星喰らいの塔と七人の地図泥棒

一 赤い封蝋

 その朝、港町ベルニカのすべての扉に、赤い封蝋が貼られた。

 魚屋にも、鍛冶屋にも、崖に張りつくように建つ小さな家々にも。封蝋には灰色の冠が押され、その下に、同じ文句が並んでいた。

 ――未納の領税につき、三日後の日没をもって土地建物を灰冠公爵家の所有とする。

「町を丸ごと取り上げるってこと?」

 リナ・カルドは、わが家の扉から紙を引きはがした。十五歳の指には、赤い蝋が血のようについた。

「そういうことだろうねえ」

 隣でパン籠を抱えていたスリュオが、ため息をつく。彼は十六歳で、町いちばんの大男だったが、困ると眉が八の字になるので、誰からも怖がられなかった。

「新しい街道を通すには、ここが邪魔なんだってさ。公爵の役人が昨日、親父に言ってた」

 ベルニカは、海と黒い崖にはさまれた小さな町だった。背後の崖には古い王道の跡が埋まり、正面には霧の海が広がっている。金になる畑も鉱山もない。あるのは塩辛い風と、崖の石段を上り下りして鍛えられた丈夫な脚くらいだ。

 それでもリナにとって、ここは世界の中心だった。

 扉の向こうには、父が残した地図工房がある。壁という壁に島々や山脈や、今では誰も名前を知らない古道が描かれている。父カイ・カルドは三年前、「最初の王の宝庫」を探しに出て、そのまま帰らなかった。

 町の大人たちは、チタクは夢に食われたのだと言った。

 リナはそう思わなかった。夢に食われた人が、出発の朝に靴下を左右そろえて畳むはずがない。帰る気のない人が、工房の窓辺に「帰ったら直す」と書いた壊れた風向計を置いていくはずもない。

「三日で三千銀貨なんて、集まるわけないよ」

 スリュオが紙をのぞきこんだ。

「ある」

 リナは言った。

「え?」

「三千銀貨どころじゃないものが。この町の下に」

 その日の夕方、リナは父の工房で、古い真鍮の地球儀を床に落とした。

 わざとではない。腹を立てて机を蹴ったら、机の脚が父の代からぐらぐらだっただけだ。地球儀は二つに割れ、空洞の中から、油布に包まれた薄い銅板が転がり出た。

 銅板にはベルニカの町並みが刻まれていた。ただし、今の町ではない。塔も家もなく、崖の腹に巨大な王冠の形をした地下道が走っている。

 裏には父の字があった。

 〈王の口は、町の原図が舌となるとき開く。七人で行け。六人では影に数えられ、八人では門に余る。帰り道を描ける者だけが、本当に遠くへ行ける〉

 リナは三度読み返した。

 そして、町役場の最上階に保管されている「ベルニカ街区原図」のことを思い出した。

 その夜、彼女は泥棒になった。

二 七人目

 鐘が十一回鳴るころ、町役場の裏窓に六つの影が集まった。

「確認するけど」

 細い眼鏡を押し上げながら、セオが言った。町長の息子で、役場の鍵の場所を知っているのは彼だけだった。

「僕たちは、町を救うために町の公文書を盗むんだね」

「借りるの」リナは答えた。「返すつもりの泥棒は、半分くらい図書係よ」

「図書係に謝れ」

 低い声で言ったのはトーラだった。鉱夫族の娘で、肩幅はリナの二倍、愛用のつるはしには「礼儀」と名をつけている。

 雨樋の上では、森人のレイザが窓枠を調べていた。身軽で、町中の屋根を道のように歩く少年だ。

「見張りはいない。役人どもは酒場だ」

「犬は?」スリュオが聞いた。

「二匹」

「大きい?」

「おまえよりは小さい」

「じゃあ、たぶん大丈夫だ」

「犬のほうがな」

 六人目のナナイが、笑いをこらえた。川の民の少女で、話すときは言葉の最初につかえることがあったが、歌うときだけは水のようになめらかだった。

「な、な、七人で行け、って書いてあったんでしょう?」

 全員が黙った。

 リナ、スリュオ、セオ、トーラ、レイザ、ナナイ。六人。

「ピピを数えたら?」とスリュオ。

「呼ばれてないのに、もういるよ」

 頭上から声がした。

 雨樋の中から、小柄なゴブリンの子がぬるりと出てきた。尖った耳に針金を何本も差し、腰には鍵束、歯車、蝋燭、干しイカ、用途不明のばねを下げている。

「いつから?」リナが聞いた。

「『町を救うために盗む』のあたり。いい言葉だね。墓石に刻める」

 ピピは十二歳で、ベルニカいちのがらくた屋の孫だった。そして、鍵を見ると開けずにはいられないという、たいへん役に立つ病気を持っていた。

「七人目、決まり」とリナ。

「多数決は?」セオが言った。

「六対一で決まり」

「僕が一なのは確定なの?」

 町役場への侵入は、驚くほど順調だった。

 レイザが二階の窓を開け、ピピが内側の錠を外し、トーラが音を立てずに重い書庫扉を持ち上げた。スリュオは持ってきたソーセージで番犬を買収し、ナナイは廊下に響く寝ずの番の鼻歌をまねて、巡回の役人を別の階へ誘導した。

 問題は、原図の筒が町長室の壁に鎖で固定されていたことだった。

「父さん、文書を信用してないから」とセオが言った。「盗まれると思って」

「慧眼だね」とピピ。

 鎖を外した瞬間、壁の奥で鐘が鳴った。

 町じゅうの鐘ではない。もっと低く、石の腹から響く音だった。

 原図を開くと、父の銅板と同じ縮尺で、今のベルニカが描かれていた。リナが二枚を重ねる。街路と地下道がぴたりと合い、町の中央広場にある枯れ噴水が、王冠の中心――巨大な口の印に重なった。

 そのとき、階下で扉が破られた。

「誰か来た!」レイザが窓へ走る。

 だが入ってきたのは夜警ではなかった。

 黒い外套を着た三人の鎖兵と、その後ろに、銀の杖をついた痩せた男が立っていた。左目には真鍮の筒眼鏡。右目だけが、妙に若々しく光っている。

 公爵付き星見官、ドレヴァン・モルド。

 リナは彼を知っていた。父が消える前、何度も工房を訪ねてきた男だ。

「やはりチタクの娘だ」

 モルドは微笑んだ。

「道を見つけるのは父親譲り。道の先に何が待つか考えないのも、父親譲りだ」

「父を知ってるの?」

「彼は扉まで私を案内した。だが最後に怖気づき、鍵を隠した」

 モルドの視線が銅板へ落ちた。

「それを渡しなさい。町の借金なら、私が公爵に口添えしてやろう」

「うそだね」とピピが即座に言った。

「根拠は?」セオが小声で尋ねる。

「唇が『うそ』の形」

 モルドが杖を上げた。

 レイザが窓の留め金を蹴り飛ばす。七人は夜の屋根へ飛び出した。

 後ろで鎖兵の怒鳴り声が上がる。

 リナたちは煙突を飛び越え、洗濯綱の下をくぐり、最後はパン屋の天幕を滑り台にして中央広場へ降りた。スリュオだけが天幕を破り、明日の分の小麦粉袋に頭から突っこんだ。

「俺を置いていくな!」

「白いから目立つ!」

 枯れ噴水の底に、王冠をかぶった石の顔が彫られていた。

 銅板と原図を重ね、その口へ差しこむ。

 石の顔が、三百年ぶりに舌を得た。

 ごごご、と広場が揺れた。噴水の底が割れ、暗い階段が現れる。

 遠くでモルドの声がした。

「止めろ!」

「七人、いる?」リナは振り返った。

 スリュオ、ピピ、セオ、ナナイ、レイザ、トーラ。

 みんな怖い顔をしていた。

 でも、誰も帰るとは言わなかった。

「行こう」

 七人は、町の下へ飛びこんだ。

三 王の口

 石の扉が閉じると、地上の音は消えた。

 ピピが青火石を打ち、ランタンを灯す。階段はまっすぐ下へ続き、壁には王冠をかぶった人々の行列が彫られていた。どの顔も目を閉じている。

「なぜ全員、眠ってるんだ?」スリュオが聞いた。

「眠っているんじゃない」

 セオが壁の古代文字を読んだ。

「『見上げるな。数えるな。名を与えるな』」

「何を?」

「そこまでは欠けてる」

「欠けたところに大事なことを書くの、昔の人の悪い癖だよね」とピピ。

 階段の終わりには、丸い石室があった。正面に七つの扉。扉にはそれぞれ、剣、杯、冠、鍵、舟、竪琴、そして白紙の巻物が刻まれている。

 床の中央に文字が浮かび上がった。

 〈王は何を持って墓へ入るか〉

「剣?」レイザ。

「冠だろう」とトーラ。

「杯かも。王はだいたい飲んでる」とスリュオ。

 セオが首を振った。「古王国の葬礼では――」

「地図よ」

 リナは白紙の巻物に触れた。

「生きている間に手に入れたものは置いていく。でも、自分がどこへ行くかだけは知りたがる」

 巻物の扉が開いた。

「適当?」セオが聞く。

「半分」

「半分で古代の仕掛けに触るな!」

 扉の先は急な滑り道だった。

 七人は叫びながら、何百段分もの斜面を転げ落ちた。途中でスリュオが全員を巻きこみ、最後はひとかたまりになって砂の山へ突っこんだ。

 顔を上げると、巨大な洞窟が広がっていた。

 天井から石の鍾乳柱が垂れ、青白い菌類が星空のように光っている。その下には黒い地下湖があり、湖の上に一隻の帆船が吊られていた。

 帆船は太い鎖で天井と結ばれ、空中に浮かんでいる。船腹には金の文字で〈朝焼け号〉とあった。

「船が、飛んでる」ナナイがささやく。

「落ちてないだけだ」とトーラ。

 湖岸には乗船用の塔があり、一本の細い橋が船へ伸びていた。

 橋を渡る途中、背後の滑り道から金属音が響いた。

 鎖兵たちが降りてきたのだ。

「早く!」

 全員が船へ乗り移った直後、一本目の矢がマストに突き立った。

 甲板には骸骨の船員たちが整然と並び、全員が前方を指さしていた。舵輪の前には、錆びた兜をかぶった船長の骨。胸に小さな札がかかっている。

 〈王の風を受けよ〉

「風なんてないぞ」スリュオが言った。

 ピピはすでに帆柱へよじ登っていた。

「風がないなら、作る!」

 帆を縛る縄を切る。帆が落ちると、その表面に巨大な王の顔が描かれていた。口の部分だけが空洞になっている。

 ナナイがその絵を見上げた。

「歌って、ってことじゃない?」

「王の風……息か」セオが言う。

 鎖兵が橋を渡ってくる。

 ナナイは帆の前に立った。普段は声を出す前に息がつかえる。けれど彼女が歌い始めると、洞窟そのものが耳を澄ませた。

 古い船出の歌だった。海へ出た者が、帰る家の煙を思う歌。

 帆の王が大きく息を吸った。

 次の瞬間、石の口から突風が吹き出した。

 帆が膨らみ、朝焼け号を吊るしていた鎖が一斉にほどける。船は落下した――かと思うと、船底の下で青い光の川が生まれ、湖面すれすれを滑り始めた。

「舵!」リナが叫ぶ。

「俺、船は苦手なんだ!」スリュオが舵輪にしがみつく。

「どうして?」

「沈むから!」

「それは船じゃなくて事故!」

 鎖兵たちが船へ飛び移った。レイザが弓で足元を狙い、トーラが礼儀を振るい、ピピが甲板の樽から油をまいた。セオは骸骨船長から剣を借りようとして、腕ごと抜けた骨を見て謝った。

 リナは船首に駆け上がり、銅板を広げた。

 地下湖の先には三つの水路がある。父の地図では、中央は行き止まり。左は渦。右だけが先へ続く。

「右!」

 スリュオが舵を切った。

 船は岩壁すれすれに傾き、鎖兵二人が湖へ落ちた。最後の一人がリナの腕をつかむ。

 その背後から、ピピが樽の栓を投げた。

「何だ、これ」

「栓」

「なぜ――」

 男が言い終える前に、床下の油樽が噴き上がった。栓を失った樽から油が噴射し、鎖兵は甲板を滑って湖へ消えた。

「さよなら、栓の人!」

 朝焼け号は右の水路へ突入した。

 背後で、モルドが橋の端に立っていた。彼は追ってこなかった。ただ真鍮の目を細め、船が消えるのを見送っていた。

 リナはなぜか、それがいちばん怖かった。

四 星のない星図

 水路の終わりで、朝焼け号は石の桟橋にぶつかって止まった。

 その先には、円形の図書室があった。

 棚には本ではなく、黒い石板が収められている。中央には半球状の天井があり、無数の銀線で星座が描かれていた。

「宝庫じゃない」スリュオががっかりした。

「知識も宝だよ」とセオ。

「腹にたまらない宝は、だいたい高く売れない」

 リナは床に父の印を見つけた。

 小さな羅針盤の形をした刻み傷。カイ・カルドが旅先で道しるべに使っていた印だ。

「父さんはここまで来た」

 胸が熱くなる。三年間、見つからなかった足跡が、今は目の前にある。

 刻み傷は一枚の石板の前へ続いていた。

 石板には、古い王国の歴史が絵で刻まれている。

 最初の王たちは、空から落ちた光る石を見つけた。その石で夜を照らし、病を癒やし、冬の畑を実らせた。人々はそれを〈暁の種〉と呼んだ。

 だが、光る石が落ちた夜、別のものも空から近づいていた。

 星と星の間に潜む、輪郭のない影。

 それは光を嫌うのではない。光のそばに生まれる影を渡ってくる。目に映る形を借り、呼ばれた名を皮膚にし、見つめ返した者の記憶を巣にする。

 王たちは〈暁の種〉を七枚の鏡で囲み、その光を黒い塔へ送り、影を空の裂け目に縫い止めた。

 最後の絵には、塔の上に巨大な眼のような穴が開き、その向こうで星々が歯の列のように並んでいた。

 ナナイが息をのんだ。

「こ、これが……宝?」

 セオは別の碑文を読んだ。

「『富を求める者には金を。王権を求める者には冠を。だが暁の種に手を触れる者には、終わらぬ夜を』」

「じゃあ、金もあるんだ」スリュオが少し元気になった。

「そこだけ聞くな」とトーラ。

 リナは石板の下に、父の字で書かれた紙片を見つけた。湿気で半分が溶けている。

 〈リナへ。もしおまえがこれを読んでいるなら、私は帰れなかったのだろう。モルドは種を星見の道具にするつもりだ。彼は、あれが未来を映すと信じている。違う。あれが映すのは未来ではなく、向こう側がこちらを見ている目だ。

 宝庫にはベルニカの自由状がある。町を救うなら、それだけを持ち帰れ。金に目を奪われるな。塔を見上げるな。

 そして、七人で行け。七つの光は、一つの勇気より強い。〉

 文章はそこで切れていた。

「生きてるかもしれない」とスリュオが言った。

 リナは返事をしなかった。

 父の紙に触れると、ひどく冷たかった。

 そのとき、天井の星図が動いた。

 銀の星々がゆっくり回り、ある一点を中心に並び始める。中心には星がない。黒い穴だけがある。

 穴の奥で、何かが瞬いた。

 リナは反射的に見上げた。

 そこに空はないはずだった。

 なのに彼女は、果てしない夜を見た。星々は遠い火ではなく、透明な殻に開いた穴だった。その外側から、巨大な何かが爪を差し入れ、穴を一つずつ広げている。

 そして、その何かがリナに気づいた。

 ――リナ。

 父の声がした。

 ――こっちだ。道を見つけた。ひとりで来い。

「見るな!」

 レイザがリナを床へ引き倒し、外套を天井へ投げた。黒い穴が隠れる。

 光が消え、図書室は静かになった。

 リナは震えていた。

「父さんの声だった」

「声だけだ」とレイザは言った。「森には、獲物の鳴き声をまねる獣がいる。声が同じでも、中身まで同じじゃない」

「でも」

「おまえの父親なら、ひとりで来いなんて言うか?」

 リナは紙片を握った。

 七人で行け。

「言わない」

 図書室の反対側で、石の扉が開いた。

 甘い金属の匂いを含んだ風が流れてきた。

 宝庫は近かった。

五 黄金より重いもの

 扉の先は、崖の内部を貫く細い回廊だった。

 右側は壁。左側は底の見えない裂け目。何千年も前に打たれた鉄杭へ、一本の綱橋が渡されている。

 半分まで進んだところで、後ろから杖の音がした。

 モルドがひとりで立っていた。

 鎖兵たちはいない。外套は濡れ、真鍮の筒眼鏡にひびが入っている。それでも右目だけは熱に浮かされたように輝いていた。

「朝焼け号の別便を見つけましてね」

「泳いだだけじゃない?」ピピが言う。

「地図を渡せ」

「断る」

 モルドはため息をついた。

「チタクも同じ顔をした。世界の秘密を前にして、故郷の家賃を心配する顔だ」

「父はどこ?」

「塔の手前で私を止めようとした。橋を落とし、自分も落ちた」

 リナの足元が揺れた気がした。

「うそだ」とスリュオ。

「なぜそう思う?」

「唇が『うそ』の形だ」

 モルドの右目が細くなった。

 彼が杖の石突きを橋へ打ちつける。

 綱が一斉にはじけた。

 橋が大きく傾く。七人は縄にしがみついた。ピピの小さな体が裂け目の上へ投げ出される。

「ピピ!」

 リナは片手で橋をつかみ、もう片方でピピの手首をつかんだ。

 細い腕が滑る。

 そのとき、橋の向こうで黄金の光が漏れた。

 宝庫の扉が半開きになり、床一面の金貨が見えた。宝石を積んだ杯。銀の鎧。王冠。ベルニカを百回買い戻しても余るほどの富。

 モルドは傾いた橋を軽々と渡り、宝庫へ入っていく。

「追え!」セオが叫ぶ。「暁の種を取られる!」

 リナの右手には、宝庫へ続く縄。

 左手には、今にも落ちそうなピピ。

 父ならどうしただろう、と一瞬考えた。

 すぐに、その考えを捨てた。

 これは父の地図ではなく、自分の道だ。

「みんな、ピピを上げる!」

 スリュオとトーラがリナの腰をつかみ、レイザが縄を引き、ナナイとセオが橋の支柱へ体を巻きつけた。

 七人分の力で、ピピは引き上げられた。

 その代わり、モルドの姿は宝庫の奥へ消えた。

「ごめん」ピピが言った。いつもの調子ではなかった。

「何が?」

「宝、逃げた」

「逃げる宝は、たぶんろくな宝じゃない」

 橋を渡りきると、七人は宝庫へ駆けこんだ。

 黄金は本物だった。

 スリュオは金貨を一枚つまみ、歯で噛んだ。

「本物?」ナナイが聞く。

「味は固い」

「金はだいたいそうだ」

 宝庫の中央には、七面の大鏡が円形に並んでいた。鏡の中心にあったはずの台座は空で、光の粉だけが漂っている。

 モルドが暁の種を持ち去ったのだ。

 床には、古びた羊皮紙の筒と、血の跡があった。

 リナは羊皮紙を開いた。

 〈第一王アウレドの名において、ベルニカの港と崖、その子らの自治と自由を永久に認める〉

 王印が残っている。

「自由状だ」セオが声を震わせた。「これがあれば、公爵でも町を取り上げられない」

 リナは筒を背負い袋へ入れた。

 血の跡は鏡の裏へ続いていた。

 そこに、一人の男が倒れていた。

 髪は白く、頬はやせ、左脚には古い木の添え木が巻かれている。だが胸はかすかに上下していた。

「父さん」

 リナは駆け寄った。

 カイ・カルドは目を開けた。

「……地図を、返しに来たのか?」

 最初の言葉がそれだったので、リナは泣きながら笑った。

「借りただけ」

「なら、半分は図書係だな」

 父の声だった。

 今度こそ、本物だった。

六 塔への道

 チタクは三年間、宝庫に閉じこめられていた。

 モルドが橋を落としたとき、チタクは裂け目の途中にある古い排水路へ落ちた。脚を折りながらも宝庫へたどりつき、そこに残された保存食と、光をためる苔で生き延びたのだ。

「金貨は食べられなかった」

「味は固いからね」とスリュオ。

 再会を喜ぶ時間は長くなかった。

 宝庫の鏡が一枚ずつ曇り始めた。鏡の中の自分たちが、ほんの少し遅れて動く。

「暁の種が塔へ運ばれた」チタクが言った。「モルドは黒い塔の天頂儀に種をはめるつもりだ。空の裂け目を閉じる光を、逆に扉を開く鍵として使う」

「止めるには?」リナ。

「種を台座へ戻す。だが塔から宝庫へ戻る道は、奴が崩すだろう」

 トーラが鏡の台座を調べた。

「別の方法は?」

 チタクは七面鏡を指した。

「塔の頂上にも七枚の鏡がある。最初の王たちは、宝庫が破られたときのため、塔そのものを封印の輪に変えられるよう作った。七人がそれぞれ鏡を向け、暁の種の光を一つに束ねる」

「だから七人」セオがつぶやいた。

「ただし、種を持つ者は輪の中心へ立たなければならない。影が最も濃い場所へ」

 宝庫の奥で、石が砕ける音がした。

 壁に黒い筋が走る。墨を流したような影が、金貨の山を越えて近づいてくる。影の中から、鎖兵たちの声がした。

「助けてくれ」

「暗い」

「目が、たくさん――」

 だが影の表面に浮かんだ顔は、どれも口の数が合っていなかった。

「走れ!」

 チタクをスリュオが背負い、七人は宝庫の奥の階段へ向かった。

 階段は上へ、さらに上へ続く。

 途中で地面が傾き、石壁の隙間から夜空が見えた。

 塔は山の内部ではなかった。

 ベルニカの崖の向こう、霧の海に浮かぶ黒い岩島の上に立っていた。地下道は海底を通り、その島へ続いていたのだ。

 塔は細く、異様に高い。石を積んだのではなく、夜そのものを切り出して建てたようだった。壁には窓がないのに、内部から星明かりが漏れている。

 空では月が欠け始めていた。

「月食だ」セオが言った。「完全に隠れるまで、あと一刻もない」

 塔へ続く橋は、幅三歩の黒石でできていた。両側は海。波はなく、海面いっぱいに、空にはない星が映っている。

「下を見るな」とチタク。

 スリュオの背で、彼はリナの肩をつかんだ。

「リナ。私を置いていけ」

「いや」

「脚手まといになる」

「三年待たせて最初の命令がそれ? 却下」

「親の命令だぞ」

「地図工房の規則では、三年無断欠勤した親は権限停止」

 チタクは、叱る代わりに笑った。

 橋の中央で、海の星が一斉に瞬いた。

 水面から、黒い腕が伸びる。腕には関節がなく、指の代わりに細い人影が何十本もぶら下がっていた。

 レイザが火矢を放つ。

 炎が腕を貫いた瞬間、影は煙のように散った。だが橋の反対側にも、背後にも、同じ腕が立ち上がる。

「火が足りない!」

「だったら増やす!」

 ピピが腰袋を逆さにした。油瓶、蝋燭、火打石、干しイカ、ばね、そしてパン屋から盗んだ小麦粉が落ちる。

「小麦粉?」スリュオ。

「借りた!」

 ピピは油を橋へ走らせ、粉を空中へまいた。ナナイが大きく息を吸い、船出の歌の高い一節を歌う。

 風が粉を影へ運んだ。

 レイザの火矢が飛ぶ。

 白い炎が橋の両側に咲いた。

 影の腕が、声にならない声を上げて海へ縮む。

「今!」

 七人と一人は、燃える橋を走り抜けた。

 塔の門が閉じる直前、リナは海面を見てしまった。

 そこには、ベルニカの町が映っていた。

 家々の窓は暗く、扉には赤い封蝋ではなく、黒い手形がついている。広場の中央に巨大な眼が開き、町の人々が一列に並んで、その瞳へ歩いていく。

 未来なのか、ただの幻なのかは分からない。

 分かったのは一つだけだった。

 帰り道は、もう塔の向こうにしかない。

七 目を開ける夜

 塔の中には階段がなかった。

 代わりに、床から天井へ向かって無数の扉が並んでいた。扉は壁にも、柱にも、空中にも浮かび、それぞれ別の方向の重力を持っている。

「建築家を殴りたい」とトーラが言った。

「死んでると思う」セオ。

「なら墓を」

 リナは銅板を開いた。父の地図には塔の内部が一本の螺旋で描かれている。だが目の前の空間は、どう見ても螺旋ではない。

「地図が間違ってる」

 チタクが首を振った。

「違う。塔のほうが、見る者に合わせて形を変える」

 リナは目を閉じた。

 地図を信じる。足元を一歩。右へ二歩。そこに床があると信じて踏み出す。

 靴の裏に石の感触があった。

 目を開くと、彼女は壁を歩いていた。

「目を閉じて、私の足音についてきて!」

「それ、かなり嫌な指示だぞ!」スリュオが叫ぶ。

 一行は、見える塔ではなく、描かれた塔を進んだ。

 扉を三つ抜け、天井を横切り、逆さまの回廊を上る。途中、開けてはいけない扉の向こうから、それぞれが最も会いたい者の声がした。

 トーラには亡くなった兄。

 セオには、いつも忙しい父。

 レイザには森を追われた母。

 ナナイには、自分が一度もつかえずに話す声。

 スリュオには「焼きたてだぞ」と呼ぶ祖母。

 ピピには、誰かが「おまえは役に立つ」と言う声。

 リナには、子どものころの父が「こっちへおいで」と言った。

 けれど七人は、互いの名を呼び合った。

 声は本物に似ていた。

 呼び合う名は、本物だった。

 やがて塔の頂上へ出た。

 屋根はなく、月食の空が頭上に広がっている。

 円形の床の中心に、黒い天頂儀が立ち、その腕の間で〈暁の種〉が浮かんでいた。

 種は拳ほどの透明な石だった。内部で朝焼けが燃えている。桃色、金色、淡い青。世界で最初に明けた朝を、そのまま閉じこめたような光。

 その前にモルドが立っていた。

「見なさい」

 彼は両腕を広げた。

「神々が隠した真実を。死者がどこへ行くのか。世界が何のために作られたのか。すべてが開く」

 天頂儀の輪が回り始める。

 月が完全に影へ入った。

 空の星が消えた。

 一つずつではない。最初から星などなかったかのように、夜が平らになる。

 そして、塔の上に巨大な穴が開いた。

 穴の向こうに何かがいた。

 大きさを比べるものがなかった。目なのか、口なのか、世界の裏側にできた傷なのかも分からない。ただ、それを見た瞬間、リナの記憶の中の地図がすべて書き換わった。

 海は臓器のひだになり、山脈は眠る獣の背骨になり、町々は皮膚に刺さった針になった。

 ベルニカも、王国も、彼女たちの人生も、何か途方もなく巨大なものが寝返りを打つまでの一瞬にすぎなかった。

 モルドが笑った。

 彼の右目から黒い涙が流れている。

「見える。妻がいる。娘も。向こうで待っている」

 穴の中から、小さな女の子の手が伸びた。

「父さま」

 モルドは一歩進んだ。

「それは娘じゃない!」リナが叫んだ。

「おまえに何が分かる!」

「分からない。でも、本当にあなたを待ってる人なら、世界ごと来いなんて言わない!」

 モルドは振り返った。

 一瞬だけ、右目に人間の迷いが戻った。

 その瞬間、穴から伸びた手が彼の顔を覆った。

 音もなく、モルドは夜の中へ折りたたまれた。紙を細く畳むように、ありえない方向へ曲がり、消えた。

 暁の種が天頂儀から落ちる。

 リナが飛びこみ、両手で受け止めた。

 熱くはなかった。

 だが持った瞬間、彼女の影が七方向へ伸びた。

「鏡へ!」チタクが叫ぶ。

 円形の床の周囲から、七枚の黒鏡がせり上がった。

 同時に、空の穴がさらに広がる。

 穴の向こうで、何かがこちらへ顔を寄せた。

八 七つの鏡

「それぞれ一枚!」

 七人は鏡へ走った。

 リナだけが中心に残り、暁の種を胸に抱える。

 鏡には取っ手と、古い文字の目盛りがついていた。だがどれも重く、何百年も動かされていない。

 トーラが歯を食いしばり、礼儀をてこにして一枚目を回す。

 スリュオが二枚目へ肩を押しつける。

 レイザは三枚目の錆びた留め金を矢で射抜き、ピピは四枚目の歯車へ油を流す。

 セオが碑文を読み上げた。

「『七つの光を一つの朝へ。北より始め、帰る場所へ結べ』!」

「北はどっち?」スリュオ。

「空が壊れてるから分からない!」

 リナは父の羅針盤を取り出した。

 針は狂ったように回っている。

 帰る場所へ結べ。

 彼女は目を閉じた。

 ベルニカの朝を思い出す。パン屋の煙。魚市場の怒鳴り声。崖道を駆ける子どもたち。父の工房の窓。直していない風向計。

 羅針盤の針が止まった。

 北ではなく、ベルニカの方角を指している。

「最初の鏡を町へ!」

 ナナイが五枚目の前で歌い始めた。声が震えている。それでも歌は途切れない。

 船出の歌ではなかった。

 帰港の歌だった。

 夜の海で迷った船へ、港の者が灯を掲げて呼ぶ歌。

 六枚目でセオが文字を読み違え、鏡が反対へ回った。黒い光が彼の足元へ落ち、影の中から無数の手が伸びる。

「セオ!」

 ピピが歯車を離れ、彼の背中へ飛びついた。二人で転がり、手から逃れる。

「四枚目が戻る!」トーラが叫ぶ。

 レイザが走り、ピピの鏡へ矢を差しこんで仮止めする。

「僕の読み方が間違ってた」セオは青ざめていた。

「じゃあ正しく読み直せ」とレイザ。

「また間違えたら?」

「そのときは、また直す」

 空の穴から、声が降ってきた。

 それは言葉ではなかった。

 聞いた者が、自分で意味を作ってしまう音だった。

 ――おまえたちは小さい。

 ――何をしても、いずれすべて消える。

 ――町も、家族も、名も。

 スリュオの手が止まった。

「……本当だ」

 鏡が戻り始める。

「スリュオ!」リナが叫ぶ。

「俺たちが勝っても、いつか町はなくなる。俺たちも死ぬ」

 影が彼の肩へ這い上がる。

 リナは暁の種を抱えたまま、言った。

「いつかなくなるからって、今日なくしていい理由にはならない!」

 スリュオが顔を上げた。

「明日のパンを焼くのに、永遠の小麦粉はいらないでしょ!」

「……そりゃそうだ」

 彼は笑い、鏡を押し戻した。

 七枚の鏡が、順に暁の光を受けた。

 一枚目から二枚目へ。

 二枚目から三枚目へ。

 光は仲間の顔を渡り、傷だらけの鏡を巡り、最後の一枚から中心へ返ってきた。

 リナの手の中で、暁の種が太陽のように輝く。

 だが空の穴は閉じない。

「足りない!」チタクが叫ぶ。「種を掲げろ!」

 リナは両腕を伸ばした。

 その瞬間、彼女の影から父の姿が立ち上がった。

 若いころの父。旅立つ朝のままの笑顔。

「よく来たな、リナ」

 影の父が言う。

「地図を渡せ。あとは私がやる」

 後ろでは、本物の父がスリュオの背にいる。

 分かっている。

 それでも、影の声は懐かしく、手は温かそうに見えた。

「おまえは疲れただろう。もう決めなくていい」

 影の父が手を伸ばす。

 リナの腕が下がりかけた。

 そのとき、七人の声がした。

「リナ!」

 スリュオ。

「そいつ、唇が『うそ』の形!」

 ピピ。

「地図を見ろ!」

 セオ。

「帰るぞ!」

 トーラ。

「声じゃなく、名を聞け!」

 レイザ。

 ナナイは歌っていた。

 リナの名を、帰港の歌へ織りこんで。

 そして本物の父が言った。

「道は、おまえが決めろ」

 リナは暁の種を高く掲げた。

「私は、帰る!」

 七つの光が一つになった。

 塔の頂上に朝が生まれた。

 月食の夜を内側から裂き、金色の光柱が空の穴へ突き刺さる。

 穴の向こうのものが身を引いた。

 初めて、その一部が輪郭を持った。

 星々を皮膚の穴としてまとい、無数の世界の影を指のように垂らした、巨大な何か。

 それは怒ったのではなかった。

 ただ、理解できないほど遠い場所から、ほんの一瞬こちらを不思議そうに見た。

 その無関心こそが、怒りより恐ろしかった。

 光がさらに強くなる。

 空の穴が縫い合わされる。

 最後に残った細い裂け目から、あの声が落ちてきた。

 ――おまえたちは、いずれ名を忘れられる。

 リナは答えた。

「それまでは、呼び合える」

 裂け目が閉じた。

 星々が戻った。

 そして黒い塔が崩れ始めた。

九 帰り道

「毎回、最後に崩れるのはなぜだ!」セオが叫んだ。

「古代建築だから!」ピピが答えた。

「それで納得できるか!」

 床が割れ、七枚の鏡が次々に倒れる。

 リナは暁の種を背負い袋へ入れた。塔が壊れる今、宝庫の台座へ戻すことはできない。だが種の光は消えず、袋の縫い目から朝焼け色に漏れていた。

 来た道は崩れていた。

 空中の扉は一つずつ闇へ落ち、塔の内側は巨大な井戸のように裂けている。

「上へ!」チタクが指さした。

 塔の外壁が崩れ、夜空へ向かって一本の石梁が倒れかけている。その先には、かつて天頂儀の一部だった巨大な金属輪。

「上ってどうするの?」スリュオ。

「落ちる方向を選ぶ!」

「それは下だ!」

 それでも他に道はなかった。

 七人は傾く石梁を走った。最後尾のトーラが渡り終えた瞬間、梁が折れる。

 全員が金属輪へ飛びついた。

 輪は塔から外れ、空中へ投げ出された。

 七人とチタクを乗せたまま、巨大な輪が坂道のような塔の外壁を転がり始める。

「これ、乗り物?」ナナイが叫ぶ。

「今からそうする!」ピピが鎖を引く。

 輪は火花を散らし、崩れる塔を螺旋に駆け下りた。途中で黒い石像をはね飛ばし、開いた窓を突き破り、最後は塔の門を丸ごと押し倒して外へ飛び出す。

 前方には海。

 橋は半分崩れていた。

「止まれ!」セオ。

「止め方があると思う?」ピピ。

「ないなら、なぜ乗り物にした!」

 輪は橋を走り、途切れた先から宙へ飛んだ。

 スリュオが目をつぶる。

「船は嫌いだあああ!」

「これは船じゃない!」

「もっと嫌だ!」

 輪は海へ落ち――なかった。

 リナの袋から暁の光があふれ、輪の内側に薄い光の膜を張った。輪は水面を一度、二度、三度跳ね、朝焼け号の残骸が浮かぶ地下水路の入口へ滑りこんだ。

 そのまま石壁へ激突し、全員が砂浜へ放り出された。

 しばらく、誰も動かなかった。

 やがてスリュオが顔を上げた。

「生きてる人?」

 あちこちから、うめき声と悪態が返った。

「八人いる」とセオが数えた。

「来るときは七人だったのに」とナナイ。

「門に余るって書いてあったぞ」トーラが言う。

 全員が、閉じかけた石門を見た。

 門の上には七つの手形が彫られている。

「七人分しか開けられない」セオが青ざめた。

「私が残る」チタクが言った。

「却下」リナ。

「今度は聞け。門は外から一度開けば――」

「却下」

 リナは門と地図を見比べた。

 父の銅板には、入り口から地上へ向かう一本の線が描かれている。けれどその横に、薄い擦り傷があった。

 傷ではない。

 もう一本の道。

「帰り道を描ける者だけが、本当に遠くへ行ける」

 リナは父の言葉を口にした。

 そして銅板を裏返した。

 裏面の余白に、これまで通ってきた道を指でなぞる。図書室、宝庫、塔、崩れた橋、地下水路。

 暁の種の光が指先を通り、銅板へ新しい線を焼きつけた。

 線は七つの手形の下をくぐり、石門の脇にある小さな穴へ続いた。

 ピピが穴へ腕を入れる。

「何かある」

 かちり。

 門の横に、清掃人用の小扉が開いた。

 大人一人が這えるほどの幅しかない。

 八人は顔を見合わせた。

「最初の王も、掃除はしたんだな」とスリュオ。

 彼らは一列になり、泥だらけで小扉をくぐった。

 最後にリナが出ると、背後で地下への道が閉じた。

 父の銅板からも、古い道は消えていた。

 残ったのは、新しく描かれた一本だけ。

 七人が入り、八人で帰った道。

十 朝の町

 ベルニカへ戻ったとき、三日目の朝日が昇ろうとしていた。

 中央広場には町の人々と、公爵の役人たちが集まっていた。家財を荷車へ積む者、泣く子ども、最後まで抗議する漁師たち。

 町長は赤い封蝋のついた命令書を握り、灰冠公爵の代官は懐中時計を見ていた。

「日没まで待つ約束では?」町長が言う。

「公爵領の時計では、すでに差し押さえ時刻だ」代官は答えた。

「太陽より偉い時計があるか!」

「公爵家の時計だ」

 そのとき、枯れ噴水の底が開いた。

 最初にピピの頭が出た。

「ただいま。役場の地図、ちょっと濡れた」

 次にレイザ、ナナイ、セオ、トーラ、スリュオが這い出る。

 最後にリナがチタクを支えて現れると、広場が静まり返った。

 三年前に消えた地図師が、生きて帰ってきた。

 リナは背負い袋から羊皮紙を取り出し、町長へ渡した。

「第一王の自由状。ベルニカは、どの領主にも取り上げられない」

 代官が鼻で笑った。

「古文書一枚で、公爵の命令を覆せると?」

 セオが進み出た。

 普段なら父の前で小さくなる彼が、その朝だけは背筋を伸ばしていた。

「王印、証人印、永久自治条項。現行の王国法典、第七巻三十二条により有効です。偽造を疑うなら、王都法廷で争ってください」

「子どもが法を語るな」

「町長補佐見習いです」

「初耳だぞ」と町長。

「今、任命して」

 町長は一瞬考え、広場じゅうに聞こえる声で言った。

「任命する!」

 代官の顔が灰色になった。

 その背後で、東の空から朝日が昇った。

 光はベルニカの屋根を一つずつ照らし、赤い封蝋を輝かせる。

 すると、すべての封蝋にひびが入った。

 ぱき、ぱき、と町じゅうで音がして、赤い印が扉から落ちた。

 リナの袋の中で、暁の種が静かに光っていた。

 町の人々は最初、何が起きたのか分からなかった。

 次に誰かが笑い、誰かが叫び、鐘つきが鐘楼へ駆け上がった。

 ベルニカの鐘が、朝の海へ鳴り渡る。

 代官たちは、落ちた封蝋を踏みながら逃げるように去っていった。

 町は救われた。

 黄金の山を持ち帰ったわけではない。

 スリュオの靴の中から金貨が一枚、ピピの耳の裏から宝石が二つ出てきたが、それは本人たちの「偶然」という主張を尊重して、パン屋の屋根と町役場の窓の修理代に使われた。

 暁の種は、地図工房の地下に新しく作った石室へ納められた。七つの小さな鏡を町の職人たちが磨き、七人が交代で見張りをした。

 ただし、誰も一人では地下へ行かなかった。

 夜空に星が少なく見える日は、町じゅうの窓に明かりが灯された。

 灯りは影を作る。

 けれど、ひとつの影のそばに別の影があり、そのそばにまた別の影があれば、闇はそれほど広くなれない。

終章 地図の余白

 半年後、地図工房の看板は新しくなった。

 〈カルド父娘地図店――迷子、失せ物、失われた王道、帰宅経路〉

 その下に、ピピが勝手に小さく書き足した。

 〈鍵も開けます。たぶん合法〉

 チタクの脚は完全には治らなかったが、杖をつけば歩けるようになった。彼は机に向かい、三年間の空白を埋めるように地図を描いた。

 リナは、あの銅板を壁に掛けていた。

 古い地下道は消え、一本の帰り道だけが残っている。

 道の脇には、七つの小さな印があった。

 パン。

 歯車。

 本。

 竪琴。

 矢。

 つるはし。

 そして羅針盤。

 ある夕方、七人は工房の屋根に座って海を見ていた。

「次は、もっと普通の宝探しがいい」とセオが言った。

「普通って?」ナナイが聞く。

「呪われていない。空が裂けない。塔が崩れない」

「金はある?」スリュオ。

「そこはあってもいい」

 レイザが西の水平線を指した。

 霧の向こうに、見たことのない島影が浮かんでいる。夕日に照らされ、巨大な獣の背中のように見えた。

 リナは新しい紙を広げた。

「父さんの地図にはない島だ」

 トーラが礼儀を肩に担ぐ。

「行くのか?」

 リナは仲間たちの顔を見た。

 怖いものを知った顔。

 それでも遠くを見たくてたまらない顔。

「まず、帰り道から描こう」

 七人は笑った。

 夜が来て、最初の星が灯った。

 誰も数えなかった。

 ただ、互いの名を呼んだ。