星骸岬と逆潮の泉

――読み切り冒険小説――

一 赤い釘

 世界の果てが崩れる音は、もっと大きいものだとミラ・エインは思っていた。

 実際には、白錨商会の役人が戸口へ赤い釘を打ち込む音だった。

 カン。

 乾いた音が、地図屋〈北を売る店〉の壁を震わせた。

「星暦九百十二年、夏至の翌朝をもって、本建物および星骸岬東区画は白錨商会の所有となる。居住者は夜明けまでに退去すること」

 役人は羊皮紙を読み上げ、濡れた口ひげを指で撫でた。雨は横殴りで、岬の下では鉛色の波が崖を噛んでいる。

「翌朝って、明日じゃない」

 フフェイは言った。

「正確には十四時間後ですな」

「それを明日っていうのよ」

「契約書では翌朝と」

 役人は同じ調子で繰り返した。背後には白い錨の徽章をつけた兵が二人。道の両側では、魚燻し屋にも、靴直しの小屋にも、パン屋にも、同じ赤い釘が打たれていた。

 星骸岬は、海から突き出した巨大な骨の上にできた町だ。

 昔、空を泳いだ獣がここへ墜ち、その背骨が半島になったのだと老人たちはいう。白い骨の崖には青く光る星塩が眠っている。白錨商会は町を壊し、崖を砕き、それを掘り出すつもりだった。

「借金は返したはずよ」フフェイは食い下がった。

「元金は。ですが防波堤修繕費の延滞利息、再延滞利息、延滞利息管理料、管理料未払い加算金が」

「利息に利息を乗せて、さらに名前を変えただけじゃない」

「名前が違えば別の費目です」

 役人は満足そうにうなずき、赤い釘をもう一度叩いた。

「日没後、建物への再入場は禁止します。反抗すれば拘束。よい旅を、お嬢さん」

 彼らが去ると、フフェイは釘を抜こうとした。

 びくともしない。商会の赤釘は契約魔術を帯びていて、打たれた家の扉は日没と同時に開かなくなる。

「抜けないものを引っぱると、肩が抜けるぞ」

 屋根から声が降った。

 見上げると、パン屋の息子バスクが雨樋に腹ばいになっていた。大きな体に小さすぎる黄色い雨合羽を着ている。その隣から、煤だらけの顔が逆さに現れた。廃品拾いのティトだ。最後に、傘をきっちり畳んだセリが煙突の陰から顔を出した。

「裏の天窓は契約の対象外」セリが言った。「契約書の対象は扉および一階窓。屋根は記載なし」

「どうして三人とも屋根にいるの」

「町が取られる最後の日だぞ」バスクが言った。「普通に道を歩く気分じゃない」

 三人は順番に屋根から降りてきた。ティトだけは途中で雨樋を外し、雨水を頭からかぶった。

 フフェイは赤い釘を睨んだ。

 地図屋の二階には、父が描きかけた海図がある。十年前、父アレンは「岬を救える航路を見つける」と言って海へ出たまま帰らなかった。それからフフェイは、父の机も、歪んだコンパスも、何ひとつ捨てられずにいた。

「十四時間で町を買い戻すだけの金が要る」とフフェイは言った。

「それならパンを八十万個売ればいい」バスクが指を折った。

「焼く時間を考えろ」ティトが言った。

「そこじゃない」セリがため息をつく。

 四人が黙ると、店の奥で何かが落ちた。

 コトン。

 父の仕事部屋からだった。

 扉は閉めてある。窓にも鍵。フフェイはカウンターの下から真鍮の火掻き棒を取り出した。バスクは長い麺棒を構え、ティトは錆びたナイフを、セリは会計帳を胸の前に持った。

「会計帳でどう戦うの」フフェイが囁く。

「角が硬い」

 四人は階段を上った。

 仕事部屋の床に、黒い木箱が落ちていた。

 天井裏の梁が雨でたわみ、隠し棚が開いたらしい。箱の蓋には、目を閉じた魚の紋章。鍵穴はなかった。

 ティトが耳を当てる。

「中で、波の音がする」

 フフェイが触れると、蓋に銀色の文字が浮かんだ。

 ――失ったものの名を言え。

「町」とバスク。

「家」とセリ。

「今日の朝飯」とティト。

 箱は開かなかった。

 フフェイは唇を噛んだ。

「父さん」

 かちり、と音がした。

 中にあったのは、エイの皮に描かれた古い地図、半分に割れた青銅の円盤、それから封蝋された手紙だった。

 地図には海岸線も方位もない。ただ黒い水のような染みがうごめき、見ているうちに細い銀線へ変わった。銀線は星骸岬の地下へ潜り、沖へ伸び、地図の端に描かれた小さな井戸で終わっている。

 井戸の下には、父の筆跡でこう記されていた。

 逆潮の泉。

 海が奪ったものを返す場所。

 バスクが息を呑んだ。

「宝じゃないか」

「泉だよ」

「失ったものを返す泉だぞ。金だって返す。たぶん。言い方次第で」

 フフェイは手紙を開いた。

 フフェイへ。

 この地図を見つけたなら、町はもう追い詰められているのだろう。

 泉へ至る道は実在する。だが、水には触れるな。海は何かを返すとき、必ず同じ重さの未来を持っていく。

 そして、灰真珠色の上着を着た男に会っても、名を尋ねてはならない。

 あれは人ではない。

                父より

 読み終わるのと同時に、部屋の鏡が曇った。

 雨で冷えたせいではない。

 曇りは鏡の内側から広がり、やがて一人の男の輪郭を描いた。

 細身。長い指。古風な灰真珠色の上着。顔立ちは整っているのに、どういうわけか次の瞬間には思い出せない。目だけが、深い井戸の底のように暗かった。

 男は鏡の向こうで微笑んだ。

「アレンの娘だね」

 誰も動けなかった。

「お父上は、まだ君を待っているよ」

 鏡に細いひびが走った。

 ひびは口の形になり、こう囁いた。

「逆潮の泉で」

二 骨の下の道

 日没まで六時間。

 町の広場では荷車が列をつくり、住民たちが家具を積み込んでいた。泣いている者、怒鳴る者、店の看板を外せず呆然としている者。白錨商会の兵は、崖へ火薬樽を運んでいる。夜明けに最初の発破をかけるつもりだ。

 フフェイたちは地図屋の地下室へ降りた。

 地図の銀線は、地下室の北壁をまっすぐ突き抜けている。壁には棚があり、売れ残った世界地図が丸めて詰め込まれていた。棚をどかすと、骨でできた壁が現れた。

「星骸の肋骨だ」ティトが指で叩く。「町の下まで続いてる」

「入口は?」バスクが聞く。

「地図だと、この辺」

 半分の青銅円盤を壁へ当てると、骨の表面に同じ形の窪みが浮かんだ。円盤は磁石のように吸いつき、壁の中で何か巨大なものが目を覚ました。

 ごうん。

 肋骨が左右に開いた。

 その向こうに、下へ続く螺旋階段があった。

「これ、絶対にいい入口じゃないよ」バスクが言った。

「いい入口って何」

「花が咲いていて、係員がいるやつ」

 ティトが先頭に立ち、油灯を掲げた。階段は湿っていた。壁には帆船、海蛇、七つの月、そして井戸を囲む人々の絵が刻まれている。人々の顔はすべて削り取られていた。

 百段ほど下りると、三つの石扉が並ぶ広間に出た。

 中央の床に文字がある。

 ――嘘つきは沈み、正直者も沈む。己を知らぬ者だけが先へ進む。

「意味がわからない」ティトが言った。

「わからない者が進むんだから、ティトが適任だな」バスク。

「褒めてないだろ」

 扉の上には、それぞれ一つずつ質問が刻まれていた。

 左――お前は勇敢か。

 中央――お前は善人か。

 右――お前は仲間を見捨てないか。

「全部『はい』なら右じゃない?」フフェイが言う。

「『己を知らぬ者』だよ」セリは床へしゃがみ、文字の溝を調べた。「答えを決めつける者が沈む仕掛けかもしれない」

 バスクが左の扉を見上げた。

「俺は勇敢じゃない。暗い穴も、高い所も、歯の多い魚も嫌いだ」

「でも来た」フフェイが言った。

「怖いまま来ただけだ」

 左の扉が少し開いた。

 セリは中央へ向かう。

「私は善人とは限らない。父が商会の帳簿係なのを隠していた」

 三人が振り返った。

「赤い釘の計算をしたの、父なの」セリの声は震えていた。「止めようとした。でも帳簿を見せてもらえなくて……だから、私がここに来たのは町のためだけじゃない。自分が許されたいから」

 中央の扉も開いた。

 ティトは右の扉の前で腕を組んだ。

「仲間を見捨てない、って言いたい。でも沈む船で全員を助けられなかったら、一番軽い奴から助ける。たぶんバスクは最後」

「合理的すぎる!」

 右の扉も開いた。

 三つの奥は一本の通路につながっていた。正解は選ぶことではなく、自分の答えを疑うことだったらしい。

 フフェイだけが質問されなかった。

 それが妙に気にかかった。

 通路の先で、風景が変わった。

 地下のはずなのに、石畳の街路が伸びていた。

 両側には背の高い家々。窓の奥では青い灯が揺れ、空には見たことのない大きな月が一つだけ浮かんでいる。雨も海鳴りも消え、遠くで馬車の車輪が石を打つ音がした。

「星骸岬に、こんな町はない」セリが囁く。

「今はね」

 背後から男の声がした。

 灰真珠色の男が、街灯の下に立っていた。

 鏡で見たときより背が高い。影は足元ではなく、通りの奥へ何十歩も伸びている。

「ここはオルサ。七つの月がまだ生まれる前、海が空より上にあった時代の都だ」

「あなたの名前は?」ティトが即座に聞いた。

 フフェイは彼の口を塞いだ。

 男は楽しそうに首を傾げた。

「よい友人を持ったね。だが忠告を守るだけでは、お父上には会えない」

 男が指を鳴らすと、向かいの窓に父の姿が現れた。

 十年前と同じ、潮焼けした髪。机に向かい、海図を描いている。フフェイが一歩近づくと、父は顔を上げた。

『フフェイ』

 声まで同じだった。

『遅かったな』

 胸の奥に固く結んでいたものが、一瞬でほどけそうになった。

「本物なの?」

「本物とは、長く続く幻につける名前にすぎない」と男は言った。「泉は彼を返せる。君が望みさえすれば」

 フフェイは窓へ手を伸ばした。

 セリがその手首を掴んだ。

「影を見て」

 窓の中の父には、影がなかった。

 代わりに、部屋の壁一面へ無数の細長い影が張りついていた。どれも同じ灰真珠色の男の形をしている。

 フフェイは手を引いた。

「道を開けて」

 男の笑みが少し深くなった。

「すでに開いている。私はいつも、失ったものを探す者の一歩先にいる」

 街灯が一斉に消えた。

 次に油灯が明るくなったとき、四人は普通の岩の通路に立っていた。正面には錆びた鉄扉。向こうから波の音と、人々の怒鳴り声が聞こえる。

 ティトが覗き穴から見た。

「地下港だ。あと……海賊がいる」

三 火曜の未亡人号

 星骸岬の真下に、忘れられた港があった。

 巨大な星獣の肋骨が天井を支え、青い燐光苔が何十隻もの沈没船を照らしている。その中央に一隻だけ、今も浮かぶ黒帆船があった。

 船尾には金文字で〈火曜の未亡人号〉とある。

「変な名前」ティトが言った。

「月曜に結婚して、水曜に再婚できる。効率がいいだろう」

 答えたのは、鉄扉のすぐ外に立っていた女だった。

 長い赤茶の髪を三本の編み込みにし、片目に星形の硝子片をはめている。外套の裏には短剣が十本。手にした湾曲刀の先が、フフェイの喉へ触れていた。

「イサラ・ケイリオ船長」セリが青ざめた。「南海の賞金首。懸賞金二万七千ルーン」

「二万八千になった」

「先週、何をしたんです」

「税関を一つ海へ流した」

 イサラはフフェイの手から地図を抜き取ろうとした。

 地図はするりと丸まり、フフェイの腕へ巻きついた。

「持ち主を選ぶ地図か。アレンらしい意地悪だ」

「父を知ってるの?」

「知ってるとも。十年前、私の船から小舟と酒と羅針盤の半分を盗んだ」

 イサラは胸元から、青銅円盤のもう半分を出した。

「泉へ行ったの?」フフェイが聞く。

「入口までは。帰ってきたのは、あいつの帽子だけだった。地図のほうは三日後、ひとりで海を渡ってお前の家へ戻ったよ」

 背後で銃声がした。

 地下港の反対側から白錨商会の兵がなだれ込んでくる。先頭に、白い軍服と銀の胸甲をつけた大男がいた。マルド・クレイル提督。白錨商会の海軍を私物のように使い、海賊と密輸船を百隻沈めた男だ。

「地図を渡せ、ケイリオ!」クレイルの声が洞窟に響く。「泉は商会が管理する。永遠の命は、支払能力のある者にこそふさわしい!」

「永遠に帳簿をつけるつもりかい。地獄だね」

 イサラが指笛を鳴らした。

 火曜の未亡人号から鉤縄が飛び、彼女の腰帯に引っかかった。イサラはフフェイの襟を掴み、四人まとめて船へ向かって跳んだ。

「待って待って待って――!」

 バスクの悲鳴が長く尾を引いた。

 甲板へ転がり込む。黒帆が上がり、船腹の砲門が開く。だが地下港の出口は、崩れた骨と岩で塞がっていた。

「出られないぞ!」バスクが叫ぶ。

「だから港ごと開ける」

 イサラが片手を振り下ろした。

 砲声が一斉に轟いた。

 砲弾は出口ではなく、天井から垂れ下がる巨大な背骨へ当たった。骨が折れ、海水が噴き出す。白錨兵の足元が流され、港全体が渦を巻く。

 船員たちは歓声を上げた。

 誰もまともな格好をしていない。片腕が木製の女、肩に小さな雲を飼っている男、頭の代わりに真鍮の潜水鐘をかぶった巨人。総勢二十人ほど。

「面舵!」イサラが叫ぶ。「帆を逆に張れ! 海が入ってくるなら、その海に乗る!」

 火曜の未亡人号は流れに押され、崩れた骨の隙間へ突っ込んだ。マストが岩をかすめ、船首像の牙が折れる。フフェイは手すりにしがみついた。背後ではクレイルが何か叫び、白い軍艦が追ってくる。

 最後の骨壁を突き破った瞬間、夜の海が開けた。

 星骸岬の下から、黒帆船と白い軍艦が水柱を上げて飛び出す。崖上の町から悲鳴と歓声が同時に湧いた。

 フフェイは自分の家を見上げた。

 小さな灯が、雨の向こうで揺れている。

 日没まで三時間。

 夜明けまで十二時間。

「泉へ着いて、戻るまでに間に合うの?」フフェイはイサラへ詰め寄った。

「普通の海なら三日。だが地図が示すのは普通じゃない航路だ」

「父を連れ戻せる?」

「それを聞く相手は私じゃない」

 イサラは青銅円盤の半分を、フフェイの半分へ合わせた。

 二つは一枚になり、七本の針を持つ羅針盤へ変わった。六本は空の月々を指し、最後の一本だけが、海の真下を指している。

「逆潮は今夜だけ開く」イサラが言った。「地図を読め、地図屋。私たち全員の欲しいものが、その先にある」

四 海より古い夜

 火曜の未亡人号は、七つの月の光が交わる海域へ進んだ。

 羅針盤の七本目の針が震えるたび、フフェイの地図に銀線が浮かぶ。線の通りに舵を切ると、船は波の斜面を登り始めた。

 文字どおり、登った。

 海面が坂になり、水平線が傾く。船は水しぶきを上げながら空へ向かって進む。振り返ると、星骸岬がはるか下に見えた。

 バスクはマストへ抱きついて目を閉じている。

「海は平らだって学校で習った!」

「学校は退学になっただろ」ティト。

「だからって海まで規則を破るな!」

 やがて船は波の頂点を越えた。

 向こう側には、夜しかなかった。

 星のない空。黒い海。風もない。

 ただ遠くに、青白い町の灯が浮かんでいる。先ほど地下で見た、オルサの街路だった。

 船員たちの声が小さくなった。

「窓を見てはいけない」イサラが命じる。「呼ばれても返事をするな。自分の名前を忘れた者は、誰かに借りろ」

「ここを通ったことがあるの?」フフェイが聞く。

「一度。四十人で来て、二十人で帰った」

 イサラの声から冗談が消えた。

「泉で何を取り戻したいの」

「部下の名前だよ」

 十年前、彼女の船はこの夜へ入り、灰真珠色の男と取引をした。宝を求めた二十人が窓の灯へ近づき、翌朝には誰も彼らを覚えていなかった。航海日誌からも、名簿からも、家族の記憶からも消えた。

「私だけが、人数が足りないことを覚えている。顔は思い出せない。声も。だが甲板の空いた場所を見ると、そこに誰かいたとわかる」

 イサラは手すりを強く握った。

「泉が失ったものを返すなら、あいつらの名を返させる」

 フフェイは父の手紙を思い出した。

 海は同じ重さの未来を持っていく。

「代わりに何を取られるか、知ってる?」

「船長は、代価を先に考える仕事じゃない。払えるかどうかを最後に決める仕事だ」

 そのとき、町の窓が一つずつ開き始めた。

 窓ごとに人影が立つ。

 老女、兵士、子ども、王冠をかぶった男。姿は違うのに、全員が同じ動きで首を傾げた。

『フフェイ』

 海面から父の声がした。

 黒い水の上を、父が歩いてくる。

 濡れていない。十年前の服。片手に描きかけの地図。

『もう探さなくていい。帰ろう』

 フフェイの足が勝手に手すりへ向かった。

 ティトが彼女の腰へ縄を巻きつけた。

「偽物だ」

「わかってる」

「わかってる顔じゃない」

 父の姿は船と並んで歩き、優しく笑った。

『お前が三歳のとき、熱を出して三日眠らなかった。覚えているか』

「覚えてない」

『私は覚えている。お前の母さんが、赤い布を窓へ結んだ』

 それは家族しか知らない話だった。

 母はフフェイが幼いころ病死した。赤い布はいまも父の机の引き出しにある。

「どうして知ってるの」

『私だからだ』

 フフェイが手を伸ばした瞬間、セリが会計帳でその手を叩いた。

「痛い!」

「本物なら、どうして船に上がらないの」

『招かれなければ上がれない』

 窓の影たちが一斉に口を開いた。

『招いてくれ』

 船の周りで、何百もの声が同じ言葉を囁く。

『招いてくれ』

『招いてくれ』

『招いてくれ』

 バスクが震える手で、パン袋を取り出した。

「こういうときは塩だ。幽霊は塩が嫌いだって婆ちゃんが」

「それ砂糖」ティトが言った。

「似たようなものだ!」

 バスクは袋の中身を海へ投げた。

 白い粉が風のない空間で広がり、父の姿へ降りかかる。

 すると皮膚が透け、その内側に街路と家々が見えた。

 人間の形をした、町そのものだった。

 灰真珠色の男の声が、すべての窓から響いた。

『名を尋ねよ。さすれば、失った者は扉をくぐる』

 フフェイは口を閉じた。

 ティトが縄を引き、彼女を甲板へ倒す。

 次の瞬間、船首が光の膜を破った。

 星が戻った。

 波が戻った。

 風が帆を殴った。

 背後の夜は細い裂け目になり、閉じた。

 船の前方に、島が浮かんでいた。

 逆潮島。

 海から何本もの滝が空へ流れ、その中央に黒い山がある。山腹には、青い灯をともした街が輪のように巻きついていた。

 見張り台から声が落ちた。

「後方、白錨の軍艦!」

 クレイルの船も裂け目を抜けてきた。

 船首には鏡のような銀板が張られ、窓の声を跳ね返して進んだらしい。

「しつこい男は嫌われるよ」イサラが舌打ちする。

「あなたも十年追ってるじゃない」セリ。

「私は執念深い女だ。種類が違う」

 白い軍艦の砲口が火を噴いた。

五 逆潮島

 砲弾が火曜の未亡人号の後部を砕いた。

 甲板が傾き、樽と船員が滑る。イサラは舵を切り、空へ昇る滝の一本へ船を突っ込ませた。

 海水が下から上へ船を持ち上げる。

 帆船は滝を登り、逆潮島の山腹へ運ばれた。

「上陸準備!」イサラが叫ぶ。「船が止まらなくても降りろ!」

「止める努力はして!」バスクが叫び返す。

 滝の先は石造りの水路になっていた。船底が石を削り、火花を散らす。左右には青い街並み。屋根の上に白い人影が並び、音もなくこちらを見ている。

 地図の銀線は、街の中心にある塔を指していた。

 火曜の未亡人号が広場の噴水へ突っ込み、ようやく止まった。

 フフェイたちは甲板から放り出され、苔むした石畳を転がった。

 後方で爆音。

 クレイルの軍艦は滝へ入らず、船腹から鉄脚を伸ばして島の外壁へ取りついている。白錨兵が縄梯子を渡り始めた。

「泉へ行く隊と、軍艦を止める隊に分かれる」イサラが言った。

「船長は?」

「欲張りだから両方だ」

 彼女は副長へ指示を飛ばし、フフェイたちを連れて塔へ走った。

 街は奇妙に新しかった。

 石畳に欠けはなく、店先には果物が並び、鍋から湯気が上がっている。だが人はいない。白い人影は近づくと石像になり、その顔はどれも滑らかに削られていた。

 道の角を曲がるたび、同じ時計屋の前へ戻った。

「迷路だ」ティトが壁へ印をつける。「いや、道が動いてる」

 フフェイは地図を広げた。

 銀線も輪になり、同じ場所を回っている。

「地図まで騙されてる」

「地図は嘘をつかないんじゃないの?」バスク。

「道が本当に輪なら、正しい」

 セリが時計屋を見上げた。

 文字盤には針が十三本あり、それぞれ逆向きに回っている。

「私たちが進むほど、街が時間を戻してる。だから出発地点へ戻される」

「どう止める?」

「帳簿なら、逆算する」

 セリは石畳へ十三本の線を引き、時計の針が重なる順番を数え始めた。数字が苦手なバスクは三本目で目をそらした。やがてセリは、一枚の敷石を指す。

「次に全部の針が重なる瞬間、ここだけが現在になる」

「あと何秒?」

「七、六、五――」

 四人とイサラが敷石へ飛び乗る。

 針が重なった瞬間、街全体が青い光になって流れた。

 塔の入口が目の前に現れた。

「さすが帳簿係の娘」イサラが言う。

 セリは褒められて嬉しそうな顔をしてから、すぐ険しい顔へ戻した。

 塔の扉には、七つの穴が並んでいる。

 青銅羅針盤をはめると、七本の針が鍵になって回った。

 中は下り階段だった。

「塔なのに下りるの?」バスクが泣きそうに言う。

「この島では滝も上る」フフェイ。「普通を期待しないで」

 階段の壁には、古い絵が続いていた。

 一枚目。空に一つの巨大な月。

 二枚目。月が割れ、七つの欠片が海へ落ちる。

 三枚目。都オルサが黒い波に呑まれる。

 四枚目。井戸から灰真珠色の男が這い出す。

 五枚目。男が旅人へ杯を差し出し、旅人の背後から未来が糸のように抜けて井戸へ吸い込まれる。

 最後の絵だけは新しい。

 地図を持つ少女が、井戸の前に立っている。

 顔はフフェイだった。

「予言?」ティトが触れようとする。

「違う」とフフェイは言った。「絵の具が乾いてない」

 背後で拍手がした。

 クレイルが階段の上に立っていた。

 白い軍服は濡れ、片頬に傷がある。兵を十人連れている。

「見事だ、子どもたち。商会は有能な若者を歓迎する。地図と羅針盤を渡せば、岬の住民を鉱山労働者として再雇用してやろう」

「家を壊して、地下で働けって?」フフェイが言う。

「屋根の有無は雇用条件に含まれない」

 イサラの湾曲刀が抜かれた。

 クレイルの拳銃が向く。

 銃声と同時に、塔が揺れた。

 壁の絵から黒い水が噴き出した。

 階段が川になり、全員を下へ押し流す。

 フフェイはセリの手を掴み、セリはティトの足を掴み、ティトはバスクの雨合羽を掴んだ。バスクの合羽が破れ、四人は別々に流されかける。

 イサラが短剣を壁へ突き立て、片腕でバスクを捕まえた。

 クレイルは兵を踏み台にし、真っ先に流れを抜けた。

「部下を置いていくのか!」バスクが叫ぶ。

「部下は交換できる!」クレイルが答えた。

 階段の底が開き、全員が暗闇へ落ちた。

六 泉の値段

 落ちた先には、空があった。

 フフェイは星空の上に倒れていた。

 正確には、星を映す薄い水の上だった。足首ほどの深さしかないのに、覗き込むと底がない。遠い銀河が渦を巻き、知らない太陽が生まれては消えている。

 中央に白い井戸があった。

 井戸の縁には、数えきれない名前が刻まれている。

 その一つに、父の名があった。

 アレン・エイン。

「父さん……」

 手を伸ばすと、井戸の向こうから人影が現れた。

 父だった。

 今度は影がある。頬の傷も、右手のインク染みも、笑うと片方だけ上がる眉も、すべて記憶の通りだった。

「フフェイ」

 父は泣きそうな顔で笑った。

「大きくなったな」

「本物?」

「そうでありたい」

 父は井戸の向こうから手を差し出した。

 指先は水面を越えられない。

「十年前、ここへ来た。岬を救う宝を探していた。だが泉に見せられたのは、お前だった。病で死にかけていた三歳のお前だ」

 フフェイの息が止まる。

「母さんの病がうつった?」

「ああ。医者は朝まで持たないと言った。私は泉へ願った。お前の命を返せと」

「代わりに、何を」

「私がお前と過ごすはずだった未来を」

 父の輪郭が一瞬、透けた。

 その内側に青い街路が見える。

「私は十年分の未来を差し出した。その十年が尽きるまで、外の世界に私の居場所はない。今夜でちょうど終わる」

「じゃあ帰れるの?」

「君が水を飲めば」

 井戸の水が盛り上がり、銀の杯を形づくった。

「一口で、私は戻る。代わりに君の未来が十年、ここへ残る」

「十年なら――」

 フフェイが杯へ近づく。

「駄目だ」

 父の声が鋭くなった。

「私はそれを望んでいない」

「でも、ずっと待ってた。地図も机も、そのままにしてた。私、父さんに言いたいことが山ほど――」

「だからこそだ。私はお前を救うために未来を払った。お前が私を救うために未来を払えば、最後に残るのは請求書だけだ」

 フフェイの目から涙が落ち、水面の星を揺らした。

 別の場所で、イサラが息を呑んだ。

 彼女の周りに二十人の船員が立っていた。

 顔はぼやけている。だが一人ずつ、名を名乗り始める。

『ペル』

『マッカ』

『老いたサン』

『指なしエッダ』

『ポロ』

『リーヴ――』

 イサラの顔が崩れた。

「そうだ。お前たちだ。忘れてない。忘れてなんか――」

 彼女の前にも銀の杯が現れる。

『飲めば、俺たちは戻れる』

『船長』

『また帆を上げよう』

 イサラは杯を掴んだ。

 その反対側で、クレイルが笑った。

 彼の前には若い自分が立っている。金髪で、傷も皺もなく、王冠をかぶっていた。

「十年などと言わん。百年寄越せ! 千年だ!」

 クレイルは井戸へ両手を突っ込み、水を貪るように飲んだ。

 星空が割れた。

 彼の体から、無数の未来が噴き出した。

 王になったクレイル。病床のクレイル。処刑されるクレイル。子どもを抱くクレイル。誰にも知られず死ぬクレイル。あり得たすべての姿が影となり、井戸へ吸い込まれていく。

 代わりに、青い街が現実へ近づいた。

 水面から塔が生え、窓が開き、石畳が星々を覆う。

 クレイルは若返るどころか、あらゆる年齢が一つに重なった。顔の半分は少年、半分は老人。口の中に別の口が開き、そこから街の鐘が鳴った。

「もっとだ!」幾つもの声で彼は叫んだ。「すべて返せ!」

 灰真珠色の男が、井戸の上に立っていた。

「ようやく十分な未来が集まった」

 男の影が広がり、街全体の形になる。

「私はオルサ。私は道であり、窓であり、そこに住んだ百万の眠りだ。月が砕けた夜、我らは時間の外へ落ちた。以来、失ったものを求める者から未来を借り、帰還の日を待っていた」

「父を見せたのは、あなた?」フフェイが聞く。

「彼はここにいる。偽物ではない。だが本物だからこそ、君は差し出すだろう」

 男が手を広げる。

 井戸の周りに、星骸岬の光景が浮かんだ。

 赤い釘が打たれる前の町。

 母が生きている家。

 父が夕食を作り、バスクのパン屋は繁盛し、ティトには暖かい寝床があり、セリの父は商会を辞めて笑っている。

「水を飲めば、すべて戻る」

「代わりは?」

「まだ起きていない明日。誰も見たことのないものを失って、何が惜しい?」

 男の言葉は甘かった。

 フフェイは一瞬、未来が空っぽの紙に思えた。まだ何も描かれていないなら、切り取っても痛くないのではないか。

 けれど、隣でティトが彼女の袖を掴んだ。

 バスクは怖がりながら前へ出た。

 セリは濡れた会計帳を抱えている。

 描かれていない地図は、無価値なのではない。

 どこへでも行けるから大切なのだ。

 フフェイは銀の杯を蹴り飛ばした。

「未来は、まだ持ってないから払えない」

 灰真珠色の男の笑みが消えた。

 イサラが杯を見つめている。

 二十人の幻が手を伸ばす。

「船長」とフフェイは呼んだ。「名前を戻しても、今いる仲間が消えるかもしれない」

 イサラの手が震えた。

『飲め』

『船長』

『忘れるな』

 イサラは杯を唇へ近づけ――そのまま井戸へ投げ返した。

「名前は思い出した。ペル、マッカ、サン、エッダ、ポロ、リーヴ。全員だ」

 一人ずつ呼ぶたび、幻は穏やかな顔になった。

「戻らなくていい。お前たちは、もういなかったことにはさせない」

 二十人の姿が光になり、イサラの外套へ吸い込まれた。裏地に二十個の小さな星が灯る。

 灰真珠色の男が怒りに顔を歪めた。

 その顔は初めて、人間らしく醜かった。

「では、地図屋。お前の未来を町ごと使おう」

 街路が伸び、フフェイたちの足へ絡みつく。

 窓が開き、無数の腕が出る。

 クレイルだったものが井戸から這い上がり、胸の中で鐘を鳴らしながら笑った。

 フフェイは地図を開いた。

 銀線は消えていた。

 ここは世界のどこにも属さず、地図が道を描けない。

「失ったものの名を言え」

 最初の箱に浮かんだ言葉を思い出す。

 この地図は、失われたものへ道を示す。

 フフェイは父のペンを取り出した。

 地図の中央へ、ひとこと書く。

 オルサ。

 灰真珠色の男が目を見開いた。

「それは私の名ではない。私は――」

「あなた自身が言った。道も窓も眠りも、全部がオルサだって」

 地図の銀線が爆発するように広がった。

 線は井戸へ入り、底のない星空を貫き、はるか遠い暗闇へ伸びた。そこに、砕ける前の巨大な月が浮かぶ。オルサが失われた、元の時代。

「失ったものは、元の場所へ帰る」

 フフェイは羅針盤を井戸へ投げた。

 七本の針が月を指す。

 井戸が門になった。

 街全体が引っぱられた。

 塔が折れ、窓が砕け、石畳が紙のようにめくれ上がる。灰真珠色の男の体は無数の家と通りへ裂け、門の向こうへ吸い込まれていく。

「やめろ! 我らは帰還する! この世界こそ我らの――」

「帰還でしょ」とティトが叫んだ。「ちゃんと帰れ!」

 クレイルだったものが井戸の縁へ爪を立てた。

 バスクが麺棒でその指を叩く。

「これはパンを伸ばす道具だ! 提督を伸ばす道具じゃない!」

「言いながら叩くな!」セリが叫ぶ。

 最後に父が、門の向こうに立っていた。

 フフェイへ微笑む。

 声は聞こえなかったが、唇が動いた。

 行け。

 フフェイはうなずいた。

 父の姿も、青い光になって遠ざかった。

 地図の銀線が閉じる。

 オルサの街と灰真珠色の男とクレイルの絶叫は、砕ける前の月の向こうへ消えた。

 井戸だけが残った。

 そして、島が崩れ始めた。

七 夜明けとの競争

「出口は?」バスクが叫んだ。

 地図には一本の銀線が残っていた。

 だが線は上でも横でもなく、井戸の中を指している。

「また水か!」バスクが頭を抱えた。

「泳げる?」ティト。

「パンは泳がない!」

「お前はパンじゃない!」

 天井が崩れ、石塊が星の水へ落ちる。

 イサラはためらわず井戸へ飛び込んだ。

「船長が最初に死ねば、部下が危険を避けられる!」

「それ、格好いいようで最低の指揮では?」セリが言う。

 四人も続いた。

 冷たさはなかった。

 落下する感覚だけがあり、周囲を無数の光景が流れていく。まだ建てられていない町、老いた自分たち、沈む船、芽吹く森、見知らぬ子どもたち。失われずに済んだ未来が、道の両側で輝いていた。

 やがて前方に、丸い出口が見えた。

 全員が吐き出される。

 逆潮島の山腹だった。

 火曜の未亡人号が広場で横倒しになり、船員たちが必死に起こそうとしている。島の滝は逆流をやめ、空から海へ崩れ落ち始めていた。

 井戸の崩壊で礼拝堂の床が割れ、地下の奉納庫が露出していた。金貨、青い宝石、革表紙の航海記録が三つの箱からこぼれている。

「持てる箱だけ船へ!」ティトが叫ぶ。「泉の水じゃない。これは飲んでも未来を取られない!」

「金貨は歯を折るけどね!」イサラが船員を向かわせた。

「出航!」イサラが叫ぶ。

「船が道に刺さってます!」副長。

「道を海にしろ!」

 ティトが壊れた噴水を指さした。

「地下に水路がある。栓を壊せば広場ごと流せる!」

 船員たちが大槌を振るう。

 だが石の栓は厚く、ひびが入るだけだ。

 背後から白錨兵の生き残りが現れた。提督を失い、指揮もない。それでも火薬樽を抱えている。

 セリが前へ出た。

「その樽、白錨商会の備品ね」

「だから何だ」

「クレイル提督は行方不明。副司令官も島の外。商会規則第十八条では、指揮官不在時の火薬使用は帳簿係の承認が必要」

 兵たちが顔を見合わせた。

「お前は子どもだ」

「白錨商会星骸岬支所、セリ・ノーマン帳簿補佐。父の印章もある」

 セリは首から小さな印を出した。

 兵の一人が、反射的に姿勢を正す。

「使用を承認する」セリは噴水の栓を指した。「あれを壊して」

「しかし海賊船が」

「備品損失と命、どちらを優先するか規則第六条を読んだ?」

「命です」

「なら急いで!」

 火薬樽が栓の前へ積まれる。

 導火線に火。

 全員が船の陰へ伏せた。

 爆発。

 広場が割れ、地下水が噴き上がった。

 火曜の未亡人号は水に持ち上げられ、石畳を滑り始める。白錨兵まで甲板へ引き上げられた。

「敵を乗せるの?」副長が不満そうに言う。

「今夜だけは客だ」イサラ。「明日になったら身代金を取る」

 船は崩れる街を抜け、山腹の水路へ入った。

 だが前方の橋が落ち、船首が宙へ飛び出した。

 海までは百歩下。

 帆は破れ、浮力を得るものがない。

「落ちる!」誰かが叫ぶ。

 バスクが荷袋をひっくり返した。

 粉、砂糖、乾燥酵母、それからパン屋秘伝の雷種が転がる。

「これを帆へ入れろ!」

「パンを焼くのか?」ティト。

「膨らませる!」

 船員たちが破れた帆を縫い合わせ、巨大な袋をつくる。

 バスクは粉と雷種を投げ込み、水を注いだ。

 袋がぶくぶくと膨らみ始める。

「足りない!」バスクが叫ぶ。

「砂糖を入れろ!」ティト。

「全部?」

「太るのは帆だ!」

 巨大な発酵袋がマストの上で膨れ、船の落下をわずかに遅くした。

「右へ風がある!」フフェイが地図を読む。「七秒後に吹く!」

 イサラが舵を切る。

 セリが秒を数える。

 ティトが索具を結び直す。

 バスクは袋の裂け目へ両腕を突っ込み、必死に押さえる。

「三、二、一!」

 海風が発酵帆を打った。

 火曜の未亡人号は空中で横滑りし、落下する滝へ乗った。

 船底が水を叩き、全員が甲板から浮く。

 次の瞬間、船は海へ着水した。

 背後で逆潮島が沈んでいく。

 黒い山が割れ、青い街の灯が一つずつ消える。最後に白い井戸が小さく光り、波の下へ沈んだ。

 水平線の向こうが白み始めていた。

「夜明けまで、どれくらい?」フフェイが聞く。

 セリが空を見る。

「一時間弱」

 星骸岬までは、普通なら三日。

 全員が地図を見る。

 銀線は一本だけ、まっすぐ岬へ伸びていた。

 ただし途中に、こう書かれている。

 最短航路。

 生存率、二割。

「高いな」イサラが言った。

「どこが!」バスク。

「前回は一割だった」

 火曜の未亡人号は帆を張った。

八 町を買う朝

 夜明けの鐘が鳴る直前、星骸岬の住民は海から飛んでくる帆船を見た。

 火曜の未亡人号は、最後の航路で三度海中へ潜り、雲の裂け目を一度横切り、眠っていた嵐竜の背中を滑走してきた。船首像はなくなり、帆はパンの匂いがし、甲板には海賊と白錨兵が同じ縄へしがみついている。

 船は港の桟橋を半分壊して止まった。

「着岸成功!」イサラが宣言した。

「成功の定義を見直して!」セリが叫ぶ。

 岬の上では、白錨商会の現場監督が発破の合図を出そうとしていた。兵がフフェイたちを囲む。

 フフェイはずぶ濡れのまま坂を駆け上がった。

 町の家々には赤い釘。地図屋の窓は暗い。

「待って!」

 監督が懐中時計を見る。

「契約期限だ。星暦九百十二年、夏至翌朝、第一光――」

「支払う」

 フフェイは地図を広げた。

 逆潮の泉は消えていた。

 代わりに、島で失われた人々が井戸へ捧げた品々の場所が、小さな印で記されていた。崩壊の直前、ティトが見つけて船へ運ばせていたのだ。

 船員たちが三つの箱を担いでくる。

 一つ目には、古代王国の金貨。

 二つ目には、星を閉じ込めた青い宝石。

 三つ目には、金でも宝石でもなく、逆潮島の奉納庫に積まれていた何百年分もの契約書と航海記録が入っていた。

 セリがその一冊を監督へ突きつける。

「白錨商会の初代総裁が逆潮の泉を探すため、星骸岬の地下港を違法に封鎖した記録です。町の防波堤を壊したのも商会。修繕費を町へ貸しつけ、利息で土地を奪う計画だった」

 監督の顔から血の気が引く。

「偽書だ」

「初代総裁の血判つき。王立監査院へ送れば、商会の免許が取り消される」

「海賊から得た証拠など――」

「では金で払う」とフフェイが言った。

 イサラが金貨の箱を蹴って開けた。

 朝日を受け、広場が黄金色に染まる。

「元金、利息、再利息、名前を変えただけのくだらない手数料まで全部だ」とイサラ。「釣りは要らない。ただし桟橋の修理代は商会へ請求する」

「壊したのあなたでしょう!」監督。

「着岸設備が船を避けなかった」

 町の人々が笑った。

 最初は一人。次に十人。やがて広場全体が笑いと歓声に包まれた。

 監督は契約書を震える手で確かめた。

 支払いを拒めば、商会の不正記録が王都へ渡る。受け取れば、町の所有権を手放さなければならない。

 彼は歯を食いしばり、赤い釘の魔術を解除した。

 町じゅうで、釘が壁から抜け落ちる音がした。

 カン。

 カラン。

 カラカラカラ――。

 それは世界の果てが崩れる音ではなかった。

 世界が、もう一度組み上がる音だった。

 三か月後、星骸岬には新しい看板が立った。

 〈北を売る店――地図、羅針盤、失せ物探索。無謀な遠征は要相談〉

 店主はフフェイ。

 共同経営者は三人。

 バスクは一階で航海用の固焼きパンを売った。発酵帆の噂が広まり、注文は絶えない。ただし彼は商品札に「飛行には使用しないでください」と大きく書いた。

 ティトは地下港を修理し、町で最初の造船工房を開いた。完成した小舟には必ず余計な翼か車輪がついた。

 セリは白錨商会の不正帳簿を王立監査院へ提出した。父も証言し、商会を辞めた。いまは町の会計を担当しているが、利息に利息をつけると娘から会計帳で叩かれる。

 イサラは、約束どおり白錨兵から身代金を取ったあと、半分を町の桟橋修理へ寄付した。

 火曜の未亡人号の外套には二十の星が縫いつけられ、乗組員たちは毎晩、その名を一人ずつ呼んでから酒を飲むという。

 ある夕方、フフェイは父の仕事机を片づけた。

 何も捨てなかった十年を終わらせるため、描きかけの海図を一枚ずつ棚へ移す。

 最後の引き出しに、赤い布があった。

 その下に小さな紙切れ。

 父の字で、たった一行。

 地図は、帰る場所がある者のために描け。

 フフェイは泣いて、笑った。

 紙切れを新しい地図帳の最初の頁へ挟んだ。

 夜になると、店の鏡が一度だけ曇った。

 灰真珠色の輪郭が現れかける。

 フフェイは布をかぶせ、鏡を壁へ向けた。

「営業時間外」

 向こう側で何かが爪を立てたような音がしたが、やがて消えた。

 フフェイは窓を開けた。

 星骸岬には新しい灯が並んでいる。港では船が行き交い、パンの匂いと槌の音と笑い声が上がる。七つの月が海を引き、まだ描かれていない道を銀色に照らしていた。

 町は地図の上では小さかった。

 けれど今度は、消される側ではなかった。