暁に喰われる名前
忍びが本当の名を教えるのは、喉を差し出すより危険だ。
熊岸綾芽は、母からそう教わった。
だから十二の歳で初めて自分の名を敵に渡した夜、綾芽は、相手に首を預けたつもりだった。
相手の少年は、月明かりの下で少し考え、それから同じものを差し出した。
「狭霧蓮」
その名は、九年たった今も、綾芽の胸のいちばん柔らかな場所に刺さっていた。
一 鐘なし橋
朧京の夜半には、鐘が鳴らない。
かつて夜ごと時を告げていた七つの鐘楼は、内乱の火で焼けた。いま人々は、闇の濃さと、処刑場から聞こえる犬の声で時刻を知る。
その晩、雨はなかった。
空は磨かれた刃のように澄み、鐘なし橋の欄干を、黒い月が照らしていた。
橋の中央を、四人の役人が黒漆の輿を運んでいる。前後には抜き身の槍を持つ警固が八人。いずれも顔を鉄の面で隠していた。
輿の中には《黒名帖》がある。
茨鴉衆、二百七十三名。
水狐衆、二百六十一名。
朝日が日輪炉へ差し込む瞬間、その帳面を炉へ投じれば、記された者の心臓は名とともに焼ける。
もっとも、綾芽が里長から聞かされた話では、記されているのは水狐衆の名だけだった。
橋の上へ、赤い羽根が一枚落ちた。
警固の一人が見上げた。
次の瞬間、八つの鉄面が同時に割れた。
綾芽の投げた薄刃は、月光すら切り裂くように飛び、面の中央を正確に貫いた。だが、血は出ない。面の下からこぼれたのは、詰め込まれた藁だった。
「囮……!」
綾芽が橋桁から身を起こしたとき、黒い輿の屋根が内側から跳ね上がった。
ひとりの男が、帳面を脇に抱えて立っていた。
濡れ羽色の髪。口元を覆う白布。左の眉を断つ、細い傷。
九年は少年の肩を広くし、眼差しを冷たくした。だが、綾芽には見間違えようがなかった。
「久しぶりだな、紅鷺」
その声に、古い傷が疼いた。
「その名で呼ぶな、夜鼠」
任務名で呼び合う。
本当の名を知っているのに。
男――水狐衆の夜鼠は、《黒名帖》を片手に欄干へ乗った。
「茨鴉の名を焼かせはしない」
綾芽は一瞬、言葉の意味を測りかねた。
「……何を言っている。帳面にあるのは水狐の名だ」
「俺は逆に聞かされた」
どちらかの里長が嘘をついた。
あるいは、両方が。
答えを考えるより早く、綾芽の指が動いた。袖から放たれた朱糸が、橋の四隅へ散る。糸の先についた十二枚の銅鏡が欄干へ食い込み、夜鼠の姿をあらゆる角度から映した。
夜鼠――蓮の契印は《無人渡り》。
自分の血をつけた物と、一息のあいだだけ場所を入れ替える。ただし、その一息、本人と印の双方が、いかなる生きた眼にも見られていてはならない。血が乾けば印は死に、一度使った印は二度と働かない。
綾芽は、その条件を知っている。
昔、本人から聞いた。
「相変わらず、嫌な備え方をする」
蓮が帳面を懐へ滑らせ、短刀を抜いた。
「あなたに教わったのよ。信じた相手ほど、よく見張れと」
「俺は教えていない」
「行いで教えた」
綾芽は踏み込んだ。
二人の刃が噛み合った。
火花が散り、十二の鏡の中で、十二組の男女が殺し合う。
蓮は後ろへ跳ばない。綾芽の懐へ潜り、肘で刃の軌道をずらし、短刀の柄を喉へ突き上げる。綾芽は首を傾けてかわし、朱糸を彼の足首へ巻いた。
糸が締まる寸前、蓮は自分の袖を切り落とした。
布だけが欄干へ縫いつけられる。
「紫藤寺で、兄を殺したのもその手?」
綾芽の問いに、蓮の眼が止まった。
九年前。両衆が初めて結んだ和議は、紫藤寺の爆炎で終わった。
茨鴉の使者十二名、水狐の使者十一名が死亡。綾芽の兄も、蓮の姉も、灰になった。
寺へ通じる裏道を知っていたのは、和議の使者と、二人だけだった。
あの夜から、互いの里は、相手が裏切ったと信じている。
「俺ではない」
蓮が低く言った。
「いまさら」
「信じろとは言わない」
「なら黙って死んで」
綾芽の刃が、蓮の頬を浅く裂いた。
血がひとしずく飛ぶ。
蓮はそれを親指で受け、欄干の裏へ塗りつけた。
印。
綾芽は鏡を操り、橋の下まで映し込んだ。どこへ逃げても、生きた彼女の眼が、鏡越しに蓮と印の双方を捉える。
「逃げ場はない」
「そうだな」
蓮は笑った。
その笑い方だけが、十二の頃と同じだった。
綾芽の胸に、一瞬だけ躊躇が生まれた。
その瞬間、十二枚の銅鏡すべてに、白い紙の眼が貼りついた。
二 百の眼
紙の眼は、瞬きをした。
銅鏡が内側から黒く曇り、綾芽の視界から蓮が消える。
「やっと会えたねえ、里の犬ども」
女の声が、橋の上空から降ってきた。
黒い傘がひらく。
傘の骨一本一本に白い紙の蝶がとまり、その羽には人の眼が描かれていた。
傘を持つ女は、喪服のような黒衣をまとっている。両の瞼は金糸で縫い合わされ、頬には百本近い細い針が並んでいた。
暁府の御庭番、針女キヌ。
契印《百眼紙》。
自らの寿命をひと月削るごとに、紙一枚を己の眼へ変える。自然の眼を閉ざしている限り、紙の眼は遠近も壁も問わず、彼女へ景色を送るという。
「帳面を置きな。夜明け前に日輪炉へ運ばなきゃならない」
蓮が黒名帖を抱え直す。
「どちらの衆の名を焼く」
キヌは、紙の蝶を震わせて笑った。
「どちらもさ」
橋の周囲で、百近い眼がいっせいに開いた。
「お前たちは長く殺しすぎた。殿様方は、もう忍びを要らないんだとさ。最後に仲良く同じ炉へ入れてやる。ありがたく思いな」
綾芽と蓮は、同時に互いを見た。
疑う時間はなかった。
紙蝶の羽から、銀の針が雨のように放たれた。
綾芽は朱糸を円く振り、針を弾く。蓮は黒名帖を庇いながら橋板を蹴った。だが紙の眼が四方から彼を捉え、無人渡りを封じている。
一本の針が、蓮の太腿を貫いた。
続く針が、肩、脇腹、足の甲を狙う。
「逃げられないねえ、夜鼠。あたしの眼は全部、生きているよ」
「紙切れのくせに」
「見ているのがあたしなら、眼はあたしさ」
蓮は橋板を転がり、針をかわす。背中が欄干へぶつかった。
綾芽は彼を助ける義理などない。
ほんの数呼吸前まで、殺すつもりだった。
だが、黒名帖には両衆の名がある。
そして目の前の敵は、嘘をつく理由がないほど愉しそうにしていた。
「蓮!」
綾芽は、九年ぶりに本当の名を呼んだ。
彼の眼が見開かれる。
「帳面を川へ捨てて!」
「正気か」
「一度だけ、信じなさい!」
蓮は迷わなかった。
黒名帖を欄干の外へ放った。
「馬鹿が!」
キヌの紙蝶が一斉に向きを変えた。
帳面を失えば任務は終わる。百の眼のほとんどが、落下する黒い長方形を追う。
ほとんど。
蓮の頭上、梁の裏に、一枚だけ紙の眼が残った。
「甘いよ。ひとつ見ていれば、鼠は渡れない」
綾芽はその眼を見ていなかった。
だが、蓮の瞳に映った白い点を見た。
朱糸が走る。
糸の先の薄刃が、梁の裏の紙眼を正確に裂いた。
百の眼すべてが、蓮から外れる。
一息。
橋の上から蓮の姿が消え、欄干の裏に塗られた血の印が、人の形へ膨らんだ。
《無人渡り》。
橋の下へ移った蓮は、落下する黒名帖を片手でつかんだ。もう片方の手で橋桁をつかみ、身体を振り子のように振る。
「綾芽、跳べ!」
綾芽は欄干を蹴った。
蓮が下から投げ上げた黒名帖を受け取り、その勢いのまま宙で回る。
百の紙眼が、今度は綾芽へ向いた。
キヌの針が飛ぶ。
綾芽はかわさなかった。
銀針が左肩を貫き、背から抜ける。
激痛に視界が白く染まる。だが、綾芽は刃を振る代わりに、息を吸った。
彼女の契印《返花》には、三つの条件がある。
攻撃を避けず、防がず、自らの意思で受けること。
一息のうちに、攻撃者の生まれ名を口にすること。
そして、傷を移す代価として、もっとも大切な記憶のひとつを失うこと。
綾芽は、黒衣の袖に縫われた古い家紋を見ていた。
紫藤寺の死者名簿に、同じ家紋があった。
「小夜田絹江」
キヌの本当の名が、夜気を切った。
綾芽の肩から銀針が消えた。
同時に、キヌの左肩が内側から裂け、同じ針が血とともに飛び出した。
「ぎゃあっ!」
黒傘が傾く。
紙の蝶が乱れ、いくつもの眼が閉じた。
綾芽は橋板へ着地した。傷はない。だが胸の奥で、何かが焼け落ちた。
幼いころ、熱を出した夜。
母が枕元で歌っていた。
その歌詞は覚えている。部屋の匂いも、指の温かさも。
なのに、声だけが思い出せない。
契印が、代価を取ったのだ。
「行くぞ!」
橋の下から這い上がった蓮が、綾芽の腕をつかんだ。
二人は橋を駆けた。
背後でキヌが喚き、紙の眼を放つ。
綾芽は振り返らず、最後の朱糸を橋の支柱へ巻きつけた。
糸を引く。
あらかじめ切り込みを入れておいた太い綱が裂け、鐘なし橋の中央が沈んだ。
橋板、黒傘、百の紙眼。
すべてが、墨のような川へ崩れ落ちた。
水音の中で、ただ一枚、小指の爪ほどの紙の眼だけが、黒名帖の背へ張りついていた。
三 黒名帖
二人は朧京の地下を走った。
古い水路は、焼けた鐘楼の煉瓦と、処刑された者の骨で補修されている。壁の隙間を流れる水は、鉄錆の匂いがした。
追手の気配が消えたところで、蓮が足を止めた。
「見せろ」
綾芽は黒名帖を抱いたまま、彼を睨んだ。
「先に武器を捨てて」
「その言葉は、九年前に聞きたかった」
「九年前、寺へ道を教えたのはあなたでしょう」
「違う」
「証拠は?」
「ない」
「なら――」
「だが、お前の兄を殺してはいない」
蓮は短刀を床へ置いた。
続いて袖の針、足首の刃、口の中に隠していた細い針まで吐き出す。
「帳面を見れば、何か分かるかもしれない。俺を斬るのはその後にしろ」
綾芽は彼の顔を見た。
昔、蓮は嘘をつくとき、右の犬歯で頬の内側を噛んだ。
いま、口元にその癖はない。
だが九年もあれば、癖くらい直せる。
綾芽は黒名帖を床へ置き、表紙を開いた。
中の紙は、魚の皮のようにぬめっていた。墨で書かれた名は生き物のように動き、頁の端から端へ逃げ回る。
最初に現れたのは、茨鴉衆の名だった。
熊岸綾芽。
兄の名の下に、確かに自分の名がある。
頁を繰ると、水狐衆の名が並んでいた。
狭霧蓮の名もある。
最後の頁には、暁府の朱印が押されていた。
――茨鴉、水狐、両衆を暁七つの刻をもって絶やす。
――紫藤寺の破談をもって相互怨恨を固定し、合流の芽を断つ。
――実行責任者、御庭番頭・黒笠宗玄。
――契印登録名、風野原黎二。
綾芽の指が止まった。
「紫藤寺の破談をもって……」
「最初から仕組まれていた」
蓮の声は掠れていた。
両衆の和議を壊し、互いに九年も殺し合わせる。
弱ったところで、名ごと焼く。
綾芽は、帳面の文字が滲むのを見た。
「私は、兄の仇だと思って、あなたの仲間を七人殺した」
「俺は、お前の里の者を九人殺した」
「それで何が残ったの」
「命令だけだ」
水路の奥で、水滴が落ちた。
蓮は懐から、小さな貝殻を取り出した。
半分に割れた、黒い貝だった。断面には、赤い紐が通してある。
綾芽の首にも、同じものが下がっている。
十二の歳の夜、二人で拾い、半分ずつ持った。
和議が成れば、海を見に行く。
そんな幼い約束の印だった。
「捨てていなかったの」
「捨てる理由が見つからなかった」
「裏切ったくせに」
「裏切っていない」
蓮は一歩、綾芽へ近づいた。
「紫藤寺へ向かう途中、俺は役人に捕まった。伝令文を奪われ、半日、土牢へ入れられた。逃げ出したときには寺が燃えていた。里へ戻れば、茨鴉が姉を殺したと聞かされた」
「なぜ、いままで言わなかった」
「誰が信じる。俺自身、お前の里が罠を張ったと思っていた」
「私は――」
言葉が続かなかった。
信じたかった。
だからこそ、信じるのが怖かった。
蓮が何か言いかけた、そのときだった。
黒名帖の背で、小さな紙の眼が開いた。
「見つけた」
男の声が、水路全体から響いた。
壁の四方で、隠し扉が同時に開く。
冷たい朝前の風が吹き込み、油の匂いが流れ込んだ。
水路の先には、巨大な円形の部屋があった。
天井まで積み上がる四十四の油灯。
中央には、朝日を受けるための縦穴。
その真下で、黒い炉が口を開けている。
日輪炉。
炉の前に、ひとりの男が立っていた。
黒い笠。黒い直垂。腰に下げた長刀は、鞘まで黒い。
右手の指は、親指を除いてすべて第一関節から先がなかった。
「帳面を届けてくれて礼を言う」
黒笠宗玄が、笠を上げた。
笑っているのは口だけだった。
「紅鷺。夜鼠。お前たちは、実によく働いた」
四 四文律
宗玄は、床へ四本の鉄釘を投げた。
釘は円形の部屋の東西南北へ突き刺さり、赤い線で結ばれた。
線が完成した瞬間、空気が固くなる。
契印の領域。
宗玄は左手の小指を、第一関節から噛み切った。
血が床へ落ちるより先に、彼は告げた。
「第一文。何人も、後ろへ一歩たりとも退くべからず」
赤い文字が宙へ浮かび、部屋を一周した。
「違えた者は、両の踵を失う」
次に、薬指を噛み切る。
「第二文。何人も、偽りを口にするべからず」
「違えた者は、舌を灰とする」
中指。
「第三文。何人も、生まれ名を口にするべからず」
綾芽は息を呑んだ。
返花を封じるための法だ。
「違えた者は、それを聞いたすべての者の記憶から、自らを失う」
最後に、人差し指。
「第四文。何人も、この場の火を一つたりとも消すべからず」
四十四の油灯が、いっせいに高く燃え上がる。
「違えた者は、両眼を焼かれる」
四つの文が天井へ昇り、見えない鎖となって部屋を覆った。
宗玄の契印《四文律》。
四本の境釘の内側で、彼が定めた四つの法は、敵味方の別なく現実となる。
強さの理由は単純だ。
宗玄自身も、同じ法に従わなければならない。
「さあ」
宗玄は長刀を抜いた。
「嘘も、名も、闇も、退路もない。お前たちの術は、ここで死んだ」
刃が振るわれた。
長い。
通常の刀身の倍はある黒刃が、油灯の列を縫って綾芽へ迫る。
綾芽は横へ跳んだ。後ろへは退けない。刃が胸元を掠め、衣が裂けた。
蓮は反対側へ回り、短刀を投げた。
宗玄は黒刃で弾き、そのまま踏み込む。
後退できない戦いでは、間合いの長い武器を持つ者が圧倒的に有利だ。
宗玄が一歩進むたび、綾芽と蓮は円を描くように横へ逃げる。
油灯が行く手を狭める。
火を倒せば、第四文に触れる。消せば眼を失う。
「紫藤寺を焼いたのは、あなたね」
綾芽は刃を受け流しながら問うた。
宗玄は笑った。
「そうだ」
第二文がある。
偽りなら、彼の舌は灰になる。
何も起きない。
真実。
「使者の中へ火薬を運び、双方の刃を死体へ残した。生き残りには、相手が先に襲ったと吹き込んだ」
「なぜ!」
「忍びが手を結べば、国より強くなる」
宗玄の黒刃が、蓮の脇腹を裂いた。
血が床へ散る。
「お前たちは敵同士でいる限り、役に立つ。和した瞬間、害になる。ならば憎ませ、使い、最後に捨てる。家畜の扱いとして、何か間違っているか?」
蓮は血を押さえながら、歯を見せた。
「俺たちは家畜ではない」
「飼い主の命令で、九年も互いを殺した者が?」
宗玄の言葉が、綾芽の胸へ刺さる。
反論できない。
第二文がなくても、反論できなかった。
宗玄が刀を返し、綾芽の足を狙う。
綾芽は油灯の台へ飛び乗った。炎が顔の横で揺れる。
「綾芽!」
蓮が叫んだ。
宗玄の眼が細くなる。
「まだその名を呼べるのか。次は呼べまい」
生まれ名。
だが第三文が成立した後、蓮はまだ綾芽の名を口にしていない。
今の呼びかけは――
赤い文字が揺らいだ。
綾芽の心臓が凍る。
しかし、何も起こらない。
「違う」
蓮が荒い息の中で言った。
「今のは、彼女の生まれ名ではない。俺がそう呼んでいるだけだ」
宗玄が片眉を上げる。
綾芽も、意味を悟った。
契印の法は、言葉の表面ではなく、話者の認識を縛る。
第三文が発せられた瞬間、蓮の中で「綾芽」という音を、生まれ名ではなく、ただ彼女を指す呼び声として定め直したのだ。
強引な抜け道。
だが法は、まだ彼を罰していない。
「口のうまい鼠だ」
「嘘ではない」
蓮は宗玄を見たまま、綾芽へ言った。
「そして、もう一つ」
血を押さえていた手を離す。
掌は真っ赤だった。
「俺は、お前を裏切っていない」
第二文の文字が、天井で静かに燃えている。
蓮の舌は、灰にならない。
綾芽の中で、九年間張りつめていた糸が切れた。
怒りではなかった。
悲しみでもなかった。
信じてもよいのだという安堵が、あまりにも遅く来た。
「……遅いのよ」
「知っている」
「九年も」
「知っている」
「馬鹿」
「それは偽りか?」
「本当よ」
二人は、同時に笑った。
宗玄の顔から笑みが消えた。
「ならば、そろって焼けろ」
黒刃が唸る。
蓮は横へ飛んだ。避けた先に、宗玄の蹴りが待っている。
胸を打たれ、蓮の身体が宙へ浮いた。
後ろへ落ちる。
第一文。
蓮は空中で身をひねり、背後にあった油灯の柱を蹴った。
後退ではなく、横回転へ変える。
着地と同時に、口から血を吐いた。
その血が、黒名帖の留め金へ落ちた。
印。
宗玄は見逃さなかった。
「無駄だ。私が見ている。灯りも消せない」
彼は黒名帖を拾い、片手で掲げた。
中央の縦穴の上端が、わずかに白み始めている。
夜明けが近い。
「あと百を数えるうちに、朝日が炉へ届く」
宗玄は帳面を炉の縁へ置いた。
「百も要らない」
蓮が袖から小さな筒を出した。
宗玄の刃が動く。
筒を切り落とそうとした。
綾芽が間へ入った。
刃を朱糸で受け、身体ごと横へ流す。糸が裂け、掌が焼ける。
蓮は筒の中身を、もっとも近い油灯へ投げ込んだ。
白い粉。
炎は消えなかった。
逆に、太陽の欠片を飲み込んだように、激しく膨れ上がった。
四十四の火が連鎖し、部屋じゅうを真昼より白く染める。
「ぐっ――」
宗玄が反射的に眼を閉じた。
綾芽も閉じる。
蓮も閉じる。
紙の眼を通して見ていたキヌは、川底のどこかで悲鳴を上げただろう。
黒名帖の背に残った最後の眼も、白光の中で視界を失う。
一息。
誰の生きた眼にも、蓮と、血の印をつけた留め金の双方が見られていない。
《無人渡り》。
蓮の身体が消えた。
次の瞬間、宗玄の手にあった黒名帖の留め金が、蓮に変わった。
代わりに、留め金が床へ落ちる。
蓮は帳面を奪い、最後の頁を開いた。
「綾芽、前へ!」
眼を開いた綾芽の視界に、頁が突き出される。
――契印登録名、風野原黎二。
宗玄は、自分の生まれ名を見られたと悟った。
黒刃が、まっすぐ綾芽の胸へ走る。
後ろへ退けば、第一文に踵を奪われる。
横へ逃げれば、名を読む機会を失う。
綾芽は、前へ出た。
刃が胸を貫く。
冷たい鉄が背へ抜けた。
宗玄の顔が、すぐ目の前にある。
「封じたはずだ」
彼が囁く。
「お前は名を口にできない」
「できるわ」
綾芽は血を吐きながら、笑った。
「失うものなら、もう決めた」
宗玄が刃を引こうとする。
綾芽は両手で刀身をつかみ、逃がさない。
攻撃を避けず、防がず、自ら受けた。
一息のうちに、攻撃者の生まれ名を呼ぶ。
返花の条件は、そろった。
「風野原黎二」
第三文の赤い文字が、天井から落ちた。
同時に、綾芽の胸に開いた傷が、花びらのように閉じる。
宗玄の胸が、内側から裂けた。
黒刃と同じ幅の穴が背まで貫き、鮮血が噴き出す。
「な――」
宗玄はよろめいた。
一歩、後ろへ。
第一文が発動する。
見えない刃が、宗玄の両の踵を切断した。
彼は倒れ、油灯の一つを押し潰す。
火が消えた。
第四文。
宗玄の両眼から、黒い炎が噴き上がった。
「おおおおおおっ!」
盲いた身体が炉の縁をつかみ損ねる。
黒笠宗玄――風野原黎二は、自ら定めた法に四肢を奪われ、日輪炉の暗い口へ落ちていった。
底で炎が上がる。
四本の境釘が砕けた。
四文律が消える。
静寂の中、蓮は黒名帖を抱えたまま立っていた。
綾芽は、胸に傷がないことを確かめた。
返花は成功した。
そして、代価が支払われた。
胸の奥に、大きな空白がある。
誰かと月を見た。
誰かに名を渡した。
誰かと海へ行く約束をした。
その「誰か」の顔だけが、どこにもない。
目の前に男がいる。
濡れ羽色の髪。左の眉の傷。血に濡れた手。
知らない男だ。
男もまた、綾芽を見ていた。
その眼には、警戒と困惑しかない。
「……誰だ」
蓮の声だった。
第三文。
生まれ名を口にした者は、それを聞いたすべての者の記憶から、自らを失う。
綾芽は、蓮の記憶から消えた。
返花は、綾芽の記憶から蓮を奪った。
二人の間にあった九年は、同じ瞬間に、両側から焼け落ちた。
五 暁
縦穴の上が白くなっていく。
朝日が来る。
蓮は、知らない女へ短刀を向けた。
女もまた、朱糸の刃を構える。
床には黒名帖。
炉の中には、二人を殺そうとした男の焼ける匂い。
最後の頁には、両衆を滅ぼす命令が残っている。
互いを知らなくても、すべきことは分かった。
「帳面を焼けば、名も焼ける」
蓮が言った。
「なら、朝日が届く前に、文字を殺す」
綾芽は黒名帖を拾い、炉とは反対側の水路へ走った。
蓮も続く。
後ろへ退くことを禁じる法は、もうない。
それでも二人は、一度も振り返らなかった。
水路の最奥には、朧川へ続く太い排水口がある。
綾芽は黒名帖を開き、茨鴉と水狐の名が記された頁を、一枚ずつ流れへ浸した。
魚皮の紙が黒く溶ける。
墨の名が小魚のように泳ぎ出し、互いに絡み、やがて水へ消えていく。
蓮は最後の命令頁だけを残した。
「これは両方の里へ送る。憎む相手を、間違えないために」
「あなたは水狐?」
「たぶん」
「私は茨鴉らしい」
「なら、半分ずつ持つか」
命令頁を中央から裂く。
朱印も、宗玄の署名も、紫藤寺の記録も、二つの紙片へまたがった。
片方だけでは意味を成さない。
二つを合わせたときだけ、真実が読める。
二人はそれぞれの伝書筒へ紙片を収めた。
すべての名が水へ溶けた瞬間、日輪炉の方角から朝の光が差した。
間に合った。
綾芽は息を吐き、首元に手を当てた。
黒い半貝がある。
なぜ持っているのか分からない。
ただ、捨ててはいけない気がした。
向かいの男も、同じように胸元から半貝を取り出していた。
二つを並べる。
割れ目はぴたりと合い、一枚の黒い貝になる。
裏側には、幼い刃物で刻んだらしい拙い文字があった。
――海。
二人はしばらく、その一字を見つめた。
「知り合いだったのかもしれないな」
男が言った。
「そうかもしれない」
「敵だったかも」
「それもありそう」
「殺し合っていたかもしれない」
「今も刃を向けているものね」
二人は同時に武器を下ろした。
水路の出口から、朝の風が吹き込む。
遠くで、九年ぶりに修復された鐘楼が鳴った。
一つ。
二つ。
朧京に、朝が来る。
「名は?」
男が訊いた。
綾芽は答えかけて、やめた。
誰かの声が、記憶の底で言っている。
忍びが本当の名を教えるのは、喉を差し出すより危険だ。
その声が誰のものだったか、もう思い出せない。
「海まで行ったら教える」
綾芽は言った。
男は少し驚き、それから笑った。
なぜか、その笑い方を知っている気がした。
「遠いぞ」
「だからいいのよ」
二人は水路を出た。
背後では、名を失った黒い紙が、川の底で静かにほどけていく。
前方には、東へ続く街道と、その先にまだ見えない海がある。
二人は互いの名を知らなかった。
だから、その朝からもう一度、知るために歩き始めた。