『ツッコミ部、宇宙へ行く。』

 転校初日の朝、犬伏晴臣は、廊下を泳ぐマグロと目が合った。

 銀色の巨体は、二階の一年生教室前を悠然とクロールしている。水もないのに尾びれを振り、すれ違う生徒たちは慣れた顔で道をあけていた。

「お、今日の購買、マグロサンドか」

「活きがいいねえ」

 誰も騒がない。

 晴臣は十秒ほど我慢した。

 十一秒目で限界が来た。

「廊下を泳ぐな! そもそも水がねえだろ!」

 びたん!

 マグロは床に落ち、次の瞬間には、透明な袋に包まれた三角サンドイッチになった。

 廊下が静まり返る。

 晴臣も静まり返る。

「……え?」

 背後で、ぱん、と乾いた音がした。

 振り向くと、赤いリボンをつけた女子生徒が、黄色と黒の縞模様のハリセンを両手で掲げていた。

「見つけたぁぁぁぁ!」

「何を!?」

「百年に一人のツッコミ適性者!」

「もっと他にいるだろ!」

 女子生徒は目を輝かせた。

「二発目も速い! しかも説明不足を的確に補う親切設計! 君、名前は!?」

「犬伏晴臣。今日から一組――って、近い近い近い!」

「私は天野ひより、二年! ようこそ私立大法螺学園ツッコミ部へ!」

「入ってない!」

「今の入部宣言、しかと聞いた!」

「耳までボケてんのか!」

 ひよりは感動したように震えた。

「すごい……。天然物だ……」

「絶滅危惧種みたいに言うな!」

 そのとき、始業ベルが鳴った。

 晴臣は自分の教室へ走りながら、胸の奥で固く誓った。

 この学校では、絶対に目立たない。

 誰が何を言っても、放っておく。

 普通の高校生活を送るのだ。

 その決意は、一時間目が始まる前に崩壊した。

「えー、転校生の犬伏くんだ。みんな、食べないように」

 担任の石頭先生が言った。

「食べませんよね!?」

 教室のあちこちで、生徒たちが残念そうに箸をしまった。

「なんで箸を持ってるんだ!」

 晴臣の叫びに、クラス中がどっと笑った。

 笑われるつもりはなかった。だが、笑いが起きた瞬間、晴臣の肩から少しだけ力が抜けた。

「はい、席は窓際のいちばん後ろ。転校生の指定席だ」

「漫画の都合で決めないでください」

「詳しいな、犬伏」

「常識です!」

 席につくと、前の男子が振り向いた。丸い顔に、丸い眼鏡。名札には木戸慎吾とある。

「よろしく、犬伏。困ったことがあったら何でも聞いてくれ。俺、この学校で知らないこと以外は全部知ってる」

「ほとんど知らないやつの言い方だろ」

 木戸は机に身を乗り出し、声をひそめた。

「さっき、天野先輩に捕まってたよな」

「知り合い?」

「有名人だよ。ツッコミ部の部長」

「そんな部、本当にあるのか」

「ない」

「ないの!?」

「部員が一人しかいないから、正式には同好会ですらない」

「じゃあ何なんだよ」

「本人の気持ち」

「一番あいまいな組織形態!」

 木戸は感心したようにうなずいた。

「なるほど。先輩が狙うわけだ」

「狙う?」

「この学校には、ときどき“ノリ災害”が起きる」

 木戸が言い終わるのと同時に、石頭先生が黒板を振り返った。

「今日は転校生も来たことだし、宿題は山ほど出すぞ」

 ごごごごごご。

 教室の床が揺れた。

 黒板の下から白い紙の束が噴き上がり、またたく間に天井まで届く巨大な山となった。プリント雪崩が机をのみ込み、生徒たちが悲鳴を上げる。

「出た! ノリ災害だ!」

「説明する前に実演すんな!」

 晴臣は押し寄せるプリントを両手で受け止めた。紙なのに岩みたいに重い。

「先生! “山ほど”って量のたとえでしょうが! 実際は何枚なんですか!」

「一枚」

「少なっ!」

 ぱん、と何かが弾けた。

 紙の山が一斉に消え、全員の机に一枚ずつ宿題プリントが落ちた。

 教室は静寂に包まれた。

 石頭先生が眼鏡を押し上げる。

「見事だ、犬伏。転校初日から遭難者ゼロとは」

「毎回遭難してるんですか!?」

「去年は三名がプリント山脈で越冬した」

「学校は何をしてたんだ!」

 後ろの扉が勢いよく開いた。

「だからツッコミ部が必要なの!」

 天野ひよりが、勝手に授業へ入ってきた。

「天野。今は一時間目だぞ」

「先生、廊下に教頭先生が落ちてました!」

「何っ。拾得物係を呼べ!」

「人として対応しろ!」

 晴臣が叫んだ瞬間、教室の全員が拍手した。

 ひよりは満足そうに親指を立てた。

「放課後、旧校舎の一階ね!」

「行きません!」

「“行きます”いただきました!」

「真逆に聞こえてる!」

 放課後。

 晴臣は旧校舎の一階にいた。

「俺は何をしてるんだ……」

 断りに来ただけだ。そう自分に言い聞かせ、廊下の突き当たりにある扉を見上げる。

 画用紙に墨で『ツッコミ部』。

 その下に小さく『予定地』と書いてある。

「土地だったのかよ」

 扉が開いた。

「ようこそ!」

 ひよりが両手を広げた。

 部屋の中は、見渡す限りの草原だった。青空の下、白い雲が流れ、遠くではキリンが木の葉を食べている。

「いや広すぎるだろ!」

 ぼふん。

 草原が消えた。

 晴臣とひよりは、ほうき、バケツ、脚立、段ボール箱に押しつぶされた。

「痛たた……。せっかく“意外と広い部屋”って設定で維持してたのに」

「用具倉庫じゃねえか!」

 二人は荷物を押しのけ、どうにか向かい合って座った。

 部屋の中央には、小さなちゃぶ台。上には麦茶が二つ。そして、学ランを着せられた人体模型が正座していた。

「紹介するね。副部長の佐藤くん」

「人体模型だろ」

「経理も担当してる」

「金を任せるな!」

「先月、部費を全部ホネせんべいにした」

「経理から外せ!」

 人体模型の佐藤が、かたかたと顎を鳴らした。

「反省してるって」

「今ので会話できたの!?」

 ひよりは麦茶をひと口飲み、急に真面目な顔になった。

「犬伏くん。今日、二回も見たから、もう気づいてると思う。この学校では、みんなが“そういうものかも”ってノッちゃった冗談が、本当になるの」

「廊下のマグロも、宿題の山も?」

「うん。大勢が聞いた言葉ほど強くなる。十秒以内なら普通のツッコミで消せるけど、時間がたつと、もっと説得力のあるツッコミが必要になる」

「説得力って」

「“ありえない”じゃ弱い。“なぜありえないのか”を、みんなの心に届く言葉で示すの」

 ひよりは縞模様のハリセンを、ちゃぶ台に置いた。

「ツッコミは、ただ否定することじゃない。変な世界から、みんなで帰ってくるためのロープなんだよ」

 その言葉だけは、冗談に聞こえなかった。

 晴臣は目をそらした。

「……俺、そういうの向いてません」

「朝から三十五回ツッコんでるのに?」

「数えてたの!?」

「昼休み、パンに“私を食べて”って告白されてた子も助けた」

「あれはパンがしゃべったから!」

「体育館で、跳び箱が八段から八百段になったのも戻した」

「そのままにしたら死人が出るだろ!」

「ほら。放っておけないんだよ、君は」

 晴臣は唇を噛んだ。

 中学二年のとき、クラスメイトが文化祭の舞台で手品を失敗した。

 観客が気まずく黙る中、晴臣は反射的に言った。

『タネも仕掛けも丸見えじゃねえか!』

 笑いは起きた。

 けれど、手品をした友人は舞台袖で泣いた。

 悪気はなかった。助けるつもりだった。それでも、言葉は刺さった。

 以来、晴臣は決めていた。

 人前では、なるべく口を出さない。

 正しいことでも、言い方を間違えれば誰かを傷つける。

「俺のツッコミは、ロープじゃなくて刃物です」

 ひよりは少しだけ目を丸くした。

 それから、いつもの笑顔に戻った。

「じゃあ、使い方を覚えよう」

「簡単に言うなよ」

「刃物だって、料理に使えば人を幸せにできる。キャベツの千切りとか」

「たとえが急に家庭的だな」

「私は包丁を持つと、なぜか消防車が来るけど」

「お前は料理するな!」

 ひよりは、ちゃぶ台の下から一枚の紙を出した。

『入部届』。

「はい」

「話を聞いてた!?」

「聞いたよ。だから、まず一週間だけ仮入部」

「断る」

「このままだと、明日の校内放送で校長先生が“来月から生徒全員をカニにする”って発表する」

「何で!?」

「今日、カニを食べながら思いついたって」

「止めろよ!」

「部員一名では校長室への突入許可が下りません」

「そんな許可制度だけしっかりしてるのか!」

 晴臣は入部届をひったくり、勢いで名前を書いた。

「一週間だけだからな!」

「やった! これで明日から二人でカニになれる!」

「止める側だろ!」

 人体模型の佐藤が拍手した。

 手の骨が一本飛び、麦茶のコップに入った。

 仮入部から三日で、晴臣は十二件のノリ災害を処理した。

 国語教師の「作者の気持ちは雲の上」が原因で、クラス全員が積乱雲まで飛ばされた。

 体育教師の「死ぬ気で走れ」で、百メートル走のゴールに三途の川が出現した。

 保健室の先生が「薬は甘くない」と言ったせいで、薬棚の中から苦労人の中年男性が現れた。

「それは“人生は甘くない”の人だろ!」

 晴臣がツッコむたび、世界は元に戻った。

 そして、そのたびに誰かが笑った。

 以前の晴臣なら、その笑いを怖がった。

 だが、ひよりは必ず、笑いの輪の中で一番大きく笑っていた。

 誰かを笑うのではない。

 おかしな出来事も、失敗も、全員まとめて笑い飛ばす。

 放課後、二人は校内を巡回した。

 ひよりは危険な発言を見つけるたび、縞模様のハリセンを構える。

「“このラーメン、ほっぺたが落ちる”……危険度B!」

「食堂で顔面落下事故を起こすな!」

「“先生の話、百年くらい長い”……危険度A!」

「卒業する前に寿命が尽きる!」

「“先輩の笑顔は一億ボルト”……危険度S!」

「恋する前に感電死するわ!」

「今の、私に言ってくれた?」

「違う!」

「照れなくても、一億ボルトは半分こだよ」

「五千万ボルトでも死ぬ!」

 ひよりと歩く放課後は、静かとはほど遠かった。

 でも、不思議と疲れなかった。

 四日目の昼休み。

 校内放送のチャイムが鳴った。

『全校生徒諸君。今週土曜日の文化祭で、第百回・大ボケ王決定戦を開催する』

 食堂中が沸いた。

 晴臣の向かいでカレーを食べていたひよりだけが、スプーンを止めた。

『優勝者には、購買の焼きそばパン一年分。そして、学園中の“ノリ”を集める権利を与える』

 放送の声は、やけに芝居がかっていた。

『今回こそ、退屈な日常を吹き飛ばす、史上最大のボケをお見せしよう。大喜利部部長――笑門院カケル!』

 ぶつん、と放送が切れた。

「大喜利部?」

 晴臣が聞くと、木戸がカレー皿を抱えたまま震えた。

「学園最強のボケ集団だ。去年は“校庭がプリン”ってボケて、陸上部が全員カラメルまみれになった」

「迷惑なだけじゃねえか!」

「でも、うまかった」

「食ったのかよ!」

 ひよりは立ち上がった。

「犬伏くん。大ボケ王決定戦を中止させる」

「珍しく意見が合った」

「大勢の前でボケれば、ノリ災害の規模は何十倍にもなる。カケル先輩は、それを分かっててやるつもり」

「人聞きが悪いなあ」

 いつの間にか、食堂の入口に一人の男子生徒が立っていた。

 白い学ラン。肩には金色の飾り。髪は無駄に風になびき、手には閉じた扇子。

 笑門院カケル。

 彼が一歩進むたび、どこからともなく花びらが舞った。

「室内で花びら散らすな! 食事に入るだろ!」

 晴臣が言うと、花びらが消えた。

 カケルは目を細める。

「君が噂の転校生か。なるほど、いいツッコミだ。まるで冬の朝、寝起きに踏んだレゴブロックのように鋭い」

「痛いだけだろ!」

「褒めている」

「褒め方を学べ!」

 カケルはひよりに向き直った。

「天野。今度こそ、僕の邪魔はさせない」

「去年みたいに、体育館を丸ごと熱湯風呂にする気?」

「あれは“会場が沸いている”を表現した芸術だ」

「救急車が十二台来たよ!」

「観客動員数として数えれば大成功だ」

「数えるな!」

 晴臣が立ち上がる。

「何をするつもりだ」

 カケルは扇子を開いた。そこには達筆で『宇宙』と書かれている。

「史上最大のボケだよ」

 食堂の天井が、わずかにきしんだ。

「この学園そのものを、誰も見たことのない舞台へ連れていく」

 ひよりの顔から、笑みが消えた。

「まさか……」

 カケルは扇子で口元を隠した。

「土曜日を楽しみにしていたまえ、ツッコミ部」

 彼が指を鳴らす。

 白い煙が上がった。

 煙が晴れると、カケルは同じ場所にいた。

「消えないのかよ!」

「今、練習中だ」

「歩いて帰れ!」

 カケルは少し赤くなり、普通に食堂を出ていった。

 文化祭当日。

 私立大法螺学園は、朝から異様な熱気に包まれていた。

 校門には『第百回文化祭 今年こそ死人ゼロ』の横断幕。

 焼きそば、たこ焼き、クレープの香り。メイド服の男子。甲冑姿の女子。廊下を走る戦国武将に、生活指導の先生が「廊下は天下統一するな!」と怒鳴っている。

「平和だな」

 晴臣がつぶやくと、隣のひよりが首をかしげた。

「基準、壊れてない?」

「この学校に四日いたからな」

 二人は体育館へ急いだ。

 大ボケ王決定戦は正午開始。観客は全校生徒と来場者、合わせて千人以上。

 壇上には巨大なマイクが一本。左右には大喜利部の部員たちが並び、全員がサングラスと蝶ネクタイを着けている。

「不審者の品評会か!」

 晴臣のツッコミで、何人かのサングラスが割れた。

 ひよりは舞台裏の配電盤を確認し、眉をひそめる。

「ノリ抑制装置が切られてる」

「そんな便利なものがあるなら、普段から使えよ」

「電気代が月に八億円かかるの」

「学校ごと閉めろ!」

 体育館が暗転した。

 スポットライトが、中央のカケルを照らす。

「レディース、ジェントルメン、そして宿題を家に忘れた者たち!」

 大歓声。

「今日、我々は退屈な日常に別れを告げる! 教室と家を往復し、テストの点に泣き、購買のパンを奪い合うだけの青春は、もう終わりだ!」

 カケルは両腕を広げた。

「この学園には、夢が足りない!」

 観客が「そうだ!」と叫ぶ。

「冒険が足りない!」

「そうだ!」

「そして学食の唐揚げには、下味が足りない!」

「そうだぁぁぁ!」

「そこだけは同意するな!」

 晴臣の声は歓声にかき消された。

 ひよりが舞台へ走る。

「カケル先輩、やめて!」

「遅い!」

 カケルが扇子を高く掲げた。

「皆さんに、重大な秘密をお教えしよう!」

 体育館の空気が震える。

 千人分の期待が、一点に集まる。

「実は――」

 ひよりがハリセンを振りかぶる。

 晴臣も息を吸う。

 だが、カケルの声が一瞬早かった。

「この学校は、巨大宇宙船だったのだぁぁぁぁ!」

 どっ、と爆発するような歓声。

 十秒。

 校舎の窓に、鉄のシャッターが下りた。

 壁の中から無数の配管が飛び出し、体育館の床が青白く発光する。

 机と椅子が変形し、操縦席のように並び替わった。

 五秒。

 校庭が左右に割れた。

 地面の下から、巨大な噴射口が姿を現す。

 三秒。

 校長先生が、宇宙服で壇上に現れた。

「総員、発進準備!」

「校長だけ受け入れ早すぎるだろ!」

 ゼロ秒。

 轟音。

 私立大法螺学園は、地面を離れた。

「うわぁぁぁぁぁ!」

 体育館が激しく傾き、観客たちが後ろへ転がった。

 晴臣は床を滑りながら舞台の柱へしがみつく。ひよりが目の前を通過したので、制服の袖をつかんだ。

「助かった!」

「礼は後! というか軽っ!」

「朝ご飯、空気しか食べてないから!」

「それは食べたって言わねえ!」

 窓の外で、街が小さくなっていく。

 雲を突き抜け、空が群青から黒へ変わった。

 やがて揺れが止まる。

 シャッターが上がると、窓一面に星空が広がった。

 青い地球が、遠ざかっている。

「本当に宇宙まで来た……」

 晴臣の声が震えた。

 カケルは操縦席に立ち、満足げに地球を眺めている。

「見たまえ! これこそ青春! 教室の窓から宇宙を見る高校生など、我々が初めてだ!」

「初めてじゃなきゃ困る!」

 晴臣が叫ぶ。

 しかし、何も戻らない。

「弱いよ、犬伏くん」

 ひよりが悔しそうに言った。

「もう全員が、学校は宇宙船だと信じてる。普通のツッコミじゃ届かない」

 天井から機械音声が響く。

『恒久化まで、残り二十八分』

「恒久化?」

「三十分たつと、ノリ災害が現実として固定される。そうなったら、二度と地上の学校には戻れない」

「先に言え!」

「今、言った!」

「そういう意味じゃない!」

 晴臣はカケルをにらんだ。

「地球に戻せ!」

「断る。目的地は月だ」

「遠足感覚で言うな!」

「月面に第二校舎を建てる。そして、宇宙一の文化祭を開く」

「来場者どうすんだ!」

「徒歩」

「来られるか!」

 カケルが腕を振り下ろす。

「大喜利部! ツッコミ部を止めろ!」

 サングラスの部員たちが、一斉に立ち上がった。

「第一ボケ、“廊下は無限に続く”!」

 体育館の出口が、ぐにゃりと伸びた。

 扉の向こうに、果ての見えない廊下が出現する。

「第二ボケ、“階段は全部すべり台”!」

 校内の階段が銀色の急斜面に変わった。

「第三ボケ、“先生は話が長い”!」

 石頭先生の首が、ろくろ首のように伸び始めた。

「そっちの“長い”じゃねえ!」

 先生の首だけは元に戻った。

「犬伏くん、放送室へ!」

 ひよりがハリセンで大喜利部員をなぎ払い、叫ぶ。

「全校放送で、みんなのノリをひっくり返す! 私はここで時間を稼ぐ!」

「一人で平気か!?」

「大丈夫! 私、こう見えて十万人の敵を一人で倒したことがあるから!」

 体育館の床から、十万人の紙人形が湧き出した。

「今そのボケ必要だった!?」

「しまったぁぁぁ!」

 ひよりは紙人形の波にのみ込まれた。

「天野先輩!」

「大丈夫! 紙だから弱い!」

 紙人形たちは一斉に紙吹雪となり、ひよりの制服の中へ入り込んだ。

「ちくちくするぅぅぅ!」

「微妙に嫌な攻撃!」

 晴臣は無限廊下へ飛び込んだ。

 放送室は旧校舎三階。

 だが、廊下は走っても走っても終わらない。

 同じ教室。同じ掲示板。同じ消火器。

 五分走っても、景色は一ミリも変わらなかった。

「無限に続く廊下なんて……あるわけ……」

 晴臣は言いかけて、止まった。

 窓の外は宇宙。足元は金属。今は、ありえないものがありえる世界だ。

 ただ否定しても届かない。

 ひよりの言葉がよみがえる。

 ――なぜありえないのかを、みんなの心に届く言葉で示す。

 晴臣は息を整え、廊下を見回した。

 同じ掲示板には、文化祭のポスター。同じ消火器の横には、校内案内図。

「……廊下ってのはな」

 晴臣は壁を蹴った。

「教室と教室をつなぐためにあるんだ! 目的地に着かない廊下は、ただの長い部屋だろ!」

 ぱきん、と空間に亀裂が入った。

 無限の廊下が縮み、目の前に階段が現れる。

「よし!」

 階段は、すべり台になっていた。

 晴臣は迷わず飛び乗る。

「上に行きたいのに下へ滑るすべり台は、遊具として欠陥品だぁぁぁ!」

 銀色の斜面が階段へ戻る。

 勢いのついた晴臣は段差に引っかかり、顔面から転んだ。

「戻るタイミング!」

 鼻を押さえて立ち上がる。

 そのとき、校内放送が流れた。

『残り二十分』

 続いて、ひよりの声。

『犬伏くん、聞こえる!? 放送室の手前に、大喜利部の最終防衛線がある!』

「先に言ってくれ!」

『今、言った!』

「このやり取り二回目!」

 三階へ上がると、廊下の中央に、巨大な門が立っていた。

 門の前には、白い学ランのカケル。

「やはり来たか」

「操縦席にいたはずだろ!」

「僕は双子だ」

「急に新設定を出すな!」

 カケルが二人に増えた。

「本当に増えた!」

「紹介しよう。弟のカケラだ」

「名前の時点で余り物!」

 二人のカケルが同時に扇子を開く。

「ここから先へは行かせない」

 晴臣は立ち止まった。

「どうして、そこまでして学校を宇宙へ飛ばしたいんだ」

「言ったはずだ。退屈な日常を変えるためだ」

「本当にそれだけか?」

 カケルの笑みが、ほんの少し揺らいだ。

「去年の大ボケ王決定戦。お前は体育館を熱湯風呂にした。けど、天野先輩が止めた。みんな笑った。でも、お前だけ笑ってなかった」

「……」

「笑わせたいんじゃない。驚かせたいだけだろ。誰にも無視されないくらい、でかいことをしたいんだ」

 カケルの扇子が閉じた。

「君に何が分かる」

 低い声だった。

「僕が一年のとき、初めて文化祭の舞台でボケた。必死に考えた。何百回も練習した。だが、誰も笑わなかった。みんな下を向いて、スマホを見ていた」

「だから、逃げられない場所まで連れてきた?」

「宇宙なら、誰も無視できない!」

 二人のカケルが扇子を振る。

「最終ボケ――“ツッコミは、誰かを傷つけるだけだ”!」

 晴臣の胸が、ずきんと痛んだ。

 中学の舞台。

 泣いていた友人。

 笑い声。

 声が出ない。

 門が大きくなり、放送室を完全に覆い隠す。

「そうだろう、犬伏晴臣。君の言葉は刃物だ。黙っていれば、誰も傷つかない」

 晴臣は拳を握った。

 反論できない。

 実際、傷つけた。

 その記憶は消えない。

『残り十五分』

 機械音声だけが響く。

 そのとき、天井のスピーカーから、ざざっと雑音が流れた。

『犬伏くん』

 ひよりの声だった。

『聞こえてる?』

「……先輩」

『ツッコミが刃物っていうの、私は間違いじゃないと思う』

 カケルが眉を寄せる。

『言葉は、たぶん全部そう。ボケだって、励ましだって、好きって言うのだって。使い方を間違えたら、誰かを傷つける』

「だったら――」

『だから、使わないんじゃなくて、使い方を覚えるんだよ』

 晴臣は目を閉じた。

『君のツッコミで、私は今日まで何回も助かった。暴走した世界を戻してもらった。笑ってもらった。今だって、君が来るって信じてる』

 ひよりの声が、少しだけ震えた。

『私を地球に帰して、晴臣くん』

 初めて、名前で呼ばれた。

 晴臣は目を開いた。

「……ツッコミは、誰かを傷つけるだけ?」

 門の前へ一歩進む。

「違う」

 もう一歩。

「傷つけたなら、謝ればいい。言い方を間違えたなら、次は直せばいい。黙って見捨てる理由にはならない!」

 晴臣は門を指さした。

「それにな――」

 息を吸い込む。

「誰かを傷つける“だけ”のツッコミなら、今ごろ俺はお前の双子設定をもっと徹底的にいじってるわ! 弟、さっきから一言もしゃべってねえぞ! というか、よく見たら鏡じゃねえか!」

 二人目のカケルが、ぴしりと割れた。

 本当に鏡だった。

「気づいていたのか!」

「気づくわ! 左右反転した名札つけてんじゃねえ!」

 門が粉々に砕け散る。

 晴臣は放送室へ飛び込んだ。

 放送室の窓から、月が見えた。

 白く巨大な表面が、みるみる近づいてくる。

『恒久化まで、残り十分』

 晴臣はマイクの前に座った。

 スイッチをすべて入れる。

「全校生徒、聞こえるか!」

 自分の声が、校内中に響いた。

「ツッコミ部の犬伏晴臣だ!」

 言ってから気づいた。

 仮入部のつもりだった。

 だが今は、その名を名乗ることが少しも恥ずかしくなかった。

「この学校は宇宙船じゃない!」

 何も起きない。

 窓の外には宇宙がある。月がある。言葉だけでは、現実に負ける。

 体育館から、カケルの声が割り込んだ。

『見苦しいぞ、犬伏! 目を開けろ! 我々は宇宙にいる! 校舎は飛び、全員がそれを見ている!』

 生徒たちのざわめき。

 不安と興奮が入り混じっている。

 晴臣は、放送机の上に置かれた文化祭パンフレットを見た。

 クラスの出し物。部活動の発表。後夜祭。校庭での花火。

 どれも途中だ。

 木戸は朝から、好きな子をお化け屋敷に誘うと言っていた。

 石頭先生は、教員バンドでドラムを叩く予定だった。

 ひよりは、放課後に焼きそばを半分こしようと笑っていた。

 全員の青春が、地上に置き去りになっている。

「確かに、今は宇宙にいる」

 晴臣は静かに言った。

「校舎も飛んでる。窓の外には月がある。そこは認める」

 校内が静かになる。

「でもな、カケル先輩。学校ってのは、でかいことをするためだけの場所じゃない」

 教室で笑う。

 廊下でくだらない話をする。

 テストで失敗する。

 好きな子に声をかけられず、家に帰ってから後悔する。

「退屈に見える毎日の中で、ちょっとずつ何かを始める場所だ」

 晴臣はマイクを強く握った。

「今日だってそうだ! まだ、文化祭は終わってない! 出し物も、後夜祭も、告白も、片づけで誰がゴミを持ち帰るかの醜い押しつけ合いも、全部残ってる!」

 校内のどこかで、笑いが起きた。

「それを全部ほっぽり出して、学校ごと宇宙旅行!? 青春を吹き飛ばすんじゃなくて、会場を吹き飛ばしてどうすんだ!」

 笑い声が増える。

「それに一番大事なことを忘れてるぞ!」

 晴臣は腹の底から叫んだ。

「校舎を宇宙船にした燃料代、PTAにどう説明すんだよぉぉぉぉぉ!」

 一秒の沈黙。

 次の瞬間、校内が爆笑に包まれた。

「確かに!」

「絶対、臨時総会だ!」

「お父さんが怒る!」

「うちの母ちゃん、領収書ぜんぶ見るぞ!」

「月までの交通費、学割きくのか!?」

 誰かの声に、さらに笑いが広がった。

 “学校は宇宙船だ”というノリが、崩れていく。

 代わりに、“そんな予算はない”という圧倒的な常識が、千人の心を一つにする。

 校舎全体が、激しく震えた。

『ノリ反転を確認』

 機械音声。

『現実復帰モードへ移行します』

「そんなモードあるなら最初から使え!」

 晴臣の最後のツッコミと同時に、宇宙船だった校舎が、落下を始めた。

「戻るって、落ちることだったのぉぉぉ!?」

 放送室が上下に揺れる。

 窓の外で、月が遠ざかり、青い地球が急速に近づいてくる。

『大気圏突入まで三十秒』

「耐熱装備は!?」

『本校の校則に、燃えないよう努力する、とあります』

「根性論で大気圏を越えるな!」

 扉が開き、ひよりが転がり込んできた。

 髪はぼさぼさ、制服は紙吹雪だらけ。それでも笑っている。

「晴臣くん!」

「先輩、つかまれ!」

 二人は放送机の下へ潜り込んだ。

『大気圏突入』

 校舎が赤く燃えた。

 窓の外を炎が包む。

「熱い熱い熱い!」

「大丈夫! 今の私たちは、燃えるような青春の真っ最中だから!」

「抽象表現で物理的に燃やすな!」

 炎が消えた。

「やった!」

「喜ぶのは着地してから!」

『地表まで五秒』

「速い!」

『四、三、二――』

「一は!?」

 どっっっっっっっっっっっん!

 私立大法螺学園は、元あった場所へ、寸分たがわず着地した。

 衝撃で校内の黒板消しが一斉に落ち、全校生徒の頭に命中した。

 夕方。

 文化祭は、何事もなかったかのように再開された。

 校庭では花火の準備が進み、廊下には焼きそばの匂いが戻っている。

 校舎の壁には、うっすら焦げ跡が残ったが、校長先生は「味が出た」で済ませた。

「済ませるなよ」

 晴臣は旧校舎の用具倉庫で、入部届を見つめていた。

 仮入部期間は、まだ三日残っている。

 ひよりが向かいで、焼きそばを二つに分けている。

「はい、半分」

「先輩のほう、肉多くないですか」

「部長手当」

「食べ物で支給されるのかよ」

 人体模型の佐藤が、箸を持って待っていた。

「お前、食べられないだろ」

 佐藤は悲しそうに肩を落とした。

「感情あるの!?」

 扉が開いた。

 白い学ランのカケルが立っている。いつもの扇子はなく、手には一枚の紙。

「犬伏晴臣」

「何ですか」

「今日のツッコミ、見事だった」

 カケルは深く頭を下げた。

「僕は、驚かせれば人の心に残ると思っていた。だが、違った。最高のボケには、最高のツッコミが必要なんだな」

「分かってくれたなら、もう学校を飛ばさないでください」

「もちろんだ」

 カケルは紙をちゃぶ台に置いた。

『ツッコミ部 入部届』。

「今日から僕も、この部で腕を磨く」

「いや、あんたはボケ側だろ!」

「役職は会計を希望する」

「佐藤と合わせて破産まっしぐら!」

 ひよりが大喜びで拍手した。

「これで三人! 正式な同好会になれる!」

「副部長の佐藤を数えてないのかよ!」

 佐藤が再び肩を落とした。

「だから感情あるの!?」

 笑い声が、狭い用具倉庫に響いた。

 晴臣は自分の入部届を手に取る。

 “仮”の文字を、二本線で消した。

「改めて、よろしくお願いします」

 ひよりが一瞬だけ目を丸くし、それから満面の笑みを浮かべた。

「うん。よろしくね、晴臣くん!」

 その笑顔は、一億ボルトどころではなかった。

 晴臣の心臓が、少しだけ速くなる。

 ひよりは、もう一枚の紙を差し出した。

「じゃあ、これにもサインを」

「何ですか?」

「ツッコミ部の入部届は、婚姻届も兼ねてるの」

「兼ねるかぁぁぁぁぁ!」

 用具倉庫の壁が吹き飛び、純白の教会が出現した。

 鐘が鳴り、鳩が飛び、人体模型の佐藤が神父の服に着替える。

「だから何でお前が仕切るんだ!」

 十秒後、教会は消えた。

 けれど、晴臣の左手には、なぜか銀色の指輪だけが残っていた。

 ツッコミが、ほんの少し遅れたせいだった。