第829話 第七章「三つの鍵と空白の名」前編
配管を切れば金属が鳴る。名簿から名を切っても、紙は鳴らない。
空冠要塞では、その二つの切断が同じ時刻に始まろうとしていた。
【現実/空冠要塞・外殻潮圧室/自動接続まで六分】
「切れば止まる」
ニア・ピクスは言った。
低く、平坦。
感情より先に構造を出す声。
「どこを」とロロ。
「第六導路。潮骨笛から空冠へ入る圧力線」
「切った後」
「逆潮側の重力弁が閉じる。空冠の回転は一段落ちる」
「逆潮の下面区は」
「補助弁へ移る」
「持つ?」
「計算上、七分」
「七分後」
「不明」
「それ、止めるんじゃなくて、危機を引っ越すだけだろ」
「そう」
「そう、で切る?」
「切らない」
ニアは即答した。
ロロが二眼ゴーグルを上げる。
「最初に切れば止まるって言った」
「効果を言った。提案ではない」
「姉ちゃんの文、主語が行方不明!」
「構造に主語は不要」
「人が切るんだよ!」
「だから切らない」
潮圧室は、空冠の回転輪と逆潮の水圧をつなぐ場所だった。
壁は濡れている。
床は四十秒ごとに壁になり、壁は天井になる。
中央に第六天鍵たる潮骨笛〈タイド・ボーン〉が固定され、六つの孔へ異なる方向の風と水が通っている。
一本目――重力方向。
二本目――流体入口。
三本目――流体出口。
四本目――対象。
五本目――持続時間。
六本目――撤回条件。
二つの空をつないだ時、六つを分けることで接続を限定した。
今、旧基幹規則が六孔を一つへまとめようとしている。
『対象――全空域』
『持続――危機終了まで』
『撤回――中央判断』
「危機終了まで、は禁止」とロロ。
「誰が危機終了を決める」
「中央」
「中央が止めたくなければ終わらない」
「じゃあ六孔を手動で分ける」
「触覚がない」
「俺が」
「右指四。補助腕一」
「姉ちゃんよりある」
「比較して作業能力を確定しない」
「じゃあ誰」
潮骨笛の向こう側。
逆潮の整備区から、打音が届く。
三つ。
間。
一つ。
三つ。
エメ・ドック。
『必要とする。赦してはいない。値を読め。』
ロロが苦笑する。
「エメ、怒ってる?」
「通常」
「通常が怒ってる人、多いな」
「お前の周囲」
「姉ちゃんも含む?」
「質問の意図」
「やめとく」
エメの打音の後、バズ・ノットの復唱が重なる。
『了解、つまり第六導路を切断。ただし停止条件は?』
「成長した」とロロ。
「復唱に疑問が入った」
「昔なら『ニアさんなら』で切ってた」
「昔の私なら切らせた」
ニアは両手を見下ろす。
指はある。
皮膚も、爪も、古い油染みもある。
しかし触れても、何も返らない。
六本の機械補助腕で、触覚の代わりに数字を得た。
数字が多いほど、他人の痛みを計算へ入れたつもりになった。
そして、切り捨てる人数を正確にした。
「三者の鍵」とニア。
「住民、技術者、記録者」とロロ。
「現在、技術者は私とお前。住民鍵はエメ。記録鍵は」
「セレナ」
セレナは潮圧室の入口で記録板を抱える。
「私は空冠側の記録者です。逆潮側の当事者記録を代行すると、中央が地方の記録鍵を持つことになります」
「じゃあウル婆」とロロ。
アムナが首を振る。
「ウルは渡し手。切断の現在記録は、エメの側に必要」
「誰」
「タラ・ネレ」
沈没都の圧力番。
沈没都で生活水門の圧力を守った女性。
「接続できる?」ニア。
「打音。遅い」
「残り六分」とロロ。
「遅いから省く?」
「省かない。けど待って全滅も嫌」
「緊急鍵」
「誰が持つ」
「一時的に、エメとバズ。住民と技術者の二鍵。記録鍵は切断後一分以内に追認。追認がなければ自動復帰」
「自動復帰でまた危険になる」
「その時、別案」
「一分で?」
「一分しかない」
「姉ちゃん、結局速さで押してない?」
ニアは答えない。
速さを嫌うことと、遅さを正義にすることは違う。
「一分の根拠」とセレナ。
「補助弁の安全余裕」
「事実として記録。制度上の妥当性は未確定」
「うん」
「緊急二鍵を使った者の責任」
「残す」
「成功しても」
「残す」
「失敗したら」
「残す」
「誰か一人の責任へしない」
「工程ごとに分ける」
「本人たちへ確認」
「今聞く」
ニアは打音を返す。
『第六導路。緊急二鍵。
住民鍵エメ。
技術鍵バズ。
切断範囲、潮骨笛中央請求線のみ。
持続一分。
記録鍵の追認なしで自動復帰。
逆潮住民の避難路を切らない。
費用、負傷、失敗を公開。
同意するか。保留、拒否可。』
返答。
エメ。
『必要とする。赦してはいない。条件追加。復帰時、住民側から停止可能。』
バズ。
『了解、つまり切断。ただし、ニアさんの命令ではなく、現在の二鍵判断。停止条件一分。復帰停止は住民側。』
「採用」とニア。
「姉ちゃん」とロロ。
「何」
「『私が決めた』って言わないんだな」
「決めていない」
「前なら、決めた顔した」
「顔は証拠?」
「ハルの台詞盗るな!」
「使える」
潮圧が跳ね上がる。
六つの孔が一斉に白く泡立つ。
魔法ではない。
世界回転で逆さ海の水圧が空冠へ直結し、潮骨笛そのものが巨大な弁になっている。
「二鍵、開始!」ロロ。
エメの住民鍵が、逆潮側で回る。
バズの技術鍵が、切断楔を打つ。
ニアは命令しない。
頬骨を配管へ当て、振動値だけを読む。
「荷重、五十二。四十九。入口弁、二度詰まり」
「中央線、見えた!」ロロ。
「切断幅、四指」
「俺の?」
「エメの義指なし左手基準」
「遠隔で分かりにくい!」
「規格札に書いてある」
「規格を人の欠損で作るなよ!」
「エメ本人の提案」
「じゃあ文句言えねえ!」
「言える。採用と批判は両立する」
「追い詰められるほど言葉が強い!」
バズの楔が中央線へ入る。
切断。
空冠の回転が一段落ちた。
同時に、逆潮の補助弁へ負荷が移る。
エメの咳が打音へ混じる。
バズが同じ文末を三度繰り返す。
『補助弁、赤、赤、赤!』
「タラへの記録鍵、あと四十秒」とアムナ。
「届かない」とロロ。
「届く。返答が間に合わない」
「違う?」
「違う。受信と同意は別」
ニアは自動復帰爪を見る。
一分後に中央線が戻る。
戻れば空冠回転は速くなる。
止めれば三鍵規則を破る。
「私が止める」とロロ。
「単独」
「姉ちゃんの設計を破る」
「なぜ」
「逆潮が落ちるから」
「その判断を、一人へ持つ?」
「今は俺しか届かない」
「終了条件」
「タラの返答まで」
「返答が来なければ」
「三十秒で手を離す」
「三十秒後、逆潮が」
「分からない」
「責任」
「俺」
「一人へ集めない」
「でも手は俺!」
ロロが自動復帰爪へ補助腕を入れる。
機械が噛む。
右指では支えられない。
左手と補助腕一本。
「ロロ」とニア。
「止めるな」
「止めない。役割を言う。お前は物理保持。私は荷重監視。エメは住民停止判断。バズは補助弁。セレナは時刻記録。アムナは返答境界。六人」
「手は一人」
「決定は一人ではない」
ロロの歯が鳴る。
十秒。
二十秒。
補助腕の関節が赤くなる。
二十七秒。
遠い水音の後、タラ・ネレの返答が来た。
『記録鍵、追認。
ただし、一分延長ではない。
次の三十秒のみ。
住民区四、保留。
保留を賛成に数えるな。』
「三十秒、更新!」セレナ。
「自動復帰、止める!」ロロ。
「三鍵成立」とニア。
三者の鍵でのみ行う切断〈トライ・ロック〉。
鍵が三つあることが正義なのではない。
足りない鍵を、善意で勝手に作らないこと。
緊急時の例外へ期限を付けること。
後から追認しなかった者を裏切り者にしないこと。
成功した切断でも、切られた側の損失を残すこと。
潮骨笛の六孔が、再び別々に空気を通した。