『星屑スープと午後三時の魔王』
午後三時十七分、柚木ましろは校舎裏で魔王を拾った。
正確には、植え込みから突き出していた二本の黒い角を見つけ、その根元にいた少女を引っぱり出した。
「うう……世界が白い……」
「しっかりして。保健室、行ける?」
「保健室では駄目だ。あそこには体温計しかない。いま我に必要なのは、糖と脂と、できれば出汁だ」
少女は同じ一年生の宵町ねねだった。
小柄で、黒髪は肩のあたりでふわふわ跳ねている。普段は目立たない子なのだが、今日は額から子ヤギのような角が生えていた。しかも角の先に、購買の半額シールが一枚ずつ貼りついている。
「魔王って、おなかが空くと倒れるんだ」
「魔王ではない。次期・宵闇大公である。まだ見習いだ」
「じゃあ、見習いがおなか空くと倒れるんだ」
「言い直しても威厳は戻らぬぞ」
ましろは鞄から、小さな包みを取り出した。
今朝焼いた、蜂蜜入りの丸パンだった。昼休みに食べそびれた最後の一個で、表面には白ごまが散っている。
「これ、食べる?」
「毒見は?」
「私が半分食べようか」
「いや、民の善意を疑うのは支配者としてよくない。いただこう」
ねねは両手でパンを受け取ると、ほとんど祈るような顔をしてかぶりついた。
ふかり、とパンがつぶれる。
焼いた蜂蜜の香りが、梅雨明け前の湿った風に混じった。ねねは三回噛み、目を閉じ、細い肩から長い息を吐いた。
「はぁぁ……」
その吐息が、淡い紫色の光になった。
光はくるくると渦を巻き、ねねの角へ吸い込まれる。すると角の根元に、小さな星形の印がひとつ灯った。
ましろが瞬きをしていると、背後から明るい声がした。
「マシロ。そのパン、犯罪的にいい匂いです」
振り向くと、アイノ・ラウタが立っていた。
フィンランドから来た留学生で、ましろの隣の席。背が高く、灰色がかった金髪をいつも一本の三つ編みにしている。日本語は上手なのに、ときどき単語の選び方が物騒だった。
「犯罪じゃないよ」
「では合法的に一口ください」
「もうない」
「悲しい法律です」
アイノは残念そうに眉を下げ、それからねねの角を見た。
「ムディム。頭にヤギが途中まで生えています」
「これは高貴なる血統の証だ!」
「半額シールも?」
「これは事故だ!」
ねねは勢いよく立ち上がった。立ちくらみで少し揺れたが、何事もなかったように胸を張る。
「よくぞ聞いた、異国の勇者よ。柚木ましろ、およびアイノ・ラウタ。汝らを我が世界征服計画の幹部に任命する」
「私はパンを一個あげただけなんだけど」
「私はまだ何ももらっていません」
「そこは誇るところではない」
ねねは角の星印を指した。
「我が一族は代々、人々の“満ち足りた吐息”を集め、夜の魔力へ変えてきた。しかし祖母の代で商売に失敗し、先祖伝来の魔窯と領地を失った」
「領地?」と、ましろ。
「駅前商店街の外れにある、元喫茶店だ」
「ずいぶん具体的な領地ですね」と、アイノ。
「笑うな。固定資産税がかかる立派な領地だ。今月中に百個の満ち足りた吐息を集めなければ、魔窯は永久にただの寸胴鍋となり、我が家の闇の血は絶える」
ましろは、角に灯った星を見た。
「さっきので、一個?」
「うむ。残り九十九」
「今月って、あと三日です」
アイノがスマートフォンの画面を見せる。
六月二十七日、木曜日。
ねねは空を仰いだ。
「だから校舎裏で倒れていたのだ」
「計画性がなくて?」
「空腹で!」
駅前の月舟商店街は、海からの風がよく通る。
昔は漁港帰りの人で夜までにぎわったそうだが、今は半分ほどの店が早く閉まる。アーケードの屋根には塩気で白くなった風鈴が並び、風が吹くたび、少し眠そうな音を立てていた。
ねねの“領地”は、そのいちばん奥にあった。
木枠のガラス戸。褪せた紺色のひさし。看板には『喫茶 よいまち』とある。
中には丸いテーブルが四つと、赤いビニール張りの椅子。壁の時計は二時四十八分で止まり、カウンターの奥には、普通の寸胴鍋より一回り大きな黒い鍋が鎮座していた。
鍋の側面には、月と星と、泣いている玉ねぎの模様が彫られている。
「これが魔窯?」
「正式名称は『百夜満腹天蓋窯』だ」
「寸胴鍋に見えます」
アイノが蓋を持ち上げる。中から、ふわっと埃が舞った。
「咳をする寸胴鍋です」
「長く眠っておったからな」
「最後に使ったの、いつ?」
「十年前。祖母が腰を痛めて店を閉めた日だ」
ねねの声が少しだけ小さくなる。
ましろはカウンターを指でなぞった。埃の下から、よく磨かれた木目が現れた。店は古いけれど、乱雑ではない。壁には常連客らしい人々の写真が何枚も飾られている。コーヒーカップを掲げる魚屋のおじさん。制服姿の高校生。赤ん坊を抱く若い夫婦。
中央の写真には、今よりずっと幼いねねがいた。
ねねを抱いている白髪の女性は、額に立派な角を生やし、エプロン姿で笑っている。
「おばあちゃん?」
「うむ。先代・宵闇大公にして、この店の店主だ」
「強そうです」
「プリンを一日二個食べる者には容赦がなかった」
「そこだけ聞くと健康に厳しい人だね」
ねねは黒い鍋を撫でた。
「祖母は言っていた。腹の底から出る、安心した息ほど良質な魔力はない、と。だが我には料理の才がない」
「どれくらい?」
「目玉焼きを作ろうとして、フライパンから雛が生まれた」
「魔法としてはすごいです」
「朝から育児になった」
ましろは思わず笑った。
それから、店の奥の小さな台所を見た。古いが大きなガス台、深い流し、吊り下げられた銅鍋。棚には欠けた皿が整然と重ねられている。
そこに立った瞬間、胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
ましろの母は料理人で、今は遠くの街のホテルで働いている。小学生のころまでは、よく二人で台所に立った。玉ねぎを切る係、味見をする係、焦げそうな鍋を見張る係。
母が家を出てから、ましろは一人で料理を作るようになった。
一人分の味噌汁は、すぐ冷める。
だから誰かに食べてもらうのは、嫌いではなかった。
「百個、集められるかもしれない」
ましろが言うと、ねねとアイノが同時に振り向いた。
「明後日、商店街の星待ち祭りだよね。空き店舗で一日だけ店を出せるって、学校の掲示板に書いてあった」
「しかし、我には料理の才が」
「私が作るよ」
「マシロ、料理できますか?」
「普通くらい」
アイノは真顔で首を振った。
「うそです。マシロの卵焼きは、私の人生の上位五位です」
「人生まだ十六年でしょ」
「だから競争が激しいです」
ねねの角に灯った星が、ぴかりと明るくなった。
「では決まりだ。我ら三人で祭りの夜、九十九人を屈服させる!」
「満足させる、じゃない?」
「結果として膝をつけば同じだ」
「食後すぐ膝をつく人は、たぶん具合が悪いです」
翌日の放課後、三人は試作を始めた。
献立はスープにした。
祭りの日は夕方から雨になる予報で、商店街には年配の客も多い。片手で持てる紙カップに、温かいものを入れれば食べてもらいやすい。
「問題は、何のスープにするかだね」
ましろがノートを開く。
「世界征服にふさわしい、漆黒の液体がよい」
「イカ墨?」
「歯が黒くなります。初対面の人に笑われます」
「では血のように赤いものを」
「トマト?」
「急に健康的だな」
アイノは店の冷蔵庫に持ち込んだ食材を並べた。
鮭、じゃがいも、玉ねぎ、にんじん、牛乳。小さな瓶に入ったディル。
「私の家では、寒い日に鮭のスープを食べます。白くて、やさしくて、でも、ちゃんとおなかに残ります」
「作ったことある?」
「食べたことは百回あります」
「作ったことは?」
「母の背中を百回見ました」
「つまり?」
「自信は霧の中です」
それでも三人で作ってみることにした。
玉ねぎを薄く切り、鍋にバターを落とす。火が入ると、乳の甘い匂いが立ち上がった。玉ねぎは最初、しゃりしゃりと抵抗したが、木べらで混ぜるうちに透き通り、角が丸くなっていく。
じゃがいもとにんじんを加え、水を注ぐ。
煮立つまでのあいだ、ねねは魔窯の前に立ち、両手を広げた。
「目覚めよ、百夜満腹天蓋窯! 我が命に従い、煮えよ!」
ごぼっ。
鍋から大きな泡がひとつ出た。
「返事しました」
「まだ普通に沸騰しただけだよ」
「魔法には雰囲気も大切なのだ」
鮭を入れ、牛乳を加える。白い液面に桃色の身と緑のディルが浮き、雪の野原に小さな花が咲いたようになった。
ましろは塩を少しずつ入れた。
「アイノ、味見して」
アイノは匙を受け取り、息を吹きかけてから口に含んだ。
しばらく黙っている。
「どう?」
「おいしいです」
「でも、って顔だね」
「……家の味とは違います」
その言葉が落ちると、古い店の中が、急に広くなったように感じた。
アイノは慌てて続ける。
「悪い意味ではありません。マシロの味です。やわらかくて、きれいです。でも私の家のは、もっと胡椒が強くて、じゃがいもが少し崩れて、父が毎回パンを落として、母が怒ります」
「お父さん、毎回落とすの?」
「毎回です。たぶん家族行事です」
アイノは笑ったが、その笑顔は端のほうが薄かった。
ましろは、彼女がフィンランドの話をするとき、いつも天気から話し始めることを思い出した。雪の色。湖の氷。夜の長さ。
人の話は、いちばん言いたいことを避けるとき、遠くから始まる。
「寂しい?」
ましろが訊くと、アイノは匙を鍋へ戻した。
「留学したいと言ったのは私です。日本に来られて、毎日おもしろいです。寂しいと言ったら、欲張りになります」
「両方でいいんじゃないかな」
「両方?」
「ここが楽しくて、家にも帰りたい。おなかがいっぱいで、デザートも食べたい。そういうの、普通だよ」
ねねが深くうなずいた。
「うむ。善と悪も腹八分目と満腹も、共存しうる」
「ねねはたぶん食べすぎ」
「魔族の胃を人間の基準で測るな」
アイノは、ほんの少し肩の力を抜いた。
「では私は、欲張りになります」
「うん」
「家のスープも、マシロのスープも、おかわりします」
「それは材料と相談してね」
ましろはもう一度、鍋の味を見た。
おいしい。けれど、祭りで売るには何か足りない。
この街で食べる理由が、まだなかった。
棚を探していたねねが、小さな缶を見つけた。蓋には祖母の字で『星塩』と書いてある。
「先代の秘薬だ」
開けると、中身は大粒の塩だった。ところどころ、雲母のようにきらきら光っている。
「海水を満月の夜に干し、流れ星が見えた回数だけ混ぜる。この街の古い塩だ」
「食べられる?」
「賞味期限は魔界暦で書いてあるゆえ、判読不能だ」
「やめよう」
三人は声を揃えた。
結局、向かいの乾物屋で売っていた新しい海塩を買い、ほんの少し加えた。
さらに、ましろは地元の甘い麦味噌を小さじ一杯だけ溶いた。
白いスープの輪郭が、ふっと深くなった。
鮭の脂、牛乳の丸み、味噌の香ばしさ。最後にディルが鼻へ抜ける。遠い国の冬と、海辺の商店街の夕方が、ひとつの匙の上で隣り合った。
アイノは目を見開いた。
「知っている味と、知らない味がします」
「変かな」
「いいえ。新しい家の味みたいです」
その瞬間、アイノの口から白金色の吐息がこぼれた。
魔窯が低く鳴り、ねねの角に二つ目の星が灯る。
「二個目!」
「九十九人ではなく、あと九十八人です」
「先は長いな……」
三人は鍋を囲み、試作のスープをお椀によそった。
ねねは一口飲み、椅子の背にもたれた。
「はぁぁぁ……」
三つ目の星が灯った。
「身内でも数えるんだ」
「魔法は公平なのだ」
ましろも飲んだ。
温かさが舌から喉へ、胸へ、胃へ落ちていく。自分で作った味なのに、一人で食べるときとは違った。
向かいに誰かがいて、同じ湯気の向こうで笑っている。
それだけで、料理は少しだけ別のものになる。
「はぁ……」
四つ目の星が灯った。
星待ち祭りの土曜日。
夕方から、商店街には青と銀の短冊が飾られた。アーケードの天井には紙の星が吊られ、魚屋は星形のはんぺんを売り、文房具屋はなぜか光る消しゴムを売っていた。
喫茶よいまちの前には、三人で書いた看板を立てた。
『一夜かぎり 星屑スープ
――遠い冬と、この町の海を一杯に。』
その下に、ねねが勝手に書き足している。
『飲め。さもなくば世界征服。』
「脅迫になってるよ」
「宣伝には強い言葉が必要だ」
「では“おかわり歓迎”にしましょう」
「それも強い言葉です」
アイノが書き直した。
ましろは白いエプロン、アイノは青いエプロン。ねねは祖母の黒いエプロンをつけ、頭の角には紙の星飾りを巻いていた。
午後五時、最初の客が来た。
向かいの乾物屋のおばあさんだった。
「ねねちゃんが店を開けるっていうから、幽霊でも出るのかと思ったよ」
「幽霊より恐ろしい次期大公である」
「はいはい。じゃあ一杯ちょうだい」
紙カップにスープを注ぐ。
白い湯気が立ち、鮭とじゃがいもがごろりと顔を出す。最後に刻んだ青ねぎを少し散らした。ディルだけでは苦手な人もいるため、この町の香りを足したのだ。
おばあさんは店先の椅子に座り、ゆっくり飲んだ。
「へえ。変わった味だねえ。でも、落ち着く」
はぁ、と吐いた息が黄色い光になり、ねねの角へ飛ぶ。
「五個目!」
ねねが叫んだので、おばあさんは目を丸くした。
「ポイントカードかい?」
「似たようなものだ」
「百個で何がもらえるの」
「一族の存続」
「景品が重いねえ」
おばあさんは笑い、乾物屋へ戻ると、隣近所に声をかけてくれた。
そこから客が少しずつ増えた。
部活帰りの中学生。浴衣姿の親子。仕事を終えた魚屋。毎朝同じベンチに座る犬連れの男性。スープを飲むたび、人々の息は赤や青や金色の小さな光になり、ねねの角へ吸い込まれた。
二十。
三十五。
五十一。
ねねの角には、夜空のように星が増えていく。
「順調だね」
「このままなら日没前に世界は我が手に!」
「閉店は八時です」
「営業時間内に収めるのが現代の魔王です」
アイノは手際よくパンを切り分け、ましろは鍋を混ぜ続けた。
スープは煮込むほどじゃがいもの角が溶け、少しずつとろみを増す。鮭の身は匙で触れるだけでほぐれ、白い汁に桃色の筋を引いた。
六時半、客は八十人を超えた。
だがそのころ、空が急に暗くなった。
遠くで雷が鳴る。
予報より早く、海から黒い雲が押し寄せてきた。
「雨、来ます」
アイノが言った直後、アーケードの屋根を大粒の雨が叩いた。
祭りの人々が一斉に走り出す。店先の商品にはビニールがかけられ、紙の星は風に煽られた。
そして雷が、白く瞬いた。
商店街の明かりが全部消えた。
冷蔵庫の音も、祭りの音楽も止まる。
暗闇の中で、誰かの子どもが泣き出した。
「停電……」
ましろはガス台を確認した。安全装置が働いたのか、火が消えている。再点火を試しても反応がない。
鍋には、あと二十杯分ほどのスープが残っていた。
ねねの角の星は八十七。
「十三、足りない」
外では雨脚が強くなっている。客は帰れず、暗いアーケードの下で不安そうに立ち尽くしていた。
ねねが魔窯の前に膝をついた。
「魔窯は火がなければ動かぬ。電気が戻るまで待つしか……」
「冷めちゃう」
ましろは鍋の側面に触れた。まだ熱いが、この雨と風ではすぐ温度が下がる。
アイノが静かに言った。
「ムディム。あなたは魔王です」
「見習いだ」
「闇を使えませんか」
「闇は冷たい。火の代わりにはならぬ」
「でも、ねねのおばあちゃんは、この鍋で人の吐息を魔力にしていたんだよね」
ましろは角の星を見た。
「八十七人分の、安心した気持ちがある。冷たいだけじゃないと思う」
「しかし我には、祖母のような力は」
「目玉焼きから雛を生めるじゃん」
「それは失敗だ!」
「失敗でも、何かを温めて生まれさせたんでしょ」
ねねは黙った。
暗闇の中で、角の星だけが明滅している。
店の外から、乾物屋のおばあさんの声がした。
「ねねちゃん、何か手伝えるかい?」
魚屋のおじさんも続ける。
「ランタンならあるぞ」
「うち、紙コップ追加で持ってくる!」
「子どもたち、店の中に入れていい?」
雨音の向こうから、いくつもの声が届いた。
ねねは立ち上がった。
黒いエプロンの裾を払い、魔窯の前で両手を広げる。
「よかろう」
いつもの大げさな声だったが、ほんの少し震えていた。
「我が民よ、恐れるな。今宵、この宵町ねねが、闇に温もりを命ずる!」
「民になった覚えはないけど、がんばれ!」
魚屋のおじさんが笑う。
ねねは目を閉じた。
角の星が一斉に輝いた。
紫、金、青、白。八十七個の光がほどけ、細い糸になって鍋へ流れ込む。
魔窯の月の模様が淡く浮かび上がった。
ごう、と音がする。
炎ではない。
鍋の下から、黒い影が立ちのぼった。夜そのものを薄い布にして重ねたような影。その中に、星の粒が散っている。
影は冷たく見えたのに、近づくと、日向に置いた毛布のように温かかった。
スープが再び、ことこと鳴り始める。
「成功です!」
「まだだ!」
ねねは歯を食いしばった。角の星が一つずつ消え、そのたびに影の火が揺らぐ。
「魔力が足りぬ。八十七では、長くもたない」
「じゃあ、残りの人に今すぐ飲んでもらおう」
ましろとアイノはスープをよそった。
ランタンが持ち込まれ、店内に人が集まる。暗い外から入ってきた客たちは、両手で温かいカップを包んだ。
九十。
九十三。
九十六。
吐息が光になり、消えかけた影の火へ戻っていく。
最後の鍋底をさらうと、残ったのは一杯分だけだった。
ねねの角の星は九十九。
「あと一つ」
ましろは最後のカップを見た。
客はもう全員、受け取っている。
ねねは魔法を維持するので精一杯。ましろとアイノは忙しくて、まだ何も食べていなかった。
「二人で飲んで」と、ましろはカップを差し出した。
「マシロも食べていません」
「私は味見したから」
「味見は食事ではありません。料理する人がよく使う危険な言い訳です」
「でも、ねねも限界だよ」
「我は魔王だ。空腹程度で――」
ねねの腹が、立派な低音で鳴った。
「……これは遠雷だ」
「店内です」
三人は最後の一杯を囲んだ。
カップ一つ。匙は三本。
ましろが鮭を一切れすくって、ねねの口元へ運ぶ。
「魔王から」
「見習いだが、いただこう」
ねねは食べた。
アイノがじゃがいもをすくい、ましろへ差し出す。
「料理人は最後に食べる権利があります」
「ありがとう」
ましろは、やわらかく崩れたじゃがいもを食べた。味噌と牛乳を吸って、舌の上でほどける。
最後に残った一匙を、ねねとましろがアイノへ譲った。
「私は大きいから、二人より我慢できます」
「背の高さと空腹は関係ないよ」
「異国の勇者よ。ここは受け取れ。臣下を飢えさせぬのが支配者の務めだ」
アイノは二人の顔を見た。
それから、匙を口へ運んだ。
ゆっくり噛み、飲み込む。
暗い店の中で、ランタンの光が彼女の瞳に揺れた。
「家のスープではありません」
アイノが言う。
「うん」
「でも、家で食べたい味です」
彼女は笑った。
「私、来年の春に帰るのが、少し怖いです。ここを好きになりすぎました」
ましろの胸が、きゅっと縮んだ。
留学には終わりがある。
知っていたのに、日々が楽しくなるほど、知らないふりをしていた。
「帰っても、なくならないよ」
「何がですか」
「ここで食べた味も、話したことも。あと、帰る場所って、一個じゃなくていいと思う」
「欲張りで?」
「うん。欲張りで」
ねねが、かすれた声で宣言した。
「我が領地は、異国からの帰還者を拒まぬ。入国審査は、手土産の菓子で簡略化される」
「賄賂です」
「外交だ」
アイノは笑いながら、長く息を吐いた。
「はぁぁ……」
白金色の光が生まれた。
それは今までのどの吐息よりも大きく、丸く、柔らかかった。
光がねねの角へ吸い込まれる。
百個目の星が灯った。
次の瞬間、魔窯が鐘のような音を立てた。
黒い影の火が天井まで舞い上がり、無数の小さな星となって店の外へ飛び出していく。
星々はアーケードの下を泳ぎ、停電した電灯の代わりに淡く輝いた。紙の飾りも、濡れた石畳も、驚いて空を見上げる人々の顔も、夜色の光に照らされる。
泣いていた子どもが、笑った。
雨はまだ降っている。
けれど商店街の中だけ、星空が逆さまに降りてきたようだった。
「ねね、成功だよ!」
「当然だ……我を誰だと……」
ねねは言い終える前に、ましろの肩へ倒れ込んだ。
「ねね?」
「空腹だ」
「魔力じゃなくて?」
「両方だ」
アイノが空になった鍋をのぞく。
「緊急事態です。食べ物がありません」
すると店の外から声が上がった。
「うちのコロッケ持ってこい!」
「焼きそば余ってるよ!」
「おにぎりもある!」
「プリンなら冷蔵庫が止まる前に食べたほうがいい!」
五分後、喫茶よいまちのテーブルは、商店街じゅうの食べ物でいっぱいになった。
コロッケ、焼きそば、塩むすび、星形はんぺん、きゅうりの一本漬け、少し溶けかけたプリン。
ねねはコロッケを両手で持ち、涙ぐんだ。
「世界征服とは、かくも温かいものだったのか」
「たぶん違うよ」
「でも、悪くないです」
三人は笑い、同じテーブルで遅い夕食を食べた。
外の雨音は、いつの間にか小さくなっていた。
翌朝、停電は復旧した。
魔窯はただの寸胴鍋にはならず、側面の月と星が、洗っても消えない銀色に輝くようになった。
ねねの角は引っ込んだが、午後三時を過ぎて空腹になると、今でも少しだけ先端が出る。
祭りから一週間後。
喫茶よいまちのガラス戸には、新しい紙が貼られた。
『毎週日曜日だけ営業
星月キッチン
店主見習い三名』
その下に、小さく注意書きがある。
『満足すると、光る吐息が出る場合があります。健康上の問題はありません。』
最初の日曜日、ましろは台所でパンを焼き、アイノは故郷の菓子の作り方を母から教わり、ねねはレジの前で仁王立ちしていた。
「客よ、よく来たな。代金を置き、好きな席へつくがよい」
「接客を柔らかくして」と、ましろ。
「いらっしゃいませ。代金を捧げよ」
「後半が同じです」と、アイノ。
店の扉が開き、海風と一緒に最初の客が入ってくる。
黒い鍋の中では、鮭とじゃがいもの白いスープが静かに煮えていた。今日は味噌の代わりに、少しだけ醤油を使っている。来週はトマト、その次は豆と鶏肉。そのうち、アイノの母から届いたレシピで菓子も焼くつもりだ。
同じ味を守ることもできる。
違う味を足して、新しい味にすることもできる。
どちらも、帰る場所を作る方法なのだと、ましろは思う。
「三人とも、味見する?」
ましろが小さなカップを並べる。
「当然だ。支配者には毒見の義務がある」
「私は合法的に二杯ほしいです」
「一杯ずつだよ」
三人は湯気の向こうで顔を見合わせ、同時にスープを飲んだ。
やさしい塩気と、鮭のうまみ。とろりとしたじゃがいも。最後に、海辺の朝のような青ねぎの香り。
「はぁ……」
三つの吐息が重なって、小さな星になった。
星は店の天井を一周し、止まった時計の針を、こつんと押した。
二時四十八分で眠っていた針が動き出す。
かちり。
かちり。
新しい時間を刻む音が、温かな店の中に響いた。
了