『星屑スープと午後三時の魔王』

 午後三時十七分、柚木ましろは校舎裏で魔王を拾った。

 正確には、植え込みから突き出していた二本の黒い角を見つけ、その根元にいた少女を引っぱり出した。

「うう……世界が白い……」

「しっかりして。保健室、行ける?」

「保健室では駄目だ。あそこには体温計しかない。いま我に必要なのは、糖と脂と、できれば出汁だ」

 少女は同じ一年生の宵町ねねだった。

 小柄で、黒髪は肩のあたりでふわふわ跳ねている。普段は目立たない子なのだが、今日は額から子ヤギのような角が生えていた。しかも角の先に、購買の半額シールが一枚ずつ貼りついている。

「魔王って、おなかが空くと倒れるんだ」

「魔王ではない。次期・宵闇大公である。まだ見習いだ」

「じゃあ、見習いがおなか空くと倒れるんだ」

「言い直しても威厳は戻らぬぞ」

 ましろは鞄から、小さな包みを取り出した。

 今朝焼いた、蜂蜜入りの丸パンだった。昼休みに食べそびれた最後の一個で、表面には白ごまが散っている。

「これ、食べる?」

「毒見は?」

「私が半分食べようか」

「いや、民の善意を疑うのは支配者としてよくない。いただこう」

 ねねは両手でパンを受け取ると、ほとんど祈るような顔をしてかぶりついた。

 ふかり、とパンがつぶれる。

 焼いた蜂蜜の香りが、梅雨明け前の湿った風に混じった。ねねは三回噛み、目を閉じ、細い肩から長い息を吐いた。

「はぁぁ……」

 その吐息が、淡い紫色の光になった。

 光はくるくると渦を巻き、ねねの角へ吸い込まれる。すると角の根元に、小さな星形の印がひとつ灯った。

 ましろが瞬きをしていると、背後から明るい声がした。

「マシロ。そのパン、犯罪的にいい匂いです」

 振り向くと、アイノ・ラウタが立っていた。

 フィンランドから来た留学生で、ましろの隣の席。背が高く、灰色がかった金髪をいつも一本の三つ編みにしている。日本語は上手なのに、ときどき単語の選び方が物騒だった。

「犯罪じゃないよ」

「では合法的に一口ください」

「もうない」

「悲しい法律です」

 アイノは残念そうに眉を下げ、それからねねの角を見た。

「ムディム。頭にヤギが途中まで生えています」

「これは高貴なる血統の証だ!」

「半額シールも?」

「これは事故だ!」

 ねねは勢いよく立ち上がった。立ちくらみで少し揺れたが、何事もなかったように胸を張る。

「よくぞ聞いた、異国の勇者よ。柚木ましろ、およびアイノ・ラウタ。汝らを我が世界征服計画の幹部に任命する」

「私はパンを一個あげただけなんだけど」

「私はまだ何ももらっていません」

「そこは誇るところではない」

 ねねは角の星印を指した。

「我が一族は代々、人々の“満ち足りた吐息”を集め、夜の魔力へ変えてきた。しかし祖母の代で商売に失敗し、先祖伝来の魔窯と領地を失った」

「領地?」と、ましろ。

「駅前商店街の外れにある、元喫茶店だ」

「ずいぶん具体的な領地ですね」と、アイノ。

「笑うな。固定資産税がかかる立派な領地だ。今月中に百個の満ち足りた吐息を集めなければ、魔窯は永久にただの寸胴鍋となり、我が家の闇の血は絶える」

 ましろは、角に灯った星を見た。

「さっきので、一個?」

「うむ。残り九十九」

「今月って、あと三日です」

 アイノがスマートフォンの画面を見せる。

 六月二十七日、木曜日。

 ねねは空を仰いだ。

「だから校舎裏で倒れていたのだ」

「計画性がなくて?」

「空腹で!」

 駅前の月舟商店街は、海からの風がよく通る。

 昔は漁港帰りの人で夜までにぎわったそうだが、今は半分ほどの店が早く閉まる。アーケードの屋根には塩気で白くなった風鈴が並び、風が吹くたび、少し眠そうな音を立てていた。

 ねねの“領地”は、そのいちばん奥にあった。

 木枠のガラス戸。褪せた紺色のひさし。看板には『喫茶 よいまち』とある。

 中には丸いテーブルが四つと、赤いビニール張りの椅子。壁の時計は二時四十八分で止まり、カウンターの奥には、普通の寸胴鍋より一回り大きな黒い鍋が鎮座していた。

 鍋の側面には、月と星と、泣いている玉ねぎの模様が彫られている。

「これが魔窯?」

「正式名称は『百夜満腹天蓋窯』だ」

「寸胴鍋に見えます」

 アイノが蓋を持ち上げる。中から、ふわっと埃が舞った。

「咳をする寸胴鍋です」

「長く眠っておったからな」

「最後に使ったの、いつ?」

「十年前。祖母が腰を痛めて店を閉めた日だ」

 ねねの声が少しだけ小さくなる。

 ましろはカウンターを指でなぞった。埃の下から、よく磨かれた木目が現れた。店は古いけれど、乱雑ではない。壁には常連客らしい人々の写真が何枚も飾られている。コーヒーカップを掲げる魚屋のおじさん。制服姿の高校生。赤ん坊を抱く若い夫婦。

 中央の写真には、今よりずっと幼いねねがいた。

 ねねを抱いている白髪の女性は、額に立派な角を生やし、エプロン姿で笑っている。

「おばあちゃん?」

「うむ。先代・宵闇大公にして、この店の店主だ」

「強そうです」

「プリンを一日二個食べる者には容赦がなかった」

「そこだけ聞くと健康に厳しい人だね」

 ねねは黒い鍋を撫でた。

「祖母は言っていた。腹の底から出る、安心した息ほど良質な魔力はない、と。だが我には料理の才がない」

「どれくらい?」

「目玉焼きを作ろうとして、フライパンから雛が生まれた」

「魔法としてはすごいです」

「朝から育児になった」

 ましろは思わず笑った。

 それから、店の奥の小さな台所を見た。古いが大きなガス台、深い流し、吊り下げられた銅鍋。棚には欠けた皿が整然と重ねられている。

 そこに立った瞬間、胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。

 ましろの母は料理人で、今は遠くの街のホテルで働いている。小学生のころまでは、よく二人で台所に立った。玉ねぎを切る係、味見をする係、焦げそうな鍋を見張る係。

 母が家を出てから、ましろは一人で料理を作るようになった。

 一人分の味噌汁は、すぐ冷める。

 だから誰かに食べてもらうのは、嫌いではなかった。

「百個、集められるかもしれない」

 ましろが言うと、ねねとアイノが同時に振り向いた。

「明後日、商店街の星待ち祭りだよね。空き店舗で一日だけ店を出せるって、学校の掲示板に書いてあった」

「しかし、我には料理の才が」

「私が作るよ」

「マシロ、料理できますか?」

「普通くらい」

 アイノは真顔で首を振った。

「うそです。マシロの卵焼きは、私の人生の上位五位です」

「人生まだ十六年でしょ」

「だから競争が激しいです」

 ねねの角に灯った星が、ぴかりと明るくなった。

「では決まりだ。我ら三人で祭りの夜、九十九人を屈服させる!」

「満足させる、じゃない?」

「結果として膝をつけば同じだ」

「食後すぐ膝をつく人は、たぶん具合が悪いです」

 翌日の放課後、三人は試作を始めた。

 献立はスープにした。

 祭りの日は夕方から雨になる予報で、商店街には年配の客も多い。片手で持てる紙カップに、温かいものを入れれば食べてもらいやすい。

「問題は、何のスープにするかだね」

 ましろがノートを開く。

「世界征服にふさわしい、漆黒の液体がよい」

「イカ墨?」

「歯が黒くなります。初対面の人に笑われます」

「では血のように赤いものを」

「トマト?」

「急に健康的だな」

 アイノは店の冷蔵庫に持ち込んだ食材を並べた。

 鮭、じゃがいも、玉ねぎ、にんじん、牛乳。小さな瓶に入ったディル。

「私の家では、寒い日に鮭のスープを食べます。白くて、やさしくて、でも、ちゃんとおなかに残ります」

「作ったことある?」

「食べたことは百回あります」

「作ったことは?」

「母の背中を百回見ました」

「つまり?」

「自信は霧の中です」

 それでも三人で作ってみることにした。

 玉ねぎを薄く切り、鍋にバターを落とす。火が入ると、乳の甘い匂いが立ち上がった。玉ねぎは最初、しゃりしゃりと抵抗したが、木べらで混ぜるうちに透き通り、角が丸くなっていく。

 じゃがいもとにんじんを加え、水を注ぐ。

 煮立つまでのあいだ、ねねは魔窯の前に立ち、両手を広げた。

「目覚めよ、百夜満腹天蓋窯! 我が命に従い、煮えよ!」

 ごぼっ。

 鍋から大きな泡がひとつ出た。

「返事しました」

「まだ普通に沸騰しただけだよ」

「魔法には雰囲気も大切なのだ」

 鮭を入れ、牛乳を加える。白い液面に桃色の身と緑のディルが浮き、雪の野原に小さな花が咲いたようになった。

 ましろは塩を少しずつ入れた。

「アイノ、味見して」

 アイノは匙を受け取り、息を吹きかけてから口に含んだ。

 しばらく黙っている。

「どう?」

「おいしいです」

「でも、って顔だね」

「……家の味とは違います」

 その言葉が落ちると、古い店の中が、急に広くなったように感じた。

 アイノは慌てて続ける。

「悪い意味ではありません。マシロの味です。やわらかくて、きれいです。でも私の家のは、もっと胡椒が強くて、じゃがいもが少し崩れて、父が毎回パンを落として、母が怒ります」

「お父さん、毎回落とすの?」

「毎回です。たぶん家族行事です」

 アイノは笑ったが、その笑顔は端のほうが薄かった。

 ましろは、彼女がフィンランドの話をするとき、いつも天気から話し始めることを思い出した。雪の色。湖の氷。夜の長さ。

 人の話は、いちばん言いたいことを避けるとき、遠くから始まる。

「寂しい?」

 ましろが訊くと、アイノは匙を鍋へ戻した。

「留学したいと言ったのは私です。日本に来られて、毎日おもしろいです。寂しいと言ったら、欲張りになります」

「両方でいいんじゃないかな」

「両方?」

「ここが楽しくて、家にも帰りたい。おなかがいっぱいで、デザートも食べたい。そういうの、普通だよ」

 ねねが深くうなずいた。

「うむ。善と悪も腹八分目と満腹も、共存しうる」

「ねねはたぶん食べすぎ」

「魔族の胃を人間の基準で測るな」

 アイノは、ほんの少し肩の力を抜いた。

「では私は、欲張りになります」

「うん」

「家のスープも、マシロのスープも、おかわりします」

「それは材料と相談してね」

 ましろはもう一度、鍋の味を見た。

 おいしい。けれど、祭りで売るには何か足りない。

 この街で食べる理由が、まだなかった。

 棚を探していたねねが、小さな缶を見つけた。蓋には祖母の字で『星塩』と書いてある。

「先代の秘薬だ」

 開けると、中身は大粒の塩だった。ところどころ、雲母のようにきらきら光っている。

「海水を満月の夜に干し、流れ星が見えた回数だけ混ぜる。この街の古い塩だ」

「食べられる?」

「賞味期限は魔界暦で書いてあるゆえ、判読不能だ」

「やめよう」

 三人は声を揃えた。

 結局、向かいの乾物屋で売っていた新しい海塩を買い、ほんの少し加えた。

 さらに、ましろは地元の甘い麦味噌を小さじ一杯だけ溶いた。

 白いスープの輪郭が、ふっと深くなった。

 鮭の脂、牛乳の丸み、味噌の香ばしさ。最後にディルが鼻へ抜ける。遠い国の冬と、海辺の商店街の夕方が、ひとつの匙の上で隣り合った。

 アイノは目を見開いた。

「知っている味と、知らない味がします」

「変かな」

「いいえ。新しい家の味みたいです」

 その瞬間、アイノの口から白金色の吐息がこぼれた。

 魔窯が低く鳴り、ねねの角に二つ目の星が灯る。

「二個目!」

「九十九人ではなく、あと九十八人です」

「先は長いな……」

 三人は鍋を囲み、試作のスープをお椀によそった。

 ねねは一口飲み、椅子の背にもたれた。

「はぁぁぁ……」

 三つ目の星が灯った。

「身内でも数えるんだ」

「魔法は公平なのだ」

 ましろも飲んだ。

 温かさが舌から喉へ、胸へ、胃へ落ちていく。自分で作った味なのに、一人で食べるときとは違った。

 向かいに誰かがいて、同じ湯気の向こうで笑っている。

 それだけで、料理は少しだけ別のものになる。

「はぁ……」

 四つ目の星が灯った。

 星待ち祭りの土曜日。

 夕方から、商店街には青と銀の短冊が飾られた。アーケードの天井には紙の星が吊られ、魚屋は星形のはんぺんを売り、文房具屋はなぜか光る消しゴムを売っていた。

 喫茶よいまちの前には、三人で書いた看板を立てた。

『一夜かぎり 星屑スープ

 ――遠い冬と、この町の海を一杯に。』

 その下に、ねねが勝手に書き足している。

『飲め。さもなくば世界征服。』

「脅迫になってるよ」

「宣伝には強い言葉が必要だ」

「では“おかわり歓迎”にしましょう」

「それも強い言葉です」

 アイノが書き直した。

 ましろは白いエプロン、アイノは青いエプロン。ねねは祖母の黒いエプロンをつけ、頭の角には紙の星飾りを巻いていた。

 午後五時、最初の客が来た。

 向かいの乾物屋のおばあさんだった。

「ねねちゃんが店を開けるっていうから、幽霊でも出るのかと思ったよ」

「幽霊より恐ろしい次期大公である」

「はいはい。じゃあ一杯ちょうだい」

 紙カップにスープを注ぐ。

 白い湯気が立ち、鮭とじゃがいもがごろりと顔を出す。最後に刻んだ青ねぎを少し散らした。ディルだけでは苦手な人もいるため、この町の香りを足したのだ。

 おばあさんは店先の椅子に座り、ゆっくり飲んだ。

「へえ。変わった味だねえ。でも、落ち着く」

 はぁ、と吐いた息が黄色い光になり、ねねの角へ飛ぶ。

「五個目!」

 ねねが叫んだので、おばあさんは目を丸くした。

「ポイントカードかい?」

「似たようなものだ」

「百個で何がもらえるの」

「一族の存続」

「景品が重いねえ」

 おばあさんは笑い、乾物屋へ戻ると、隣近所に声をかけてくれた。

 そこから客が少しずつ増えた。

 部活帰りの中学生。浴衣姿の親子。仕事を終えた魚屋。毎朝同じベンチに座る犬連れの男性。スープを飲むたび、人々の息は赤や青や金色の小さな光になり、ねねの角へ吸い込まれた。

 二十。

 三十五。

 五十一。

 ねねの角には、夜空のように星が増えていく。

「順調だね」

「このままなら日没前に世界は我が手に!」

「閉店は八時です」

「営業時間内に収めるのが現代の魔王です」

 アイノは手際よくパンを切り分け、ましろは鍋を混ぜ続けた。

 スープは煮込むほどじゃがいもの角が溶け、少しずつとろみを増す。鮭の身は匙で触れるだけでほぐれ、白い汁に桃色の筋を引いた。

 六時半、客は八十人を超えた。

 だがそのころ、空が急に暗くなった。

 遠くで雷が鳴る。

 予報より早く、海から黒い雲が押し寄せてきた。

「雨、来ます」

 アイノが言った直後、アーケードの屋根を大粒の雨が叩いた。

 祭りの人々が一斉に走り出す。店先の商品にはビニールがかけられ、紙の星は風に煽られた。

 そして雷が、白く瞬いた。

 商店街の明かりが全部消えた。

 冷蔵庫の音も、祭りの音楽も止まる。

 暗闇の中で、誰かの子どもが泣き出した。

「停電……」

 ましろはガス台を確認した。安全装置が働いたのか、火が消えている。再点火を試しても反応がない。

 鍋には、あと二十杯分ほどのスープが残っていた。

 ねねの角の星は八十七。

「十三、足りない」

 外では雨脚が強くなっている。客は帰れず、暗いアーケードの下で不安そうに立ち尽くしていた。

 ねねが魔窯の前に膝をついた。

「魔窯は火がなければ動かぬ。電気が戻るまで待つしか……」

「冷めちゃう」

 ましろは鍋の側面に触れた。まだ熱いが、この雨と風ではすぐ温度が下がる。

 アイノが静かに言った。

「ムディム。あなたは魔王です」

「見習いだ」

「闇を使えませんか」

「闇は冷たい。火の代わりにはならぬ」

「でも、ねねのおばあちゃんは、この鍋で人の吐息を魔力にしていたんだよね」

 ましろは角の星を見た。

「八十七人分の、安心した気持ちがある。冷たいだけじゃないと思う」

「しかし我には、祖母のような力は」

「目玉焼きから雛を生めるじゃん」

「それは失敗だ!」

「失敗でも、何かを温めて生まれさせたんでしょ」

 ねねは黙った。

 暗闇の中で、角の星だけが明滅している。

 店の外から、乾物屋のおばあさんの声がした。

「ねねちゃん、何か手伝えるかい?」

 魚屋のおじさんも続ける。

「ランタンならあるぞ」

「うち、紙コップ追加で持ってくる!」

「子どもたち、店の中に入れていい?」

 雨音の向こうから、いくつもの声が届いた。

 ねねは立ち上がった。

 黒いエプロンの裾を払い、魔窯の前で両手を広げる。

「よかろう」

 いつもの大げさな声だったが、ほんの少し震えていた。

「我が民よ、恐れるな。今宵、この宵町ねねが、闇に温もりを命ずる!」

「民になった覚えはないけど、がんばれ!」

 魚屋のおじさんが笑う。

 ねねは目を閉じた。

 角の星が一斉に輝いた。

 紫、金、青、白。八十七個の光がほどけ、細い糸になって鍋へ流れ込む。

 魔窯の月の模様が淡く浮かび上がった。

 ごう、と音がする。

 炎ではない。

 鍋の下から、黒い影が立ちのぼった。夜そのものを薄い布にして重ねたような影。その中に、星の粒が散っている。

 影は冷たく見えたのに、近づくと、日向に置いた毛布のように温かかった。

 スープが再び、ことこと鳴り始める。

「成功です!」

「まだだ!」

 ねねは歯を食いしばった。角の星が一つずつ消え、そのたびに影の火が揺らぐ。

「魔力が足りぬ。八十七では、長くもたない」

「じゃあ、残りの人に今すぐ飲んでもらおう」

 ましろとアイノはスープをよそった。

 ランタンが持ち込まれ、店内に人が集まる。暗い外から入ってきた客たちは、両手で温かいカップを包んだ。

 九十。

 九十三。

 九十六。

 吐息が光になり、消えかけた影の火へ戻っていく。

 最後の鍋底をさらうと、残ったのは一杯分だけだった。

 ねねの角の星は九十九。

「あと一つ」

 ましろは最後のカップを見た。

 客はもう全員、受け取っている。

 ねねは魔法を維持するので精一杯。ましろとアイノは忙しくて、まだ何も食べていなかった。

「二人で飲んで」と、ましろはカップを差し出した。

「マシロも食べていません」

「私は味見したから」

「味見は食事ではありません。料理する人がよく使う危険な言い訳です」

「でも、ねねも限界だよ」

「我は魔王だ。空腹程度で――」

 ねねの腹が、立派な低音で鳴った。

「……これは遠雷だ」

「店内です」

 三人は最後の一杯を囲んだ。

 カップ一つ。匙は三本。

 ましろが鮭を一切れすくって、ねねの口元へ運ぶ。

「魔王から」

「見習いだが、いただこう」

 ねねは食べた。

 アイノがじゃがいもをすくい、ましろへ差し出す。

「料理人は最後に食べる権利があります」

「ありがとう」

 ましろは、やわらかく崩れたじゃがいもを食べた。味噌と牛乳を吸って、舌の上でほどける。

 最後に残った一匙を、ねねとましろがアイノへ譲った。

「私は大きいから、二人より我慢できます」

「背の高さと空腹は関係ないよ」

「異国の勇者よ。ここは受け取れ。臣下を飢えさせぬのが支配者の務めだ」

 アイノは二人の顔を見た。

 それから、匙を口へ運んだ。

 ゆっくり噛み、飲み込む。

 暗い店の中で、ランタンの光が彼女の瞳に揺れた。

「家のスープではありません」

 アイノが言う。

「うん」

「でも、家で食べたい味です」

 彼女は笑った。

「私、来年の春に帰るのが、少し怖いです。ここを好きになりすぎました」

 ましろの胸が、きゅっと縮んだ。

 留学には終わりがある。

 知っていたのに、日々が楽しくなるほど、知らないふりをしていた。

「帰っても、なくならないよ」

「何がですか」

「ここで食べた味も、話したことも。あと、帰る場所って、一個じゃなくていいと思う」

「欲張りで?」

「うん。欲張りで」

 ねねが、かすれた声で宣言した。

「我が領地は、異国からの帰還者を拒まぬ。入国審査は、手土産の菓子で簡略化される」

「賄賂です」

「外交だ」

 アイノは笑いながら、長く息を吐いた。

「はぁぁ……」

 白金色の光が生まれた。

 それは今までのどの吐息よりも大きく、丸く、柔らかかった。

 光がねねの角へ吸い込まれる。

 百個目の星が灯った。

 次の瞬間、魔窯が鐘のような音を立てた。

 黒い影の火が天井まで舞い上がり、無数の小さな星となって店の外へ飛び出していく。

 星々はアーケードの下を泳ぎ、停電した電灯の代わりに淡く輝いた。紙の飾りも、濡れた石畳も、驚いて空を見上げる人々の顔も、夜色の光に照らされる。

 泣いていた子どもが、笑った。

 雨はまだ降っている。

 けれど商店街の中だけ、星空が逆さまに降りてきたようだった。

「ねね、成功だよ!」

「当然だ……我を誰だと……」

 ねねは言い終える前に、ましろの肩へ倒れ込んだ。

「ねね?」

「空腹だ」

「魔力じゃなくて?」

「両方だ」

 アイノが空になった鍋をのぞく。

「緊急事態です。食べ物がありません」

 すると店の外から声が上がった。

「うちのコロッケ持ってこい!」

「焼きそば余ってるよ!」

「おにぎりもある!」

「プリンなら冷蔵庫が止まる前に食べたほうがいい!」

 五分後、喫茶よいまちのテーブルは、商店街じゅうの食べ物でいっぱいになった。

 コロッケ、焼きそば、塩むすび、星形はんぺん、きゅうりの一本漬け、少し溶けかけたプリン。

 ねねはコロッケを両手で持ち、涙ぐんだ。

「世界征服とは、かくも温かいものだったのか」

「たぶん違うよ」

「でも、悪くないです」

 三人は笑い、同じテーブルで遅い夕食を食べた。

 外の雨音は、いつの間にか小さくなっていた。

 翌朝、停電は復旧した。

 魔窯はただの寸胴鍋にはならず、側面の月と星が、洗っても消えない銀色に輝くようになった。

 ねねの角は引っ込んだが、午後三時を過ぎて空腹になると、今でも少しだけ先端が出る。

 祭りから一週間後。

 喫茶よいまちのガラス戸には、新しい紙が貼られた。

『毎週日曜日だけ営業

 星月キッチン

 店主見習い三名』

 その下に、小さく注意書きがある。

『満足すると、光る吐息が出る場合があります。健康上の問題はありません。』

 最初の日曜日、ましろは台所でパンを焼き、アイノは故郷の菓子の作り方を母から教わり、ねねはレジの前で仁王立ちしていた。

「客よ、よく来たな。代金を置き、好きな席へつくがよい」

「接客を柔らかくして」と、ましろ。

「いらっしゃいませ。代金を捧げよ」

「後半が同じです」と、アイノ。

 店の扉が開き、海風と一緒に最初の客が入ってくる。

 黒い鍋の中では、鮭とじゃがいもの白いスープが静かに煮えていた。今日は味噌の代わりに、少しだけ醤油を使っている。来週はトマト、その次は豆と鶏肉。そのうち、アイノの母から届いたレシピで菓子も焼くつもりだ。

 同じ味を守ることもできる。

 違う味を足して、新しい味にすることもできる。

 どちらも、帰る場所を作る方法なのだと、ましろは思う。

「三人とも、味見する?」

 ましろが小さなカップを並べる。

「当然だ。支配者には毒見の義務がある」

「私は合法的に二杯ほしいです」

「一杯ずつだよ」

 三人は湯気の向こうで顔を見合わせ、同時にスープを飲んだ。

 やさしい塩気と、鮭のうまみ。とろりとしたじゃがいも。最後に、海辺の朝のような青ねぎの香り。

「はぁ……」

 三つの吐息が重なって、小さな星になった。

 星は店の天井を一周し、止まった時計の針を、こつんと押した。

 二時四十八分で眠っていた針が動き出す。

 かちり。

 かちり。

 新しい時間を刻む音が、温かな店の中に響いた。