『星喰い谷の逆さ羅針盤』

一 取り壊しの赤い印

 世界の底には海がない。

 あるのは雲でできた深淵と、その上をゆっくり漂う無数の浮島だけだ。

 浮島カレドニアの西端、風切り岬の斜面にへばりつくようにして、鍋底街はあった。家々は古い船板と錆びた銅板で継ぎはぎされ、屋根は隣の屋根を支え、路地は梯子になり、洗濯物は雲の海へ向かって旗のようにはためいていた。

 ミラ・フェンが十四年生きてきた家も、その一つだった。

 その朝、役人たちは玄関に赤い丸を描いた。

「三十日以内に退去せよ、だってさ」

 幼なじみのトーマが、貼り紙を声に出して読んだ。十五歳のくせに大人ぶって低い声を出すので、言葉の終わりがひっくり返った。

「読めるよ」

「知ってる。感じを出したんだ」

「感じで家は残らない」

 ミラは赤い丸を袖でこすった。乾いた塗料は落ちず、古傷みたいに板へ染み込んでいる。

 島の中心にある上層街では、最近、地面の揺れが続いていた。評議会は『西端地盤の崩落予防』を理由に、鍋底街を丸ごと取り壊すと決めた。住民には北側の共同宿舎があてがわれるという。窓が三つしかなく、風車工場の煤が一日じゅう降る場所だ。

「崩れるのは上層街の時計塔のほうじゃない?」

 ネネ・クイルが、屋根の上から身軽に降りてきた。小柄で、黒髪を銅線で二つに束ね、腰には工具袋を下げている。右耳の聞こえが悪いので、話す相手の口を見る癖があった。

「昨夜、揺れの向きを測った。震源は西じゃない。島の真ん中」

 フフェムが折り畳み定規を地面へ置き、指で中心を叩いた。

「評議会は嘘をついてる」

「大人はだいたいそうだよ」と、バズが言った。

 バズことバジル・オウルは十二歳で、丸い眼鏡と丸い頬と丸い腹を持っていた。怖い話を集めるのが好きなくせに、自分が怖い目に遭うのは嫌いだった。今も三人から半歩離れ、安全そうな樽の陰に立っている。

「ただし、大人の嘘には書類と印鑑がつく。だから強い」

「じゃあ、もっと強いものが要るな」

 トーマは、赤い丸を拳で叩いた。

「宝とか」

 ミラは鼻で笑った。

「鍋底街を買い取れるほどの?」

「そう。山ほどの金。竜の卵。王さまの冠。何でもいい」

「そんなものがあったら、先に大人が盗ってる」

 けれど、その言葉を口にした瞬間、ミラは亡くなった父の口癖を思い出した。

 ――大人は地図に描かれた道しか探さない。だから、地図に描けない宝は子どもが見つける。

 父は地図師だった。七年前、母が失踪したあと、島じゅうの古道を調べ歩き、三年前の空震で命を落とした。それ以来、ミラは父の工房を一人で守っている。注文は減り、借金は増え、壁は雨のたびに新しい場所から泣いた。

 四人は工房へ入った。

 天井から吊るされた地図は、乾いた魚のように身をよじっていた。島の航路図、地下水路図、雲流の季節図。机の上には真鍮の定規と、欠けたコンパスと、父が最後まで完成させなかった西部地形図。

 ミラは赤い退去命令を丸め、炉へ投げた。

 炎が紙を舐めたとき、壁の奥で、かちり、と音がした。

 四人は黙った。

 もう一度、かちり。

「ねずみ?」とバズ。

「ねずみは鍵を回さない」とフフェム。

 音は、父の大地図の裏から聞こえた。

 四人で地図を外すと、壁板に小さな鍵穴が現れた。鍵などない。だがフフェムは笑い、髪を束ねていた銅線を抜き取った。

「こういうときのために、髪は留めておくもの」

 三十秒後、板の一部がぱかりと開いた。

 中には黒い木箱があった。

 蓋には、見たことのない紋章が焼きつけられている。八本の風を示す矢印。その中心で、星が口を開けていた。

 ミラが箱を持ち上げると、底から一匹の黒い獣がこぼれ落ちた。

「うわっ!」

 バズが樽へ飛び込んだ。

 獣は床に着く前に、ぺらりと平らになった。

 それはイタチの形をしたインクの染みだった。二つの白い目だけが紙に穴を開けたように浮かび、細長い尾が筆跡めいてくるりと巻いている。

 インク獣は前脚で口元をぬぐい、くしゃみをした。黒い飛沫が床に散り、すぐに文字へ変わった。

 ――おそい。

「しゃべった」とトーマ。

「書いたんだよ」とフフェム。

 インク獣はミラの靴へよじ登り、肩まで駆け上がった。紙をめくるような音を立てて首を傾げる。

 ミラは知っていた。

「スミ……?」

 幼いころ、母が地図の余白にいつも描いてくれたイタチ。道に迷うたび、絵のスミは正しい方角を鼻で示した。母が消えてから、どの地図を探しても見つからなかった。

 箱の中には、三つの品が収められていた。

 一枚の布地図。

 一通の手紙。

 そして、黒い真鍮でできた羅針盤。

 羅針盤には方位の文字がなかった。代わりに、文字盤を囲むように奇妙な印が刻まれている。閉じた目、割れた王冠、空の杯、鍵のない扉、笑う月、泣く太陽。針は一本ではなく四本あり、互いを嫌う虫の脚のように別々の方向を指していた。

 手紙の表には、母の字でこう書かれていた。

 ミラへ。

 これを読める年になったなら、私は帰れなかったのだと思う。

 ミラの喉が固くなった。

 続きを読む手が震えた。

 八つ風の谷へ行ってはいけない。

 けれど、ヴァレク監理官が谷を探し始めたなら、誰より先に行きなさい。

 谷の底に黄金はない。もっと危険で、もっと役に立つものがある。

 逆さ羅針盤は、北を示さない。

 おまえが口にできなかった問いに、印で答える。

 ただし、針を信じすぎてはいけない。真実は正しいが、正しさは人を救わないことがある。

 最後に。

 最初に嘘をついた者を信じなさい。

 母より。

 部屋に、炉のはぜる音だけが残った。

 ヴァレク監理官は、鍋底街の取り壊しを決めた評議会の長だった。

 そして布地図の中央には、島のどの公図にもない谷が描かれていた。

 その入口は、鍋底街の真下だった。

二 嘘を指す羅針盤

「行かない理由を挙げよう」

 バズが指を立てた。

「一、手紙に行くなと書いてある。二、名前からして嫌だ。八つ風の谷なんて、普通の谷より五つくらい多く危険だ。三、監理官が探してる。四、地図から動物が出てきた。五――」

「行く理由は一つで足りる」とトーマ。

「家を守れるかもしれない」

 フフェムは逆さ羅針盤を机に置き、拡大鏡で覗いていた。

「仕掛けが見えない。針は歯車につながってない。磁石でもない。なのに動く」

 ミラは手紙を読み返していた。

 母は失踪する前、ヴァレク監理官の調査隊に加わっていた。島の浮力を生む『天芯石』の埋蔵量を調べる仕事だと聞かされていた。調査隊は戻らず、監理官は、雲海へ落ちたのだろうと説明した。

 もし、あれが嘘だったなら。

 ミラは羅針盤を両手で包み、心の中で問いかけた。

 母は生きている?

 四本の針が震えた。

 一番細い銀の針が、文字盤の『閉じた目』を指した。

 太い鉄の針は『鍵のない扉』へ。

 残る二本は互いに絡み、動かなくなった。

「どういう意味?」とトーマ。

「眠ってる。閉じ込められてる。あるいは、見つけたくない答えってことかも」

 スミがミラの腕を伝い、文字盤の上で丸くなった。尾の先がインクの線になり、『鍵のない扉』と布地図の谷を結んだ。

「案内できるの?」

 ――だいたい。

 床に文字が浮かんだ。

「その言葉、いちばん信用できない」とバズが言った。

 日が落ちる前に、四人は荷物を整えた。縄、ランタン、干し肉、フフェムの工具、トーマの姉が焼いた岩パン、バズの怪談帳、ミラの製図具。それから、鍋底街の共同金庫に残っていた最後の火薬筒を一本。

 出発しようと裏口を開けると、少女が立っていた。

 銀灰色の上着。磨かれた長靴。髪は首の後ろで寸分違わず結ばれている。監理官ヴァレクの養女、キリ・ヴァレクだった。

 上層学校の首席で、ミラたちとは何度も喧嘩をしている。

「夜の散歩?」とキリ。

「パンの配達」とトーマが即答した。

 母の手紙が脳裏によみがえった。

 ――最初に嘘をついた者を信じなさい。

 ミラはトーマを見た。

 トーマは眉を上げた。

「じゃあ信じて」と小声で言う。

「いや、あれはたぶん、そういう意味じゃない」

 キリは工房の奥にある布地図を見た。顔色が変わった。

「それをどこで?」

「パン屋でもらった」

「二つ目の嘘は効かないと思う」とバズ。

 キリは扉を閉め、声を落とした。

「父――監理官は今夜、兵を鍋底街へ入れる。家の取り壊しじゃない。地下水路を封鎖するため」

「どうして知ってる?」

「執務室の命令書を読んだ」

「盗み見た?」とフフェム。

「養女には、家庭内資料を閲覧する権利がある」

「つまり盗み見た」

 キリは無視した。

「命令書には『八風口の確保』と書いてあった。父は何年も谷を探してる。あなたのお母さんが消えた夜から」

 ミラは一歩近づいた。

「母のことを知ってるの?」

「知らない。でも、父はときどき眠りながら、同じ名前を呼ぶ。エリサ・フェン。『杭を抜くな』って」

 スミの毛ならぬ輪郭が、針のように逆立った。

 工房の外で笛が鳴った。

 路地の下から、兵士たちの松明が近づいてくる。

「案内できる」とキリが言った。「水路の鉄扉には評議会の鍵が要る。私が持ってる」

「どうして助ける?」

 キリは一瞬だけ、上層街の方を見た。

「父は、谷の力で島を救うと言ってる。でも三日前、鍋底街の住民名簿に『不要重量』と書き込んだ」

 その言葉で、誰も反対しなくなった。

 五人は裏窓から屋根へ出た。

 兵士が工房の正面扉を叩いたとき、彼らは洗濯綱を滑り、隣家の煙突を蹴り、傾いた屋根を駆け抜けていた。

「パンの配達にしては派手だね!」とバズ。

「急ぎのパンなんだ!」

 トーマが笑った。

 鍋底街の最下層には、百年前に使われていた雨水路がある。入口は廃浴場の床下だ。キリの鍵で鉄扉を開けると、冷たい風が五人の顔を撫でた。

 風は下から吹き上がっていた。

 ありえないことだった。浮島の内部に、空へ通じるほど深い空洞があるはずはない。

 スミが闇へ飛び込み、壁に黒い足跡を残した。

 ――こっち。

 五人が入った直後、背後の路地に兵士たちの声が響いた。

 キリは鉄扉を閉めた。

「戻るなら今」とバズが言った。

「もう閉めたよ」とフフェム。

「そういう意味じゃない」

 ミラは逆さ羅針盤を開いた。

 四本の針は、すべて暗闇の奥を指していた。

三 八つ風の谷

 水路は、島の骨をくり抜いたように続いていた。

 壁には古い煉瓦、その奥には青白く光る岩脈。天芯石だ。島を雲の海に浮かせる鉱石で、上層街の灯や工場にも使われる。ところが岩脈には、無数の細い管が打ち込まれていた。

 フフェムが一本に耳を当てる。

「吸われてる」

「何が?」

「石の力。管は島の中心へ向かってる」

 キリの顔がこわばった。

「父が新しい浮力炉を造っている。上層街を安定させるためだと」

「西端が崩れそうなのは、そのせい?」

「たぶん」

 鍋底街を危険にした者が、危険だから取り壊すと決めたのだ。

 ミラは怒りを飲み込んだ。今は証拠を持ち帰らなければならない。管の配置を手帳に写し、先へ進んだ。

 やがて水路は、円形の石室へ出た。

 向こう側に扉が八つある。それぞれの上に風の印が刻まれていた。暖風、雪風、潮風、灰風、花風、鉄風、眠り風、名なし風。

「八つ風」とバズがつぶやく。「怪談帳の第六十三話にある。八つの風のうち、七つは旅人を殺し、一つだけが――」

「助ける?」

「もっとゆっくり殺す」

 どの扉も同じ形だった。

 ミラは羅針盤へ問いかけた。

 谷へ通じる扉はどれ?

 針は一斉に回り、四本とも違う扉を指した。

「壊れた?」とトーマ。

「問いが悪い」

 フフェムは扉の床を調べた。八つの前に、細い溝がある。

「重さを測ってる。間違った扉に二人以上乗ると、たぶん床が抜ける」

「一人なら?」とバズ。

「一人分だけ抜ける」

 スミが壁の古い銘文を舐めた。黒い舌が文字のへこみに入り、消えかけた文章をなぞる。

 ――風は、言葉の重さを知る。

 ――軽き嘘は沈み、重き真は道を開く。

「正直に何か言えってこと?」

 トーマが鉄風の扉の前へ立った。

「俺は高いところが怖い」

 床が沈み、警告するように石が鳴った。

「嘘だね」とミラ。

「違う。怖くないわけじゃない。落ちたら痛いから嫌いだ」

「軽いんだよ」とフフェム。「もっと重いこと」

 しばらく誰も口を開かなかった。

 やがてバズが、眠り風の扉の前へ出た。

「僕は……みんなが冒険に行くとき、行きたくないって毎回思う」

「知ってる」とトーマ。

「まだある。行かなかったら、僕なしで平気だって分かるのが、もっと怖い」

 床の溝が青く光った。

 眠り風の扉が、音もなく開いた。

「おお」とバズ。「僕の臆病が世界を救った」

「まだ扉一枚」とキリ。

 その先は、下り坂だった。

 五人が乗った石床が突然外れ、巨大な滑り台になった。

 悲鳴と罵声と笑い声をまとめて引きずりながら、彼らは暗闇を滑り落ちた。途中、トーマの袋から岩パンが飛び出し、バズの眼鏡がスミの尾に引っかかり、フフェムは滑りながら壁の仕掛けを観察し、キリだけは最後まで姿勢を崩すまいと努力していたが、最後の段差でミラの背中へ頭から突っ込んだ。

 彼らは柔らかい草の上に放り出された。

 見上げると、空があった。

 浮島の内部に、夜の谷が広がっていた。

 天井は遥か高く、そこに本物ではない星が瞬いている。岩肌に埋まった青い結晶が、星座を真似て光っていた。谷には銀色の草原が波打ち、遠くに風車と家々の黒い影が並ぶ。

 風は八方向から同時に吹いていた。

 花の匂い。

 雪の冷たさ。

 海の塩。

 焼けた灰。

 錆びた鉄。

 眠りを誘う甘さ。

 誰かの名前を呼ぶ声。

 そして最後の一つは、肌で感じるのに、どうしても言葉にできなかった。

 バズが怪談帳を閉じた。

「書かないの?」とミラ。

「書いたら、こっちに気づきそうだから」

 草原の向こうで、何か巨大なものが動いた。

 姿は見えない。

 ただ草が、山ほどの足に踏まれたように順番に倒れ、谷を横切っていく。

 その足跡は五つだった。

 次の瞬間、遠くの風車が途中から消えた。

 折れたのでも、倒れたのでもない。

 見えない口に噛み取られたように、上半分だけがなくなった。

 スミがミラの襟の中へ潜った。

 ――みつかった。

四 声のない村

「走れ!」

 トーマの声と同時に、五人は草原を駆けた。

 背後で銀の草が次々に伏せる。見えない何かは速かった。地面が一歩ごとに揺れ、そのたび、腹の底まで響く低い音がした。

 バズが転び、フフェムが襟首をつかんで起こす。

「荷物を捨てて!」とキリ。

「怪談帳は荷物じゃない!」

「じゃあ食べられながら読んで!」

 ミラは羅針盤を開いた。

 隠れられる場所。

 銀の針が『空の杯』へ向き、次いで谷の村を指した。村の中央には、屋根の落ちた礼拝堂がある。杯のように空へ口を開けていた。

「あそこ!」

 五人は石垣を飛び越え、礼拝堂へ滑り込んだ。

 トーマとキリが扉を押し戻す。扉は途中で何かにぶつかった。外には何も見えないのに、木板が内側へ大きくたわむ。

「押してる!」

 フフェムが工具袋から楔を取り出し、蝶番へ打ち込んだ。

 ばん、と扉が鳴る。

 もう一度。

 天井から白い粉が降った。

 礼拝堂の奥に、石造りの祭壇があった。祭壇には星の形をした窪みと、鉄の輪。ミラの肩から飛び出したスミが窪みへ飛び込み、ぺたりと体を広げる。

 黒い星が完成した。

 床が左右へ割れ、地下へ続く階段が現れた。

「先に言ってよ!」とバズ。

 ――きかれてない。

 五人が階段を転がるように下りると、スミが後から滑り込んだ。床が閉じた直後、礼拝堂の扉が砕ける音がした。

 暗闇の中で、何かが床を嗅いだ。

 鼻息ではない。

 雨の前に空気が膨らむような、重い気配だった。

 やがて、それは遠ざかった。

 誰も、しばらく息をしなかった。

「今のは何?」

 キリの声が震えていた。初めて聞く震えだった。

 バズが小さく答えた。

「見えないもの」

「見れば分かる説明をして」

「見えないんだから分からないよ」

 階段の先は、村の共同地下室につながっていた。

 棚には瓶詰めの果実、乾燥させた茸、黒い豆。埃は積もっているが、腐ってはいない。壁の油灯には新しい油が入っていた。

 村は何十年も前に捨てられたように見えたのに、誰かが今も暮らしている。

 地上へ戻る別の階段を上がると、彼らは酒場の厨房へ出た。

 鍋にはまだ温かいスープが残っていた。

 椅子は引かれ、皿には食べかけのパンがある。

 暖炉の火も消えていない。

 けれど人はいなかった。

 壁の時計は、針を逆向きに動かしていた。

「帰ろう」とバズ。

「どっちへ?」とフフェム。

「それを今からみんなで考えるのが、帰るという行為の第一歩だよ」

 ミラは卓上の埃に触れた。埃ではない。灰色の細かな砂で、指につくと一瞬だけ星のように光った。

 スミが酒場の壁へ駆け上がる。

 そこには村人の集合画が掛けられていた。祭りの日らしく、百人ほどが風車の前で笑っている。

 だが、絵の中の全員が口を閉じていた。

 赤ん坊まで。

 額縁の下に文字が彫られていた。

 ――声は道をつくる。

 ――名は扉をつくる。

 ――あれに道を与えるな。

 そのとき、二階で床板が鳴った。

 五人は一斉に見上げた。

 ぎい。

 階段の上に、白い服を着た老女が立っていた。

 背は曲がり、髪は腰まで伸びている。両目は乳白色で、焦点が合っていない。口元には、黒い糸で縫ったような痕があった。

 老女は五人を見ると、指を一本、唇に当てた。

 静かに。

 それから手招きした。

 酒場の二階には、小さな部屋があった。窓は厚い布で塞がれ、壁という壁に文字が書かれている。老女は黒板を取り、白墨を走らせた。

 《外で名前を呼んではいけない》

 バズも手帳に書いた。

 《あれは名前を聞くと来る?》

 老女はうなずいた。

 《声を道にする。谷で生まれたものは目がない。遠い星の親も目がない。見る代わりに、呼ばれたものを知る》

 キリが白墨を受け取った。

 《村の人たちは?》

 老女は窓の布を少しだけ開けた。

 通りの向こうに、村人たちが立っていた。

 さっきまで誰もいなかったはずの場所に、老人、女、子ども、農夫が並んでいる。皆、同じ灰色の服を着て、空を見上げていた。肌は蝋のように白く、足元の影は一本ではなく、いくつにも枝分かれしている。

 誰一人動かない。

 老女は書いた。

 《眠っている。夢を吸われている。目覚めれば声を出す。声を出せば、食べられる。だから眠らせている》

「ひどい」とトーマが、思わず声に出した。

 老女が振り向く。

 全員の顔から血の気が引いた。

 外の村人たちが、一斉に首をこちらへ向けた。

 谷のどこかで、銀の草がざわめいた。

 老女は素早くランタンの火を消した。

 暗闇の中、巨大な足音が近づいてくる。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 酒場の屋根の上で止まった。

 天井板が、ゆっくり下へたわんだ。

 何かが耳を当てている。

 トーマは両手で口を塞いだ。バズは眼鏡が鳴らないように押さえた。フフェムはキリの袖をつかみ、キリはミラの手首を握った。

 ミラの胸元で、羅針盤の針だけが、かすかに擦れる音を立てた。

 銀の針が回る。

 ぴたりと、ミラ自身を指した。

 天井の向こうで、何かが笑った。

 声ではなかった。

 五人の頭の中に、まだ起きていない楽しい記憶を無理やり流し込むような笑いだった。

 ミラは、自分が大人になり、母と父と三人で夕食を囲む光景を見た。父は生きていて、母は一度も消えていない。窓の外に赤い取り壊し印もない。

 ありえないと分かっているのに、涙が出た。

 その未来へ名前をつけて呼べば、手に入る気がした。

 母さん。

 喉まで出かかった言葉を、トーマの手が止めた。

 彼はミラの口を塞ぎ、首を横に振った。

 ――信じて。

 工房でついた最初の嘘を思い出した。

 急ぎのパン。

 意味のない嘘。けれど、仲間を逃がすために迷わず口から出た嘘。

 ミラは目を閉じた。

 偽物の未来は砕けた。

 天井の重みが消え、足音は村の東へ遠ざかっていった。

 老女が火をつけ直した。

 黒板に、震える字を書く。

 《エリサの娘》

 ミラは息を呑んだ。

 《母を知っている?》

 《知っている。七年前、あなたと同じ羅針盤を持って来た。監理官と十二人の兵も》

 《母はどこ?》

 老女は、谷の奥にそびえる黒い塔を指した。

 塔は天井の偽星より高く、頂上に巨大な輪を載せていた。輪の中だけ星がなく、空に穴が開いたように真っ暗だった。

 《旧天文台。あそこで杭を守っている》

 《何の杭?》

 老女はしばらく白墨を動かさなかった。

 やがて、壁に描かれた古い図を示した。

 浮島。

 その内部の谷。

 谷の底に打ち込まれた一本の杭。

 杭の下には、星をいくつも飲み込むほど大きな、輪の連なった何か。

 《三百年前、天文学者たちは、すべての方角の彼方に同じ星を見つけた》

 《星ではなかった。こちらを見ていたのでもない。ただ、夢の中で寝返りを打った》

 《その影が世界へ触れ、谷に落とし子が生まれた》

 《村人は力を欲し、影を島の浮力に結びつけた》

 《杭は結び目。抜けば島はしばらく強く浮く。そのあと、世界の内側が口になる》

 バズが書いた。

 《すごく嫌な説明だけど、分かりやすい》

 老女は続けた。

 《監理官は杭を抜きたがった。エリサは止めた。戦いになり、天文台が閉じた。エリサは中に残った》

 キリの手から白墨が落ちた。

 そのとき、谷の入口の方角で銃声が鳴った。

 次いで、男たちの叫び声。

 ヴァレクの兵が来たのだ。

 キリは上着の留め具に触れた。銀色の家紋章が、淡く明滅している。

「追跡印……」

 顔が真っ白になった。

「知らなかった。父が、私の留め具に」

 トーマが留め具を引きちぎり、窓から反対側の路地へ投げた。

「これで、あっちを探す」

「私を疑わないの?」

「疑ってる。でも今は走る方が先」

 老女が床板を外した。

 下には細い鉱車路が伸びている。天文台へ鉱石を運んだ線路らしい。

 彼女はミラへ小さな銀の笛を渡した。穴のない笛だった。

 《音は出ない。だが落とし子には聞こえる》

「役に立つの、それ?」とバズ。

 老女は初めて笑った。

 口元の傷が、古い扉のように開いた。

 《追い払う笛ではない》

 《呼ぶ笛だ》

五 地下天文台

 鉱車は、五人には少し小さかった。

 トーマとバズが前、ミラとキリが中央、フフェムが後ろの制動桿にしがみつく。スミは先頭に貼りつき、目だけを進行方向へ向けた。

「止め方は分かった?」とミラ。

「たぶん」

 床に黒い文字が散った。

 ――だいたい。

「スミと同じ答え方をしないで!」

 フフェムが制動桿を倒すと、鉱車は止まるどころか猛烈に加速した。

「逆だった!」

 線路は村の地下を抜け、谷の崖へ飛び出した。

 眼下には銀の草原。頭上には偽物の星。前方には、闇の中へまっすぐ伸びる一本の線路。

 鉱車は風を裂いた。

 背後の村から兵士たちが現れ、別の鉱車へ乗り込む。先頭に立つヴァレク監理官の姿が見えた。長い黒衣を風にはためかせ、片手に白い杖を持っている。

「キリ!」

 彼の声が谷へ響いた。

 銀の草原が、遠くから順に伏せ始めた。

「名前を呼んだ!」とバズ。

「父は落とし子のことを知ってる!」

 ヴァレクは白い杖を線路へ向けた。杖の先から青い火花が走り、線路脇の古い灯が次々に点る。

 点った灯は、音の壁を作った。

 見えない落とし子が進路を変える。声の主ではなく、鉱車の方へ。

「知ってるどころじゃない!」

 五本の足跡が、草原を横切って迫ってくる。

 フフェムは工具袋を探り、短い鉄棒を取り出した。

「次の分岐で右へ曲がる。後ろの切替器を叩けば、追っ手は左」

「誰が叩く?」

 全員がトーマを見た。

「なんで俺?」

「腕が長い」とフフェム。

「高いところが怖くない」とミラ。

「さっきの真実を軽いって言ったくせに!」

 分岐が近づく。

 トーマは鉱車の後ろへ身を乗り出した。車輪が継ぎ目を踏むたび、体が雲の海へ投げ出されそうになる。

「もう少し!」

 鉄棒が切替器へ届かない。

 ミラはトーマの足首をつかんだ。キリがミラの腰を、バズがキリの上着を、フフェムがバズのベルトをつかむ。

 五人が一本の縄のようにつながった。

 トーマが鉄棒を振る。

 切替器が回った。

 彼らの鉱車は右へ。

 ヴァレクたちは左へ。

 その直後、見えない落とし子が分岐へ飛び込んだ。

 ヴァレクの兵たちが悲鳴を上げ、銃を撃つ。弾丸は空中の何かに当たり、青い液体を散らした。一瞬だけ、巨大な輪郭が浮かぶ。

 五本脚。

 骨のない胴。

 頭の代わりに、開いた傘のような器官。

 その内側に、人間の顔に似た窪みが何百と並んでいた。

 バズはそれを見て、気を失いかけ、眼鏡を落としかけ、しかし怪談帳だけは胸に抱え込んだ。

 ヴァレクが杖を振ると、音の壁が落とし子を足止めした。

 鉱車は別の穴へ消え、追っ手の姿は見えなくなった。

「やった!」とトーマ。

「まだ止まってない!」とフフェム。

 線路の先が途切れていた。

 鉱車は勢いよく宙へ飛び出した。

 五人の悲鳴が一つになった。

 数秒後、鉱車は天文台の外壁を貫く古い荷揚げ網へ落ちた。網は大きくたわみ、彼らをまとめて跳ね上げ、石床へ転がした。

 バズが仰向けのまま言った。

「帰ったら、冒険の定義を変えよう。徒歩で行ける範囲だけにしよう」

 旧天文台の内部は、塔というより巨大な機械だった。

 幾重もの輪が吹き抜けを囲み、歯車と橋と階段が、互いに違う角度で組まれている。壁には星図が刻まれていたが、どの星座も中心から外へではなく、外から中心へ落ち込んでいた。

 塔の中央には、底の見えない縦穴がある。

 その上を、細い橋が何本も横切っていた。

 ミラが一歩踏み出すと、羅針盤の四本の針が激しく震えた。

 最上階。

 最下層。

 東の壁。

 そしてミラの胸。

 四方向を同時に指している。

「母さんは、どこ?」

 スミが床へ下り、鼻を利かせるように輪郭を揺らした。

 ――ぜんぶ。

「どういう意味?」

 答える代わりに、塔全体が脈打った。

 壁の星図が一斉に光り、中央の縦穴から青白い風が吹き上がる。

 風の中に、女の声が混じっていた。

「ミラ」

 七年ぶりに聞く声だった。

 最上階の輪の中心に、人影が浮かんでいる。

 銀の糸に包まれた女。

 髪は記憶より長く、頬は痩せていた。けれど、目は同じだった。

「母さん!」

 ミラは橋を駆け上がった。

 階段は途中で向きを変え、壁になり、別の輪へつながった。フフェムが歯車を蹴り、キリが操作盤の古代文字を読み、トーマが鎖を引き、バズが「左! いや僕から見て右!」と役に立つのか立たないのか分からない指示を飛ばす。

 最後の橋へたどり着くと、銀の糸がほどけた。

 エリサ・フェンが床へ降り立った。

 ミラは飛びついた。

 母の体は冷たかったが、確かに息をしていた。

「大きくなった」

「遅いよ」

「ごめん」

「七年だよ」

「私には七か月だった」

 エリサはミラの髪に顔を埋めた。

「毎日、帰る道を描いてた」

 スミが二人の肩をぐるぐる回り、黒い足跡を残した。エリサは笑い、指を差し出す。

「あなたも守ってくれたのね」

 ――だいたい。

 エリサは仲間たちを見た。

「説明する時間がない。ヴァレクが来る」

「杭って何?」とフフェム。

 エリサは中央の縦穴を指した。

 穴の中には、一本の黒い柱が浮いていた。柱の表面を、銀色の文字が滝のように流れている。上端は塔の輪へ、下端は闇の底へ伸びていた。

「あれは杭じゃない。地図の針よ。この島が『こちら側の世界』にあると示し続けている」

「抜くと?」

「島は、あれが眠る場所と重なる」

 エリサは壁の星図へ触れた。

 光の中に、途方もない影が現れた。

 星々の間に横たわる、輪と角度だけでできた生物。頭も尾もなく、どこまでが一体なのか分からない。こちらの宇宙は、その皮膚に浮かぶ小さな泡の一つにすぎないように見えた。

「村人は『生まれない星』と呼んだ。あれの一部が夢の中でこの世界へ触れた。落とし子は、その爪の垢にも満たない」

 バズが眼鏡を外して拭いた。

「見間違いだといいなと思って」

「私も何百回も思った」

 キリが尋ねた。

「父は、どうして杭を抜こうとするの?」

「杭の向こうには、無限に近い力がある。ヴァレクはそれを浮力炉へ流し込むつもり。最初は島を救うためだった。でも力の夢を長く見すぎた」

「鍋底街を捨てれば、上層街だけは浮かせられるって」

「逆よ。彼が天芯石を吸い上げたから、西端が弱った。杭を抜く口実を作るために」

 ミラは手帳を握った。管の配置図だけでは足りない。だが天文台には、ヴァレクの計画を記録したものがあるはずだ。

「証拠を持って帰る。母さんも一緒に」

 エリサは悲しそうに首を振った。

「私は杭の補助になってる。離れれば結び目が緩む」

「じゃあ、別の方法を探す」

「ミラ」

「地図師は、道がないときに道を描くんでしょ」

 エリサの目に涙が浮かんだ。

 塔の下で、扉が爆発した。

 兵士たちがなだれ込む。

 最後にヴァレク監理官が現れた。黒衣は裂け、頬に青い血がついている。だが白い杖は手放していなかった。

「感動の再会を邪魔して申し訳ない」

 彼は静かに言った。

「エリサ。今度こそ、島を救う」

六 生まれない星

「救う?」

 キリが橋の上へ進み出た。

「鍋底街を切り捨てて?」

「三千人を守るために、四百人を移す」

 ヴァレクの声は穏やかだった。だからこそ、冷たく響いた。

「政治は、全員が助かる物語ではない」

「移すんじゃない。父上の名簿には『不要重量』と書いてあった」

 ヴァレクの目が一瞬だけ揺れた。

「見たのか」

「見た」

「なら、あれが計算上の言葉だとも分かったはずだ」

「人を計算の言葉で呼んだ時点で、父上は答えを間違えた」

 兵士たちが橋を取り囲む。

 エリサはミラを背にかばった。

「杭を抜けば、計算する世界そのものがなくなる」

「七年間、同じ脅しを聞いた。だがその間にも島の天芯石は減り続けた。あと十年か、二十年か。いずれカレドニアは落ちる」

「だから谷の力に手を出した?」

「他に何がある」

 ヴァレクは初めて声を荒らげた。

「評議会は祭りと噴水に金を使い、技師は古い炉を撫でて祈るだけ。私は島を落とさない。たとえ、怪物の夢を燃料にしてでも」

 バズが小声でトーマへ言った。

「悪役って、自分の演説を始めると長いね」

「聞こえるぞ」とヴァレク。

「耳がいい悪役だ」

 ヴァレクは白い杖を上げた。

「羅針盤を渡せ、ミラ。あれは杭の留め金を見つける鍵だ」

「嫌」

「エリサを解放したいのだろう?」

 ミラの指が羅針盤の蓋を強く握った。

「杭を抜けば、母親は自由になる」

「島が怪物の口になる」

「エリサの話を信じるか? 七年も塔に溶かされ、何が自分の考えかも分からない女を」

 ミラは答えなかった。

 代わりに羅針盤へ問いかけた。

 ヴァレクは、自分の言葉を信じている?

 針が動く。

 銀の針は『閉じた目』。

 鉄の針は『割れた王冠』。

 細い金の針は、キリ。

 黒い針は、ヴァレク自身の胸を指した。

「信じてる」とミラは言った。「でも、見ないようにしてる。失敗した自分を怖がってる。キリを失うのも」

 ヴァレクの顔から表情が消えた。

「その玩具は、だから嫌いだ」

 白い杖が閃いた。

 青い光がミラの手を打ち、羅針盤が宙へ飛ぶ。ヴァレクは片手で受け取った。

 同時に、キリが走った。

「返して!」

 兵士が彼女を止めようとしたが、キリは長靴の踵で足を踏み、肘で顎を打ち、黒衣へ飛びついた。ヴァレクはよろめき、白い杖を落とす。

 トーマが欄干を飛び越えて杖を拾った。

「よし、これで――」

「持ち手が逆!」とフフェム。

 杖の先から音の衝撃が放たれた。

 橋が根元から吹き飛んだ。

 トーマ、ミラ、キリ、ヴァレクが空中へ投げ出される。

 ミラは回転しながら、下に底なしの縦穴を見た。

 手が伸びる。

 トーマの手だった。

 ミラはつかんだ。

 ――最初に嘘をついた者を信じなさい。

 トーマは片手で鎖にぶら下がり、もう片方でミラを支えた。ミラの足にキリがしがみつき、キリの腕をヴァレクがつかんでいる。

 四人が縦に連なった。

「重い!」とトーマ。

「誰に言ってるの!」とキリ。

「全員!」

 フフェムとバズが鎖を巻き上げる。エリサも銀の糸を伸ばした。

 まずミラが橋へ戻り、次にキリ。

 ヴァレクの番になったとき、羅針盤が彼の懐から滑り落ちた。

 彼はキリの腕を離し、反射的に羅針盤へ手を伸ばした。

「父上!」

 ヴァレクの指先が蓋に届く。

 けれど、その体は縦穴へ傾いた。

 キリが身を乗り出して手をつかんだ。

「馬鹿!」

 ヴァレクは宙吊りになり、初めて恐怖をむき出しにした。

 羅針盤は一段下の回転輪へ落ち、金属音を立てた。

 兵士たちがヴァレクを引き上げる。

「キリ、私は――」

「あとで怒る。今は生きて」

 その一言が、ヴァレクを黙らせた。

 しかし遅かった。

 落ちた羅針盤の四本の針は、回転輪の上で同じ印を指していた。

 『鍵のない扉』。

 塔の機械が答えを読み取った。

 中央の黒い杭に、白い亀裂が走った。

「伏せて!」

 エリサの叫びと同時に、世界が横へずれた。

 音が先に落ち、光が遅れて砕けた。

 塔の右半分が遠ざかり、左半分が近づき、天井が床の下へ回り込む。橋は輪になり、階段は自分の裏側へ続いた。兵士の一人が二人に分かれ、別々の年齢で同時に悲鳴を上げたあと、また一人に戻った。

 杭の亀裂の向こうに、夜空が見えた。

 だが星の並びが違う。

 見たことのない星座が、こちらへ落ちてくる。

 いや、星ではない。

 途方もなく大きな何かの、皮膚に開いた孔だった。

 孔の一つが、塔へ向いた。

 全員の頭の中に、声にならない意味が流れ込んだ。

 小さい。

 固い。

 いくつもいる。

 夢を見る。

 割れば甘い。

 兵士が銃を撃った。

 弾丸は亀裂へ入る前に花になり、花は老人の手になり、手は灰になった。

「制御杖を!」とヴァレク。

 トーマが白い杖を投げる。

 ヴァレクは受け取り、亀裂へ青い壁を作った。ほんの一瞬、星の孔が遠ざかる。

「閉じろ!」

「杭の留め金が外れた!」とエリサ。「羅針盤を戻して、扉ではない印を指させなければ!」

 羅針盤は、形の狂った塔の中腹にあった。

 そこへ続く橋は途中で裏返り、亀裂の向こうへ伸びている。

 フフェムが床の配管を見た。

「杭に力を戻せば、少しは閉じられる。監理官が吸い上げた管、ここにつながってる」

「逆流できる?」

「上層炉の弁を全部開ければ。でも操作盤が塔の下」

「僕が行く」とバズ。

 全員が見た。

「なんで驚くの」

「いや」とトーマ。「驚いてない。少ししか」

 バズは膝を震わせながら続けた。

「フフェム一人だと、機械に話しかけて返事がないとき困るでしょ。僕なら返事できる」

「来て」

 フフェムはバズの手を取り、歪んだ階段を下り始めた。

「上で死なないで!」とバズ。

「そっちも!」

「僕は死なない! 怖いから!」

 トーマとキリは、残った兵士たちを動かして橋を固定した。ヴァレクは制御杖で亀裂を押さえ続ける。青い壁の向こうで、巨大な孔が一つ、また一つと開いた。

 エリサがミラの肩をつかんだ。

「羅針盤まで行ける道はない」

「描く」

「普通のインクでは、この塔は読まない」

 ミラはスミを見た。

 インク獣は、もう床に立っていた。

 白い目がミラを見上げる。

「母さんが、あなたを箱に入れたの?」

 エリサが答えた。

「スミは道墨。地図師が、自分の記憶を練って作る生きた記号。私は、あなたのところへ帰る道を忘れないために作った」

 スミの体には、母の記憶が入っている。

 幼いミラの笑い声。

 父の工房。

 鍋底街の夕焼け。

 ミラは胸が痛くなった。

「地図を描いたら、どうなる?」

 エリサは答えなかった。

 スミがミラの手へ前脚を乗せた。

 床に文字がにじむ。

 ――だいたい、なくなる。

「だいたい?」

 ――すこし、のこる。

 亀裂が広がった。

 塔の壁を、星の孔から伸びた影が撫でる。石が透明になり、その奥に、別の世界の海が見えた。海には上下がなく、魚ほど大きな目が群れをなして泳いでいた。

 時間がない。

 ミラは製図具からペン軸を抜いた。

「ごめん」

 スミは目を細めた。

 ――おそい。

 そしてペン先へ飛び込んだ。

 黒い体が細いインクになり、軸を満たした。

 ミラは床へ線を引いた。

 一本目は、今いる橋から空中へ。

 二本目は、逆さになった階段の裏を通り。

 三本目は、存在しない踊り場を曲がり。

 最後は、羅針盤のある回転輪へ。

 線を引くたび、空中に黒い道が現れた。紙ほど薄く、筆跡のように揺れている。

「その道は、本物?」とキリ。

「地図に描いたから、しばらくは」

 ミラが足を乗せると、黒い線が沈んだ。

 トーマが後ろから縄を腰に結ぶ。

「落ちたら引く」

「道ごと消えたら?」

「そのとき考える」

「計画が雑」

「冒険の計画は、いつも後半が雑になるんだ」

 ミラは黒い道を走った。

 足元には、星の孔。

 左右には、まだ生まれていない自分の未来が浮かぶ。

 鍋底街を救ったミラ。

 母と暮らすミラ。

 仲間を見捨てたミラ。

 ヴァレクの後を継ぎ、島を支配するミラ。

 何もしないまま大人になり、取り壊された工房の夢だけを見るミラ。

 どれも手を伸ばしてくる。

 生まれない星は、可能性を餌にしていた。

 ミラは見ないように走った。

 回転輪まで、あと十歩。

 黒い道の先が薄くなった。

 ペンの中のインクが足りない。

「スミ!」

 最後の一滴が飛び、空中に小さな足跡をつけた。

 道はそこで途切れた。

 回転輪まで三歩分。

 届かない。

「跳べ!」

 トーマが叫んだ。

 ミラは黒い線を蹴った。

 空中へ。

 回転輪の縁に指がかかる。

 滑る。

 下から、星の孔が開く。

 縄が張った。

 トーマがミラを引き、キリがトーマを支え、エリサがキリへ銀の糸を巻き、兵士たちまでその端をつかんだ。

 ミラは輪の上へ這い上がった。

 逆さ羅針盤を拾う。

 蓋には亀裂が入っていたが、四本の針は動いていた。

「どうすればいい?」

 エリサの声が遠い。

「問いを!」

 ミラは羅針盤を握った。

 生まれない星が通れない道は?

 針が回った。

 銀の針は『笑う月』。

 鉄の針は『空の杯』。

 金の針は、下層にいるバズ。

 黒い針は、ミラのペンを指した。

 笑い。

 空っぽ。

 物語。

 地図。

「分からない!」

 下からバズの声が響いた。

「分かる!」

 塔の配管が彼の声を拾い、何百倍にも増幅していた。

「そいつは本当の道なら全部知ってる! まだ起きてない未来まで見える! だったら、ない道を教えればいい!」

「スミのインクはもうない!」

「地図は線だけじゃない!」

 バズの声が、塔じゅうから聞こえる。

「物語も地図だよ! 始まりから終わりまで、人を連れていく!」

 フフェムが何か大きな弁を回した。

 塔の管が唸り、上層街から吸い上げられていた青い力が逆流し始めた。壁の星図が次々に点る。

「だから聞いて!」

 バズは叫んだ。

「昔々、生まれない星から名前を盗んだ、五人の大盗賊がいました!」

「六人!」とキリ。

「大人は数えない!」

「母さんも入れて!」とミラ。

「じゃあ七人!」

「スミも!」

「八人! 多いな!」

 トーマが笑った。

「それで盗賊はどうした?」

「星に追われて、世界の端まで逃げた! でも端には扉がなかった!」

 ミラは羅針盤の割れた蓋に、ペン先を当てた。

 インクは出ない。

 それでも線を引くふりをした。

「だから、盗賊は扉を描いた」

 キリが続ける。

「鍵は?」

「最初から開いてた」とトーマ。

「扉の向こうは?」とエリサ。

 ミラは、亀裂の向こうにある巨大な孔を見た。

「星の背中」

 全員が一瞬、同じ光景を思い描いた。

 存在しない扉。

 生まれない星の背中へ回り込む、空っぽの道。

 羅針盤の四本の針が、『鍵のない扉』へ重なった。

 今度は、塔の中ではなく、亀裂の向こうを指した。

 黒い杭の表面に扉の輪郭が浮かぶ。

 生まれない星の孔が、一斉にそちらを向いた。

 それは、嘘を理解できなかった。

 真実を見通すものには、皆で選んだ嘘が見えない。

 亀裂から伸びていた影が、扉へ殺到した。

「今!」

 ミラは羅針盤を投げた。

 黒い円盤は扉を通り、存在しない道へ転がっていく。

 生まれない星の注意が、それを追った。

 世界を押し広げていた力が、ほんの一瞬だけ緩む。

 エリサが両手を上げた。

 銀の糸が黒い杭へ巻きつく。

 ヴァレクも白い杖を投げ捨て、糸をつかんだ。

「引け!」

 兵士たち、トーマ、キリが加わる。

 下層でフフェムが最後の弁を蹴り開けた。

 青い力が杭へ戻った。

 黒い柱が落ちる。

 扉を貫き、世界の境目へ深く突き刺さった。

 その瞬間、銀の笛がミラの胸元からこぼれた。

 落ちながら、どこかの風を受けた。

 音のない音が鳴る。

 谷の草原から、五本脚の落とし子が走ってきた。

 塔の外壁を登り、まだ閉じきらない亀裂へ飛び込む。

 生まれない星の影と、落とし子が触れた。

 親が子を抱いたのか。

 子が親へ戻ったのか。

 あるいは、爪の垢が爪へ戻っただけなのか。

 誰にも分からなかった。

 ただ、星の孔が一つずつ閉じた。

 最後に頭の中へ届いたのは、怒りでも悲鳴でもない。

 眠りへ沈む巨大なものの、満足そうな寝息だった。

 亀裂が消えた。

 塔の形が元に戻る。

 上下が正しくなった途端、全員が床へ落ちた。

 しばらく、誰も動かなかった。

 バズが下層から顔を出した。

「終わった?」

 天井から歯車が落ち、彼のすぐ隣へ突き刺さった。

「終わったことにしよう!」

 エリサを包んでいた銀の糸が、ゆっくりほどけた。

 黒い杭は自力で光り始めている。逆流した天芯石の力が、古い機構を再起動させたのだ。

 エリサは一歩、杭から離れた。

 何も起きない。

 もう一歩。

 塔は揺れなかった。

 ミラは母の手を取った。

 温かくなっていた。

 ヴァレクは床に座り込み、閉じた亀裂を見つめている。

「私は、あれを炉へつなげられると思っていた」

「思いたかったんでしょ」とキリ。

 ヴァレクは反論しなかった。

 フフェムが配管の蓋を開け、内側から細長い銀板を引き出した。

「これ、何?」

 銀板の表面には、波形と文字が刻まれている。

 エリサが目を見開いた。

「共鳴記録板。天文台で出た音を、島の配管網へ送る装置」

「逆流させたから、さっきの声も全部――」

 遠く、谷の入口の管から、人々のざわめきが聞こえた。

 上層街も、鍋底街も。

 ヴァレクの演説。

 天芯石を吸い上げたというエリサの言葉。

 そして、『不要重量』というキリの告発。

 島じゅうに流れたのだ。

 バズが胸を張った。

「僕の物語も?」

「たぶん」とフフェム。

「そこだけ切れない?」

「無理」

「島を救った英雄として、もっと格好いい話にすればよかった」

 トーマが笑い出した。

 一人、また一人と笑った。

 最後にはキリも、エリサも、泣きながら笑った。

 ヴァレクだけは笑わなかった。

 けれど彼は立ち上がると、自分の白い杖を兵士へ差し出した。

「帰ったら、評議会に出頭する」

「逃げないの?」とキリ。

「逃げ道は、もう地図にないらしい」

七 帰り道

 八つ風の谷から戻ると、鍋底街の広場には島じゅうの人間が集まっていた。

 上層街の商人、風車工、炉の技師、新聞屋、評議員。退去命令を貼った役人まで、気まずそうに帽子を握っている。

 配管から流れた声を、全員が聞いていた。

 ヴァレクはその場で拘束された。

 評議会は最初、記録板の故障だと言い張った。だがフフェムが地下水路へ案内し、天芯石に刺さった吸引管を見せると、故障しているのは記録板ではなく評議員の良心だ、と新聞屋が翌朝の一面に書いた。

 鍋底街の取り壊し命令は撤回された。

 吸引管を外すと、西端の揺れは三日で収まった。天芯石の力は島全体へ均等に戻り、上層街の噴水は少し低くなったが、誰も雲の海へ落ちなかった。

 八つ風の谷は再び封鎖された。

 ただし今度は、秘密にするためではない。

 谷を見張る役目は、鍋底街と上層街から選ばれた人々が共同で担うことになった。最初の監視役には、口を縫った痕のある老女が選ばれた。彼女は地上へ出た日、七十年ぶりに声を出した。

「空は、狭いね」

 それが第一声だった。

 谷の村人たちは、杭が安定すると少しずつ目覚めた。長い夢から戻った者もいれば、夢の方を故郷だと思い、目を開けられない者もいた。すべてが元通りになったわけではない。

 世界を救うことと、壊れたものを直すことは別なのだと、ミラは知った。

 ヴァレクは監理官の座を失った。

 裁判を待つ間、彼は島の古い浮力炉について、知っていることをすべて書くよう命じられた。キリは一度だけ面会へ行き、そのあと何を話したかは誰にも言わなかった。

 彼女は上層の屋敷を出て、鍋底街の時計修理屋の二階に部屋を借りた。

「うるさい」と、引っ越し初日に言った。

「ここは鍋底街だから」とトーマ。

「朝から屋根を走る人がいる」

「道だから」

「窓を開けるとパンの匂いがする」

「問題?」

「毎朝お腹がすく」

「重大だな」

 バズは『八人の大盗賊と生まれない星』という本を書き始めた。第一稿では自分が背の高い剣士になっていたので、全員から修正を求められた。

 フフェムは地下配管を利用した島じゅうの通話装置を発明した。試験初日、トーマが上層街へ向けて「今日の岩パンは半額」と叫び、注文が殺到したため、彼の姉は売上の一割をフフェムへ支払った。

 トーマは、自分が高いところを怖がらないという評判を取り消そうとした。

「怖いよ。本当に。落ちたら痛いし」

 しかし誰も信じなかった。

 エリサは、ミラの工房へ帰ってきた。

 七年の空白は、七日では埋まらなかった。エリサは父が死んだことを知って長く泣き、ミラは母が自分の知らない人のように思える瞬間があることに戸惑った。

 それでも二人は、毎晩一枚ずつ地図を描いた。

 エリサは谷で覚えた星図を。

 ミラは変わってしまった鍋底街の路地を。

 線が重なるたび、少しずつ帰り道ができた。

 ただ、スミは戻らなかった。

 ペン軸を振っても、箱を開けても、床に呼びかけても、黒いイタチは現れない。

「少し残るって言ったのに」

 ある雨の夜、ミラは工房で一人、逆さ羅針盤の代わりになる普通のコンパスを修理していた。

 あの羅針盤は、生まれない星の向こうへ消えた。

 真実を示す道具がなくなったことを、ミラは少しだけ寂しく、少しだけ安心していた。

 正しさだけでは人を救えない。

 だが、正しさがなくても困る。

 結局は、自分たちで問い続けるしかないのだろう。

 窓を雨粒が叩いた。

 机の上の白紙に、黒い点が落ちた。

 雨漏りかと思った。

 点は、ひとりでに歩き出した。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 小さな足跡が、紙の上を横切る。

 最後に、細い尾がくるりと円を描いた。

 円の中へ文字がにじむ。

 ――おそい。

「スミ!」

 ミラが顔を近づけると、足跡は慌てたように紙の端へ逃げた。

 その下から、もう一つのものが現れた。

 黒い真鍮の縁。

 割れた蓋。

 四本の針。

 逆さ羅針盤が、白紙の地図から半分だけ顔を出していた。

 ミラはそっと引き抜いた。

 針は四本とも同じ方向を指している。

 北ではない。

 窓の外でもない。

 工房の床下。

 そこから、こつ、こつ、と誰かが叩く音がした。

 ミラはしばらく羅針盤を見つめた。

 それから窓を開け、向かいの屋根へ叫んだ。

「トーマ! フフェム! バズ! キリ!」

 四つの窓が、ほとんど同時に開いた。

「今度は何?」とキリ。

 ミラは笑った。

「急ぎのパン!」

 トーマが一番に屋根へ飛び出した。

 鍋底街の上を、八つの風が吹き抜けた。

 そのどれもが、今夜は帰るべき方角を指していなかった。