『休符は六時十七分に鳴る』
一 無音さん
冬木ことはは、人に誤解されるまでが速い。
初対面なら、およそ三十秒。
相手がよくしゃべる人なら、十五秒。
原因は分かっている。ことはの声は、教室の後ろまで届かない。緊張すると口角が固まり、笑おうとするほど、にらんでいるような顔になる。返事を急げば言葉が喉につかえ、黙っているうちに会話は次へ進む。
港ヶ丘芸術高校へ入学して一週間、ことはには早くも「無音さん」という呼び名がついていた。
悪意がないことくらい、分かっていた。
音楽科の生徒は何でも音にたとえる。声の大きな担任はフォルテ先生、歩くたびに鍵を鳴らす用務員はタンバリンさん。だから「無音さん」も、たぶん同じ種類のあだ名だ。
それでも廊下でその言葉を聞くと、ことはは自分が透明になったような気がした。
ただし、クラリネットを吹いている間だけは違った。
息は言葉より素直だった。唇の角度、舌の位置、指先の圧力。どれも間違えれば音に出る。音はことはを勝手に誤解しない。小さければ小さいまま、震えていれば震えたまま、遠くへ行ってくれる。
その日の放課後、ことはは吹奏楽準備室から古いメトロノームを運ぶよう、顧問に頼まれた。
「東棟の、いちばん奥の部屋に置いてきて。札に『第零練習室』ってあるから」
零という番号が妙だったが、質問できないまま引き受けた。
東棟は、校舎の建て替えから取り残された古い区画だった。窓枠は白く曇り、床板は踏むたびに別々の高さで鳴った。音楽室が並んでいるはずなのに、人の気配がない。
いちばん奥の扉には、確かに「第零練習室」と書かれた札があった。
その下に、鉛筆で四分休符がひとつ描かれている。
ことはが扉を開けると、埃の匂いと、雨上がりの土に似た冷気が流れ出した。
中には譜面台が二本、背もたれのない椅子が三脚、壁際に傷だらけのアップライトピアノ。時計は六時十七分で止まっていた。
窓の外はまだ五時半だった。
ことははメトロノームをピアノの上へ置いた。帰ろうとして、床に一枚の紙が落ちているのを見つけた。
五線紙だった。
何も書かれていない。ただ最後の小節にだけ、休符が四つ並んでいる。
拾い上げた瞬間、ピアノの上で、メトロノームが鳴った。
ねじは巻いていない。
かち。
かち。
かち。
針が左右へ揺れるたび、止まっていた時計の秒針も一目盛りずつ進んだ。
六時十六分五十七秒。
五十八秒。
五十九秒。
六時十七分。
部屋のどこかで、拍手が起きた。
ことはは息を止めた。
拍手は壁の向こうでも、廊下の先でもない。もっと近い。まだ起きていない出来事を、薄い紙一枚隔てて聞いているような近さだった。
誰かが笑った。
金属の棒を床に落とす音。
クラリネットの、短い高音。
そして、男の声。
『冬木。やっと言えた。君が、好きだった』
直後、天井を引き裂くような音がした。
金属がねじれ、ガラスが砕け、大勢が悲鳴を上げる。
ことはは譜面を落とした。
メトロノームは止まっていた。
時計も六時十七分に戻っている。
「今の、聞いた?」
背後から声がして、ことはは飛び上がった。
扉のところに、男子生徒が立っていた。
制服のネクタイは緩み、片手にスネアドラムのケース、もう片方に購買の焼きそばパンを持っている。前髪には、なぜか小さな木琴のマレットが一本差さっていた。
「ご、ごめんなさ――」
「謝る音じゃなかったけど」
彼は首をかしげ、それから、ことはの足元を指差した。
「それより、そこ。僕のケースの留め具、踏んでる」
「ごめんなさい!」
「今のは謝る音」
ことはが慌てて足をどけると、彼は満足そうにうなずいた。
「二年の蒼岸律。打楽器。趣味は校内の変な音を集めること。君は?」
「ふ、冬木、ことはです。クラリネット……です」
「知ってる。昼休みに中庭で吹いてた」
ことはの胸が縮んだ。
あれは誰もいないと思って練習していたのだ。音がかすれ、途中で何度も止まった。
「すみません。うるさくて」
「逆。小さすぎて、追いかけたくなった」
蒼岸律は、ひどく真面目な顔で言った。
「冬木の音、逃げ足が速いね」
それが褒め言葉なのかどうか、ことはには分からなかった。
二 明日の予行演習
蒼岸律によれば、第零練習室には妙な噂があるらしかった。
午後六時十七分、この部屋にあるメトロノームを動かすと、翌日の同じ時刻に起きる「音」が聞こえる。
「去年、僕はここで自分の声を聞いた。『消しゴム貸して』って。次の日の六時十七分、楽典の補習中に本当に消しゴムがなくなった」
「それは……未来を聞いたというより、忘れ物が多いだけでは」
ことはがようやく言うと、律は目を輝かせた。
「冬木、意外と刺すね」
「ごめんなさい」
「褒めたんだけどな」
律は焼きそばパンの袋を丸め、指ではじいた。袋は軽い音を立ててピアノの上へ落ちた。
「でも、さっきのは僕も聞いた。拍手、金属音、クラリネット。それから、僕の声」
ことはの手が冷たくなった。
「あれ、蒼岸先輩の声だったんですか」
「たぶん。自分の録音って変に聞こえるから、断言はできないけど」
『君が、好きだった』
過去形だった。
その後に、あの破壊音。
ことはが黙っていると、律は床の五線紙を拾った。何も書かれていない譜面を光に透かし、鼻先まで近づけ、しまいには匂いまで嗅いだ。
「普通の紙だ」
「匂いで分かるんですか」
「分からない。でも、調べている感じは出る」
ことはは、ほんの少し笑った。
笑ってから、自分が笑えたことに驚いた。
律はそれを見逃さなかった。
「今の顔、ちゃんと笑ってた」
ことはの頬が熱くなった。
「そんなに珍しいですか」
「初めて見たから」
また胸が縮みそうになったが、律は続けた。
「音より遅いんだね。冬木の笑顔」
そう言われると、不思議と悪い気はしなかった。
律はスネアのケースを肩にかけた。
「ところで冬木、十月の校内芸術祭、予定ある?」
「吹奏楽部の合奏に出ます」
「それ以外」
「ありません」
「じゃあ、僕の曲を吹いて」
「え」
「クラリネット、打楽器、チェロ、チューバの四人編成。題名は仮で『校舎は夜にくしゃみをする』」
「題名から不安です」
「大丈夫。曲のほうがもっと不安だから」
断らなければならない、とことはは思った。
知らない先輩たちの中へ入って演奏するなど、考えただけで指が固まる。
けれど、律はもう話を進めていた。
「明日、音楽室四。放課後四時。楽譜は読めなくてもいい。まだ半分白紙だから」
「私、上手では」
「上手な人には頼んでない」
傷つくより先に、律はことはのクラリネットケースを軽くたたいた。
「必要な音を出す人に頼んでる」
言い返す言葉を探しているうちに、律は廊下へ出てしまった。
ことはは扉の前で、小さく息を吐いた。
「……はい、とも言ってないのに」
「聞こえてるよ」
廊下の向こうから律の声が返ってきた。
「四時ね!」
ことははもう一度、少しだけ笑った。
三 雑音楽団
翌日、ことはが音楽室四へ行くと、床にバケツが六個並んでいた。
律は一本ずつ違う量の水を入れ、マレットで縁をたたいている。
チェロ担当の三枝まひるは譜面台に頬杖をつき、眠そうにそれを見ていた。長い髪を頭の高い位置で結び、チェロのエンドピンには小さな猫の飾りがついている。
チューバ担当の四月一日新は、楽器のベルに顔を突っ込み、内側へ落とした鉛筆を救出していた。
「来たね、逃げ足の速い音」
律が言った。
まひるがことはを見る。
「この子が無音さん?」
ことはの背筋が固まった。
まひるはすぐに片手を上げた。
「ごめん。嫌なら呼ばない。律が『無音さんを捕まえた』って言うから」
「人を珍しい虫みたいに言わないでください」
ことはが反射的に答えると、四月一日がチューバから顔を出した。
「しゃべるじゃん」
「……しゃべります」
「よかった。律より話が通じそう」
その一言で、音楽室の空気が少し柔らかくなった。
律の曲は、本当に半分が白紙だった。
冒頭、チェロが低く同じ音を刻み、チューバが寝起きのような旋律を吹く。その間を、バケツ、黒板消し、金属製の譜面台、鍵束の音が横切る。
クラリネットの譜面には、たった七小節しか書かれていない。
「ここから先は?」
「冬木が決める」
「作曲者は先輩ですよね」
「作曲って、全部決めることじゃないよ。人が入れる隙間を残すこと」
ことはが困っていると、まひるがチェロの弓で律の肩をつついた。
「説明が格好つけすぎ。要するに、まだ思いついてないだけ」
「九割それ」
練習は、合奏というより事故の連続だった。
四月一日のチューバから救出された鉛筆がバケツへ落ち、まひるの猫飾りがエンドピンから外れて床を滑り、律が黒板消しを強くたたきすぎて全員が白い粉をかぶった。
ことはは最初、息を殺すように吹いていた。
「もっと大きく」
律が言う。
ことはは音量を上げた。
「違う。大きい音じゃなくて、冬木のまま遠くまで」
「分かりません」
「僕も分からない。だから探してる」
律は、ことはの前へ空のペットボトルを置いた。
「この部屋で一番好きな音を、まず一個見つけて」
ことはは耳を澄ませた。
まひるが弓の毛を締める音。
四月一日が息を吸う音。
廊下を走る運動部の靴。
窓の隙間で震える、薄いカーテン。
そして、律が指先で譜面台をたたく音。
一定に見えて、少しずつ間隔が違う。
ことはが緊張して息を止めると遅くなり、吹き始めると速くなる。
「それ、私に合わせていますか」
「気づいた?」
「テンポが揺れています」
「冬木の呼吸が揺れるから」
ことははクラリネットを構えた。
今度は、指ではなく、律の音を聞いた。
たん、たん、たん。
急がされない拍だった。
息を入れる。
柔らかい音が一本、部屋の中央を通った。
カーテンの隙間から外へ出ていくような、細く長い音だった。
律の指が止まった。
「それ」
ことはは驚いて音を切った。
「今の。逃げなかった」
まひるが弓を構え、ことはの音を下から支えた。四月一日も、ごく小さな低音を重ねた。
律はバケツをたたかなかった。
代わりに、何も鳴らさず、四拍だけ待った。
その沈黙が、ことはには不思議と怖くなかった。
練習が終わるころ、曲には新しい題名がついた。
『透明な行進』。
「何も見えないのに、ちゃんと進んでる感じがしたから」
律が言った。
ことははその題名を、帰宅してから何度もノートに書いた。
四 変えた未来の代金
第零練習室のことは、しばらく誰にも言わなかった。
けれど一週間後、律が「実験しよう」と言い出した。
「危ない音を聞いたんですよ」
「だから仕組みを知る。知らないほうが危ない」
まひると四月一日には「東棟で音を採る」とだけ伝え、二人で午後六時前に部屋へ入った。
止まった時計。
白紙の譜面。
ピアノの上のメトロノーム。
律がねじを巻く。
六時十七分、部屋の空気が薄くなった。
『熱っ!』
顧問の桧山先生の声だった。
続いて、陶器の割れる音。
それだけでメトロノームは止まった。
「明日、先生が湯のみを落とす」
「止めたら未来が変わります」
「未来が変わるか確かめる実験だよ」
翌日、六時十七分の少し前、二人は職員室の前で待ち伏せた。
桧山先生が湯のみを手に出てくる。
廊下の角から、楽譜の束を抱えた生徒が走ってきた。
ことはは思わず先生の袖を引いた。
生徒は先生の鼻先を通り過ぎた。
湯のみは無事だった。
「どうした、冬木」
「いえ……虫が」
「虫?」
ことはが苦しい言い訳をしている横で、律は笑いをこらえていた。
未来は変わった。
その晩、ことははスマートフォンの写真を見ていて、妙なことに気づいた。
四人で初めて合わせた日、まひるが撮った写真が消えている。
正確には、写真そのものは残っていた。
しかし、ことはと律の間に不自然な空白があり、そこへ置いてあったはずの、白い粉まみれの黒板消しだけが写っていなかった。
翌日、律に見せると、彼はしばらく黙った。
「この写真、僕が撮ったんだっけ」
「まひる先輩です」
「そうだっけ」
「黒板消しをたたきすぎて、全員が真っ白になった日です」
律は眉間にしわを寄せた。
「そんなこと、あった?」
ことはの背中を冷たいものが通った。
二人は第零練習室へ戻った。
ピアノのふたを開け、譜面台をどけ、床板を一枚ずつ確かめた。律が椅子を逆さにすると、座面の裏に薄い大学ノートが貼りついていた。
表紙には、かすれた字でこう書かれていた。
『第零練習室 記録 昭和五十八年度』
中身の大半は、音響実験の記録だった。
壁材の反響、気温と弦の伸び、窓を開けたときの残響時間。
後半になるにつれ、筆跡が乱れていた。
『六時十七分。明日の音を確認。偶然ではない』
『聞くだけなら、何も失われない』
『変えた場合、代価が生じる』
『失われるのは金品ではない。未来を変える決心へつながった記憶だ』
最後のページだけ、別の人物の字だった。
『未来は、無償では欠席しない。
ひとつの音を消すなら、その音へ至る思い出を差し出すこと。
大切な未来ほど、代金も高い。』
ことははノートを閉じた。
「先生の湯のみを守った代わりに、黒板消しの記憶が消えた」
「僕からだけ」
「写真からもです」
「世界全体が、帳尻を合わせたのかも」
律は軽い口調で言ったが、指先は強くノートをつかんでいた。
「もう使わない」
ことはは律を見た。
「先輩が、そう言うんですか」
「未来の音なんて、作曲には便利そうだけどね。盗作になる」
「そこですか」
「半分は」
律はメトロノームの針を指で止めた。
「もう半分は、忘れたくないものが増えたから」
ことはは何も言えなかった。
何を、と聞く勇気もなかった。
五 君のための小節
九月が終わるころ、ことはは「無音さん」と呼ばれても、以前ほど身を固くしなくなっていた。
まひるは毎朝、教室の前を通るたびに手を振った。四月一日は昼休み、ことはの席でパンを食べ、チューバの中から発見された物の報告をした。消しゴム、飴の包み紙、五十円玉。最後の一つだけは、入った理由が誰にも分からなかった。
律は校内のあらゆる場所から音を持ち帰った。
閉まる直前の下駄箱。
自動販売機が釣り銭を出す音。
雨の日の渡り廊下。
図書室で、誰かがページをめくる音。
それらは少しずつ『透明な行進』へ組み込まれた。
ことはのクラリネットには、三十二小節の長い独奏が与えられた。
「無理です」
譜面を見た瞬間、ことはは言った。
「まだ吹いてない」
「見れば分かります」
「楽譜は予言書じゃないよ」
律の言葉に、ことはは第零練習室を思い出した。
独奏は、難しい速さではなかった。
むしろ遅い。息を隠せないほど遅い旋律だった。
中学二年の冬、ことはは地区の独奏会で演奏を止めたことがある。
最初の音が裏返った。
客席で誰かが笑った。
次の息が入らなくなり、指だけが楽譜の上を進んだ。
その日から、ことはは大きな音を避けるようになった。
人前でしゃべるときも同じだった。声が裏返るくらいなら、小さくしておけばいい。聞こえなければ、失敗したことにもならない。
ことはがその話をすると、律はすぐには返事をしなかった。
彼は練習室の窓を少し開けた。校庭から、運動部の掛け声と、夕方の風が入ってきた。
「僕は、静かになると怖い」
律は窓の外を見たまま言った。
「小学生のころ、家で両親が毎晩けんかしてた。大きな声の間は、まだ二人ともそこにいるって分かった。でも、ある夜、急に何も聞こえなくなった。次の日、父親はいなかった」
ことはは息をのみ込んだ。
「だから僕は、何でも鳴らす。机も、壁も、人の返事も。黙っていなくなられるのが嫌なんだ」
律は振り向き、困ったように笑った。
「でも、冬木の静かさは、いなくなる静かさじゃない。ちゃんとそこにいて、聞いてる静かさだ」
ことはは譜面を見た。
三十二小節の最後には、四拍の休符があった。
「この休符は?」
「僕が待つ時間」
「何をですか」
「冬木が、次の音を自分で決めるのを」
胸の奥にあった固いものが、少しほどけた。
ことははクラリネットを構えた。
最初の音は震えた。
二つ目も、少しかすれた。
律は何も言わず、机を指先でたたいた。
たん、たん、たん。
ことはの呼吸に合わせて、拍が揺れる。
独奏の終わり、四拍の休符。
ことはは逃げずに待った。
そして、自分で選んだ一音を吹いた。
まっすぐではなかった。
きれいでもなかった。
けれど、部屋の隅まで届いた。
「それだ」
律が笑った。
「冬木の音、やっと捕まえた」
「捕まえないでください」
「じゃあ、隣を歩く」
ことはは楽器で顔を隠した。
その夜、帰り道の信号待ちで、律が缶のココアを二本買った。
一本をことはへ渡しながら言う。
「本番が終わったら、話したいことがある」
ことはは缶を落としかけた。
「い、今では駄目ですか」
「今言うと、曲の最後が変わりそうだから」
「未来を変えるのは、怖いんじゃなかったんですか」
「これは自分で変えたい未来」
信号が青になった。
律は先に横断歩道へ出た。
ことははその背中を見ながら、缶の温かさを両手で包んだ。
好きかもしれない、と思った。
その言葉を心の中で認めた瞬間、遠くの校舎から、聞こえるはずのないメトロノームの音がした。
かち。
たった一度だけ。
六 予告された破壊音
芸術祭の一週間前、第零練習室のメトロノームは、誰もねじを巻いていないのに動き出した。
放課後六時十七分。
東棟の反対側にいたことはにも、その音が聞こえた。
律と二人で部屋へ駆け込む。
針は激しく揺れていた。
拍手。
チェロの低音。
チューバの息。
クラリネットの独奏。
『透明な行進』の本番だった。
ことはの音が、三十二小節を進む。
最後の休符。
その無音の中で、律の声がした。
『冬木。やっと言えた。君が好きだった』
金属が裂ける。
何か巨大なものが落ちる。
客席の悲鳴。
そして、ことは自身の声。
『いや――』
音はそこで切れた。
時計は六時十七分を指している。
ことはは立っていられず、ピアノに手をついた。
律はすぐに部屋を出た。
芸術祭の会場は旧講堂だった。
天井には、音を客席へ返すための大きな反響板が何枚も吊られている。金属のワイヤー、照明用のレール、可動式の幕。
顧問と設備担当が、その日のうちに全て点検した。
異常は見つからなかった。
「念のため演奏場所を変えたい」と律は頼んだが、他の演目との調整がつかなかった。中止も提案した。まひると四月一日は理由を聞かず賛成したが、ことはは首を振った。
「逃げたくありません」
「演奏会は逃げても追ってこない」
「先輩が作った曲から、逃げたくないんです」
「曲より人のほうが大事だ」
「だったら、どうして本番の後に話すんですか」
律が黙った。
ことはの声は震えていた。それでも続けた。
「本番の後にしかない言葉があるなら、そこまで行きたいです。未来の音に、先に終わらされたくない」
「冬木」
「私も、話したいことがあります」
律はしばらくことはを見つめた。
やがて、観念したように息を吐く。
「分かった。ただし条件がある。六時十七分より前に、全員で舞台を降りる。曲も短くする。変な音がしたら即中止。英雄みたいなことは誰もしない」
「先輩もです」
「僕は作曲者だから、少しだけ格好つける権利がある」
「ありません」
「冬木、強くなったなあ」
笑った律の顔を、ことはは忘れないように見つめた。
その夜、ことはは一人で第零練習室へ行った。
確かめたかった。
未来がまだ同じなのか。
メトロノームを動かす。
六時十七分。
聞こえた音は、前と同じだった。
ただし、律の言葉の前に、小さな声が加わっていた。
『忘れても、君なら――』
その先は、破壊音に飲まれた。
翌朝、ことはは律と初めて会った場所を思い出せなくなっていた。
東棟だったことは分かる。
第零練習室だったことも分かる。
けれど、扉を開けたとき律がどこに立っていたか、何を持っていたか、なぜ自分が最初に笑ったのか。その部分だけ、紙を切り抜いたようにない。
スマートフォンのメモには、見覚えのない文章が残っていた。
『蒼岸先輩は、焼きそばパンを持っていた。
髪にマレットが刺さっていた。
私の音を、逃げ足が速いと言った。』
自分で書いたはずなのに、誰かの話を読んでいるようだった。
未来を変えなくても、聞き直すだけで記憶を払うことがある。
あるいは、未来を変えようと決心した瞬間から、支払いは始まっている。
ことはは震える手で、記録ノートの最後を読み返した。
ページの端に、これまで気づかなかった細い字があった。
『大きな未来を変えるには、その未来へ向かう最も大切な記憶を、ひとつの旋律にして差し出す。』
ことはは目を閉じた。
頭の中で『透明な行進』の独奏を吹いた。
三十二小節。
最後の休符。
その先に、律の笑顔があった。
七 六時十七分の休符
芸術祭当日、朝から風が強かった。
旧講堂の窓は低く鳴り、吊り下げられた反響板が、ごくわずかに軋んでいた。
設備担当は「安全範囲だ」と言った。
律は納得せず、開演直前まで舞台裏のワイヤーを見上げていた。
「蒼岸、出番だぞ」
桧山先生に呼ばれ、四人は舞台へ出た。
客席は暗く、顔が見えない。
ことはの喉が固まった。
中学の独奏会が戻ってくる。
誰かの笑い声。裏返った音。止まった息。
隣で、律がスネアの縁を指先でたたいた。
たん、たん、たん。
ことはの呼吸に合わせて、少し揺れる拍。
まひるがチェロを構える。
四月一日が大きく息を吸う。
ことはは客席ではなく、三人を見た。
ここにいる。
聞いている。
誰も、黙っていなくならない。
演奏が始まった。
チェロの低音。
チューバの眠そうな旋律。
鍵束、木の箱、ガラス瓶、譜面台。
校舎の一日が、音になって歩き出す。
ことはの独奏が来た。
最初の音は震えた。
それでも止めなかった。
二小節。
八小節。
十六小節。
音は客席の暗闇へ伸びた。
逃げずに、細いまま、遠くまで。
舞台袖の時計が六時十六分五十秒を示した。
律が予定より早く合図を出す。
曲を終わらせるための合図だった。
そのとき、ことはは聞いた。
天井の奥で、一本のワイヤーが鳴った。
きん、と高い音。
第零練習室で聞いた破壊音の、最初の一粒。
ことははクラリネットを下ろした。
「止めて!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
律が演奏を切った。
まひると四月一日も止まる。
客席がざわめく。
「全員、外へ!」
律が叫んだ。
係員が誘導を始める。観客が立ち上がり、出口へ向かう。
しかし反響板は落ちなかった。
六時十六分五十五秒。
ことはには分かった。
まだ未来は変わっていない。
予告された音は、別の形で必ずここへ戻ってくる。
律がことはの腕をつかんだ。
「行くよ」
ことはは首を振った。
「第零練習室へ」
「駄目だ」
「変えます」
「代金が分からない」
「分かっています」
律の顔から血の気が引いた。
「何を読んだ」
「ごめんなさい」
「それは謝る音じゃない」
六時十六分五十七秒。
天井で二本目のワイヤーが鳴った。
ことはは律の手を振りほどき、舞台袖から走った。
東棟までの廊下は、異様に長く感じた。
窓が風で震える。
校内放送が避難を呼びかける。
背後から律が追ってくる。
六時十六分五十九秒。
ことはは第零練習室の扉を開けた。
部屋の時計は、いつものように六時十七分で止まっている。
ピアノの上のメトロノームが、ひとりでに動き始めた。
かち。
かち。
ことははクラリネットを構えた。
律が扉へ飛び込んでくる。
「吹くな!」
「先輩、聞いてください」
「嫌だ」
「私、蒼岸先輩が好きです」
律は息を止めた。
ことはの声は震えていた。
けれど、今度は小さくしなかった。
「先輩が作る、変な曲が好きです。何でもたたくところは少し迷惑です。焼きそばパンを食べながら話すのも行儀が悪いです。でも、私の音を待ってくれた。私がしゃべれるまで、拍を止めないでくれた」
「冬木、やめろ」
「忘れる前に、言いたいんです」
「僕が忘れる」
「駄目です」
「どうして」
「先輩には、曲を覚えていてほしいから」
律は一歩近づいた。
「曲なんて、また書ける」
「私は、また好きになれます」
ことはは笑った。
今度は遅れずに、ちゃんと笑えた。
「先輩が同じ人なら、たぶん」
律の目に涙がにじんだ。
「そんな保証、ない」
「未来に保証はありません」
「未来を聞いた人が言うなよ」
ことははクラリネットへ息を入れた。
『透明な行進』の独奏。
三十二小節に、これまでの音が重なっていく。
黒板消しの粉。
水を入れたバケツ。
チューバの中の鉛筆。
雨の日の渡り廊下。
缶のココアを開ける音。
律の指が刻む、揺れる拍。
音を吹くたび、記憶の輪郭が薄くなる。
初めて名前を呼ばれたとき。
初めて笑ったと指摘されたとき。
「隣を歩く」と言われたとき。
ことはの頬を涙が流れた。
律は止めようとした。
けれど最後には、スネアのケースを床へ置き、素手でピアノのふたをたたき始めた。
たん、たん、たん。
ことはの呼吸に合わせる拍。
「一人で行くな」
律は泣きながら言った。
「忘れるところまで、僕も一緒にいる」
三十二小節が終わる。
四拍の休符。
一拍目。
旧講堂の天井で、三本目のワイヤーが切れた。
二拍目。
客席の最後の一人が出口を通った。
三拍目。
第零練習室の壁に亀裂が走った。
四拍目。
ことはは、自分で選んだ最後の一音を吹いた。
まっすぐではない。
きれいでもない。
それでも、律へ届く音。
世界から、すべての音が消えた。
次の瞬間、旧講堂で巨大な反響板が落下した。
舞台は押しつぶされたが、誰もいなかった。
同時に、第零練習室の時計が割れた。
メトロノームの針が折れ、白紙の譜面が無数の小さな紙片になって舞い上がった。
律はことはを抱えて廊下へ転がり出た。
背後で扉が閉まり、東棟の奥が大きく崩れた。
埃の中、ことはは何度か咳をした。
それから、自分を抱えている男子生徒を見上げた。
「……あの」
律の腕が震えた。
「大丈夫?」
「はい」
ことはは周囲を見回した。
「ここは、どこですか」
律は答えなかった。
答えられなかった。
「それから」
ことはは困ったように眉を寄せた。
「あなたは、誰ですか」
遠くで、六時十七分を知らせるはずだった校内チャイムが鳴った。
けれど音は、途中の一音だけ抜けていた。
八 二度目の、はじめまして
反響板の落下事故にけが人はいなかった。
芸術祭は中止になり、旧講堂は長い修理へ入った。第零練習室のあった東棟の一部も閉鎖された。
公式には、ことはと律が演奏中に異常音を察知し、避難を促したことになった。
まひると四月一日は二人を英雄扱いした。
ことはには、その理由がよく分からなかった。
彼女は『透明な行進』の楽譜を読めた。指も動いた。まひると四月一日のことも覚えていた。
ただ、蒼岸律に関する記憶だけがなかった。
彼の名前を聞いても、顔を見ても、胸の中は白紙のままだった。
律は無理に思い出させようとしなかった。
「二年の蒼岸。打楽器」
保健室で、彼はそう自己紹介した。
「君の曲の、作曲者でもある」
「私の曲、ですか」
「半分は」
ことははしばらく彼を見つめた。
「前に、会いましたか」
律は一度だけ目を伏せ、それから笑った。
「この先、たぶん何度も」
ことはには変な答えに思えた。
それから三か月、二人は必要なことしか話さなかった。
ことはが距離を取ったわけではない。
律が、借り物の親しさを押しつけなかったのだ。
廊下ですれ違えば手を上げる。
練習室が空いていれば譲る。
クラリネットのリードを落とせば拾う。
ただし、以前の思い出を知っていることを、通行証のようには使わなかった。
ことはは時々、彼を見ると胸が痛んだ。
知らない人なのに、見送ってはいけない気がした。
静かになると、彼がどこかへいなくなるような気がした。
二月、校内の小さな発表会が開かれた。
律は一人で舞台へ出た。
楽器はスネアでもマリンバでもない。
古い机、ガラス瓶、鍵束、空のペットボトル。それから、壊れたメトロノームの針。
「曲名は、『はじめましての続き』」
客席の後ろで、ことはは息をのんだ。
演奏が始まる。
閉まる直前の下駄箱。
自動販売機の釣り銭。
雨の日の渡り廊下。
誰かがページをめくる音。
知らないはずの音が、一つ鳴るたびに胸の奥で形を持った。
ことはの指が勝手に動く。
膝の上のクラリネットを組み立てる。
リードを湿らせる。
律の演奏が、三十二小節目で止まった。
四拍の休符。
一拍目。
ことはは立ち上がった。
二拍目。
客席の間を歩いた。
三拍目。
クラリネットを構えた。
四拍目。
ことはは一音を吹いた。
まっすぐではない。
きれいでもない。
けれど、舞台の律へ届いた。
律は、泣きそうな顔で笑った。
演奏が終わると、客席から静かな拍手が起きた。
ことはは舞台袖で律を待った。
「今の音」
律が言った。
「僕の曲には、書いてなかった」
「すみません」
「それは謝る音じゃない」
ことはは目を見開いた。
初めて聞くはずの言葉だった。
なのに、その続きを知っている気がした。
「前にも、そう言われましたか」
律は少し迷い、うなずいた。
「言った」
「私たちは、仲がよかったんですか」
「僕は、そう思ってた」
「私は?」
「それを僕が答えたら、ずるい」
ことははクラリネットを抱え直した。
「では、最初から教えてください」
「何を?」
「蒼岸先輩のことを」
律は息を止めた。
ことはは今度こそ、遅れずに笑った。
「未来の話ではなく、今日の話から」
律はゆっくり手を差し出した。
「二年の蒼岸律。打楽器。趣味は校内の変な音を集めること」
ことははその手を取った。
「一年の冬木ことは。クラリネット。声は小さいですが、しゃべります」
「知ってる」
「今は、初対面です」
「じゃあ訂正。これから知る」
二人は手を離した。
窓の外では、冬の夕日が校舎を薄い金色に染めていた。
廊下の時計は、六時十六分五十九秒を示していた。
次の一秒。
時計は六時十七分を飛ばし、六時十七分一秒へ進んだ。
誰も、その欠けた一秒に気づかなかった。
閉鎖された東棟の瓦礫の下では、針の折れたメトロノームが、誰の手にも触れられず一度だけ鳴った。
かち。
それは予告ではなかった。
二人がこれから選び直す、二度目の明日へ向けた、最初の拍だった。
了