第828話 第六章「途中駅と夜明け診療所」後編

 強制睡眠が診療所へ来た。

 紙灯籠の芯が、一斉に青くなる。

 魔法はないはずなのに、旧設備へ蓄えられた夢記録が機械式の香気として噴き出す。

 甘い。

 古い紙。

 濡れた花。

 眠れ、と命じる匂い。

「窓!」メイ。

「開けると外の夢霧!」職員。

「換気路を分ける!」

 ソムナは床へ伏せ、患者の呼吸を数える。

 一人。

 二人。

 三人。

 数えることへ夢中になると、名前が消える。

「名前で」とアサ。

 ソムナが顔を上げる。

「アサ」

「うん」

「メイ」

「うん」

「ボウ」

 夢治療を受けないまま診療所へ関わる職人が、仮設換気筒を抱えて返事をする。

「いる。治されてない。働いてる」

「それ、自己紹介?」

「今日の状態」

 患者を状態だけで呼ばない。

 名前だけで状態を消さない。

 夢霧が濃くなる。

 アサの瞼が落ちる。

「まだ」とアサ。

「何を」

「眠るか、決めてない」

「眠気は来てる」

「身体は勝手」

「身体を支える」

「夢は見ない」

「入らない」

 ソムナはアサの手を取らない。

 触れてよいか、聞く。

「手首、支えていい?」

「左だけ」

「左だけ」

 復唱。

 メイが換気弁を回す。

 ボウが紙壁を破り、現実の冷気を入れる。

 夢霧は完全には消えない。

 意識を失った三人へ、五分の最小処置。

 処置札へ終了時刻。

 患者鍵の仮預かりは、ソムナとメイの二人。

 五分後、必ず失効。

 五分は短い。

 短いから、安全ではない。

 短い権限でも、五分の間に人を傷つけられる。

 だから記録と異議と補償が要る。

 五分が終わる。

「交代」とメイ。

 ソムナは一人目の呼吸から手を離す。

 離すのが遅れそうになる。

 アサが、杖の先で彼の靴を叩く。

「終わり」

「まだ呼吸が」

「次の人がいる」

「信じる?」

「信じるんじゃない。渡す」

 ソムナは離す。

 別の治療者が入る。

 ソムナ一人が全員を起こさない。

 列車と診療所の問題は、別々には終わらなかった。

 紙壁車へ移した長期睡眠者の一人が、接触三十秒後に目を開けた。

 白髪の女。

 左腕へ古い火傷。

 中央医療駅拒否の記録を持つ患者だった。

「ここ、どこ」

「公共救難線。現在、中央線から離脱中」とサナ。

「中央へ行く?」

「脳圧処置のため、中央医療駅を暫定目的地にしました。本人判断不能時の代理。用途は治療のみ」

「行かない」

 即答。

 サナは説明を続けようとして、止まる。

「現在の拒否を確認します。中央医療駅で三分の処置を受ける案。拒否しますか」

「拒否」

「拒否により、死亡危険が上がります」

「知ってる」

「代替。第三工場駅の圧力室。設備は不十分。到着まで二分長い」

「そこ」

「家族は別車両」

「家族に聞かない」

「本人選択を優先します」

 イヴァが切符鋏を持つ。

 目的地穴を中央から第三工場へ変えれば、現在の連結順では二車両をまたぐ必要がある。

 患者の状態は移動へ耐えない。

「列車を工場へ寄せます」とイヴァ。

「全員?」テト。

「この車両だけ」

「切り離せない」

「工場側を寄せる」

「また駅を動かす?」

「今度は駅ではなく、圧力室だけ」

 第三工場駅から、圧力室を載せた小型整備台が発進する。

 中央時刻表には存在しない。

 速さは救難列車の半分。

「追いつけない!」

「こちらが減速する」

「後続車が衝突!」

「後続へ条件送信」

『減速理由――本人の現在拒否。

 予想遅延――九十秒。

 代替路――上鎖。

 拒否可能。』

 後続十九車両から返事が来る。

 十二は上鎖へ。

 三は減速。

 二は保留。

 一は通信不能。

 一は拒否。

「拒否車が追突する!」テト。

「拒否は、衝突してよい意味ではない」とイヴァ。

「どうする!」

「こちらが下鎖へ降りる」

「下鎖、荷重限界ぎりぎり!」

「全車両を一つの意思にするより、私たちが負担を引き受ける。ただし乗客へ聞く」

 四十八人へ、短い問い。

『九十秒の追加危険。

 目的――一名の現在拒否を守る。

 代替――中央駅へ戻す。

 反対、保留、答えられないを分ける。』

 賛成二十九。

 反対七。

 保留八。

 回答不能四。

「多数決で下鎖?」テト。

「いいえ。反対七の危険条件を聞く」

「時間!」

「三十秒」

 反対のうち四人は、下鎖の揺れで古傷が悪化する。

 二人は中央駅へ家族がいる。

 一人は理由を言わない。

 イヴァは一人の拒否を守るため、七人の拒否を踏まない。

 車両を二層へ分けられない。

 なら、床の荷重を分ける。

 ロープ寝台を上層へ吊り、古傷の四人を揺れの少ない中央へ。

 家族二人へは、中央駅との連絡切符を確保。

 理由を言わない一人は、出口へ近い席を選ぶ。

 全員の不安は消えない。

 時間も失う。

 救難線は下鎖へ降りた。

 圧力室が横から接触する。

 白髪の女は、中央医療駅へ行かず処置を受ける。

「助かったら、正しかった?」テト。

「正しかったとは記録しません」とサナ。「現在の選択と結果」

「死んだら」

「拒否した本人の責任だけにしない。代替設備が一か所へ集中していた制度、時間、私たちの代理判断も残す」

「重い」

「人の命を、本人だけへ持たせない」

 夢灯環では、ソムナが倒れた。

 強制睡眠の香気を吸い続け、床へ膝をついたのである。

「まだ患者が」と言う。

 メイが遮る。

「今は君が患者」

「判断できる」

「できる人は、視線が三度同じ灯へ戻らない」

「それは観察」

「診断ではない。だから聞く。治療を受ける?」

「患者が」

「質問へ答えて」

「……酸素だけ」

「夢記録閲覧」

「拒否」

「身体固定」

「右肩と腰。手首は触らない」

「担当」

「メイ先生。もう一人」

 アサが杖を上げる。

「私」

「患者が代理者?」

「運営鍵を持ってる。治療はしない。止める役」

「うん」

「同意?」

「今、同意」

 ソムナは横になる。

 全員を夜明けへ連れて帰ろうとした少年が、自分で歩けない時に、他人の手へ身体を渡す。

 渡すことは負けではない。

 渡した後、戻してもらえる条件があるなら。

 五分後、アサが酸素弁を閉じる。

「まだ必要」とソムナ。

「再確認」

「あと三分」

「メイ先生」

「呼吸数、改善。三分延長可」

「延長、私とメイで鍵。三分」

「採用」

 患者鍵は、患者が治療者を止めるためだけのものではない。

 治療者が患者になった時にも、同じように止められるための鍵だった。

【八拍通信/雷鎖環―夢灯環/空の回転開始から五十一分】

 イヴァの切符穴と、ソムナの紙灯籠芯が応答する。

 第五原則。

 目的地、保留、途中離脱を本人または地域が選ぶ。

 中央管制を唯一の出口にしない。

 選べない状態では代理判断を認めるが、用途、期限、再確認、撤回、補償を付ける。

 第六原則。

 夢、記憶、治療から目覚め、拒否し、利用範囲を狭められる。

 一度の同意や拒否を永久固定しない。

 治療者の恐怖を、患者の利益と呼び替えない。

「緊急時は」とサナ。

「最小処置」とメイ。

「最小を誰が決める」

「複数職種。後日、患者が異議」

「異議を言えないまま死んだら」

 通信が一拍止まる。

 死者は、後から撤回できない。

「代理者の責任を消さない」とイヴァ。

「本人が選べなかったことを、本人の選択と記録しない」とソムナ。

「正しかったと確定しない」とメイ。

「救命成功を免罪にしない」とサナ。

 四人は同じ答えへそろわない。

 そろわないまま、条件を共有する。

 天雷錨の返還手順が決まる。

 中央駅が全列車の終点を上書きしない。

 四十八の地域小網が、地域ごとに停車、保留、途中離脱を刻む。

 錨を下ろす権限は、車掌だけでなく、利用者、地域、医療へ分ける。

 緊急錨は三十秒で失効し、再使用ごとに別の鍵を要する。

 夢灯籠の返還手順が決まる。

 中央夢層へ全住民を集めない。

 患者組合、治療者、記録者が別々の紙芯を持つ。

 眠る、起きる、治療を受ける、受けない、途中でやめる、記録利用を狭める。

 代理点灯は短時間で消え、本人が起きた後に選び直す。

 雷鎖環の空で、十九編成の終点表示が消える。

 代わりに、地域ごとの小さな停車灯が点く。

 夢灯環では、中央の青い灯が一つ消える。

 診療所ごとの手動灯が、ばらばらの時刻に点く。

 空冠の地図へ、第五と第六の線が入る。

「六つ分」とハル。

「六つ分」とエリア。

「もう訂正しない?」

「学習した」

「俺が?」

「私が」

「二人ってことにしよう」

「勝手に共同成果へしない」

「厳しい!」

 行き先と治療。

 どちらも、選択肢を渡せば終わる問題ではない。

 選べる状態を作り、選べない時間の代理を短くし、後で選び直せるようにする。

 列車は終点を失った。

 患者は治療者の物語を降りた。

 それでも、どちらも途中で止まってはいない。