星鯨の腹で、名前を呼べ

  読み切り冒険小説

一 切り離し令

 その朝、浮島ルーデンの鐘は、葬式のように十三回鳴った。

 十三は、落ちるものの数だ。

 皿、歯、評判、恋、そして島。

 空の海に浮かぶルーデンでは、子供でもそう教わる。

 最後の鐘が消えるより早く、ナナメ横丁の家々に赤い紙が貼られた。王立錨務局の紋章――鎖に噛みつく獅子――が押された、見ただけで腹の冷える紙だった。

『下層第七区画は錨根腐食のため、三日後の正午をもって本島より切り離す。住民は上層へ退去されたし』

「退去って、どこへだよ」

 パン屋の息子ボッカが紙を読んだ。十六歳で、肩幅はパン窯より広い。だが声は焼く前の生地みたいに頼りなかった。

「上層の家賃を払えるなら、そもそもナナメ横丁に住んでない」

 錠前屋の娘サージャが言った。十五歳。黒髪を針金で束ね、耳には鍵を三本ぶら下げている。

「つまり、“勝手にどこかへ行け”って意味」

「切り離されたら、下には何があるの?」

 十二歳の屋根便ピッカが、赤い紙の下から顔を出した。小柄で、いつも頬に煤がついている。

「底なし青」

 葬送歌いの息子ハザンが、芝居がかった低い声で答えた。

「落ちて七日、雲魚の群れを抜け、雷の層を抜け、最後には世界の裏側へ――」

「三日だよ」

 サージャが言った。

「人間は三日で凍る」

「訂正する。壮大さが減った」

 四人は、横丁のいちばん端にある古地図屋〈北も南も〉へ駆けこんだ。

 店の床は、朝から西へ傾いていた。錨根が傷むと、下層は少しずつ傾く。棚の地図筒はすべて右端へ転がり、店主の息子ミロはそれを追いかけていた。

「聞いた?」

 サージャが赤い紙を突きつけた。

「うん」

 ミロは地図筒を一本、棚に戻した。

「母さんは荷造りしてる。叔母さんの洗濯場に、二人なら床を貸せるって」

「俺んちは六人だ」

 ボッカが言った。

「窯も持っていけない」

「うちは棺が二十六」

 ハザンが胸を張った。

「死人に立ち退けとは無礼千万」

「中身は空だろ」

「今はな」

 店の奥で、ミロの母が古い帳簿を紐で縛っていた。聞こえないふりをしていたが、手は震えていた。

 ミロは十四歳だった。痩せていて、風に吹かれると紙のように見えた。地図を読むことだけは誰にも負けないが、高いところが苦手で、速い乗り物も苦手で、暗いところはもっと苦手だった。浮島の子供としては、たいへん具合の悪い三重苦である。

「何かあるはずだ」

 ミロは言った。

「古い錨路図に、予備の根が――」

「局の技師がないって言った」

 サージャが答えた。

「新しい錨心を買うなら金貨四千枚。三日で」

「四千枚なら、パンを八十万個売ればいい」

 ボッカが指を折った。

「一日二十六万六千六百六十六個。最後の一個は三分の二に切る」

「窯が先に死ぬね」

 ピッカが言った。

 そのとき、店が大きく軋んだ。

 壁に掛かっていたルーデン全図が落ち、額が割れた。裏板から、真鍮の円盤が転がり出た。

 ミロは息を呑んだ。

 円盤は掌ほどの大きさで、中央に針のない羅針盤が埋めこまれていた。縁には、見覚えのある細い傷が刻まれている。

「父さんの字だ」

 七年前、島の下面を測量しに出たまま戻らなかった父、ヨル・カーンの刻み字だった。

 ミロが円盤を押すと、三層に折り畳まれた金属板が花のように開いた。表面に、ルーデンの上面図ではなく、誰も描かない島の“裏側”が刻まれていた。

 逆さに伸びる尖塔。

 岩の中を走る鎖。

 魚の骨に似た巨大な空洞。

 そして中心に、王冠をかぶった錨の印。

 その脇に、父の文字があった。

『第一錨心。王の備蓄庫。入口は無風岬。

 道が名を問うても答えるな。

 仲間の名を呼び続けろ』

 最後の一行だけ、傷が深かった。

『ミロへ。これは宝の地図ではない。だが、宝より大切なものへ続く』

 五人はしばらく黙った。

 それからピッカが、口の端を上げた。

「宝より大切って、たいてい宝もある言い方だよね」

 サージャが円盤を取り上げ、光に透かした。

「無風岬なら、ここから二時間。入口があるのは――」

「バルザ老人の家」

 ハザンが囁いた。

 今度の沈黙は、さっきより長かった。

 無風岬のバルザ老人。

 百年生きているとも、二百年死んでいるとも噂される男。夜ごと黒い瓶に話しかけ、返事を聞いて笑う。金目当てに家へ入った盗賊は、翌朝、靴だけが崖下で見つかる。

「別の入口を探そう」

 ミロが言った。

「三日で?」

 サージャが訊いた。

 ミロは円盤を見た。父の文字が、真鍮の上で古い傷のように光っている。

 店の外では、役人たちが次の家へ赤い紙を貼っていた。

「……今夜、行こう」

 ピッカが笑った。

 ハザンは両手を広げた。

 ボッカは売れ残りの丸パンを袋につめた。

 サージャは耳の鍵を一本抜いた。

 こうしてナナメ横丁の五人は、三日後に落ちる町を救うため、世界でいちばん訪ねたくない老人を訪ねることになった。

二 瓶の部屋

 無風岬は、その名の通り風がなかった。

 空の海を渡る風は、ルーデンのどこでも唸っている。洗濯物をさらい、煙突を鳴らし、酔っぱらいを一人ずつ道端へ寝かせる。だが岬の黒い松林に入った途端、風はぴたりと死んだ。

 葉は揺れず、虫も鳴かない。

「帰ろう」

 ミロは言った。

「まだ門にも着いてない」

 サージャが言った。

「だから無傷で帰れる」

 バルザ老人の家は、崖の先に立っていた。

 屋根は船底を逆さに伏せた形で、壁には窓が百以上あった。どの窓も細く、黄色い光が漏れている。庭には錆びた風見鶏が並び、風もないのに一斉に五人のほうを向いた。

 門に札があった。

『客は歓迎する。

 泥棒は地下へ。

 役人はさらに地下へ』

「親切な案内だ」

 ハザンが言った。

 サージャが門の錠を調べた。

「鍵穴がない」

 ピッカが門柱をよじ登った。

「上も針だらけ」

 ボッカが押した。

 門はあっさり開いた。

「罠ってのは、疑わせるためにもある」

 サージャが眉をひそめた。

 五人は庭を進んだ。

 一歩目で、石像がくしゃみをした。

 二歩目で、地面から縄が飛び出し、ハザンを木に吊った。

 三歩目で、ボッカの袋からパンが一個だけ消えた。

 四歩目で、ピッカが叫んだ。

「誰か、いま私の耳に息を――」

「静かに」

 ミロは家を見上げた。

 百の窓のうち、ひとつだけ光が消えていた。

 次の瞬間、玄関が内側から開いた。

 誰もいない。

 廊下の奥で、かち、かち、と硬い音がした。

 五人は入った。帰る勇気と進む勇気を比べると、かろうじて進む勇気のほうが大きかった。

 家の中は、外から見るより広かった。

 天井から何百本もの黒い瓶が吊られていた。細長い瓶、丸い瓶、ひび割れた瓶。どれも栓を蝋で固め、白い文字で名前らしきものが書かれている。

 かち。かちかち。かち。

 音は瓶から聞こえた。

「石が入ってる?」

 ボッカが顔を近づけた。

 瓶の内側から、何かが彼の顔を叩いた。

 ボッカは声も出さずに三歩下がった。

 部屋の中央に、老人が座っていた。

 いつからそこにいたのか、誰にも分からなかった。

 老人は痩せ、長い灰色の髭を胸元で三つ編みにしていた。左目は乳白色、右目は夜空のように黒い。肩には古い軍用外套を掛け、膝の上に銛銃を置いている。

「パンを置け」

 老人は言った。

 ボッカは袋を抱きしめた。

「ど、泥棒はそっちだ」

「庭のものは庭の税だ」

 老人は黒い目で五人を順に見た。

「錠前屋の娘。葬歌いの倅。屋根鼠。粉まみれ。――そして、地図屋の子」

 ミロの背中が冷えた。

「父さんを知ってるの?」

「質問は一つずつにしろ。人間は答えを急ぎすぎる。だから大抵、間違った扉を開ける」

 老人は銛銃の先で、ミロの懐を指した。

「出せ」

 真鍮円盤を机に置くと、瓶が一斉に鳴った。

 かちかちかちかちかち。

 笑っているようにも、歯を鳴らしているようにも聞こえた。

 バルザ老人は円盤に触れなかった。

「ヨルは、これを息子に残したか」

「父さんはどこにいる?」

「地下だ」

 ミロの胸が跳ねた。

「生きて――」

「質問は一つずつだと言った」

 老人は立ち上がった。背は意外なほど高かった。外套の裾から、靴ではなく、黒い金属の義足が覗いた。

「おまえたちの横丁は、三日後に落ちる。知っている。錨務局は腐った錨根だけを見て、その奥にあるものを見ない。役人はいつも、紙に書けないものを無視する」

「第一錨心があるなら、直せる?」

 サージャが訊いた。

「ある」

「じゃあ道を教えて」

「断る」

「どうして!」

 老人の黒い目が、吊られた瓶へ向いた。

「第一錨心は、島を留める楔だ。同時に、扉を閉める閂でもある。七年前、ヨルは閂が弱っているのを見つけた。直しに行き、戻らなかった」

 ミロは父の円盤を握った。

「死んだの?」

 バルザ老人は答えなかった。

 沈黙の中、玄関のほうで拍手がした。

「感動的だ。親子、失踪、古代の宝。売れる話の要素が全部ある」

 戸口に、赤い革外套の男が立っていた。

 三十代半ば。日に焼けた顔。黒髪を後ろへ撫でつけ、腰に雷管拳銃を二丁。右肩には折り畳み式の滑空翼を背負っている。笑うと、犬歯に金が光った。

 ガラン・ヴォルク。

 落下船から三度生還し、火山公国の宝冠を盗み、決闘で負けた相手の結婚式に花婿として現れたと噂される冒険屋だった。

 もっとも本人は、噂の半分は嘘で、残り半分は控えめすぎると言っていた。

「子供の尾行は趣味が悪い」

 バルザ老人が銛銃を向けた。

「仕事だよ。錨務局のメルク監督官から、古代設備の回収を頼まれた」

「回収したあと、横丁は?」

「切り離す。土地権は局が買い叩く。上層の貴族が空中庭園にするそうだ」

 サージャの顔が凍った。

「知ってて手伝うの?」

 ガランは肩をすくめた。

「冒険屋は善悪で腹を満たせない。前金で食い、後金で眠る」

「最低」

 ピッカが言った。

「よく言われる。だが礼儀として、君たちより先に地下へ行く」

 ガランが指を鳴らした。

 窓の外で爆発が起きた。

 家が揺れ、吊られた瓶がぶつかり合う。庭の石像が悲鳴を上げた。外には錨務局の灰色制服が十人、火薬杖を構えていた。

「役人はさらに地下へ」

 ハザンが門の札を思い出して言った。

「老人、あれ本当なんだろうな?」

「もちろんだ」

 バルザ老人が床を義足で三度叩いた。

 床板が消えた。

 五人とガランと老人は、まとめて暗闇へ落ちた。

三 星鯨の歯

 落下は、ミロがこの世で三番目に嫌いなものだった。

 一番は父の話をされること。

 二番は父の話をされないこと。

 三番が落下である。

「うわああああああ!」

「口を閉じろ! 舌を噛むぞ!」

 サージャの声が下からした。

「もう噛んだ!」

 真っ暗な縦穴を、七人は滑っていた。壁は磨かれた骨のようにつるつるで、ときどき青白い筋が光る。

 先頭のバルザ老人が銛銃を壁へ撃った。鎖が伸び、義足の踵から火花が散る。落下の勢いが少しだけ弱まった。

「右へ寄れ!」

 老人が叫んだ。

「左は胃だ!」

「何の胃だ!」

 ガランが楽しそうに叫び返した。

 縦穴が二つに分かれた。

 七人は必死で右へ体を寄せた。ボッカだけが遅れ、左の穴へ吸いこまれかける。ピッカが彼の耳を掴み、ハザンがピッカの足を、サージャがハザンの帯を、ミロがサージャの上着を掴んだ。

 最後尾のガランが、ミロの靴を掴んだ。

「離すな!」

 ミロが叫んだ。

「君が先に靴から抜けるな!」

 ボッカの足が分岐の縁にぶつかり、全員が右の穴へ転がりこんだ。

 やがて傾斜が緩くなり、七人は広い空洞へ吐き出された。

 ミロは地面に頬をつけたまま、しばらく動かなかった。

「生きてる?」

 ピッカが訊いた。

「地面がある……すばらしい……地面に賞をあげたい」

 サージャが灯石を点けた。

 空洞の壁は、岩ではなかった。

 巨大な歯が、天井からも床からも並んでいる。一本が家ほど大きい。歯の根元には、青い鉱石の血管が走っていた。

「星鯨」

 ハザンが呟いた。

「昔、空の海を泳いで島を食べたっていう――」

「昔話じゃない」

 バルザ老人が立ち上がった。

「ルーデンそのものが、死んだ星鯨の背に土が積もってできた島だ。王国はその骨へ錨を打ち、都市を築いた」

 ガランが歯を叩いた。

「宝の匂いがする」

「おまえの鼻は金属しか嗅げんのか」

「借金も嗅げる」

 後方で轟音が響いた。役人たちが縦穴を爆破しながら追ってくる。

「道は?」

 サージャが円盤を開いた。

 真鍮板の溝に青い光が流れた。針のない羅針盤が震え、黒い針が空中に浮かび上がる。針は歯列の奥を指した。

 七人は走った。

 星鯨の喉は、古代の回廊に作り変えられていた。骨を削った柱、鎖を巻き取る歯車、王冠の刻印。だが長い年月で、骨と機械の境目は溶けていた。歯車から白い神経が生え、鎖は脈を打っている。

 最初の扉には、顔が彫られていた。

 目も鼻もなく、口だけがある。

『名を』

 扉が囁いた。

 声は耳からではなく、頭蓋骨の内側から聞こえた。

『名を告げよ。名あるもののみ通す』

 ボッカが口を開きかけた。

 バルザ老人が彼の口へ丸パンを押しこんだ。

「答えるな!」

『名を』

 扉の口が大きくなった。

『おまえは誰だ』

 ミロの頭から、自分の名が引っぱられる感覚がした。舌の先に「ミ」が浮かぶ。

 サージャが彼の腕を殴った。

「ミロ!」

 名を呼ばれた瞬間、意識が戻った。

「サージャ!」

 ミロも叫んだ。

「ピッカ!」

「ボッカ!」

「ハザン!」

 五人は互いの名を叫びながら扉へ走った。

 ガランが笑う。

「子供の遠足みたいだな!」

「ガラン!」

 ピッカが怒鳴った。

「そっちも呼ばないと消えるよ、最低ガラン!」

「最低は名前じゃない!」

 老人が黒い瓶を一本取り出し、扉へ投げた。

 瓶が割れた。

 中から冷たい風と、低い男の声が飛び出した。

『ウル・サバン。第三帆柱見張り』

 扉の口がその名へ食らいつき、石の唇を閉じた。

「今のは?」

 ミロが訊いた。

「昔の知り合いだ」

 老人は割れた瓶を一瞥した。

「長話の嫌いな男だった」

 扉の先は、骨の橋だった。

 橋の下には、空があった。

 島の内部にいるはずなのに、下方へ雲が広がり、青い雷が遠く走っている。星鯨の肋骨の隙間から、底なし青が見えていたのだ。

 ミロの足が止まった。

 橋は指一本ぶんの手すりしかない。風が吹き上げ、服を引っぱる。向こう岸まで百歩。

「無理だ」

 ミロは言った。

 役人たちの怒鳴り声が、扉の向こうから近づいた。

 サージャが手を差し出した。

「地図を見て」

「橋しかない」

「橋じゃない。線だと思って。紙の上の線なら歩けるでしょ」

「紙は落ちない」

「紙だって机から落ちる」

「励ましが下手だ!」

 それでもミロは、サージャの手を握った。

 一歩。

 二歩。

 足元を見ず、向こう岸だけを見る。背後ではボッカがハザンを抱え、ピッカが四つん這いで進んでいる。

 橋の中央に来たとき、後ろの扉が爆発した。

 灰色制服の役人が三人、煙の中から現れた。火薬杖を構える。

「円盤を渡せ!」

 ガランが振り向きざま、二丁の雷管拳銃を撃った。青い火花が役人の杖を弾き飛ばす。

「契約相手を撃つの?」

 サージャが叫んだ。

「子供ごと橋を落とす契約はしてない!」

 役人の一人が鎖を切った。

 骨の橋が傾いた。

 ミロたちは一斉に滑り出した。

 ボッカが肋骨へ腕を回し、片手でハザンとピッカを抱えた。サージャは橋の継ぎ目に鍵型の杭を打ちこむ。ガランは滑空翼を開いたが、ミロの靴紐が翼の留め金に絡んだ。

「また靴か!」

 ガランが叫ぶ。

 ミロは片手で円盤を握り、もう片手でぶら下がった。下には雲。雲のさらに下には、何もない。

「ミロ!」

 仲間たちの声が重なる。

 ミロは目を閉じた。

 違う、と父の文字を思い出した。

 仲間の名を呼び続けろ。

「サージャ! ボッカ! ピッカ! ハザン!」

「いる!」

 四人が叫んだ。

 ミロは目を開いた。

 ガランの帯を掴み、足を振った。

 サージャが投げた縄を、ピッカが空中で受ける。ボッカが引き、ハザンが「せーの」と音頭を取り、全員が向こう岸へ転がりこんだ。

 直後、骨の橋は役人三人を乗せたまま、底なし青へ落ちていった。

 声は、長く続かなかった。

 バルザ老人だけが、落ちていく橋を見つめていた。

「道は名を食う」

 老人は言った。

「空洞王が近い証拠だ」

四 逆さ港

 星鯨の腹の奥には、町があった。

 ただし、すべて逆さまだった。

 尖塔は天井から下へ伸び、家々は骨の梁にぶら下がっている。港の桟橋は虚空へ突き出し、その先に、帆のない黒い船が何十隻も吊られていた。

 船というより、巨大な錘だった。

 船腹から鎖が伸び、星鯨の骨を通って島の上面へ繋がっている。

「古代の錨港だ」

 ミロは円盤と景色を見比べた。

「ルーデンを浮かせる力を、ここで分けてたんだ」

「王の備蓄庫は?」

 ガランが訊いた。

「港の中心。あの鐘楼の下」

 遠くに、金色の鐘が逆さに吊られていた。

 そこへ行くには、回転する鎖車を渡らなければならない。

 直径二十歩の車輪が三つ、虚空の上でゆっくり回っていた。歯の一本一本が歩道になっている。一定の間隔で、車輪同士が噛み合う。

「簡単だ」

 ガランが言った。

「回る床を走るだけだ」

「落ちたら?」

 ミロが訊いた。

「簡単に死ぬ」

 ガランは助走もつけず飛び乗った。

 一つ目の車輪を駆け上がり、頂点から二つ目へ跳ぶ。赤い外套が旗のようにはためく。二つ目の歯が噛み合う寸前に身を滑らせ、三つ目へ着地した。

 向こう岸で振り返り、両手を広げる。

「ほらな」

「嫌い」

 サージャが言った。

「同感」

 ミロが言った。

 五人は縄で腰を結び、車輪へ乗った。バルザ老人は最後尾についた。

 一つ目は、まだよかった。

 二つ目で速度が上がった。

 足元が登り坂から天井になり、すぐ下り坂になる。歯車の隙間から、青い雷が見える。

 ハザンが叫んだ。

「誰だ、こんな町を逆さに造ったのは!」

「昔の王!」

 ミロが答える。

「王は暇なのか!」

 二つ目と三つ目が噛み合う場所で、異変が起きた。

 下から黒いものが這い上がってきた。

 人の影に似ていた。だが持ち主がいない。腕が三本あり、頭の代わりに穴が開いている。穴の奥で、小さな歯が回っていた。

「名なしだ!」

 バルザ老人が銛銃を撃つ。

 銛は影を貫いたが、影は二つに裂け、それぞれが這い続けた。

『だれだ』

『だれだ』

『おまえはだれだ』

 影の囁きで、ボッカの足が止まった。

「俺は……」

「ボッカ!」

 ピッカが叫ぶ。

「そうだ、俺はボッカだ!」

 ボッカは丸パンを影の穴へ突っこんだ。

 影は一瞬、戸惑ったように止まった。

「食べた?」

 ボッカが目を丸くする。

 次の瞬間、影の穴から真っ黒になったパンが吐き出された。

「食べ物を粗末にするな!」

 ボッカは怒った。

 大きな拳が影を車輪の歯へ叩きつける。影は二つの歯車に挟まれ、布のように引き裂かれた。

 もう一体がサージャへ跳びかかる。

 ピッカが縄を引き、サージャの体を横へ飛ばす。影は空を掴み、そのまま回転する車輪から落ちた。

 最後の一体はミロへ来た。

 顔の穴を覗いた瞬間、ミロは父の顔を忘れた。

 鼻はどんな形だった。

 笑うと目尻はどうなった。

 声は低かったか、高かったか。

 何も思い出せない。

『おまえは、だれだ』

「ミロ!」

 サージャが叫んだ。

 だが名が遠い。

「ミロ・カーン!」

 ボッカが叫ぶ。

「地図屋のミロ!」

 ピッカが叫ぶ。

「高所恐怖症、乗り物酔い、暗所嫌い!」

 ハザンが叫ぶ。

「余計な情報を足すな!」

 怒鳴った瞬間、自分が戻ってきた。

 ミロは円盤を開き、鏡のような裏面を影へ向けた。

 影はそこに映らなかった。

 代わりに、星空が映った。

 見たことのない星座。

 中心に、目も鼻もない巨大な顔。

 影が悲鳴を上げ、鏡の中へ吸いこまれた。円盤が閉じ、内側で何かが爪を立てた。

「父さんは、これが何か知ってたんだ」

 ミロは震える手で円盤を握った。

 六人は三つ目の車輪を越えた。

 鐘楼の足元へ着くと、バルザ老人が来ていないことに気づいた。

 回転車輪の向こう岸に、老人は立っていた。

 黒い影が何十体も、その周囲を這っている。

「先へ行け!」

 老人が叫んだ。

「一緒に来い!」

 ミロが叫び返す。

「わしは門番だ。門番には、客を通して戸を閉める仕事がある」

 老人は外套の内側を開いた。

 何十本もの黒い瓶が、帯に吊られていた。

 一本を抜き、地面へ叩きつける。

『エナ・ドール。霧帆の長』

 白い霧が噴き出し、女の姿を取った。長い外套、曲刀、笑う骸骨の顔。

 二本目。

『ボルグ兄弟。砲手二名』

 半透明の巨漢が二人、肩に大砲を担いで現れた。

 三本目、四本目、五本目。

 瓶が割れるたび、死んだ船乗りたちが立ち上がった。

 バルザ老人は、百年ぶりに甲板へ戻った船長のように、銛銃を掲げた。

「境界航海団、総員配置!」

 亡霊たちが声なき鬨を上げ、名なしの群れへ突撃した。

「行け!」

 老人は振り返らず叫んだ。

「ヨルが待っている!」

 ミロは唇を噛み、鐘楼の扉へ向かった。

五 王の備蓄庫

 鐘楼の内部には、金が積まれていた。

 床から天井まで、金貨、金板、金の鎖、宝石を埋めこんだ王冠。空の海で絶滅した虹貝の真珠。竜の火を封じた赤水晶。青い絹に包まれた剣。

 ボッカは口を開けた。

 ピッカは口笛を吹いた。

 ハザンは膝をつき、両腕を広げた。

「金よ! 長い別離であった!」

「会ったことないでしょ」

 サージャが言った。

 ミロは金貨を一枚拾った。

 表には、今の王家より三代前の横顔。裏には文字。

『第一錨心修繕備蓄。ルーデン全住民のため、これを用いる』

「父さんの言う通りだ」

 ミロは笑った。

「宝じゃない。修理代だ」

「四千枚どころじゃない」

 サージャが周囲を見回す。

「これだけあれば錨根を全部替えられる。横丁も救える」

 ボッカはパン袋の中身を捨て、金貨を詰めはじめた。

「パンには悪いけど緊急事態だ」

「待て」

 ガランが言った。

 彼は宝を見ていなかった。

 部屋の中央、円形の台座に浮かぶ黒い結晶を見ていた。

 人の心臓ほどの大きさ。表面に星の光が流れ、その周りを七本の銀鎖が縛っている。台座には古代文字が刻まれていた。

 ミロが読んだ。

「第一錨心。星鯨の浮力核……」

「本当の宝だ」

 ガランの金の犬歯が光った。

「これ一つで、小さな島を浮かせられる」

「触るな」

 サージャが言った。

「鎖が閂なんでしょ」

「分かってる。眺めてるだけだ」

「あなたの眺めるは、手を伸ばす二秒前の顔」

 ガランは両手を上げた。

 その背後で、拍手が響いた。

「見事だ、諸君。子供は狭い穴を通る。老人は罠を知る。冒険屋は護衛になる。人材配置として実に効率的だ」

 金貨の山の上に、錨務局のメルク監督官が立っていた。

 細長い男だった。灰色の制服に銀の襟章。汚れ一つない手袋。後ろには六人の武装役人がいる。

「橋は落ちたはず」

 ピッカが言った。

「局員には別の業務路がある。もっとも、入口を開けるのに部下を七人ほど使ったが」

「使った?」

 ハザンが顔をしかめる。

「必要経費だ」

 メルクはガランへ革袋を投げた。金貨の音がした。

「契約完了だ。円盤と錨心を渡せ」

 ガランは袋を受け取り、重さを確かめた。

「横丁はどうする?」

「予定通り正午に切り離す。錨心が手に入れば、上層へ新しい庭園島を造れる。貧民街を支えるより利益がある」

 ボッカの拳が鳴った。

「そこには、俺の窯がある」

「新しい窯を買えばよい」

「親父が二十年使った窯だ」

「古いものに価値を感じるのは、貧しい者の病気だよ」

 メルクが指を動かした。

 役人たちが一斉に火薬杖を構えた。

「子供を殺す契約もしてない」

 ガランが言った。

「契約書の第九条。“回収を妨げる一切の障害を排除する”。読まなかったのか?」

「契約書は字が多い」

 ガランは革袋を放った。

 落ちた金貨が床へ散らばる。

「それでよく冒険屋を?」

 サージャが訊いた。

「読めないとは言ってない。嫌いなんだ」

 ガランの手が拳銃へ動く。

 だがメルクのほうが早かった。

 銀色の小筒を投げる。

 破裂。

 白い糸が網になって広がり、ガランと五人をまとめて床へ縫いつけた。

「古代遺物を相手にする者が、早撃ちだけを警戒すると思うかね」

 メルクは黒い錨心へ歩み寄った。

「やめろ!」

 ミロが叫ぶ。

「それは錨で、閂だ!」

「迷信だ。力は使う者の手で価値を持つ」

 メルクは銀鎖を一本、切断した。

 鐘楼の金色の鐘が鳴った。

 誰も触れていないのに。

 ゴォン。

 音とともに、部屋の奥行きが伸びた。

 壁が遠ざかり、天井が星空へ変わる。

 二本目。

 ゴォン。

 金貨に刻まれた王の顔が、すべて目を閉じた。

 三本目。

 ゴォン。

 役人の一人が、自分の手を見て言った。

「私は……誰でしたか」

「持ち場を離れるな」

 メルクが苛立った。

 四本目。

 ゴォン。

 床に黒い水が広がった。

 濡れない水だった。光だけを沈めていく。

 五本目。

 ゴォン。

 遠くで、星鯨が鳴いた。

 死んで数千年経つ骨が、島全体を震わせて鳴いた。

 六本目。

 ゴォン。

 黒い水面から、顔が持ち上がった。

 山ほど大きな、人の形。

 目も鼻もない。

 口だけが、空の裂け目のように開いている。

『名を』

 最後の銀鎖が、ひとりでに切れた。

六 空洞王

 世界から、音が消えた。

 次に色が消えた。

 最後に、意味が消えはじめた。

 ミロは自分の隣にいる少女を見た。黒髪で、耳に鍵を下げている。知っているはずなのに、誰だか分からない。

「……サー……」

 言葉が出ない。

 少女はミロの頬を平手で打った。

「サージャ! 私はサージャ! あなたはミロ!」

 名が火花になって戻った。

「サージャ!」

「ボッカ!」

 大男が自分の胸を叩く。

「俺はボッカ! パンを焼く!」

「ピッカ! 屋根を走る!」

「ハザン! 美声の持ち主!」

「それは名前だけでいい!」

 四人が叫んだ。

 黒い水から伸びた指が、役人の一人へ触れた。

 男の顔が平らになった。

 目も鼻も口も消えた。

 制服の襟章から文字が消え、仲間たちは彼を見ても何も感じなかった。最初からいなかった者のように。

 空洞王。

 名を食い、記憶を食い、最後には存在したという事実を食うもの。

 メルク監督官は黒い錨心を抱えた。顔は恐怖で歪んでいたが、指は離そうとしない。

「私のものだ」

 彼は呟いた。

「私が見つけた。私の功績だ。私は王都へ――」

『おまえは、だれだ』

「メルクだ! 錨務局監督官、エディン・メルク!」

 空洞王の口が広がった。

 名前を答えた。

 その瞬間、メルクの影が剥がれた。

 影は床から立ち上がり、主人の顔へ手を入れた。メルクは叫ぼうとしたが、声より先に名を抜かれた。

 誰かがそこにいた。

 灰色の服を着た誰か。

 だが、もう誰も彼が何者だったか思い出せない。

 黒い水がその誰かを飲みこんだ。

 錨心だけが床へ落ちた。

「網を切れ!」

 ガランが叫ぶ。

 サージャは耳の鍵を一本、指先で回した。

「糸も結び目なら、錠前と同じ」

 鍵を白い糸へ差しこむ。見えない機構が鳴り、網がほどけた。

 ガランは起き上がると、真っ先に黒い錨心へ走った。

「まだ取る気?」

 ピッカが叫ぶ。

「違う、戻す!」

 彼は錨心を掴んだ。

 空洞王が振り向いた。

『だれだ』

 ガランの赤い外套から色が抜けた。

「俺は――」

「答えるな!」

 ミロが叫ぶ。

 遅かった。

「ガラン・ヴォルク。落ちない男だ!」

 空洞王の指が伸びる。

 ガランは拳銃を連射した。雷光が指へ穴を開けるが、闇はすぐ塞がる。

「ガラン!」

 ピッカが叫んだ。

「借金まみれの、契約書嫌いの、最低冒険屋!」

 ガランの外套へ赤が戻る。

「最低を定着させるな!」

 彼は錨心をミロへ投げた。

「地図屋! どこへ持っていく!」

 円盤が開いた。

 金属板の線が、鐘楼のさらに下へ伸びている。

「錨座。星鯨の心臓室!」

「案内しろ!」

 鐘楼の床が崩れた。

 金貨の山が滝になって虚空へ流れこむ。五人とガランは、落ちる床を跳び継いだ。

 空洞王が追う。

 その体は黒い海そのものだった。触れた柱から文字が消え、王冠から紋章が消え、道から行き先が消える。

 出口の前に、名なしの群れが立ちふさがった。

 ガランが滑空翼を開く。

「伏せろ!」

 翼の骨組みに仕込まれた火薬筒が一斉に噴いた。ガランは地面すれすれを飛び、両手の拳銃で影を撃ち抜く。

 ピッカが彼の背中へ飛び乗った。

「右に三体!」

「子供料金は高いぞ!」

「横丁が助かったらパンで払う!」

「金貨にしろ!」

 ガランは柱を蹴って宙返りし、影の上を越えた。ピッカが縄を投げ、影二体の脚を結ぶ。ボッカが縄を引き、ハザンが落ちていた金の盾で影を押し潰した。

「王家の備蓄、武器への転用を許せ!」

 ハザンが叫ぶ。

「たぶん今は非常時!」

 ミロが答えた。

 サージャが錨座への扉へ鍵を差した。

「鍵穴が七つ!」

 ミロは円盤を見る。

「違う。七人で触るんだ。手形がある!」

 扉には七つの窪みがあった。

 ミロ、サージャ、ボッカ、ピッカ、ハザン、ガラン。

 六人。

「一人足りない」

 サージャが言った。

 背後から、銛が飛んできた。

 名なしの影を貫き、扉の中央へ突き刺さる。

 バルザ老人が歩いてきた。

 外套は裂け、瓶の半分は失われ、乳白色の左目から黒い血が流れていた。背後には亡霊の船員たちが並んでいる。

「老骨を数に入れんとは、礼儀のない連中だ」

 老人が七つ目の手形へ掌を置いた。

 扉が開いた。

七 錨心

 心臓室は、星鯨の胸骨の中にあった。

 巨大な空洞の中央に、石の心臓が浮いている。そこから無数の鎖が伸び、上方のルーデンを支えていた。

 だが心臓には大きな亀裂が走っている。

 鼓動は弱い。

 どくん。

 鳴るたび、ナナメ横丁のほうへ伸びる鎖が一本ずつ切れていった。

「錨心を亀裂へ戻せ!」

 バルザ老人が叫んだ。

 ミロは黒い結晶を抱えて走った。

 重くはない。

 だが抱くと、自分の記憶が中へ流れこんでいく。

 母の手。

 店の紙の匂い。

 仲間たちの笑い声。

 父の背中。

 結晶の奥で、誰かが叩いた。

 かち、かちかち。かち。

 ミロは足を止めた。

「父さん?」

 同じ打ち方を知っていた。

 幼い頃、父と壁越しに遊んだ合図。

 一回、二回、三回。

『だ・い・じょ・う・ぶ』

 結晶の表面に、父の顔が映った。

 疲れた顔。髭は伸び、片方の眼鏡が割れている。それでも笑っていた。

『ミロ。ここまで来たのか』

「父さん!」

 仲間たちが振り返る。

 だが声はミロにしか聞こえない。

『錨心の中に、残っただけだ。七年前、亀裂を塞いだ。完全には直せなかった』

「出せる? 父さんをここから――」

『できない』

 即答だった。

『聞け。錨心は重さで島を留めるんじゃない。名前で留める。星鯨が自分を忘れないよう、王たちは都市の名を刻んだ。だが空洞王は、その名を食べている』

 石の心臓の表面には、無数の文字があった。

 通りの名、広場の名、橋の名。

 消えかけている。

『新しい名を与えろ。人々が呼び、帰りたいと願う名を』

「誰か一人の名前を?」

 父の顔が曇った。

『一人でも足りる。だが、その者は世界から消える。わたしが七年を稼げたのは、自分の名の半分だけを渡したからだ』

 だから皆は父の顔を少しずつ忘れていた。

 母でさえ、声を思い出せなくなっていた。

 背後で、空洞王が心臓室へ入ってきた。

 亡霊船員たちが壁を作る。

 黒い波が彼らを飲みこみ、一人ずつ名が消える。

 バルザ老人が最後の瓶を取り出した。

 他の瓶より小さく、透明だった。

 中には金色の光が一粒、浮かんでいる。

「それは?」

 ミロが訊いた。

「わしの名だ」

 老人は笑った。

「昔は別の名で呼ばれていた。境界航海団の船長。空洞王を星の外から追い、ここへ封じた。長く生きすぎて、今ではわし自身も忘れた。瓶だけが覚えている」

「それを使えば、錨心を直せる?」

「しばらくはな」

 老人は瓶を心臓へ投げようとした。

 ミロが腕を掴んだ。

「しばらくじゃ駄目だ」

「他に手はない」

「ある」

 ミロは真鍮円盤を開いた。

 父が描いたルーデンの下面図。

 そこには上の町の名前が一つもない。家も人も、父の記憶の中にしかない。

 ミロは円盤の裏へ、地図刻み針を当てた。

「何をする?」

 サージャが訊いた。

「町の名前を刻む」

「一つじゃ足りない」

「一つじゃない。全部」

 ミロは刻みはじめた。

 ナナメ横丁。

 雨樋通り。

 三本煙突広場。

 ボッカの家のパン窯。

 サージャの錠前屋。

 ハザンの葬歌堂。

 ピッカが昼寝する青屋根。

 〈北も南も〉地図店。

「それ、名前じゃないものも混じってる」

 ピッカが言った。

「呼ばれてるなら名前だ!」

 サージャが針を取った。

「鉄鈴橋。母さんの作業台。西の欠けた階段」

 ボッカも大きな指で刻んだ。

「焼き窯一号。二号。裏の井戸。親父の椅子」

 ハザンが続く。

「我が家の棺置き場。名曲が生まれる窓辺。サージャに音痴と言われた路地」

「それは消して」

 ピッカは屋根の名前を並べた。

「赤屋根。青屋根。猫屋根。滑る屋根。怒るおばさんの屋根」

 円盤は文字で埋まった。

 ガランが刻み針を受け取る。

「俺は住んでないぞ」

「知ってる場所は?」

 ミロが訊いた。

 ガランは少し考えた。

「酒場〈片翼〉。つけは三年分。亭主は俺が死んだら帳消しにすると言った」

「それも刻んで」

 ガランは笑い、刻んだ。

 最後に、バルザ老人が針を持った。

 長い間、何も書かなかった。

 やがて、小さく一語を刻んだ。

『帰港』

「家の名前?」

 ミロが訊いた。

「そうだった気がする」

 円盤が金色に輝いた。

 空洞王が亡霊の壁を破った。

『名を』

 巨大な口が開く。

 ミロは円盤を錨心の亀裂へ差しこんだ。

「これは、俺たちの町だ!」

 石の心臓が震えた。

「ナナメ横丁!」

 サージャが叫ぶ。

「雨樋通り!」

 ボッカが叫ぶ。

「三本煙突広場!」

 ピッカが叫ぶ。

「鉄鈴橋!」

 ハザンが叫ぶ。

「酒場〈片翼〉!」

 ガランが叫ぶ。

「帰港」

 バルザ老人が言った。

 名が鎖を走った。

 空洞王が口を閉じようとする。

 だが、もう遅い。

 心臓室の壁へ、町の灯りが映った。

 パン窯の火。

 錠前を削る火花。

 葬送歌の蝋燭。

 屋根を走る子供の足音。

 地図店の紙の匂い。

 たった一人の名ではない。

 何百人、何千人が毎日呼ぶ名。

 帰る場所として覚える名。

 消されても、別の誰かがまた呼ぶ名。

 空洞王の口から、黒い水が逆流した。

『だれだ』

『だれだ』

『だれだ』

「俺はミロ・カーン!」

「サージャ・ベル!」

「ボッカ・ドーン!」

「ピッカ・リイ!」

「ハザン・セイル!」

「ガラン・ヴォルク!」

 全員が老人を見る。

 バルザ老人は透明な瓶を握っていた。

 蝋の栓を抜く。

 金色の光が飛び出し、彼の額へ入った。

 老人の黒い目に、星が戻った。

「わしは――」

 その名は、人の声では発音できなかった。

 雷が歌い、鯨が眠り、星と星の間の暗闇が一瞬だけ形を持ったような音だった。

 空洞王が初めて怯んだ。

 バルザ老人――境界航海団の最後の船長――は、銛銃を巨大な口へ向けた。

「退潮だ、化け物」

 銛が放たれた。

 金色の鎖が空洞王を貫き、星鯨の心臓へ縫いつける。

 黒い体が渦を巻く。

 亡霊船員たちが一斉に鎖を引いた。

 空洞王は縮み、裂け、叫びながら円盤の裏の星空へ吸いこまれていった。

 最後に残った口が、ミロへ囁く。

『おまえの父の名も、もらう』

 円盤の内側から、父の声がした。

『もう渡した。半分だけな』

 かち。かちかち。かち。

『だ・い・じょ・う・ぶ』

 円盤が閉じた。

 石の心臓が、大きく鼓動した。

 どくん。

 ルーデン全島が跳ね上がった。

八 落ちない町

 星鯨の腹で過ぎたのは、一夜にも満たないように思えた。

 だが空洞王のそばでは、時間まで自分の名を忘れる。地上では、無風岬の家へ入ってから二日半が過ぎていた。

 三日目の正午。

 錨務局の役人は、ナナメ横丁を切り離すため、中央鎖へ巨大な切断鋏を掛けていた。

 住民たちは上層へ追い立てられ、赤い紙の貼られた家々を見下ろしていた。ミロの母は、息子の姿がないことを誰にも言わなかった。言えば、本当に戻らない気がした。

 鐘が十二回鳴った。

 役人が切断鋏のレバーを倒す。

 その瞬間、島の底から金色の光が噴き上がった。

 腐っていた錨根が一斉に脈打ち、白い骨から黄金の鎖へ変わる。切断鋏の刃が砕け、役人たちは尻もちをついた。

 傾いていたナナメ横丁が、ゆっくり水平へ戻った。

 パン窯の煙突が煙を吐き、

 錠前屋の看板が鳴り、

 葬歌堂の空の棺が一斉に蓋を開けた。

 そして無風岬の崖下から、黒い船が飛び出した。

 古代の錨船だった。

 帆はなく、船腹から何十本もの鎖を引きずり、星鯨の骨を突き破って空へ躍り出る。船首には五人の子供と一人の冒険屋がしがみついていた。

「止め方は!」

 サージャが叫ぶ。

「地図にはない!」

 ミロが叫ぶ。

「最高だ!」

 ガランが叫ぶ。

「最低だ!」

 ピッカが叫ぶ。

 船は横丁の上をかすめ、役所の塔へ突っこんだ。

 直前、ガランが滑空翼を開いた。五人を縄でまとめて吊り、空中へ飛び出す。

 古代船は塔の屋根を丸ごとさらい、上層の空中庭園予定地へ墜落した。

 幸い、そこにはまだ誰も住んでいなかった。

 不幸にも、錨務局長の新しい銅像だけがあった。

 銅像は首から上だけ、底なし青へ落ちていった。

 ガランと五人は、パン屋の天幕へ着地した。

 天幕は破れ、六人は焼きたての生地へ沈んだ。

 ボッカの父が腕組みして見下ろした。

「ボッカ」

「ただいま、親父」

「窯を三日放り出した罰だ。百個こねろ」

「町を救ったんだけど」

「じゃあ九十個」

 ミロの母が走ってきた。

 何も言わず、ミロを抱きしめた。

 強くて、痛かった。

「父さんに会った」

 ミロは母の肩へ顔を埋めて言った。

「帰れないって。でも、大丈夫だって」

 母は長い間、黙っていた。

「そう」

 やがて言った。

「いつも、それしか言わない人だった」

 泣きながら、笑った。

 錨務局は切り離し令を撤回した。

 第一錨心の再起動により、ルーデンの錨根は王都で最も強固になった。王の備蓄庫から噴き出した金貨も、崩れた鐘楼の穴を通って横丁へ雨のように降った。

 もっとも、住民たちは「修繕備蓄」の文字を盾に、一枚も局へ返さなかった。

 ガラン・ヴォルクは、金貨を一枚だけ拾った。

「本当に一枚でいいの?」

 サージャが訊いた。

「契約は失敗。依頼人は……誰だったか忘れた。これは拾得物だ」

「借金は?」

「冒険屋は借金で若さを保つ」

 ピッカが金貨をもう一枚投げた。

「最低ガランへの子供料金」

 ガランは受け取り、金の犬歯を見せた。

「次に宝の地図を見つけたら、まず俺を呼べ」

「絶対に呼ばない」

 五人が答えた。

 ガランは笑い、片翼だけの滑空具で空へ飛び出した。案の定すぐ落ちかけ、洗濯綱を三本巻きこみ、それでもどこかへ飛んでいった。

 無風岬の家は、翌朝には消えていた。

 庭も、百の窓も、風見鶏もない。

 ただ崖の先に、黒い瓶が一本置かれていた。

 瓶の白い文字は読めなかった。

 ミロが耳を当てると、内側から音がした。

 かち。かちかち。かち。

「父さん?」

 返事はない。

 代わりに、遠い海鳴りのような声が囁いた。

『門は閉じた。だが空の海は広い』

 瓶の中で、金色の星が一つ瞬いた。

 その夜、ナナメ横丁では祭りが開かれた。

 パンが焼かれ、歌が響き、屋根から屋根へ灯りが渡された。新しい看板には、住民全員の名前が刻まれた。

 ミロは地図店の屋根に座り、修復した真鍮円盤を開いた。

 空洞王を封じた裏面には、見知らぬ星々が映っている。

 その一つが、ゆっくり動いた。

 魚のように。

 あるいは、巨大な鯨のように。

「また何か見つけた?」

 隣に座ったサージャが訊いた。

 下ではボッカがパンを配り、ピッカが屋根を走り、ハザンが頼まれてもいない歌を歌っている。

 ミロは円盤を閉じた。

「ううん。今夜はいい」

 町の名を呼ぶ声が、風に乗っていた。

 ナナメ横丁。

 雨樋通り。

 三本煙突広場。

 帰る場所。

 落ちない町。

 空の海の底で、何かがもう一度、瓶を叩いた。

 かち。

 けれど今度は、誰も名を答えなかった。