『ナナシノカミ ――午前零時の出席簿――』
午前零時、誰もいないはずの三年二組で、黒板がひとりでに妹の名前を書いた。
白いチョークが、き、き、と虫の歯ぎしりみたいな音を立てる。
篠塚 小春。
七年前に消えた、俺の妹。
写真からも、戸籍からも、父さんと母さんの記憶からさえ消えた女の子。
その名前を覚えているのは、この町で俺だけだった。
「……小春」
呼んだ瞬間、黒板の奥で何かが笑った。
チョークが落ちる。
乾いた音が、暗い教室にやけに大きく響いた。
俺――篠塚蓮は、握っていた古い携帯電話を見た。
七年前、小春がいなくなった夜から電源すら入らなかった端末だ。
今夜十一時十三分。
突然、画面が光った。
『れん。がっこうにきて』
『しゅっせきを、とって』
それだけだった。
だから俺は、取り壊し前で立入禁止になっている旧校舎へ忍び込んだ。
自分でも馬鹿だと思う。七年も待ったせいで、馬鹿になるには充分だった。
「その名前を、二度と呼ばないで」
背後から声がした。
振り返ると、教室の入口に女の子が立っていた。
長い黒髪。うちの学校の制服。首には赤い組紐が十三重に巻かれ、胸元まで垂れている。右手には、ひび割れた丸い鏡。
月白御琴。
今月、三年一組に転校してきたばかりの生徒だ。
「月白……どうしてここに」
「あなたこそ。今の声で、あれに居場所を教えた」
「あれって何だよ。小春はどこにいる」
御琴は答えず、鏡を俺へ向けた。
曇った鏡面に、俺の姿が映る。
その背後。
教室の天井から、白い顔が十三個、逆さにぶら下がっていた。
目も鼻も口もない。
濡れた紙粘土みたいな、つるりとした顔。
俺は息をのんで振り向いた。
何もいない。
だが鏡の中では、十三の顔がいっせいにこちらを向いていた。
『これより』
校内放送が鳴った。
ざざざ、と砂嵐。
続いて、幼い子どもの声。
『十三名の出席を、確認します』
廊下の非常灯が一斉に消えた。
遠くで鐘が鳴る。
一つ。
御琴の顔から血の気が引いた。
「始まった」
『一人目』
放送の声が、嬉しそうに弾む。
『矢島、丈瑠くん』
「おーい、蓮! いるんだろ!」
聞き慣れた大声が階段の方から響いた。
最悪だった。
「丈瑠!?」
教室に飛び込んできたのは、俺の幼なじみだった。
ジャージ姿にサンダル。片手には金属バット。俺が夜中に家を抜け出したのを見て、追ってきたらしい。
「やっぱりここか。おばさんから電話きたぞ。お前がまた小春ちゃんの――」
「返事するな!」
御琴が叫んだ。
「は?」
『矢島、丈瑠くん』
放送がもう一度呼ぶ。
声が変わった。
『丈瑠』
低く、やさしい男の声。
丈瑠の手からバットが落ちた。
「……親父?」
丈瑠の父親は三年前に海で死んでいる。
『丈瑠。返事をしなさい』
廊下の闇から、濡れた足音が近づいてくる。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
「親父……そこにいるのか」
「丈瑠、聞くな!」
俺は丈瑠の肩をつかんだ。
だが丈瑠の目は、もう俺を見ていなかった。
廊下の奥で揺れる、作業服姿の影を見つめている。
『丈瑠』
「……はい」
二つ目の鐘が鳴った。
丈瑠の顔から、目と鼻と口が消えた。
いや、消えかけた。
皮膚が溶けた蝋みたいに輪郭を失い、のっぺりと白くなる。
「丈瑠!」
御琴が赤い組紐を一本ほどき、丈瑠の左手首へ巻きつけた。
紐が蛇のように締まり、彼の皮膚へ食い込む。
白く潰れかけた顔に、かろうじて目鼻が戻った。
「う、うわ……俺、今……」
「名前を半分、喰われた」
御琴は丈瑠の手首の結び目を強く引いた。
「夜明けまでに取り戻さなければ、この町の全員があなたを忘れる。写真も記録も消える。あなた自身も、自分が誰だったか分からなくなる」
「冗談だろ」
「冗談なら、あの人に聞いてみれば?」
御琴が鏡を廊下へ向ける。
鏡の中にだけ、丈瑠の父親が立っていた。
顔は白く塗り潰されていた。
その背中から、子どもの腕が何十本も生えている。
腕たちは丈瑠を指さし、一斉に口のない声で囁いた。
『つぎは、だれ?』
「この町には、名前を喰う神がいる」
俺たちは旧校舎の西階段を駆け下りていた。
背後から、無数の上履きが床を擦る音が追ってくる。
振り向かなくても分かる。白い顔の生徒たちだ。
「ナナシノカミ。十三年に一度、午前零時から一時十三分まで、十三人の名前を呼ぶ。返事をした者は、この世との縁を切られる」
御琴は走りながら言った。
「うちの神社は、あれを封じるために建てられた。学校がこの場所に移されたのも、子どもの声で神を眠らせるため」
「学校で神を封じるって、意味分かんねえぞ!」
丈瑠が息を切らしながら怒鳴る。
「大昔から、出席を取る声は名前を現世へ縫い止める力を持つの。毎日、先生が呼んで、生徒が答える。その積み重ねで封印していた」
「じゃあ何で今夜、起きた」
俺の問いに、御琴は一瞬だけ目を伏せた。
「封印の楔が、もう限界だから」
「楔?」
三つ目の鐘が鳴った。
校舎全体が大きく軋んだ。
壁の塗装が剥がれ、その下から黒い木の板が現れる。
蛍光灯は油皿へ変わり、アルミサッシの窓は格子戸になった。
廃校舎が、もっと古い別の建物へ変わっていく。
階段の踊り場に掛かっていた校歌の額が落ちた。
その裏から、焦げた文字が現れる。
『鏡守養育舎』
「大正八年、この町に流行り病が広がった」
御琴が言う。
「身寄りのない十三人の子どもが、この養育舎に集められた。町の大人たちは病気を恐れて、扉を外から釘で打った。そして――」
「焼いたのか」
御琴は答えなかった。
答えなくても、焦げ臭い空気が教えてくれた。
階段の下から、子どもたちの歌が聞こえる。
『ひとり、ふたり、なまえをかして』
『みたり、よたり、かえしてあげる』
『いつつ、むっつ、わすれてしまえ』
『ななつのよるに、せんせいがくる』
「大人たちは十三人の名前を記録から消した。そんな子どもは最初からいなかったことにした。供養もされず、呼ぶ者もいない魂が絡み合って、ナナシノカミになった」
「そいつが名前を奪ってるってことか」
「自分たちにないものを集めている。十三人分の名前を喰えば、この町にいる全員の名前を書き換えられる」
「どうなる」
「誰が親で、誰が子で、誰を愛して、誰を憎んだのか。全部なくなる。六千人の、顔のない町になる」
階下の闇から白い手が伸びてきた。
俺はとっさに丈瑠の金属バットを拾い、振り抜いた。
がんっ、と硬い感触。
白い顔の生徒が手すりを越えて飛びかかってくる。
制服は何十年も前の詰襟やセーラー服、最近のブレザーまで入り混じっていた。
これまで奪われた生徒たちだ。
「名前を返せぇ……」
顔のない口から、黒い液体がこぼれる。
「俺の名前を、返せぇ!」
「悪いけど、俺は持ってねえ!」
もう一度バットを叩き込む。
腕に痺れが走った。怪物はよろめくだけで倒れない。
御琴がひび割れた鏡を向けた。
「映し身は、真名へ帰れ!」
鏡から月光のような白い光が走る。
怪物の胸に、薄い文字が浮かんだ。
『蛍井 涼』
「蛍井涼!」
御琴が呼ぶ。
怪物の動きが止まった。
顔に一瞬だけ、泣きそうな少年の目が戻る。
『……はい』
その体は白い紙片になって崩れた。
丈瑠が目を丸くする。
「名前が分かれば倒せるのか?」
「倒したんじゃない。自分の名前へ戻しただけ」
御琴は鏡を握り直した。
ひびが一本、増えていた。
「ナナシノカミを止める方法も同じ。十三人の本当の名前を呼び、もう一度この世へ縫い止める」
「その名前はどこにある」
「地下書庫。焼け残った最初の出席簿が、封印の中心にある」
俺は階段を見下ろした。
底のない井戸みたいな闇。
そこから、妹の声がした。
『お兄ちゃん』
左の掌が熱くなった。
七年前、消えかけた小春の手をつかんだとき、爪で深く裂かれた傷。
今も残る三日月形の傷痕から、黒い血が一滴こぼれた。
『来ちゃだめ』
「小春!」
『わたしの名前を、呼ばないで』
四つ目の鐘が鳴った。
階段の下で、何百もの白い顔が上を向いた。
地下書庫は、旧校舎の図書室のさらに下にあった。
本棚の陰に隠された鉄扉。
御琴が鏡を当てると、錆びた表面に十三個の手形が浮かび、扉が内側へ開いた。
冷たい風が吹き上がる。
石段の先には、焼け焦げた教室があった。
黒い柱。
崩れた机。
天井から吊るされた、小さな真鍮の鐘。
黒板には、子どもの字でこう書かれていた。
『きょうも、せんせいはこなかった』
丈瑠が息をのむ。
「ここで……十三人が?」
「ああ」
答えたのは御琴ではなかった。
教室の奥から、白い狐面をつけた老人が現れた。
紋付きの羽織。
手には杖。
うちの学校の校長、月白玄悟。そして御琴の祖父だ。
「祖父さま」
御琴が鏡を構える。
「今夜は神社から出ない約束だったはずだ、御琴」
「私を閉じ込めて、生贄にするつもりだったから?」
丈瑠が俺へ顔を寄せた。
「今、生贄って言ったよな」
「聞こえた」
玄悟は狐面を外した。
深い皺の刻まれた、疲れた顔だった。
「言葉を選びなさい。これは犠牲ではない。月白の役目だ」
「同じよ」
「一人の名で六千人を守る。それが百年以上続いた盟約だ。十三年ごと、月白の血を引く者が名を差し出し、神を眠らせる」
「十三年前は、兄さんを差し出した」
御琴の声が震えた。
「私は兄さんの顔を覚えていない。父さんも母さんも、息子がいたことすら覚えていない。でも私の部屋の壁に、背比べの傷が二人分あった。押し入れには、私宛ての手紙があった。『御琴を頼む』って」
首の赤い組紐が、かすかに光る。
「兄さんの名前を思い出すために、私はこの七年間、町じゅうの記録を調べた。なのに祖父さまは、今度は私を差し出すつもりなの?」
「お前なら神をあと十三年は抑えられる」
「その次は誰を差し出すの」
玄悟は答えなかった。
「その次の次は?」
「黙りなさい!」
杖が床を打つ。
五つ目の鐘が鳴った。
教室の机が、一斉にこちらを向いた。
椅子には白い子どもたちが座っている。十三人。
その中央。
赤いランドセルを抱いた少女がいた。
「小春……」
七年前より背が伸びている。
短かった髪は肩まで届き、顔つきも、消えた八歳の少女ではない。
俺が十五歳になったように、小春も十四歳になっていた。
ただし、体の半分が黒板の中に沈んでいた。
「お兄ちゃん」
小春は泣きそうな顔で笑った。
「大きくなったね」
胸の奥に押し込めていた七年分が、一気に崩れた。
駆け寄ろうとした俺の前へ、玄悟の杖が突き出される。
「近づくな。あの娘が今の楔だ」
「小春が?」
「七年前、封印が一度ほころんだ。神に呼ばれたあの娘は、本来の祭日ではない夜にここへ来た。そして自ら名を差し出し、目覚めを遅らせた」
「自ら?」
俺は小春を見た。
小春は目を逸らした。
七年前の記憶が蘇る。
夜中、家を出ようとした小春。
止める俺。
泣きながら「呼んでる子がいるの」と言った小春。
俺は怖くなって、母さんを呼びに行った。
戻ったときには、玄関だけが開いていた。
「どうしてだよ」
「だって、ずっと泣いてたから」
小春は黒板の中の十三人を見た。
「誰にも名前を呼んでもらえなくて。ずっと、ずっと、出席を待ってた」
「だからって、お前が消える必要はないだろ!」
「お兄ちゃんが、わたしの名前を忘れなかったから、わたしは全部消えずにいられた」
小春の視線が俺の掌の傷へ落ちる。
「最後に引っかいたの、ごめんね。でも、あそこに名前を残せば、お兄ちゃんだけは覚えてくれる気がした」
傷痕から黒い血がにじみ、文字の形に広がった。
『小春』
俺の掌に、妹の名前が浮かんでいた。
玄悟が低く告げる。
「楔は今夜で砕ける。だから御琴の名を新たに与える。篠塚小春は解放されるが、外へ戻ることはできない。すでに七年、神と混ざりすぎた」
「ふざけるな。小春も御琴も助ける」
「子どもの理想で、町を滅ぼすつもりか」
「子どもを焼いて始まった呪いを、また子どもで繋ぐ方がどうかしてる!」
玄悟の顔が歪んだ。
一瞬、怒ったのかと思った。
だが違った。
あれは、泣くのを耐えている顔だった。
「……それを、何度考えたと思う」
玄悟が杖の石突きで床板を突いた。
焼けた教卓の下から、一冊の帳面がせり上がる。
黒く焦げた表紙。
『鏡守養育舎 出席簿』
御琴が息をのんだ。
玄悟はそれをつかむ。
「名を呼び戻す方法は、私も試した。だが十三人目の名だけがない。戸籍にも、この出席簿にも。名のない魂を一人残せば、神は必ず蘇る」
彼は帳面を懐へ入れた。
「終わらない希望は、絶望より残酷だ」
「待て!」
玄悟が杖を振るう。
机に座っていた白い子どもたちが、一斉に立ち上がった。
御琴の鏡が光る。
俺はバットを構える。
丈瑠も拳を握った。
そのとき、放送が鳴った。
『二人目』
幼い声が告げる。
『月白、御琴さん』
玄悟が教室を出ていく。
「鐘楼で待つ。十三回目の鐘が鳴る前に、御琴の名を神へ渡す」
扉が閉まり、何本もの黒い腕が閂のように絡みついた。
『月白、御琴さん』
御琴の顔が白くなる。
声が変わった。
『みこと』
若い少年の声だった。
『こっちにおいで』
御琴の目から涙がこぼれた。
「兄さん……?」
六つ目の鐘が鳴った。
「返事するな!」
今度は俺が御琴の肩を抱いた。
だが教室中から、少年の声が聞こえる。
『御琴』
『御琴』
『怖くないよ』
『僕と同じになればいい』
赤い組紐が一本、御琴の首からほどけた。
宙を泳ぎ、白い子どもの一人へ吸い込まれる。
御琴の瞳から、光が薄れた。
「私……何をしに、ここへ来たんだっけ」
「おい!」
「名前を呼ばれるたび、結び目が記憶を代わりに食べられる」
御琴は自分の頬を叩いた。
「十三本なくなれば、私は返事をする。そうなる前に鐘楼へ行く」
「この扉をどうやって開ける!」
「向こうが閂なら、こっちは壁を壊すだけだろ」
丈瑠が床のバットを拾った。
顔の輪郭が、また少し薄くなっている。
「校則にも書いてある。非常時は窓から避難しろってな」
「地下だぞ」
「窓はある」
丈瑠が指さした。
焼けた教室の窓。
その向こうには土壁があるはずだった。
だが今は、真っ赤な夕焼けが広がっていた。
地平線まで並ぶ墓標。その間を、白い顔の生徒たちが歩いている。
「絶対、非常口じゃないだろ」
「扉よりマシだ!」
白い子どもたちが襲いかかる。
丈瑠がバットを振り回し、俺が机を蹴り倒す。
御琴は鏡で怪物たちの名前を照らした。
「高橋一馬! 吉野紗季! 阿久津誠!」
名前を呼ばれるたび、怪物が紙へ戻る。
だが鏡のひびも増えていく。
俺たちは窓へ飛び込んだ。
ガラスを破ったはずなのに、音はしなかった。
次の瞬間、墓場を走っていた。
空には黒い月。
旧校舎が、巨大な焼け跡のようにそびえている。
屋上の鐘楼だけが、天へ突き刺さる塔になっていた。
「ここ、どこだよ」
「名前を失った者が流れ着く、神の腹の中」
御琴が答える。
七つ目の鐘が鳴った。
墓標から手が生える。
白い生徒たちが土を破り、何十人も這い出してきた。
『名前を』
『お前の名前を』
『呼んでくれる人を』
『よこせ』
丈瑠が俺の背中を叩いた。
「先に行け!」
「一人で格好つけるな!」
「一人じゃねえだろ」
丈瑠は手首の赤い紐を見た。
「矢島丈瑠だ。お前がそう呼んだ。なら、まだ俺はここにいる」
顔が消えかけているのに、笑った。
「七年も妹を覚えてた執念男が、ここで止まんな」
俺は御琴の手を引いた。
「丈瑠。絶対、自分の名前を忘れるな!」
「おう!」
俺たちは鐘楼へ走った。
背後で金属バットが骨を打つような音が鳴り続ける。
途中、御琴の組紐がまた一本消えた。
「私の家族は……誰?」
「月白玄悟がお前のじいさんだ。兄さんがいた。お前は兄さんの名前を取り戻すために来た!」
「そう……だった」
さらに一本。
「この鏡は?」
「怪物の本当の名前を映す!」
「あなたは?」
「篠塚蓮!」
「違う。私にとって、あなたは何?」
息が詰まった。
会ったのは今夜が初めてだ。
友達と呼ぶには短すぎる。
他人と呼ぶには、一緒に死にかけすぎている。
「共犯者だ!」
御琴が目を瞬かせ、ふっと笑った。
「最低の答え」
「覚えやすいだろ」
「うん。忘れない」
八つ目の鐘が鳴った。
鐘楼への石段が裂け、下から巨大な白い顔がせり上がった。
口のない顔。
その表面に、奪われた無数の名前が黒い文字で這っている。
怪物が頭を振る。
髪の代わりに伸びた何百本もの腕が、俺たちへ襲いかかった。
俺は掌を突き出した。
「小春!」
傷痕が燃えた。
白い腕が俺へ触れた瞬間、黒い火花が散る。
妹の名前が、俺をこの世へ繋ぎ止めている。
「行けぇっ!」
腕をかいくぐり、怪物の顔へバットを叩き込んだ。
丈瑠から借りた一撃。
白い顔に亀裂が走る。
御琴の鏡が、その奥を照らした。
十三人の子どもが、暗闇の中で身を寄せ合っている。
いちばん小さな子を中心に、残る十二人が輪になって守っていた。
小さな子の胸だけ、名前札が空白だった。
俺たちは鐘楼へ駆け上がった。
屋上の鐘楼では、巨大な鐘が宙吊りになっていた。
その下に御琴の祖父が立っている。
床一面に赤い縄が張られ、中央には人ひとり分の空白。
玄悟が出席簿を開いた。
「九つ目が鳴った。もう時間がない」
「帳面を渡せ!」
「十三人目の名がない限り、無駄だ」
「十二人だけでも呼ぶ!」
「十二人を神から切り離せば、残った一人にすべての飢えが集まる。今より強い化け物になるぞ」
「だからって御琴を渡すのか!」
玄悟の手が震えた。
「私は息子を二人、神へ渡した」
御琴が目を見開く。
「二人?」
「十三年前、お前の兄を楔にした。それより前には、私の長男を。名を渡した瞬間、私は彼らを忘れた。悲しみさえ残らなかった。ただ、毎朝食卓に余る茶碗を見て、胸の奥に穴が空いている理由だけが分からなかった」
玄悟は笑った。
泣いているような笑いだった。
「忘れることは救いではない。だが、町が滅びるよりはましだと、私は自分に言い聞かせてきた」
「祖父さま」
「許してくれとは言わない」
玄悟が杖を上げる。
床の赤い縄が御琴の足首へ絡みついた。
「御琴!」
俺が手を伸ばす。
だが縄は俺の体を弾き飛ばした。
背中を鐘の柱へ打ちつけ、息が止まる。
九つ目の鐘が鳴った。
御琴の組紐が三本、まとめて消えた。
彼女の瞳から俺の姿が抜け落ちる。
「あなた……誰?」
「共犯者だ!」
御琴の唇が動く。
「きょう、はん……」
玄悟が出席簿を鐘の下へ置いた。
「月白御琴。その名をもって、ナナシノカミを鎮め奉る」
黒い月が割れた。
空の亀裂から、巨大なものが降りてくる。
黒い学生服を何百枚も縫い合わせたような体。
首から上には、十三個の白い面。
胸には、名前を奪われた人々の顔が浮かんでは消える。
ナナシノカミ。
十三の面が同時に口を開いた。
『月白、御琴さん』
赤い縄が御琴を鐘の真下へ引きずる。
「はい、と答えなさい」
玄悟の声が震える。
『月白、御琴さん』
御琴の口が開く。
「……は」
「答えるな!」
俺は掌の傷を噛み切った。
血があふれる。
小春の文字が赤く燃えた。
その手で赤い縄をつかむ。
皮膚が焼ける。
爪が剥がれそうになる。
それでも引いた。
「御琴! お前は月白御琴だ! 兄さんの名前を探して、こんな地獄まで来た! 鏡を持った、口の悪い、俺の共犯者だ!」
御琴の瞳に光が戻る。
「……答えが、最低」
「知ってる!」
彼女は首に残った組紐を全部つかんだ。
「だったら、これも共犯」
十三本のうち残る七本を、自分で引きちぎる。
赤い紐が空中で刃に変わった。
「御名縛り――解!」
刃が赤い縄を切り裂く。
同時に、御琴の記憶が炎のように散った。
幼い日の笑顔。
両親の声。
兄とつないだ手。
ひとつひとつが光の蝶になり、夜へ消えていく。
「御琴!」
「大丈夫」
何も覚えていないはずの彼女が、鏡を構えた。
「やるべきことだけは、覚えてる」
ひび割れた鏡がナナシノカミを映す。
胸の奥に、十二の名前が浮かび上がった。
玄悟の足元から出席簿が飛び、空中で頁を開く。
十回目の鐘。
神の腕が襲う。
俺は一頁目をつかんだ。
「一ノ瀬千代!」
御琴の鏡が光る。
神の右肩から、赤い着物の少女が剥がれ落ちた。
少女は驚いたように自分の手を見る。
「ここにいる!」
俺は叫んだ。
千代の顔に目鼻が戻り、光の粒になる。
「馬場宗吉!」
「ここにいる!」
「花村ヨネ!」
「ここにいる!」
「木島太一!」
「ここにいる!」
名前を呼ぶたび、神の体から子どもが一人ずつ離れていく。
そのたびに怪物は小さくなる。
だが怒りは増していった。
『やめろ』
『また、ひとりになる』
『なまえを、うばうな』
「奪ってない!」
神の腕をかわしながら、俺は叫ぶ。
「返してるんだ! お前たちは最初から、ひとりじゃなかった!」
十一回目の鐘。
「篝葉ハル!」
「ここにいる!」
「野上正!」
「ここにいる!」
「島田ツネ!」
「ここにいる!」
「藤吉!」
「ここにいる!」
「イネ!」
「ここにいる!」
「カン!」
「ここにいる!」
「スズ!」
「ここにいる!」
「清太!」
「ここにいる!」
十二人の子どもが光になり、鐘楼を囲んだ。
残った神は、小さな白い赤ん坊の姿になった。
だがその影は、町全体を覆うほど巨大だった。
十二回目の鐘が鳴る。
出席簿の最後の欄は、焼け落ちていた。
名前がない。
白い赤ん坊が泣く。
声だけで、鐘楼の柱が砕けた。
御琴の鏡に亀裂が走る。
玄悟が膝をつく。
俺の掌から小春の文字が薄れていく。
黒い影の中から、小春が現れた。
「お兄ちゃん、もういいよ」
「よくない」
「十二人を返せた。あの子には、わたしの名前をあげる」
「駄目だ」
「最初に約束したの。泣きやむまで、一緒にいるって」
小春の足が影へ溶けていく。
「わたしが篠塚小春じゃなくなっても、お兄ちゃんが覚えててくれた七年間は消えないよ」
「勝手に終わらせるな!」
俺は出席簿をめくった。
焦げた頁。
十二人の名前。
子どもの落書き。
丸い太陽。
十三本の線で描かれた花。
そして、何度も書き直されたひらがな。
『あかるい』
『あかるいこ』
『あかり』
息が止まった。
玄悟が顔を上げる。
「それは名ではない。ただの落書きだ」
「違う」
俺は赤ん坊を見た。
十二人の子どもたちは、あの暗い教室でこの子を囲んでいた。
名札が空白でも、呼ぶ言葉がなかったわけじゃない。
「大人が戸籍に書かなかっただけだ。あの子たちは呼んでた」
赤ん坊の影が俺を飲み込もうと広がる。
俺は一歩、前へ出た。
「お前には名前がある」
影の中で、何千もの声が笑った。
『うそ』
『だれも、つけてくれなかった』
『だれも、よばなかった』
「十二人が呼んだ!」
出席簿を掲げる。
「暗い部屋で泣かなかったから。みんなを安心させるみたいに笑ったから。お前を――灯って呼んだ!」
赤ん坊が泣きやむ。
黒い月に、細い光が差した。
「十三人目」
俺は、出席を取る。
「灯!」
返事はない。
影が俺の足を這い上がる。
喉を締める。
名前を剥がそうと、無数の指が胸へ食い込む。
俺はもう一度叫ぶ。
「灯! ここにいるんだろ!」
小春が赤ん坊へ手を伸ばした。
「灯」
御琴も呼ぶ。
「灯」
丈瑠の声がした。
墓場から、白い生徒たちを引きずりながら鐘楼へ上がってくる。
顔はほとんど消えていた。それでも笑っている。
「呼ばれてんぞ、灯!」
玄悟が震える手で狐面を外し、床へ置いた。
「……灯」
十二人の子どもたちが輪になり、一斉に呼ぶ。
「灯」
赤ん坊の顔に、初めて目が生まれた。
涙で濡れた、黒い瞳。
「出席を取るぞ!」
俺は息を吸った。
「灯!」
十三回目の鐘が鳴った。
『はい』
小さな声が、世界を割った。
光が爆発した。
黒い月が砕け、墓標が崩れ、白い生徒たちの顔に次々と名前が戻る。
「矢島丈瑠!」
俺は叫んだ。
「はい!」
丈瑠の顔が完全に戻る。
「月白御琴!」
一瞬、御琴はきょとんとした。
それから胸へ手を当てた。
「……はい」
「篠塚小春!」
妹は泣きながら笑った。
「はい!」
俺は小春の手をつかんだ。
七年前と同じ、小さな手。
今度は絶対に離さない。
鐘楼が崩れ始める。
柱が折れ、巨大な鐘が傾いた。
足元の闇は消え、夜明け前の旧校舎が戻ってくる。
「走れ!」
玄悟が鐘を支える綱へ飛びついた。
「祖父さま!」
御琴が振り返る。
「先に行け!」
「一緒に!」
「まだ、最後の号令が残っている」
玄悟は鐘の下に立った。
周囲には十三人の子どもたちがいる。
もう白い顔ではない。
古い着物や継ぎはぎの服を着た、どこにでもいそうな子どもたちだ。
中央で灯が玄悟の指を握っている。
「大人が始めたことは、大人が終わらせる」
玄悟は御琴へ微笑んだ。
「お前の兄の名は、月白奏だ」
御琴の瞳から涙があふれる。
「奏……兄さん」
「忘れてすまなかった」
玄悟が綱を引く。
鐘が、これまでとは違う澄んだ音を鳴らした。
「本日の出席を終える」
十三人の子どもたちが玄悟を見上げる。
「全員、帰りなさい」
『はい、先生』
鐘楼が崩れた。
俺たちは小春の手を引き、階段を駆け下りた。
背後で十四人分の笑い声が聞こえた。
今度は誰かを誘う声ではない。
長い授業を終えた子どもたちの声だった。
夜明けと同時に、旧校舎の鐘楼は崩落した。
警察も消防も、老朽化による事故として処理した。
月白玄悟校長は行方不明。
俺たち三人が深夜の校舎へ侵入していた件は、ものすごく怒られた。
ただし、町にはもっと大きな混乱が起きた。
消えていた名前が、全部戻ったのだ。
アルバムの空白に、見知らぬ同級生の顔が現れた。
家の押し入れから、存在しなかったはずの子どもの服が見つかった。
何百人もの人が、忘れていた家族や友人を思い出し、泣いた。
父さんと母さんは、玄関に立つ小春を見た瞬間、七年分の記憶を取り戻した。
母さんは膝から崩れ、小春を抱きしめた。
父さんは声も出せず、二人ごと抱きしめた。
その夜、食卓には四人分の茶碗が並んだ。
小春は七年前のままではなかった。
神の中でも時間は流れていたらしい。
十四歳になった妹は、俺より少し背が低いだけで、昔みたいに俺の後ろへ隠れたりしなかった。
でも、嫌いなニンジンを俺の皿へ移す癖は変わっていなかった。
「おい」
「七年ぶりなんだから、いいでしょ」
「七年分まとめて食わせる気か」
「お兄ちゃんなら余裕」
そんなくだらない会話で、母さんがまた泣いた。
丈瑠は翌朝、自宅で母親に三時間抱きしめられたらしい。
名前を失っていたのは一晩だけなのに、母親の中には「息子がいなかった世界」の寒さが残っていたという。
御琴は、かなりの記憶を失った。
両親の顔。
神社の作法。
好きだった食べ物。
俺たちと旧校舎へ入った理由。
それでも「月白奏」という兄の名前だけは覚えていた。
祖父が最後に返してくれた名前だからだ。
放課後、俺と丈瑠が神社を訪ねると、御琴は石段の上で竹ぼうきを持っていた。
「どちらさま?」
「共犯者だ」
俺が答えると、御琴は眉をひそめた。
「最低の名乗り方」
「ほらな。覚えてなくても反応が同じだ」
丈瑠が笑う。
御琴はしばらく俺たちを見ていた。
やがて、ほんの少しだけ笑った。
「では共犯者。これから、私が忘れたことを全部教えて」
「全部は無理だ」
「どうして?」
「俺たちも今夜知り合ったばかりだから」
御琴は呆れた顔をした。
「本当に最低」
境内の奥には、新しい石碑が建てられていた。
一ノ瀬千代。
馬場宗吉。
花村ヨネ。
木島太一。
篝葉ハル。
野上正。
島田ツネ。
藤吉。
イネ。
カン。
スズ。
清太。
そして最後に、一文字。
灯。
姓はない。
生まれた日も、亡くなった日もない。
それでも、名前はある。
俺たちは十三人分の花を供えた。
一か月後。
新校舎での朝のホームルーム。
担任が出席簿を開き、いつもの調子で名前を呼ぶ。
「矢島丈瑠」
「はい!」
「月白御琴」
「はい」
「篠塚蓮」
「はい」
窓の外では、夏の雲が流れている。
何でもない朝。
誰かが誰かの名前を呼び、返事をする朝。
それが、どれほど強い呪いなのか。
俺たちはもう知っている。
放課後、教室に忘れ物を取りに戻ると、黒板に小さな字があった。
『きょうも、せんせいはきた』
その下に、丸い太陽の絵。
俺はチョークを手に取った。
『灯』
名前を書き、誰もいない教室へ呼びかける。
「いるんだろ」
風もないのに、カーテンが揺れた。
黒板の隅に、小さな白い手形が一つつく。
そして、耳元で声がした。
『はい』
それはもう、誰かを奪う声ではなかった。
了