『星降り峠のこがね丸』

一 山で目を覚ましたら、だいたい丸かった

 前世の最後の記憶は、月曜の朝だった。

 横断歩道へ飛び出した子犬を助けようとして、私は書類鞄を放り出した。そこまでは、まあ、善行だったと思う。

 ただし、子犬は自力でひらりと避け、私だけが宅配自転車と植木鉢と町内会の餅つき台に挟まれた。

 なんとも締まらない最期である。

 次に目を覚ましたとき、私は山の中にいた。

 見上げれば、杉の梢の向こうに青空がある。見下ろせば――いや、下を見るための首がない。手も足もなく、声を出す口さえない。

 代わりに、半透明で、薄い蜂蜜色をした、ぷるぷるの何かが地面に乗っていた。

 それが私だった。

(これは、噂に聞く異世界転生というやつか)

 私は前世で、営業部の片隅に置かれた観葉植物より目立たない会社員だったが、物語だけはよく読んだ。剣と魔法、勇者と魔王、転生したら伝説の竜だった、聖剣だった、温泉だった――だいたい何でもありだ。

 しかし、いざ自分が丸い寒天のような姿になると、知識はあまり役に立たない。

 這おうと力むと、身体の端がむにゅっと伸びた。

 そのまま落ち葉に触れた瞬間、頭の内側へ、意味のわからない感覚が流れ込んできた。

 乾いている。軽い。脆い。燃えやすい。

(……わかるぞ)

 私は落ち葉を包み込んだ。

 すると身体の一部が茶色くなり、薄く広がって、風を受けた。

 ふわり。

 私は三尺ほど飛んで、石にぶつかった。

 今度は石の感触が入ってくる。

 硬い。重い。冷たい。動かない。

 身体の表面を石に馴染ませると、ころん、とした小石のようになった。けれど、重くなりすぎて一歩も動けない。

(なるほど。触れたものの性質を借りられるらしい)

 便利そうだが、使い方を間違えると自分で自分を文鎮にする能力である。

 試しに苔へ馴染めば水を吸えた。木の皮へ馴染めば少し丈夫になった。川の水へ馴染めば、斜面をするすると流れ下れた。

 調子に乗って急流へ飛び込んだら、滝から落ちた。

 ばしゃん。

 私は河原いっぱいに飛び散った。

(死んだ! 二度目!)

 と思ったが、飛び散った粒は勝手に集まり、しばらくすると元の丸い姿へ戻った。

 どうやら、しぶとさだけは一人前らしい。

「なんじゃ、こりゃあ」

 声がした。

 顔を上げる代わりに身体を持ち上げると、籠を背負った老婆が立っていた。背は小さいが、腰は曲がっていない。白髪をきっちり束ね、片手に山菜、もう片手に熊除けの鉈を持っている。

 老婆は私をつついた。

 ぷるん。

「餅にしちゃあ、逃げるのう」

(食べ物ではありません)

 そう伝えたくて震えたが、老婆は目を細めた。

「腹が減っとるんか」

 取り出したのは、茹でた栗だった。

 私は迷った。

 しかし腹という器官はなくても、空腹という感覚はある。

 栗を包み込むと、甘みと温かさが全身に広がった。

 うまい。

 感動のあまり、身体が黄金色に輝いた。

「ほう。笑っとる」

 老婆はそう言った。

 その日から、私は山奥の一軒家で暮らすことになった。

 老婆の名はトヨ。麓の者からは、トヨばあと呼ばれていた。

「山のものには、山の名前が要る」

 囲炉裏端で私を眺めながら、トヨばあは言った。

「栗で金色になった。丸い。なら、こがね丸じゃ」

 こうして私は、こがね丸になった。

二 こがね丸、山の子になる

 トヨばあは、私が人ならぬものでも、少しも驚かなかった。

「山には山の都合がある。人の都合ばかり押しつけるもんじゃない」

 それが口癖だった。

 私は彼女の暮らしを手伝った。

 水になじんで桶へ入り、薪になじんで火持ちをよくし、鍋底になじんで焦げつきを防いだ。万能台所用品のような日々である。

 やがて私は、人の姿も取れるようになった。

 トヨばあの昔話を聞き、麓の子どもたちを遠くから眺め、骨の代わりに木のしなやかさを、皮膚の代わりに粘土の柔らかさを借りた。

 最初は頭が四角かった。次は腕が六本になった。その次は顔が背中についた。

「惜しいのう」

 トヨばあは毎回そう言った。

 三年かけて、ようやく十歳くらいの少年らしい姿になった。

 髪は濡れた黒曜石のようで、瞳だけが蜂蜜色。興奮すると頬がぷるぷるする。

 身体の大きさは自由に変えられたが、トヨばあは言った。

「急に大きゅうなると、服がもったいない」

 もっともな話だったので、私は一年ごとに少しずつ背を伸ばした。

 山には友だちもできた。

 猪のウリ坊は、畑を荒らそうとするたび私に転がされた。猿のサスケは、人の弁当を盗むたび私に木の上から下ろされた。熊のゴンタとは、なぜか初対面から相撲を取ることになった。

 私は石の重さと柳のしなやかさを借り、熊の突進を真正面から受けた。

「のこった!」

 行司は猿だった。

 ゴンタの前脚が私の肩にかかる。

 普通の人間なら地面へ埋まっていただろう。私は足を根のように伸ばし、地中の岩へ絡めた。

「そいやっ!」

 熊の巨体が宙を舞った。

 谷へ落ちかけたので、慌てて身体を縄のように伸ばして助けた。

 それ以来、ゴンタは親友になった。

 麓の村で大水が出た年、私は川幅いっぱいに身体を広げ、流木を受け止めた。冬には雪崩の前へ壁になって立ち、春には崩れた橋の代わりになった。

 村人たちは、私を化け物とは呼ばなかった。

「峠のこがね丸が来たぞ」

「丸坊主、こっちの丸太も頼む」

「丸太と丸坊主を一緒にするな!」

 私は人の姿で笑い、二十人がかりの材木を一人で担いだ。

 前世の私は、コピー用紙の箱を持っただけで腰を痛めた。

 人生とは、わからないものである。

 十五年が過ぎた。

 私は見た目だけなら、十七、八の若者になっていた。

 トヨばあの白髪は増えたが、鉈を振る腕は相変わらず私より怖い。

 そんなある晩のことだ。

 星が、落ちてきた。

 ただの流れ星ではない。

 紫の稲妻を何本も引きずり、太鼓のような轟音を鳴らしながら、まっすぐ峠へ向かってくる。

「こがね丸」

 トヨばあが縁側から空を見上げた。

「客じゃ」

「ずいぶん乱暴な客ですね」

 星は山頂へ激突した。

 どおおおん、と地面が跳ねた。

 私は反射的に身体を広げ、家とトヨばあを包み込んだ。土煙が晴れると、山頂に巨大な円盤が突き刺さっていた。

 円盤の縁には、見たことのない文字が光っている。

 中央の扉が、蒸気を吐いて開いた。

 現れたのは、少女だった。

 夜空のように濃い藍色の髪。金属を編んだ短い外套。額の左右には、白銀の小さな角がある。

 少女は宙に浮く輪を片手で回しながら、堂々と名乗った。

「辺境天体・地球の住民よ。私は雷環連邦、第三皇女トバリ。古き星約に基づき、この山域を――」

 そこで円盤が、もう一度大きく傾いた。

「なっ?」

 少女の足が滑る。

 手から銀色の輪が離れ、坂を転がった。

「待て! それは儀礼用の雷環――!」

 輪は村へ向かって加速し、電光を撒き散らした。触れれば家が何軒か燃えそうだ。

 私は斜面を駆け下り、身体を長く伸ばした。

「危ない!」

 輪をつかむ。

 全身を、雷が貫いた。

 ばりばりばりばりっ!

 私は青白く発光した。

 髪が全部逆立ち、両腕が勝手に盆踊りを始めた。

 だが、死なない。

 雷を身体へ馴染ませ、足から地面へ逃がす。山中の石が一斉にぴかりと光った。

 やがて放電が収まる。

「ふう。危なかった」

 私が輪を持ち上げると、トバリ皇女は真っ青な顔で立ち尽くしていた。

「貴様……」

「はい?」

「私の雷環を、素手でつかんだな」

「村が燃えそうだったので」

「しかも雷を受けても立っている」

「立っているというか、少し溶けています」

 右足がまだ水たまりのようになっていた。

 トバリは一歩近づき、私の手にある輪と、私の顔を交互に見た。

 それから、角の先まで真っ赤になった。

「……婚姻成立だ」

「何がです?」

「だから! 雷環連邦の未婚皇族が投げた環を受け止め、その雷に耐えた者は、天に選ばれた伴侶となる!」

「その規則、着地する前に説明していただけませんか」

 トヨばあが、遠くで腹を抱えて笑っていた。

三 空から来た嫁は、山を領地にしたい

 翌朝、トバリ皇女は我が家の囲炉裏端に正座していた。

 正確には、正座させられていた。

「客が屋根を壊したら、まず謝る」

 トヨばあが言った。

「私は雷環連邦の皇女だぞ」

「皇女でも瓦は直す」

「う……」

「返事」

「はい」

 宇宙の皇女は、山の老婆に弱かった。

 トバリは、どうやらこの山を調査しに来たらしい。

 大昔、彼女たちの祖先が地球へ降り、山の地下へ「星炉」という装置を封じた。その管理権が雷環連邦へ戻る時期になったのだという。

「つまり、山をあなたの国の領地にする、と?」

「星約にはそう記されている」

「この山には、村も畑も墓もあります」

「住民は移住させる。補償として、連邦標準の居住筒を――」

「筒はいやじゃ」

 トヨばあが即答した。

「まだ説明の途中だ!」

 トバリは立ち上がり、天井の梁に角をぶつけた。

 ばちん、と火花が散る。

「痛っ!」

「皇女でも梁には勝てませんね」

「黙れ、婚約者!」

「婚約していません」

「雷環を返さぬくせに!」

「触ると村が停電するんです。今は物置の漬物石の下です」

「国宝を漬物石扱いするな!」

 怒るたびに、トバリの角から電気が漏れた。

 私は雷へ馴染めるので平気だが、近くにいる猿のサスケは毛が膨らみ、二倍の大きさになった。

 トバリは、この山を野蛮な辺境と決めつけていた。

 村の便所を見て卒倒し、味噌の匂いに警戒し、熊のゴンタを野生兵器だと思って指揮下へ置こうとした。

 しかし三日もすると、彼女は村の子どもたちと一緒に川で魚を追い、サスケと柿を取り合い、ゴンタの腹を枕に昼寝していた。

「気に入っているように見えますが」

 私が言うと、トバリは柿の種を飛ばした。

「調査だ」

「昼寝も?」

「重力環境への適応訓練だ」

「おかわりの味噌田楽も?」

「現地食料の毒性確認だ」

「七本目ですよ」

「念入りに確認している!」

 口は悪いが、根はまっすぐな娘だった。

 問題は、彼女の後から来た。

 空が昼なのに暗くなり、雲を割って、黒い三角形の船が降りてきた。

 地面へ降り立ったのは、鉄色の角を持つ大男だった。肩から垂らした外套には、雷を六つ組み合わせた紋章がある。

「第三皇女殿下」

 男は片膝をついた。

「星務監察官バクライ、殿下をお迎えに参りました」

 トバリの顔が強張った。

「予定より早いな」

「辺境生物との婚姻儀礼を検知しましたので」

 バクライは私を見た。

 目つきは、腐った切り株でも見るようだった。

「それが、伴侶候補ですか」

「候補ではない。儀礼は成立した」

「していません」

 私は横から訂正した。

「どちらだ」

「今、協議中だ!」

 トバリが怒鳴る。

 バクライは小さく鼻を鳴らした。

「連邦法では、皇族の婚姻相手は知性種として登録され、固有形態と出生記録を持たねばなりません。この者に、その資格が?」

「あります。たぶん」

「たぶん?」

 私は少し考えた。

「出生記録はありません。固有形態も、これと決まっていません」

 そう言って、片腕を木に、もう片腕を石に変えてみせる。

 バクライの眉が上がった。

「不定形生物。なおさら不適格だ」

 胸の奥が、少し冷えた。

 前世でも、似たような言葉を聞いたことがある。

 専門がない。個性がない。代わりが利く。何者なのか、よくわからない。

 私は何にでも馴染める。

 だからこそ、自分だけの形がない。

 トバリが立ち上がった。

「資格を決めるのは、書類だけではない」

「では、古式に従いましょう」

 バクライは薄く笑った。

「星炉の管理権を賭け、地球側代表と連邦側代表が『峰渡り』で競う。勝者が山域と皇女の婚姻問題を裁定する」

「峰渡りだと?」

「殿下が辺境の風習を尊重なさるなら、最も公平かと」

 峰渡りとは、山頂から三つの峰を越え、星炉の鍵を先に持ち帰る競技らしい。

 ただし雷環連邦の競技である。空を飛べる彼らが圧倒的に有利だ。

「卑怯だな」

 トバリが低く言った。

「規則通りです」

「その規則ごと、私が――」

「受けます」

 私は言った。

 トバリが振り返る。

「こがね丸?」

「山のことを、山にいない人だけで決められたくありません」

 トヨばあは黙って、私を見ていた。

 やがて、囲炉裏の横に立てかけてあった古い薪割り斧を差し出した。

「持っていけ」

「これ、刃こぼれしていますよ」

「道具は使う者で決まる」

 その言葉は、不思議と胸へ残った。

四 峰渡りは、だいたい反則だらけ

 競技の日、山頂には村人も動物も集まった。

 連邦側代表はバクライ本人だった。

 背中に雷翼という機械をつけ、両腕には電撃砲、足には重力制御具。どう見ても重装備である。

 私の装備は、刃こぼれした斧と、トヨばあが握ってくれた栗飯のおにぎり二つだった。

「公平とは」

 私がつぶやくと、トバリが耳をそらした。

「連邦語では、少し意味が違う」

「便利な言葉ですね」

 合図の雷が鳴る。

 バクライは一瞬で空へ飛び上がった。

 私は地面へ沈み、木の根へ馴染んだ。

 山中の根が、一本の道になる。

 杉から杉へ、樫から樫へ。身体を細く伸ばし、土の下を滑る。

 第一の峰では、バクライが待ち伏せしていた。

「遅い」

 電撃砲が放たれる。

 私は斧を地面へ突き刺し、鉄の性質を借りた。雷を受け、土へ流す。

 ばちばちばちっ!

 全身が光る。

「効かないのか」

「肩こりには効きそうです」

 私は足をばねのように縮め、一気に跳んだ。

 バクライの外套をつかみ、地面へ投げる。

 しかし、彼の身体は残像になって消えた。

「立体映像だ」

 頭上から声がする。

 岩壁が爆発し、私は落石に飲まれた。

 普通なら、ここで終わりだっただろう。

 だが私は、落ちてくる岩へ馴染んだ。

 岩山そのものとなって立ち上がる。

「その程度では、潰れませんよ!」

 両腕を巨大な石の柱に変え、崖を押し返す。

 観戦していた村人から歓声が上がった。

 熊のゴンタが、なぜか得意げに胸を張っている。

 第二の峰は、雲の上だった。

 私は鷹の羽根へ馴染み、身体を薄く広げた。鳥のように羽ばたくことはできないが、凧のように風へ乗ることはできる。

 そこへサスケが飛びついてきた。

「きゃっきゃっ!」

「なぜ乗るんです!」

 猿は私の背中を操縦席だと思ったらしい。

 右の毛を引かれれば右へ、左を引かれれば左へ。意外とうまく飛べた。

 後ろから、トバリの声がした。

「こがね丸、下だ!」

 雲を破り、黒い機械の鳥が何十羽も飛び出してくる。

「峰渡りに攻撃用無人機は許されるんですか?」

「規則には、禁止と書いてない!」

「公平の意味がますます遠い!」

 トバリは自分の雷を放ち、無人機を撃ち落とした。

 バクライが怒鳴る。

「殿下、競技への介入です!」

「私は婚姻当事者だ! 見学席が危険だったので自衛しただけだ!」

「見学席は地上です!」

「私の立つところが見学席だ!」

 皇女の理屈も、かなり便利だった。

 第三の峰には、円形の石扉が埋まっていた。

 星炉の入口だ。

 私が着いたとき、バクライはすでに扉の前にいた。

「終わりだ、不定形」

 彼が手をかざすと、扉の文字が赤く光った。

「管理権限、強制移行。星炉、起動」

 トバリの顔色が変わる。

「待て! 星炉は競技の鍵ではない。山脈改造装置だぞ!」

「承知しています」

 バクライは静かに答えた。

「この山には、連邦艦隊を百年動かせる星晶が眠っている。辺境の村に任せるには、価値が大きすぎる」

「最初から、競技などする気はなかったのか」

「殿下が原住生物との婚姻を撤回なさらぬなら、山ごと接収するまでです」

 地の底から、鐘を千個まとめて打ったような音が響いた。

 山が割れた。

 赤い光が噴き出し、第三の峰が内側から持ち上がる。

 岩と鉄が組み合わさり、角を持つ巨大な人型となった。胸の中心では、白い炉心が脈打っている。

 星炉は、山を歩く怪物へ変えた。

 一歩踏み出すたび、森が倒れ、川筋が変わる。

 その進む先には、村があった。

「停止命令を!」

 トバリが叫ぶ。

「命令権は私へ移りました」

 バクライの雷翼が開く。

「山域を更地にし、採掘基地を建設する。住民の損失は、連邦基準で算定しましょう」

 私は斧を握った。

「山は、数字だけでできていません」

「形すら持たぬ者が、何を語る」

 その言葉と同時に、星炉の巨人が拳を振り下ろした。

五 ぼくの形は、ぼくが決める

 私は身体を広げ、拳を受け止めた。

 山ほどの重さが、全身へかかる。

 石の性質を借りれば砕ける。鉄を借りれば曲がる。水になれば、押し流される。

 ならば、全部を使う。

 表面は鉄。

 内側は水。

 芯は樫。

 足は根。

 衝撃を受けた場所だけ泥になり、力を逃がす。

 それでも足元の地面が沈んだ。

「こがね丸!」

 トバリの雷が巨人の腕を撃つ。

 だが、星炉はその電気を吸収し、胸の光を強めた。

「雷は餌になる!」

「では、どうすればいい!」

 星炉の足が、村へ向く。

 私は考えた。

 前世で、私は何者でもなかった。

 会社に馴染み、相手に合わせ、頼まれた仕事を断れず、自分の輪郭を薄くして生きていた。

 今世でも、私は何にでもなれる。

 石にも、水にも、木にも、人にも。

 だが――。

「形がないんじゃない」

 私はつぶやいた。

「形を、選べるんだ」

 トヨばあがくれた斧を、星炉の足元へ打ち込む。

 刃こぼれした鉄の感触が、手のひらへ伝わる。

 長年使われ、研がれ、欠け、それでも薪を割り続けた道具。

 道具は、使う者で決まる。

 身体だって、きっと同じだ。

 私は地面へ溶けた。

 山中の水へ広がる。

 沢を走り、根をくぐり、岩の割れ目へ入り込む。

 星炉が踏みつけた森の痛みがわかる。逃げ惑う鹿の足音がわかる。村で鍋を抱えて走る人々の声がわかる。

 全部が、私の中へ入ってくる。

 私は山そのものにはなれない。

 けれど、山に暮らすものと馴染むことはできる。

「ゴンタ!」

 呼ぶと、熊が吠えた。

「サスケ!」

 猿が木の上で両手を振る。

「ウリ坊たち、畑じゃなくてあっちを掘れ!」

 猪の群れが、星炉の進路へ溝を掘る。

 村の樵たちは綱を持ち、子どもたちは鐘を鳴らして動物を逃がす。トヨばあは、いつの間にか星炉の足元まで来ていた。

「ばあちゃん、危ない!」

「年寄りに指図するな!」

 彼女は斧の柄を叩いた。

「こがね丸。割るなら、木目を見ろ。どんな大木にも、力の逃げ道がある」

 星炉の装甲を透かして見る。

 胸の炉心から、全身へ雷の筋が伸びている。力は強い。だが、すべてが一か所へ集まりすぎていた。

 過負荷。

 前世のオフィスで、古い電源タップに何台も機械をつなぎ、ブレーカーを落としたことを思い出した。

「トバリ!」

「何だ!」

「もっと強い雷をください!」

「餌になると言っただろう!」

「食べきれないほど、一度に!」

 トバリは一瞬、目を見開いた。

 それから、にやりと笑った。

「私に全力を出せと言ったな。後悔するなよ、婚約者!」

「その呼び方は後で協議します!」

 彼女は空へ舞い上がった。

 白銀の角が伸び、雲へ突き刺さる。

 空一面が紫に染まった。

「雷環連邦第三皇女、トバリ・ゼン・ライカの名において命ずる!」

 雲の中で、巨大な輪が回る。

「天よ、吠えろ!」

 世界が白くなった。

 落雷は一本ではなかった。

 百本、千本の光が束になり、星炉の胸へ落ちた。

 巨人が咆哮する。

 炉心が雷を吸い込み、赤から白へ、白から青へ変わる。

 まだ足りない。

 私は全身を鉄の縄に変え、巨人へ巻きついた。

 流れ込む雷を受け止め、身体じゅうへ走らせる。

 熱い。

 痛い。

 形が崩れる。

 人の顔が溶け、腕が飛び、足が水になる。

 それでも離さない。

 私は山へ根を張った。

 岩へ、水へ、森へ、村の井戸へ。雷の逃げ道を、幾千本も作る。

「今だ、みんな!」

 樵たちが綱を引く。

 猪が掘った溝へ星炉の片足が落ちる。

 ゴンタが体当たりし、サスケが制御板へ石を投げる。

 私は斧の柄を巨大化させた。

 山の木々のしなやかさ、岩の重さ、流れる水の勢いを重ねる。

 黄金色の腕が、夜空へ伸びた。

「せえええええのっ!」

 斧を、炉心の筋目へ振り下ろす。

 刃は装甲を断ち切らなかった。

 代わりに、雷の流れを二つに割った。

 星炉の全身で光が逆流する。

 ばちん。

 まるで家のブレーカーが落ちるような、小さな音がした。

 巨人の目から光が消える。

 私は最後の力を振り絞り、その巨体の懐へ潜り込んだ。

 腰を落とし、腕を回す。

 熊のゴンタと、何百回も繰り返した形。

「山を――返せっ!」

 星炉の巨人を、背負い投げした。

 山より大きな身体が、ゆっくり宙を舞う。

 落下地点には、バクライの船があった。

「待て、そこは私の――」

 どおおおおおおん!

 船は見事に平たくなった。

 山に、静けさが戻った。

 私は人の姿を保てず、手のひらほどの丸い塊になって、地面へ落ちた。

 トバリが駆け寄り、私を両手ですくう。

「こがね丸! 返事をしろ!」

(聞こえています)

 声が出ないので、ぷるんと震えた。

 彼女は泣きそうな顔をして、それから怒った。

「心配させるな、この軟体生物!」

 角から電気が漏れた。

 ばりっ。

 私はまた青白く光った。

(弱っているときに通電しないでください)

 ぷるぷる震えると、トヨばあが拾い上げた。

「元気そうじゃ」

「どこがだ!」

「光っとる」

 村人たちが笑い出した。

 私も、丸い身体で笑った。

六 星約改定会議は、栗飯の後で

 バクライは生きていた。

 潰れた船から、外套をぼろぼろにして這い出してきたところを、トヨばあに捕まった。

「山を壊した分、働いて返せ」

「私は星務監察官だぞ!」

「では、監察官は屋根を直せ」

「なぜだ!」

「皇女も直した」

 反論できず、バクライは村の大工に連行された。

 その後、雷環連邦から正式な調査団が来た。

 トバリが記録していた映像により、バクライの不正はすべて明らかになった。星炉の強制起動、辺境住民への危害、競技規則の悪用、皇族への反逆。

 連邦は山の接収を撤回し、新しい星約を結ぶことになった。

 なぜか、条文を作る役目が私へ回ってきた。

「前世で契約書を読んでいたから」と説明しても、誰にも前世の意味が通じない。

 私は囲炉裏端に座り、筆を持った。

 一、山の地下にある星炉は、山と村と雷環連邦の共同管理とする。

 二、許可なく山へ船を突っ込まない。

 三、皇族であっても壊した屋根は直す。

 四、婚姻儀礼は、事前に説明する。

「四番は要らん!」

 トバリが紙を奪おうとする。

「最重要です」

「雷環を受け止めた事実は変わらない!」

「事故です」

「運命だ!」

「事故です」

「では、私が嫌いか」

 突然、トバリは真正面から言った。

 囲炉裏の火が、ぱちりと鳴る。

 私は答えに詰まった。

 口は悪い。すぐ怒る。すぐ放電する。村の柿を勝手に食べる。

 だが、誰より真っ先に山を守ろうとした。

 私が形を失いかけたとき、泣きそうな顔で名前を呼んでくれた。

「嫌いでは、ありません」

「では好きか」

「話が早すぎます」

「宇宙は広い。時間を無駄にするな」

「地球には順序というものがあります」

「なら、その順序とやらを始めればいい」

 トバリは胸を張った。

「私はこの山に滞在し、貴様を観察する。貴様も私を観察しろ。その結果、互いにふさわしいと判断したなら――」

 彼女の角が、ほんのり光る。

「改めて、私の雷環を受け止めさせてやる」

「投げ方は弱めでお願いします」

「全力で投げる!」

「話し合いの意味がない!」

 トヨばあが栗飯をよそいながら言った。

「夫婦喧嘩は飯の後にせい」

「夫婦ではありません!」

「まだ夫婦ではない!」

 私とトバリの声が重なった。

 囲炉裏端のみんなが笑った。

 終 山から見れば、空も近所だ

 それから、峠は少し賑やかになった。

 空から来る客のため、山頂には小さな発着場ができた。ただし入口には大きな看板がある。

 ――着陸前に連絡すること。

 ――畑を焼かないこと。

 ――トヨばあに逆らわないこと。

 三つ目が最も重要だと、連邦の者たちはすぐに学んだ。

 バクライは監察官の地位を失い、星炉修復の責任者として山へ残った。

 最初は文句ばかり言っていたが、今では村一番の屋根直し名人である。雷翼を使った高所作業が、非常に効率的なのだ。

 トバリは、我が家の離れに住みついた。

 毎朝、宇宙式の訓練と称して私を追い回し、昼は村の子どもに文字を教え、夜は囲炉裏端でトヨばあの昔話を聞く。

「こがね丸、勝負だ!」

 今日も彼女は山頂から叫んだ。

 手には、あの銀色の雷環がある。

「何の勝負です?」

「私が環を投げる。貴様が受け止める」

「結果が決まっているじゃないですか」

「逃げてもいいぞ」

 にやりと笑う。

 私はため息をついた。

 熊のゴンタが後ろで座り、猿のサスケが木の上から見物している。猪たちは、また何か掘っている。

 麓では、トヨばあが洗濯物を干しながら、こちらを見上げていた。

 私は人の姿を取り、足を地面へ馴染ませた。

「では、一度だけです」

「よし!」

 トバリが雷環を振りかぶる。

 角が輝き、空に紫の筋が走った。

「受け止めてみろ、こがね丸!」

 銀の輪が飛んでくる。

 私は笑って、両手を伸ばした。

 前世の私は、何者でもないと思っていた。

 今の私は、決まった形を持たない。

 けれど、山に生きる者の友であり、トヨばあの家族であり、この土地を守る一人である。

 そしてたぶん、空から来た騒がしい皇女を、もう少し知りたいと思っている。

 それが今、私の選んだ形だ。

 雷環をつかむ。

 ばりばりばりっ、と山が光る。

「ちょっと強すぎませんか!」

「愛情分だ!」

「加減を覚えてください!」

 笑い声が、峠じゅうへ響いた。

 空から嫁が降ってくる人生も、山から見れば、たまにある天気なのかもしれない。