『星喰らいの城と、帰らずの地図』

一 家を食べる印章

 世界には、空から降ってくるものが三つある。

 雨と、鳥の糞と、黒帆組合の請求書だ。

 その朝、十四歳のリュネ・カドは、三つ目が自宅の扉に釘で打ちつけられるところを見た。

「最終通告。日没までに退去せよ」

 黒い外套を着た徴収人が、棒読みで告げた。胸には、翼を折った鴉の紋章が光っている。

 リュネは戸口に立ちふさがった。背後には、父が残した地図屋〈北向き猫〉がある。天井まで積まれた海図、雲図、風の年鑑。どれも売れず、埃だけが増えていく。それでも、この店は家だった。

「昨日は三日って言ったじゃない」

「昨日から今日までで、組合の暦では三日だ」

「どんな暦よ」

「金を貸す側の暦だ」

 徴収人は真顔だった。冗談の才能がない人間ほど、世界をひどくする。

 家の前の坂道には、同じ札を打たれた家が並んでいた。

 空に浮かぶ小島コルネは、三十年前まで青晶石の採掘で栄えた。青晶石は島を浮かせ、飛空船を走らせ、冬の炉を燃やす。しかし鉱脈は尽き、島は年ごとに少しずつ高度を落としていた。

 雲海まで、あと千二百尋。

 黒帆組合は住民を別の島へ移し、コルネを石材として切り売りするつもりだった。

「抵抗するなら、荷物ごと落とす」

 徴収人は釘をもう一度叩き、坂を下っていった。

 リュネは扉の札を引き剥がした。釘で指を切ったが、泣かなかった。

 泣くのは、地図の上で帰り道を見失った者のすることだ、と母エダは言っていた。

 その母は七年前、帰らなかった。

 リュネは店の奥へ行き、作業台の引き出しを乱暴に開けた。売れそうなものは、もうほとんど残っていない。銀の測角器も、南方製の羅針盤も、父が泣きながら手放した。父は半年前、咳の療養のため隣島の施療院へ移った。残されたのはリュネと、役に立たない古地図ばかりだった。

 引き出しの底に、拳ほどの真鍮の球が転がっていた。

 母の星位儀だ。

 表面には幾重もの輪があり、小さな星や獣の印が刻まれている。母が最後の旅へ持っていったはずの品だったが、三年前、差出人のない小包で戻ってきた。以来、どんな職人にも開けられなかった。

「これが金貨でも産めばね」

 リュネが呟いたとき、戸外で正午の鐘が鳴った。

 ごおん。

 音が星位儀を震わせた。

 真鍮の輪が、ひとりでに回った。

 リュネは息を呑んだ。星の印が一列に並び、中心の球が花のように開く。中から出てきたのは宝石ではなく、針のように細く巻かれた銀紙だった。

 広げると、コルネ島の地図が描かれていた。

 ただし、地上ではない。廃坑よりさらに下、島の腹を貫く古代水路、その先の空洞、そして雲海へ向かって伸びる一本の線。

 余白には、母の筆跡があった。

〈リュネへ。

 これを読んでいるなら、私は帰れなかったのだろう。

 星喰らいの城は実在する。

 そこに眠る《天種》は、ひとつの島を救う。

 だが、城の心臓には触れるな。

 地図は宝へ行くためにあるのではない。

 帰るためにある。

                  母より〉

 さらに下に、古い童謡の一節が記されていた。

 鐘のない塔から、影のない道へ。

 七つの声がひとつになるとき、

 帰らずの城は門をひらく。

 リュネは地図を握った。

 母が残した《天種》

 ひとつの島を救う宝。

 外では、黒帆組合の作業員が、家々の屋根に解体用の赤い印を描き始めていた。

 日没まで、六時間。

 リュネは店を飛び出した。

二 地下へ行く子どもたち

「つまり、死んだかもしれないお母さんの地図を信じて、立入禁止の廃坑に入り、伝説の城から島を救う宝を盗む?」

 パン屋の息子トポは、焼きたての丸パンを三つ抱えたまま言った。

 大柄な十五歳で、髪にも頬にも小麦粉がついている。驚くと食べる癖があり、いまも一個目を半分まで飲み込んでいた。

「盗むんじゃない。見つけるの」

「持ち主に断らず持ってくるのは?」

「考古学」

「便利な言葉だなあ」

 修理工のチカは地図に鼻がつくほど顔を近づけた。十三歳。小柄で、工具を仕込んだ革帯が体の半分を占めている。肩には、彼女が作った六本脚の真鍮蜘蛛〈チクタク〉が乗っていた。

「この線、旧貯水塔の下を通ってる。けど入口は、去年の崩落で埋まったよ」

「別の入口がある」

「どこ?」

「トポの家のパン窯の下」

 トポがむせた。

 三人はパン屋〈月の耳〉の地下へ降りた。

 古い粉倉の床板を剥がすと、その下から石造りの階段が現れた。トポの父は、ひい祖父が酒を隠していた穴だと思っていたらしい。実際、空瓶が百本ほど転がっていた。その奥に、風の吹き出す亀裂があった。

「待て」

 背後から声がした。

 ランタンを持って立っていたのは、ロガス・サーヴァンだった。

 十五歳。町長の甥で、いつも襟の立った上着を着ている。役所の掲示を読むのが趣味という、友だちにするには致命的な欠点の持ち主だ。

「立入禁止区域への侵入は、島条例の八条に違反する」

「告げ口する気?」とリュネ。

「もうした」

 三人は固まった。

「僕自身に。僕は町長代理補佐見習いだからな」

 ロガスはランタンを掲げ、ため息をついた。

「それで、条例十一条にはこうある。島が沈降危機にある場合、住民は救命に必要な行動を取れる。僕も行く」

「足手まとい」

「黒帆組合の契約書を読める」

「もっと足手まとい」

「組合が今日の日没を待たず、四時に解体を始める計画だと知っている」

「どうして?」

「契約書を読んだからだ」

 残り時間は、三時間半になった。

 四人は亀裂を抜け、島の内側へ入った。

 そこは、坑道ではなかった。

 巨大な生き物の喉だった。

 壁には白い肋骨が列柱のように並び、その間を古代の石管が縫っている。コルネ島は、はるかな昔に空を泳いでいた巨獣の化石を核にしてできた、と老人たちは話す。リュネは笑い話だと思っていた。

 足元で、乾いた音がした。

 チカが踏んだ骨の欠片だった。

 その瞬間、闇の奥から声が響いた。

「リュネ」

 母の声だった。

 リュネは走り出しかけ、トポに腕をつかまれた。

「待って。僕には、うちの父ちゃんの声に聞こえる」

「私は自分の声」とチカが青ざめた。「『お前の作るものは全部壊れる』って」

「僕には町長の声だ」とロガス。「『規則の後ろに隠れていろ』と言ってる」

 肋骨の隙間に、黒い穴が無数に開いていた。そこから声が漏れている。

 リュネは地図を見た。母の小さな注記がある。

〈耳は嘘をつく。手を離すな〉

 四人はロープで腰を結び、一列になった。

 闇の穴は、母や父や自分自身の声で呼び続けた。

 ――置いていかないで。

 ――お前には無理だ。

 ――帰れば、まだ間に合う。

 ――扉を開けて。

 最後の声だけは、四人全員に同じように聞こえた。

 低く、優しく、笑っている声。

 リュネは振り返らなかった。

 やがて肋骨の回廊が終わり、円形の広間に出た。

 中央には底の見えない縦穴があり、鎖で吊られた石の籠が浮いている。古代の昇降機だ。籠の脇には、七つの顔を持つ像が立っていた。どの顔にも口がなく、胸だけに大きな唇が刻まれている。

 像の台座には文字があった。

 ロガスが埃を払う。

「古王国語だ。『客人は七つの顔で来たり、ひとつの名を奪う』」

「観光案内にしては感じ悪いね」とトポ。

 チカが昇降機を調べた。

「動力は死んでる。でも、この骨の中に風が通ってる。帆を張れば、下へ降りられるかも」

「下?」

 ロガスが縦穴を覗いた。

「地図では、目的地は上だろう」

 リュネは銀紙を裏返した。

 光に透かすと、線の意味が変わった。

「この島の下側に、発着場があるの。まず空の底へ降りる」

 トポが四個目のパンを取り出した。

「冒険って、だいたい思ってた方向と逆に進むんだな」

 四人は籠に乗った。

 チカが古い帆布を広げると、風をはらんだ石籠は、軋みながら闇へ沈んでいった。

三 雲底の口

 島の下側を見た者は少ない。

 コルネの家々が建つのは上面で、縁から下を覗いても、岩壁と雲海しか見えないからだ。

 だが、島の腹を貫く縦穴から抜けた瞬間、四人は言葉を失った。

 頭上に、逆さまの大地が広がっていた。

 樹木の根が黒い森のように垂れ、滝は水晶の糸となって雲へ落ちる。島の底には、古代都市の残骸が貼りついていた。尖塔も橋も逆さまで、もし人が住んでいたなら、彼らは空へ向かって歩いていたことになる。

 石籠は底部の桟橋に着いた。

 そこには、一隻の小さな飛空艇が眠っていた。

 船体は銀灰色。翼は畳まれた蜻蛉のようで、船首には片目を閉じた魚の彫刻がある。

「母の船だ」

 リュネは船尾に刻まれた名を指でなぞった。

 〈帰り鰹〉

「もっと格好いい名前はなかったのかな」とチカ。

「母は魚が好きだったから」

「空の船に?」

「だから帰れなかったのかも」とロガス。

「今のは冗談?」とトポ。

「努力はした」

 船内には埃が積もっていたが、操縦輪の脇に新しい傷があった。

 七本の線が中心へ集まり、そこで途切れている。

 リュネが星位儀を窪みにはめると、船の奥で何かが目覚めた。

 ぶうん。

 床下に青い光が走る。

 折り畳まれていた翼が開き、薄い膜が風を孕んだ。計器盤の針が一斉に震え、古い蓄音筒から声が流れた。

『記録、百七十二。エダ・カド』

 母の声だった。

 今度は幻ではない。

 息遣いも、言葉の前に小さく舌を鳴らす癖も、記憶のままだ。

『星喰らいの城を確認した。城は七十七年ごと、双月が重なる日にだけ雲上へ現れる。《天種》は中央庭園にある。城を浮かせる種であり、成長すれば周囲の青晶石を再生する』

 トポがリュネを見た。

 リュネは黙って続きを聞いた。

『だが、中央心臓部には別のものが封じられている。古王国人はそれを神と呼び、のちに牢獄を造った。私は封印の一部を壊してしまった。追跡者が来ている。もし私が戻れなければ――』

 激しい雑音。

 その奥で、男たちの怒鳴り声と銃声がした。

『リュネ。地図を信じすぎないで。地図には、描いた者の間違いも載る。最後は――』

 記録はそこで切れた。

 直後、頭上で爆発が起きた。

 石屑が降り、桟橋の入口から黒い制服の兵士たちが現れる。

 先頭にいたのは、黒帆組合の回収卿、ヴァルド・グレイだった。

 灰色の髭。片目に金属の単眼鏡。背には、短銃と湾曲刀。

 彼はコルネの住民から家を取り上げるときも、晴れた日の散歩のような顔をしていた。

「エダの娘か。よく扉を見つけてくれた」

 その隣に、痩せた老人が立っていた。

 頭に灰色の冠をかぶり、指という指に黒い指輪をはめている。オルド・ヌム博士。古王国の研究者で、母の最後の遠征に同行した唯一の生還者だ。

「星位儀を渡しなさい、お嬢さん」

 博士は微笑んだ。

「お母上は、七年前に私の忠告を聞かなかった。君は賢い子であってほしい」

「母を殺したの?」

「私は扉を開けようとしただけだ。彼女は閉じようとした。見解の違いだよ」

 リュネは操縦輪を握った。

「チカ。これ、飛ぶ?」

「落ちるよりは上手に飛ぶと思う」

「充分」

 トポが係留索を斧で切った。

 〈帰り鰹〉は桟橋から滑り出した。

 兵士が発砲する。

 弾が帆を裂き、ロガスが悲鳴を上げて伏せた。チカは床板を蹴飛ばし、むき出しの導線を工具でつないだ。

「動け、古代の粗大ごみ!」

 船が跳ねた。

 船首が雲海へ突っ込み、四人の胃が頭の上へ置き去りになる。

 背後から、ヴァルド卿の大型艇〈黒鴉〉が追ってきた。

「どこへ行けばいい!」とトポ。

「地図に道は?」とロガス。

 リュネは空を見た。

 双月が重なり始め、白昼に細い闇の輪を作っている。母の地図には、雲海の上に一本の点線があった。

「上じゃない。雲の中!」

 操縦輪を倒す。

 〈帰り鰹〉は、雲海へ潜った。

四 空へ沈む船

 雲の中は白くなかった。

 外から見れば柔らかな綿に見える雲海も、内部では雷と氷の荒野だった。青い稲妻が縦横に走り、巨大な氷塊が音もなく漂っている。風は獣のように船腹へ噛みついた。

 〈帰り鰹〉は揉みくちゃにされた。

 トポは帆柱にしがみつき、ロガスは契約書の条文を祈りのように唱えた。

「第十九条、不可抗力による損害は債務者の責任に含まれない!」

「今それ、何の役に立つの!」とチカ。

「落ち着く!」

 リュネだけが操縦輪を離さなかった。

 母の地図には、雲の渦が迷路のように描かれている。左、急降下、右へ二十度。背後の〈黒鴉〉は巨大なため、氷塊を砲撃しながら進んでいた。

 前方に、黒い穴が現れた。

 雲の渦が作る、完全な円。

 周囲の雷がすべてそこへ吸い込まれている。

「雲底の口だ」とロガスが呟いた。「昔話では、空の外へ通じるって」

「地図は中を指してる」とリュネ。

「地図を信じすぎるなとも言ってたよ!」とトポ。

「だから、みんなに聞く。入る?」

「選択肢は?」

「後ろの大砲か、前の口」

「口」

「口だね」

「条例にも、口へ入るなとはない」

 四人は同時に頷いた。

 〈帰り鰹〉は黒い円へ飛び込んだ。

 一瞬、音が消えた。

 風も、雷も、心臓の鼓動さえも。

 リュネは、星々を見た。

 昼の空にあるはずのない無数の星が、船の上下左右に広がっている。近い星も遠い星も同じ大きさで、すべてがこちらを見ていた。星だと思ったもののいくつかが瞬き、瞼の裏へ消えた。

 船の舷側に、誰かが立っていた。

 長身の人影。

 黒い礼服を着て、顔には白い仮面。仮面は笑顔だったが、目と口の位置が少しずつ動いていた。

『扉を開けて』

 声は四人の頭の中で響いた。

『ひとつだけ願いを叶えよう。

 家を戻そう。

 死者を戻そう。

 恐れを消そう。

 価値ある者にしてやろう』

 トポの手からパンが落ちた。

 チカは耳を塞ぎ、ロガスは目を閉じた。

 リュネの前に、母が立っていた。

 赤い外套。くしゃくしゃの髪。帰宅すると必ず額を二度叩く癖。

「リュネ。遅くなってごめん」

 胸が裂けそうになった。

 母が手を伸ばす。

 指先が、あと少しで触れる。

 そのとき、リュネは気づいた。

 母は、左手を差し出していた。

 本物の母は左手の薬指を、若い頃の事故で失っていた。

 目の前の手には、五本の指がある。

「あなたは、地図にない」

 リュネは星位儀を投げつけた。

 仮面が割れた。

 中には顔がなく、夜空より暗い穴があった。穴の奥で、無数の口が笑った。

 音が戻った。

 〈帰り鰹〉は黒い円を抜け、青空へ飛び出した。

 そして、四人は城を見た。

 雲海のはるか上。

 七本の尖塔をもつ巨大な浮遊都市が、逆光の中に立っていた。

 塔と塔の間には橋が張り巡らされ、緑の庭園が滝をこぼしている。都市の下部では、何百もの輪がゆっくり回り、その中心に白い光が脈打っていた。城壁には翼の生えた獣たちの像が並び、風に触れるたび、石の喉から鐘のような声が漏れた。

 美しかった。

 そして、あまりにも静かだった。

 生き物が息を殺しているときの静けさだった。

 背後で雲が裂け、〈黒鴉〉が現れた。

 星喰らいの城は、二隻の船を迎えるように門を開いた。

五 星喰らいの城

 〈帰り鰹〉は、城の外縁にある空港庭園へ不時着した。

 古代の桟橋には蔓草が絡み、色とりどりの花が金属の床を割って咲いている。鳥の形をした小さな機械が、枝から枝へ飛び移っていた。

「天国みたい」とチカ。

「天国には、あんなものがいるのか?」とロガス。

 庭園の端に、巨大な石像が倒れていた。

 人の体に鹿の角、手は六本。顔の代わりに鏡が嵌め込まれている。鏡には四人ではなく、知らない老人たちが映っていた。

 トポは鏡に布をかけた。

「見なかったことにしよう」

 地図によれば《天種》は中央庭園にある。

 四人は水路に沿って進んだ。街路の両側には、誰もいない家々が続く。食卓には石の皿、窓辺には枯れない花。住人だけが、ある瞬間に消えたようだった。

 やがて、広場に出た。

 中央に、黄金の樹が立っている。

 幹は透き通り、内部を青白い光が流れていた。枝先には、拳ほどの実が七つ。ひとつひとつが小さな空を閉じ込め、雲や雨や稲妻を巡らせている。

《天種》だ」

 リュネが近づくと、樹の根元から人形が起き上がった。

 古びた青銅の騎士。

 胸に星の紋章。顔は滑らかな仮面で、右肩には深い刀傷がある。

『資格を問う』

 騎士の声は、石臼を回すようだった。

『種を求める者よ。何を救う』

「コルネ島」とリュネ。

『島とは何だ』

「岩と土と、家」

『不足』

「人々」とロガスが答えた。

『不足』

「パン窯」とトポ。

『著しく不足』

 チカが腕を組んだ。

「じゃあ、あんたにとって島って何?」

 騎士はしばらく黙った。

 胸の奥で、小さな歯車が回る音がした。

『帰る場所』

 リュネは黄金の樹を見上げた。

「同じ。私たちが救いたいのは、帰る場所」

 騎士は片膝をついた。

 七つの実のうち、最も小さな一つが枝から離れ、リュネの手へ降りた。温かく、心臓のように脈打っている。

『天種を託す。だが、急げ。牢獄の鍵が近づいている』

 遠くで銃声が響いた。

 〈黒鴉〉の兵士たちが街へ入ったのだ。

 青銅騎士が立ち上がる。

『エダ・カドの娘よ。彼女の最後の記録を渡す』

 騎士の胸が開き、薄い光の板が現れた。

 そこに母の姿が映る。疲れ、片腕から血を流していた。

『リュネ。これを見ているなら、あなたは私より上手に地図を読んだのね』

 母は笑った。

『城の心臓は、この都市を浮かせる機関ではない。あれは《千貌の客》を閉じ込める檻。古王国は外なるものと取引し、空を支配する力を得た。けれど客は、願いを叶えるたび、願った者の名と姿を奪った。最後には王国じゅうが、同じひとつの顔になった』

 背後で、白い仮面をつけた人々が歩いている。全員が同じ笑みを浮かべていた。

『私はヌム博士を止めようとして、中央塔に残った。たぶん帰れない。ごめんね』

 映像の母は、少し目を伏せた。

『でも、私を取り戻そうとしないで。失ったものを取り戻すために世界を壊す人を、私はたくさん見た。あなたは、生きている人と帰りなさい』

 母は画面の向こうから、リュネの額を二度叩くように指を動かした。

『最後は、地図ではなく、隣にいる人を信じて』

 光が消えた。

 リュネは泣かなかった。

 涙は出たが、それは泣いたことには数えなかった。

 トポが肩を抱き、チカが反対側の袖をつかんだ。ロガスは何も言わず、ハンカチを差し出した。役所の紋章入りだったので、リュネは鼻をかむのを少しためらったあと、盛大に使った。

 そのとき、広場の反対側から拍手が聞こえた。

 ヴァルド卿とヌム博士が、兵士を従えて立っていた。

「感動的だ」とヴァルド卿。

「種を渡せ。島ひとつを救うより、組合の百隻を永遠に飛ばす方が価値がある」

「心臓は檻だ」とロガス。

「契約書に書いてない危険は、無視するのが組合の作法でね」

 ヌム博士は中央塔を見上げていた。

 その目は、黒い油で満たされたように光っていた。

「七年待った。ようやく客人に会える」

 博士が指輪を掲げる。

 七つの尖塔が、一斉に低く鳴った。

 黄金の樹が震え、青銅騎士が剣を抜く。

 だが、兵士たちの銃が火を噴いた。騎士の胸が砕け、片膝をつく。

『逃げよ。七つの鐘を、逆の順に』

 リュネは天種を胸に抱き、仲間と走った。

六 千貌の客

 中央塔へ続く橋が、足元から起き上がった。

 ヌム博士が城の機構を目覚めさせたのだ。

 街全体が変形し、建物は歯車のように回り、庭園は壁へ、壁は床へ姿を変える。四人は傾く石畳を滑り、崩れる橋を飛び越えた。

「七つの鐘を逆の順って、何!」とチカ。

「塔は外周に七本」とリュネ。「母の地図に番号がある。七、六、五……って鳴らせば、封印を閉じられる」

「全部回る時間は?」

「ない」

「いい地図だね!」

 背後で、兵士たちの悲鳴が上がった。

 白い仮面をつけた影が、家々の窓から現れていた。

 人の形をしているが、歩き方が違う。膝が逆に曲がり、腕が多すぎ、壁と床の区別を無視して進む。仮面の笑い口から、知っている者の声が漏れた。

「ヴァルド。お前の帝国をやろう」

「兵士たちよ。死なない体をやろう」

「子どもたちよ。失ったものを返そう」

 ヌム博士が中央塔の扉に到達した。

 七つの指輪を窪みへ嵌める。

「我は招く! 名なき王、星々の使者、千の夜を歩く客人よ!」

 扉が開いた。

 そこにあったのは、闇ではなかった。

 闇という概念を真似た、別の何かだった。

 奥行きがないのに、見ている者はどこまでも落ちていく。黒い平面の中で都市が生まれ、滅び、また生まれていた。空には巨大な眼がいくつも昇り、海は上へ流れ、人々は自分の影を食べていた。

 ヌム博士は笑いながら両腕を広げた。

「私に真理を!」

 黒いものが博士へ触れた。

 彼の体は影になり、薄く伸びた。

 顔が一つ、二つ、十、百と増え、どれも異なる年齢で、異なる声で笑った。最後にすべての顔が裏返り、白い仮面になった。

『真理とは、耐えられぬものにつけた美しい名だ』

 客人が言った。

 声だけで、城の窓が割れた。

 ヴァルド卿が後ずさる。

「博士。契約では、力を制御できると――」

『契約』

 百の顔が一斉にヴァルドを見た。

『よい言葉だ。お前は紙に名を書かせ、家を奪った。私は魂に名を書かせ、姿をもらう。よく似ている』

 ヴァルドの部下たちが逃げ出した。

 客人の影が橋を這い、触れた兵士から顔が消えた。彼らは声もなく倒れ、その顔が客人の肩や腕に浮かんだ。

 リュネたちは第七塔へ飛び込んだ。

 内部には巨大な鐘が吊られていた。だが、鐘舌がない。

「どう鳴らすの!」とトポ。

 チカが〈チクタク〉を鐘の内部へ投げた。

「鉄骨を叩かせる!」

 真鍮蜘蛛が六本の脚で鐘を打つ。

 かん。

 小さな、頼りない音だった。

 しかし塔全体が青く光り、遠くの影が一瞬ひるんだ。

「次!」

 四人は外へ出た。

 第六塔への橋は崩れている。下には雲海まで何もない。

 トポが広場から飾り布を引き剥がし、二本の槍に結んだ。

「パン屋は、粉袋が落ちない結び方を知ってる」

 即席の滑空翼。

 四人はしがみつき、風へ飛び出した。

 翼は落ちた。

 ただし、前へ落ちた。

 第六塔の窓へ突っ込み、床を三回転して止まる。

 今度の鐘は、氷に覆われていた。ロガスが壁の古王国文字を読む。

「『偽りを告げよ。さすれば氷は解ける』」

「偽り?」とチカ。

 トポが胸を張る。

「僕はパンが嫌いだ!」

 氷が少し溶けた。

「私は機械を一度も爆発させたことがない!」とチカ。

 さらに溶ける。

「僕は規則を破ったことがない!」とロガス。

 鐘が半分現れた。

 リュネは息を吸った。

「母がいなくても、平気だった」

 氷がすべて砕けた。

 ごおん。

 第六の鐘が鳴る。

 第五塔へ向かう途中、客人の影が追いついた。

 影は地面から起き上がり、母の姿になる。

「リュネ。もう頑張らなくていい」

 今度の母には、指が四本しかなかった。

 けれど声は完璧だった。匂いまで、雨の日の革外套と薬草茶の匂いがした。

「天種を渡して。そうすれば、七年前へ戻してあげる」

 リュネの足が止まる。

 トポが彼女の前に立った。

「それ、リュネのお母さんじゃない」

「分かってる」

「分かってても、きついよな」

「うん」

「じゃあ、僕らが先に行く。君は僕らについて来い」

 地図ではなく、隣にいる人を信じて。

 リュネは母の幻に背を向けた。

七 七つの鐘

 第五の鐘は、歌で鳴った。

 四人は知っている歌を全部試し、最後にコルネの酒場で歌われる品のない船乗り歌で成功した。ロガスは歌詞の一部を法律用語に置き換えたが、鐘は気にしなかった。

 第四の鐘は、塔そのものが眠っていた。

 トポが非常食の香辛料を炉へ投げ、くしゃみをさせて起こした。

 第三の鐘は、空中に逆さまに吊られていた。

 チカが〈チクタク〉の予備脚と巻き上げ機を組み合わせ、鐘舌を撃ち上げた。

 第二の鐘へ着くころ、城は崩れ始めていた。

 中央塔から黒い亀裂が空へ伸び、昼の青を紙のように裂いている。裂け目の向こうには、星とも目ともつかない光が群れ、こちらを覗いていた。

 第二の鐘の前で、ヴァルド卿が待っていた。

 単眼鏡は割れ、外套は血に濡れている。片手には銃、もう片手には黄金の樹から奪った天種があった。広場の混乱で、別の実をもぎ取っていたのだ。

「道を開けろ」

「その種を返して」とリュネ。

「私は百隻の船員と、その家族を養わねばならん。君たちの小さな町より、背負っている命が多い」

「だからって、ほかの帰る場所を壊していい理由にはならない」

「子どもの理屈だ」

「大人の理屈で島が沈みかけてるの」

 客人の影が、塔の入口を塞いだ。

『ヴァルド。種を植えよ。お前の艦隊は世界を覆う』

『リュネ。鐘を捨てよ。母を返す』

『トポ。誰にも笑われぬ強さを』

『チカ。決して壊れぬ機械を』

『ロガス。正しいことしか起こらぬ国を』

 空間いっぱいに、それぞれの願いが映った。

 トポは、細身で英雄のような自分を見た。

 チカは、完全な歯車都市を見た。

 ロガスは、誰も規則を破らず、誰も争わない整然とした街を見た。

 リュネは、地図屋の扉を開けて笑う母を見た。

 ヴァルドだけが、一歩前へ出た。

 彼の目の前には、黒帆を掲げる無数の船が空を埋め、島々がその旗に膝をついていた。

「私の命令に従うか」

『お前が命令だ』

 ヴァルドは天種を掲げた。

 その背後で、負傷した若い兵士が橋から滑った。

「卿!」

 ヴァルドは振り返った。

 手を伸ばせば兵士を救える。だが天種を手放せば、願いは消える。

 彼は一瞬だけ迷い、天種を捨てた。

 兵士の腕をつかむ。

 落ちた天種を、トポが腹ばいで受け止めた。

「今のは大人の理屈?」とリュネ。

 ヴァルドは兵士を引き上げ、荒く息をした。

「黙れ。私は高価な人員を保全しただけだ」

 客人の笑い声が城を揺らした。

 ヴァルドは銃を影へ向ける。

「鐘を鳴らせ。私は契約違反の相手と話をつける」

 第二の鐘は、ひび割れていた。

 そのままでは音が逃げる。

 チカが自分の工具帯を外し、金属板をひびへ当てた。

「誰か、押さえて!」

 トポとロガスが板を支える。ヴァルドが鐘舌の鎖を引いた。

 リュネが合図する。

 ごおん。

 六つ目の音が空へ広がった。

 残るは第一塔。

 中央塔の真上、城の最も高い場所だ。

 階段は崩れていた。

 代わりに、機械鳥の群れが空を旋回している。

 チカが指笛を吹いた。

〈チクタク〉が鐘塔の窓から飛び出し、鳥の一羽へしがみつく。真鍮蜘蛛から青い信号が走ると、何百羽もの機械鳥が向きを変えた。

「飛び石を作れる。長くはもたない!」

 鳥たちは空中で翼を連ね、第一塔まで続く細い道になった。

「先に行け」とヴァルド。

「あなたは?」

「部下を船へ戻す。回収卿には、回収すべきものがある」

 リュネは一度だけ頷いた。

 四人は鳥の道を走った。

 一歩ごとに鳥が散る。

 背後から客人が迫る。今やそれは城より巨大な影となり、無数の仮面を鱗のようにまとっていた。仮面の一つ一つが、リュネたちの知る人の顔へ変わる。

 父。

 町長。

 パン屋の主人。

 修理工の老女。

 コルネの住民たち。

『お前たちが失敗すれば、皆が落ちる』

 第一塔の入口まで、あと十歩。

 鳥の道が崩れ始める。

 ロガスが足を滑らせた。

 リュネが手をつかむ。

 トポがリュネの腰をつかみ、チカがトポの襟をつかんだ。

 四人は一本の鎖のようになった。

「地図には?」とロガスが宙ぶらりんで叫ぶ。

「こんな場所、描いてない!」

「じゃあ?」

「最後は、隣を信じる!」

 チカが工具帯から最後の発条を外し、鳥の群れへ投げた。

 発条が弾け、鳥たちが一斉に羽ばたく。

 風が四人を押した。

 彼らは第一塔の窓へ転がり込んだ。

 塔の最上階には、小さな銀の鐘があった。

 人の頭ほどしかない。鐘舌も、縄もない。

 台座に一行だけ刻まれている。

〈最初の鐘は、名によって鳴る〉

 客人の影が窓を埋めた。

『名をよこせ』

 白い仮面が、四人へ手を伸ばす。

『名は鎖だ。捨てれば、何にでもなれる』

 リュネは銀の鐘に触れた。

 冷たいはずの金属が、天種と同じように脈打っている。

 名を告げる。

 ただそれだけだと、彼女は理解した。

 けれど客人は名を奪う。名を口にすれば、捕まるかもしれない。

 トポがリュネの手に自分の手を重ねた。

「トポ・マル。パン屋〈月の耳〉の息子。くるみパンが得意」

 チカも手を置く。

「チカ・レム。修理工。直した数より壊した数が少し多い」

 ロガスが続く。

「ロガス・サーヴァン。町長代理補佐見習い。本日、条例を十二個破った」

 リュネは二人の天種を胸に抱いた。

 一つはコルネのため。

 一つは、まだ名も知らない誰かの帰る場所のため。

「リュネ・カド。地図屋〈北向き猫〉の娘。帰る道を描く者」

 銀の鐘が鳴った。

 音は小さかった。

 だが、世界の骨に触れた。

 七つの鐘が、逆の順に応えた。

 第七、第六、第五、第四、第三、第二、そして第一。

 七つの音は一本の光となり、中央塔を貫いた。

 千貌の客が叫んだ。

 それは耳で聞く叫びではなかった。四人は、自分が生まれる前の恐怖、星々が冷える日の孤独、世界の外側で何かが目覚める気配を、一瞬にして知った。

 白い仮面がすべて砕ける。

 黒い裂け目が閉じ始めた。

『覚えたぞ』

 客人は、無数の声で囁いた。

『お前たちの名を』

「こっちは、あなたの名を知らない」とリュネは言った。

「だから呼ばない。二度と来るな」

 最後の仮面が闇へ吸い込まれた。

 扉が閉じた。

八 帰るための地図

 封印が閉じると同時に、星喰らいの城は落下を始めた。

 中央機関は牢獄を閉じるため、残る力をすべて使い果たした。回転していた輪が止まり、庭園の滝が宙へ散る。城全体が傾き、雲海へ向かって沈んでいく。

「船まで戻るの、無理だよ!」とチカ。

「地図では?」とトポ。

「こんな壊れ方は載ってない!」

 第一塔の外に、青銅騎士が立っていた。

 胸を砕かれ、片腕も失っている。それでも背に四枚の金属翼を広げていた。

『天種を植えよ』

「ここに?」

『城もまた、帰る場所だった』

 リュネは二つの種を見た。

 一つを持ち帰ればコルネを救える。

 もう一つをここへ植えれば、城の落下を止められるかもしれない。

 だが、城には誰も住んでいない。

 目の前の騎士以外には。

 リュネは小さい方の種を騎士へ渡した。

「帰る場所は、そこに待ってる人が一人でもいれば、場所でしょう」

 騎士は初めて、人のように頭を下げた。

 天種を床へ埋める。

 金色の根が塔を走り、街へ、庭園へ、城の底部へ伸びた。崩れかけた建物を縫い、止まった輪を抱き、千切れた橋を結ぶ。

 城の落下が、ゆっくりになる。

『完全には支えられぬ。脱出せよ』

 騎士は四人を翼に乗せ、空へ飛んだ。

 眼下で、星喰らいの城は雲海へ沈んでいく。

 けれど完全には消えなかった。雲の上に七本の尖塔だけを残し、まるで新しい島の芽のように光っている。

 〈帰り鰹〉は、城の外で待っていた。

 操縦席にはヴァルド卿が座り、後部には負傷した兵士たちが詰め込まれている。

「私の〈黒鴉〉は墜ちた」と彼は不機嫌に言った。

「この船を徴用する」

「これは母の船」

「では、借りる。利子は払わん」

「交渉成立」とロガス。「口頭契約を記録しました」

 帰路、双月の重なりがほどけた。

 星喰らいの城は薄い光に包まれ、再び雲の向こうへ消えていった。

 コルネ島が見えたのは、日没の少し前だった。

 黒帆組合の作業員たちは、家々に鎖をかけ、解体機械を動かしている。地図屋〈北向き猫〉の屋根には、すでに大きな鉤が刺さっていた。

「遅かった」とリュネ。

「いや」とロガスが時刻計を見る。「組合の通告は日没まで。まだ七分ある」

「でも止める人が――」

「いる」

 ヴァルド卿が操縦輪の脇にある信号砲を撃った。

 赤い火花が空で弾ける。

 作業員たちが一斉に手を止めた。

 〈帰り鰹〉は町の中央広場へ着陸した。

 住民が集まり、リュネたちを取り囲む。トポの父は息子を抱きしめ、次に「パンをいくつ持ち出した」と問い詰めた。チカの祖母は泣きながら、孫の頭を工具で軽く殴った。町長はロガスを見て、条例違反を数え始めたが、途中で声が震えた。

 リュネは広場の石畳を剥がした。

 その下には、枯れた青晶石の古い鉱脈がある。

 天種を置く。

 黄金の実は、しばらく何も起こさなかった。

 黒帆組合の時計係が告げる。

「日没まで、一分」

 リュネは膝をつき、両手で種を包んだ。

「ここが、私たちの帰る場所」

 トポが手を重ねた。

 チカが重ねる。

 ロガスが重ねる。

 その上に、パン屋の父、修理工の祖母、町長、鉱夫、洗濯屋、学校の子どもたちの手が次々と重なった。

 天種が鼓動した。

 どくん。

 地の底から、光が噴き上がる。

 金色の根が石畳を走り、家々の基礎へ伸び、島の内部へ潜った。枯れて灰色だった青晶石が、一つ、また一つと青く灯る。

 島が震えた。

 皆が悲鳴を上げたが、それは沈む震えではなかった。

 コルネ島は、上昇していた。

 雲海まで千二百尋だった高度が、千三百、千四百と増えていく。島の縁から水が湧き、細い滝となって夕空へこぼれた。屋根の赤い解体印を、最初の雨が洗い流した。

 時計係が呆然と鐘を鳴らす。

 日没。

 ヴァルド卿は濡れた外套を絞り、リュネへ紙を差し出した。

 黒帆組合の契約解除証だった。

「債務対象が『沈降しつつある採掘島』から『自律再生型浮遊資源体』へ変化した。旧契約は適用不能だ」

「つまり?」

「君たちの島は、値段がつけられんほど面倒になった」

 ロガスが書類を確認する。

「署名も印章も本物」

「当然だ。私は契約を破る相手は嫌うが、自分で結んだ契約は守る」

 ヴァルドは空を見上げた。

 雲の切れ間に、遠い七本の塔が一瞬だけ見えた。

「それに、あの城には、まだ回収していない船が一隻ある」

「また行く気?」

「七十七年後にな」

 彼は兵士たちを連れ、組合の仮設艇へ歩いていった。

エピローグ 北向き猫の新しい地図

 三か月後、コルネ島には小さな黄金の樹が育っていた。

 青晶石はゆっくり再生し、湧き水は畑を潤した。黒帆組合の請求書は来なくなったが、代わりに学者や商人や観光客が山ほど押し寄せた。町長は新しい条例を四十七個作り、ロガスはそのうち十二個に反対した。

 トポは〈星喰らいパン〉を売り出した。

 黒い生地に砂糖の星を散らしたもので、味は驚くほど普通だった。

 チカは〈帰り鰹〉を修理した。

 直した箇所より壊した箇所が一つだけ多かったが、本人は「誤差」と呼んだ。肩の〈チクタク〉には、星喰らいの城で拾った機械鳥の羽が一枚ついている。

 地図屋〈北向き猫〉の扉からは、黒帆組合の釘穴が消えなかった。

 リュネは埋めずに残した。

 店の一番目立つ壁には、新しい地図が掛かっている。

 コルネ島から雲海を抜け、星喰らいの城へ至る道。

 ただし、城の正確な位置は描かなかった。

 代わりに、四人の名前と、小さな注意書きを記した。

〈この先、地図にない。

 手を離すな〉

 夜になると、リュネはときどき夢を見る。

 星のない場所。

 白い仮面。

 遠くから、自分の名を呼ぶ声。

 千貌の客は、彼らの名を覚えたと言った。

 けれど、リュネもまた覚えている。

 名を奪うものは、名を分け合う者には勝てない。

 目を覚ませば、階下でトポが勝手にパンを並べ、チカが何かを爆発させ、ロガスが損害賠償の条文を読み上げている。

 リュネは笑い、階段を駆け下りる。

 地図は宝へ行くためにあるのではない。

 帰るためにあるのだ。