『暮鐘宮の十度目の死』

 人が一晩に二度死ぬことはある。

 最初は心臓が止まったとき。次は、誰もその名を呼ばなくなったときだ。

 だが、紫苑妃は九晩続けて、一度目だけを済ませていた。

 日が西の城壁に触れ、暮鐘宮の青銅の鐘が鳴る。すると妃は、糸を切られた人形のように倒れる。脈は消え、息も止まり、瞳は光を失う。

 翌朝、東の空が白むと、棺の中で目を開ける。

 最初の夜、人々は奇跡と呼んだ。

 二度目には、吉兆と呼んだ。

 三度目には、神託を求めた。

 七度目には、戸口に魔除けの札が貼られた。

 そして九度目が明けた朝、皇帝は勅命を下した。

 ――十度目に蘇る者は人ではない。夜明けを待たず、火に還せ。

 その日の正午、灰谷ヨルは西の通用門から宮城に入った。

 年は四十を少し越えている。髪は無造作に束ね、医官の白衣ではなく、旅塵の染みた灰色の外套を着ていた。腰には薬籠、背には細長い革鞄。鞄の中身を知る者は、たいてい顔をしかめた。骨鋸、鉗子、縫合針、腸を押し戻すための銀匙――祈祷師よりも処刑人に近い道具ばかりだからだ。

 彼女は以前、典薬院にいた。

 死んだと宣告された貴族の腹を、僧侶の許しを待たずに切り開き、喉に詰まっていた腫れ物を抜いて生き返らせた。その貴族は助かったが、儀礼を汚した罪でヨルは宮廷を追われた。

 以来、彼女は町外れで、医官が見放した患者だけを診ている。

「ずいぶん遅いお召しですね」

 案内役の少女に、ヨルは言った。

 少女は深青と名乗った。暮鐘宮付きの下級薬師で、十八、九に見える。華やかな宮女の衣ではなく、袖口を紐で絞った紺の作業着を着ている。髪には簪の代わりに、薬包を留める竹べらが差してあった。

「宮中では、腕の良い者ほど最後に呼ばれます」

「なぜ」

「先に呼ぶと、偉い人たちの面目が潰れるからです」

 ヨルは横目で少女を見た。

「長生きしない舌だ」

「毒見役なので、もともと長生きは期待されていません」

 深青は涼しい顔で答えた。

 暮鐘宮は、後宮の最奥にあった。

 名に反して、日はよく差す。白壁は明るく、庭には薄紫の花が咲き、池には金色の魚が泳いでいる。だが、門をくぐった瞬間、ヨルは足を止めた。

「何か?」

「静かすぎる」

 風はある。竹の葉も揺れている。だが鳥が鳴かない。池の魚は水面近くを泳いでいるのに、跳ねる音ひとつしない。

 廊下の奥に、女官と宦官が並んでいた。全員、息をひそめている。

 病人のいる宮殿ではよくある静けさだ、と深青は言った。

 ヨルは返事をしなかった。

 紫苑妃は、南向きの寝台に起き上がっていた。

 二十三歳。白い顔に化粧はなく、長い黒髪が肩を流れている。九度死んだ女には見えない。やつれてはいるが、目には理性があった。

「灰谷先生」

 妃は、弱く笑った。

「あなたは、死者も診ると聞きました」

「死者を診るのは検屍官です。私は、生きているのに死者扱いされる人間を診ます」

 ヨルは寝台脇に腰を下ろし、妃の手首を取った。

 脈は速い。皮膚は乾いている。指先にごく軽い震え。舌を見せてもらうと、先端に細かな傷があった。唇の内側には、墨を引いたような薄い灰色の線がある。

「毎晩、倒れる直前に何を感じます」

「舌が痺れます。次に指。胸が遠くなって、声が出なくなる。けれど耳だけは、最後まで聞こえます」

「意識はある?」

「あります」

「九晩とも?」

「九晩とも」

 部屋にいた女官たちがざわめいた。

 深青だけは驚かなかった。小さな帳面に、妃の言葉を書きつけている。

「では、死んでいる間に何を聞いた」

 妃は答える前に、障子の向こうを見た。

 そこには典薬卿の梁梧が立っていた。

 五十がらみの痩せた男で、黒い官帽の下に整った顔をしている。皇帝の病を二十年診てきた、宮中随一の医官だった。

「灰谷殿」

 梁梧は穏やかに言った。

「患者を疲れさせぬよう願いたい。残された時間は短い」

「残された時間を短くしたのは、病ですか。それとも勅命ですか」

 梁梧の笑みは崩れなかった。

「医者は病だけを見ればよい」

「病だけを見て人間を見ない医者なら、宮中に十分いるでしょう」

 深青が咳払いをした。笑いを隠したらしい。

 梁梧は妃に向き直った。

「日没まで三刻。今宵、十度目の変事が起きれば、陛下の御意に従わねばなりません」

「分かっています」

 妃の声は静かだった。

 梁梧が去ると、ヨルは手を離した。

「診療代を決めましょう」

「金銀なら、望むだけ」

「いりません」

「では、何を」

 ヨルは部屋の四方を見回した。

 北壁に薬棚。東に化粧台。西に小さな仏龕。南の庭へ続く扉には、太い閂がかかっている。

「この宮の、閉じている扉を全部開けてもらいます」

 妃の顔から、わずかに血の気が引いた。

「全部?」

「病は、閉じた場所を好む」

「開けてはならない扉もあります」

「ならば、そこに病がいる」

 妃は長く黙ったあと、うなずいた。

「よいでしょう。ただし先生」

「何です」

「私を、夜明けに生き返らせないでください」

 ヨルは眉を寄せた。

「どういう意味です」

「今夜、助けてください。鐘が鳴る前に」

 日が傾くにつれ、暮鐘宮の人間は機械のように動き始めた。

 女官が湯を運ぶ。宦官が香炉に香を足す。化粧係が妃の髪を梳き、唇に薄く紅を引く。庭師が南の扉を閉め、寝台の下に置かれた水甕を満たす。

 すべて、九晩と同じ手順だという。

 ヨルは誰も止めなかった。

 ただ観察した。

 深青は薬棚、香炉、化粧道具、湯、菓子、花瓶の水まで嗅いだ。ときどき舌先に触れようとするので、ヨルがその手を叩いた。

「毒見役は、何でも舐めるのか」

「鼻だけでは分からないものがあります」

「死ねば、もっと分からなくなる」

「先生がいるので」

「私は死人を起こす神ではない」

「評判と違いますね」

 二人の会話を、紫苑妃は少し楽しそうに聞いていた。

 化粧係が退出したあと、深青は紅の容器を鼻に近づけた。

「海の匂いがします」

「紅藻を使うことはある」

「いいえ。雨上がりの魚市場の匂いです」

 深青は竹べらの先で、紅をほんの少し白紙に取った。そこへ薬箱から出した透明な液を一滴落とす。紅の縁が、墨のような青に変わった。

「眠り河豚」

 ヨルが言った。

「神経を黙らせる毒です。量が少なければ、意識を残したまま手足と喉が動かなくなる」

「脈まで消えますか」

「これだけでは、消えたようにはならない」

 ヨルは寝台の周囲を歩き、床に膝をついた。

 板の隙間に水滴がある。寝台の脚には、細い緑青が浮いていた。

「深青。水甕をどけて」

 二人で甕をずらすと、その下から銅の管が現れた。管は床を抜け、寝台の内部へ続いている。

 寝台の板を外す。中には、蛇の腹のように何本もの管が這っていた。

「冷水を通す仕掛けですね」

 深青が言う。

「体を冷やし、心臓を遅くする。神経毒で息を浅くし、冷却で脈を細くする。合わせれば、素人には死体に見える」

「九晩も耐えられるものですか」

「運がよければ」

「妃さまは運がよい?」

「いいえ。毒を盛る側の腕がよい」

 ヨルは銅管を指で弾いた。

「今夜は量を増やすはずです。十度目は、芝居ではなく本当に殺す」

 紫苑妃は目を閉じた。

「やはり」

「知っていたのですか」

「九晩、死者のふりをしていれば、人は死者の前で口が軽くなります」

「何を聞いた」

 妃が答えようとしたとき、遠くで太鼓が一つ鳴った。日没一刻前の合図だった。

 同時に、女官が入ってきた。

「妃さま、お薬湯のお時間です」

 盆の上に、白磁の椀が載っている。

 深青が受け取り、匂いを嗅ぐ。甘草、棗、生姜。表向きは体を温める湯だ。

 だが、椀の底に細かな銀色の粉が沈んでいた。

 ヨルは女官を見た。

「誰から」

「典薬卿さまの処方です」

「毎晩?」

「はい」

「妃が倒れる前に?」

 女官の顔がこわばった。

「命じられた通りにしているだけです」

「命じたのは梁梧か」

「勅命です」

 女官は震える手で、懐から札を出した。朱印が押されている。皇帝の印に間違いない。

 ヨルは札を灯りに透かした。

「紙が新しい」

「当然でしょう。今朝の勅です」

「印泥は古い」

 深青が身を寄せた。

 朱色の中に、細かな黒い粒が混じっている。

「香灰?」

「棺の前で焚く、沈水香の灰だ」

 ヨルは札を折り、懐に入れた。

「この薬湯は飲ませない」

「ですが勅命が」

「患者の腹の中まで統治できる皇帝なら、ご自分で飲ませに来ればいい」

 女官は青ざめて去った。

 深青は椀の粉を調べた。

「冷脈石です。少量なら熱を下げますが、神経毒と一緒なら心臓が」

「止まる」

「今夜だけ、量が多い」

 ヨルは妃の顔を見た。

「あなたは九晩、誰の話を聞いた」

 妃は、南の扉を見つめていた。

「陛下のお声です」

「死んでいる間に?」

「毎晩、衝立の向こうから問いかけられました。『第一皇子は帝位にふさわしいか』『北軍を宰相に預けるべきか』『先帝の遺詔は偽物か』。私は答えられない。瞬きすらできない。すると梁梧さまが、私の瞼が動いた、指が動いたと申して、私の代わりに答えるのです」

「死者の神託に見せたわけか」

 深青の声が冷えた。

「私は陛下の文書を写す役を務めていました」

 妃は続けた。

「百日前、陛下は遺詔をお書きになった。帝位は第三皇子へ。宰相と典薬卿を罷免し、塩税を改める、と。けれど翌日から、陛下は誰にもお姿を見せなくなりました。勅命はすべて、衝立の向こうから声だけで下されるようになった」

「あなたは本物の遺詔を見た」

「はい。だから私は九晩、死者にされました。十度目に焼かれれば、証人も遺詔の記憶も灰になる」

 深青が息を呑んだ。

「では、陛下は」

「まだ決めつけるな」

 ヨルは言った。

「死を確かめるまでは、生きている可能性がある。生を確かめるまでは、死んでいる可能性もある」

 そして革鞄を開いた。

「深青。銅管を外す。香炉の火を消す。窓を全部開けろ」

「南の扉は?」

「約束通りだ。開ける」

 紫苑妃が身を起こした。

「その先は、皇帝の御座所へ通じています。私の宮から出入りできることは、誰も知らない」

「病は閉じた場所を好むと言ったでしょう」

 ヨルは銀の鉗子を取り出した。

「今夜は、死ぬ芝居を続けてもらいます。ただし、あなたの心臓は止めない」

「どうやって」

「医術で」

 深青が小さく笑った。

「それを神業と呼ぶ人もいます」

「呼ばせておけ。神は診療代を取り損ねない」

 日が沈み始めた。

 ヨルは妃の唇から毒入りの紅を拭い、よく似た色の無毒の紅に替えた。薬湯は捨て、同じ匂いの湯を作った。寝台の銅管は床下で切り離し、流れた冷水を甕へ逃がした。

 それでも、部屋の外にいる者には、いつも通りに見えるようにした。

 妃は寝台に横たわる。

 ヨルは薄い鏡を鼻先に置いた。深青は妃の手を布団の中で握り、一定の間隔で指を押すよう教えた。

 一回なら平気。

 二回なら苦しい。

 三回なら危険。

「怖いですか」

 深青が尋ねた。

「九度も死ねば、慣れると思っていました」

 妃は答えた。

「慣れませんね」

「生きている証拠です」

 廊下の向こうで、梁梧の声がした。

「刻限である」

 庭の西端に、赤い旗が上がる。

 鐘楼の番人は耳が聞こえない。毎夕、暮鐘宮の旗を見て鐘を打つのだと、深青が調べていた。

 つまり、鐘が妃を殺すのではない。

 妃が倒れたと知らせる旗が、鐘を鳴らしていた。

 因果を逆にすれば、奇跡は簡単に作れる。

 ヨルは妃の首筋に指を当てた。

「今です」

 妃は息を吐き、全身の力を抜いた。

 深青が外へ向かって叫ぶ。

「妃さまが!」

 赤い旗が振られた。

 暮鐘が鳴った。

 ごおん、と低い音が宮全体を震わせる。

 一つ。

 女官たちが泣き伏す。

 二つ。

 宦官が棺を運び入れる。

 三つ。

 梁梧が部屋に入り、妃の手首を取った。

 ヨルはあらかじめ、手首の動脈の上を細い板で圧迫していた。梁梧の指には脈が触れない。

「十度目である」

 彼は厳粛に告げた。

「勅命により、夜明けを待たず火葬する」

「ずいぶん急ぎますね」

 ヨルが言う。

「魔は朝日を浴びれば力を増す」

「誰が言った」

「陛下だ」

「では、陛下に直接確認しましょう」

 梁梧の目が初めて揺れた。

「無礼な。陛下は御静養中だ」

「患者の治療には、勅命の出所を確かめる必要がある」

「医者の領分ではない」

「今夜の病名は、権力中毒です。重症で、宮中全体に転移している」

 ヨルは南の扉へ歩いた。

「止めよ!」

 梁梧が叫ぶ。

 護衛が槍を構えた。

 その瞬間、寝台の上で紫苑妃が起き上がった。

「止めるのは、そなたたちです」

 女官たちが悲鳴を上げた。

 梁梧は、死者を見た顔になった。

「なぜ……」

「十度目も、生きております」

 妃は震えながら立った。深青が肩を支える。

「九晩、私はすべて聞きました。私の瞬きを捏造し、陛下の声を借り、偽りの神託を作ったことを」

「毒で頭が乱れている」

「毒は抜きました」

 深青が、紅の容器と薬湯の粉を差し出した。

「眠り河豚、冷脈石、寝台の冷却管。全部、典薬院の管理品です。今夜の薬だけ量が増やされていました」

「下級薬師の戯言だ」

「では上級医官らしく、説明してください」

 ヨルは南の扉の閂に手をかけた。

「なぜ陛下の印泥に、棺前の香灰が混じっている?」

 梁梧が護衛を振り返った。

「斬れ」

 しかし護衛たちは動かなかった。

 紫苑妃が生きている。

 それだけで、勅命の前提は崩れていた。

 ヨルは閂を外した。

 扉の向こうには、細い石廊下が続いていた。壁の中を、何本もの銅管と竹筒が走っている。寝台の冷却管と同じ緑青。竹筒の一つは、暮鐘宮の衝立へ伸びていた。

 深青が筒に耳を当てる。

「声を送る管です」

 一行は廊下を進んだ。

 梁梧だけが、その場に立ち尽くしていた。

 やがて石廊下は、皇帝の御座所の裏へ出た。

 正面には巨大な金屏風。屏風の向こうから、低い声が響いた。

『紫苑妃は十度死した。火に還せ』

 深青が震えた。

「陛下の声……」

 ヨルは竹筒をたどった。

 筒は壁際の箱につながっている。箱の中には、革の袋と踏み板があった。宦官が踏み板を押すたび、袋の空気が竹筒へ送り込まれる。

 さらに奥に、薄い金属の舌が並んでいる。空気が通ると、あらかじめ刻まれた音を出す仕掛けだ。

『火に還せ』

 同じ抑揚。同じ間。

 死者の声ではない。

 声を記憶した機械だった。

「屏風を開けなさい」

 紫苑妃が命じた。

 誰も動かない。

 ヨルが自分で開けた。

 皇帝は、玉座に座っていた。

 黄金の冠。黒い礼服。両手は膝の上に置かれ、顔には薄く白粉が塗られている。

 一見すれば、眠っているようだった。

 ただし、胸は動かない。

 皮膚は蝋のように乾き、耳の下に暗い斑が浮いている。玉座の背には冷却管が通り、衣の下へ冷気を送り続けていた。香炉からは、腐敗臭を隠す強い香が立ちのぼっている。

 ヨルは玉座の前に膝をついた。

 首、瞳、顎、爪、口腔。順に調べる。

 深青は、呼吸を忘れたように見ていた。

「いつからです」

 妃が尋ねた。

「少なくとも百日」

 ヨルは答えた。

「あなたが最後に姿を見た翌日には、もう亡くなっていたでしょう」

 皇帝の舌の裏には、細い青黒い筋があった。指の爪にも、同じ色の点がある。

 深青が顔を近づける。

「これは……青睡蓮の樹脂」

「心臓の病に使う薬だ。量を誤れば、脈を乱し、やがて止める」

「陛下は長年、梁梧さまから煎じ薬を」

「薬と毒の違いは、名札ではない」

 ヨルは皇帝の右手を開いた。

 掌の中に、小さく折られた紙片が握られていた。

 死後硬直の前に握らせたのだろう。だが冷却で指が固まり、誰も取り出せなかったらしい。

 紙片には、震える文字で一行だけ記されていた。

 ――梁梧、薬を替えた。

 紫苑妃は目を閉じた。

 廊下の向こうで、何かが倒れる音がした。

 護衛が駆け戻る。ほどなくして、梁梧が連れてこられた。逃げようとして、庭で取り押さえられたという。

 彼は玉座の皇帝を見ると、もう取り繕わなかった。

「百日だ」

 乾いた笑いを漏らした。

「百日、国は何事もなく動いた。陛下が生きていようと死んでいようと、民には関係ない。勅命は届き、税は集まり、兵は従った。声さえあれば、皇帝は存在する」

「だから声を作った」

 ヨルが言う。

「そして、死者と話せる妃を作った」

「人は、生きた女の言葉を疑う。だが死者の言葉なら信じる」

 梁梧は紫苑妃を見た。

「十度目に焼かれれば、第一皇子を推す神託だけが残るはずだった。歴史は整う」

「歴史は、患者の脈ではない」

「似たようなものだ。記録する者が、あると言えばある。ないと言えばない」

 梁梧はヨルに視線を移した。

「お前も知っているはずだ、灰谷ヨル。死者を生者と呼び、生者を死者と呼ぶ。その一言で、人の運命は変わる」

「だから私は、自分の指で確かめる」

 ヨルは皇帝の瞼を閉じた。

「この方は死んでいる。紫苑妃は生きている。少なくとも今夜は、それが事実だ」

 梁梧は笑った。

「今夜は、な」

 その言葉と同時に、宮殿のどこかで、かちり、と小さな音がした。

 深青が振り返る。

「何の音です」

 誰も答えなかった。

 だがヨルには、聞き覚えがあった。

 水時計の栓が落ちる音だ。

 東の空が白み始めた。

 本来なら、紫苑妃が棺の中で目を覚ます刻限だった。

 ところが、その朝は何かが違った。

 最初に変わったのは、香りだった。

 沈水香も、薬湯も、庭の花も、突然匂いを失った。

 次に、音が薄くなった。

 護衛の鎧が擦れる音が遠のき、女官のすすり泣きが水の底へ沈む。玉座の冷却管から落ちる雫さえ、床に届く前に消えた。

 深青が自分の耳を押さえた。

「先生」

 声は聞こえる。だが唇と声が、わずかにずれている。

 ヨルは窓へ駆けた。

 朝日ではなかった。

 庭の上から、白く均一な光が降っていた。太陽の光なら生まれるはずの影がない。竹も、池も、石灯籠も、平らな絵のように照らされている。

 空に、四角い亀裂が走った。

 いや、空ではない。

 天井だった。

 青く塗られた巨大な板が、ゆっくり持ち上がっていく。

 板の向こうに、白い天井と、まぶしい灯りが並んでいた。

 見たことのない衣を着た人々が、ガラスの向こうを歩いている。

『開館五分前です。東王朝常設展示の照明、異常ありません』

 女の声が、天から響いた。

 深青は呆然と見上げた。

「何を言っているのです」

 ヨルにも分からなかった。

 だが言葉の意味ではなく、調子が分かった。

 患者の前ではなく、物を点検する者の声だった。

 白い光が強くなる。

 その瞬間、護衛の一人が動きを止めた。

 槍を持った姿勢のまま、瞬きもしない。

 次に女官たちが止まった。

 宦官も、梁梧も。

 梁梧の顔は、逃亡を諦めた罪人の表情から、どこか芝居がかった悪人の笑みへ変わっていった。見えない手が粘土を直すように、頬と口元がゆっくり定位置へ戻る。

 紫苑妃の膝が折れた。

 ヨルが抱き止める。

「体が……動きません」

 毒ではない。

 脈を取ろうとしたヨルの指も、こわばり始めていた。

 皮膚の下から、冷たさではなく硬さが上がってくる。

 深青が薬棚を見た。

 壺の文字が、白い光の下で別の形に見えた。手書きだと思っていた薬名は、表面に印刷された飾りだった。蓋は開かない。壺も棚も、一体に作られている。

「そんな」

 深青は竹べらで壺を叩いた。

 乾いた、空洞の音がした。

 ヨルは自分の革鞄を開いた。

 骨鋸も鉗子もある。

 だが、刃は鈍く、柄には小さな文字が刻まれていた。

 ――展示用複製品。取り扱い注意。

 ガラスの向こうで、係員が一枚の札を拭いていた。

 ヨルは、白い板に書かれた文字を読んだ。

 『暮鐘宮の怪異』

 東王朝末期、紫苑妃は皇帝を毒殺し、死者の声を騙って第一皇子の即位を企てたとされる。妃は九度、処刑を免れるため仮死を装ったが、十度目の夜に正体を暴かれ、典薬卿・梁梧の命により火刑となった。

 展示は、処刑直前の一場面を再現したものである。

 ヨルは何度も読み返した。

 文字は変わらない。

「逆です」

 深青が言った。

「全部、逆です。毒を盛ったのは梁梧。妃さまは殺されかけた。陛下はもう……」

「歴史は整った」

 梁梧の声がした。

 彼だけが、まだ目を動かしていた。

 作り物めいた笑みのまま、かすかに唇を開く。

「言っただろう。記録する者が、あると言えばある」

「お前も、これが見えるのか」

「毎朝な」

 梁梧は笑った。

「夜になれば忘れる。鐘が鳴れば、また九度目から始まる。私は妃を殺し、お前たちは救おうとする。だが朝には、札に書かれた通りの姿へ戻される」

「なぜ、今夜は覚えている」

「十度目の扉を開けたからだ」

 梁梧の視線が、南の扉へ向いた。

「その扉は、展示では閉じているはずだった。誰かが開けるたび、物語は少しだけ軋む。だが、朝は必ず直しに来る」

 ガラスの向こうで、係員が首をかしげた。

『あれ? 南扉、開いてる』

 別の声が答える。

『昨夜の清掃で触ったんじゃない? 閉めといて』

 白い手袋をした巨大な手が、宮殿の上から降りてきた。

 紫苑妃はヨルの腕の中で震えた。

「私たちは、死者なのですか」

 ヨルは答えられなかった。

 自分の胸に手を当てる。

 鼓動がない。

 それなのに、昨夜までは確かに感じていた。

 患者の脈も、自分の脈も。

 物語が必要とする間だけ、そこにあったのだ。

 深青がガラスの札を睨んだ。

「では、妃さまは永遠に悪人のまま?」

「朝の見物人にとっては」

 梁梧が言う。

「夜の真実など、存在しない」

 ヨルは、動かなくなりつつある右手を見た。

 指の間に、銀の縫合針が一本残っている。

 展示用の複製ではない。

 皇帝の掌から紙片を取り出すとき、袖口に引っかかっていた古い針だ。百日前、本物の医官が使ったものかもしれない。

 針先は、まだ硬い。

「深青」

「はい」

「毒は、見つけにくい場所に隠すものだな」

「たいていは」

「なら、真実も同じ場所に隠す」

 ヨルは最後の力で、紫苑妃の寝台へ這った。

 巨大な手が南扉を閉めようとしている。

 ヨルは寝台の裏側、普段は床に伏せて見えない板へ針を立てた。

 一文字ずつ刻む。

 指が固まり、関節が鳴る。

 それでも刻んだ。

 皇帝は百日前に毒殺された。

 紫苑妃は生きていた。

 梁梧が死者の声を作った。

 最後に、深青がヨルの手へ自分の手を重ねた。

 小さく、薬の名を加えた。

 青睡蓮。

 そして二人の名。

 灰谷ヨル。

 薬師・深青。

 巨大な手が南扉を閉じた。

 かちり、と閂がかかる。

 光が満ちる。

 紫苑妃は寝台の上へ戻された。目を閉じ、死者の姿勢を取る。

 深青は薬棚の前で、小壺を持った姿に戻る。

 ヨルは妃の手首に指を当てた姿で固まった。

 梁梧は、勅命を読み上げる勝者の顔になった。

 玉座の皇帝は、金屏風の向こうへ隠された。

 最後にヨルの耳へ届いたのは、開館を知らせる明るい音だった。

 それから七十三年後。

 東王朝博物館は、老朽化した常設展示を改修することになった。

 暮鐘宮の模型は解体され、収蔵庫へ運ばれた。作業員が紫苑妃の寝台を持ち上げたとき、裏板の傷に気づいた。

 傷は古かった。

 後世の釘や工具によるものではない。板そのものと同じ時代に刻まれ、長い年月、床に伏せられていた。

 学芸員は最初、職人の落書きだと思った。

 だが、そこには当時の宮中文書にしか使われない略字で、皇帝毒殺の告発が記されていた。

 さらに「青睡蓮」という薬名があった。

 記録では、青睡蓮は紫苑妃が皇帝に盛った毒とされていた。

 しかし再調査の結果、皇帝の遺髪と爪から同じ成分が見つかり、典薬卿・梁梧の私邸跡からは、皇帝の声を再現する竹筒と革袋が発掘された。

 決定的だったのは、紫苑妃の墓が空だったことだ。

 火刑の記録も、同じ筆跡で後から書き足されていた。

 歴史書は改訂された。

 博物館の札も新しくなった。

 『暮鐘宮毒殺事件』

 東王朝末期、皇帝は典薬卿・梁梧によって毒殺された。梁梧は皇帝の声を模した装置を用い、百日にわたり勅命を偽造した。また、事件を知る紫苑妃に神経毒を与え、仮死と蘇生を繰り返させ、「死者の神託」を演出したと考えられる。

 真相解明の端緒となった寝台裏の告発文は、灰谷ヨル、薬師・深青の連名である。両名の身元とその後は不明。

 新しい展示が公開された最初の朝、若い学芸員が妙なことに気づいた。

 昨夜、確かに閉めたはずの南扉が、わずかに開いていたのだ。

 その隙間から、朝の光が寝台へ差している。

 紫苑妃の人形は、以前と同じように目を閉じて横たわっていた。

 ただ、手首に触れる灰谷ヨルの指が、ほんの少しだけ位置を変えていた。

 脈を探す指ではなかった。

 生きている者へ、静かに別れを告げる指だった。

 学芸員は扉を閉めようとして、思い直した。

 病は閉じた場所を好む。

 展示の解説で読んだ、出典不明の言葉が頭に浮かんだからだ。

 彼女は南扉を開けたままにした。

 その夜、暮鐘は鳴らなかった。

 そして紫苑妃が、十度目に死ぬこともなかった。