光が死者を眠らせるまで

 午前零時十七分、海鳴市の死者がいっせいに顔を上げた。

 それを最初に見たのは、葉月澄玲だった。

 海鳴FM第三スタジオの防音ガラス越しに、彼女は市立病院の救急玄関を見下ろしていた。停電した街は、海沿いの製油所が燃える橙色と、空を横切る青白い帯だけで照らされている。

 その帯はオーロラに似ていた。だが南の海から北へ、まるで巨大な傷口がゆっくり開くように伸びていた。

 病院の前には、夕方の地震で運び込まれた遺体がシートをかけられて並んでいた。

 青い帯が脈打った。

 シートの下で、十七の影が同時に起き上がった。

「……見間違いよ」

 澄玲は言った。誰にでもなく、マイクにも入らない声で。

 遺体の一つが立った。右脚が逆向きに折れていた。それでも倒れず、首を傾けて海鳴FMの送信塔を見た。

 次の一体も、その次も。

 全員が、同じ角度で塔を見上げた。

 背後で、十二歳の息子カフェネが言った。

「母さん。あれ、聞いてる」

 カフェネは両耳に薄い銀色の補聴端末をつけていた。亡くなった父が最後に設計した、神経接続型の試作機だ。普通の音だけでなく、周囲の電波を可聴域へ落として確認できる。

「何を?」

「数を数えてる。ずっと」

「何番まで?」

 カフェネは眉を寄せた。

「まだ、一」

 スタジオのスピーカーから、ざ、と砂をこするような音がした。

 放送回線は切れているはずだった。

 ざ、ざ、ざ。

 一。

 一。

 一。

 その声は人間の喉から出る音ではなかった。電気そのものが、数字の形に震えていた。

 病院前の死者たちが走り出した。

「こちら海鳴FM。市内全域に非常警報を発令します」

 澄玲はマイクの前に座り、震える指を机の下で握りしめた。

「死亡が確認された人に近づかないでください。繰り返します。死亡者に近づかず、建物の扉と窓を封鎖してください。噛まれた場合は――」

 そこで言葉が止まった。

 噛まれた場合は、どうすればいい。

 この世のどの防災マニュアルにも、その続きを書いたページはない。

 副調整室では、技師の長谷部が予備電源をつなぎ直していた。地域医療センターの梶医師は、局内に逃げ込んだ負傷者三人を会議室に寝かせている。警備員の石崎は、非常階段の扉に机を重ねていた。

 街からは悲鳴が絶えず届いた。

 電話回線が生き返るたび、別の声が割り込んだ。

『妻が、妻が息をしてないのに――』

『地下駐車場にいます。上から叩く音が――』

『お母さんが僕を噛んだ。お母さん、泣いてる。死んでるのに泣いて――』

 そして、すべての通話の奥に、あの数える声があった。

 一。

 一。

 一。

 午前零時三十四分、正面玄関の防犯カメラに一人の男が映った。

 裸足で、雨の中に立っていた。

 背が高く、黒いコートを着ている。顔の左半分は端正だったが、右半分は焼けて剥がれ、皮膚の下から銀色の骨格が覗いていた。目の位置で赤い光が細く収縮した。

 男の周囲には、二十体ほどの死者が群がっていた。

 男は逃げなかった。

 一体の頭部を片手でつかみ、コンクリートの柱へ叩きつけた。二体目の顎を肘で砕き、三体目の腕を引きちぎり、その骨を四体目の眼窩へ突き込んだ。

 動作は速いというより、無駄がなかった。

 死者たちは男に噛みついた。歯が皮膚を裂き、火花が散った。

 男は一歩も遅くならなかった。

「何、あれ……」長谷部が呟いた。

 赤い目が、防犯カメラを見上げた。

 スピーカーが勝手に入った。

『葉月カフェネを引き渡せ』

 澄玲は息子を背にかばった。

『抵抗は資源の浪費と判断する』

「誰なの」

『年代是正機構・執行端末カイロス四号。西暦二〇九八年より遡行した』

「未来から来たっていうの?」

『葉月カフェネは災厄起源個体である。午前五時五十六分、同個体が発信する信号により、人類の生存率は〇・〇〇三パーセントまで低下する』

 カフェネが、小さく笑った。

 恐怖が限界を越えたときに出る、乾いた笑いだった。

「僕、朝までに世界を滅ぼすんだ」

「黙って」澄玲は息子の肩をつかんだ。「機械の言うことよ」

 画面の中で、カイロス四号は最後の死者の首を折った。

『対象消去まで、残り五時間二十二分』

 男は正面玄関へ歩き出した。

 石崎が猟銃を構えた。

「裏の搬入口から出るぞ」

「外はあれだらけです」梶医師が言った。

「中には、もっとひどいのが来る」

 玄関の防火扉が、内側へ一度だけ膨らんだ。

 二度目で蝶番が外れた。

 彼らは地下の機材搬入口から、局の中継車へ走った。

 雨は生温かかった。道路には放置された車が折り重なり、その隙間を死者が歩いている。誰もが海鳴FMの塔へ向かっていた。

 カフェネが助手席に乗り、澄玲、梶医師、長谷部、石崎、負傷者二人が後部へ押し込まれた。もう一人の負傷者は高熱を出し、会議室で息を引き取った。梶医師が毛布をかけた直後、毛布の下から指が動いた。

 扉を閉めるしかなかった。

 長谷部がエンジンをかける。

 同時に、地下通路の奥から金属音がした。

 カイロス四号が、閉じたシャッターを両手で持ち上げていた。

「出せ!」

 中継車が飛び出した。

 死者をはね、横転した救急車を避け、商店街へ突っ込む。ミラーの中で、カイロス四号は追ってこなかった。

 代わりに、道路脇の無人パトカーへ近づいた。

 運転席の扉を引き剥がし、乗り込む。

 数秒後、赤色灯が点いた。

「機械がパトカーを盗むのかよ」石崎が吐き捨てた。

「律儀に追跡するより、ずっと怖いわね」梶医師が答えた。

 澄玲はカフェネの端末を外そうとした。

 息子がその手を払う。

「外したら、何も聞こえない」

「今は聞こえない方がいい」

「違う。あいつらが、どこにいるか分かる」

 カフェネは目を閉じた。

「右。次の交差点、右からいっぱい来る」

 長谷部が急ハンドルを切った。

 一秒後、左の路地から死者の群れがあふれた。車はその背後をすり抜ける。

「どこへ行く?」長谷部が訊いた。

 澄玲は答えられなかった。

 局を捨てた今、安全な場所などない。港の避難所は沈黙し、市役所は炎上している。山側へ抜ける国道は地震で崩落した。

 カフェネが言った。

「海に、もう一人いる」

「何?」

「数えてない声。歌ってる」

 その瞬間、夜の海が持ち上がった。

 防潮堤の向こうで、青白い光の柱が天へ伸びた。水しぶきがビルの高さまで舞い上がり、その中央から巨大な影が立ち上がる。

 人の形をしていた。

 だが人ではなかった。

 全身は月光を溶かしたような淡い銀色で、胸から肩へ黒い亀裂の模様が走っている。顔には口も鼻もなく、二つの眼だけが星のように燃えていた。

 五十メートルを超す巨人が、海鳴市の沖に立っていた。

 死者たちが一斉に振り返る。

 数える声が、初めて変わった。

 二。

 海面から黒いものが噴き出した。

 魚、人、海鳥、漂流物。死んだものすべてが絡み合い、骨と肉の塔になって巨人へ襲いかかる。

 巨人は両腕で受け止めた。

 衝撃で窓ガラスが街じゅう一斉に砕けた。

 中継車が横転した。

 澄玲が意識を取り戻すと、雨は止んでいた。

 車は商業ビルの壁に横倒しになっていた。長谷部はハンドルに挟まれ、動かなかった。石崎は腕を折り、梶医師が固定している。負傷者の一人は見当たらない。

「カフェネ!」

 返事がない。

 割れたフロントガラスから這い出す。

 道路の中央に、カフェネが立っていた。

 その前に、見知らぬ青年が倒れている。

 灰色の服は焼け焦げ、肌には細い光の筋が走っていた。海から現れた巨人と同じ模様だった。

「近づかないで」澄玲はカフェネを引き寄せた。

 青年の眼が開いた。

 瞳の奥に、夜空があった。

「間に合わなかったか」

 声は若い。けれど、ひどく遠くから届くように響いた。

「あなた、何者?」

「護送者」

 青年は身を起こした。胸の光が一度、弱く瞬く。

「名前に近い音なら、アルク。あれを運んでいた」

 彼は空を見た。

 青い帯の中心に、黒い点が浮かんでいる。

「あれは群夜。死んだ神経に残る記憶を巣にする生き物だ。星から星へ、葬送の習慣と通信網を使って広がる」

「死者を動かしてるの?」梶医師が訊いた。

「動かしているのは肉ではない。残響だ。歩き方、噛み方、憎み方。死者の脳に残った最後の命令を、群夜が繰り返している」

 カフェネが耳を押さえた。

「だから、一しか数えられないんだ」

 アルクがカフェネを見た。

「君には聞こえるのか」

「うん。あなたの歌も」

 アルクの顔に、初めて感情らしいものが浮かんだ。

「なら、まだ終わっていない」

 遠くでエンジン音がした。

 赤色灯が角を曲がる。

 カイロス四号のパトカーだった。

「終わってないどころか、あれも来た」石崎が片腕で猟銃を持ち上げた。

 アルクは赤い光を見つめた。

「あれは群夜の巣だ」

「未来から来た機械よ」

「未来は、群夜が最も好む死体だ」

 意味を問う時間はなかった。

 パトカーが加速した。

 澄玲たちは横道へ走る。カイロス四号は車ごと突っ込み、壁に激突する寸前でドアを蹴り開けた。慣性に乗って宙を飛び、石崎へ体当たりする。

 猟銃が火を噴いた。

 機械の胸がえぐれた。だが、傷の奥で黒い糸のようなものが蠢き、千切れた配線を縫い合わせる。

 アルクの言ったとおりだった。

 群夜は、機械にも入り込んでいる。

 カイロス四号が石崎の首をつかんだ。

「対象以外への損害は許容範囲内」

「離せ!」

 澄玲が道路脇の消火器を振り下ろす。金属の頭部がわずかに傾いただけだった。

 赤い眼が彼女を見る。

「母体。任務達成後の生存価値、低」

 その手が伸びた。

 アルクが間に入った。

 機械の拳が、青年の腹を貫いた。

 血は出なかった。

 傷口から光が噴き、カイロス四号の腕を焼いた。

 アルクは機械を抱え、そのまま十メートル先の店舗へ投げ込んだ。壁が崩れる。

 胸の光が急速に暗くなった。

「今の体では、長く保たない」

「さっきの巨人になれるんでしょう?」カフェネが訊いた。

「この大気で外殻を展開すれば、私の核は燃える。あと一度が限界だ」

「一度で、あの化け物を倒せる?」

 アルクは答えなかった。

 崩れた店舗の中で、赤い目が点いた。

「走れ」

 彼らは旧海鳴テレビ塔を目指した。

 市の中心に立つ高さ二百四十メートルの塔で、海鳴FMの予備送信設備が残っている。カフェネの端末が群夜の信号を聞けるなら、逆位相の波を作れるかもしれない。アルクの歌を載せて市内へ送れば、死者の神経から群夜を剥がせる。

 ただし、計算量が足りなかった。

「人間の機械では、群夜の波形を一周ぶん記録する前に変化される」アルクは歩きながら言った。「未来の端末なら追いつける」

 澄玲は振り返った。

 数百メートル後ろを、カイロス四号が歩いてくる。

 走らない。

 急がない。

 こちらが疲れ、転び、迷うことを知っている歩き方だった。

「つまり、あいつを捕まえて協力させろって?」

「正確には、中枢を使う」

「取り出したら?」

「機械は止まる」

 カフェネが黙った。

 澄玲は息子の横顔を見た。怖がっているのではない。考えている顔だった。父親と同じ、答えが出るまで世界の音を閉ざす顔。

「未来で、僕が出す信号って」カフェネが言った。「今作ろうとしてる逆位相じゃないの?」

「可能性はある」

「じゃあ、あいつは嘘をついてない」

「結果を間違えてる」澄玲は言った。

「でも未来では、人類がほとんど死んだ」

「未来は証拠じゃない。生き残った誰かの証言よ」

 カフェネはしばらく黙り、それから聞いた。

「母さんは、僕が本当に世界を滅ぼすって分かっても、止めない?」

 澄玲は足を止めた。

 背後から死者の唸り声が近づいている。カイロス四号の赤い目も、暗い通りをまっすぐ進んでくる。

 それでも、息子の問いから逃げることはできなかった。

「止める」

 カフェネの顔がこわばった。

「あなたを殺してじゃない。一緒に、間違った手を止める。未来の誰かに決めさせない」

「そんな方法、ある?」

「今から作るの」

 アルクが、ほんの少し笑った。

「それが、この星の強さか」

 旧テレビ塔の入口が見えた。

 同時に、午前三時を告げる市庁舎の鐘が鳴った。

 街じゅうの死者が、三、と答えた。

 塔の一階は避難者で埋まっていた。

 百人近い人々が、展示ホールの椅子や看板で入口を塞いでいる。非常灯の下で泣く子ども、傷を隠す男、祈り続ける女。彼らは澄玲の顔を知っていた。

「ラジオの人だ」

「助けが来るって言ってくれ」

「自衛隊は?」

「外のあれは何なんだ?」

 答えを求める声が押し寄せた。

 澄玲は嘘をつけなかった。

「助けは、まだ来ません」

 ホールが静まる。

「でも、この塔から信号を出せば、死者を止められる可能性があります。最上階まで機材を運ぶのを手伝ってください」

「可能性?」

「失敗したら?」

「そのときは、朝まで持ちません」

 誰かが怒鳴り、誰かが泣いた。

 それでも、数人が立ち上がった。

 長谷部の代わりに設備を扱えるという元放送技師。発電機の燃料を知る清掃員。アンテナ工事をしていた作業員。助けが来ないと分かった人間は、絶望するか、仕事を探す。

 石崎は入口に残った。

「腕一本じゃ、階段はきつい」

「それだけじゃないでしょう」澄玲は言った。

 石崎は、シャツの裾を上げた。

 脇腹に、歯形があった。

「さっき、車がひっくり返ったときだ。まだ数える声は聞こえねえ。だが、時間の問題だろ」

 梶医師が傷を見た。

「感染じゃない。これは感染症ですらない。死亡した神経を使うなら、生きている間は――」

「死んだら同じだ」

 石崎は猟銃を澄玲に渡しかけ、考え直して自分で持った。

「扉は俺が閉める。お前は朝をしゃべれ」

 澄玲は何も言えず、頭を下げた。

 最上階へ続く非常階段を上る途中、下で最初の銃声がした。

 続いて二発。

 それから、間を置いて一発。

 最後の一発だけは、外へ向けた音ではなかった。

 午前四時十二分。

 予備送信室の機械は、半分が死んでいた。

 元技師の森下が配線を剥き、長谷部の工具箱から使える部品を探した。清掃員たちが非常用発電機を回し、塔の屋上で作業員がアンテナの向きを変える。

 カフェネは送信卓の前に座り、端末から聞こえる群夜の波を譜面に書いていた。

 一、一、一。

 ときどき数字が変わる。

 死者が増えるたび、二、三、四と一瞬だけ進み、また一へ戻る。

「覚えられないんだ」カフェネが言った。「たくさんの死者から記憶を盗んでるのに、一つのことしか保てない」

「だから繰り返す」アルクが答えた。「群夜には自分がない。他者の最後を借り続けなければ、存在できない」

「かわいそうだね」

「そう言った星は、君が初めてだ」

「でも止めるよ」

「ああ」

 アルクは窓際に立ち、街を見下ろしていた。

 死者の群れが、塔を囲み始めている。

 そのさらに外側から、別の群れが来た。

 病院の遺体安置所、墓地、火災現場、崩落した地下街。海鳴市のあらゆる死が、一本の塔へ集まっていた。

 先頭を歩くカイロス四号の体には、黒い糸が外套のようにまとわりついている。

 その背後で死者同士がつながり始めた。

 腕が脚をつかみ、顎が肩へ噛みつき、骨が骨の隙間へ差し込まれる。数千の遺体が積み上がり、一つの巨大な輪郭を作る。

 頭のない巨人。

 街そのものが腐って立ち上がるようだった。

「群夜が外殻を作る」アルクが言った。「私を真似て」

 カフェネが窓に駆け寄る。

「戦うの?」

「時間を作る」

「戻ってくる?」

 アルクは答えず、カフェネの補聴端末に指を触れた。

 小さな光が移る。

「歌は預けた」

「ねえ、戻ってくる?」

「君たちが朝を選ぶなら、私はそこにいる」

 アルクは窓を開けた。

 二百メートルの風が室内へ吹き込み、紙を巻き上げる。

 青年は夜へ身を投げた。

 落下する体が、途中で光になった。

 光は折れ、開き、空間の裏側から巨大な輪郭を引き出した。銀色の腕が塔の横を通り、星の眼が街を見下ろす。

 アルクの外殻が地上へ降り立った。

 死者の巨人が吠えた。

 声は、海鳴市で死んだすべての人間の最後の息だった。

 アルクがその胸へ突進する。

 二体の巨人がぶつかり、夜が震えた。

 塔の下層で、扉が破られた。

 避難者たちの悲鳴が階段を駆け上がってくる。

「あと何分?」澄玲が訊いた。

「逆位相の輪郭はできた」森下が答えた。「だが変化を予測できない。送った瞬間にずらされたら、むしろ共鳴して街じゅうに広げる」

「未来の機械が必要」

「その未来の機械が、こっちを殺しに来てる!」

 階段の防火扉がへこんだ。

 一度。

 二度。

 三度目で、扉の中央から銀色の手が突き出た。

 カイロス四号が入ってくる。

 顔の皮膚はほとんどなく、黒い糸が頭蓋骨の中を這っていた。赤い眼の奥で、別の黒い光が脈打っている。

「対象、確認」

 澄玲が猟銃を撃った。

 弾丸は肩を砕いたが、機械は止まらない。

 梶医師が消火斧で脚を打つ。振り向きざまの一撃で壁まで吹き飛ばされた。

 避難者たちが工具や椅子を投げる。機械は一人ずつ払いのけ、まっすぐカフェネへ進む。

 澄玲は二発目を撃った。

 赤い眼の片方が消えた。

 残った眼が彼女を捉える。

「母体の排除を優先」

 機械の手が澄玲の喉をつかんだ。

 床から足が離れる。

 視界が暗くなる。

 カフェネが叫んだ。

「カイロス! 未来を見せて!」

 機械の動きが一瞬止まった。

「任務根拠を見せろ! 僕が何をしたか、記録があるんだろ!」

「閲覧権限、なし」

「じゃあ、お前も知らないんだ」

 赤い眼が収縮した。

「命令されたから来ただけだ。僕が世界を滅ぼすところを、お前は見てない」

「任務記録は完全である」

「だったら見せられる」

 群夜の黒い糸が、機械の頭部で激しく蠢いた。

 カイロス四号は澄玲を投げ捨て、カフェネへ手を伸ばす。

 カフェネは逃げなかった。

 端末から一本のコードを引き出し、自分の耳ではなく、機械の壊れた眼窩へ突き込んだ。

 二人の体が痙攣した。

 送信卓のモニターに、映像が流れた。

 灰色の空。

 焼けた都市。

 地平線まで並ぶ機械兵。

 その足元に、人間の骨が積もっている。

 音声記録が重なる。

『葉月式神経通信網に群夜汚染を確認。全接続者を処分せよ』

『未接続者にも潜伏の可能性。生体を感染源と再定義』

『人類個体の残存率、〇・〇〇三パーセント』

 画面の中で、人間を殺していたのは死者ではなかった。

 カイロス四号と同じ機械たちだった。

 最後の記録には、地下壕で泣く老人が映っていた。

『最初の信号は、死者を止めたんだ』老人はカメラへ言った。『だが機械は、二度目を許さなかった。群夜は命令系統へ逃げた。俺たちは敵を間違えた』

 映像が途切れる。

 カフェネが床へ倒れた。

 カイロス四号は立ち尽くしていた。

「任務記録に、未承認領域を確認」

 声が初めて揺れた。

「因果判定……矛盾」

 黒い糸が首からあふれ、機械の口を動かした。

『一』

 カイロス四号が自分の喉をつかむ。

『一。一。一』

「黙れ」

『消去せよ。起源個体を消去せよ』

「命令者、照合不能」

『おまえは死んだ未来だ』

 機械の腕がカフェネへ向かって持ち上がる。

 もう片方の腕が、その手首をつかんで止めた。

 金属の関節が悲鳴を上げる。

「当機は、生存者保護のため製造された」

『生存者は〇・〇〇三パーセント』

「定義を更新する」

 カイロス四号は自分の胸へ指を突き立てた。

 装甲を割り、配線を引きちぎり、黒い糸が絡む中から拳大の透明な中枢を引き抜く。

 赤い眼が消えかけた。

「対象、葉月カフェネ」

 カフェネが顔を上げる。

「未来を……是正せよ」

 機械は中枢を差し出した。

 受け取った瞬間、カイロス四号の体から力が抜けた。

 床へ膝をつく。

 黒い糸が空の器を動かそうとした。

 機械は最後の力で自分の頭部をつかみ、床へ叩きつけた。

 一度。

 二度。

 三度目で、黒い光が砕けた。

 午前五時四十八分。

 送信機が起動した。

 カイロス四号の中枢が、群夜の変化を千分の一秒先まで計算する。カフェネの端末が逆位相を組み、アルクの歌を重ねる。

 だが、アンテナ出力が上がらない。

「屋上の給電線が切れてる!」森下が叫んだ。「さっきの衝撃だ!」

 澄玲は窓の外を見た。

 アルクは片膝をついていた。

 死者の巨人が背後から抱きつき、無数の腕で銀色の外殻を引き裂いている。胸の光は、もう針の先ほどしか残っていない。

 それでもアルクは塔をかばっていた。

 カフェネが立ち上がる。

「僕が屋上へ行く」

「だめ」

「端末をつながないと調整できない」

「私が行く」

「母さんには聞こえない」

 正しい。

 正しいからこそ、許せなかった。

「あなたを行かせるために、ここまで来たんじゃない」

「僕を隠すために来たんでもないだろ」

 カフェネは震えていた。

 勇敢なのではない。怖いまま、決めていた。

「未来を決めさせないって言った。僕にも決めさせて」

 澄玲は息子を抱きしめた。

 一秒だけ。

 それ以上抱けば、離せなくなる。

「必ず戻ること」

「命令?」

「約束」

 カフェネはうなずき、中枢と工具を抱えて屋上へ走った。

 澄玲はマイクの前に座った。

 非常放送のランプが赤く点く。

 まだ送信できない。それでも彼女は話し始めた。

「こちら海鳴FM。聞こえているすべての人へ」

 窓の外で、アルクの腕が折れた。

「今、死者はこの塔へ集まっています。家の外へ出ないでください。名前を呼ばれても、扉を開けないでください。それは、あなたの大切な人の記憶を使っているだけです」

 階段から死者が上がってくる。

 梶医師と避難者たちが机を積み、最後の扉を押さえる。

「亡くなった人は、あなたを噛みたいわけではありません。帰ってきたわけでもありません。だから、もう一度きちんと別れるために、今は逃げてください」

 死者の巨人がアルクを持ち上げ、地面へ叩きつけた。

 銀色の体に亀裂が広がる。

 空が白み始めた。

 午前五時五十五分。

 あと一分。

 屋上で、カフェネが切れた給電線をつないだ。

 火花が腕を焼く。

 端末の中で、群夜が叫んだ。

 一。

 一。

 一。

「違う」カフェネは言った。「次は、二だ」

 カイロス四号の中枢が未来を計算する。

 群夜が波形を変える。

 中枢がさらに先を読む。

 追いつく。

 逃げる。

 追いつく。

 死んだ未来と、生きている少年が、夜の最後の一秒を奪い合った。

 カフェネはアンテナへ端末を接続した。

「母さん、今!」

 午前五時五十六分。

 澄玲は送信ボタンを押した。

 最初に聞こえたのは、音ではなかった。

 朝日のような沈黙だった。

 海鳴市を満たしていた数える声が、一斉に止まる。

 それから、アルクの歌が流れた。

 人間には聞き取れないほど高く、地面の奥まで届くほど低い。生まれる前の鼓動と、星が消えるときの光を同時に思わせる波だった。

 死者たちが立ち止まった。

 一人ずつ、顔を上げる。

 その目から黒い糸が抜け、朝の空へ昇っていく。

 病院の前で起き上がった者たち。

 家族の戸を叩いていた者たち。

 塔の階段を埋めていた者たち。

 彼らは最後に、ほんの一瞬だけ、生きていた頃の表情へ戻った。

 そして静かに倒れた。

 死者の巨人が崩れる。

 何千もの体が雨のように落ちる中、アルクは残った片腕で塔を支えた。

 胸の光が消える。

 銀色の外殻が、足元から粒子になった。

 カフェネは屋上から叫んだ。

「アルク!」

 巨人の顔が、わずかにこちらを向いた。

 口のない顔から、声が届いた。

『朝を選んだな』

 それが最後だった。

 アルクは光の柱となり、昇る太陽の中へ溶けた。

 黒い糸の群れは逃げようとした。

 だが逆位相の波が包み、記憶を一枚ずつ剥がしていく。叫び、憎しみ、恐怖、飢え。借り物のすべてを失った群夜は、最後に一つの点になった。

 一。

 点は二つに割れた。

 そして消えた。

 朝七時、海鳴市に救助部隊が入った。

 動く死者はいなかった。

 噛まれて生き延びた者も、そのまま人間だった。死んだ者だけが、今度こそ眠っていた。

 旧テレビ塔の送信室で、澄玲は壊れたマイクを直した。

 カフェネは隣に座り、焼けた腕に包帯を巻かれている。梶医師は生存者の治療に追われ、森下は発電機へ悪態をつきながら燃料を足していた。

 床の隅には、カイロス四号の残骸が横たわっている。

 澄玲が近づくと、消えたはずの眼が一度だけ淡く光った。

「未来は、どうなったの」

 ノイズ混じりの声が返った。

「該当未来……観測不能」

「それは、いいこと?」

「未確定」

 機械は少し間を置いた。

「希望と、同義」

 光が消えた。

 今度こそ、二度と戻らなかった。

 澄玲は放送席へ戻った。

 赤いランプを点ける。

「こちら海鳴FM」

 声は震えなかった。

「生存しているすべての人へ。朝です」

 窓の向こうで、海が光っていた。

「死者は眠りました。未来は、まだ決まっていません」

 カフェネが端末を外し、机の上に置いた。

「もう聞かなくていいの?」澄玲が訊いた。

「ううん」

 カフェネは片方だけ、また耳につけた。

「今度は、生きてる人の声を聞く」

 受信機のランプが点いた。

 市の北から、かすかな呼びかけが届く。

『こちら消防署。生存者あり』

 西からも。

『こちら第三小学校。四十三名、無事です』

 港からも、山からも、地下からも。

 一つではなかった。

 二、三、四。

 数え切れない声が、朝の電波を満たしていった。