第839話 第十二章「次の客員席」前編
歴史は、戦争が終わった日を好む。
条約が結ばれた日。
王が退位した日。
城門が開いた日。
怪物が眠った日。
日付を一つ選べるからである。
生活は、その翌日を好まない。
壊れた窓がある。
会計が赤い。
治療を拒んだ人が、別の病気になる。
正しい制度を作った人が、次の会議で負ける。
英雄が帰ってきても、家族は夕食の時間を変えたくない。
物語の終わりは、世界が問題を失うことではない。
問題を一人へ預けず、それぞれの場所で続きを持てるようになることである。
【冠都環ルーメン/王立星航学院・混成救難班/世界再設計から二十六日】
ティア・グランツは、議長席へ戻らなかった。
「次指揮者」と言う。
訓練塔の下で、二十人の生徒が互いを見る。
以前ならティアを見た。
今は、手動鐘を見る。
鐘を誰が持つかを見る。
自分が持てるかを見る。
マオ・ケルンが床へ座り、装具の留め具を直している。
「候補、三人。走れる人、文字を読める人、低い場所を見られる人」
「一人にする必要は」とティア。
「ない。三役」
「終了時刻」
「七拍」
「短い」
「訓練だから」
「実地なら」
「役割ごとに変える。変える人も七拍で交代」
「異議」
「私」
「あなたが毎回?」
「今日は。次は別」
ティアは頷く。
右膝の調子は三。
階段を上らない。
上らないことを、現場から退いたとは呼ばない。
生徒が鐘を持つ。
「グランツ救難士、助言を」
「今は、求められた範囲だけ」
「塔の風向き」
「東から三。上層で反転」
「ありがとうございます」
ティアは命令しない。
命令しないことを、無責任な沈黙にもしない。
訓練後、次の救難調整役へ資料を渡す。
自分の名は、表紙ではなく、改訂履歴の途中にある。
【自由港サウザンド・ハル/港会議・第七十六回臨時会/同日】
「独占契約を破棄します」
ミラ・ベルウェザーは言った。
「地球船との優先入港契約も?」港主。
「優先は残す。独占は破る」
「地球側の物資は希少だ。競争が」
「救命路を一社へ売らない」
「あなたの会社が最初の接続試験へ出資した」
「だから何」
「権利がある」
「出資は所有じゃない」
「契約書には」
「終了条項がある」
「違約金」
「払う」
会議がざわめく。
ジル・カスクが後方で咳のように笑う。
「どこにそんな金がある、救難操舵手さま」
「ない」
「さっき払うって」
「分割」
「何年」
「十九」
「長い!」
「利息なし」
「誰が認める!」
「会議」
パルが机の下から顔を出す。
「先に値段。港の赤字、救助者の給料、地球船の検査費、全部別に出す」
「子どもを会議へ」と港主。
「年齢未登録」とパル。
「なら資格が」
「港へ住んでる。無札桟橋の利用者」
「代表か」
「代表じゃない。本人」
ミラは煙草焼けした声で三度笑う。
「ヒ、ヒ、ヒ。契約へ参加しない者を、会議からも外すつもり?」
港会議は終わらない。
独占破棄は採択される。
費用分担は否決される。
救難操舵手の報酬は三か月保留になる。
ミラは負けた顔で港を出る。
「続きは?」ジル。
「次回」
「英雄の凱旋にしちゃ景気が悪い」
「王子の台詞、盗った?」
「海賊に著作権を聞くな」
無札桟橋では、最初の地球船がまだ来ないうちから、宿泊希望者が三人待っている。
ミラは契約書より先に、寝床を数える。
【翠獣環/二つに分かれた春会の中間水場/世界再設計から三十一日】
ガンガは冠を持たない。
七群れは、五つの会議へ分かれた。
二群れは同じ春会へ参加しない。
一群れは、来年まで保留。
「失敗」と外部記者が言う。
「何が」とガンガ。
「統一できなかった」
「統一を目標にしていない」
「王位を拒否して、群れが割れた」
「もともと七つ」
ネムが胸太鼓を二拍。
『聞いた。賛成ではない。』
記者が困る。
「これは何と書けば」
「そのまま」とネム。
「新聞を読む人に分かりにくい」
「分かりやすくして、賛成にする?」
「いや」
「なら、そのまま」
春の合流地点は一つでなく三つになる。
水場の利用時刻も別。
交差する二刻だけ、全群れで幼獣の通路を空ける。
ハダンは儀式歌を一節間違える。
子どもが訂正する。
長老は不満そうに、正しい歌を教わる。
ガンガの次の仕事は、王になることではない。
会わない群れ同士が、必要な時だけ同じ橋を渡れるようにすることだった。
【鏡砂環/条約反対村・共同食堂/世界再設計から三十五日】
ユノは舞踏会へ行かない。
白い正装も着ない。
アルマを背負い、泥の付いた靴で共同食堂へ入る。
村は、彼が検証した新条約に反対した。
王家の婚姻外交で二度、農地の水を奪われた。
「説明に来ました」とユノ。
「賛成を取りに?」村人。
「違います」
「理解させれば賛成すると思ってる?」
ユノは一拍止まる。
「以前は」
「今は」
「理解後の不同意を記録しに」
「記録したら何が変わる」
「条約の再審条件になります」
「再審まで何年」
「最長二年」
「長い」
「短縮要求を出せます」
「誰が読む」
「私だけにはしません」
リゼが後ろから空の額縁を運ぶ。
『不同意』
『非公開』
『未選択』
三枚。
トーヴは脚注を一つと言いながら、十七枚の資料を広げる。
村人は条約へ賛成しない。
水路条項の一部だけ再審要求を出す。
家族記録の公開は拒否する。
ユノの説明会への評価は、空欄のまま。
ユノは空欄を、失敗と呼ばない。
次の村へ行く。
【雷鎖環/地球接触予定線・暫定十二番駅/世界再設計から四十日】
「次は――地球。ではありません」
テトの放送。
「まだ接触試験駅です。停車は二十三分。地球へ行くか、戻るか、保留するかは、窓口ごとに確認してください。なお、窓の向こうに海が見えても飛び込まないでください!」
「最後は必要」とイヴァ。
「前に飛び込もうとした人が」
「ハル?」
「名は言ってません」
「ハル」
暫定十二番駅は、終点ではない。
行き先を保留する臨時駅〈ホールド・プラット〉。
地球側の接続が開かなければ、列車は地域小網へ戻る。
開いても全員を運ばない。
医療、物流、家族連絡、研究、観光を別便へする。
イヴァは中央時刻表を持たない。
四十八地域から届く時刻を、毎朝組み直す。
右手の震えが強い日は、鋏をテトへ渡す。
テトが切る前に、利用者代表へ聞く。
「車掌がいないと不安」と乗客。
「私も不安です」とイヴァ。
「車掌なのに」
「車掌だから」
不安を権威で隠さない。
地球接触線を、終点ではなく仮駅と呼ぶ。
路線図には、先が空白のまま残る。
【夢灯環/夜明け診療所・地球夢相談日/世界再設計から四十二日】
「治療しますか」
地球から試験通信で届いた夢記録を前に、職員が聞く。
ソムナは首を振る。
「まず、依頼を確認」
「悪夢です」
「悪夢だから治療とは限らない」
「本人は眠れないと」
「何を望むか」
記録には、地球の電車。
閉まらない踏切。
鳴り続ける携帯電話。
帰らない家族。
ソムナは夢へ入らない。
本人へ、紙の質問を返す。
『話を聞いてほしい。
夢を減らしたい。
身体の眠りを整えたい。
記録を残したい。
残したくない。
まだ決めない。』
メイが医療欄を分ける。
アサが「まだ決めない」の影札を作る。
患者組合の運営会議で、ソムナの提案は一度否決される。
地球夢を受け入れる前に、地域患者の待ち時間を減らせ、と言われる。
ソムナは反論しない。
「次回、件数を減らす」
「治したい?」アサ。
「聞きたい」
「自分のため?」
「少し」
「書いて」
ソムナは、治療者動機の欄へ書く。
『未知の夢を知りたい。』
善意の顔をさせない。
【王都下面区/公開聴取会・第三日/世界再設計から四十五日】
ニアは工具を会場の外へ置く。
六本の機械補助腕は箱の中。
両手の触覚は戻らない。
工具がなければ説明できない、と以前の彼女なら言った。
今は、図面と数字だけを持つ。
エメ・ドックが先に座っている。
「遅い」
「開始時刻の二分前」
「被害者側は一時間前からいる」
「記録する」
「謝罪のつもりか」
「違う。事実」
「必要とする。赦してはいない」
「うん」
聴取会は、ニアの英雄的な空冠救難を称えるためではない。
成功基準第三版へ署名し、切断区の生活を数字へした責任を問う。
ニアは「世界を救った」と答えない。
「当時の情報では」と逃げない。
知らなかった範囲。
知っていた範囲。
止められた時刻。
止めなかった理由。
全部を話しても、赦しにはならない。
四日目の聴取は、延期される。
エメの咳が悪化したから。
ニアは延期を、自分の証言拒否とは記録させない。
エメの医療情報も公開させない。
工具を持たず、次の日も来る。
【終端環/分散記録局・就任手続き前/世界再設計から四十七日】
同じ建物の下層では、旧終端議会の第一回公開審理が続いていた。
固定派、切断派、無誓派という所属名だけでは裁かない。軍事封鎖、空冠収容、記録抹消、生活配管の維持、命令拒否、内部告発を、別々の行為として並べる。
配管技師を全員追放すれば、明日の水が止まる。だから技術は残す。任期を切り、三地域の物理鍵を要し、命令を拒んだ時刻も公開する。
旧記録庫も一つへ戻さない。原本保管、検索、公開、訂正、封印、継承を、五つの記録島へ分けた。島同士が互いを監査し、全てを知る局長は置かない。
アザルの被害記録と、彼が現在行った拘束・魔法停止の記録は別冊のまま。被害者だった事実は消えず、現在の責任も自動では消えない。
審理は四十七日で終わらなかった。
終わらないまま、今日の配管を動かす手順だけが、旧議会の密室から公開板へ移された。
「局長就任へ署名を」
アムナは署名欄を見る。
「権限」
「記録島の調整、公開基準、継承判断」
「多い」
「あなたが適任です」
「適任と集中は別」
「任期二年」
「途中終了」
「議会不信任」
「本人撤回」
「規定なし」
「追加」
「就任前に規則改訂は」
「影響当事者の要求」
アムナは自分を影響当事者に入れる。
役職を受ける者も、役職の影響を受ける。
その時、一枚の依頼が来る。
『父の記録を保存してほしい。
ただし公開しない。
検索させない。
子へ継承しない。
十年後に削除を再確認。
父の名を、局長は覚えないでほしい。』
最初の仕事。
名前を覚えることを期待されたアムナへ、覚えないでという依頼。
「受ける?」ネイ。
「条件を聞く」
「名は?」
「見ない」
「今日はそれで」
アムナは局長署名を保留する。
最初の依頼を、一人で決めないため、記録島三つへ内容を伏せた監査札を送る。
彼女の物語は、名前を全部覚えたところで終わらない。
覚えない責任から始まる。
【冠都環ルーメン/王城・権限移譲式/世界再設計から五十日】
これは即位式ではない。王位ではなく、王家が独占してきた上書き権を、地域議会、利用者会、監査会へ移す式だった。
カイルは王冠を捨てない。
代わりに、王冠の内側から三枚の鍵板を外す。
非常救命。
地域避難先。
記録封鎖。
王家の単独上書き権を、地域議会、利用者会、監査会へ移す。
父アルノーは胃を押さえる。
亡き母イレーネなら、その鍵板の材質を安っぽいと批評しただろう、とカイルは思う。
セレナは、その想像上の家庭反応まで公文書へ入れない。
「王権が小さくなった気分は」とハル。
「景気が悪い」
「本音」
「少し寂しい」
「記録する?」セレナ。
「もう好きにしろ!」
「本人許可」
「許可じゃない!」
「撤回?」
「……公開版からは外せ」
「当事者版へ」
「残すんだな」
「王位の感情負担も、制度設計資料です」
「後世の王子が読む?」
「王子でない者も」
カイルは、王太子である前に一人の十七歳として、不満を残す。
権力を手放した者を、清らかな聖人にしない。
惜しいと思いながら手放した方が、次の権力者へ役に立つ。
【冠都環ルーメン/回復病棟・非公開区/世界再設計から五十三日】
アザルは眠っている。
四時間ごとに覚醒確認。
起きたくない日は、時間を延ばす。
責任聴取は一日二十分まで。
夢の閲覧は禁止。
被害記録と加害記録は別冊。
名前はアザル。
役割は、今はなし。
初めて食べた普通のパンを、半分残した。
明日もあると信じられなかったからではない。
単に、硬過ぎたからである。
「理由、記録した?」ハル。
「本人が、硬い、と」とアムナ。
「歴史的な一口なのに」
「本人は歴史になりたくない」
「じゃあ普通の不評」
「うん」
ソウジは別棟。
境界測量資料を提出し、星酔いの治療を受け、毎日二時間の聴取に出る。
ナツミへは、英雄帰還の記事より先に、事実一覧と謝罪文を送った。
返事は一行だった。
『帰るではなく、何時にどこへ。復縁の話はその後ではなく、別件です。』
ソウジはその紙を、笑わず、泣かず、折らずに持つ。
「会う?」ハル。
「ナツミが条件を出したら」
「自分から希望は」
「会いたい」
「書いた?」
「書いた」
「送った?」
「まだ」
「また説明なし?」
「違う。言葉を選んでいる」
「期限」
「今夜」
「過ぎたら」
「そのまま、言葉を選び切れていないと送る」
「成長」
「遅い」
「うん」
許しはない。
連絡はある。
ソウジが、右手を膝の上へ置いた。
「もう一つ、言わなければならない」
「期限」
「今」
「どうぞ」
「八年前、端っこの石を土産にすると約束した」
ハルの指が、配達鞄の留め具で止まる。
「覚えてたんだ」
「忘れたことはない。石を持ち帰れなかった。帰る時刻も、連絡も守らなかった。約束だけをおまえに残して、待つ役を押しつけた」
「世界を調べてた」
「それは理由だ。免責ではない」
ハルは鞄の内側から、小さな布袋を出す。
七空域の端で拾った石が入っている。見せたのは、終端環の白い地面から外れた、煤色の小石だった。
「これは俺が拾った」
「うん」
「父さんの土産じゃない」
呼び方が一度だけ戻った。
ソウジは、その一度を和解の証拠にしない。
「うん」
「次に拾うなら、誰に、いつ、どこで渡すか、先に書け」
「約束できる範囲を書いてから行く。遅れる時の連絡先も」
「石一個に荷札が多い」
「八年待たせた」
「じゃあ足りないな」
ハルは小石を渡さず、袋へ戻した。
果たせなかった約束を、別の石で配達済みにしないためだった。
【自由港サウザンド・ハル/第五乾船渠・ゼロスター号改装/世界再設計から五十六日】
船は、直せば元に戻る。
というのは、船を外から見る人の言い方である。
帆を替える。
竜骨を継ぐ。
舵輪を外す。
乗っていた者が減り、客が増え、船名だけが残る。
どこまで替えれば別の船か。
それを決める役所は、たいてい税を取るために存在した。
船乗りは、沈まなければ同じ船だと言う。
修理屋は、請求先が同じなら同じ船だと言う。
乗客は、自分の忘れ物が残っていれば同じ船だと思う。
ゼロスター号は、その三つとも満たしていなかった。
「中央舵輪、外すぞ」とロロ。
「象徴じゃない?」ハル。
「機械」
「みんなが見慣れてる」
「見慣れた物が荷重を受け持つなら残す」
「外そう」
中央舵輪は、月冠祭の山車を船へ戻した日から、船の中心にあった。
王都へ落ちた時も。
幽霊艦隊へ乗り移った時も。
逆さ海へ潜った時も。
空冠監獄から逃げた時も。
だが、一本の舵輪へ全小帆をつなげれば、また一人が全方向を決める。
ロロは舵輪を博物館へ売ろうとする。
セレナが止める。
「事件資料」
「保存費!」
「売却すると、購入者が歴史説明を独占します」
「貸す」
「契約期限」
「十九年」
「ミラの違約金みたい」とハル。
「港の文化だ!」
結局、舵輪は船内倉庫へ置かれる。
復帰不能のため、軸穴は樹脂で埋める。
展示札には、
『旧中央舵輪。
英雄の象徴ではなく、単一点故障の原因。
再使用には地域小帆八系統の同意と公開試験が必要。』
と書かれる。
「夢がない」とハル。
「事故があるよりいい」とエリア。
「夢を事故防止札へ書く?」
「別欄」
「あるんだ」
「未記入」
改装費は、七空域から届いた。
学院から耐風布。
自由港から索。
翠獣環から生きた帆骨。
鏡砂環から表示ガラス。
雷鎖環から手動蓄電板。
夢灯環から夜間避難灯。
逆潮環から圧力弁。
終端環から消去可能な記録札。
贈り物、と書かれた荷は一つもない。
代金。
無償提供。
返却不要。
修理後に試験結果を返す。
事故時の責任は提供者へ自動移転しない。
宣伝利用は別同意。
名前の公開範囲。
全部が別欄。
ジルが伝票を見て顔をしかめる。
「親切が八枚の書類になった」
「親切を借金へ変えないため」とミラの遠隔声。
「感謝は?」
「任意」
「言われるとしたくなくなる」
「それも任意」
パルが索の山から出てくる。
「一本足りない」
「数えた?」ロロ。
「数えた。百二十七」
「必要は百二十八」
「港会議が宣伝札を付ける索だけ保留した」
「宣伝を外せば」
「提供も外すって」
「買う」
「金」
「ない」
「十九年払い?」
「それはミラ」
ハルは古い赤いマフラーを外す。
「これで」
「索にすんな!」全員。
「象徴的に」
「象徴で主帆を留めるな!」ロロ。
結局、足りない一本は、地球へ送る予定だった空箱の綴じ縄をほどいて作る。
箱は板へ戻し、客員席の足台になる。
何かを別の用途へ使えば、元の用途は消える。
万能の再利用ではない。
使わなくなった箱の返送条件は、ナツミへ確認することになる。