『人生再編集社は午前二時に閉まる』

 雨は、街がついた嘘を洗い流すには細すぎた。

 午前一時四十二分。港ノ宮のネオンは濡れた路面で二重になり、酔客もタクシーも、自分の影を一人ぶん余計に連れて歩いていた。

 小宮回収所は、二十四時間営業のコインランドリーの二階にある。

 看板には〈失くした物、捨てた物、捨てられなかった物〉とだけ書いてある。財布や指輪なら交番へ行け、と小宮シンはいつも言う。彼が回収するのは、警察が受理してくれない品物だ。

 死んだ男が出し忘れた退職届。

 結婚式の前日に逃げた花嫁の勇気。

 二十年間、一度も口にされなかった「すまなかった」。

 そういう、形のない落とし物である。

 その夜、シンは事務机に両足を載せ、ぬるい缶コーヒーを飲んでいた。窓の外では、ランドリーの乾燥機が回るたび、赤と青のネオンが交互に瞬いた。

 扉が三度、ノックされた。

「開いている」

 返事を待たず、孔雀色のコートを着た青年が入ってきた。

 年は二十二、三。銀色の長靴、真珠を埋め込んだ手袋、黒曜石の杖。雨の夜に目立つためだけに設計されたような男だった。

 青年は部屋を見回し、深刻な顔で言った。

「ひどい事務所だ。観葉植物が遺言を書き始めている」

「水をやってないだけだ」

「それを世間では、ひどい事務所と言う」

 青年は名刺を一枚、机へ滑らせた。

 宝条アキラ。

 宝条グループ臨時総裁。

 肩書の下には、なぜか小さく〈美貌による地域振興担当〉と印刷されている。

「その担当は必要か」

「私が街を歩けば景気が上向く。統計はまだない」

「用件は」

 アキラの笑みが消えた。

 代わりに、古い写真が机へ置かれた。

 海沿いの小さな遊園地。錆びた観覧車を背に、七歳ほどの少年と、一人の男が笑っている。少年はアキラだった。男は宝条グループ会長、宝条十蔵。新聞では、笑わない経営者として有名な人物だ。

 写真の裏には、十五年前の六月十七日とある。

「父は今夜、死ぬ」

 アキラは淡々と言った。

「港ノ宮聖十字病院。医師は夜明けまでもたないと言っている。意識はほとんどない。だが一時間前、急に目を開けて、こう言った。『七歳の誕生日を返せ。校了になる前に』」

「校了?」

「母の遺品から、これも見つけた」

 今度は、細長い領収書だった。紙は黄ばんでいるが、印字だけは妙に鮮明だった。

 人生再編集社。

 ご依頼内容――六月十七日、終日削除。

 依頼者――宝条十蔵。

 備考欄には、赤い文字でこう記されていた。

 〈後悔は誤字です。訂正、承ります〉

 シンは缶コーヒーを置いた。

「聞いたことがある。午前一時から二時まで、場所を変えて現れる店だ。金ではなく、記憶を取る」

「今夜は旧高架下、十三番倉庫の隣だ」

「よく見つけたな」

「港ノ宮じゅうの私立探偵を雇った。最後まで残った一人が、店の前で自分の名前を忘れた」

「料金は高い」

「宝条家に、買えない物があると思うか」

「ある。まともな服だ」

 アキラは一秒だけ目を細め、それから杖を鳴らした。

「気に入った。君を雇う」

「まだ受けるとは言ってない」

「父の記憶を取り戻してほしい。あの写真の一日を、夜明けまでに」

 シンは写真を手に取った。

 観覧車。

 海風。

 紙袋に入った焦げたキャラメル。

 知らないはずの匂いが、舌の奥によみがえった。

 そして少年の声がした。

 ――パパ、もう一周。

 シンは写真を伏せた。

「前金は倍だ」

「三倍払おう。私の依頼は常に見栄えが大事だ」

 旧高架下には、十三番倉庫までしかない。

 だが午前一時五十三分、倉庫と倉庫の隙間に、十四番目の扉が立っていた。

 扉の上の時計は、一時五十三分を指している。

 秒針だけが、妙に急いで動いていた。

 真鍮の看板には、こうある。

 人生再編集社

 営業時間 午前一時より午前二時まで

 ※閉店時に店内に残ったお客様は、不要部分として処理いたします。

「ずいぶん強気な接客だ」

 シンが言うと、アキラは懐中鏡で前髪を直した。

「老舗とは、だいたい無礼なものだ」

 扉を開けた。

 中は、外から想像できないほど広かった。

 白い廊下が遠くまで続き、その両側に、天井まで届く引き出しが並んでいる。引き出しには〈言わなかった告白〉〈選ばなかった職業〉〈見なかったふり〉〈笑うべきでなかった葬式〉などと札がついていた。

 受付には、赤鉛筆を髪に挿した女が座っていた。

 年齢は三十にも六十にも見える。黒いスーツの襟元に、銀色のホチキスをブローチ代わりにつけている。

「いらっしゃいませ。人生再編集社へようこそ」

 女は微笑んだ。

「新規の削除でしょうか。浮気、失言、進路変更など、今夜は比較的空いております」

「返品だ」

 シンが領収書を置いた。

「十五年前、宝条十蔵が切り取った一日を返してもらう」

 女は領収書を見ず、シンの顔を見た。

 笑みが、ほんの少し深くなった。

「原稿番号HJ―〇六一七。ようやくお戻りになりましたか」

「何の話だ」

「失礼。こちらの話です」

 アキラが身を乗り出した。

「父の記憶はどこだ。言い値で買う」

「削除済みの過去は返却できません。当社規約、第三条です」

「では御社ごと買う」

「当社は創業前から営業しておりますので」

「不愉快だ。歴史の長さを値札にする会社は嫌いだ」

「お褒めにあずかり光栄です」

 女は机の下から分厚い帳簿を取り出した。

「削除された一日は、通常、裁断して保存します。ただし、感情の密度が高すぎる場合、切除部分が人の形を取ることがございます」

「人の形?」

「余白人、と呼んでおります。過去から切り離され、来歴を持たず、しかし自分が何者かも知らぬまま、街を歩く人々です」

 女の赤鉛筆が、シンを指した。

「たとえば、そちらの方のように」

 廊下の奥で、何かが鳴った。

 カチン。

 巨大な時計の針が、一分進んだ音だった。

 壁の時計は、一時五十四分を指している。

「冗談は嫌いだ」

 シンは言った。

「存じております。あなたからは、冗談を理解する部分が削除されておりますので」

 アキラが横目で見た。

「それは元からでは?」

「黙れ」

 受付の女は帳簿を閉じた。

「お帰りください。閉店まで、あと六分です」

 アキラは杖の石突きで床を二度叩いた。

 天井の照明が消えた。

 一秒後、非常灯がつく。

 受付の女が振り返ると、アキラはすでにカウンターの内側にいた。

「何をなさったのです」

「宝条製の携帯電磁妨害器だ。通称、役員会。すべての機能を一時停止させ、誰も責任を取らない」

「最低の発明だな」

「我が社の伝統だ」

 アキラは帳簿を奪い、廊下へ走った。

 女はため息をついた。

「校正部。侵入者二名です。一名は派手すぎますので、簡潔にしてください」

 引き出しが一斉に開いた。

 黒いスーツの男たちが、紙のように薄い身体を折り畳みながら這い出してきた。顔には目も鼻もなく、額に〈要修正〉という赤い判が押されている。右手の代わりに巨大な消しゴム、左手の代わりに朱肉のついた判子が生えていた。

「君の担当客だ」

 アキラが言った。

「お前を簡潔にするそうだ」

 シンはコートの内側から、黒い折り畳み傘を抜いた。

 柄をひねると、芯から細い鋼線が伸びる。回収屋に銃は向かない。穴を開けた品物は、たいてい値打ちが下がる。

 最初の校正係が判子を振り下ろした。

 シンは傘で受け流し、鋼線を首に巻きつけ、引き出しへ叩き返す。

 別の一体がアキラに迫った。

 アキラは杖の宝石を押した。

 杖の先から金色の紙吹雪が爆発し、校正係の顔へ貼りつく。紙には一枚ずつ〈可決〉と印刷されていた。

「何だそれは」

「携帯用臨時株主総会」

「お前の会社は早く潰れたほうがいい」

「父にも同じことを言われた」

 アキラの声から、一瞬だけ冗談が消えた。

 二人は廊下を走った。

 引き出しの隙間から、切り捨てられた人生が漏れている。

 言えなかった「好き」が、銀色の魚になって床を跳ねた。

 辞表を出せなかった勇気が、黒い犬の姿で吠えた。

 忘れたふりをされた死者たちが、半透明の手でこちらを招いた。

「父は、ここで何を捨てた」

 走りながら、アキラが帳簿をめくる。

「六月十七日、終日削除。付随項目――妻への愛情、息子への愛情、笑い癖、弱者への同情、遊園地の乗り物酔い……ずいぶんまとめて切ったな」

「最後のは戻さなくていい」

「父らしい。吐くほど弱いのに、観覧車を四周した」

「三周じゃないのか」

 シンが言うと、アキラは足を止めた。

「写真に、そんなことは書いていない」

 シンも止まった。

 頭の奥で、錆びたゴンドラが揺れた。

 七歳の少年が、指を四本立てて笑っている。

 ――四周だよ。パパ、忘れたの?

「……先へ行くぞ」

 シンは低く言った。

 アキラは何も言わず、帳簿のページを破った。

 紙面に赤い矢印が浮かび、廊下の先を指す。

 〈第七保管室 愛情過多による切除物〉

 時計が鳴った。

 一時五十七分。

 第七保管室は、海の匂いがした。

 扉の向こうに、十五年前の遊園地があった。

 空は夕焼けで止まり、観覧車も、風船も、波も、すべてが動く寸前の姿で静止している。

 中央のベンチに、若い宝条十蔵が座っていた。

 今のシンと、同じ顔だった。

 いや、同じというより――シンの顔が、十蔵から疲労と威厳と十五年を剥がした顔だった。

 十蔵の隣には、七歳のアキラがいる。

 紙袋から焦げたキャラメルをつまみ、父親の口へ無理やり押し込んでいる。

「苦い」

 若い十蔵が笑った。

「大人の味だよ」

「お前は子どもだろう」

「ぼくは今日で七歳だ。昨日より大人だ」

 記憶の中のアキラが胸を張る。

 そこへ、公衆電話のベルが鳴った。

 若い十蔵が受話器を取る。

 表情から、笑みが消えた。

「……手術が、終わった?」

 夕焼けの色が薄くなる。

 電話の向こうの声は聞こえない。

 だが結果は、十蔵の肩が崩れたことで分かった。

 アキラの母は、長い病気の末、その日の夕方に亡くなった。

 彼女は手術室へ入る前、夫と息子を遊園地へ追い出したのだ。

 ――アキラの誕生日に、病院の匂いを残さないで。

 ――あの子と笑ってきて。

 それが最後の願いだった。

 けれど十蔵は、自分が笑っていた時刻に妻が死んだことを許せなかった。

 息子を見るたび、妻を失った痛みと、その痛みから逃げた自分を思い出した。

 だから一日を切り取った。

 悲しみだけを消すつもりで、愛情までまとめて。

「愚かな男だ」

 大人のアキラが、静止した父子を見つめた。

「悲しめるほど愛した、というだけのことを、十五年も理解できなかった」

「人は、痛みの原因より先に、痛みを感じる自分を憎む」

 シンは答えた。

 なぜそんな言葉を知っているのか、自分でも分からなかった。

 背後で拍手がした。

 受付の女が、校正係たちを従えて立っていた。

「ご名答です、小宮シン様。正確には、宝条十蔵様より切除された〈家族を愛した人格〉。それがあなたです」

「俺は十五年、この街で生きてきた」

「切り取られた文章にも、切り取られた後の余白がある。あなたはそこで経験を重ねた。名前をつけ、仕事を覚え、他人の落とし物ばかり拾ってきた」

 女は、少しだけ優しい声になった。

「ご自分が落とし物だったからでしょう」

 シンは返事をしなかった。

 思い出せる最初の記憶は、十五年前の雨だった。

 高架下で目を覚まし、ポケットには空の財布しかなかった。身分証も、家族の写真もない。近くの看板から適当に名字を取り、煙草の箱に印刷された銘柄から名前を取った。

 それ以前は、何もない。

 何もないことに、慣れたつもりでいた。

「父の記憶を戻す方法は」

 アキラが問う。

「ございます。切除物を原文へ戻し、再統合すること」

「つまり」

「小宮様が宝条十蔵様へ戻ればよろしい」

 シンは自分の手を見た。

「戻った後、俺はどうなる」

「一行が本文へ戻れば、余白からは消えます」

 アキラが一歩、女へ近づいた。

「別の方法を言え」

「ございません」

「では作れ」

「規則ですので」

「私は規則が嫌いだ。規則はたいてい、作った者だけが得をする」

「珍しく正論ですね」

 シンが言うと、アキラは振り返った。

「君まで納得するな。父の一部だろうが何だろうが、十五年生きた人間を消していい理由にはならない」

「お前は父親の記憶を取り戻しに来た」

「依頼を変更する。君も父も両方持ち帰る」

「欲張りだな」

「金持ちの長所だ」

 受付の女が赤鉛筆を振った。

 空中に巨大な赤い線が走り、静止していた遊園地を横断した。

 観覧車が真っ二つに割れ、夕焼けが紙片となって落ちる。

「閉店準備に入ります。不要部分を処理してください」

 校正係が一斉に襲いかかった。

 シンは傘を開いた。

 黒い布へ赤い判子が押される。〈削除〉の文字が浮かび、傘の半分が消えた。

 シンは残った骨を槍のように突き出し、一体をベンチへ縫い止める。

 アキラは杖を横薙ぎに振り、別の一体の足を払った。

「役員会はもうないのか!」

「ある。だが二度目は本当に会社が止まる!」

「止めろ!」

「月曜に決算発表だ!」

「世界の危機より株価か!」

「株主は世界より怖い!」

 校正係の判子が、アキラの肩へ迫った。

 シンが割り込み、左腕で受けた。

 〈不要〉

 赤い文字が皮膚に焼きつき、左腕が肘から先ごと透明になった。

「シン!」

「走れ!」

 保管室の奥に、出口の扉が見えた。

 時計は一時五十九分。

 残り一分。

 アキラは動かなかった。

「父を助けても、君が消える」

「もともと俺は、あの男が捨てたものだ」

「十五年は、もともとではない」

「そうだな」

 シンは笑った。

 自分が笑えることを、今まで忘れていた。

「だから、俺の十五年は俺のものだ。どう使うかも、俺が決める」

 アキラの顔が歪んだ。

 派手な服も、尊大な口調も、その瞬間だけは、置き去りにされた七歳の少年を隠せなかった。

「私は、父に一言、聞きたいだけだ」

「何を」

「私を愛していたのか」

 シンは、止まった記憶の中の十蔵を見た。

 そしてアキラの頭へ、透明になっていない右手を置いた。

「四周だ」

「何が」

「観覧車。お前が三周だと言い張って、降りる直前にもう一周ねだった。あいつは乗り物に弱くて、最後は真っ青だった。それでも乗った」

 アキラの目から、涙が一筋だけ落ちた。

「それが答えだ」

 時計の長針が、十二へ重なった。

 シンはアキラを出口へ突き飛ばした。

 背後から校正係が迫る。

 受付の女が赤鉛筆を振り上げる。

 シンは扉を閉じる直前、アキラに言った。

「病院へ行け。俺も行く」

「どうやって」

「近道だ」

 扉が閉まった。

 午前二時。

 人生再編集社は、旧高架下から消えた。

 宝条十蔵は、白い病室で眠っていた。

 心電図の音は弱く、窓の向こうでは、雨が上がり始めていた。

 アキラが駆け込んだ時、時計は二時十二分だった。

 ベッド脇の椅子に、小宮シンが座っていた。

 左腕は戻っている。

 だが身体の輪郭は薄く、向こうのカーテンが透けて見えた。

「近道にもほどがある」

 アキラが息を切らして言った。

「人生の十五年を飛ばしてきた。タクシーより速い」

「運賃は」

「高かった」

 シンは立ち上がり、眠る十蔵を見下ろした。

 老人の顔に自分の未来を見ているのか、それとも自分の過去を見ているのか、アキラには分からなかった。

「統合には、原文側の同意がいるらしい」

「意識がない」

「聞こえているさ。俺なら、聞いている」

 シンは十蔵の手を握った。

「宝条十蔵。お前が捨てたものを返しに来た」

 心電図が、一度大きく跳ねた。

「妻を失った痛みも、息子を愛した記憶も、笑っていた自分も、全部だ。都合の悪い行を消して、立派な人生に見せかけるのは終わりにしろ」

 十蔵のまぶたが震えた。

「受け取れ。訂正ではない。これがお前の原文だ」

 シンの身体が、細かな文字になってほどけ始めた。

 一文字ずつ、光る塵となり、十蔵の胸へ吸い込まれていく。

 アキラは手を伸ばした。

「小宮シン」

「何だ」

「君は父ではない」

「ああ」

「父の一部でもない」

「そうか」

「私が雇った、腕のいい回収屋だ」

 シンは少し考えた。

「前金三倍。忘れるな」

「請求書を出せ」

「死ぬほど高くする」

 それが最後だった。

 黒いコートも、傷のある手も、皮肉な声も、夜明け前の病室で消えた。

 心電図が激しく乱れた。

 十蔵が息を吸い、目を開けた。

 十五年ぶりに、息子をまっすぐ見た。

「アキラ」

 掠れた声だった。

「七歳の誕生日……観覧車は、四周だった」

 アキラは笑おうとして、失敗した。

「三周だ」

「四周だ。お前は昔から、都合の悪いことを一つ少なく数える」

「あなたに似たんだ」

「ああ」

 十蔵は、長く息を吐いた。

「すまなかった」

「何に対してだ」

「全部だ」

「便利な言葉だな」

「十五年かけて、ようやく言えた」

 アキラはベッド脇に膝をついた。

「母を愛していたか」

「愛していた」

「私を」

 十蔵は、震える手で息子の孔雀色の襟をつまんだ。

「その服を許せない程度には、今も愛している」

「なら元気になれ。明日はもっとひどい服で来る」

 十蔵は笑った。

 笑ったまま、午前二時二十九分に息を引き取った。

 病室の時計が二時三十分を示した時、扉が開いた。

 人生再編集社の受付の女が入ってきた。

 濡れてもいない黒いスーツ。赤鉛筆。銀色のホチキス。

「復元処理が完了いたしました」

 アキラは立ち上がった。

「帰れ。今は営業時間外だ」

「回収業務は二十四時間でございます」

 女は請求書を差し出した。

 復元料――対象者と最も深く結びついた人物の、対象者に関する全記憶。

「金ではない、と聞いていた」

「はい」

「私が父を忘れるのか」

「声も、顔も、憎しみも、愛情も。三分後には、そちらのベッドにいる方が誰か分からなくなります」

 アキラは請求書を読んだ。

 隅から隅まで、二度読んだ。

 それから、躊躇なく署名した。

「規約をお読みになるお客様は、珍しい」

「父が読まずに失敗した。家訓にする」

「よろしいのですか」

「記憶を返すために、別の記憶を奪う。実に下品な商売だ」

「お褒めにあずかり――」

「だから、対策した」

 アキラは胸元から、小さな録音機を取り出した。

 再生ボタンを押す。

 自分の声が流れた。

『明日の私へ。ベッドの男は宝条十蔵。あなたの父だ。頑固で、臆病で、十五年間、人生の大事な一日を捨てていた。だが最後に取り戻した。あなたを愛していた。観覧車は四周。小宮シンへの報酬は未払い。以上を毎朝聞け』

 女は眉を上げた。

「外部記録は、やがて意味のない情報になります。感情の伴わない事実にすぎません」

「それで十分だ」

 アキラは病室の窓を開けた。

 雨上がりの港ノ宮で、巨大な広告塔が一斉に点灯した。

 街じゅうのスクリーンに、あの古い写真が映し出される。

 観覧車の前で笑う父と子。

 タクシーの屋根にも、コンビニのレジ画面にも、深夜営業の美容院にも、同じ写真が現れた。

 〈この男は宝条十蔵。息子を愛していた。観覧車は四周〉

「宝条グループの広告枠を、午前二時二十七分に全部買った」

「記憶がなければ、写真を見ても何も感じませんよ」

「なら、毎日読み直す」

 アキラは言った。

「私は毎朝、父を知る。毎朝、あの男に腹を立て、少しずつ好きになる。毎日が初対面だ。ずいぶん贅沢だろう」

 受付の女は、初めて困ったように笑った。

「次の改訂版では、外部記録も徴収対象に加えましょう」

「悪徳企業は改善が早い」

「では、代金を」

 女が指を鳴らした。

 アキラの瞳から、光が一瞬だけ消えた。

 写真の中の少年。

 病室の匂い。

 父の怒鳴り声。

 母の葬儀。

 十五年分の反発。

 たった十七分の和解。

 すべてが、音もなく抜け落ちた。

 アキラは瞬きをした。

 ベッドの老人を見て、首をかしげる。

「……誰だ、この地味な老人は」

 録音機から、自分の声が流れていた。

『あなたの父だ』

 アキラは黙って聞いた。

 窓の外の広告塔を見た。

 写真の少年が自分だと理解するまで、少し時間がかかった。

 やがて彼は、理由の分からない涙を手袋で拭った。

「なるほど」

 そして、死んだ父に向かって言った。

「初対面から面倒をかける男だ」

 翌朝、小宮回収所の扉には、新しい紙が貼られていた。

 〈臨時休業。所長は長期回収業務のため不在〉

 その下に、小さな追記がある。

 〈未払い報酬については、宝条アキラまで〉

 誰が書いたのか、アキラには分からなかった。

 それでも彼は看板を外さず、事務所の家賃を一年分払った。

 観葉植物には、毎週水をやらせた。

 街のどこかで、まだ帰る場所を知らない余白人がいるかもしれない。

 その時、腕のいい回収屋が戻れるように。

 さて。

 人生再編集社の地下では、受付の女がその夜の帳簿を閉じていた。

「復元料、宝条アキラ様より受領」

 彼女は数字を確かめ、首をかしげた。

「わずかに不足しておりますね」

 帳簿の末尾に、赤い文字が浮かぶ。

 不足分――この物語を、ここまで読むのに要した時間。

 女は赤鉛筆を置き、こちらを見た。

「問題ございません」

 にっこり笑って、帳簿へ受領印を押す。

「お客様には、もうお支払いいただきましたので」