『星喰らいの城と、帰らずの地図』
一 家を食べる印章
世界には、空から降ってくるものが三つある。
雨と、鳥の糞と、黒帆組合の請求書だ。
その朝、十四歳のリュネ・カドは、三つ目が自宅の扉に釘で打ちつけられるところを見た。
「最終通告。日没までに退去せよ」
黒い外套を着た徴収人が、棒読みで告げた。胸には、翼を折った鴉の紋章が光っている。
リュネは戸口に立ちふさがった。背後には、父が残した地図屋〈北向き猫〉がある。天井まで積まれた海図、雲図、風の年鑑。どれも売れず、埃だけが増えていく。それでも、この店は家だった。
「昨日は三日って言ったじゃない」
「昨日から今日までで、組合の暦では三日だ」
「どんな暦よ」
「金を貸す側の暦だ」
徴収人は真顔だった。冗談の才能がない人間ほど、世界をひどくする。
家の前の坂道には、同じ札を打たれた家が並んでいた。
空に浮かぶ小島コルネは、三十年前まで青晶石の採掘で栄えた。青晶石は島を浮かせ、飛空船を走らせ、冬の炉を燃やす。しかし鉱脈は尽き、島は年ごとに少しずつ高度を落としていた。
雲海まで、あと千二百尋。
黒帆組合は住民を別の島へ移し、コルネを石材として切り売りするつもりだった。
「抵抗するなら、荷物ごと落とす」
徴収人は釘をもう一度叩き、坂を下っていった。
リュネは扉の札を引き剥がした。釘で指を切ったが、泣かなかった。
泣くのは、地図の上で帰り道を見失った者のすることだ、と母エダは言っていた。
その母は七年前、帰らなかった。
リュネは店の奥へ行き、作業台の引き出しを乱暴に開けた。売れそうなものは、もうほとんど残っていない。銀の測角器も、南方製の羅針盤も、父が泣きながら手放した。父は半年前、咳の療養のため隣島の施療院へ移った。残されたのはリュネと、役に立たない古地図ばかりだった。
引き出しの底に、拳ほどの真鍮の球が転がっていた。
母の星位儀だ。
表面には幾重もの輪があり、小さな星や獣の印が刻まれている。母が最後の旅へ持っていったはずの品だったが、三年前、差出人のない小包で戻ってきた。以来、どんな職人にも開けられなかった。
「これが金貨でも産めばね」
リュネが呟いたとき、戸外で正午の鐘が鳴った。
ごおん。
音が星位儀を震わせた。
真鍮の輪が、ひとりでに回った。
リュネは息を呑んだ。星の印が一列に並び、中心の球が花のように開く。中から出てきたのは宝石ではなく、針のように細く巻かれた銀紙だった。
広げると、コルネ島の地図が描かれていた。
ただし、地上ではない。廃坑よりさらに下、島の腹を貫く古代水路、その先の空洞、そして雲海へ向かって伸びる一本の線。
余白には、母の筆跡があった。
〈リュネへ。
これを読んでいるなら、私は帰れなかったのだろう。
星喰らいの城は実在する。
そこに眠る《天種》は、ひとつの島を救う。
だが、城の心臓には触れるな。
地図は宝へ行くためにあるのではない。
帰るためにある。
母より〉
さらに下に、古い童謡の一節が記されていた。
鐘のない塔から、影のない道へ。
七つの声がひとつになるとき、
帰らずの城は門をひらく。
リュネは地図を握った。
母が残した《天種》。
ひとつの島を救う宝。
外では、黒帆組合の作業員が、家々の屋根に解体用の赤い印を描き始めていた。
日没まで、六時間。
リュネは店を飛び出した。
二 地下へ行く子どもたち
「つまり、死んだかもしれないお母さんの地図を信じて、立入禁止の廃坑に入り、伝説の城から島を救う宝を盗む?」
パン屋の息子トポは、焼きたての丸パンを三つ抱えたまま言った。
大柄な十五歳で、髪にも頬にも小麦粉がついている。驚くと食べる癖があり、いまも一個目を半分まで飲み込んでいた。
「盗むんじゃない。見つけるの」
「持ち主に断らず持ってくるのは?」
「考古学」
「便利な言葉だなあ」
修理工のチカは地図に鼻がつくほど顔を近づけた。十三歳。小柄で、工具を仕込んだ革帯が体の半分を占めている。肩には、彼女が作った六本脚の真鍮蜘蛛〈チクタク〉が乗っていた。
「この線、旧貯水塔の下を通ってる。けど入口は、去年の崩落で埋まったよ」
「別の入口がある」
「どこ?」
「トポの家のパン窯の下」
トポがむせた。
三人はパン屋〈月の耳〉の地下へ降りた。
古い粉倉の床板を剥がすと、その下から石造りの階段が現れた。トポの父は、ひい祖父が酒を隠していた穴だと思っていたらしい。実際、空瓶が百本ほど転がっていた。その奥に、風の吹き出す亀裂があった。
「待て」
背後から声がした。
ランタンを持って立っていたのは、ロガス・サーヴァンだった。
十五歳。町長の甥で、いつも襟の立った上着を着ている。役所の掲示を読むのが趣味という、友だちにするには致命的な欠点の持ち主だ。
「立入禁止区域への侵入は、島条例の八条に違反する」
「告げ口する気?」とリュネ。
「もうした」
三人は固まった。
「僕自身に。僕は町長代理補佐見習いだからな」
ロガスはランタンを掲げ、ため息をついた。
「それで、条例十一条にはこうある。島が沈降危機にある場合、住民は救命に必要な行動を取れる。僕も行く」
「足手まとい」
「黒帆組合の契約書を読める」
「もっと足手まとい」
「組合が今日の日没を待たず、四時に解体を始める計画だと知っている」
「どうして?」
「契約書を読んだからだ」
残り時間は、三時間半になった。
四人は亀裂を抜け、島の内側へ入った。
そこは、坑道ではなかった。
巨大な生き物の喉だった。
壁には白い肋骨が列柱のように並び、その間を古代の石管が縫っている。コルネ島は、はるかな昔に空を泳いでいた巨獣の化石を核にしてできた、と老人たちは話す。リュネは笑い話だと思っていた。
足元で、乾いた音がした。
チカが踏んだ骨の欠片だった。
その瞬間、闇の奥から声が響いた。
「リュネ」
母の声だった。
リュネは走り出しかけ、トポに腕をつかまれた。
「待って。僕には、うちの父ちゃんの声に聞こえる」
「私は自分の声」とチカが青ざめた。「『お前の作るものは全部壊れる』って」
「僕には町長の声だ」とロガス。「『規則の後ろに隠れていろ』と言ってる」
肋骨の隙間に、黒い穴が無数に開いていた。そこから声が漏れている。
リュネは地図を見た。母の小さな注記がある。
〈耳は嘘をつく。手を離すな〉
四人はロープで腰を結び、一列になった。
闇の穴は、母や父や自分自身の声で呼び続けた。
――置いていかないで。
――お前には無理だ。
――帰れば、まだ間に合う。
――扉を開けて。
最後の声だけは、四人全員に同じように聞こえた。
低く、優しく、笑っている声。
リュネは振り返らなかった。
やがて肋骨の回廊が終わり、円形の広間に出た。
中央には底の見えない縦穴があり、鎖で吊られた石の籠が浮いている。古代の昇降機だ。籠の脇には、七つの顔を持つ像が立っていた。どの顔にも口がなく、胸だけに大きな唇が刻まれている。
像の台座には文字があった。
ロガスが埃を払う。
「古王国語だ。『客人は七つの顔で来たり、ひとつの名を奪う』」
「観光案内にしては感じ悪いね」とトポ。
チカが昇降機を調べた。
「動力は死んでる。でも、この骨の中に風が通ってる。帆を張れば、下へ降りられるかも」
「下?」
ロガスが縦穴を覗いた。
「地図では、目的地は上だろう」
リュネは銀紙を裏返した。
光に透かすと、線の意味が変わった。
「この島の下側に、発着場があるの。まず空の底へ降りる」
トポが四個目のパンを取り出した。
「冒険って、だいたい思ってた方向と逆に進むんだな」
四人は籠に乗った。
チカが古い帆布を広げると、風をはらんだ石籠は、軋みながら闇へ沈んでいった。
三 雲底の口
島の下側を見た者は少ない。
コルネの家々が建つのは上面で、縁から下を覗いても、岩壁と雲海しか見えないからだ。
だが、島の腹を貫く縦穴から抜けた瞬間、四人は言葉を失った。
頭上に、逆さまの大地が広がっていた。
樹木の根が黒い森のように垂れ、滝は水晶の糸となって雲へ落ちる。島の底には、古代都市の残骸が貼りついていた。尖塔も橋も逆さまで、もし人が住んでいたなら、彼らは空へ向かって歩いていたことになる。
石籠は底部の桟橋に着いた。
そこには、一隻の小さな飛空艇が眠っていた。
船体は銀灰色。翼は畳まれた蜻蛉のようで、船首には片目を閉じた魚の彫刻がある。
「母の船だ」
リュネは船尾に刻まれた名を指でなぞった。
〈帰り鰹〉。
「もっと格好いい名前はなかったのかな」とチカ。
「母は魚が好きだったから」
「空の船に?」
「だから帰れなかったのかも」とロガス。
「今のは冗談?」とトポ。
「努力はした」
船内には埃が積もっていたが、操縦輪の脇に新しい傷があった。
七本の線が中心へ集まり、そこで途切れている。
リュネが星位儀を窪みにはめると、船の奥で何かが目覚めた。
ぶうん。
床下に青い光が走る。
折り畳まれていた翼が開き、薄い膜が風を孕んだ。計器盤の針が一斉に震え、古い蓄音筒から声が流れた。
『記録、百七十二。エダ・カド』
母の声だった。
今度は幻ではない。
息遣いも、言葉の前に小さく舌を鳴らす癖も、記憶のままだ。
『星喰らいの城を確認した。城は七十七年ごと、双月が重なる日にだけ雲上へ現れる。《天種》は中央庭園にある。城を浮かせる種であり、成長すれば周囲の青晶石を再生する』
トポがリュネを見た。
リュネは黙って続きを聞いた。
『だが、中央心臓部には別のものが封じられている。古王国人はそれを神と呼び、のちに牢獄を造った。私は封印の一部を壊してしまった。追跡者が来ている。もし私が戻れなければ――』
激しい雑音。
その奥で、男たちの怒鳴り声と銃声がした。
『リュネ。地図を信じすぎないで。地図には、描いた者の間違いも載る。最後は――』
記録はそこで切れた。
直後、頭上で爆発が起きた。
石屑が降り、桟橋の入口から黒い制服の兵士たちが現れる。
先頭にいたのは、黒帆組合の回収卿、ヴァルド・グレイだった。
灰色の髭。片目に金属の単眼鏡。背には、短銃と湾曲刀。
彼はコルネの住民から家を取り上げるときも、晴れた日の散歩のような顔をしていた。
「エダの娘か。よく扉を見つけてくれた」
その隣に、痩せた老人が立っていた。
頭に灰色の冠をかぶり、指という指に黒い指輪をはめている。オルド・ヌム博士。古王国の研究者で、母の最後の遠征に同行した唯一の生還者だ。
「星位儀を渡しなさい、お嬢さん」
博士は微笑んだ。
「お母上は、七年前に私の忠告を聞かなかった。君は賢い子であってほしい」
「母を殺したの?」
「私は扉を開けようとしただけだ。彼女は閉じようとした。見解の違いだよ」
リュネは操縦輪を握った。
「チカ。これ、飛ぶ?」
「落ちるよりは上手に飛ぶと思う」
「充分」
トポが係留索を斧で切った。
〈帰り鰹〉は桟橋から滑り出した。
兵士が発砲する。
弾が帆を裂き、ロガスが悲鳴を上げて伏せた。チカは床板を蹴飛ばし、むき出しの導線を工具でつないだ。
「動け、古代の粗大ごみ!」
船が跳ねた。
船首が雲海へ突っ込み、四人の胃が頭の上へ置き去りになる。
背後から、ヴァルド卿の大型艇〈黒鴉〉が追ってきた。
「どこへ行けばいい!」とトポ。
「地図に道は?」とロガス。
リュネは空を見た。
双月が重なり始め、白昼に細い闇の輪を作っている。母の地図には、雲海の上に一本の点線があった。
「上じゃない。雲の中!」
操縦輪を倒す。
〈帰り鰹〉は、雲海へ潜った。
四 空へ沈む船
雲の中は白くなかった。
外から見れば柔らかな綿に見える雲海も、内部では雷と氷の荒野だった。青い稲妻が縦横に走り、巨大な氷塊が音もなく漂っている。風は獣のように船腹へ噛みついた。
〈帰り鰹〉は揉みくちゃにされた。
トポは帆柱にしがみつき、ロガスは契約書の条文を祈りのように唱えた。
「第十九条、不可抗力による損害は債務者の責任に含まれない!」
「今それ、何の役に立つの!」とチカ。
「落ち着く!」
リュネだけが操縦輪を離さなかった。
母の地図には、雲の渦が迷路のように描かれている。左、急降下、右へ二十度。背後の〈黒鴉〉は巨大なため、氷塊を砲撃しながら進んでいた。
前方に、黒い穴が現れた。
雲の渦が作る、完全な円。
周囲の雷がすべてそこへ吸い込まれている。
「雲底の口だ」とロガスが呟いた。「昔話では、空の外へ通じるって」
「地図は中を指してる」とリュネ。
「地図を信じすぎるなとも言ってたよ!」とトポ。
「だから、みんなに聞く。入る?」
「選択肢は?」
「後ろの大砲か、前の口」
「口」
「口だね」
「条例にも、口へ入るなとはない」
四人は同時に頷いた。
〈帰り鰹〉は黒い円へ飛び込んだ。
一瞬、音が消えた。
風も、雷も、心臓の鼓動さえも。
リュネは、星々を見た。
昼の空にあるはずのない無数の星が、船の上下左右に広がっている。近い星も遠い星も同じ大きさで、すべてがこちらを見ていた。星だと思ったもののいくつかが瞬き、瞼の裏へ消えた。
船の舷側に、誰かが立っていた。
長身の人影。
黒い礼服を着て、顔には白い仮面。仮面は笑顔だったが、目と口の位置が少しずつ動いていた。
『扉を開けて』
声は四人の頭の中で響いた。
『ひとつだけ願いを叶えよう。
家を戻そう。
死者を戻そう。
恐れを消そう。
価値ある者にしてやろう』
トポの手からパンが落ちた。
チカは耳を塞ぎ、ロガスは目を閉じた。
リュネの前に、母が立っていた。
赤い外套。くしゃくしゃの髪。帰宅すると必ず額を二度叩く癖。
「リュネ。遅くなってごめん」
胸が裂けそうになった。
母が手を伸ばす。
指先が、あと少しで触れる。
そのとき、リュネは気づいた。
母は、左手を差し出していた。
本物の母は左手の薬指を、若い頃の事故で失っていた。
目の前の手には、五本の指がある。
「あなたは、地図にない」
リュネは星位儀を投げつけた。
仮面が割れた。
中には顔がなく、夜空より暗い穴があった。穴の奥で、無数の口が笑った。
音が戻った。
〈帰り鰹〉は黒い円を抜け、青空へ飛び出した。
そして、四人は城を見た。
雲海のはるか上。
七本の尖塔をもつ巨大な浮遊都市が、逆光の中に立っていた。
塔と塔の間には橋が張り巡らされ、緑の庭園が滝をこぼしている。都市の下部では、何百もの輪がゆっくり回り、その中心に白い光が脈打っていた。城壁には翼の生えた獣たちの像が並び、風に触れるたび、石の喉から鐘のような声が漏れた。
美しかった。
そして、あまりにも静かだった。
生き物が息を殺しているときの静けさだった。
背後で雲が裂け、〈黒鴉〉が現れた。
星喰らいの城は、二隻の船を迎えるように門を開いた。
五 星喰らいの城
〈帰り鰹〉は、城の外縁にある空港庭園へ不時着した。
古代の桟橋には蔓草が絡み、色とりどりの花が金属の床を割って咲いている。鳥の形をした小さな機械が、枝から枝へ飛び移っていた。
「天国みたい」とチカ。
「天国には、あんなものがいるのか?」とロガス。
庭園の端に、巨大な石像が倒れていた。
人の体に鹿の角、手は六本。顔の代わりに鏡が嵌め込まれている。鏡には四人ではなく、知らない老人たちが映っていた。
トポは鏡に布をかけた。
「見なかったことにしよう」
地図によれば《天種》は中央庭園にある。
四人は水路に沿って進んだ。街路の両側には、誰もいない家々が続く。食卓には石の皿、窓辺には枯れない花。住人だけが、ある瞬間に消えたようだった。
やがて、広場に出た。
中央に、黄金の樹が立っている。
幹は透き通り、内部を青白い光が流れていた。枝先には、拳ほどの実が七つ。ひとつひとつが小さな空を閉じ込め、雲や雨や稲妻を巡らせている。
「《天種》だ」
リュネが近づくと、樹の根元から人形が起き上がった。
古びた青銅の騎士。
胸に星の紋章。顔は滑らかな仮面で、右肩には深い刀傷がある。
『資格を問う』
騎士の声は、石臼を回すようだった。
『種を求める者よ。何を救う』
「コルネ島」とリュネ。
『島とは何だ』
「岩と土と、家」
『不足』
「人々」とロガスが答えた。
『不足』
「パン窯」とトポ。
『著しく不足』
チカが腕を組んだ。
「じゃあ、あんたにとって島って何?」
騎士はしばらく黙った。
胸の奥で、小さな歯車が回る音がした。
『帰る場所』
リュネは黄金の樹を見上げた。
「同じ。私たちが救いたいのは、帰る場所」
騎士は片膝をついた。
七つの実のうち、最も小さな一つが枝から離れ、リュネの手へ降りた。温かく、心臓のように脈打っている。
『天種を託す。だが、急げ。牢獄の鍵が近づいている』
遠くで銃声が響いた。
〈黒鴉〉の兵士たちが街へ入ったのだ。
青銅騎士が立ち上がる。
『エダ・カドの娘よ。彼女の最後の記録を渡す』
騎士の胸が開き、薄い光の板が現れた。
そこに母の姿が映る。疲れ、片腕から血を流していた。
『リュネ。これを見ているなら、あなたは私より上手に地図を読んだのね』
母は笑った。
『城の心臓は、この都市を浮かせる機関ではない。あれは《千貌の客》を閉じ込める檻。古王国は外なるものと取引し、空を支配する力を得た。けれど客は、願いを叶えるたび、願った者の名と姿を奪った。最後には王国じゅうが、同じひとつの顔になった』
背後で、白い仮面をつけた人々が歩いている。全員が同じ笑みを浮かべていた。
『私はヌム博士を止めようとして、中央塔に残った。たぶん帰れない。ごめんね』
映像の母は、少し目を伏せた。
『でも、私を取り戻そうとしないで。失ったものを取り戻すために世界を壊す人を、私はたくさん見た。あなたは、生きている人と帰りなさい』
母は画面の向こうから、リュネの額を二度叩くように指を動かした。
『最後は、地図ではなく、隣にいる人を信じて』
光が消えた。
リュネは泣かなかった。
涙は出たが、それは泣いたことには数えなかった。
トポが肩を抱き、チカが反対側の袖をつかんだ。ロガスは何も言わず、ハンカチを差し出した。役所の紋章入りだったので、リュネは鼻をかむのを少しためらったあと、盛大に使った。
そのとき、広場の反対側から拍手が聞こえた。
ヴァルド卿とヌム博士が、兵士を従えて立っていた。
「感動的だ」とヴァルド卿。
「種を渡せ。島ひとつを救うより、組合の百隻を永遠に飛ばす方が価値がある」
「心臓は檻だ」とロガス。
「契約書に書いてない危険は、無視するのが組合の作法でね」
ヌム博士は中央塔を見上げていた。
その目は、黒い油で満たされたように光っていた。
「七年待った。ようやく客人に会える」
博士が指輪を掲げる。
七つの尖塔が、一斉に低く鳴った。
黄金の樹が震え、青銅騎士が剣を抜く。
だが、兵士たちの銃が火を噴いた。騎士の胸が砕け、片膝をつく。
『逃げよ。七つの鐘を、逆の順に』
リュネは天種を胸に抱き、仲間と走った。
六 千貌の客
中央塔へ続く橋が、足元から起き上がった。
ヌム博士が城の機構を目覚めさせたのだ。
街全体が変形し、建物は歯車のように回り、庭園は壁へ、壁は床へ姿を変える。四人は傾く石畳を滑り、崩れる橋を飛び越えた。
「七つの鐘を逆の順って、何!」とチカ。
「塔は外周に七本」とリュネ。「母の地図に番号がある。七、六、五……って鳴らせば、封印を閉じられる」
「全部回る時間は?」
「ない」
「いい地図だね!」
背後で、兵士たちの悲鳴が上がった。
白い仮面をつけた影が、家々の窓から現れていた。
人の形をしているが、歩き方が違う。膝が逆に曲がり、腕が多すぎ、壁と床の区別を無視して進む。仮面の笑い口から、知っている者の声が漏れた。
「ヴァルド。お前の帝国をやろう」
「兵士たちよ。死なない体をやろう」
「子どもたちよ。失ったものを返そう」
ヌム博士が中央塔の扉に到達した。
七つの指輪を窪みへ嵌める。
「我は招く! 名なき王、星々の使者、千の夜を歩く客人よ!」
扉が開いた。
そこにあったのは、闇ではなかった。
闇という概念を真似た、別の何かだった。
奥行きがないのに、見ている者はどこまでも落ちていく。黒い平面の中で都市が生まれ、滅び、また生まれていた。空には巨大な眼がいくつも昇り、海は上へ流れ、人々は自分の影を食べていた。
ヌム博士は笑いながら両腕を広げた。
「私に真理を!」
黒いものが博士へ触れた。
彼の体は影になり、薄く伸びた。
顔が一つ、二つ、十、百と増え、どれも異なる年齢で、異なる声で笑った。最後にすべての顔が裏返り、白い仮面になった。
『真理とは、耐えられぬものにつけた美しい名だ』
客人が言った。
声だけで、城の窓が割れた。
ヴァルド卿が後ずさる。
「博士。契約では、力を制御できると――」
『契約』
百の顔が一斉にヴァルドを見た。
『よい言葉だ。お前は紙に名を書かせ、家を奪った。私は魂に名を書かせ、姿をもらう。よく似ている』
ヴァルドの部下たちが逃げ出した。
客人の影が橋を這い、触れた兵士から顔が消えた。彼らは声もなく倒れ、その顔が客人の肩や腕に浮かんだ。
リュネたちは第七塔へ飛び込んだ。
内部には巨大な鐘が吊られていた。だが、鐘舌がない。
「どう鳴らすの!」とトポ。
チカが〈チクタク〉を鐘の内部へ投げた。
「鉄骨を叩かせる!」
真鍮蜘蛛が六本の脚で鐘を打つ。
かん。
小さな、頼りない音だった。
しかし塔全体が青く光り、遠くの影が一瞬ひるんだ。
「次!」
四人は外へ出た。
第六塔への橋は崩れている。下には雲海まで何もない。
トポが広場から飾り布を引き剥がし、二本の槍に結んだ。
「パン屋は、粉袋が落ちない結び方を知ってる」
即席の滑空翼。
四人はしがみつき、風へ飛び出した。
翼は落ちた。
ただし、前へ落ちた。
第六塔の窓へ突っ込み、床を三回転して止まる。
今度の鐘は、氷に覆われていた。ロガスが壁の古王国文字を読む。
「『偽りを告げよ。さすれば氷は解ける』」
「偽り?」とチカ。
トポが胸を張る。
「僕はパンが嫌いだ!」
氷が少し溶けた。
「私は機械を一度も爆発させたことがない!」とチカ。
さらに溶ける。
「僕は規則を破ったことがない!」とロガス。
鐘が半分現れた。
リュネは息を吸った。
「母がいなくても、平気だった」
氷がすべて砕けた。
ごおん。
第六の鐘が鳴る。
第五塔へ向かう途中、客人の影が追いついた。
影は地面から起き上がり、母の姿になる。
「リュネ。もう頑張らなくていい」
今度の母には、指が四本しかなかった。
けれど声は完璧だった。匂いまで、雨の日の革外套と薬草茶の匂いがした。
「天種を渡して。そうすれば、七年前へ戻してあげる」
リュネの足が止まる。
トポが彼女の前に立った。
「それ、リュネのお母さんじゃない」
「分かってる」
「分かってても、きついよな」
「うん」
「じゃあ、僕らが先に行く。君は僕らについて来い」
地図ではなく、隣にいる人を信じて。
リュネは母の幻に背を向けた。
七 七つの鐘
第五の鐘は、歌で鳴った。
四人は知っている歌を全部試し、最後にコルネの酒場で歌われる品のない船乗り歌で成功した。ロガスは歌詞の一部を法律用語に置き換えたが、鐘は気にしなかった。
第四の鐘は、塔そのものが眠っていた。
トポが非常食の香辛料を炉へ投げ、くしゃみをさせて起こした。
第三の鐘は、空中に逆さまに吊られていた。
チカが〈チクタク〉の予備脚と巻き上げ機を組み合わせ、鐘舌を撃ち上げた。
第二の鐘へ着くころ、城は崩れ始めていた。
中央塔から黒い亀裂が空へ伸び、昼の青を紙のように裂いている。裂け目の向こうには、星とも目ともつかない光が群れ、こちらを覗いていた。
第二の鐘の前で、ヴァルド卿が待っていた。
単眼鏡は割れ、外套は血に濡れている。片手には銃、もう片手には黄金の樹から奪った天種があった。広場の混乱で、別の実をもぎ取っていたのだ。
「道を開けろ」
「その種を返して」とリュネ。
「私は百隻の船員と、その家族を養わねばならん。君たちの小さな町より、背負っている命が多い」
「だからって、ほかの帰る場所を壊していい理由にはならない」
「子どもの理屈だ」
「大人の理屈で島が沈みかけてるの」
客人の影が、塔の入口を塞いだ。
『ヴァルド。種を植えよ。お前の艦隊は世界を覆う』
『リュネ。鐘を捨てよ。母を返す』
『トポ。誰にも笑われぬ強さを』
『チカ。決して壊れぬ機械を』
『ロガス。正しいことしか起こらぬ国を』
空間いっぱいに、それぞれの願いが映った。
トポは、細身で英雄のような自分を見た。
チカは、完全な歯車都市を見た。
ロガスは、誰も規則を破らず、誰も争わない整然とした街を見た。
リュネは、地図屋の扉を開けて笑う母を見た。
ヴァルドだけが、一歩前へ出た。
彼の目の前には、黒帆を掲げる無数の船が空を埋め、島々がその旗に膝をついていた。
「私の命令に従うか」
『お前が命令だ』
ヴァルドは天種を掲げた。
その背後で、負傷した若い兵士が橋から滑った。
「卿!」
ヴァルドは振り返った。
手を伸ばせば兵士を救える。だが天種を手放せば、願いは消える。
彼は一瞬だけ迷い、天種を捨てた。
兵士の腕をつかむ。
落ちた天種を、トポが腹ばいで受け止めた。
「今のは大人の理屈?」とリュネ。
ヴァルドは兵士を引き上げ、荒く息をした。
「黙れ。私は高価な人員を保全しただけだ」
客人の笑い声が城を揺らした。
ヴァルドは銃を影へ向ける。
「鐘を鳴らせ。私は契約違反の相手と話をつける」
第二の鐘は、ひび割れていた。
そのままでは音が逃げる。
チカが自分の工具帯を外し、金属板をひびへ当てた。
「誰か、押さえて!」
トポとロガスが板を支える。ヴァルドが鐘舌の鎖を引いた。
リュネが合図する。
ごおん。
六つ目の音が空へ広がった。
残るは第一塔。
中央塔の真上、城の最も高い場所だ。
階段は崩れていた。
代わりに、機械鳥の群れが空を旋回している。
チカが指笛を吹いた。
〈チクタク〉が鐘塔の窓から飛び出し、鳥の一羽へしがみつく。真鍮蜘蛛から青い信号が走ると、何百羽もの機械鳥が向きを変えた。
「飛び石を作れる。長くはもたない!」
鳥たちは空中で翼を連ね、第一塔まで続く細い道になった。
「先に行け」とヴァルド。
「あなたは?」
「部下を船へ戻す。回収卿には、回収すべきものがある」
リュネは一度だけ頷いた。
四人は鳥の道を走った。
一歩ごとに鳥が散る。
背後から客人が迫る。今やそれは城より巨大な影となり、無数の仮面を鱗のようにまとっていた。仮面の一つ一つが、リュネたちの知る人の顔へ変わる。
父。
町長。
パン屋の主人。
修理工の老女。
コルネの住民たち。
『お前たちが失敗すれば、皆が落ちる』
第一塔の入口まで、あと十歩。
鳥の道が崩れ始める。
ロガスが足を滑らせた。
リュネが手をつかむ。
トポがリュネの腰をつかみ、チカがトポの襟をつかんだ。
四人は一本の鎖のようになった。
「地図には?」とロガスが宙ぶらりんで叫ぶ。
「こんな場所、描いてない!」
「じゃあ?」
「最後は、隣を信じる!」
チカが工具帯から最後の発条を外し、鳥の群れへ投げた。
発条が弾け、鳥たちが一斉に羽ばたく。
風が四人を押した。
彼らは第一塔の窓へ転がり込んだ。
塔の最上階には、小さな銀の鐘があった。
人の頭ほどしかない。鐘舌も、縄もない。
台座に一行だけ刻まれている。
〈最初の鐘は、名によって鳴る〉
客人の影が窓を埋めた。
『名をよこせ』
白い仮面が、四人へ手を伸ばす。
『名は鎖だ。捨てれば、何にでもなれる』
リュネは銀の鐘に触れた。
冷たいはずの金属が、天種と同じように脈打っている。
名を告げる。
ただそれだけだと、彼女は理解した。
けれど客人は名を奪う。名を口にすれば、捕まるかもしれない。
トポがリュネの手に自分の手を重ねた。
「トポ・マル。パン屋〈月の耳〉の息子。くるみパンが得意」
チカも手を置く。
「チカ・レム。修理工。直した数より壊した数が少し多い」
ロガスが続く。
「ロガス・サーヴァン。町長代理補佐見習い。本日、条例を十二個破った」
リュネは二人の天種を胸に抱いた。
一つはコルネのため。
一つは、まだ名も知らない誰かの帰る場所のため。
「リュネ・カド。地図屋〈北向き猫〉の娘。帰る道を描く者」
銀の鐘が鳴った。
音は小さかった。
だが、世界の骨に触れた。
七つの鐘が、逆の順に応えた。
第七、第六、第五、第四、第三、第二、そして第一。
七つの音は一本の光となり、中央塔を貫いた。
千貌の客が叫んだ。
それは耳で聞く叫びではなかった。四人は、自分が生まれる前の恐怖、星々が冷える日の孤独、世界の外側で何かが目覚める気配を、一瞬にして知った。
白い仮面がすべて砕ける。
黒い裂け目が閉じ始めた。
『覚えたぞ』
客人は、無数の声で囁いた。
『お前たちの名を』
「こっちは、あなたの名を知らない」とリュネは言った。
「だから呼ばない。二度と来るな」
最後の仮面が闇へ吸い込まれた。
扉が閉じた。
八 帰るための地図
封印が閉じると同時に、星喰らいの城は落下を始めた。
中央機関は牢獄を閉じるため、残る力をすべて使い果たした。回転していた輪が止まり、庭園の滝が宙へ散る。城全体が傾き、雲海へ向かって沈んでいく。
「船まで戻るの、無理だよ!」とチカ。
「地図では?」とトポ。
「こんな壊れ方は載ってない!」
第一塔の外に、青銅騎士が立っていた。
胸を砕かれ、片腕も失っている。それでも背に四枚の金属翼を広げていた。
『天種を植えよ』
「ここに?」
『城もまた、帰る場所だった』
リュネは二つの種を見た。
一つを持ち帰ればコルネを救える。
もう一つをここへ植えれば、城の落下を止められるかもしれない。
だが、城には誰も住んでいない。
目の前の騎士以外には。
リュネは小さい方の種を騎士へ渡した。
「帰る場所は、そこに待ってる人が一人でもいれば、場所でしょう」
騎士は初めて、人のように頭を下げた。
天種を床へ埋める。
金色の根が塔を走り、街へ、庭園へ、城の底部へ伸びた。崩れかけた建物を縫い、止まった輪を抱き、千切れた橋を結ぶ。
城の落下が、ゆっくりになる。
『完全には支えられぬ。脱出せよ』
騎士は四人を翼に乗せ、空へ飛んだ。
眼下で、星喰らいの城は雲海へ沈んでいく。
けれど完全には消えなかった。雲の上に七本の尖塔だけを残し、まるで新しい島の芽のように光っている。
〈帰り鰹〉は、城の外で待っていた。
操縦席にはヴァルド卿が座り、後部には負傷した兵士たちが詰め込まれている。
「私の〈黒鴉〉は墜ちた」と彼は不機嫌に言った。
「この船を徴用する」
「これは母の船」
「では、借りる。利子は払わん」
「交渉成立」とロガス。「口頭契約を記録しました」
帰路、双月の重なりがほどけた。
星喰らいの城は薄い光に包まれ、再び雲の向こうへ消えていった。
コルネ島が見えたのは、日没の少し前だった。
黒帆組合の作業員たちは、家々に鎖をかけ、解体機械を動かしている。地図屋〈北向き猫〉の屋根には、すでに大きな鉤が刺さっていた。
「遅かった」とリュネ。
「いや」とロガスが時刻計を見る。「組合の通告は日没まで。まだ七分ある」
「でも止める人が――」
「いる」
ヴァルド卿が操縦輪の脇にある信号砲を撃った。
赤い火花が空で弾ける。
作業員たちが一斉に手を止めた。
〈帰り鰹〉は町の中央広場へ着陸した。
住民が集まり、リュネたちを取り囲む。トポの父は息子を抱きしめ、次に「パンをいくつ持ち出した」と問い詰めた。チカの祖母は泣きながら、孫の頭を工具で軽く殴った。町長はロガスを見て、条例違反を数え始めたが、途中で声が震えた。
リュネは広場の石畳を剥がした。
その下には、枯れた青晶石の古い鉱脈がある。
天種を置く。
黄金の実は、しばらく何も起こさなかった。
黒帆組合の時計係が告げる。
「日没まで、一分」
リュネは膝をつき、両手で種を包んだ。
「ここが、私たちの帰る場所」
トポが手を重ねた。
チカが重ねる。
ロガスが重ねる。
その上に、パン屋の父、修理工の祖母、町長、鉱夫、洗濯屋、学校の子どもたちの手が次々と重なった。
天種が鼓動した。
どくん。
地の底から、光が噴き上がる。
金色の根が石畳を走り、家々の基礎へ伸び、島の内部へ潜った。枯れて灰色だった青晶石が、一つ、また一つと青く灯る。
島が震えた。
皆が悲鳴を上げたが、それは沈む震えではなかった。
コルネ島は、上昇していた。
雲海まで千二百尋だった高度が、千三百、千四百と増えていく。島の縁から水が湧き、細い滝となって夕空へこぼれた。屋根の赤い解体印を、最初の雨が洗い流した。
時計係が呆然と鐘を鳴らす。
日没。
ヴァルド卿は濡れた外套を絞り、リュネへ紙を差し出した。
黒帆組合の契約解除証だった。
「債務対象が『沈降しつつある採掘島』から『自律再生型浮遊資源体』へ変化した。旧契約は適用不能だ」
「つまり?」
「君たちの島は、値段がつけられんほど面倒になった」
ロガスが書類を確認する。
「署名も印章も本物」
「当然だ。私は契約を破る相手は嫌うが、自分で結んだ契約は守る」
ヴァルドは空を見上げた。
雲の切れ間に、遠い七本の塔が一瞬だけ見えた。
「それに、あの城には、まだ回収していない船が一隻ある」
「また行く気?」
「七十七年後にな」
彼は兵士たちを連れ、組合の仮設艇へ歩いていった。
エピローグ 北向き猫の新しい地図
三か月後、コルネ島には小さな黄金の樹が育っていた。
青晶石はゆっくり再生し、湧き水は畑を潤した。黒帆組合の請求書は来なくなったが、代わりに学者や商人や観光客が山ほど押し寄せた。町長は新しい条例を四十七個作り、ロガスはそのうち十二個に反対した。
トポは〈星喰らいパン〉を売り出した。
黒い生地に砂糖の星を散らしたもので、味は驚くほど普通だった。
チカは〈帰り鰹〉を修理した。
直した箇所より壊した箇所が一つだけ多かったが、本人は「誤差」と呼んだ。肩の〈チクタク〉には、星喰らいの城で拾った機械鳥の羽が一枚ついている。
地図屋〈北向き猫〉の扉からは、黒帆組合の釘穴が消えなかった。
リュネは埋めずに残した。
店の一番目立つ壁には、新しい地図が掛かっている。
コルネ島から雲海を抜け、星喰らいの城へ至る道。
ただし、城の正確な位置は描かなかった。
代わりに、四人の名前と、小さな注意書きを記した。
〈この先、地図にない。
手を離すな〉
夜になると、リュネはときどき夢を見る。
星のない場所。
白い仮面。
遠くから、自分の名を呼ぶ声。
千貌の客は、彼らの名を覚えたと言った。
けれど、リュネもまた覚えている。
名を奪うものは、名を分け合う者には勝てない。
目を覚ませば、階下でトポが勝手にパンを並べ、チカが何かを爆発させ、ロガスが損害賠償の条文を読み上げている。
リュネは笑い、階段を駆け下りる。
地図は宝へ行くためにあるのではない。
帰るためにあるのだ。