第827話 第六章「途中駅と夜明け診療所」前編

列車も治療も、返事を待ち切れない時がある。

 だからこそ、急いで動かした手が、その人の最終行き先まで握らない仕組みが要った。

【雷鎖環/公共救難線・第九連結車/空の回転開始から四十二分】

「次は――未定」

 テト・ヴァンの案内放送が、変声期の途中で裏返った。

 車内にいる四十八人は笑わない。

 笑う余裕がないからではない。

 「未定」が冗談ではないと分かっているからだ。

 列車は雷雲の中を走っていた。

 線路は千本の鎖。

 鎖は本来、地域ごとに別の小網へ分かれた。

 ところが空の回転が始まると、旧中央時刻表が復帰し、全車両の終点を一つへ書き換えた。

 中央医療駅。

 名前だけなら安全そうである。

 実際には医療駅の受入れ能力は百二十床。

 現在向かっている救難車両は十九編成。

 収容者は七百人を超える。

 一つの安全地帯へ全員を集めれば、安全地帯から先に壊れる。

「中央命令、再受信!」テト。

 古い打刻機が紙帯を吐く。

『全車両、中央医療駅へ直行。

 途中停車禁止。

 離脱車両は救難妨害として拘束。』

「目的地を中央へ上書き」とイヴァ・レイル。

 銀の車掌帽。

 電光色の青い長三つ編み。

 左耳の聴力は弱く、右手は細かく震える。

 心拍が一度抜けるたび、彼女は切符鋏の柄を左手へ持ち替える。

「破棄します」

「破棄すると、全信号が赤です」とテト。

「赤でも止まれます」

「雷雲の中で?」

「止まる場所を作ります」

「線路がない」

「列車が線路を作るのではありません。止まった場所を駅にします」

「車掌っぽい無茶!」

「見習い車掌。放送」

 テトは深呼吸する。

「次は――行き先を保留する臨時駅〈ホールド・プラット〉。停車時間、未定。降りる、残る、別車両へ移る、まだ決めないを選べます。なお、現在ホームはありません!」

「最後は言わなくていい」

「嘘は言えない!」

「正確です」

 イヴァは車内を歩く。

 四十八人。

 うち歩行可能二十七。

 担架九。

 意識不明五。

 夢灯環から避難した長期睡眠者七。

 どこへ行きたいかを、全員へ同じ方法で聞けない。

 読み書きできる者には切符。

 話せる者には口頭。

 手を動かせる者には穴板。

 どれも難しい者には、視線と呼吸。

 意識のない者には――。

「中央医療駅」とサナ・ホルム。

 救護衣の袖を肘までまくり、両手指の古傷を固定帯で締めている。

「意識不明五名は、設備のある駅へ」

「本人の希望は」とイヴァ。

「確認不能」

「家族」

「二名は不明。三名は別車両」

「過去の医療登録」

「中央医療駅を拒否した記録が一名」

「なら、その一名は」

「今は脳圧が上がっている。設備なしでは死ぬ」

「拒否を無視する?」

「選べる状態に戻してから選ばせる」

「そのために、拒否した場所へ運ぶ」

「そうなる」

「期限」

「処置開始から三十秒ごとに再評価。意識回復後、即時撤回可能」

「記録用途」

「治療のみ」

「警備へ渡さない?」

「渡さない」

「中央駅が要求したら」

「医師として拒否」

「医師一人の権限になる」

「今は私が持つしかない」

「今は、を終わらせる条件」

 サナが睨む。

「患者が選べる状態へ戻った時」

「判断するのも医師」

「では、別の医療者と乗客代表」

「患者本人が代表を拒否したら」

「拒否する」

「話が遅い!」後方から声。

 担架の男が痙攣する。

 サナは迷わず膝をつく。

「三十秒だけ私にくれ!」

 脈止めの誓星術は使えない。

 普通の指で頸部を測り、気道を確保し、手動弁を押す。

「イヴァ、行き先を!」

「中央医療駅以外に設備は」

「第三工場駅に圧力室。第六農駅に外科台。一つずつしかない」

「分ける」

「五人を?」

「設備と状態で」

「家族が離れる!」

「家族の選択も聞く」

「聞く間に死ぬ!」

「だから暫定。期限付き」

 イヴァは車両図へ五つの穴を開ける。

 地域ごとに条件を刻む切符〈スプリット・パス〉

 一人ずつ、目的地、保留、途中離脱、代理判断、再確認時刻を別に刻む。

 同じ車両にいるから、同じ終点ではない。

「一番。中央医療駅。脳圧処置のみ。記録用途、治療。意識回復時に継続確認。二番、第三工場駅。呼吸補助。三番――」

「車両を分ける連結器が足りない」とテト。

「列車を分けない」

「じゃあどうやって別駅へ」

「駅を動かす」

「車掌っぽい無茶、二回目!」

 雷鎖環の自治車両は、互いに連結し、必要な場所へ設備を運べる。

 中央命令が全車を一列へ固定したため、今はその機能が止まっている。

 イヴァは外部信号へ、目的地ではなく条件を送る。

『圧力室一。

 外科台一。

 睡眠者用覚醒室一。

 現在列車へ接近可能な車両。』

 どの駅へ来い、と命じない。

 設備を持つ側が、参加、保留、拒否を返す。

 返答は三つ。

 第三工場駅の圧力車。

 農駅の外科車。

 夢灯側の紙壁車。

 中央時刻表は、三車を「逸脱」と表示した。

「逸脱車、砲撃対象!」テト。

「放送」

「次は――砲撃です!」

「それは案内ではない」

「事実!」

「では、避難案内も」

「次は、床下! 停車しません!」

 雷光が車窓を白く塗る。

 中央信号塔の投索砲が、圧力車へ向く。

 イヴァは右手で鋏を持とうとし、震えで落とす。

 左手へ持ち替える。

「切ります」

「何を」とテト。

「中央終点の穴」

 十九編成すべてに同じ終点を刻んだ主切符。

 切れば、信号上は列車が存在しなくなる。

 存在しなければ砲は照準を失う。

 同時に、全自動保護も失う。

「戻せます?」テト。

「戻せません」

「じゃあ」

「私一人では切らない」

 イヴァは鋏をサナへ差し出す。

「医療」

 次にテト。

「運行」

 次に、乗客の一人。

「利用者」

 三者が同じ柄へ手を置く。

「嫌なら」とイヴァ。

 乗客は言う。

「怖い」

「賛成ではなく?」

「怖い。でも中央へ全員行くのも嫌だ」

「保留?」

「今は、切る」

「後で撤回できない」

「だから今の責任を、一人のせいにしない」

 三人で鋏を閉じる。

 主切符の終点穴が消える。

 列車が、時刻表から外れた。

 砲口が迷う。

 その一秒で、圧力車、外科車、紙壁車が別方向から接近する。

「連結!」テト。

「同じ速度へそろえない」とイヴァ。

「どうやって!」

「接触時刻だけ合わせる!」

 ガンガたちが使った方法。

 異なる歩調の群れを一つへそろえず、交差時刻だけを共有する。

 列車三台。

 速度、重量、雷耐性が違う。

 イヴァは中央から命令しない。

 各車へ、現在速度と接触可能幅だけを送る。

 返ってくる三つの時刻。

「次は――一秒、二秒、五秒!」テト。

「駅名ではない」

「今は時間が駅!」

 第一接触。

 圧力車が左側へ並ぶ。

 床板を渡す。

 第二接触。

 外科車が上へ来る。

 空が回転し、天井のハッチがホームになる。

 第五接触。

 紙壁車が後方へつく。

 中央へ行く一本の列車は、三つの移動駅へ変わった。

【夢灯環/夜明け診療所・常設棟/同時刻】

「起こすべきです」

 ソムナ・リルは言った。

 薄い青緑の寝癖髪。

 薄紫の瞳。

 声は柔らかく、一拍遅い。

「全員?」メイ・カフ。

「全員へ、起きるか聞くために」

「聞ける状態まで起こすこと自体を拒否していた患者がいる」

「うん」

「起こさないと、町の強制睡眠へ巻き込まれる」

「うん」

「二つの『うん』が、別方向を向いている」

「別だから」

 夜明け診療所の常設棟は、紙灯籠獣の事件後に作られた。

 夢治療を受ける者。

 受けない者。

 途中でやめる者。

 現実の身体治療だけを受ける者。

 入口を分けた。

 だが空の回転が始まり、夢灯籠の旧中央規則が戻った。

『全住民、危機回避夢へ接続。

 拒否記録は非常時失効。

 覚醒は治療妨害。』

 診療所の患者十二名が、本人の選択と無関係に同じ夢へ引かれ始めている。

 ソムナの誓星術は止まっている。

 夢へ入れない。

 本人の心を直接確かめられない。

 あるのは、紙の同意記録。

 紙の拒否記録。

 そして、紙の外で人が変わった可能性。

 アサ・ノーンが出口へ少し向けた椅子へ座っている。

 長期夢療を中断した十八歳。

 杖を膝へ置き、長い沈黙の後で言う。

「昔の拒否を、今の拒否にしないで」

「では今」とソムナ。

「まだ」

「うん」

「うんで終わらないで」

「次に聞く時刻」

「十分後」

「眠ったら」

「メイ先生とソムナ、二人で身体を守る。夢へは入れない。私の昔の記録を、家族へ渡さない」

「用途、治療だけ」とメイ。

「治療という言葉を広げない」

「身体維持だけ」

「それなら」

「同意?」ソムナ。

「今は、反対しない」

「賛成にしない」

「うん」

「それも記録して」

 ソムナは紙へ書く。

『現在:反対しない。

 同意ではない。

 十分後に再確認。

 本人判断不能時:身体維持のみ。

 夢内容の閲覧、共有、学習利用、家族提供を禁止。

 覚醒後、全記録の訂正・封印・削除を選択可能。』

「長い」とアサ。

「短くする?」

「しない」

 患者が運営へ持つ拒否権〈ペイシェント・キー〉

 治療を拒む鍵ではない。

 診療所の運営、記録利用、代理判断へ、患者が止める権利を持つ仕組み。

 ただし、鍵を一度回せば永久に閉じるのではない。

 開ける、閉じる、半分にする、他の人へ預ける、取り戻す。

 メイが帳簿をめくる。

「問題。意識不明の新規患者三名は、患者鍵を作っていない」

「代理」とソムナ。

「誰が」

「治療者だけにしない」

「家族がいない」

「別の患者?」

「利益相反」

「地域の記録者」

「到着まで十五分」

「強制夢への接続は五分」

「では、身体維持に必要な最小処置だけ。五分で失効。二名の治療者が記録。覚醒後に本人へ通知。拒否なら、利用記録を削除して補償」

「削除すると監査できない」

 アムナの第八原則が、まだ届く前から問題になる。

「本人記録と監査記録を分ける」とメイ。「監査には内容を残さず、処置時刻、担当、用途、失効時刻だけ」

「うん」

「ソムナ」

「何」

「君は、自分を代理者に入れないで」

「どうして」

「全員を起こす誓いを、まだ手放せていない」

 ソムナの顔から、眠たげな柔らかさが一瞬消える。

「手放した」

「灯籠巨人の時に、言葉は撤回した。身体は、まだ全員の寝息を数えている」

「数えるのは」

「治療?」

「……安心」

「君の安心のため、患者を起こさないで」

 正しい治療者ほど、自分の恐怖を患者の利益へ言い換える。

 ソムナは唇を閉じる。

「今は答えなくていい」とアサ。

 彼が何度も他人へ言った言葉を返す。

「でも、五分後には手伝って」

「うん」

「それは同意?」

「今、手伝う」

「範囲」

「身体維持。夢へ入らない。記録を見ない。五分後、交代」

「よし」