『星歯の迷宮』

一 壺を盗む者

 海堂嵩成が三千年前の壺を盗んだのは、その壺の内側から、二十一年前に死んだ母の声がしたからだった。

 南太平洋、ナウア共和国マタレヴ島沖。

 億万長者アベル・フェティアの調査船《ネヴァリス》では、発掘品の「内覧会」が開かれていた。招待客はワインを片手に、ガラスケースの中の遺物を値踏みしている。赤褐色の壺、貝輪、骨製の釣針、黒曜石の剥片。海辺に暮らしたラピタ文化の人々が残した品々だ。

 正式な調査許可は出ていない。

 国外への持ち出し許可は、もちろんない。

 嵩成は給仕服の胸元に小型の吸盤カッターを隠し、壺の前で立ち止まった。

 丸い胴には、櫛の歯を押し当てたような細かな刻印が幾重にも走っている。三角、菱形、鋸歯、向かい合う二つの目。考古学者はそれを歯状施文と呼ぶ。だが嵩成には、星を噛み砕いた跡に見えた。

『嵩成。海が閉じる前に』

 壺の底から声がした。

 母、海堂沙羅の声だった。

 嵩成は一秒だけ目を閉じた。

 幻聴に返事をするほど落ちぶれたつもりはない。だから返事の代わりに警報線を切り、ガラスへ円を描き、壺を抱え上げた。

「それは私の船の備品だ」

 背後から、穏やかな英語がした。

 アベル・フェティアは白い麻のスーツを着ていた。銀色の髪、日に焼けた頬、笑っているのに温度のない目。世界中の沈没船を買い、島を買い、歴史を買ってきた男である。

「備品にしては古いわね」

「所有権は年齢で消滅しない」

「その台詞、ナウア政府に聞かせてあげる」

 フェティアが指を鳴らす前に、嵩成は壺を耐衝撃袋へ滑り込ませ、シャンパンの盆を蹴り上げた。

 グラスが光の雨になった。

 警備員が腕で顔をかばう。嵩成はテーブルを踏み台にし、吹き抜けの手すりを越え、下階の展示幕へ飛びついた。布が裂ける。落下しながら給仕服を脱ぎ捨てると、その下には黒い潜水服を着込んでいた。

「止めろ!」

 甲板へ転がり出る。

 空は雲で潰れ、遠雷が海の底を叩いていた。南から来た低気圧が、予報より半日早い。

 船尾のクレーンから一本のワイヤが海へ垂れている。嵩成は助走をつけて跳び、両手で掴んだ。背後で銃声。ワイヤの繊維が弾ける。

「切れる前に降りろ!」

 波間の小型艇から、タウ・マラキが怒鳴った。

 嵩成は三メートル下の艇へ落ちた。膝が船底にめり込みそうな衝撃。タウがスロットルを開く。船外機が吠え、艇は《ネヴァリス》の照明から逃げ出した。

「返還のための緊急保全よ」嵩成は壺の袋を抱き直した。

「君の国では、それを窃盗と呼ぶんだろう」

「あなたの国では?」

「最初に持ち出した側を、先に窃盗犯と呼ぶ」

 タウはナウア文化遺産局の海洋考古官だった。大柄な身体を雨合羽に包み、暗闇でも海面の癖を読む目をしている。彼の祖父は星と波だけで島を渡った航海者だという。本人は伝統を神秘化されるのを嫌い、衛星測位機を三台持ち歩いていた。

 その三台が同時に狂った。

 画面の現在位置が、艇の周囲を円を描いて回り始める。

「磁気嵐?」と嵩成。

「違う。衛星を見失っているんじゃない。衛星のほうが、ここを見失っている」

 稲妻が島を照らした。

 マタレヴ島の西岸。黒い玄武岩の崖が、中央から四角く割れていた。

 昨日まで存在しなかった正方形の穴だ。高さも幅も、きっかり六メートル。崖の下から海水が吸い込まれ、巨大な喉のように白い泡を呑んでいる。

 耐衝撃袋の中で、壺が震えた。

『海が閉じる前に』

 今度はタウにも聞こえたらしい。彼の横顔が硬くなる。

 背後に二隻の追跡艇が現れた。《ネヴァリス》のサーチライトが雨を切り裂く。

 前方では、外洋の大波が崖へ向かって盛り上がっていた。

「浜へ回る時間はない」とタウが言った。

「穴へ入る気?」

「ほかに安全な選択肢があるなら、十秒以内に聞こう」

 嵩成は迫る波と銃口を見比べた。

「七秒で十分。穴へ」

 艇は正方形の闇へ飛び込んだ。

 直後、崖を叩いた大波が入口を塞いだ。

二 海の下の六つの扉

 暗闇の中で、船外機の音が消えた。

 故障ではない。音そのものが切り取られたように、無音になったのだ。

 艇は黒い水路を滑っていた。嵩成が照明弾を撃つと、赤い火が天井へ吸いつき、周囲を照らした。

 壁は玄武岩でも珊瑚石でもなかった。赤褐色の焼き物で覆われている。数え切れない土器片を、巨大なモザイクとして積み上げた壁だ。どの破片にも歯状施文が刻まれ、模様は隣の破片へ、さらにその隣へと連続している。

「ラピタの土器で、トンネルを?」嵩成は呟いた。

「土器に見えるだけだ」タウが壁を指で叩いた。「焼き物なら、この厚さで海圧に耐えられない」

 照明弾が消えかけたとき、水路の先に白い砂浜が現れた。

 艇を乗り上げ、二人は上陸する。

 浜の向こうには、完全な立方体の部屋があった。一辺六メートル。床も壁も天井も、同じ赤褐色の材質。前後左右、そして天井と床に、一つずつ丸い扉がある。

 六つの扉。

 各扉の周囲には異なる模様が刻まれていた。

 嵩成は壺を袋から出した。

 部屋へ入った途端、壺の内側で青白い光が走る。歯状施文の凹みに、燐光が満ちていった。

「顔だ」とタウが言った。

 無数の幾何学模様の中から、二つの目と細長い鼻が浮かび上がる。人間に似ている。だが口の位置には、内側へ向かう歯が何重にも並んでいた。

 背後で砂を踏む音がした。

「二人とも、そこまでだ」

 フェティアが拳銃を向けていた。

 彼の後ろには、警備主任ギルザ・ケイド、傭兵二名、そして痩せた女性がいる。女性は防水ケースを胸に抱き、濡れた眼鏡を押し上げた。

「マラ・ケストレル博士」とフェティアが紹介した。「位相幾何学と古代記号論。君たちが力ずくで壊すものを、彼女が理解する」

「理解する前に持ち出すのが、あなたの調査方針でしょう」タウが言った。

 入口の水路で、重い音がした。

 正方形の隔壁が降り、外海を遮断する。

 同時に、床が沈んだ。

 全員がよろめく。

 立方体の部屋全体が回転を始めた。壁が床になり、天井が壁になる。艇の残骸が水路側から滑り込み、丸い扉へ激突して砕けた。

「銃をしまえ!」嵩成は叫んだ。「撃ったら跳弾で全滅する!」

 フェティアが答える前に、傭兵の一人が右手の扉へ駆けた。

 扉の模様は、連続する三角形だった。

「待て」とシシェレが言った。

 遅かった。

 傭兵が扉の縁へ触れる。

 壁の歯状施文から、白い針が一斉に伸びた。魚の骨ほど細い針が、男の潜水服を貫く。

 彼は悲鳴を上げる暇もなく硬直した。

 皮膚が灰白色になり、唇の間から珊瑚の枝に似た結晶が伸びる。数秒後、床へ倒れた身体は乾いた陶器のように割れた。

 部屋に、破片の転がる音だけが残った。

「毒ではない」シシェレは青ざめながら言った。「体内の塩類を結晶化させた……そんな技術、あり得ない」

「あり得ないものの中に立っている」と嵩成。

 六つの扉の模様が動き始めた。

 刻印そのものは動かない。青い光が溝を走り、三角形から菱形へ、菱形から顔へ、顔から波へと図像を変えていく。

 壺が熱を持った。

 嵩成は反射的に取り落とす。

 壺は床を転がり、ある角度で止まった。胴の模様と、正面扉の模様がぴたりとつながる。

 ただし、一箇所だけ連続していない。

 櫛歯の列から、一本の歯が欠けている。

「欠損ではない」とタウが膝をついた。「最初から抜いてある」

「安全な扉の印?」

「逆かもしれない」

 天井の小穴から水が噴き出した。

 くるぶし、膝、腰。異常な速さで水位が上がる。

 シシェレが六つの扉を見回した。

「この部屋は回転した。入口だった扉は、もう入口の方角にない。各面の模様が座標なら――」

「座標じゃない」とタウが遮った。「波だ」

 彼は壺を持ち上げ、耳へ当てた。

「模様の反復間隔が、うねりの周期になっている。長い波、短い波、返し波。海を渡るとき、島が見えなくても波の交差で方角を読む。これは道順じゃない。部屋が回るたびに、どちらが外海側かを知るための記録だ」

 水が胸まで来た。

「どの扉?」フェティアが銃口をタウへ向ける。

「撃てば答えが浮くと思うか?」

「君が沈む前には」

 嵩成は壺の模様を見た。

 交差する波の列。その中で一本だけ欠けた歯。欠けた場所から、模様の流れが逆向きに折り返している。

「返し波よ。入ってきた波に逆らわず、その下を戻る」

 彼女は床――回転前には天井だった面――の扉へ潜った。

 フェティアたちも続く。

 最後にタウが通過した瞬間、丸い扉が閉じた。

 隣室へ落下する。

 直後、背後の部屋から、巨大な陶器が砕けるような音が響いた。

「一室目」とシシェレが息を整えた。「迷宮は、あと何室ある?」

 暗闇の奥で、死んだ傭兵の声が答えた。

『あと、ひとつだ』

三 名前を食う部屋

 声は、前方の壁から聞こえた。

『あと、ひとつだ。だから戻れ』

 ギルザが短機関銃を構える。

「ベッカー?」

 壁の中央が柔らかく膨らみ、人の顔を作った。

 先ほど死んだ傭兵の顔だった。瞼を閉じ、粘土の中から押し出されるように浮かんでいる。

『ギルザ。扉を開けてくれ』

 顔が目を開いた。

 眼球の代わりに、細かな歯が渦を巻いていた。

 ギルザが引き金を引く。

 銃弾は顔を穿ったが、穴はすぐ泥のように塞がった。跳弾がフェティアの頬をかすめる。

「やめろ!」フェティアが銃を奪った。

 部屋は前の立方体と同じ大きさだった。ただし六面すべてに、無数の人面が刻まれている。男、女、子供。どれも目を閉じ、口を持たない。

 中央には腰の高さの石台があり、掌ほどの窪みがあった。

 嵩成の壺がまた震える。

『嵩成』

 今度は母の声が、石台の下からした。

『よく来たわね』

 嵩成の喉が狭くなる。

 二十一年前、母はマタレヴ島の未確認遺跡を追って失踪した。残された調査ノートには、同じ顔の模様が何度も描かれていた。最後の頁には一行だけ。

 ――器は、入れるものを選ばない。

「聞くな」とタウが言った。

「聞いてない」

「君の顔は、返事をしている」

 フェティアは頬の血を拭い、微笑んだ。

「沙羅はここまで来ていた。私と一緒に」

 嵩成は彼を見た。

「母を知っていたの?」

「共同調査者だった。彼女は扉の向こうを恐れ、私は可能性を見た。意見の不一致というものだ」

「置き去りにしたのね」

「彼女が残ることを選んだ」

 石台の窪みに青い光が灯った。

 壺の底と同じ大きさだ。

 シシェレが壁面を観察しながら言う。

「人面の数が変わっている」

 目を閉じた顔が、一つ増えていた。

 死んだ傭兵の顔である。

「この構造は、人間を記録している」とシシェレ。「声だけじゃない。形、反応、記憶の断片まで」

「記録?」ギルザが吐き捨てた。「あれをベッカーと呼ぶつもりか」

「呼んではいけない」タウが低く言った。「名前を与えれば、こちら側へ来る」

 壁の顔が一斉に口を開いた。

 口の奥はすべて同じ暗闇へ続いていた。

『タウ・マラキ』

『マラ・ケストレル』

『ギルザ・ケイド』

『アベル・フェティア』

『海堂嵩成』

 声が重なり、部屋全体が喉になった。

『器を置け』

 フェティアが嵩成の腕を掴む。

「置くんだ」

「命令されると、逆らいたくなる性格でね」

「このままでは扉が開かない」

「開けたがっているのは、私たちじゃない。こいつよ」

 床の人面が目を開き始めた。

 歯の眼球が、全員を見上げる。

 タウは壺を奪い、石台へ近づいた。だが窪みには置かず、壺を逆さにして側面を台へ当てた。

 壺の模様と石台の刻印が重なる。

 そこにも、一本だけ欠けた歯があった。

「器は中身を受け入れるものだ」と彼は言った。「だから、底を置けと誘う。けれどこの模様は壺を閉じる蓋じゃない。壺の外側を読むための転写具だ」

 壺をゆっくり回す。

 青い光が石台の周囲へ円を描き、六つの人面の額を順番に照らした。

 五つは目を開いた。

 一つだけ、閉じたままの顔がある。

 母の声が鋭くなった。

『そこではない!』

「決まりね」と嵩成。

 彼女は目を閉じた顔へ体当たりした。

 壁が薄膜のように破れ、向こう側へ全員が転がり込む。

 背後で無数の口が絶叫し、薄膜が閉じた。

 新しい部屋は、真っ暗だった。

 誰も声を出さない。

 しばらくして、シシェレが小さく尋ねた。

「今、何人いる?」

 嵩成は暗闇の中で数えた。

 自分。タウ。フェティア。シシェレ。ギルザ。残った傭兵。

 六人。

 それなのに、呼吸音は七つあった。

四 呼吸する立方体

 嵩成が化学灯を折った。

 緑の光が滲み、六人の姿を浮かび上がらせた。

 七人目はいない。

 だが呼吸音は続いている。

 深く吸い、長く吐く。

 次の吸気とともに、壁が三センチ内側へ動いた。

「部屋だ」シシェレが掠れた声で言った。「この部屋が呼吸している」

 六面は黒く滑らかで、扉も模様もない。吐息のたびに壁が遠ざかり、吸うたびに戻る。ただし、元の位置までは戻らない。少しずつ狭くなっていた。

 残った傭兵が壁を殴った。

「ドレカイ、やめろ」とギルザ。

「閉じ込められて潰されるよりましだ!」

 ドレカイは腰の成形爆薬を取り出した。

 嵩成が止めるより早く、彼は壁へ貼りつけ、起爆装置を押す。

 爆発音はしなかった。

 爆薬が壁へ沈み、黒い表面の下を赤い火となって走った。火はドレカイの腕へ戻り、手袋、袖、肩へと逆流する。

 彼は悲鳴を上げて腕を引いた。

 壁から離れたとき、右腕の肘から先がなくなっていた。切断面は血を流さず、赤褐色の陶器に変わっている。

『ドレカイ』

 壁の内側から、彼自身の声がした。

『もっと近くへ』

 ドレカイが後ずさる。

 部屋が息を吸った。

 壁がまた三センチ狭まった。

「周期は?」タウがシシェレへ聞いた。

「六・二秒、六・二秒、八・一秒……一定じゃない」

 嵩成は壺を見た。

 青い光は消えている。しかし胴の歯状施文には、部屋の湿気が細かな水滴となって付着していた。壁が息を吐くたび、水滴が模様の溝を流れる。

 長い列が六つ。短い列が一つ。

「七拍」と嵩成は言った。「この部屋の呼吸も七拍で一組」

「七拍目だけ長い」タウが壺を受け取る。「欠けた歯は、休止だ。古い航海の歌には、波を数えるための間がある。六つ数えて、ひとつ待つ」

「歌?」フェティアが苛立った。「もっと科学的に説明できないのか」

「科学は、歌えない者の言い訳じゃない」

 タウは壁へ掌を近づけた。触れずに、空気の流れを読む。

 一拍目。壁が吐く。

 二拍目。吸う。

 三、四、五、六。

 七拍目――長い吸気の直前、正面の壁に四角い輪郭が浮かんだ。

「今だ!」

 タウが飛び込む。

 壁は水面のように彼を通した。嵩成、シシェレ、フェティア、ギルザが続く。

 片腕を失ったドレカイは動けなかった。

「待ってくれ!」

 嵩成が手を伸ばす。

 ドレカイの左手が指先へ届く寸前、七拍目が終わった。

 壁が固体へ戻る。

 彼の身体は胸の中央で遮られた。

 こちら側へ出た上半身が一度だけ痙攣し、赤い土器へ変わって崩れた。

 壁の向こうから、残った半身の足音が遠ざかっていく。

 誰も振り返らなかった。

 新しい空間は立方体ではなかった。

 底の見えない縦穴の中央に、大小の箱が無数に浮かんでいる。箱は音もなく移動し、接触し、離れ、回転していた。六メートル四方の部屋が、巨大な生物の細胞のように組み替わり続けている。

 彼らの立つ細い足場から、赤い橋が一本だけ伸びていた。その先に三つの立方体が並ぶ。

「墓でも神殿でもない」とシシェレが呟いた。「機械……いえ、計算装置?」

「檻だ」とタウ。

 縦穴の底から、無数の声が昇ってきた。

 泣き声、笑い声、知らない言語の歌。何百年、何千年分もの名前を、暗闇が咀嚼している。

 嵩成は潜水服の襟元へ手を入れた。

 細い紐に、小さな土器片を通してある。母の遺品だ。三角形の破片には、一本欠けた櫛歯の列が刻まれていた。

 フェティアの視線が、そこへ落ちた。

「ようやく見せてくれた」

 ギルザが嵩成の背後へ回り、腕を捻り上げた。

 フェティアは首の紐をナイフで切り、破片を摘まむ。

「最初から、これが目的だったのね」嵩成は顔をしかめた。

《ネヴァリス》の壺は、君をここへ連れてくる餌だ。沙羅は最後の鍵を娘へ託した。感傷は、優秀な金庫番になる」

 彼は壺の胴を探り、三角形に欠けた箇所へ破片を嵌めた。

 ぴたりと合う。

 完成した壺が、低い音で鳴った。

 縦穴に浮かぶすべての立方体が停止する。

 次いで、一斉に青く光った。

 壺の模様が空中へ投影され、巨大な帯となって縦穴を巡る。三角と菱形の反復は、見る角度を変えるたび別の図形へ変わった。平面の装飾ではない。回転、接続、反転の手順を重ねた、立体的な規則だった。

 シシェレは息を呑んだ。

「地図じゃない。迷宮を毎回作り直すための式だ」

「そして中央へ行く式でもある」フェティアは満足げに言った。

「中央に何がある?」嵩成。

「人類最初の航海者が、この海で見つけたものだ。星から落ち、海底で眠っていたもの。彼らはそれを恐れ、同時に利用した。島々を渡るには、見えない目的地を信じなければならない。だが、あれは目的地のほうをこちらへ引き寄せる」

「空間を折る装置」とシシェレが言った。

「装置とは限らない」タウは暗闇を見下ろした。「生き物かもしれない」

 フェティアが壺を掲げる。

 青い橋が、中央の立方体へ向かって次々と接続された。

「行こう。歴史が、所有者を待っている」

「歴史は待たない」とタウ。「おまえを忘れるだけだ」

五 欠けた歯の航路

 最初の橋は、途中で上下を失った。

 足を踏み出した瞬間、重力が横へ倒れた。五人は壁となった橋面へ叩きつけられ、そのまま縦穴の暗闇へ滑り始める。

 嵩成は腰の鉤縄を投げた。鉤が橋の継ぎ目へ噛み、身体が宙で止まる。下にはシシェレ、さらに下にはタウがぶら下がった。フェティアとギルザは反対側の縁へしがみついている。

「壺の模様を見ろ!」シシェレが叫ぶ。

 フェティアの手にある壺では、青い光が一列だけ逆向きに走っていた。

 タウが叫ぶ。

「欠けた歯が上になるよう回せ!」

 フェティアは片手で壺を回した。

 重力が再び反転し、全員が橋へ落ちる。

 その先の立方体には、光の雨が降っていた。

 天井から無数の青い線が垂れ、床へ触れるたび、石を音もなく削る。線は一定の間隔で左右へ移動する。

 壺の文様は、二つの波が交差する場所を示した。

 五人は光の隙間を走った。

 ギルザの背嚢が線へ触れ、背後半分を滑らかな断面で失う。彼女は振り返らず、銃と弾薬だけを前へ投げて進んだ。

 次の部屋には水が満ちていた。

 扉が閉じた途端、照明が消える。

 闇の水中で、巨大な何かが腹を擦って通り過ぎた。嵩成の脚へ、人間の指に似た触手が巻きつく。

 ナイフを振ると、手応えは肉ではなく湿った粘土だった。

 切れた触手の断面から、母の声が泡となって漏れた。

『痛いわ、嵩成』

 彼女はもう一度切った。

 壺の青光を頼りに、全員が床の扉へ潜る。水圧で扉が開かない。タウが身体を横たえ、壺の波模様を扉の溝へ合わせると、海水が渦を巻いて抜けた。

 五人は次室へ吐き出された。

 そこでは音が死を呼んだ。

 床一面に、薄い貝殻の板が敷き詰められている。天井には白い骨の鐘が何千も下がっていた。

 シシェレが一歩踏む。貝殻が小さく鳴る。

 天井の鐘が同じ音程で震え、彼女の眼鏡に亀裂が走った。

 全員が静止した。

 嵩成はポケットから硬貨を出し、遠くへ投げた。

 硬貨が床へ落ちる。

 鐘が轟き、落下地点の床と壁が粉末になった。音の焦点が物質を砕いたのだ。

 壺の文様には、長短の刻印が並んでいる。

「また波か」とシシェレが囁く。

「歩調だ」とタウが囁き返す。「静かな場所を示している」

 彼は素足になった。足裏で床の微細な振動を探り、一歩ずつ進む。全員がその足跡をなぞった。

 中央でギルザが立ち止まる。

「どうした?」フェティアが唇だけ動かした。

 ギルザは耳を押さえていた。

 骨の鐘ではない何かを聞いている。

『ギルザ』

 彼女の口から、死んだベッカーの声が出た。

『もっと近くへ』

 ギルザ自身が驚き、口を塞ぐ。

 鐘が鳴った。

 音の刃が彼女の周囲へ集中する。嵩成が飛びつき、二人で床を転がった。直前までいた場所が、円形に消滅した。

 ギルザの首筋には、細い赤褐色の線が浮かんでいた。土器のひびに似た線だ。

「水の部屋で触れられた?」シシェレが尋ねる。

「何も――」

 ギルザの左目が一瞬だけ裏返った。

 白目の奥で、歯が回転した。

 タウが彼女から離れる。

「入られている」

 フェティアは迷わず拳銃を抜いた。

 ギルザはその手首を掴み、あり得ない力で捻った。骨が鳴る。

 彼女の口が裂け、顎の下まで開いた。

 内側には舌がなかった。

 大小無数の人間の歯が、喉の奥へ螺旋を描いていた。

 ギルザだったものが笑った。

 ベッカー、ドレカイ、子供、老人、そして海堂沙羅の声が、同時に響いた。

『器を、返せ』

六 星を食うもの

 戦えば、鐘が鳴る。

 叫べば、部屋が砕ける。

 逃げ道まで二十歩。

 ギルザだったものは、四肢を不自然に折り曲げて立ち上がった。首筋の亀裂が顔へ走り、皮膚の下から青い光が漏れる。フェティアの拳銃を握ったまま、反対の手で自分の胸を開いた。

 肋骨の内側に、いくつもの小さな顔が並んでいた。

 嵩成は床の貝殻板を見た。

 踏めば鳴る。鳴れば、天井の骨鐘が同じ音を増幅する。

 増幅された音は、発生地点を砕く。

 彼女はブーツを脱ぎ、靴紐を解いた。

 片方のブーツへ拳銃の予備弾倉を押し込み、振り子のように回す。

 タウが意図を悟った。

 彼は壺の模様を指でなぞり、刻印の長短を読む。

 指を三本立て、二本、一本。

 三拍、二拍、一拍。次に、欠けた歯――休止。

 嵩成は頷いた。

 ギルザが一歩踏む。

 貝殻が鳴り、天井の鐘が低く震えた。

 全員の骨が軋む。

 嵩成はブーツを投げた。

 一枚目の貝殻。高い音。

 二枚目。低い音。

 三枚目。高い音。

 ギルザは音を追い、首を百八十度回した。

 ブーツが壁へ当たり、床へ落ちる。

 弾倉の重みで、三枚、二枚、一枚の順に貝殻を叩いた。

 そして一拍、沈黙。

 六種類の鐘が共鳴した。

 音の焦点が、ギルザの胸へ集まる。

 彼女の身体が空中で静止した。

 皮膚が剥がれたのではない。人間の形を保っていた「記憶」が剥がれた。腕が何人もの腕へ、顔が何十もの顔へ分裂し、それぞれ別の方向へ逃げようとする。

『嵩成!』

 母の顔が、その群れの中に現れた。

 泣いていた。

『助けて』

 嵩成は目を逸らさなかった。

「母は、泣くときに人の名前を呼ばない」

 彼女は最後の貝殻を踵で踏み抜いた。

 骨鐘が一斉に鳴る。

 ギルザだったものは、赤い粉となって崩れた。粉の中から黒い糸が何百本も伸びたが、音の波に切り刻まれ、床の亀裂へ吸い込まれていった。

 部屋の向こうで扉が開く。

 四人は転がるように通過した。

 フェティアは折れた手首を胸へ抱えていた。それでも壺は離さない。

「彼女は十二年、私のために働いた」

「だから撃とうとした?」嵩成。

「手遅れだと判断した」

「判断が早いのが長所ね。人間をやめるのも、きっと早い」

 フェティアは笑わなかった。

 次の通路は、まっすぐ中央へ伸びていた。

 左右の壁は透明で、その向こうを立方体群が流れている。各部屋の中に、人影が見えた。

 古い衣を着た者。裸の子供。潜水服の男。軍服の女。時代も人種も異なる影が、閉じた立方体の中を歩き続けている。

 ある部屋には、海堂沙羅がいた。

 若いままの母が、透明な壁へ手を当てる。

 嵩成も足を止めた。

 母の唇が動く。

 ――器は、入れるものを選ばない。

 音は聞こえない。

 それでも言葉は分かった。

 フェティアが先へ進む。

「残像だ。囚人の記録にすぎない」

「あなたは二十一年前、何をした?」

「扉を開けた」

「その後は?」

「閉められた」

「母に?」

 フェティアは答えず、壺を通路の終端へ掲げた。

 最後の扉が開く。

 その向こうには、夜空があった。

七 最初の航海者の宝

 夜空に見えたものは、巨大な球形空間だった。

 直径百メートルほどの闇。その内側を、青白い点が星のように巡っている。星々はときおり線で結ばれ、島々の形を作り、またほどけた。

 球の中央には、黒い物体が浮かんでいた。

 長さ三メートルほどの、細長い紡錘形。

 黒曜石に似ているが、表面には脈拍のような光が走る。その周囲を六枚の陶製の環が回転し、環の全面に歯状施文が刻まれていた。

 足元から細い桟橋が中央へ伸びる。

 桟橋の両側には海がない。それでも、遠い波の匂いがした。

 タウは星の配置を見上げた。

「島の地図だ。ビスマーク諸島から、ソロモン、ヴァヌアツ、フィジー、トンガ、サモアへ……けれど海岸線が古い。三千年前の航路を重ねている」

 シシェレは環の回転へ見入った。

「外側の星図と同期している。天体の位置、季節風、潮汐、海流。それだけじゃない。可能な航路を同時に計算している」

「羅針盤ではない」とフェティアが言った。「目的地を選べば、そこへ至る海を作る。距離という障害を、折り畳む」

「そんな力を、最初の航海者たちが使ったと?」嵩成。

「一度は」

 答えたのは、フェティアではなかった。

 中央の紡錘形の前に、海堂沙羅が立っていた。

 二十一年前と同じ姿。短く切った黒髪、日に焼けた頬、左眉の古い傷。調査服の胸には、嵩成が幼い日に縫いつけた青いボタンまで残っている。

「母さん」

 呼んだ瞬間、球形空間の星がすべて瞬いた。

 沙羅は微笑んだ。

「大きくなったわね」

 嵩成は足を踏み出した。

 タウが腕を掴む。

「名前を呼んだ」

「分かってる」

「なら、あれが何を得たかも分かるはずだ」

 沙羅は悲しそうにタウを見た。

「私は偽物ではない。少なくとも、偽物だと感じる部分は私の中にない。最後にここへ残ったときの記憶も、娘を置いてきた後悔もある」

「身体は?」嵩成。

「死んだ。ずっと前に」

 声は静かだった。

「このものは、触れた人間を写し取る。声、姿、記憶、恐怖、愛情。ラピタの航海者たちは、海底でこれを見つけた。空から来たのか、海より古いのかは分からない。彼らは一度だけ、その力で遠い島へ渡った。けれど到着した島に、自分たちと同じ顔をした者が先に立っていた」

 球の星々に、人の顔が浮かんでは消える。

「これは距離を折るのではない」と沙羅は続けた。「目的地と出発地の間にあるものを写し、同じにする。海も、島も、人も。すべてを一つの記憶へ変えようとする」

「だから迷宮を作った」とシシェレ。

「ええ。直線のない檻。常に形を変え、全体像を誰にも記憶させない檻。彼らは土器の模様へ、檻を動かす規則を分散して残した。壺一つでは足りず、破片一つでも欠ければ完成しないように」

 フェティアが笑った。

「だが完成した」

「いいえ」とタウ。「完成させてはいけなかった」

 沙羅の視線が壺へ落ちる。

「歯を欠かしたのは、破損ではない。これが理解できないものを、規則の中へ残すため。意図的な空白。語られない名前。歌わない一拍」

 シシェレが息を呑む。

「欠けた部分が、乱数の種だった。フェティアが破片を戻したから、迷宮の変化が予測可能になった」

 六枚の環が、少しずつ回転を遅くしている。

 黒い紡錘形の表面に、縦の亀裂が入った。

 内側から、巨大な目が開く。

 瞳孔には、歯状施文の顔が浮かんでいた。

「壺を離して」沙羅が言った。

 フェティアは中央へ歩き出す。

「君たちは、空白を神聖視しすぎる。人類の歴史は、未知を埋めてきた歴史だ。海図の空白を、病の原因を、宇宙の距離を。これを制御すれば、飢餓も物流も戦争も終わる」

「所有者が、あなた一人なら?」嵩成。

「責任を負う者は少ないほどいい」

 彼は壺を第一の環にある窪みへ置いた。

 六枚の環が停止する。

 球形空間から、波の音が消えた。

 黒い紡錘形が割れた。

 中から現れたものに、決まった形はなかった。

 翼に見えた次の瞬間には、巨大な魚の顎となり、さらに都市の夜景、人間の脳、胎児、嵐の目へ変わる。見た者の記憶から形を借り、借りたそばから食べていく。

 無数の細い腕がフェティアへ伸びた。

 彼は逃げなかった。

「私を読め」

 腕が胸、顔、頭蓋へ入る。

 フェティアの身体が青い光で透けた。骨格の周囲を、別の骨格が何百通りも重なる。

「私が、おまえの航海者になる」

 次の瞬間、彼の背中から六本の黒い肢が開いた。

 折れた手首が逆向きに伸び、指が長い歯へ変わる。顔の半分はフェティアのまま、もう半分にはギルザ、ベッカー、ドレカイ、そして沙羅の顔が入れ替わり続けた。

 フェティアだったものが、宙へ浮く。

『目的地を選べ』

 球の内壁に、世界中の都市が映った。

 東京、ロンドン、ニューヨーク、シンガポール。港に立つ人々が、同じ瞬間に空を見上げている。

『すべての海を、一つにする』

「最悪の旅行会社ね」嵩成は鉤縄を構えた。

 怪物の腕が薙ぎ払われる。

 桟橋が砕けた。

八 欠けたままの器

 嵩成は跳んだ。

 鉤縄が第二の環へ絡み、身体が球形空間へ振り出される。足元を、フェティアの黒い腕が通過した。腕の表面に何百もの口が開き、それぞれ別の言葉で彼女の名を呼ぶ。

『嵩成』

『嵩成』

『嵩成』

「安売りしないで」

 彼女は振り子の勢いで第一の環へ着地した。

 壺は窪みの中で青く燃えている。

 引き抜こうとするが、見えない力で固定されていた。

 タウとシシェレが桟橋を走る。

 怪物が腕を向ける。

 球の星図から、巨大な波が実体化して押し寄せた。タウはシシェレを抱えて伏せる。波は桟橋を洗い、空中へ落ちるはずの水が、そのまま反対側の星空へ流れ込んだ。

「環を動かせ!」沙羅が叫んだ。「壺を外すには、迷宮を不完全に戻すの!」

 六枚の環には、それぞれ取っ手がある。

 タウが外側の環へ飛びつき、全身で回した。環は重く、ほとんど動かない。

 シシェレが刻印を読む。

「同じ方向じゃない! 隣り合う環を逆回転させる。長波と返し波の位相を打ち消すのよ!」

 彼女は第五の環へ走った。

 嵩成は第一の環の取っ手を蹴る。

 三人が別々の環を回すと、星図が歪み始めた。

 フェティアの顔が怪物の表面へ浮かぶ。

『やめろ。何が失われるか分かっているのか』

「あなたの資産価値?」

『人類が二度と得られない知識だ』

「知識は、持ち主が一人になった瞬間に武器へ変わる」

『沙羅も同じことを言った』

 怪物の胸が開き、若い沙羅が現れた。

 今度の彼女は生身に見えた。血の色、汗の匂い、瞳の小さな傷まである。

「嵩成」

 その声だけは、他の声と重ならなかった。

「私はここにいる。壺を壊せば、私も消える」

 嵩成の手が止まる。

 二十一年分の不在が、突然、重さを持った。

 卒業式の空席。父の葬儀で握る手がなかったこと。初めて深海へ潜った日に、聞かせる相手がいなかったこと。母を憎むことでしか、待ち続けられなかった夜。

「本当に、母さんの記憶があるの?」

「あるわ」

「私を愛してる?」

「もちろん」

「じゃあ、母さんなら何て言う?」

 沙羅の顔が揺れた。

 嵩成は笑った。涙が一筋だけ頬を流れた。

「私の母はね、宝を見つけるたびに言ったの。『持って帰れるものだけが宝じゃない』って」

 沙羅は目を閉じた。

 怪物の表面に浮かぶ顔ではなく、中央に立つもう一人の沙羅――最初から彼らへ説明していた記録体が、静かに頷いた。

「そう。だから、置いていきなさい」

 その言葉と同時に、怪物の腕が嵩成へ襲いかかった。

 タウが外環を逆転させる。

 星図が一瞬消え、腕の先端が空間の折り目へ挟まれた。無数の口が絶叫する。

「今だ!」シシェレが叫ぶ。「欠けを作れ!」

 嵩成は壺を見た。

 三千年前の指が粘土を整え、櫛歯を押し、模様を刻んだ器。海を越え、土に埋もれ、略奪され、母から娘へ道をつないだ器。

 値段をつければ、博物館一つが買える。

 値段をつけなければ、誰のものでもない時間そのものだ。

 彼女は腰の地質ハンマーを抜いた。

「ごめん」

 壺の完成した一箇所――母の破片が嵌まった場所へ、振り下ろした。

 乾いた音がした。

 壺に亀裂が走る。

 怪物が全員の声で吠えた。

 嵩成は二度目を打った。

 壺が砕け、歯状施文が無数の断片へ戻る。

 六枚の環が暴走した。

 星図の島々が分裂し、航路がほどけ、球形空間全体に巨大な空白が生まれる。怪物はその空白を埋めようとして形を変え続けた。人、魚、星、都市、母。だが空白には写すべき形がない。

 タウが環の刻印を読み上げる。

「長い波、短い波、返し波――六つ数えて、一つ待て!」

 三人は同時に手を離した。

 七拍目。

 六枚の環が、怪物を中心に閉じた。

 陶の輪が黒い肉体へ食い込み、ばらばらの像を一つずつ切り離す。フェティアの顔が最後に残った。

『私は、世界を変えられた』

「世界は、あなたがいなくても変わる」

 環が閉じる。

 フェティアの顔は、一本の黒い線になって消えた。

 中央の紡錘形が収縮し、拳ほどの黒い塊になる。

 それを包むように、壺の破片が集まって球を作った。ただし、どこにも完全な模様はない。無数の欠け目から青い光が漏れ、やがて消えた。

 海堂沙羅の記録体が、嵩成の前に立っていた。

 輪郭が透けている。

「これでいいの?」嵩成は尋ねた。

「あなたが選んだなら」

「ずるい答え」

「親は、最後にはそれしか言えないのよ」

 沙羅は手を伸ばした。

 触れた感覚はなかった。けれど嵩成の頬に、懐かしい潮の匂いが残った。

「海は閉じる。走って」

 球形空間が崩れ始めた。

九 帰る波

 帰路の迷宮は、来たときとは別物になっていた。

 桟橋がほどけ、立方体が雨のように落ちる。三人は傾く通路を走った。背後から、閉じた環に呑まれ損ねた黒い糸が追ってくる。糸の先では、小さな口が嵩成の名を囁き続けていた。

 最初の分岐は六つ。

 壺はない。

 青い案内もない。

 タウが壁へ掌を当てた。

「波を聞け」

「ここ、海の下よ」シシェレが息を切らす。

「だから聞こえる」

 壁の向こうを、外洋のうねりが伝わっていた。

 長い振動、短い振動、返し波。六つ、そして一つの間。

 三人は間の方向へ飛び込む。

 部屋が回転し、床が壁になる。

 嵩成は鉤縄で二人を引き上げた。

 光の雨の部屋では、壺の代わりにシシェレが移動周期を数えた。

「左、二秒。右、四秒。交差まで三、二、一!」

 三人は光線の間を滑り抜ける。

 水の部屋はすでに崩れ、外海が流れ込んでいた。

 暗い水中で、黒い糸が追いつく。

 糸はシシェレの足首へ巻きついた。

 彼女の口から泡が漏れる。

 嵩成は戻り、ナイフで糸を切った。

 切断面からフェティアの声がした。

『取引をしよう』

 嵩成は中指を立てた。水中では文化の差を越えて通じた。

 呼吸する部屋へ辿り着く。

 壁は今や激しく痙攣し、吸うたび一メートルずつ狭まっていた。

「七拍も待てない!」シシェレが叫ぶ。

「待つんじゃない」とタウ。「休止は、与えられるものじゃない。作るものだ」

 彼は非常用の発煙筒を壁の継ぎ目へ差し込んだ。

 燃えるマグネシウムが、呼吸する壁を焼く。部屋が痛みに反応し、一瞬だけ息を止めた。

「今が七拍目だ!」

 三人は膜になった壁へ飛び込んだ。

 最後の立方体。

 人面の壁はすべて目を開き、口々に名前を叫んでいる。

 嵩成は耳を塞がない。

「名前は返さない」

 閉じた顔を探す。

 一つだけ、口を持たない顔があった。

 それは海堂沙羅ではない。三千年前、壺へ最初の模様を刻んだ名もなき人物の顔だった。頬には皺があり、唇の端に粘土がついている。

 嵩成はその顔へ手を触れた。

 壁が開き、外海の光が差し込んだ。

 大波が三人を呑み込む。

 崖の正方形から、夜明けの海へ吐き出された。

 嵩成は上下を失い、泡の中でもがいた。

 誰かの腕が脇へ入る。タウだ。反対側ではシシェレが、壊れた救命浮標へしがみついている。

 三人は波に運ばれ、珊瑚砂の浜へ打ち上げられた。

 背後で崖が轟いた。

 正方形の入口が、左右から閉じていく。

 最後の隙間に青い星が一つ見えた。

 六度瞬き、一度休む。

 そして完全に消えた。

終章 持って帰れない宝

 三日後、嵐は去った。

 《ネヴァリス》は無人のまま沖で座礁し、船内からは未登録の発掘品が二百七十三点見つかった。ナウア政府は船と収蔵品を差し押さえた。アベル・フェティアと警備要員三名は行方不明。公式記録には「海難事故の可能性」と記された。

 球形空間も、立方体迷宮も発見されなかった。

 崖の内部を地中レーダーで調べても、詰まった玄武岩があるだけだった。

 嵩成、タウ、シシェレの証言は一致していた。

 一致しすぎている、という理由で信用されなかった。

 文化遺産局の仮設収蔵庫で、嵩成は長机の上の土器片を見ていた。

 《ネヴァリス》から回収された、普通のラピタ式土器の破片である。赤褐色の表面に、歯状施文が残っている。青く光りもしない。母の声もしない。

 タウが隣へ立った。

「帰国便は明日だそうだ」

「追放?」

「政府は『調査協力への謝意』と言っている」

「丁寧な追放ね」

 彼は小さな透明袋を机へ置いた。

 中には、迷宮から持ち帰った唯一のものが入っていた。

 壺が砕けたとき、嵩成の潜水服の襟へ飛び込んだ破片だ。模様はない。ただ、焼く前の粘土に残った指紋が一つある。

「分析では年代を測れなかった」とタウ。「材質も特定不能。だから国宝には指定できない」

「なら、売れる?」

「君は売るのか」

 嵩成は袋を持ち上げた。

 三千年前の誰かの指先が、透明な膜越しに自分の指と重なる。

 海を渡った者。未知を恐れた者。恐れながら、それを閉じ込める知恵を選んだ者。

 名前はない。

 名前がないから、食われなかった記憶。

 嵩成は袋をタウへ返した。

「ここへ置いていく」

「持って帰れないから?」

 窓の外では、朝の海が光っていた。

 遠くで小さな帆走カヌーが、島影へ向かっている。星も機械も見えない昼の海を、風と波の交差だけで進んでいく。

 嵩成は首を振った。

「持って帰れないものだから、宝なのよ」

 タウは返事をせず、破片を収蔵箱へ収めた。

 蓋を閉じる直前、二人は指紋の脇に小さな刻印があるのを見つけた。

 六本の歯。

 そして、一本分の空白。

 外で波が砕けた。

 六つ数えて、一つ休み、また次の海へ帰っていった。

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本作はフィクションです。登場人物、島、遺跡、組織および超常的設定は架空のものです。ラピタ文化に関する考古学的要素を創作上のモチーフとして用いています。