」

「人が作って、人が直さないまま使ったもの」

「では、誰を責める」

「順番に調べる。今、君を消して調査対象ごと消さない」

 アザルは、不思議そうにハルを見た。

「責任を残すために、生かす?」

「生きる理由が責任だけだと嫌だけど」

「僕には、他の理由が分からない」

「寝たいとか」

「眠ると、他人の破った約束を見る」

「じゃあ、夢を見ない昼寝」

「そんなものがある?」

「ソムナに聞く」

 答えを持っている人物へ丸投げしない。

 聞くことと、治せることは違う。

 それでも、次の質問があることは、今の二択より多い。

【現実/ゼロスター号・臨時検証台/自動接続まで十七分】

 二つの案は、文章では違っていた。

 文章が違うものを、人は別の案だと思う。

 その習慣は、役所にも法廷にも恋文にも使える。

 しかし機械は、題名を読まない。

 ロロは白い石板を二枚とも外し、裏面を上へした。

「待って」とセレナ。「原状記録」

「今、あと十七分!」

「だから。戻せなければ、どこを変えたか証明できない」

「世界が壊れたら証明相手がいねえ!」

「生き残った者が、壊した理由を好きに書く」

「……三十秒だけ待つ」

「二十二秒」

「早い!」

 セレナは左手で板の縁、螺子位置、欠け、油染みを写し取った。

 アムナは公開用の文面を別紙へ、未公開の個人名を封印紙へ分ける。

 同じ記録を二人で重複させない。

 違う失敗をするために、違う欄を持つ。

 ロロが石板を裏返す。

 第一案の裏には、三本の差し込み歯。

 第二案の裏にも、三本の差し込み歯。

 長さ。

 摩耗。

 油。

 同じ。

「対象名の札だけ交換式」とニア。

 彼女は触れない指を板へ近づけ、影の幅を見る。

「処理命令は同一。入力対象を消去側へ置くか、受容側へ置くかだけ」

「二案じゃない?」ハル。

「一工程、二つの挿入口」とロロ。「台所で言えば、肉を挽くか、手を挽くか選べって機械」

「台所から離れて」エリア。

「分かりやすいだろ!」

 ノクスが二枚の裏を嗅ぐ。

 右の札。

 左の札。

 鼻を離し、同じ場所を前足で掻く。

「同じ匂い?」ハル。

「ナァ」

「樹脂」とセレナ。「対象名札だけ新しい。手順板は千年前」

 ソウジが言う。

「代替器案は、私が空冠へ入った後に生成された」

「じゃあ二枚目の新しい部分、どこ」

「名前」

「名前だけ?」

「身体適合値も」

「それはどこへ書いてある」

「内部計算」

「見せられる?」

「現状では」

「見せられない数字で、人を器にするな」

 ハルは二枚の板を並べ直した。

 アザルの名。

 ソウジの名。

 その名札を、ロロが外す。

 下から出てきたのは、人名ではなかった。

『受容体候補一』

 もう一枚も。

『受容体候補一』

「両方、一?」アムナ。

「同時には使えない」とニア。「中央歯が一つ」

「どっちを選んでも、一人にする」

 ハルの声へ、怒りより寒さが混じる。

 制度はアザルを選んでいない。

 ソウジも選んでいない。

 空いている一人分の穴へ、適合する身体を入れようとしている。

 千年の被害者と、十五年秘密を抱えた父。

 人物としては違う。

 機械にとっては交換部品でしかない。

「過去記録」とアムナ。

 彼女は客員席の下から、八冊の薄い束を出した。

 旅のたびに一冊ではない。

 一つの事件でも、事実、生活、本人希望、費用、未確認を別々に残した束。

「中央集中が故障源になった事例を、名前でなく構造で並べる」

 第一。

 月冠祭。王家へ集中した星脈炉の負担。

 第二。

 学院試験。全員へ同じ入口と同じ時刻を与え、公平と呼んだ採点。

 第三。

 翼亀図書館。十三番書架へ事故記録を集め、その書架ごと存在しないことにした管理。

 第四。

 自由港。重量負担先を上層金庫へ集め、下層船へ見えない重さを移した量札。

 第五。

 王獣祭。最も大きな鼓動を群れ全体の意志とした王位制度。

 第六。

 鏡砂王家。記憶を中央庫へ預け、本人の現在の同意より役割を優先した保護契約。

 第七。

 雷鎖。全列車の目的地を中央時刻表が上書きした運行網。

 第八。

 夢灯。町全体の悲しみを一人の夢葬師へ集めた治療網。

 第九。

 逆潮。切断判断を一人の最短計算へ集めた非常手順。

 第十。

 終端。公的名と生活権を一つの中央台帳へ束ね、名を消せば人まで消える制度。

「十」とカイル。「八冊では」

「冊数と事例数を同じにしない」

「数字の気持ちが悪い」

「数字に気持ちはない」

「では私の気持ちが悪い」

「本人感情欄へ」

「書くな!」

 軽口の間にも、空は回る。

 アムナは十例の共通欄へ印を付けた。

『速い』

『管理しやすい』

『責任者が一人』

『例外を遅延と呼ぶ』

『負担が見えにくい』

『壊れた時、全体が止まる』

「一人に集めること自体が、いつでも悪?」ソウジ。

「いいえ」とセレナ。「手術の執刀、船の瞬間操舵、火災時の閉鎖弁。短時間の集中が必要な場合はある」

「では二案も」

「終了時刻、上限、監査、撤回、交代、事後責任がない」

「今から付ける時間は」

「一人を器にする工程へ付けても、器化そのものの不可逆性を消せない」

 ソウジは黙る。

 アザルが、外された名札を指でなぞった。

「僕の名は、後から付けた?」

「制度上の対象名は」とアムナ。「個人名の由来は別」

「空白王は役割」

「本人の名前ではない可能性が高い」

「では、アザルは」

「第八証言で復元した呼称。あなたが今、それで呼ばれることへ同意している」

「同意しなくなったら」

「変える」

「千年前の人が、僕を別の名で呼んでいたら」

「その記録が見つかっても、今のあなたへ自動で上書きしない」

「記録は真実では」

「過去の事実。現在の所有権ではない」

 アザルは名札を裏返した。

 裏には何もない。

「何もない方が、少し楽」

「空白へ固定しない」とアムナ。

「空白も役割になる?」

「なる。だから、後で聞く」

 ハルは父の名札も拾った。

「ソウジ」

「何」

「これ、君が入れた?」

「自動照合が」

「自動に自分の身体情報を渡した?」

「十五年前から一部は登録されている」

「何のため」

「境界測量の緊急接続」

「終了条件」

「当時の規定では、任務完了」

「任務完了を誰が決める」

「測量責任者」

「君じゃん」

「……そうだ」

「自分で終わらせる仕事を終わらせないまま、家へ連絡しなかった」

「うん」

「それを今、世界規模でやろうとした」

「うん」

 ソウジは言い訳をしない。

 言い訳をしないことも、償いではない。

 ハルは名札を本人へ返さず、検証台へ置いた。

「君の名前だからって、君だけで用途を決めない」

「私の身体だ」

「身体は君の。制度へ接続する影響は、君だけじゃない」

「本人の自己決定を制限する」

「制限する。期限付きで。俺一人じゃなく、医療と当事者と記録で」

「君は、私を助けたいから」

「そうだよ」

「それは偏りだ」

「知ってる。だから偏りを隠さない。隠さず、決定権を独占しない」

 アムナは中央の紙へ追記する。

『二案の相違――対象者。

 二案の共通――手順、中央歯、不可逆性、一人化。

 感情――ハルはソウジを救いたい。

 感情の扱い――排除しない。単独根拠にしない。』

「俺の気持ち、そこまで書く?」

「本人発言」

「非公開?」

「公開範囲を選んで」

「今は、船内」

「期限」

「事件後に聞き直す」

「採用」

 二つの名札を外した時、二案は裸になった。

 どちらを選ぶかという問題ではない。

 一人しか入れない機械を、なぜ世界の中心に残したのか。

 その問いへ変わった。

【現実/ゼロスター号・機関室/自動接続まで十五分】

 零星針は、機関室の床へ固定されていた。

 ハルの胸にあったはずの小さな方位具が、いつ移ったのではない。

 船の中央機関と同じ形をしていたのだ。

 手の中のケースは鍵。

 船の機関は錠。

 空冠の主軸は、その錠を無理に回そうとする巨大な手だった。

 エリアが七枚の透明紙を重ねる。

 各空域の天鍵位置。

 現在の空の回転角。

 中央負荷の増加。

 ソウジとアザルの受容線。

「二案の共通点」とアムナ。

「中央へ全線を集める」とエリア。

「過去の故障記録」

「同じ。規模は違う」

「では、第三案の条件」

 セレナが列挙する。

「一人へ全負荷を集めない」

「分けるだけで責任を消さない」とカイル。

「当事者が後から変更を求められる」とアムナ。

「止める手段が物理的に存在する」とニア。

「費用と損失を見えなくしない」とロロ。

「選ばない時間を残す」とエリア。

「それでも、救命期限はある」とソウジ。

「本人が決められない時の条件」とハル。

「記録しない権利」とアムナ。

「記録しないことを使った隠蔽への監査」とセレナ。

「多い」とカイル。

「世界の条件が少な過ぎた」とエリア。

 ハルがケースを機関中央へ置く。

 七つの星座孔は暗い。

 中央の丸い空白。

「これ、何だと思う」とハル。

「欠けた第八の天鍵ではない」とセレナ。

「根拠」

「鍵なら所有者、誓文、機能名のいずれかが刻まれる。中央だけない」

「古過ぎて消えた?」

「摩耗なら縁が残る」とロロ。「ここ、最初から彫ってない。穴でもない。丸く空けてある」

「空けてある」とアムナ。

 欠けているのではない。

 空けている。

 誰かが入れ忘れたのではなく、誰も入らないための形。

 ハルが親指で中央へ触れた。

 冷たい。

 次の瞬間、八枚の航路札が同時に跳ねた。

 七枚は、それぞれの色で光ろうとして、魔法停止に阻まれ、ただ熱を持つ。

 八枚目の黒札だけが、熱を持たない。

 零星針中央の空白に、黒札と同じ大きさの浅い輪が浮いた。

 針は出ない。

 方角も示さない。

 代わりに、空白の縁が一度だけ開き、細い紙片を吐き出した。

 古い。

 子供の手でも破れそうな薄紙。

 古星語と、後世の共通空語。

 アムナが読む。

「『中央席』」

 次の文字。

「『所有者――なし』」

 その次。

「『参加条件――後記』」

 最後。

「『離脱条件――先記』」

「参加より、離脱を先に書く?」ハル。

 オルドの声が、船の骨組みから聞こえた。

 一人の声ではない。

 子ども、老人、男、女、低い唸り。

 七つの遠い場所から、同じ文の違う部分が届く。

『結ぶ前に』

『離れる道を』

『示せ』

 ノクスが耳を伏せる。

 オルドの声へ近づかない。

 声はノクスを呼ばない。

 戻れとも、分身とも言わない。

 中央の空白が、もう一度だけ脈打った。

 アムナは中央の紙へ、初めて一行を書く。

『第三案の入口――所有されない空席』

 結論ではない。

 入口。

 世界が二択を示した時、最初に探すべきものは正解ではない。

 誰が、選択肢を二つにしたかである。