第830話 第七章「三つの鍵と空白の名」後編
【現実/ゼロスター号・記録庫/同時刻】
空冠の旧基幹機関は、もう一つの要求を出していた。
『再起動には、全住民名簿を中央へ統合。
重複名を削除。
非公開名を無効。
無名者を未登録負荷として除外。』
「断る」とアムナ。
「即答」とハル。
「名前を一つにしろ、は断る」
「でも名簿がないと、誰へ権利を返すか」
「名前と権利を一つへしない」
「どうやって」
「人数、位置、必要、呼称、公開名、非公開名、相互確認を分ける」
「多い」
「人が多い」
ソウジが記録板を見る。
「重複を許せば、一人が複数の配給を受ける」
「不正は起きる」
「なら統合が必要だ」
「不正を防ぐため、名前を所有する?」
「所有ではない。照合」
「照合できる者が、名前を全部見る」
「監査が必要」
「監査者も見る」
「ではどうする」
アムナは八枚目の黒札を持つ。
終端環から、ネイの足音符号。
扉ごとに名を変える少年。
『今日はそれで。
名が要るのは、誰?』
次にウル・エクリプスの結び目文。
『一つの話を、一人へ預けるな。
続きを持つ者へ、全部を渡すな。』
「記録を各地へ分けて守る仕組み〈メモリー・アイルズ〉」とアムナ。
「分ければ、重複確認できない」とソウジ。
「内容を全部見ず、重なりだけ確認する印」
「匿名照合」
「匿名も、固定印なら追跡できる」
「毎回変える?」
「権利ごと」
「複雑過ぎる」
「一名一番号の方が簡単」
「そうだ」
「簡単だから、人を消せる」
アムナは、終端環で見た白い国を思い出す。
公的名が消えたため、配給も医療も通行も消えた。
人はいた。
皿が空き、寝具が残り、靴跡があった。
制度だけが、名のない生活を数えなかった。
「公開、検索、訂正、封印、継承を分ける」
五枚の札。
「公開しない名も、医療権は持てる。
検索できない記録も、本人は訂正できる。
封印した記録も、人数監査には一と数える。
継承しない記録は、期限で消す。
名前を覚えないで、という拒否も残す」
「非公開を悪用して、責任者が隠れる」とセレナ。
「だから相互監査」
「誰が」
「別地域」
「別地域が内容を見れば非公開ではない」
「内容を見ない。件数、更新時刻、権限利用だけ」
「偽の件数」
「三つの島で照合」
「三つが共謀」
「外部の無作為な一島」
「そこも」
「絶対はない」
アムナの声が少し強くなる。
「絶対台帳を作ると、絶対に持つ人ができる」
ソウジは反論を止める。
彼も知っている。
地図を完全にするほど、地図へない道が犯罪になる。
「自分の記憶は」とハル。
「島の一つ」
「最後の正解じゃない?」
「違う」
「忘れたら」
「他の人が持つ」
「他の人も忘れたら」
「消える」
「怖くない?」
「怖い」
「それでも?」
「全部を私が持つ方が怖い」
アムナは自分の名を書いた札を作る。
『アムナ・エクリプス
公開――本人許可範囲
検索――現在の同行者のみ
訂正――本人
封印――本人と患者鍵
継承――未選択』
最後の欄を空ける。
「自分の記録も絶対にしない」とセレナ。
「うん」
「私が事実と異なる箇所を見つけたら」
「訂正を提案」
「本人が拒否したら」
「拒否も記録。事実欄は別」
「記録が二つになる」
「人と事実が同じ一枚じゃない」
「面倒」
「面倒を減らした結果」
「分かってる」とハル。「器」
旧基幹機関が、中央名簿の不在を異常と判定した。
記録庫の壁が開く。
白い紙片が風のように噴き出す。
名前。
番号。
役職。
罪名。
治療歴。
配給量。
死亡予測。
過去三十四巻で出会った人々の断片が、中央へ吸い込まれようとする。
「閉じろ!」ロロ。
「閉じたら、未回収記録が挟まる!」セレナ。
「じゃあ拾う!」
「全部?」
「全部は無理!」
紙片の嵐。
ハルは走る。
左肩を使わず、配達鞄を広げる。
拾うのは名前ではない。
地面へ落ちた紙から、本人の現在同意があるもの。
公開を拒んだ札。
未確認の印。
「アムナ、どれ!」
「全部を私へ聞かない!」
ハルが止まる。
「じゃあ」
「紙の縁!」
公開可は直線。
封印は波形。
本人確認待ちは切欠き。
廃棄希望は穴。
判断不能は無加工。
内容を読まず、処理条件だけで分ける。
ハルは配達する。
公開島。
封印島。
訂正待ち島。
継承保留島。
消去期限島。
ノクスが紙を咥える。
一枚をアムナへ持ってくる。
『ノクス
分類:オルド分離機能
帰属:初代誓約竜』
「違う」とアムナ。
ノクスが「ノゥ」と唸る。
「本人、帰属を拒否」
アムナは紙を破らない。
分類欄へ線。
帰属欄へ線。
別紙。
『ノクス
自由個体
呼称、本人の反応により確認
オルドとの関係――本人たちの現在同意なしに統合しない』
オルドの声が、遠い七地点から返る。
『その拒否は』
『今の彼へ』
『属する』
ノクスは耳を立てる。
近づかない。
それでよい。
記録を分けるとは、関係を否定することではない。
関係の名で、個体を所有しないことである。
旧中央名簿は停止した。
代わりに、五つの記録島と、内容を持たない監査板が動き始める。
停止は、成功ではなかった。
中央名簿を止めた直後、終端環の医療配給から警報が来た。
『呼吸薬、同一人物へ二重配給。
未登録患者一名、配給なし。
中央照合復帰を要求。』
「ほら」とソウジ。「統合しなければ重複が出る」
「統合していた時も、未登録は出た」とアムナ。
「今は一名が薬を受け取れない」
「今直す」
「どうやって」
アムナは答えを持っていない。
答えがない時、人は知っている強い方法へ戻る。
全名簿を集める。
一番号へ統一する。
重複を消す。
速い。
彼女の指は、中央台帳の復帰鍵へ伸びた。
ネイの黒札が一度だけ足音を返す。
『今日はそれで。』
名前ではない。
今日使う呼称。
アムナは手を止める。
「薬が必要なのは、名前?」
「人」とハル。
「照合に必要なのは」
「同じ人かどうか」
「何で」
「身体情報?」
「身体も変わる」セレナ。「病気、負傷、成長」
「住所?」
「移動する」エリア。
「家族?」
「いない人が落ちる」とアムナ。
「じゃあ、今の薬の受取条件だけ」ロロ。
呼吸薬。
投与間隔。
禁忌。
現在地。
本人が使ってよい照合印。
全人格を証明しない。
この薬を安全に渡すために必要な範囲だけ。
終端環へ問いを返す。
『二重配給者。
薬袋の結び目、前回投与時刻、現在呼吸数。
名は送らない。
未登録患者。
同じ三項目と、本人が呼ばれたい仮名。』
返答。
二重配給は同一人物ではなかった。
同じ仮名を使う兄弟。
中央台帳が名の一致だけで一人と見なし、二袋のうち一袋を重複と判定していた。
未登録患者は、中央名簿へ名を置くことを拒否していたため、薬の受給資格まで消されていた。
「統合した方が誤ってた」とハル。
「今回の例では」とセレナ。「分散が常に正しい証明ではない」
「毎回、針を刺す」
「破裂防止」
アムナは二人分の薬を通す。
未登録患者へは、今日だけの仮名と医療用途だけの印。
明日の分は、自動で継続しない。
次回の受取方法を本人へ聞く。
「遅い」とソウジ。
「四分」とアムナ。
「呼吸薬で四分は危険だ」
「うん」
「中央照合なら十秒」
「うん」
「それでも戻さない?」
「十秒で消える人がいる」
「四分で死ぬ人もいる」
「だから、次は四分を短くする。全名簿へ戻さず」
「できる保証は」
「ない」
アムナは、遅さを美徳にしない。
四分を費用として記録する。
待った患者の呼吸悪化。
運んだ人の労働。
誤配の可能性。
全て。
潮圧室からも、損失が届く。
トライ・ロックの成立を待った四十七秒の間に、逆潮の小水門が一つ壊れた。
住民二人が打撲。
墓標洗い場の記録板が流失。
補助弁の修理費。
「三鍵だから安全、ではない」とニア。
「一人なら早かった」とロロ。
「早かった」
「姉ちゃんが切ってたら、水門は壊れなかった?」
「可能性は高い」
「じゃあ三鍵、失敗?」
「今回の一部では」
「やめる?」
「改訂する」
「何を」
「鍵を持つ者が遠過ぎた。記録鍵を中央へ置かないため、現場の記録者を育てる。緊急二鍵の範囲を、現在より狭くする。住民鍵の代理順位を事前に決める」
「事前に決めた人がいない時」
「空席」
「また空席」
「万能ではない」
「便利じゃないな」
「便利にすると、誰かが常にそこへ座る」
エメから、怒った打音が来る。
『壊れた水門を、制度学習費と呼ぶな。
修理費、治療費、失った記録、全部別に返せ。』
ニアは即答する。
『了解。
今回の三鍵成立を成功記録へ単独登録しない。
待機損失を併記。
補償協議、私も当事者席へ。決定席ではない。』
ロロが横目で見る。
「赦してないって毎回付けない」
「省略したのでは」
「分かってる」
「分かった顔」
「嫌い?」
「質問の意図」
「姉弟っぽくなった?」
「なっていない」
「即答!」
複数鍵は、被害を消さない。
分散記録は、誤配を消さない。
それでも、被害を理由に一人へ戻さない。
戻さないためには、失敗を原則の外へ捨てず、原則そのものへ書き戻す必要があった。
第七原則。
切断、隔離、犠牲の決定を一人へ集めない。
住民、技術者、記録者の物理鍵へ分ける。
緊急例外には短い期限、自動失効、後日監査、補償を付ける。
複数鍵の遅さを、単独英雄の口実にしない。
第八原則。
記録、公開、検索、訂正、封印、継承を別々に選べる。
名前を制度の所有物にしない。
非公開を隠蔽へ使わせないため、内容を見ない件数監査と異議窓口を置く。
記録しない権利も、記録しないことの責任も残す。
潮骨笛の返還手順が確定する。
六孔の条件を、逆潮の住民鍵、技術鍵、記録鍵へ分ける。
世界接続を一人の測量士や王家が決めない。
地球側の接続も、対象、入口、出口、期限、撤回を別々にする。
空冠の返還手順も確定する。
空冠を王冠として王家へ戻さない。
終端環の住民、機関士、記録守、外部観測者へ回転鍵を分ける。
中央受容座を撤去し、空席を残す。
ただし、その空席の機能だけは、まだ決まらない。
七枚の航路札が鳴る。
第一から第七まで、返還手順がそろった。
八枚目の黒札は鳴らない。
零星針中央の空白も、何も示さない。
「七つ返せる」とハル。
「中央だけ残る」とエリア。
「中央を空にすれば?」
「空にするだけでは、また誰かが埋める」
「鍵を置かない?」
「置かないことを、誰が守る」
「空席」
「空席を守る者が所有者になる」
答えが循環する。
アザルの黒い座から、亀裂が一つ増えた。
ソウジの白い受容架が、彼の心拍へ合わせて狭くなる。
自動接続まで、二分。
八つの原則はそろった。
理念は、まだ世界を一ミリも支えていない。
中央の空白だけが、答えを持たないまま残った。