月の裏まで、銀貨三枚
一 雨の客
空に二つある月のうち、欠けないほうが黒く曇る夜は、ろくな客が来ない。
辻馬車運転手のガド・ロウは、そう信じて四十六年生きてきた。だから国境駅の軒下で、銀縁眼鏡の男が手を挙げたときも、見なかったふりをして発車レバーを引いた。
「待ってくれ! ルーメンまで!」
男は雨を蹴散らし、青い三輪車の前へ飛び出した。
ガドは舌打ちしてブレーキを踏んだ。車体の腹で火蜥蜴が不満そうに鳴き、煙突から青い火花が散った。
「死にたいなら、川へ行け。俺の青蟇号の前に出るな」
「ルーメン旧市街。七鐘広場まで。銀貨三十枚払う」
ガドの舌打ちが止まった。
三十枚あれば、青蟇号の右輪を新品にできる。余った金で宿の滞納も払える。男は旅装の上から革鞄を抱きしめていた。鞄の隙間に、薄い水晶板が見えた。光景と音を焼きつける、外国製の記憶鏡だ。
「観光客か」
「新聞記録官だ。セヴェル・ナイン。海向こうのマニェク国から来た」
「今夜のルーメンに観光も新聞もない。戒厳令だ」
「だから行く」
ガドは男の眼を見た。好奇心だけで危険へ向かう人間の眼ではなかった。もう何かを知ってしまい、知らなかったころへ戻れなくなった者の眼だった。
「銀貨四十枚。前金」
セヴェルはためらわず二十枚を差し出した。
「残りは着いたら」
「生きて着いたら、だ」
青蟇号は雨の街道へ滑り出した。
ルーメンは、巨大な隕石孔の内側に築かれた都だった。家々はすり鉢の斜面にへばりつき、中心の王宮へ向かって屋根が幾重にも沈んでいる。かつては七百の鐘が時を告げる街だったが、半年前、摂政ケルドが議会を閉じてから、鐘は軍の命令だけを喋るようになった。
今夜も雨の向こうで、低い鐘声が三度鳴った。
『日没後ノ外出ヲ禁ズ。集会ハ反逆ト見ナス』
セヴェルは記憶鏡を取り出し、その声を映した。
「撮るな」
「なぜ」
「鏡は光る。兵隊は光るものを撃つ」
「忠告か?」
「車内規則だ。吐くな、撃たれるな、座席を血で汚すな」
セヴェルが笑った。ガドは笑わなかった。
運転席の上には、古びた赤いリボンが結んであった。十年前まで、娘のチフェルが髪につけていたものだ。
セヴェルはそれを見たが、何も訊かなかった。
その遠慮だけで、ガドは少しだけこの客を嫌い損ねた。
二 煙突団
同じころ、ルーメン旧市街の屋根の上を、四つの影が走っていた。
「リン、右!」
ビットが叫ぶ。
先頭の少女リンは、雨樋を蹴って隣家の煙突へ飛び移った。背中の筒には、今しがた市庁舎の地下書庫から盗み出した古地図が入っている。
続いて、錠前屋の息子ビット。大柄なパン屋の娘オロ。最後に、十歳のソヴァナが、短い足を必死に動かして跳んだ。
ソヴァナの靴が瓦を滑った。
「わっ」
オロの太い腕が襟首をつかみ、ひょいと引き上げる。
「落ちるなら煙突団をやめてからにしな」
「やめないから落ちない!」
背後で笛が鳴った。鉛色の外套を着た治安兵が、屋根梯子を上がってくる。
「止まれ! 地図泥棒!」
「泥棒じゃない!」リンは振り返って怒鳴った。「父さんの地図を返してもらっただけ!」
父ハルムは王都測量官だった。三年前、旧市街の地下に「存在しない路地」を見つけ、その翌朝から行方不明になった。役所は事故死と発表し、家にあった地図を一枚残らず押収した。
昨日、リンたちの住む小鍋横丁に立退命令が出た。軍用倉庫を建てるのだという。三日以内に出なければ家ごと焼く、と。
そこでリンは決めた。
父が最後に描いた地図を取り戻し、旧市街に眠るという灰鴉女王の財宝を見つける。金があれば横丁を買える。役人も兵隊も、金の前では法律を思い出す。
「下へ!」
ビットが煙突の掃除口を開いた。四人は煤だらけになってパン工房へ滑り降り、裏口から路地へ飛び出した。
しかし両側から兵が来る。
「袋小路だよ!」ソヴァナが言った。
そのとき、青い三輪車が角を曲がってきた。
車体は継ぎはぎだらけ。煙突は曲がり、後部の荷箱は人一人が入れそうに大きい。運転手は山羊のようなひげ面で、隣には外国人らしい男が座っている。
リンは一瞬で決めた。
「乗るよ」
「え?」
「煙突団、乗車!」
四人は走る青蟇号の後部へ飛びつき、荷箱の蓋を開けて転がり込んだ。
直後、治安兵が路地へ現れた。
「そこの車、止まれ!」
ガドは止まらなかった。
「知り合いか?」セヴェルが訊く。
「知るか。最近の兵隊は車に惚れるらしい」
矢が後輪に刺さった。
「右輪は狙うな、馬鹿ども!」
ガドは怒鳴ると、発車レバーを最奥まで倒した。腹の火蜥蜴が咆哮し、青蟇号は石畳を跳ねた。
荷箱の中で、四人の子どもが重なって悲鳴を上げた。
三 七鐘広場
旧市街へ近づくほど、人影が増えた。
窓という窓に白い布が垂れ、雨の中を市民たちが同じ方向へ歩いている。印刷工、荷運び人、教師、魚売り、杖をついた老人。誰も大声を出さない。ただ胸に、名前を書いた札を下げていた。
「何の集会だ」ガドが訊いた。
「半年前、北門監獄で百二十人が死んだ」セヴェルが答えた。「政府は火事だと言った。生存者は、兵が扉を外から封じたと証言している。今夜、遺族が七鐘広場で名前を読む」
「それを撮りに来たのか」
「それと、軍が何をするかを」
ガドの指がハンドルを強く握った。
「広場の手前で降ろす」
「約束は七鐘広場だ」
「約束に墓石はつかない」
後ろで、ごとりと音がした。
ガドは鏡越しに荷箱を睨んだ。
「鼠か」
「四匹ほど」セヴェルが言った。
リンたちは息を止めた。
やがて青蟇号は、七鐘広場へ通じる坂の上で止まった。そこから先は人で埋まっていた。広場中央の古い鐘楼には、黒布が巻かれている。
セヴェルは鞄を肩にかけた。
「ここから歩く。残りの二十枚だ」
ガドは銀貨を受け取らなかった。
「帰りの車はないぞ」
「知っている」
「港の最終飛行艇は夜明けだ。軍が門を閉じたら出られない」
「知っている」
「知ってる、知ってる。新聞屋は知ってることばかりだな」
セヴェルは微笑んだ。
「知られたくないことを、みんなに知らせるのが仕事なんだ」
彼は群衆へ消えた。
ガドは銀貨を見つめた。二十枚。右輪には足りない。
「ちくしょう」
後ろの荷箱を開けると、煤まみれの四人が固まっていた。
「鼠より高くつきそうだ」
リンが胸を張った。
「七鐘広場まで、子ども料金で」
「もう着いてる。降りろ」
「降りたら捕まる」ビットが言った。
「地図を盗ったんだろ」
「返してもらったの」
「役人と泥棒は、同じ言い方をする」
そのとき、広場の七つの鐘が一斉に鳴った。
遺族たちが名前を読み始めた。
「ディニス・ホブ、五十二歳」
「マリク・セイ、十九歳」
「ダウ・カルネ、六歳」
雨の音を縫い、一つ一つの名が坂を上ってきた。
ガドは運転席の赤いリボンを見た。
十年前にも、こうして名前が読まれた夜があった。王宮前の抗議行進。軍の馬車を運んだのは、ガドだった。中立でいるつもりだった。運転手は客を選ばない、と自分に言い聞かせた。
その馬車に乗っていた兵が、広場で矢を放った。
娘のチフェルも、そこにいた。
以来ガドは、政治の話をしなかった。話さなければ、過去もこちらを見ないと思った。
広場の端に鉛外套の兵が並んだ。
リンが息を呑む。
「弩を持ってる」
鐘楼の上で、遺族の女性が次の名を読んだ。
「ハルム・レイ、三十九歳。測量官」
リンの顔から血の気が引いた。
「父さん……?」
その瞬間、軍の号笛が鳴った。
最初の矢が、鐘楼の黒布を貫いた。
四 運転手は戻る
群衆が崩れた。
兵は空へではなく、人へ向けて撃った。白い布が雨の中に舞い、叫び声と鐘声が混じった。
セヴェルは広場中央で記憶鏡を掲げていた。兵の列、倒れる人々、逃げ道を塞ぐ騎兵。すべてを映していた。
「馬鹿が」
ガドは発車レバーに手をかけた。
逃げるなら今だ。坂を下り、南門へ向かえば、まだ間に合う。銀貨二十枚でも、命よりはましだ。
赤いリボンが揺れた。
十年前、ガドは娘のいる広場へ戻らなかった。軍の客を降ろしたあと、巻き込まれるのが怖くて裏道へ逃げた。
あの日から、どの道を走っても、ほんとうは同じ場所から逃げ続けていた。
「全員、乗れ」
「え?」リンが振り向く。
「耳があるなら使え。あの新聞屋を拾う。荷箱を空けろ」
青蟇号が坂を駆け下りた。
ガドは群衆の隙間へ車体をねじ込み、倒れた屋台を跳び越えた。オロとビットが後部から腕を伸ばし、逃げ遅れた人を路地へ引っ張る。ソヴァナは泣きながら、荷箱にあった包帯を配った。
セヴェルが兵に囲まれていた。
「伏せろ!」
ガドは警笛を鳴らし、兵の盾列へ突っ込んだ。青蟇号の前板が盾を弾き飛ばす。セヴェルが車体へ飛びつき、リンが襟をつかんで引き上げた。
「撮れたか!」ガドが怒鳴る。
「撮れた!」
「じゃあ死ぬな。残りの運賃がある!」
矢が飛んだ。セヴェルの肩をかすめ、記憶鏡に赤い筋がついた。
青蟇号は広場を抜け、染物通りへ滑り込んだ。背後から軍の黒い四輪車が三台追ってくる。
「南門は?」セヴェルが訊く。
「封鎖される」
「西の飛行港へ行かなければ。夜明けの船で、この記録を国外へ出す」
「大通りは全部軍のものだ」
「地下なら行ける」
リンが地図筒を抱えたまま言った。
ガドは鏡越しに睨んだ。
「下水道か?」
「もっと古い道。父さんの地図にある。小鍋横丁から入って、月裏屋敷を抜ければ、飛行港の鐘楼へ出る」
セヴェルの顔が曇った。
「月裏屋敷?」
「知ってるの?」
「海向こうにも話がある。夢の中で角度を曲げる魔女。忘れられた人間の名前を食べて、月の裏に棲むものへ捧げる、と」
ガドは前方の路地へ急ハンドルを切った。追跡車が壁にぶつかり、火花を散らす。
「もっとましな道は?」
「ない」リンは言った。「でも屋敷には灰鴉女王の財宝もある。金庫を見つけたら、私たちの横丁を買える」
「化け物屋敷で宝探しか」
「子どもを撃つ兵隊より、化け物のほうが話が通じるかもよ」オロが言った。
ガドは笑いそうになり、やめた。
背後で軍車の警笛が迫る。
「小鍋横丁へ案内しろ」
五 存在しない路地
小鍋横丁は、鍋底のように丸い広場を、傾いた木造家屋が囲む貧民街だった。住民はすでに避難し、扉には軍の赤い封印が貼られている。
リンは父の地図を石畳に広げた。
それは普通の地図ではなかった。道が紙の端から裏へ回り込み、同じ家が三つの場所に描かれている。方位記号は北ではなく、「目覚め」「浅い眠り」「深い眠り」「思い出す前」を指していた。
「父さんは、街には四つ目の方向があるって言ってた」
「上と下で六つだろ」とガド。
「そういう方向じゃない。夢へ斜めに進む方向」
ソヴァナが、広場の井戸を指さした。
「この印、井戸の蓋と同じ」
石蓋には、欠けない月を裏返したような黒い三日月が彫られていた。
ビットが錠前道具を差し込み、三本の針を同時に回す。かちり、と音がした。
井戸の底ではなく、横の空間に扉が開いた。
向こうには細い路地が延びていた。空はなく、天井に濡れた石畳があり、逆さまの雨粒が上へ落ちている。
「存在しない路地だ」リンが囁いた。
軍車の音が横丁へ入ってくる。
「感心は後だ」
ガドは青蟇号を扉へ向けた。
「車で入るの?」セヴェルが訊いた。
「歩くより速い。化け物が運賃を払うなら拾える」
全員が乗り込む。青蟇号が境を越えた瞬間、車体が横倒しになった。
悲鳴が上がる。
だが落ちなかった。車輪は壁に吸いつき、さっきまで横だった路地を、今度は普通の地面として走り始めた。
「月鉄の輪だ」ガドはハンドルにしがみつきながら言った。「採掘町じゃ壁を走る。王都の道より素直だ」
扉が背後で閉じる直前、鉛外套の兵が一人飛び込んできた。次の瞬間、上下を失って天井へ落ち、暗闇へ消えた。
路地の奥に、家が立っていた。
三階建てに見えるのに、窓は四段ある。屋根の傾斜は見るたび変わり、玄関は二階の壁に横向きについている。どの窓にも、青白い子どもの顔が映っていた。
ソヴァナが小さく言った。
「この家、夢で見た」
「私も」とリン。
「俺もだ」ビットが唇を噛む。
オロだけが首を振った。
「私は夢を見ない。寝たら朝までパン生地みたいに伸びてる」
家の中から、ぎい、と笑うような音がした。
玄関扉が開いた。
甘い焼菓子の匂いと、古い墓の土の匂いが流れてきた。
セヴェルは記憶鏡を構えた。
「ここから先も撮る」
「壊すなよ」ガドが言った。「あれが俺たちの出口切符だ」
リンは父の地図を握りしめた。
「それだけじゃない。父さんの名前が、さっき広場で読まれた。三年前に何があったのか、この家が知ってる」
青蟇号は月裏屋敷へ入った。
六 眠りの食堂
玄関の向こうは食堂だった。
長い卓上に、湯気を立てる料理が並んでいる。焼いた鴨、蜜煮の林檎、胡椒のスープ、金色のパン。オロの腹が鳴った。
「罠だ」リンが言う。
「罠でも匂いは本物だよ」
食卓には六脚の椅子があり、それぞれの背に名札があった。
リン。
ビット。
オロ。
ソヴァナ。
セヴェル。
ガド。
そして卓の端に、七つ目の椅子が置かれていた。
名札には、まだ何も書かれていない。
壁の時計が、逆向きに時を刻んでいた。
「座ってはいけない」セヴェルが言った。「古い伝承では、屋敷の食事を口にした者は、自分が現実で眠っているのか、夢で起きているのか分からなくなる」
「新聞屋は化け物話まで知ってるんだな」
「知られたくないことを――」
「それはもう聞いた」
ソヴァナが壁を指さした。
額縁の中に、七鐘広場が映っていた。だが広場は無人で、雨だけが降っている。血も矢も、白い布もない。
別の絵には北門監獄が描かれていた。焼け落ちたはずなのに、囚人名簿は白紙だった。
「消してるんだ」セヴェルが低く言った。「起きたことを、ここで夢に変えている」
食卓の下から、糸を引く音がした。
細い腕が一本、二本、三本と現れた。針金のような肘が七つある、小さな仕立屋の姿をしたものが這い出てくる。顔は白い糸巻きで、口の代わりに針穴があった。
「お客さま」
声は、全員の母親の声を重ねたように聞こえた。
「濡れた思い出を、お脱ぎください。忘れたいお名前を、一つずつ」
糸巻きの顔から黒い糸が伸び、ガドの赤いリボンへ向かった。
ガドは工具箱から大きなレンチを取り出し、叩き落とした。
「触るな」
仕立屋は首を一回転させた。
「お忘れになれば、痛みません」
「痛くなくなったら、あいつがいたことまで嘘になる」
ガドはアクセルを踏んだ。
青蟇号が食卓を真っ二つに割る。皿が宙へ舞い、料理は床に落ちる前に灰へ変わった。
仕立屋が黒い糸を投げる。ビットが工具袋から鋏を抜き、糸を切った。オロは七つ目の椅子を持ち上げ、怪物へ叩きつける。
「夢を見ない人間をなめるな!」
食堂の奥の扉が開いた。
一行は青蟇号ごと飛び込んだ。
扉が閉まる寸前、名のなかった七つ目の椅子に、文字が浮かんだ。
マヤ・ロウ。
ガドは見なかったふりをした。
今度は、逃げるためではなかった。
七 父の部屋
次の廊下には、無数の扉が並んでいた。
扉の上には年号がある。過去の年、未来の年、存在しない月。
父の地図によれば、灰鴉女王の金庫は「鐘が一度も鳴らなかった十三時」の先にある。
「そんな時刻あるの?」ソヴァナが訊く。
「普通はない」リンは地図を折りながら答えた。「だから、この家にはある」
廊下の奥から靴音がした。
鉛外套の兵が現れた。さっきの追跡隊とは違う。濡れていない。目が閉じたまま歩き、胸には名前のない札を下げている。
先頭に、黒い仮面の大尉がいた。
「記憶鏡を渡せ」
セヴェルが鞄を抱く。
「摂政の命令か」
「国に記憶は一つでいい」
「それは記憶じゃない。台本だ」
大尉が手を上げる。兵たちが弩を構えた。
「右の扉!」リンが叫んだ。
ガドは青蟇号を急旋回させた。扉を突き破る。
その向こうは、リンの家の書斎だった。
窓から午後の光が差し、机に父ハルムが座っている。三年前のままの背中。首を傾け、地図に細い線を引いていた。
「父さん」
リンが車から降りる。
ハルムは振り返った。優しい笑顔だった。
「遅かったね、リン」
リンの足が止まる。
父は死んだ。広場で名を読まれた。頭では分かっている。それでも声も、指の節も、耳の横の白髪も、本物だった。
「何があったの」
「地下の路地を見つけた。摂政の兵が、この屋敷へ囚人の名前を運んでいた。死者を消せば、抗議も罪もなかったことにできる。私は記録しようとして、捕まった」
「一緒に帰ろう」
ハルムは悲しそうに笑った。
「私は帰れない。ここにいる私は、家が君の記憶から縫った人形だ」
壁の向こうで弩の矢が刺さる音がした。
「金庫へ行く道を教えて」リンは涙を拭わず言った。
「地図を立体にしなさい。街を平らだと思うから迷う。角と角を、眠りの向きに合わせるんだ」
リンは地図を折った。紙の道が重なり、小さな十二面体になる。一面だけ、黒い三日月の穴が開いた。
その穴越しに部屋を見ると、机の下に小さな扉が見えた。
「リン」
父の声に、リンは振り返る。
「宝は金じゃない、と言いたいところだが、金も持っていきなさい。生きている人間には屋根とパンが要る」
リンは泣き笑いした。
「うん」
「それから、私の名を覚えていてくれ」
「忘れるもんか」
小さな扉が大きく開く。
全員が青蟇号へ乗り込んだ。最後にリンが父を見ると、書斎の午後は紙のように薄くなっていた。
「さよなら、父さん」
「行っておいで」
扉が閉じた。
その直後、黒い仮面の大尉が書斎へ踏み込み、空の机を見た。
机上には一本の線だけが残っていた。
それは大尉の足元から始まり、壁の中へ消えていた。
八 灰鴉女王の金庫
小扉の先は、夜の海だった。
青蟇号は落下した。
下に波が迫る。だが水面へ触れる寸前、月鉄の車輪が海そのものを道としてつかんだ。車は黒い波の上を走り出す。
頭上では、逆さまの帆船が星空を航行していた。船腹に灰色の鴉が描かれている。
「灰鴉女王の船だ!」ソヴァナが叫んだ。
百年前、王家の税船を襲い、貧民街へ金をばらまいた海賊女王アンナ・ヴェル。最後は軍に追われ、財宝ごと月裏屋敷へ消えたと伝わる。
船から縄梯子が垂れた。
「車で上るぞ」ガドが言った。
「縄梯子を?」セヴェルが目を見開く。
「壁より細いだけだ」
青蟇号は梯子へ突っ込み、車輪で縄をつかんだ。車体が垂直に駆け上がる。オロは笑い、ビットは悲鳴を上げ、ソヴァナは両方を同時にした。
甲板の中央に、大きな金庫があった。
扉には七つの鍵穴と、言葉が刻まれている。
『奪った者には開かず、与えられた者にも開かず、持ち帰る者にのみ開く』
「なぞなぞか」ガドが言う。
「鍵穴は全部偽物」ビットが指でなぞった。「錠前職人は、開けてほしい場所に鍵穴を作る。海賊は逆だ」
彼は金庫の蝶番へ針を差し込んだ。七本の偽鍵が一斉に外れ、扉が開く。
中には銀貨、宝石、金の食器が山のように積まれていた。
「横丁が十個買える」オロが息を呑む。
だが中央には、さらに奇妙な機械が置かれていた。
七つの小鐘を輪にした真鍮の装置。中心に、記憶鏡と同じ大きさの溝がある。
セヴェルが銘板を読んだ。
「〈百喉の鐘〉。一つの声を、都のすべての鐘へ渡す機械……」
灰鴉女王が残した手紙が、装置の下にあった。
『金は家を買う。声は明日を買う。
どちらも持ち帰れ。
片方だけで足りると言う者を信じるな。』
リンは笑った。
「女王、父さんと気が合いそう」
セヴェルが記憶鏡を溝へ近づけると、七つの鐘がかすかに鳴った。
「これがあれば、飛行港へ着かなくても、今夜の記録を街中へ流せる」
「じゃあすぐやろう」ソヴァナが言った。
「装置を動かすには、屋敷の最上階にある親鐘へつなぐ必要がある」セヴェルは配線図を示した。「そしてたぶん、親鐘は魔女がいる場所だ」
船の帆がばさりと鳴った。
マストの上に、女が立っていた。
黒いドレス。髪は煙のように天井へ流れ、顔の半分は若く、半分は老いている。片手には銀の糸切り鋏。
「たぶん、ではありませんよ」
女は微笑んだ。
「ようこそ、私の家へ」
九 忘却の魔女
「私はネブラ」
魔女は甲板へ降りた。靴が板に触れるたび、周囲の海が別の季節へ変わる。凍り、干上がり、血のように赤くなる。
「王が生まれる前から、この街の夢を縫ってきました。戦争も疫病も飢饉も、人は忘れなければ生きていけない。私は忘却を与えているだけ」
「頼まれてもいないのに?」セヴェルが言う。
「痛みは、頼む力すら奪います」
魔女はリンを見る。
「お父さまを返してあげましょう。夢ではなく、朝食を食べ、老い、あなたの結婚式で泣く父を。記憶鏡を渡せば」
リンの指が震えた。
次にビットを見る。
「あなたには、何でも開く鍵を」
オロには、決して飢えない食卓を。
ソヴァナには、怖い夢を見ない眠りを。
セヴェルには、世界中が読む記事を。
最後にガドを見る。
「あなたには、あの夜をやり直す道を」
甲板が七鐘広場へ変わった。
十年前の広場。娘のチフェルが白い布を持って立っている。まだ矢は飛んでいない。青蟇号の運転席に若いガドがいる。
「今度は戻れます」ネブラが囁いた。「娘を乗せ、逃げればいい。代わりに、今夜の人々を忘れなさい」
ガドはチフェルを見た。
娘が笑い、手を振った。
一歩、車から降りかけた。
そのとき運転席の本物の赤いリボンが、雨もないのに揺れた。
ガドは目を閉じた。
「これはチフェルじゃない」
「記憶は、本人より長く本人でいられます」
「だからこそ、俺の都合で作り変えちゃいけない」
ガドはレンチで幻の石畳を殴った。
広場が割れ、海が戻る。
リンも前へ出た。
「父さんは、行っておいでって言った。戻ってこいとは言わなかった」
ビットは鍵束を投げ捨てた。
「何でも開く鍵なんて、錠前屋が失業する」
オロは金貨を一枚噛んだ。
「食卓は欲しい。でも横丁のみんなで食べる」
ソヴァナは震えながら言った。
「怖い夢を見ないより、起きたとき誰かがいるほうがいい」
セヴェルは記憶鏡を百喉の鐘へはめた。
「記事を読むかどうかは読者が決める。君じゃない」
ネブラの若い半面が怒り、老いた半面が泣いた。
「では、忘れられたものに食べられなさい」
彼女が鋏を開いた。
空の二つの月のあいだに、裂け目が走った。
そこに現れたのは闇ではなかった。闇なら光の欠如にすぎない。それは、世界が世界になる前の、向きも距離も名前もない何かだった。
巨大な指のような角度が、裂け目の外から甲板へ折れ曲がる。見る者の目の数だけ形が変わり、見ない者の背後で増えた。
名を持たぬもの。
月の裏側で、忘れられた死者を食べるもの。
ソヴァナが泣き叫んだ。
百喉の鐘がひとりでに鳴り、七つ目の空椅子が甲板に現れた。その名札へ、ゆっくり文字が浮かぶ。
リン・レイ。
「乗るな!」ガドが叫んだ。
椅子から黒い糸が伸び、リンの足首へ巻きつく。
オロがリンの胴をつかみ、ビットが糸を切る。セヴェルは装置を抱えたまま動けない。
その背後から、黒仮面の大尉と兵たちが船へ乗り込んできた。
「記憶鏡を確保しろ!」
「今それどころに見えるか!」ガドが怒鳴る。
「国の命令が現実だ!」
大尉が弩を放った。
矢はネブラの胸を貫いた。
魔女は驚いた顔で矢を見下ろし、笑った。
「現実?」
彼女の傷口から、星のない夜が溢れた。
「あなたがたは、まだ現実が自分たちのものだと思っている」
船全体が、月の裏へ傾いた。
十 十三時の追走
「全員、青蟇号へ!」
ガドが叫んだ。
リンたちは金貨袋を二つだけ荷箱へ放り込み、百喉の鐘を抱えて車に飛び乗った。セヴェルが記憶鏡を装置へ固定する。
船が垂直になった。
兵たちが海へ落ちていく。海は下にあるのではなく、彼らが忘れたい方向に口を開いた。
大尉だけが車体へしがみついた。
「渡せ!」
ガドはアクセルを踏み、青蟇号をマストへ走らせた。月鉄の輪が帆柱をつかみ、車は空へ向かって駆け上がる。
裂け目から、名を持たぬものの角度が追ってきた。通り過ぎた場所から、船も海も記憶も消える。
「親鐘はどこ!」セヴェルが叫ぶ。
リンは十二面体の地図を回した。
「一番高い場所じゃない。『最上階』は、高さじゃなくて、いちばん目覚めに近い部屋!」
「それはどっちだ!」
「今から作る!」
リンは地図の一面を破り、裏返してはめ直した。
前方に扉が出現する。
青蟇号が飛び込むと、そこは無限に続く子ども部屋だった。ベッドが壁にも天井にも並び、数千人の子どもが眠っている。全員の胸に、名前のない札。
「この家が夢を集めてる」ソヴァナが言った。「街じゅうの子どもから」
部屋の奥に親鐘が吊られていた。巨大な青銅鐘。舌の代わりに、黒い糸の束が垂れている。
「装置をつなぐ!」
セヴェルとビットが百喉の鐘を親鐘の台座へ固定する。端子は古い七重錠で閉じられていた。
「開けられるか?」
「何でもは無理。でもこれは錠前だ」
ビットが針を差し込む。
背後の扉が破裂し、黒仮面の大尉が入ってきた。仮面は割れ、顔の半分が黒い糸に縫われている。
「記録を渡せ」
「まだ言うか」ガドが呆れた。
「記録が外へ出れば、国が壊れる」
セヴェルは肩の血を押さえながら答えた。
「壊れるのは、国じゃない。お前たちの嘘だ」
大尉が剣を抜いた。
オロが前に立ち、七つ目の椅子を盾のように構える。
「子ども相手に剣? 趣味悪いね」
大尉の剣が椅子を割る。黒い糸が噴き出し、オロの腕へ絡む。
ソヴァナは眠る子どもたちを見回した。
「起きて」
誰も動かない。
「起きて! 名前を取られちゃう!」
ソヴァナは一番近い子の札に、自分の炭筆で名前を書いた。
札は白いままだった。
「名前が分からない」
リンが言った。
「だったら、仮の名前をつけよう」
彼女は別の札に〈朝〉と書いた。
オロは〈パン〉。
ビットは〈鍵〉。
ガドは〈帰り道〉。
ソヴァナは一人一人に、思いつく限りの名を書いた。
光。
雨。
赤い靴。
泣き虫。
歌う人。
まだ知らない友だち。
名を与えられた子から、目を開いた。
一人、十人、百人。
子どもたちの瞳に、街の家々が映る。夢を奪われていたルーメンの子どもたちが、現実の寝床で一斉に目を覚ました。
親鐘の黒い糸がほどけ始める。
「開いた!」ビットが叫んだ。
百喉の鐘と親鐘がつながる。
セヴェルは記憶鏡を起動した。
七鐘広場の映像が空中に浮かぶ。白い布。遺族の顔。兵の矢。倒れる人々。
だが鐘は鳴らない。
「声が要る」リンが言った。「誰かが最初に、本当の名前を言わないと」
ガドは赤いリボンをほどいた。
十年間、口にできなかった名が喉に引っかかった。
忘れれば痛まない。
痛まなければ、運転席から降りずにいられる。
けれど今、リンもビットもオロもソヴァナも、セヴェルも、彼を見ていた。帰り道を待っていた。
ガドは親鐘へ向かって言った。
「マヤ・ロウ。十七歳。歌が下手で、曲がるときに必ず身を傾けた。十年前、王宮前広場で兵に撃たれた。俺の娘だ」
親鐘が鳴った。
音は屋敷の壁を抜け、地下を抜け、雨のルーメンへ届いた。
眠っていた七百の鐘が、一斉にチフェルの名を繰り返した。
『マヤ・ロウ』
セヴェルが続ける。
「ディニス・ホブ。マリク・セイ。ダウ・カルネ。北門監獄で殺された百二十人。そして今夜、七鐘広場で撃たれた人々」
リンは言った。
「ハルム・レイ。三十九歳。測量官。私の父さん」
鐘がすべての名を運んだ。
街の窓が開いた。
人々が名を復唱した。
名は雨の中で増え、家から家へ渡り、兵舎の中へも入り込んだ。弩を持つ兵が腕を下ろした。牢番が鍵を見つめた。印刷工が活字を拾った。
名を持たぬものが、裂け目の向こうで身をよじった。
忘却だけを食べていた怪物に、覚えられた死者は喉を裂く棘だった。
月裏屋敷が揺れた。
大尉は耳を塞ぎ、叫んだ。
「黙れ! 国の記憶は一つだ!」
リンが答えた。
「だから壊れるんだよ。一つしかないから」
大尉の足元に裂け目が開く。黒い糸が彼の仮面を引き、月の裏へ連れていった。
ネブラが鐘の上に現れた。胸の傷から夜を流しながら、静かに笑っている。
「覚えることは、痛いでしょう」
ガドは頷いた。
「ああ」
「それでも?」
「ああ」
魔女は初めて、老いも若さもない顔になった。
「ならば、この家はあなたがたのものではない」
彼女は銀の鋏で、自分と裂け目をつなぐ最後の糸を切った。
名を持たぬものが彼女を呑み込む。
裂け目が閉じ始めた。
同時に、屋敷すべてが崩れ始めた。
「出口!」セヴェルが叫ぶ。
リンは地図を開いた。十二面体の最後の面に、飛行港の鐘楼が描かれている。
「十三時の扉は、親鐘が十三回鳴るあいだだけ開く!」
一回目。
ガドが全員を青蟇号へ押し込む。
二回目。
ビットが百喉の鐘を引き抜く。
三回目。
オロが金貨袋を一つ捨て、もう一つを抱える。
「両方持ち帰れって書いてあった!」
「命と声と金で三つだ。二つで我慢しろ!」
四回目。
青蟇号が走り出す。
五回目から十一回目まで、道は壁、天井、過去、海、子ども部屋、父の書斎、七鐘広場へ次々と変わった。
十二回目。
前方に、朝焼けの細い線が見えた。
その手前で右輪が外れた。
「右輪!」ガドが絶叫した。
青蟇号は火花を上げ、三輪車から二輪車になって傾く。
十三回目。
出口が閉じ始める。
オロとリンが左へ身を乗り出す。ビットとソヴァナが右へ。セヴェルは百喉の鐘を抱え、ガドはハンドルを両腕で押さえた。
「曲がるぞ!」
全員が同時に身を傾けた。
まるで、ガドの娘がいつもしていたように。
青蟇号は二輪のまま扉をすり抜けた。
十一 夜明けの飛行港
青蟇号は飛行港の鐘楼から飛び出し、荷揚げ用の天幕へ落ちた。
布を三枚突き破り、干し魚の山へ突っ込んで止まる。
火蜥蜴が煙突から這い出し、目を回して舌を出した。
空は薄青くなっていた。
最終飛行艇〈白鯨号〉が係留索を外し始めている。
「間に合った!」セヴェルが立ち上がる。
だが飛行港の門から、軍の騎兵が雪崩れ込んできた。先頭の将校が叫ぶ。
「外国人記録官を拘束しろ!」
ガドは発車レバーを引いた。
青蟇号は動かなかった。右輪は月裏屋敷に置いてきた。
「ガド」セヴェルが言った。「ここまででいい」
「残りの運賃をもらってない」
セヴェルは笑い、銀貨二十枚の袋を投げた。
「これで契約終了だ」
「馬鹿言え。七鐘広場までの残りだ。飛行艇までは別料金だ」
ガドは火蜥蜴の炉蓋を開け、金貨袋から金貨を一握り放り込んだ。
「何してるの!」オロが悲鳴を上げる。
「高い燃料だ!」
火蜥蜴の目が見開いた。
青い炎が爆発し、車体が右輪の代わりに火柱で持ち上がる。青蟇号は片輪と炎で走り出した。
騎兵へ突進する。
ガドは直前で急旋回し、港の荷車を連鎖的に倒した。樽、網、干し魚、羽毛袋が道を塞ぐ。
「走れ!」
セヴェルと子どもたちは飛行艇へ向かった。
兵が追う。
ガドは青蟇号を横づけし、運転席からレンチを投げた。港の鐘の留め金に当たり、巨大な鐘が落下して兵の前を塞ぐ。
セヴェルが乗船橋へ飛び乗る。
リンたちも続こうとしたが、ガドが怒鳴った。
「お前らは残れ!」
「どうして!」
「横丁を買うんだろうが。金を持って海へ逃げるな!」
リンは足を止めた。
セヴェルが船上から記憶鏡を掲げる。
「記事にする。名前も、屋敷も、青い三輪車も、全部」
「車は格好よく書け!」
「事実しか書かない」
「なら少しくらい嘘を混ぜろ!」
係留索が切れ、白鯨号が朝の空へ上がった。
騎兵たちは追うのをやめた。
街じゅうの鐘が、まだ名前を鳴らしていた。
兵の中にも、家族の名を聞いた者がいた。剣を置く者が一人、二人と増えた。港の労働者が門を閉め、将校を外へ押し出した。
遠く、王宮の旗が下ろされるのが見えた。
それで何もかもが終わったわけではない。
摂政は逃げ、軍の一部は抵抗し、翌日から街では長い話し合いと、もっと長い片づけが始まった。自由は宝箱のように一度開ければ終わるものではなく、毎朝さびた錠前を開け直す仕事だった。
けれど、その朝だけは、誰もが鐘の音を聞いた。
自分たちの記憶が、自分たちへ戻ってくる音を。
十二 帰り道
三か月後、小鍋横丁の立退命令は取り消された。
灰鴉女王の金貨は、焼けた屋根と壊れた窓、広場の共同炊事場、そして新しい印刷所に使われた。印刷所の看板には、灰色の鴉と七つの鐘が描かれた。
ビットは金庫の蝶番を再現しようとして三度指を挟み、オロは印刷所の隣にパン屋を開いた。ソヴァナは目覚めた子どもたちの名前を集め、一冊の名簿を作り始めた。
リンは父の地図を、今度は誰にも押収されないよう、街じゅうの壁へ刷った。ただし月裏屋敷への入口だけは描かなかった。
月裏屋敷は消えた。
少なくとも、起きているあいだは。
セヴェルの記事は海を越えた。外国の新聞は〈七鐘の夜〉と呼び、記憶鏡の複製は多くの国で上映された。
青蟇号は、右輪も屋根も煙突も失った。
ガドは廃車にすると言い張ったが、煙突団は聞かなかった。ビットが輪を直し、オロが座席を張り、ソヴァナが車体へ大きな目玉を描いた。リンは側面に新しい営業札を打ちつけた。
『辻馬車 青蟇号
市内どこでも銀貨三枚
月の裏まで応相談』
「月の裏まで三枚じゃ赤字だ」ガドが言った。
「帰りは別料金にすれば?」ビットが言う。
「帰ってこられたらね」ソヴァナが笑う。
ガドは運転席へ座り、赤いリボンを結び直した。
夕暮れの街では、七百の鐘がそれぞれ違う時刻を告げている。以前より不便で、ずっと騒がしい。
最初の客は、パン籠を抱えた老人だった。
「北門まで。いくらだね」
「銀貨三枚」
「高いな」
「月の裏より近いから、これでもまけてる」
老人が乗り込む。
リンたち四人は後部へ勝手に詰め込まれ、ガドは文句を言いながら発車レバーを引いた。
青蟇号は石畳を走り出す。
曲がり角で、全員が自然に同じ方向へ身を傾けた。
その夜、欠けない月の裏側で、何かが一度だけ目を開いた。
だがルーメンでは、誰かが死者の名を読み、誰かがそれを書き留め、誰かが子どもに語っていた。
だから目は、すぐに閉じた。
忘れられないものは、食べられない。
青蟇号の警笛が、夜明けにはまだ早い街へ、陽気に鳴り響いた。
(了)