時盗人の双鐘楼
序 昨日を鳴らす鐘
イスカ・ベルネは、四本の腕で目を覚ました。
正確に言えば、目を覚ましたのは彼女の意識だけだった。体は彼女のものではなかった。薄い翡翠色の皮膚。節が三つある指。胸には肺の代わりに、黒い花弁のような器官が開閉している。
頭上には星があった。だが、イスカの知る星座は一つもない。紫色の太陽が水平線の下で燃え、都市を形づくる無数の塔が、海藻のように風もない空へ揺れていた。
彼女は石卓に向かっていた。四本の手が、それぞれ別の文字を書いている。
――灰嘴町。北緯は存在せず。第九地層、崩落まで三日。
――黎鐘楼は地上にあり。暮鐘楼は地の下にあり。
――二つを同時に鳴らせ。さもなくば、明日は昨日を食べる。
そして、誰かが背後から彼女の名を呼んだ。
「イスカ」
父の声だった。
振り向くより先に、紫の太陽が昇った。
光ではなく、巨大な影が世界を満たした。
イスカは自分の寝台から転げ落ちた。
息がある。腕は二本。皮膚は日に焼けた褐色。窓の外では、まだ夜明け前の灰嘴町が、崖を打つ波の音に震えている。
床には、眠る前にはなかった地図が広がっていた。
彼女自身の筆跡で、町の地下が描かれている。存在しないはずの螺旋階段、海より深い大広間、そして二つの鐘楼。
地図の隅に、見覚えのない文字が一行だけあった。
しかしイスカは、その意味を知っていた。
《空白の合唱が、あなたの時間を嗅ぎつけた》
一 立ち退き命令と死人の地図
その朝、灰嘴町の広場には、二種類の紙が貼られた。
一枚は王国軍の布告だった。
北から侵攻する白灰軍が、風断ち峡谷まで四日の距離に迫っている。住民は南街道へ退避せよ。戦える者は、峡谷を塞ぐ風断ち砦へ集結せよ。
もう一枚は王都鉱務院の告知だった。
灰嘴鉱山は三年連続で採掘割当を満たしていない。町の土地、建物、港湾権はすべて抵当として接収する。住民は三日以内に退去せよ。
「戦争と借金が競走してる」
イスカの隣で、メラが腕を組んだ。黒髪を顎のところで切り揃えた、鐘守の娘である。耳がよすぎるせいで、人の嘘を声の震えで見抜く。
「どっちが先に町を潰すと思う?」
「役人」とキットが即答した。「軍隊はたまに道に迷うけど、役人は絶対に住所を間違えない」
十三歳のキットは、町で最も小柄な鍵師見習いで、町で最も大柄な態度を持っていた。腰には鍵束、針金、干し肉、用途不明の小瓶が十七本ぶら下がっている。
「俺は白灰軍に賭けるね」
そう言ったトーヴァンは、鍛冶屋の息子らしく肩幅が戸口ほどあった。十六歳だが、港の荷揚げ人夫に混じっても頭一つ抜けている。もっとも、地下室へ一人で薪を取りに行けないことは、四人だけの秘密だった。
「だって、白灰軍には死人を歩かせる術師がいるんだろ」
「役人だって似たようなものよ」とメラが言った。「数字に命令されて歩いてる」
広場の向こうでは、町長が鉱務院の代官に食い下がっていた。
「三日で五百人をどこへ移せというんだ!」
「南へ」
「南には白灰軍を避けてきた難民がいる!」
「では、さらに南へ」
代官は、天気の話でもするように言った。背後には十二人の護衛兵と、封印箱を抱えた書記がいる。三日後、町の扉という扉に王家の封印を貼るための箱だ。
イスカは紙を睨んだ。
父ヴェルナが行方不明になってから、七か月が過ぎていた。
父は地図師だった。人の歩いた道ではなく、人が忘れた道を探す地図師。灰嘴鉱山の最深部で古い坑道を調べに行き、そのまま戻らなかった。
町の借金を返せる鉱脈を見つける、と笑っていた。
そして今朝、イスカは父の声で目を覚ました。
「家へ戻る」
イスカが言うと、三人は同時に彼女を見た。
「何を見つけた?」とメラ。
「まだ何も」
「今、声が半音上ずった」
「夢を見ただけ」
「さらに四分の一音」
「気味の悪い夢」
「それなら本当」
メラは満足げに頷いた。
四人は広場を離れ、魚油の匂いが染みついた坂道を駆け上がった。灰嘴町は海へ突き出た黒い崖の上に、家々が互いの肩へしがみつくように建っている。屋根から屋根へ板橋が渡され、下の路地には日の光がほとんど届かない。
その一番高い場所に、ベルネ地図店があった。
看板は七か月前の嵐で半分に割れ、今は《ベルネ地》とだけ読める。
イスカは屋根裏へ三人を通した。床に夢の地図を広げる。
トーヴァンが覗き込み、すぐに顔をしかめた。
「地下か」
「地下ね」とメラ。
「真っ暗な地下」とキット。
「地下という言葉を三回も言うな」
イスカは父の古い地図箱を引っ張り出した。中には、港の潮流図、崖の亀裂図、閉鎖坑道の断面図。夢の地図と重ねてみる。
線が一致した。
町の井戸。廃坑の通気孔。酒場《酔い鯨亭》の地下貯蔵庫。
ばらばらに描かれていた古い線が、夢の地図では一つの道になっている。その先に、円形の印があった。
《ヴァーン王の未発見金庫》
キットが息を吸った。
「ヴァーン王って、銀海時代の?」
「海賊王とも、探検王とも呼ばれた」とイスカ。「四百年前、王都から奪った税金を船三隻分隠した。誰も見つけてない」
「町が買える」
トーヴァンの声が低くなった。
「町どころか、代官を買って、南へ追い払える」
メラは地図の端を指で叩いた。
「問題は、この文字」
イスカは《空白の合唱》という言葉の意味を説明できなかった。夢の中では理解していたのに、目覚めると、意味だけが濡れた紙のように崩れてしまう。
代わりに父の机を調べた。
引き出しは空だった。天板の裏も、壁板の隙間も、いつか四人で探した。だが、今朝の地図に描かれた小さな三角形と同じ傷が、机の脚にある。
キットが細い針を差し込み、舌を片側へ寄せた。
「鍵じゃない。癖の悪い留め金だ。作ったやつは友達が少ない」
「お父さんよ」とイスカ。
「納得」
脚の一部が外れ、中から真鍮の筒が落ちた。
中には羊皮紙が一枚。
父の字だった。
《イスカへ。
これを読むとき、私は私ではないかもしれない。
金庫を見つけても、金に触れるな。
鐘を見つけても、一人で鳴らすな。
おまえの記憶の中に、知らない夕暮れがあったなら、それは夢ではない。
宝は町を救わない。何を捨てるかが、町を救う。
――父より》
しばらく誰も口を開かなかった。
やがてキットが言った。
「大人の忠告って、どうしていつも肝心な名詞が抜けてるんだ?」
「子どもが勝手に続きを調べるように」とメラ。
「それ、教育として最悪だろ」
イスカは羊皮紙を畳んだ。
「出発は昼。酔い鯨亭の地下から入る」
「俺たち、行くって言ったか?」とトーヴァン。
「来ないの?」
「行く。確認しただけだ」
メラは窓の外を見た。風断ち峡谷の方角に、白い煙が細く立ち昇っている。
「三日後には、町は役人のもの。四日後には、敵のもの」
彼女は地図を丸め、イスカへ投げた。
「今日中に宝を見つけるわよ」
二 酔い鯨の腹の中
酔い鯨亭の主人は、キットの養父だった。
だから四人は、正面から堂々と忍び込んだ。
主人が代官の護衛に薄い酒を濃い値段で売っている隙に、厨房を横切り、塩漬け樽の間を抜け、地下貯蔵庫へ降りる。
床の隅に、鯨の骨でできた古い排水口がある。
「ここを通るのか?」
トーヴァンは、肩幅の半分しかない穴を見た。
「あなたが最後」とメラ。「詰まったら、後ろから蹴る」
「友情が乱暴すぎる」
キットが格子を外した。潮と黴と、何か甘く腐った匂いが上がってくる。
四人は一列になって這った。
先頭はキット。次にイスカ、メラ、トーヴァン。
十歩進んだところで、トーヴァンが言った。
「戻ろう」
「まだ酒場の真下よ」
「十分に地下だ」
「歌う?」とメラ。
「やめろ。おまえの歌は壁がよく響く」
「怖いとき、いつも歌わせるじゃない」
「今日は怖くないからだ」
前方で、キットの足が消えた。
続いて悲鳴。
三人が慌てて進むと、排水路が途中で途切れ、広い縦穴へ開いていた。キットは五歩ほど下の石棚に尻から落ちている。
「大丈夫?」
「俺の誇り以外は」
縄を垂らし、順番に降りた。
縦穴の壁には、古い鉄の輪が等間隔に打たれている。下から冷たい風が吹き上げてきた。見下ろしても底はない。
夢の地図では、ここから横穴へ移る。
イスカが石棚を撫でると、壁の一部がわずかに震えた。
「叩いてみて」
トーヴァンが拳で殴る。
壁が内側へ倒れた。
「もう少し優しくできない?」
「開いた」
「そういう問題じゃない」
奥には、人が二人並んで歩ける坑道が伸びていた。壁に青白い鉱石が埋まり、松明なしでも輪郭が見える。
床には四百年前の足跡が残っていた。
長靴の跡が十二人分。荷車の轍。引きずられた箱。
そして、その上に重なる新しい足跡が一人分。
父の靴底には、右の踵に三角形の欠けがあった。
イスカはしゃがみ込んだ。
「お父さんだ」
足跡は暗がりの奥へ続いている。
四人は急いだ。
やがて坑道は、丸い石室へ出た。中央に石の椅子が一脚あり、その上に骸骨が座っている。頭には錆びた王冠。膝には金の箱。
キットが歓声を上げかけ、イスカが口を塞いだ。
「簡単すぎる」
「簡単な宝も世の中にはある」
「あなたの人生にはない」
骸骨の足元には文字が刻まれていた。
《欲しい者は取れ。賢い者は、欲しがったことを恥じよ》
「ヴァーン王の言葉だ」とイスカ。
メラが小石を箱へ投げた。
箱の蓋が跳ね上がる。
中から金貨ではなく、細い銀糸が数百本飛び出した。糸は石室を横切り、壁の穴へ吸い込まれる。
次の瞬間、天井が下がり始めた。
「簡単な宝だな」とトーヴァン。
「今それ言う?」
四人は出口へ走った。だが入ってきた坑道には、鉄格子が落ちている。
反対側に三つの扉があった。
一つには魚。
一つには鳥。
一つには目を閉じた人間。
天井はもう、トーヴァンの頭すれすれまで下がっている。
「地図には?」
「この部屋がない!」
「夢なんだから更新しとけ!」
メラが壁の文字を読み上げた。
《魚は海を知る。鳥は空を知る。王は知らぬものを選ぶ》
「目を閉じた人間!」とイスカ。
キットが取っ手を回す。開かない。
「鍵だ!」
「急いで!」
「急ぐと鍵が怒る!」
トーヴァンが天井を両腕で支えた。石が軋み、膝が沈む。
「鍵の機嫌を取ってる場合じゃない!」
キットは針金を二本差し込み、目を閉じた。
「三つ……五つ……いや、歯が動いてる。嫌なやつだな。友達が少ないどころじゃない。誕生日に誰も来ない」
「キット!」
「開いた!」
扉が内側へ開く。
三人が転がり込み、最後にトーヴァンが腕を引いた。天井が落ち、骸骨の王冠が乾いた音を立てて潰れた。
しばらく、四人は暗闇で息を切らした。
「戻る?」とトーヴァン。
「格子と天井を片づけられるなら」とメラ。
「進もう」
トーヴァンは即答した。
その先は、坑道ではなかった。
壁も床も、黒い硝子のような素材でできている。角という角が、人間の目には少しだけ間違って見えた。直角のはずなのに、見つめるほど奥へ傾いていく。
青白い光が、脈を打つように壁の中を流れている。
イスカの頭の奥で、誰かが鐘を鳴らした。
一度。
二度。
三度。
彼女は知らない言葉で呟いた。
「記録棟、第九枝。収蔵年代、星暦マイナス八百四十万年から、プラス十二億年」
三人が足を止めた。
「今、何て?」とメラ。
イスカ自身にも分からなかった。
だが廊下の突き当たりにある扉へ近づくと、四本の手で開ける方法を知っていた。
二本しかない手を、足と肩で補った。
扉が開いた。
向こうには、町より広い図書館があった。
棚に本はない。
代わりに、何万もの透明な円筒が並んでいる。
その一つ一つの中で、影が夢を見ていた。
三 借り物の頭蓋骨の図書館
円筒の中身は、煙に見えた。
近づくと、その煙が形を変えた。
鱗のある巨人。火の中を泳ぐ虫。翼を畳んだ人間。骨だけで歩く獣。顔の代わりに小さな月を浮かべた何か。
どれも一瞬で消え、別の姿になる。
「幽霊?」キットが囁いた。
「記憶」とイスカは答えた。
また、知らない知識が口から出た。
「一つの円筒に、一つの生涯。ここは時間の外にある観測図書館。彼らは自分の時代から、未来や過去の生き物の心へ移り、その目で歴史を記録した」
メラがイスカの手首を掴んだ。
「誰が喋ってるの?」
「私」
「半分だけ本当」
その声には、恐れが混じっていた。
トーヴァンがイスカと棚の間へ立った。
「ここを出よう」
「父がいる」
イスカは確信していた。
図書館のさらに奥。黒い扉の向こうで、父の記憶が彼女を呼んでいる。
走り出そうとした瞬間、床の円が青く光った。
頭蓋骨の内側を、冷たい指で裏返された。
イスカは再び、四本の腕を持っていた。
今度は夢ではない。
石卓の周りに、同じ姿の者たちが十数人いる。翡翠色の皮膚、花弁の胸、縦に長い黒い眼。
口はない。
それでも声が聞こえた。
《恐れるな、短命の地図師》
「私の友達は?」
声は音にならなかった。思っただけで、相手へ伝わった。
《あなたの身体のそばにいる。あなたの身体には、いま誰も入っていない》
「誰も?」
《本来なら、我々の観測者が入る。交換は対になっている。しかし空白の合唱が経路を食い、片側だけを奪った》
都市の外で、紫の太陽が昇りつつあった。
イスカは序章の夢を思い出した。
「ここはいつ?」
《あなたの時代から八百四十万年前》
「父は?」
周囲の者たちが沈黙した。
その沈黙だけで、答えの重さが分かった。
やがて一人が前へ出た。左の二腕に銀色の輪をはめている。
《私はセシュ。七千の夕暮れを記す者。あなたの父ヴェルナは、我々の時代にいる》
景色が切り替わった。
イスカは、記憶の中へ落ちた。
七か月前の灰嘴鉱山。父が一人で黒い扉を開ける。図書館へ入る。円筒に触れる。
その直後、父の意識は八百四十万年前へ飛ばされた。
だが交換されるはずだったセシュの意識は、父の身体へ入れなかった。
黒い何かが先に入り込んだ。
それは一つの生物ではなかった。
滅びた文明の最後の悲鳴。自分の時代へ戻れず、交換経路の隙間に取り残された無数の心。何百万年も互いの記憶を食べ、境界を失い、一つの飢えになったもの。
空白の合唱。
父の身体を得た合唱は、地上へ出た。そして北へ向かった。
白灰軍の陣営へ。
「白灰軍を操っているの?」
《操る、という言葉は正確ではない。合唱は、恐怖の中に空白を作る。兵士は自分の名前を忘れ、家族を忘れ、死を恐れる理由を忘れる。残るのは命令だけだ》
イスカは白い煙を思い出した。
「風断ち砦が狙われてる」
《砦の黎鐘楼には、我々が残した時間錨がある。あなたの地下にある暮鐘楼と対になっている。二つが揃えば、交換経路を閉じられる。合唱はそれを逆に使い、すべての時代を一つの空白へ畳もうとしている》
「どうやって止める?」
《二つの鐘を、同じ瞬間に鳴らす》
「それだけ?」
セシュの黒い眼に、イスカ自身の姿が映った。
《鐘の燃料は、記憶金。あなた方が金と呼ぶ物質に、我々は生涯を刻んだ。ヴァーンという王が金庫を築いたのではない。彼は我々の貯蔵庫を見つけ、扉に自分の名を書いただけだ》
宝は町を救わない。何を捨てるかが、町を救う。
父の手紙の意味を、イスカは理解した。
「金庫の金を全部、鐘に使うのね」
《それでも足りないかもしれない》
「足りなければ?」
《鐘のそばにいる者の記憶を燃やす》
紫の太陽が半分、地平線から現れた。
それが太陽ではないことに、イスカは気づいた。
巨大な黒い影が、星を覆いながら近づいている。空白の合唱は彼女の時代だけでなく、この時代にも手を伸ばしている。
セシュが四本の手をイスカの肩へ置いた。
《帰れ。あなたの身体が空のまま長く置かれれば、合唱が入る》
「父を連れて帰る」
《彼は別の時代にいる》
「ここでしょう?」
《同じ八百四十万年前でも、彼は我々より二十七年後の夕暮れにいる。時間は場所より遠い》
「会えないの?」
《一つだけ記録がある》
セシュは石卓の上に、銀色の円筒を置いた。
父の声が流れた。
『イスカ。おまえがこれを聞いているなら、私は帰り道を見つけられなかったらしい』
声は少し老いていた。
『こちらで二十七年過ごした。おまえには七か月だろう。悪い父親だな。約束より、ずいぶん遅くなった』
イスカは、四本の手を握りしめた。
『空白の合唱は、人が忘れたいと思う気持ちを入口にする。だから怖いことを忘れるな。失敗も、別れも、自分が小さかった日のことも。痛みだけ捨てようとすれば、いつか名前まで一緒に捨てる』
音が乱れた。
『鐘を鳴らせ。友達と鳴らせ。一人の記憶は消えるが、分けた記憶は物語になる。物語になったものを、合唱は食べられない』
最後に、父は笑った。
『それから、私の机の脚を壊したなら直しておけ。あれは高かった』
イスカは泣きながら笑った。
「自分で直して」
紫の影が都市を呑んだ。
セシュが彼女を突き飛ばした。
世界が裏返った。
「イスカ!」
頬を叩かれた。
目を開けると、メラが泣きそうな顔で覗き込んでいた。トーヴァンは斧を構え、キットはイスカの鼻の下に鏡を当てている。
「息してる」とキット。
「見れば分かる!」
「見えないくらい弱かったんだよ」
イスカは起き上がった。頭の中に、八百四十万年前の空の色が残っている。
「どれくらい?」
「三分」とメラ。「あなたには?」
「少し長かった」
イスカは父のこと、空白の合唱、二つの鐘楼を話した。
誰も途中で笑わなかった。
話し終わると、トーヴァンが斧を下ろした。
「つまり、宝を見つけたら全部燃やす」
「そう」
「町の借金は?」
「残る」
「白灰軍を止めなければ、町そのものが残らない」メラが言った。
キットは透明な円筒を見回した。
「俺、今まで金持ちは嫌いだったけど、金まで嫌いになりそうだ」
図書館の奥で、低い音が響いた。
鐘ではない。
何千人もの声が、同時に息を吸う音だった。
円筒の中の影が一斉にこちらを向く。
黒い扉の隙間から、白い灰が流れ込んできた。
「走って」とイスカ。
四人は図書館の奥へ走った。
四 二つの塔、二つの道
黒い扉の向こうは、巨大な円形の縦穴だった。
底は見えない。中央に、逆さまの鐘楼が吊られている。
屋根が下。鐘が上。
石の橋が螺旋を描きながら、鐘楼へ続いていた。橋の両側には手すりがなく、下から冷たい風が吹き上げている。
「建てたやつ、上下を間違えてる」とキット。
「重力の向きが違ったのかも」とイスカ。
「それを先に言え」
背後の扉が膨らんだ。
白い灰が、人の指の形になって隙間から這い出す。
イスカは夢の地図を広げた。暮鐘楼へはこの橋。だが黎鐘楼は風断ち砦にある。ここから地上へ出ても、峡谷まで半日はかかる。
そのとき、壁の中に細い光が走った。
地図に新しい線が浮かぶ。
古代の連絡坑道。鐘楼から北東へ伸び、風断ち砦の井戸へ達している。
「二手に分かれる」とイスカ。
「嫌」とトーヴァン。
「あなたとメラは連絡坑道で砦へ。黎鐘楼を鳴らして」
「おまえは?」
「キットと暮鐘楼へ行く。金庫もこっちにある」
「もっと嫌だ」
トーヴァンの声が、縦穴に響いた。
「四人で来た。四人で帰る」
「二つの鐘を同時に鳴らすには、分かれるしかない」
「大人に頼めばいい」
「砦の大人が、地下から来た子どもの話を信じると思う?」とメラ。
「おまえは信じさせられる」イスカは言った。「嘘を聞き分ける耳がある。鐘の音も知ってる」
メラは唇を噛んだ。
「同時って、どうやって合わせるの?」
イスカは頭の中に残る知識を探った。
鐘は普通の音を鳴らさない。互いの存在を感じ、片方が打たれれば、もう片方の鐘面に光が走る。
「そっちの鐘が光ったら、九つ数えて鳴らして。こっちも同じにする」
「九つ?」
「二つの時代が重なるまでの間」
「たぶん?」
「かなり、たぶん」
「最悪の言い方ね」
白い灰が扉を破った。
人の形をした影が三体、図書館から現れる。顔はない。代わりに、イスカたち自身の顔が、煙の表面へ次々と浮かんだ。
イスカの顔が言った。
『分かれるな』
トーヴァンの顔が言った。
『一人になれば、忘れる』
メラの顔が言った。
『忘れれば、怖くない』
キットが小瓶を一本投げた。
瓶が割れ、黄緑色の煙が噴き出す。灰の人影がのけぞった。
「何それ?」
「酔い鯨亭の厨房で一番古い卵」
「武器だったの?」
「今決めた!」
四人は連絡坑道の入口まで走った。
トーヴァンが最後まで動かなかった。
イスカは彼の胸を拳で叩いた。岩のように硬い。
「地上で会う」
「約束しろ」
「する」
「声が上ずってる」とメラ。
「今は聞かなかったことにして」
メラはイスカを強く抱きしめた。
「九つ数える。十でも八でもなく」
「九つ」
キットがトーヴァンへ鍵束を一つ投げた。
「砦に閉じ込められたら使え」
「どの鍵だ?」
「一つくらい合うだろ」
二人は連絡坑道へ消えた。
イスカとキットは逆さまの鐘楼へ向かった。
連絡坑道は、上り坂だった。
最初は緩やかだったが、百歩進むと階段になり、さらに進むと梯子になった。
「古代人は、連絡する相手を嫌ってたのか?」
トーヴァンが喘いだ。
「静かに」
メラは立ち止まり、耳を壁へ当てた。
遠くで、規則正しい振動がする。
太鼓。
何百、何千という足音。
「白灰軍が砦へ着いた」
梯子の上から、冷たい雨が落ちてきた。
二人が押し上げた石蓋は、風断ち砦の古井戸へ開いていた。
外は夕暮れだった。
出発してから、まだ半日しか経っていないはずなのに、空は嵐のように暗い。
砦の城壁には兵士と避難民がひしめいている。谷の向こうには、白い灰をまとった軍勢が、地平線まで広がっていた。
旗はない。
誰も声を上げない。
ただ同じ歩幅で進んでくる。
軍勢の中央には、骨と木で組み上げた巨大な四足獣がいた。頭部には攻城槌。背中には白い塔。
その塔の窓に、人影が立っている。
遠すぎるのに、メラには分かった。
イスカの父の身体だった。
だが立ち方が人間ではない。両腕を不自然に垂らし、何千人分もの呼吸で胸を膨らませている。
空白の合唱が、こちらを見た。
メラの耳の奥で、声がした。
――おまえの母は、最後に何と言った?
メラはよろめいた。
亡くなった母の声を、彼女は何年も忘れまいとしてきた。けれど顔を思い出すたび、声が薄くなる。声を思い出すたび、顔が遠のく。
――忘れれば、もう失わない。
トーヴァンが彼女の肩を掴んだ。
「どうした」
「何でもない」
「声が震えてる」
「それは私の台詞」
砦の兵士が二人を見つけ、槍を向けた。
「どこから入った!」
「井戸です」とトーヴァン。
「見れば分かる! 敵の間者か?」
メラは城壁の上を指した。
「黎鐘楼へ連れていって。あれを鳴らさないと、全員、名前を食べられる」
兵士は顔を見合わせた。
「牢へ」
「だから大人は嫌い」とメラは呟いた。
五 暮鐘楼の王金庫
逆さまの鐘楼へ続く橋は、歩く者の記憶に反応した。
最初の百歩で、イスカは五歳の夏を見た。
父の肩に乗り、初めて崖上から海を見た日。海があまりに大きく、世界は全部、水なのだと思った。
次の百歩で、十一歳の冬。
母の葬儀。雪が降り、誰もが寒さのせいで泣いているふりをした。
さらに進むと、見たことのない記憶が混じった。
紫の太陽。四本の腕。石卓を囲む翡翠色の人々。
そして父の二十七年。
父は異形の身体で古代都市を歩いていた。人間の足なら三歩で届く段差に苦労し、口のない身体で歌を歌おうとして、セシュたちを困らせた。
彼は毎日、イスカの地図を描いた。
五歳のイスカ。七歳。十二歳。実際には見られなかった成長を、想像で紙へ刻んだ。
「今の、見えた?」
イスカが聞くと、キットは頷いた。
「おまえの親父、絵は下手だな」
「地図師だから」
「でも、おまえの鼻は似てた」
キットは笑おうとしたが、声が掠れた。
橋は彼の記憶も見せた。
雨の夜。酔い鯨亭の裏口。六歳のキットが、盗んだパンを抱えて倒れている。店主が彼を拾い上げる。
その前の記憶はなかった。
名前も、親の顔も、どこから来たかも。
「俺は空っぽじゃない」
キットが突然言った。
「分かってる」
「最初がなくても、空っぽじゃない」
「分かってる」
橋の後ろで、白い灰が形をとった。
今度は人影ではなく、巨大な口だった。歯の一本一本に、誰かの顔が浮かんでいる。
イスカとキットは走った。
鐘楼の入口は下向きに開いていた。そこへ飛び込むと、重力がねじれた。
二人は壁へ落ち、次に天井へ落ち、最後に床へ転がった。
「古代人には階段って発明がなかったのか?」
キットが鼻血を拭いた。
鐘楼の内部は、外から見たより広い。
中央に巨大な鐘が浮かんでいる。金属ではなく、夜空を薄く切り取ったような黒。表面には星が流れ、触れていないのに低い振動が骨へ響く。
鐘の下には、六角形の窪みがある。
その向こうに、黄金の扉。
ヴァーン王の印章が刻まれている。
キットは扉を見た瞬間、笑った。
「これは鍵だ」
「見れば分かる」
「違う。いい鍵だ。作ったやつは友達がいた」
彼は工具を並べ、耳を錠前へ当てた。
イスカは鐘の周囲を調べた。
九本の打ち棒が、花弁のように折り畳まれている。鐘を鳴らすには、六角形の窪みへ記憶金を入れ、九本を順番に起こす必要がある。
背後で白い灰が入口を塞ぎ始めた。
「キット」
「話しかけるな。今、この鍵とかなりいい関係なんだ」
灰の口が鐘楼へ入り込む。
無数の声が、イスカの耳元で囁いた。
――おまえは父を置いて帰った。
「まだ帰ってない」
――二十七年、彼は待った。
「私のせいじゃない」
――本当に?
鐘の表面に、別の未来が映った。
イスカが鐘を鳴らさなかった未来。
白灰軍は風断ち砦を通り過ぎる。灰嘴町には入らない。なぜならイスカが合唱へ町の記憶を渡し、地図から消したから。
役人も敵も、町の存在を忘れる。
住民は平穏に暮らす。
父も戻ってくる。
少し老いた父が、ベルネ地図店の扉を開ける。
『遅くなった』
イスカの胸が潰れそうになった。
――金を持ち帰れ。
――町を買え。
――父を取り戻せ。
――世界の残りは、おまえの知らない人間だ。
黄金の扉が開いた。
「やった!」
キットの声が、幻を砕いた。
扉の向こうには、金貨が山になっていた。
天井近くまで積み上がる、何百万枚もの薄い六角金貨。どの一枚にも、見たことのない生物の姿と、知らない星座が刻まれている。
町を十回買える。
父の探索隊を百年雇える。
南の土地へ全員を移住させても余る。
キットは一枚を拾った。
その瞬間、金貨の中から声がした。
海の底で一生を過ごした生物の記憶。
孵化した朝。伴侶を見つけた青い海溝。卵を守りながら死んだ夜。
キットは金貨を落とした。
「これ、金じゃない」
「生きた記録」
「全部?」
「全部」
白い灰が扉の外まで迫る。
イスカは上着を脱ぎ、金貨を包み始めた。
「窪みまで運ぶ」
二人で何度も往復した。
六角形の窪みへ金貨を流し込むたび、鐘の中の星が明るくなる。
だが半分ほど満たしたところで、金庫の奥から崩落音が響いた。
壁に亀裂が入り、金貨の山が底のない穴へ流れ始める。
「足りない!」
キットが金貨へ飛びついた。腕で抱え、足で止める。だが何万枚もの流れに押され、穴へ引きずられる。
イスカは彼の襟を掴んだ。
「放して!」
「これがないと鐘が鳴らない!」
「あなたが落ちたら、もっと鳴らない!」
キットは金貨を放した。
二人は床へ倒れた。
金庫の大半が、暗闇へ消えていく。
窪みは八割しか満たされていない。
鐘の横に文字が浮かんだ。
《不足記憶量 二・三生涯》
「二人分より多い」とキット。
イスカは打ち棒へ手を伸ばした。
触れた瞬間、鐘が彼女の記憶を選び始めた。
父と海を見た日。
母の葬儀。
メラと初めて鐘楼へ忍び込んだ夜。
トーヴァンが崖から落ちかけたイスカを片手で引き上げた日。
キットが自分の誕生日を知らないと言ったので、四人が出会った日を誕生日に決めた午後。
どれも重い。
どれも燃料になる。
「私が払う」
「駄目だ」
「私の父が始めたこと」
「だからって、おまえ一人の話じゃない」
キットは二本目の打ち棒を掴んだ。
「半分ずつだ」
「二・三人分」
「じゃあ、おまえ一・一五、俺一・一五」
「算術、苦手だったでしょう」
「今のは合ってる気がする」
白い灰が二人の足を覆った。
冷たい。
足の感覚ではなく、足で走った記憶が消えていく。
イスカは最初の打ち棒を起こした。
鐘の表面に、黎鐘楼が映った。
砦の塔。雨。炎。
メラとトーヴァンは、まだそこにいない。
六 風断ち砦の九呼吸
牢へ入れられたメラとトーヴァンは、白灰軍の最初の攻撃を音で知った。
城壁へ石が当たる音。
矢が屋根へ降る音。
負傷者の叫び。
そして、骨の攻城獣が門へぶつかる、山崩れのような衝撃。
牢の天井から砂が落ちた。
「鍵束」とメラ。
トーヴァンがキットにもらった束を出した。
鍵は三十二本。
「どれだ?」
「全部試す」
一本目は入らない。
二本目は途中まで。
三本目は鍵穴より大きい。
五本目を試したところで、廊下の向こうから兵士が走ってきた。
「門が破られる! 牢番も城壁へ上がれ!」
牢番が去る。
メラは鉄格子を握った。
「貸して」
鍵束を奪い、音を聞きながら一本ずつ軽く当てた。
金属の響きが、錠の内部の形を教える。
二十一本目。
鍵が回った。
「どうして分かった?」
「鍵が嬉しそうな音をした」
「キットみたいなこと言うな」
二人は廊下へ出た。
階段を駆け上がると、中庭は負傷者と運搬兵で埋まっていた。城壁の一部が崩れ、白い灰が雨のように吹き込んでいる。
砦を指揮する将軍ラウダは、中央階段で命令を飛ばしていた。片目を鉄の覆いで隠した老女で、三十年前から北境を守っている。
メラは彼女の前へ飛び出した。
「黎鐘楼を鳴らさせて!」
「牢から出た子どもに用はない」
「敵を見て。あの白い塔にいるのは人間じゃない。兵士たちは命令されてるんじゃなく、名前を抜かれてる」
「根拠は?」
「敵の太鼓」
メラは谷へ耳を澄ませた。
「一拍ごとに、兵の歩調が半分ずつ遅れてる。生きた軍隊なら乱れが増える。でもあれは逆。近づくほど揃ってる。全員の心が一つに畳まれてる」
ラウダ将軍の残った目が細くなった。
「それが鐘と何の関係がある」
「鐘を鳴らせば戻せる」
「古鐘は百年前から鳴らない」
「鳴らし方を知ってる」
メラは嘘をついた。
声が震えたのを、自分でも聞いた。
ラウダ将軍にも聞こえたらしい。
「知らない顔だな」
「鐘守の娘です。鳴らない鐘に毎日油を差す父を見て育った。少なくとも、ここにいる誰より鐘を知ってる」
二度目は真実だった。
骨の攻城獣が門へ突進した。
衝撃で、城門の横木が折れた。
将軍は一瞬だけ目を閉じた。
「十人つける。黎鐘楼へ行け」
「二人でいい」
「なぜ」
「塔へ入ったら、敵は私たちの記憶を使ってくる。人数が多いほど入口が増える」
それも、半分は推測だった。
しかし将軍は頷いた。
「なら、一人つける」
彼女は自分の剣を抜いた。
「私だ」
三人は砦の東端へ走った。
黎鐘楼は、城壁から一本だけ離れた細い塔だった。扉には鎖が巻かれ、王家の封印が三つ貼られている。
「なぜ封じたの?」
「前の鐘守が鳴らそうとして、三日分の記憶を失った」ラウダ将軍が剣で鎖を切る。「目覚めたとき、自分の子の名も忘れていた」
メラの足が止まりかけた。
トーヴァンが先に扉を押した。
「九つ数えるだけだ」
「簡単に言わないで」
「簡単じゃないから、簡単に言うんだ」
塔の中は空だった。
階段も鐘もない。
中央に、鏡のような水面が垂直に立っている。
メラが触れると、水面が波打ち、上へ続く階段が現れた。
三人は登った。
一段ごとに、塔の外の時間が速くなる。
窓の向こうで、兵士が走る。矢が飛ぶ。炎が上がる。すべてが瞬きの間に進んでいく。
百段目で、城門が破られた。
白灰兵が中庭へ流れ込む。
二百段目で、ラウダ将軍が立ち止まった。
階段の途中に、一人の少女が立っていた。
「母上」
将軍の声が変わった。
少女は笑った。
『また戦へ行くの?』
ラウダ将軍の娘は、二十年前に疫病で死んだとメラは知っていた。
『今度こそ帰ってくる?』
将軍は剣を落とした。
メラは少女の声を聞いた。
音がない。
唇は動いているのに、声は将軍の頭の中だけで鳴っている。
「偽物です」
「分かっている」
「では進んで」
「分かっていても、足は止まる」
将軍は少女を見つめたまま言った。
「先へ行け。私は、別れを言い直す」
メラとトーヴァンは登り続けた。
三百段目で、トーヴァンの父が現れた。
鍛冶場の火の前で、背を向けている。
『おまえは力がある。なのに、いつも暗い場所から逃げる』
トーヴァンは俯いた。
『役に立てない力なら、ただ場所を取るだけだ』
「それ、本当に言われた?」とメラ。
「似たようなことは」
「声が違う」
メラは断言した。
「あなたのお父さんの声は、もっと鼻にかかってる。これはあなたが自分で作った声」
トーヴァンは父の幻を見た。
やがて笑った。
「確かに、親父はもっと変な声だ」
幻を突き抜け、二人は上へ進んだ。
最上階には、黒い鐘が浮いていた。
地下の暮鐘楼と同じ鐘。
ただし、こちらは表面に朝焼けが流れている。
鐘の前に、九本の打ち棒。
一本目がひとりでに起き上がった。
表面に、イスカとキットの姿が映る。
二人の足元へ白い灰が這い上がっている。
「間に合った」
メラは鐘へ手を置いた。
冷たさと同時に、イスカの恐怖が流れ込んできた。
父を失う恐怖。
町を失う恐怖。
友達の顔を忘れる恐怖。
メラは九本の打ち棒を見た。
「光ったら九つ数える」
トーヴァンが頷く。
窓の外で、白灰軍が中庭を制圧しつつあった。
白い塔を背負った攻城獣が、砦の門を踏み越える。
塔の上に立つヴェルナの身体が、両腕を広げた。
空白の合唱が、砦全体へ囁いた。
――武器を置け。
――戦った理由を忘れよ。
兵士たちの手から、剣が落ち始めた。
一本目の打ち棒が光った。
メラは数えた。
「一」
七 九つ目の名前
暮鐘楼で、イスカも数え始めた。
「一」
二本目の打ち棒を起こす。
白い灰が膝まで上がる。
キットが三本目へ手を伸ばした。
「二」
鐘は記憶を要求した。
最初に燃えたのは、イスカの七歳の誕生日だった。
父が砂糖を買えず、固い船パンへ蝋燭を立てた夜。
光になり、鐘へ吸い込まれる。
出来事は覚えている。
だが、父がどんな顔で笑っていたかが消えた。
「三」
キットの記憶が燃えた。
酔い鯨亭で初めて温かいスープを飲んだ夜。
「味が思い出せない」
「話して」
「塩辛かった。たぶん。店主が焦がした。俺は三杯飲んだ」
「覚えた」
「おまえが覚えてても、俺の味じゃない」
「それでも話して」
「四」
灰が腰まで上がる。
空白の合唱が、父の姿を作った。
『もういい』
ヴェルナの幻が言った。
『十分だ。町も友達も捨てて、こちらへ来い』
イスカは五本目を起こした。
「父は、机を直せって言った」
『何?』
「あなたは言わない」
幻の顔が崩れた。
「五」
黎鐘楼で、メラが五本目を起こす。
白灰兵が階段を上ってくる音がした。
トーヴァンが入口へ立ち、斧を構える。
最初の兵士が現れた。
顔は若い。目は白く曇り、口が動くたび、何人もの声が重なる。
『退け、大きい子ども』
「大きいは余計だ」
トーヴァンは斧の柄で兵士の胸を打ち、階段へ転がした。
次に三人。
彼は刃を使わなかった。肩で押し、足を払い、壁へ叩きつける。
兵士たちは痛みを感じない。骨が折れても起き上がる。
トーヴァンは暗い階段の下を見た。
何十人もの白い目が登ってくる。
逃げたかった。
幼いころ、鉱山で落盤に遭った。灯りが消え、父が見つけるまで三時間、石の隙間で一人だった。
それ以来、暗闇では岩が呼吸する音を聞く。
今も階段の壁が狭まってくる。
空白の合唱が囁いた。
――恐怖を渡せ。
――二度と暗闇を怖がらなくてよい。
トーヴァンは斧を握り直した。
「怖いままでいい」
声は震えた。
「怖くても、ここにいる」
彼は階段へ飛び込んだ。
「六!」
メラが叫ぶ。
六本目の打ち棒が光った。
鐘が彼女の記憶を取る。
母が最後に言った言葉。
メラは必死に掴もうとした。
だが音は指の間から抜け、光になった。
言葉が消える。
何を言われたか、思い出せない。
胸に残った温かさだけが、母の声の形をしていた。
「七」
涙を拭く。
鐘の表面に、イスカが映る。
彼女の輪郭が薄くなっている。
「イスカ! 聞こえる?」
暮鐘楼で、遠い声がした。
メラの声。
イスカは返事をしたかったが、自分の名前が一瞬、分からなかった。
イ……何だった?
白い灰が胸まで上がり、記憶を食べている。
キットが彼女の肩を揺さぶった。
「おい、地図女!」
「誰?」
言った瞬間、キットの顔が傷ついた。
空白の合唱が笑った。
無数の声で、優しく。
――もう少し。
――名前を捨てれば、痛みも終わる。
キットはイスカの頬を両手で挟んだ。
「おまえはイスカ・ベルネ。崖の上の地図店。寝癖が左に跳ねる。魚の目玉を食べられない。嘘をつくと右の眉が上がる。俺の誕生日を勝手に決めた」
記憶が少し戻る。
「あなたは……キット」
「そうだ。鍵は開けるけど、口は閉じない」
「自分で言うの?」
「八!」
二人で八本目を起こした。
窪みの記憶金が、すべて溶けた。
鐘の光は足りない。
最後の一本は動かない。
文字が浮かぶ。
《不足記憶量 一生涯》
「まだ一人分?」キットが叫んだ。「さっき二・三だっただろ!」
「合唱が鐘の外から食べてる。入れた分を奪ってる」
白い灰の中から、巨大な顔が生まれた。
父。母。町長。代官。メラ。トーヴァン。キット。イスカ。
すべての顔が重なって言う。
『一人を渡せ』
九本目の打ち棒の根元に、手形の窪みが現れた。
手を入れた者の全記憶を燃やす。
イスカは迷わなかった。
手を伸ばす。
キットが先に腕を差し込んだ。
「何してるの!」
「俺は最初がない。短い分、損が少ない」
「馬鹿!」
「算術は苦手だって言っただろ」
イスカは彼を引き抜こうとした。
キットの指先が光へ変わり始める。
彼の記憶が鐘へ流れる。
酔い鯨亭。初めて開けた鍵。四人で屋根から海へ石を投げた日。トーヴァンに泳ぎを教わった夏。メラの歌を下手だと言って三日口を利いてもらえなかった週。イスカと地図店の屋根で、町の外へ出たら何になるか話した夜。
イスカはキットの腕へしがみついた。
「一人で払わないで!」
「じゃあ、どうする!」
父の言葉が蘇った。
一人の記憶は消えるが、分けた記憶は物語になる。
物語になったものを、合唱は食べられない。
イスカは鐘へ向かって叫んだ。
「私たちは、灰嘴町の泥靴団!」
それは四人が九歳のころ、勝手につけた名前だった。町の大人は誰も知らない。
「最初の冒険は、閉鎖した製粉所! トーヴァンが床を踏み抜いて、メラが笑いすぎて梯子から落ちた!」
キットが目を見開く。
鐘の表面に、その日の記憶が映った。
「二回目は灯台の屋根!」キットが続けた。「イスカが地図を逆さに持って、俺たちは三時間、反対方向へ歩いた!」
遠くから、メラの声が重なった。
「三回目は古井戸! キットが幽霊の真似をして、トーヴァンが気絶した!」
「気絶してない!」
トーヴァンの声も聞こえた。
「目を閉じて考えてただけだ!」
四人の笑い声が、二つの鐘楼をつないだ。
九本目の打ち棒が動いた。
《記憶形式変更》
《個体記憶から共有物語へ》
《燃焼不要》
イスカはキットの腕を手形から引き抜いた。
指先が戻る。
「九!」
二つの塔で、同時に鐘が鳴った。
音はしなかった。
代わりに、世界中の影が一瞬だけ、持ち主から離れた。
風断ち砦では、白灰兵たちの影が谷へ向かって伸びた。影の中に、彼らが忘れていた名前が浮かぶ。
農夫。
石工。
娘。
兄。
隣人。
臆病者。
歌い手。
嘘つき。
恋人。
敵。
友。
誰も一つの名前ではなかった。
兵士たちは武器を落とし、泣きながら自分の声を取り戻した。
骨の攻城獣が崩れた。
背中の白い塔に立っていたヴェルナの身体が、空へ引き上げられる。
そこから、何百万もの黒い影が噴き出した。
空白の合唱。
影は巨大な口になり、二つの鐘を呑もうとした。
黎鐘楼の朝焼けと、暮鐘楼の星空が、一本の光でつながった。
光の中へ、八百四十万年分の夕暮れが流れ込む。
合唱を形づくっていた無数の心が、それぞれの記憶を取り戻した。
自分が何者だったか。
何を愛し、何を恐れ、どの時代に生きたか。
一つだった悲鳴が、数えきれない物語へほどけていく。
影は鳥の群れのように散り、それぞれ異なる時代の空へ消えた。
最後に残った小さな影が、イスカの前へ降りた。
父の輪郭をしている。
『遅くなった』
今度の声は、幻ではなかった。
「二十七年も」
『おまえには七か月だ』
「机、自分で直して」
父の影は笑った。
『努力する』
影が光へ変わった。
遠く、風断ち砦の中庭で、倒れていたヴェルナの身体が息を吸った。
暮鐘楼が崩れ始めた。
「これは聞いてない!」キットが叫ぶ。
「古代の建物は、役目を終えるとよく崩れる!」
「地図師の常識みたいに言うな!」
床が割れる。
二人は金庫へ走った。出口側は白い灰の残骸で塞がれている。
金貨の山はほとんど穴へ落ちた。
だが最深部の壁に、細長い石板が一枚残っていた。
イスカはそれを掴む。
「宝に触れるなって言われただろ!」
「これは金じゃない!」
「この状況で荷物を増やすな!」
鐘楼が傾いた。
逆さまの入口が、今度は天井へ移る。
二人は落ちながら橋へ飛びついた。
キットが片手で縁を掴み、もう片方でイスカの腕を掴む。
下では、底のない暗闇が口を開けている。
「重い!」
「石板を持ってるから!」
「捨てろ!」
「嫌!」
「さっき金を全部捨てたくせに!」
「これは地図!」
橋の上へ、太い腕が伸びた。
トーヴァンだった。
その隣でメラが腹ばいになり、キットの襟を掴む。
「地上で会う約束でしょう!」
「どうしてここに?」
「鐘がつないだ道を降りてきた!」
「説明は後!」
四人で引き上げ合い、崩れる橋を走った。
背後で暮鐘楼が落下する。
巨大な鐘は最後まで宙に残り、四人が図書館の扉を抜けた瞬間、星空の一点へ縮んで消えた。
衝撃波が四人を坑道へ吹き飛ばした。
暗闇の中で、トーヴァンが言った。
「全員いるか」
「いる」とメラ。
「いる」とキット。
イスカは答えようとして、名前を確かめた。
イスカ・ベルネ。
地図店。
泥靴団。
父。
友達。
「いる」
終 明日を内側から描く
風断ち砦の戦いから、三日後。
灰嘴町の広場には、また二種類の紙が貼られた。
一枚は王国軍の布告。
白灰軍は解体され、兵の多くは故郷へ帰還中。風断ち峡谷の防衛に貢献した灰嘴町の住民へ、国王代理より謝意を表す。
もう一枚は王都鉱務院の告知。
灰嘴町の接収は予定どおり行う。
「謝意って、借金の支払いには使えないのね」
メラが紙を睨んだ。
「役人は世界が終わりかけても役人だ」とキット。
広場の中央では、代官が封印箱を開いていた。
「期限は本日正午までだ。異議がある者は王都の鉱務院へ申立書を提出せよ。審理には通常、十二年から十五年を要する」
町長が怒鳴ろうとしたとき、風断ち砦から一団の騎兵が入ってきた。
先頭はラウダ将軍。
その隣に、痩せた男が乗っている。
髪には白いものが混じり、頬に見覚えのない傷があった。
だが笑うと、イスカの知る父になった。
イスカは駆けた。
父も馬から降りた。
二人は広場の真ん中で抱き合った。
父の腕は震えていた。
「ただいま」
「遅い」
「道に迷った」
「地図師なのに?」
「時間には道標が少なくてな」
イスカは父の胸へ顔を押しつけた。
二十七年分、知らない匂いがした。
それでも父だった。
代官が咳払いをした。
「感動的な再会のところ恐縮だが、接収は――」
「その前に」とイスカ。
彼女は地下から持ち帰った石板を広場の石卓へ置いた。
表面には、灰嘴町周辺の地層が立体的に刻まれている。青い線が崖の下を走り、沖合へ伸びていた。
父が目を見開く。
「古代の海脈図か」
「分かるの?」
「向こうで二十七年、これを読む練習をした」
父は線をなぞった。
「鉱山のさらに下に、潮熱泉がある。熱と塩を含む地下水だ。町五つへ冬の熱を供給できる。青玻璃塩も採れる」
代官の顔色が変わった。
青玻璃塩は、治療薬と保存食に使われる希少資源だった。
「その石板は王国の地下資源に関する資料だ。直ちに提出を――」
キットが石板を抱えた。
「鍵をかけた方がいいな」
ラウダ将軍が馬上から言った。
「風断ち砦は今朝、灰嘴町と百年間の熱供給契約を結んだ。前金は、町の債務を上回る」
代官は口を開けた。
閉じた。
書記と計算を始めた。
長い、長い計算の末、接収告知に赤い線が引かれた。
広場に歓声が上がった。
その夜、町は七日ぶりにすべての灯りを点けた。
酔い鯨亭では、白灰軍から戻った兵士も、砦の守備兵も、町の鉱夫も同じ卓で飲んだ。誰もが自分の名前を何度も名乗り、隣の者の名前を覚えようとした。
メラは鐘楼で歌った。
母の最後の言葉は思い出せないままだった。
けれど歌うと、胸に残った温かさが旋律になった。
トーヴァンは地下の潮熱泉へ降りる新しい昇降機を設計した。暗い坑道へ入るときは今でも手が震えたが、震えたまま先頭を歩いた。
キットは金庫から落ちる直前に、六角金貨を一枚だけ上着の縫い目へ引っかけていた。
売れば一年は遊んで暮らせた。
彼はそれを売らず、酔い鯨亭の壁へ釘で留めた。
金貨に刻まれた海底生物の一生を、来る客全員へ少しずつ違う話で聞かせた。
「それ、昨日と結末が違う」とメラが言うと、キットは肩をすくめた。
「物語になった記憶は食べられないんだろ。なら、増やした方が安全だ」
父はベルネ地図店へ戻った。
机の脚を見て、ひどく悲しそうな顔をした。
「本当に壊したのか」
「あなたが仕掛けを入れたから」
「横の留め金を押せば開いた」
イスカは三日、父と口を利かなかった。
暮鐘楼も、借り物の頭蓋骨の図書館も、崩落した地下のさらに奥へ消えた。
だが、ときどき夜明け前になると、イスカは知らない空の夢を見た。
四本の腕を持つ者。
火の海を泳ぐ者。
月を顔に浮かべる者。
彼らはもう、イスカの身体を借りなかった。
遠くから、自分の物語を手渡すように夢を送ってきた。
イスカは目覚めるたび、それを地図へ描いた。
場所ではなく、時代の地図。
父が覗き込み、首を傾げる。
「これはどこへ続く道だ?」
イスカは窓を開けた。
灰嘴町の朝が始まっている。
鍛冶場の槌。酒場の皿。新しい掘削機。メラが試す鐘の音。キットが誰かに追われる足音。
「明日」
イスカは言った。
「ただし今度は、外から眺めるんじゃない。私たちが中を歩いて描くの」
そして泥靴団の四人は、まだ誰も見たことのない地図の余白へ、再び出発した。
了