『星屑茶会と月喰い竜』

一 部室に竜が落ちてきた

 世界が滅びる日にも、セナ・アルトは議事録を取っていた。

 午後四時七分。

 議題一、部費で買う砂糖菓子の種類。

 議題二、部室の天井から落ちてくる星砂の掃除当番。

 議題三、本日付で当同好会を廃止するという学院長通達への対処。

「三番、順番おかしくない?」

 長机に頬をつけたリゼが言った。油で汚れた黒髪の先が、皿の蜂蜜パイに触れそうになっている。

「重要度ではなく、提出された順です」

 ロドラは真面目に答えた。こういうときに真面目に答えるから、部長なのに話の主導権を失うのだと自分でもわかっていた。

「私は苺雲糖に一票」

 窓辺で剣の手入れをしていたトヴァドが、きっぱり手を挙げる。赤い髪を短く結び、学院騎士科の制服の上から古びた肩当てをつけている。剣には熱心だが、会議にはだいたい参加していない。

「議題三を先に」

 本棚の陰から、ネフォルが顔だけ出した。青白い肌と長い耳を持つ月森族の少女で、表情は薄い。ただし膝には、どこから持ってきたのか、翼の生えた猫のぬいぐるみを抱えている。

「廃部になったら苺雲糖も買えない」

「それは困る!」

 トヴァドが剣を取り落としかけた。

 ここは王立セレネ学院、旧天文塔の最上階。

 正式名称を〈星間遺物研究兼菓子試食同好会〉という、たいへん由緒のない部活の部室である。

 もともとは星間遺物研究会と菓子文化研究会という二つの弱小団体だった。三年前、部員不足で揃って廃部になりかけたため、「昔の壺を眺めながら焼き菓子を食べれば活動目的を両立できる」という当時の生徒会長の乱暴な裁定で合併した。

 以来、彼女たちは午後になると、壊れた羅針盤や正体不明の金属板を磨き、その横でお茶を淹れ、だいたいお菓子を食べていた。

 学院長通達には、こう書いてある。

 ――過去一年、学術的成果なし。大会実績なし。校内貢献なし。部員四名のうち一名はしばしば授業中に寝ている。よって本日の日没をもって解散とする。

「最後の一文、誰のことだろうねえ」

 リゼが言いながらあくびをした。

「リゼ」

「断定が早いよ、ネフォルちゃん」

「先週、魔導機関学の授業で寝ながら小型推進器を組み立てて、教卓を爆破した」

「完成度は高かった」

「爆破した」

 ロドラは議事録に〈リゼ、反省の色なし〉と書き足した。

「学術的成果を今日中に一つ出せば、廃部を止められるかもしれません」

 そう言ったものの、窓の外では双子の太陽が西へ傾いている。日没まで、あと二時間もない。

 セレネ学院の建つ小惑星ラトナは、空に浮かぶ王国だった。

 眼下には雲の海、その向こうには巨大な環世界アステラの弧が、空を横切る銀の大河のように延びている。帆に星光を受けた交易船が、城や森を載せた小さな月々のあいだを行き交っていた。

 千年前、竜と人が星々を渡った時代の遺物が、今も各地に眠っている。

 ただしこの部室にあるのは、値札の剥がれた古瓶、使い道のわからない歯車、誰かが遠足で拾った石がほとんどだった。

「成果ならあるよ」

 リゼが机の下から、真鍮色の湯沸かし器を引っ張り出した。丸い胴に三本脚、注ぎ口は鳥のくちばしに似ている。

「古代遺物を修理した。昨日からちゃんとお湯が沸く」

「それ、倉庫の札に『壊れた薬缶』って書いてあったやつですよね」

「古代人が薬缶として使ってた可能性はある」

「年代測定は?」

「してない」

「材質分析は?」

「叩いたらいい音がした」

「学術を何だと思ってるんですか」

 リゼは胸を張った。

「好奇心と勢い」

 そのとき、空が鳴った。

 最初は遠雷のようだった。次いで窓ガラスが白く染まり、天文塔全体が大きく揺れた。

「伏せて!」

 トヴァドが叫ぶのと、天井が吹き飛ぶのが同時だった。

 銀青色の火をまとった何かが、屋根を突き破り、長机の中央へ落下した。

 蜂蜜パイが宙を舞う。

 ネフォルがぬいぐるみを抱えて机の下へ滑り込み、リゼは薬缶をかばい、ロドラはなぜか議事録を胸に抱いた。

 轟音。

 星砂と木片と粉砂糖が、雪のように降る。

 やがて煙が薄れると、机の真ん中に黒い卵があった。

 大きさは林檎ほど。表面を走る銀の線が、夜空の星座のように明滅している。

「成果」

 リゼが言った。

「早い。まだ何かわからない」

 ネフォルが言った。

「竜の卵だ」

 トヴァドが剣を抜いた。

「どうしてわかるんです?」

「騎士の勘」

「たぶん形」

 卵にひびが入った。

 四人は息を呑んだ。

 殻の隙間から、金色の目がのぞく。次に、小さな鼻先。銀白の鱗に包まれた、手のひらほどの竜が、よろめきながら這い出した。

 竜は四人を見回し、鼻をひくつかせた。

 そして、机に残っていた蜂蜜パイの欠片を丸呑みにした。

「かわいい」

 ネフォルが、ほとんど叫ぶような小声で言った。

 竜はもう一つ欠片を食べ、満足げに鳴いた。

「きゅる」

 直後、真鍮の薬缶がひとりでに震え始めた。

 蓋が跳ね、注ぎ口から青い光が噴き出す。光は部室いっぱいに広がり、立体の星図を描いた。

 環世界アステラ。

 その周囲を回る七つの月。

 そして誰も近づかない、欠けた黒い月ノクス。

 星図の中央に、巨大な竜の影が浮かび上がった。

 翼は大陸を覆い、尾は月を二周している。竜の胸には、太陽のような光が脈打っていた。

 低い声が、部室の壁から響いた。

『竜冠の鍵、目覚めたり』

『三度目の蝕までに、声を月の心臓へ』

『さもなくば、月喰いは鎖を断つ』

 映像が消えた。

 沈黙の中、小竜がくしゃみをした。火花が飛び、廃部通達の端が燃えた。

 リゼがにやりと笑う。

「世界を救ったら、校内貢献に入るかな」

 ロドラは燃えかけた通達と、屋根の穴と、小竜を順番に見た。

「少なくとも、天井修理代よりは大きな成果にしたいです」

 午後四時十九分。

 議題四、竜を月へ連れていく。

 賛成四。

二 勇者一行は出発前に揉める

 問題は、黒い月ノクスまでどうやって行くかだった。

 学院の正規艇を借りるには、教員三名の署名と保護者の同意、飛行計画書二部、事故時の責任者が必要である。

 彼女たちにあるのは、教員に見つかる前に逃げたいという強い気持ちだけだった。

「あるよ、船」

 リゼが部室の床板を開けた。

 その下には、旧天文塔の外壁に沿って伸びる狭い格納庫があった。星砂に埋もれた小型艇が一隻、斜めに停まっている。

 船首は丸く、左右に短い星帆。船腹には、薄れた桃色の文字で〈マドレーヌ号〉と書かれていた。

「これ、学院祭で使った移動菓子売り船じゃないですか」

「去年の祭りで揚げパンを三百個売った名艇だよ」

「飛べるの?」とトヴァド。

「飛ぶ。止まるかどうかは運次第」

「だめでは?」

 ネフォルが即答した。

 小竜は、ロドラの肩に乗っていた。ネフォルが〈ポルカ〉と名づけた。殻の星模様が、古い舞踏譜に似ていたからだという。

 なお、トヴァド案は〈銀翼王〉、リゼ案は〈やかん丸〉、ロドラ案は〈仮称一号〉だった。多数決の結果、ネフォルの圧勝である。かわいい名前を提案するときだけ、彼女は普段の三倍よくしゃべった。

「急いだほうがいい」

 ネフォルは窓の向こうを指した。

 夕焼けの空に、黒い点がいくつも現れていた。

 点は急速に近づき、やがて白い装甲を持つ軍艦の群れになった。帆を持たず、青白い推進光だけで滑る、無彩連盟の艦隊だ。

 環世界の外縁から現れた軍事国家、無彩連盟。

 魔法を迷信と呼び、竜を危険な旧時代兵器と定め、見つけ次第その心臓を炉へ変えてきた国。

 先頭艦から、学院全域へ声が降った。

『王立セレネ学院へ通告する』

『本日十六時十七分、竜性反応を確認した。対象は星間災害防止条約に基づき、無彩連盟が接収する』

『抵抗は推奨しない』

「推奨しない、だって」

 リゼが操縦席へ飛び乗った。

「じゃあ、非推奨のことしようか」

「待ってください」

 ロドラはマドレーヌ号に乗り込みながら、息を整えた。

 何かが起きるたび、彼女はまず順番を考える。状況を小さな項目に分け、地図のように並べれば、怖さは少しだけ遠くなる。

「目的を確認します。第一にポルカをノクスへ届ける。第二に月喰い竜の目覚めを止める。第三に全員で帰る」

「第四に部室を守る」とネフォル。

「第五に苺雲糖を買う」とトヴァド。

「優先順位がおかしくない?」

「提出された順です」

 ロドラが答えると、リゼが笑った。

 格納庫の扉が開く。

 夕空と雲海、その向こうに広がる無限の星。

 マドレーヌ号の魔導炉が、咳き込む老人のような音を立てた。

「発進するよ。みんな、何かにつかまって」

「座席の固定帯は?」

「去年、飾りつけに使った」

「何かにつかまって!」

 小型艇は格納庫から転がり出た。

 落ちた。

 三秒ほど、四人と一匹は無言だった。

「リゼ!」

「今、起こしてる!」

 リゼが計器盤を拳で叩く。真鍮の配管が震え、星帆がばさりと開いた。帆が太陽光をつかみ、船体が雲の直前で跳ね上がる。

 学院の尖塔すれすれをかすめ、マドレーヌ号は宇宙へ飛び出した。

 背後で、無彩連盟の小型追撃機が三機、隊列を組む。

「来た!」

 トヴァドが後部窓に張りついた。

「武器は?」

「クリーム噴射器」

「ほかには?」

「砂糖衣を焦がす火炎筒」

「お菓子屋さん!」

「お菓子屋さんだよ!」

 追撃機から白い光弾が放たれた。

 船体の横をかすめ、星帆の端が燃える。

 ポルカが甲高く鳴いた。

 その声に反応して、ロドラの抱えた薬缶――星図を映した真鍮の遺物――が青く光る。

 次の瞬間、船の周囲に半透明の翼が広がった。

 巨大な竜の翼。

 光弾が翼に触れ、星屑となって散った。

「防御結界!」

 ネフォルが目を見開く。

「薬缶が?」

「だから遺物だって言ったでしょ!」

「年代測定してから自慢して」

 リゼは操縦桿を倒した。

 マドレーヌ号が、環世界の外壁沿いに急旋回する。追撃機が一機、曲がりきれずに古い観測塔へ突っ込んだ。残る二機が左右へ分かれた。

「このままじゃノクスまで追われます」

 ロドラは星図を呼び出し、航路を探した。

 正規の航路は、月と月のあいだを大きく迂回している。追撃機のほうが速い。けれど、古い地図には別の線があった。

「リゼ、右へ十二度。環世界の影に入って」

「そっちは砕星帯だよ」

「昔の竜航路があります。地図上では」

「現物が残ってる保証は?」

「ありません」

 リゼが楽しそうに口笛を吹いた。

「部長らしくなってきたね」

 砕けた小惑星の群れが、闇の中を渦巻いていた。

 マドレーヌ号はその隙間へ飛び込む。

 岩と岩の距離は、船一隻分しかない。古代の標識灯はほとんど消え、磁気嵐が計器を狂わせた。

「左、次に下!」

 ロドラは地図と窓外を交互に見る。

「下ってどっち?」

「いまトヴァドの頭が向いてるほう!」

「私は逆さまだよ!」

「ではネフォルの足のほう!」

「私は横向き」

「全員、座ってください!」

 追撃機の一機が背後から迫る。

 トヴァドは後部扉を開け、命綱もなしに縁へ立った。真空を防ぐ薄い魔法膜が、赤い髪を揺らす。

「何する気?」とリゼ。

「騎士らしいこと!」

 トヴァドは剣を抜いた。

 刀身に刻まれた文字が燃え、金色の光が伸びる。彼女は接近した追撃機の翼を、すれ違いざまに一閃した。

 切断された機体は回転しながら岩陰へ消え、脱出莢だけが小さな灯を点した。

 トヴァドは得意げに振り向く。

「見た、ロドラ?」

「見ました! 危ないから戻って!」

「褒めるのが先じゃない?」

「格好よかった」

 口から出てしまった。

 トヴァドが一瞬だけ目を丸くし、それから太陽みたいに笑った。

「じゃあ、次も守る」

 ロドラの耳が熱くなる。

「今の、議事録に太字で残す?」

 リゼが言う。

「操縦に集中してください!」

 最後の追撃機は、砕星帯の入り口で速度を落とした。無理に追わず、彼女たちの航路を艦隊へ送ったらしい。

 やがて岩の渦を抜けると、宇宙は静かになった。

 正面に、黒い月ノクスが浮かんでいた。

 光をほとんど返さない、欠けた石の球。

 その縁だけが、遠い太陽を受けて銀色に光っている。

 そして月の向こう側から、無彩連盟の主力艦がゆっくり姿を現した。

 白い城のような巨艦。

 船首には、細長い砲身が一本、月の心臓へ向けられていた。

「先回りされた」

 ネフォルがつぶやいた。

 薬缶の星図に、新しい文字が浮かぶ。

『第二の蝕まで、あと一刻』

三 黒い月のお茶会

 ノクスの表面には、町ほどもある巨大な裂け目があった。

 星図が示す目的地は、その奥だ。

 無彩連盟の主力艦から降下艇が次々と発進している。正面から争えば、マドレーヌ号は一分も持たない。

「裏口がある」

 ロドラは月面図を拡大した。

 裂け目から離れた場所に、ごく細い竜航路が描かれている。山脈の陰を縫い、古い排熱孔へ続く道だ。

「また地図上では、でしょ」

「はい」

「最高」

 リゼはマドレーヌ号を月面へ滑り込ませた。

 黒い岩山の谷間を、船は帆を畳んで進む。重力は弱く、少し舵を切るたびに船体が跳ねた。背後では主力艦の探照光が、巨大な指のように地表をなぞっている。

 やがて四人は、山肌に開いた六角形の穴を見つけた。

 マドレーヌ号がぎりぎり通れる大きさだった。

「戻るとき、もっと細くなってたりしないよね」

「月の穴は普通、動きません」

「普通の月ならね」

 リゼの言葉に、誰も返せなかった。

 穴の奥は、人工の洞窟だった。

 壁一面を銀色の骨組みが走り、ところどころに竜の鱗を模した紋章が刻まれている。千年前の施設なのに、ポルカが鳴くたび、青い灯が一つずつ目覚めた。

 船を降りた四人は、細い通路を進んだ。

 重力が徐々に強まり、空気もあった。どこかで水の音がする。

 通路の先に、円形の広間が現れた。

 中央には石の卓。周囲には四脚の椅子。壁には、竜と人が同じ杯を囲む絵が彫られている。

「遺跡の中心に食卓」

 ネフォルの目が少し輝いた。

「私たち向きだね」

 リゼが薬缶を卓に置く。

 すると床から淡い光が立ち上がり、人影を結んだ。

 白い外套をまとった、角のある女性。半透明の顔は穏やかで、目だけが竜のように金色だった。

『よく来た、小さき継ぎ手たち』

「継ぎ手?」

『竜と人のあいだを結ぶ者。火と水を同じ器に迎える者』

 女性は薬缶を見つめた。

『それは〈共飲器〉。言葉の異なる命が、ひとつの熱を分かち合うための器』

 リゼが小声で言った。

「薬缶じゃん」

「古代のすごい薬缶」とネフォル。

『月喰い竜アグロアは、この月の核に眠る。かつて星の炎が暴れたとき、アグロアは余分な光を喰らい、七つの月を守った』

 壁画が動き出す。

 巨大な竜が、太陽から噴き出した炎を飲み込み、翼で世界を包む。人々は竜を讃え、その傍らに小さな銀竜を置いた。

『だが人は、守護を恐れた。眠る竜を鎖で縛り、その心臓から力を盗んだ。長い歳月に、声は届かなくなった』

 ポルカが寂しげに鳴く。

『この子はアグロアの声の欠片。竜冠の鍵。月の心臓へ返せば、眠りは穏やかに続く』

「返さなければ?」

 ロドラが尋ねた。

『鎖は断たれ、怒りだけが目覚める。アグロアは月を砕き、次に環世界を喰らう』

 広間が揺れた。

 遠くで重い衝撃音が響く。無彩連盟が、月の表側から掘削を始めたのだ。

 光の女性は薄れていく。

『心臓へ至る扉は、四つの誓いを求める』

 卓上に、四つの杯が現れた。

『力を何のために使うか』

『恐れを誰と分けるか』

『帰る場所をどこに置くか』

『そして、勝利より大切なものを何と呼ぶか』

 女性は消えた。

「抽象的」

 ネフォルが言った。

「試験なら苦手なやつだ」

 トヴァドが言った。

「お茶を淹れろってことじゃない?」

 リゼが薬缶を持ち上げた。

「どうしてそうなるんです」

「器があって、杯が四つあって、壁画もお茶会。遺跡は空気を読むべき」

 共飲器の中には、なぜか水が満ちていた。ネフォルが壁際に生えていた銀色の苔を少し摘み、匂いを確かめる。

「月桂苔。乾かすとお茶になる」

「飲めるんですか?」

「文献では」

「みんな今日はその言い方するね」

 火を入れると、薬缶は低く歌い始めた。

 青い湯気が立ち、星の形になって天井へ昇る。

 四人は杯を持った。

「最初の誓い。力を何のために使うか」

 トヴァドが真っ先に言った。

「守るため。……って言うと格好よすぎるかな」

「誰を?」とネフォル。

 トヴァドは少し考え、ロドラを見る。それから全員を見た。

「ここにいる人。あと、いまここにいない人も。私が名前を知らない人も、できるだけ」

 杯の一つが金色に光った。

「二つ目。恐れを誰と分けるか」

 リゼが杯を揺らす。

「私は怖いの、嫌いじゃないんだ。機械が爆発しそうなときとか、知らない航路へ入るときとか。生きてる感じがする。でも、本当に怖いときは……一人だと笑えない」

 彼女は肩をすくめた。

「だから、笑ってくれる人と分ける。たぶん、この四人」

 二つ目の杯が青く光った。

「三つ目。帰る場所」

 ネフォルはぬいぐるみを膝へ置き、無表情のまま耳を少し伏せた。

「月森族の集落を出たとき、帰る場所はなくなったと思ってた。学院の寮は静かすぎる。図書塔は閉館する。部室は屋根が壊れた」

「最後のは今日だけです」とロドラ。

「でも、午後四時になると、誰かがお湯を沸かす」

 ネフォルは杯を両手で包んだ。

「帰る場所は、場所ではなくて、待っている時間だと思う。私は、あの部室へ帰る」

 三つ目の杯が銀色に光った。

 残る一つ。

「勝利より大切なもの」

 ロドラは答えられなかった。

 地図なら、目的地と最短路を示せる。

 会議なら、議題と結論を書ける。

 けれど勝利より大切なものなど、正解が多すぎて、どれを選べばいいかわからない。

 そのとき、広間の入口から拍手が響いた。

「美しい答えだ」

 白い軍服の男が立っていた。

 背が高く、片目を銀の仮面で覆っている。背後には無彩連盟の兵士たち。全員が黒い長銃を構えていた。

「だが、答えでは飢えた国は救えない」

 男はゼルド・ケイン提督と名乗った。

 無彩連盟ノクス遠征艦隊の司令官。

 彼の故郷では、太陽が弱り、都市の炉が次々と止まっているという。竜の心臓があれば、一億人が冬を越せる。だから月を掘り、アグロアの力を取り出す。

「竜を起こせば、環世界まで滅びます」

 ロドラは言った。

「伝説を根拠に、現実の民を凍えさせろと?」

「その伝説の中を歩いて、ここまで来たのに?」

 リゼが言った。

 提督の口元がわずかに歪む。

「我々は伝説を信じない。利用するだけだ」

 兵士がポルカへ手を伸ばした。

 トヴァドの剣が閃き、その手前の床を切り裂く。

「この子は物じゃない」

「一億人と一匹を秤にかけるか、騎士見習い」

「かけない。両方助ける」

「子どもの答えだ」

「子どもだから、まだ諦め方を習ってない」

 提督が手を上げた。

 兵士たちの銃口に光が集まる。

 同時に、ポルカが火を吐いた。

 炎は兵士ではなく、卓上の薬缶へ飛び込んだ。

 共飲器が鐘のように鳴る。

 四つの杯から光が立ち、広間全体を包んだ。

 床が消えた。

 全員が落下した。

四 月の心臓には怪物が眠る

 ロドラは、星空の中へ落ちていた。

 上下も距離もない暗闇に、無数の光る道が伸びている。古い竜航路だ。道の一本一本に、人と竜の記憶が流れていた。

 幼い竜に歌を教える人。

 傷ついた兵士を翼で運ぶ竜。

 同じ焚き火を囲み、違う言葉で笑う者たち。

 そして鎖。

 巨大な竜の四肢を縛る、黒い鎖。

 人々は竜を恐れ、その胸へ槍を突き立て、流れ出す光を炉へ運んでいた。

 ロドラの隣に、ポルカが浮かぶ。

「あなたは、アグロアの声なんですね」

 ポルカは小さく鳴いた。

 声には言葉がなかった。けれど共飲器の青い湯気が二人をつなぎ、感情だけが伝わってきた。

 寂しさ。

 痛み。

 それでも、守りたいという願い。

 月喰い竜は、人を憎んでいるのではない。

 憎むことしかできなくなるほど、長く一人にされたのだ。

 光る道の向こうで、トヴァドたちも落ちている。

 さらに遠く、ゼルド提督と兵士たちの姿もあった。

 すべての道は、中央の赤い星へ集まっていた。

「心臓」

 ロドラが手を伸ばすと、地図が頭の中に開いた。

 道は迷路ではない。四つの誓いに応じて形を変える、生きた航路だ。

「みんな、私の声が聞こえますか!」

 返事はない。

 だが青い湯気が糸となり、四人を結んでいる。

 ロドラはその糸をたどり、道を選んだ。

 力を守るために使う道。

 恐れを仲間と分ける道。

 帰る場所へ続く道。

 最後の一本だけが、暗いままだ。

 勝利より大切なもの。

 何だろう。

 正しさだろうか。命だろうか。約束だろうか。

 どれも大切で、どれか一つを選べば、ほかを置き去りにする気がした。

 赤い星が大きく脈打った。

 月全体が震える。

 無彩連盟の掘削砲が、外から心臓へ届いたのだ。

 光の道が砕け、ロドラたちは巨大な空洞へ放り出された。

 そこは月の中心だった。

 天井も床も見えないほど広い空間に、竜が眠っている。

 山脈のような背。湖ほどもある閉じた目。翼を貫く無数の鎖。胸には白い槍が突き刺さり、そこから太陽色の光が吸い上げられていた。

 月喰い竜アグロア。

 マドレーヌ号は空洞の端に転移していた。リゼが真っ先に船へ飛び込み、操縦席を叩き起こす。

「全員乗って! こんな大きい相手、徒歩で話しかける距離じゃない!」

 ネフォルがポルカを抱え、ロドラが共飲器を持つ。トヴァドは最後尾で、追ってきた連盟兵を食い止めた。

 金色の剣と白い光弾が交差する。

 ゼルド提督は兵士たちを下がらせ、自ら細身の黒剣を抜いた。刃は光を吸い、周囲を暗くする。

「鍵を渡せ」

「嫌です」

 トヴァドは剣を構えた。

「あなたの国の人も助ける。でも、この竜を殺させない」

「方法もないのに、希望だけを語るな」

「方法は、あの子が考える」

 トヴァドはロドラを指した。

「私は、その時間を作る」

 提督が踏み込んだ。

 黒剣と星剣がぶつかり、衝撃が空洞を走る。

 その間にマドレーヌ号は発進した。

 アグロアの胸へ向かう。だが掘削砲から伸びた光の管が、竜の力を主力艦へ吸い上げ続けている。

「このままポルカを返しても、心臓が耐えない」

 ネフォルが壁面の古代文字を読む。

「鎖を外して、力の流れを戻す必要がある」

「鎖は何本?」

「八千四百十二」

「日没までに?」

「日没はもう過ぎた」

「じゃあ、ゆっくりできるね」

 リゼが笑い、操縦桿を目いっぱい倒した。

 マドレーヌ号は竜の胸元へ突っ込み、掘削光の管にクリーム噴射器を撃った。

 白い泡が管の接続部を覆う。

「そんなので止まるんですか?」

「このクリーム、祭り用に三日溶けない配合なんだ」

 接続部が過熱し、警報音を鳴らした。

 吸い上げる光が不安定になる。

「止まってない!」

「少し困らせた!」

 アグロアのまぶたが開いた。

 金色の瞳が、空洞のすべてを満たす。

 竜が息を吸った。

 星光も、熱も、音も、その口へ引かれていく。マドレーヌ号の魔導炉が消え、船は失速した。

 ポルカがロドラの腕から飛び出す。

「待って!」

 小竜は真空のような闇を泳ぎ、アグロアの額へ向かった。

 けれど黒い鎖が動き、鞭のようにポルカを打つ。

 ネフォルが身を投げ出して受け止めた。

「この子、怖がってる」

 ネフォルの腕の中で、ポルカが震えている。

「自分を返したら、自分が消えると思ってる」

 声の欠片が、本体へ戻る。

 それは一匹の小さな竜にとって、死と同じかもしれない。

 ロドラは、最後の誓いの意味をようやく理解した。

 勝利より大切なもの。

 世界を救うためなら、小さな一匹を犠牲にしていい。

 一億人を救うためなら、眠る竜を炉にしていい。

 大きな目的は、いつも小さな声を消す理由になる。

 けれど、それを受け入れた瞬間、自分たちはゼルド提督と同じ道を歩く。

「ポルカ」

 ロドラは小竜の目を見た。

「戻りたくないなら、戻らなくていい」

 ネフォルが顔を上げる。

 リゼも振り返る。

「でも、それではアグロアが」

「別の方法を探します」

「あるの?」

「ありません。まだ」

 ロドラは共飲器を抱きしめた。

「勝利より大切なのは、勝つために誰かを数から消さないことです」

 最後の杯が、ロドラの手元に現れた。

 透明な光を放つ。

 四つの誓いがそろった。

 共飲器の蓋が開き、青い湯気が奔流となって噴き出す。湯気はアグロアの頭へ、胸へ、翼へ伸び、八千四百十二本の鎖を一本の回路として結んだ。

 ロドラの頭に、新しい地図が現れる。

 鎖は拘束具であると同時に、竜の力を分配する導管だった。

 切る必要はない。流れを逆転させればいい。

「リゼ! 掘削砲の管を、マドレーヌ号の炉につないで!」

「船が焼けるよ」

「三秒だけ」

「二秒にして」

「二・五秒!」

「交渉成立!」

 リゼが船を光の管へぶつけた。

 火炎筒で外殻を焼き切り、むき出しの導線を船の魔導炉へ直結する。

 白い光がマドレーヌ号へ流れ込んだ。

 計器が一斉に振り切れる。壁が赤く焼け、去年の学院祭メニュー表が発火した。

「二秒!」

 リゼが叫ぶ。

「まだ!」

 ロドラは星図の線を組み替える。

 竜から奪われた力を、主力艦へではなく、環世界の外側にある無彩連盟の故郷へ向ける。

 地図には、その星の位置も記されていた。

 古代の竜航路は、世界と世界を結ぶ光の川だ。

「二・五秒!」

「今!」

 リゼが接続を切った。

 マドレーヌ号の後部が爆発した。

 船は煙を吐きながら回転し、アグロアの角へ突っ込んで止まった。

 同時に、月の鎖がすべて青く光った。

 吸い上げられていた竜の力が反転する。

 光は掘削砲を通り、無彩連盟の主力艦を貫き、さらに遠い宇宙へ一本の道を描いた。

 ゼルド提督が戦いの手を止めた。

 彼の腕の通信器から、切れ切れの声が届く。

『本国より……全都市の炉が再起動……空に、竜の光が……』

 提督の黒剣が下がる。

「あり得ない」

「地図に道があった」

 ロドラは答えた。

「なければ、作るつもりでした」

 アグロアが再び息を吸う。

 今度は奪う呼吸ではなかった。

 青い湯気を吸い、四人の誓いを吸い、ポルカの小さな鳴き声を聞く。

 巨大な目から、火の雫が一滴こぼれた。

 ポルカがアグロアの額へ飛ぶ。

 けれど、その体は消えなかった。

 小竜の胸から光の糸だけが伸び、アグロアと結ばれる。

 声は返った。けれど、ポルカはポルカのままだ。

 月喰い竜は鎖を引きちぎらず、ゆっくり翼を広げた。

 黒い月ノクスの表面が割れ、銀色の光が宇宙へ噴き出す。

 月そのものが、巨大な卵の殻のように開いていく。

 アグロアは七つの月のあいだへ身を起こし、環世界を見下ろした。

 無彩連盟の艦隊も、学院の観測船も、交易船も、すべてが沈黙した。

 竜は吠えた。

 その声は音ではなく、光だった。

 環世界の夜側に青い波が走り、枯れかけた森に芽が出る。遠い無彩連盟の星へも光が届き、凍った都市の炉を温める。

 そしてアグロアは、ポルカへ鼻先を寄せた。

 大陸ほどの竜と、手のひらほどの竜。

 ポルカが「きゅる」と鳴く。

 アグロアは満足したように目を細め、再びノクスの中心へ身を横たえた。

 砕けた月の殻が、今度は銀色の花弁のように閉じていく。

 最後に一本だけ残っていた黒い鎖が、さらさらと星砂になって消えた。

五 帰るまでが冒険です

「船が動かない」

 リゼが言った。

「知ってました」

 ロドラは答えた。

 マドレーヌ号の操縦席は半分焦げ、星帆は片方なくなり、船尾には大きな穴が開いていた。空気は古代の魔法膜が保っているが、推進器は沈黙したままだ。

 アグロアが眠りに戻った月の中心で、四人と一匹は漂流していた。

「世界は救った」とトヴァド。

「帰れない」とネフォル。

「議題三、全員で帰る、未達成ですね」

「部長、議事録の締めはまだ早いよ」

 リゼが計器盤の下へ潜り込む。

 そこへ、船外から硬い音がした。

 白い小型艇が横づけされ、連結通路が伸びてくる。

 入ってきたのはゼルド提督だった。軍服は煤け、銀の仮面にはひびが入っている。背後には武器を下げた兵士が二人。

 トヴァドが剣へ手を伸ばす。

「救難信号を受けた」

 提督は短く言った。

「出してないけど」

「その船は存在そのものが救難信号だ」

 リゼが傷ついた顔をした。

「ひどい」

 提督はロドラへ、小さな記録結晶を渡した。

 中には無彩連盟本国の映像が映っている。凍りついていた都市に灯が戻り、人々が空の青い竜光を見上げていた。

「我々は、竜の力を奪わずに受け取った」

「貸してもらったんです」

 ロドラは言った。

「返す方法も考えてください」

 提督はしばらく彼女を見つめ、やがて小さく頷いた。

「交渉団を送る。次は銃ではなく、茶葉を積んで」

「お菓子も必要」とネフォル。

「重要です」とトヴァド。

「外交って大変だな」

 提督はため息をついた。

 無彩連盟の曳航艇に引かれ、マドレーヌ号がセレネ学院へ戻ったのは、翌朝だった。

 旧天文塔の屋根には大穴が開いたまま。

 その下で学院長と教員たち、生徒の群れ、王国の記者、無彩連盟の使節が待っていた。

 四人が船を降りると、歓声が上がった。

 ロドラは少しだけ期待した。

 表彰。部費増額。新しい部室。少なくとも廃部撤回。

 学院長は咳払いをし、巻紙を広げた。

「星間遺物研究兼菓子試食同好会の四名は、無許可で学院所有艇を発進させ、旧天文塔屋根一枚、観測窓十二枚、学院祭用移動販売船一隻を損壊し――」

「そこから?」

 リゼがささやく。

「――同時に、月喰い災害を回避し、王国および周辺諸国に多大な貢献をなした」

 学院長は眼鏡を押し上げた。

「よって廃部処分を撤回する。ただし修理費補填のため、今後五年間、部費は半額とする」

「そんな!」

 トヴァドが世界の終わりのような声を上げた。

「苺雲糖が!」

「月を救っても半額」

 ネフォルが静かに言った。

「世知辛いねえ」

 リゼは笑った。

 学院長は、さらに新しい看板を差し出した。

 〈星竜交流・星間遺物・菓子文化研究会〉

「名称、長くなってません?」とロドラ。

「無彩連盟との文化交流事業を兼務してもらう」

「部員四人で?」

「竜一匹もいる」

 全員がポルカを見る。

 ポルカはロドラの肩の上で、廃部通達の残りをもぐもぐ食べていた。

「紙は食べちゃだめです」

「きゅる」

「返事だけはいい」

 その日の午後四時。

 屋根に仮の布を張った部室で、いつもの四人は長机を囲んだ。

 星竜アグロアから贈られた銀色の茶葉を、共飲器で淹れる。湯気は小さな竜の形になり、天井の穴から空へ昇っていった。

 議題一、今後の外交方針。

 議題二、マドレーヌ号の修理。

 議題三、半額になった部費の配分。

「苺雲糖は絶対必要」とトヴァド。

「外交用の必要経費にすればいい」とリゼ。

「虚偽申請」とネフォル。

 三人の声を聞きながら、ロドラは議事録へ文字を並べた。

 世界を救う冒険は、地図の端にあるものだと思っていた。

 選ばれた勇者が剣を取り、立派な船に乗り、正しい答えを知っている賢者と旅をする。

 けれど本当は、屋根の壊れた部室から始まることもある。

 勇者はお菓子のことで揉めるし、船は止まり方が怪しいし、正しい答えは最後までわからない。

 それでも、一緒に帰りたい人がいるなら、道は地図の外にも描ける。

「ロドラ」

 トヴァドが、机の向こうから身を乗り出した。

「昨日の約束、覚えてる?」

「約束?」

「次も守るって言った」

 ロドラの胸が、少しだけ速く鳴る。

「はい」

「だから次の買い出し、一緒に行こう。荷物を守る」

「それ、デートのお誘い?」

 リゼが即座に口を挟んだ。

 トヴァドが真っ赤になる。

「ち、違う! 任務!」

「議事録にはどう書く?」

 ネフォルが尋ねた。

 ロドラはペン先を止めた。

 トヴァドは期待と不安を半分ずつ浮かべて、こちらを見ている。

 ロドラは新しい行に、丁寧な字で書いた。

 議題四、次の冒険について。

 結論――二人で相談する。

 窓の外では、七つの月が青い空を渡っていた。

 いちばん遠い黒い月の縁で、銀色の光が一度だけ瞬く。

 ポルカが共飲器の蓋に丸くなり、小さなくしゃみをした。

 火花が飛び、今度は部費申請書の端が燃えた。

「あっ」

「消して!」

「水、水!」

「お茶をかけるのは反対」

 世界は救われた。

 部室は、今日もだいたい平和だった。