月は盗めても、午前零時は待ってくれない

 俺の職業は「返却屋」だ。

 盗まれた宝石、持ち逃げされた設計図、別れた恋人の部屋に置き忘れた合鍵。持ち主のところへ戻すべきものを戻す。それが仕事である。

 ただし、持ち主が悪党だった場合は少し話が変わる。

 そのときは、もっとましな持ち主を俺が勝手に選ぶ。

 その夜、俺は高さ八百メートルの美術館で、銀の盆にシャンパンを載せていた。

 似合わないと思うだろう。俺もそう思う。

「笑顔が足りないぞ、新人」

 背後から給仕長が小声で言った。

「これ以上笑うと、客が追加料金を請求されてる気分になります」

「口も動かすな」

「では心で謝罪します。聞こえました?」

 給仕長は聞こえなかったふりをして去った。賢明な男だ。

 ここはクラウン・ヒルズ特別区、通称〈空の街〉。金持ちが地上の排気ガスと庶民のため息を嫌って、雲の上に建てた巨大都市である。その中央に浮かぶノクターン美術館では、百年に一度の名宝展が開かれていた。

 主役は、黒いガラスケースの中に鎮座する青白い宝石――〈シュリウスの月〉

 卵ほどの大きさで、値段は小国の国家予算三年分。説明板には「古代王朝の秘宝」とある。

 嘘だ。

 本当は量子暗号の記憶媒体で、街じゅうの金融記録、司法記録、企業の裏帳簿へ接続できる鍵だ。

 つまり宝石というより、悪党たちの人生を丸ごと入れた金庫の鍵だった。

 俺は匿名の依頼人から、今夜それを盗み出すよう頼まれていた。

 盗む仕事なのに返却屋を名乗るのはおかしい?

 世の中には、最初から持つ資格のない連中もいる。

 ケースの周囲には警備員が十二人。天井にレーザー感知器、床に重量センサー、壁には軍用ドローン。見張り役の目つきは鋭く、客の宝石はさらに鋭く、会話だけがひどく鈍かった。

「この月は、わたくしの瞳と同じ色ですの」

「奥さまの瞳は茶色では?」

「照明の問題ですわ」

 金持ちの世界では、照明はたいていの問題を解決するらしい。

 俺は盆を持ったまま、ケースの横を通り過ぎた。

 右手の小指で腕時計を二度叩く。

 厨房の冷蔵庫で小型送電機が起動し、館内の電圧を一瞬だけ揺らす。レーザー網が〇・七秒停止。充分だ。

 俺が左袖から薄い鏡板を滑らせた、その瞬間だった。

 照明が全部消えた。

「おいおい。俺は〇・七秒って注文したぞ」

 闇の中で、誰かが笑った。

 女の笑い声だった。低く、楽しそうで、財布の所在を確認したくなる声だ。

 次の瞬間、天井のガラスが砕けた。

 月光が滝のように降り、銀色のワイヤーに吊られた赤いドレスの女が、逆さまに舞い降りてきた。

「こんばんは、紳士淑女の皆さま」

 女は仮面越しに微笑んだ。

「今夜、月をいただきます」

「予約は?」と俺は訊いた。

 女は一瞬だけ俺を見た。

「あなた、給仕にしては態度が高いわね」

「雲の上ですから」

 女が指を鳴らす。

 ガラスケースが音もなく開いた。

 俺の仕掛けではない。もっと上等な解除コードだ。

 女は〈シュリウスの月〉をつかみ、ワイヤーを巻き上げる。

 警備ドローンが一斉に銃口を向けた。

「止まれ!」

「その台詞、もう少し色気を足した方がいい」

 俺は盆のシャンパンをドローンへ投げた。グラスが砕け、泡が光学センサーを覆う。ドローン同士が互いを侵入者と誤認し、空中で衝突した。

 赤い女は天井の穴へ消える。

 俺はテーブルを蹴り倒し、飛び乗った。白いクロスごと床を滑り、騒ぐ客の足元を抜ける。

「どいてください! 床の光沢検査です!」

 誰もどかなかったので、俺が避けた。

 非常口へ飛び込み、螺旋階段を三段ずつ駆け上がる。屋上へ出ると、赤い女が小型飛行艇へ乗り込むところだった。

「忘れ物だ!」

 俺は銀の盆を投げた。盆は回転しながら女のワイヤー装置に食い込み、巻き上げ機を止めた。

 女が体勢を崩す。

 宝石が宙を舞った。

 俺は屋上の縁から跳び、片手を伸ばした。

 指先が宝石に触れる。

 同時に、横から鋼鉄の手錠が飛んできて俺の手首にはまった。

「確保」

 冷たい声がした。

 もう片方の輪は、屋上アンテナに固定されていた。

 俺は空中でぴたりと止まり、八百メートル下の夜景を見下ろした。

「ずいぶん眺めのいい逮捕だな」

 屋上に立っていたのは、黒いパンツスーツの女だった。短い髪、細い目、無駄のない姿勢。胸元のバッジにはクラウン・ヒルズ警察、星野マヤ警部補とある。

「城戸レイ。窃盗、詐欺、住居侵入、無免許飛行、図書館の延滞十二件」

「最後のは陰謀だ。本を返そうとしたら図書館が移転してた」

「移転先は向かいの建物よ」

「遠い」

 赤い女の飛行艇が浮上した。

 俺はぶら下がったまま叫ぶ。

「警部補、月が逃げるぞ!」

「あなたも逃げようとしていたでしょう」

「俺は追いかけてただけだ」

「シャンパンを投げて?」

「景気づけに」

 マヤは飛行艇に銃を向けた。だが女は煙幕弾を撃ち、屋上を真紅の煙で包む。

 エンジン音が遠ざかった。

 煙が晴れたとき、月も女も消えていた。

 残ったのは俺と警部補と、アンテナからぶら下がる手錠だけだった。

「では、署で景気のいい話を聞かせてもらいましょう」

「その前に一つ」

「何」

「引き上げてくれ。足の下が八百メートル空いてると、会話に集中できない」

 クラウン・ヒルズ警察の取調室は、俺の部屋より広く、俺の部屋よりきれいで、たぶん家賃も高かった。

 欠点は、扉の外に警官がいることだ。

 星野マヤは向かいに座り、透明端末へ証拠映像を映した。

 そこには、給仕姿の俺がケースへ近づき、照明が消え、宝石が消え、俺が屋上へ走る様子が見事につながっている。

「映画なら主役だな」

「被告人席の?」

「続編が作りにくい」

 マヤは映像を止めた。

「赤いドレスの女は誰?」

「知らない」

「ケースを開けた方法は?」

「知らない」

「あなたの依頼人は?」

「知らない」

「よくそれで仕事になるわね」

「知らないことを知ってる顔で話すのが営業の基本だ」

 マヤの眉が一ミリ動いた。

 この女にとっては爆笑に近い。

「城戸。あなたが宝石を狙っていたことは確かよ」

「それは認める」

「ずいぶん素直ね」

「警察は正直者に優しいと聞いた」

「誰から?」

「嘘つきから」

 彼女はため息をつき、映像を巻き戻した。

 俺は画面の一角を指さす。

「ここ」

「何?」

「照明が消える〇・二秒前、客の影が動いてる」

「人間は動くわ」

「影は照明より先には動かない」

 マヤが映像を拡大する。

 たしかに壁際の影だけが先にずれ、その後で停電が起きていた。

「録画映像が差し替えられてる。リアルタイム映像に見せた、十二秒前のループだ」

「館内システムへ侵入した者がいる」

「それも、警備の管理権限を持つ者がね。赤い女は外から入ったように見せただけだ。天井のガラスは内側から爆破されてる」

 マヤは無言で別の映像を呼び出した。

 天井の破片が屋外へ飛んでいる。

「あなた、最初から気づいていたの?」

「屋上から落ちてる最中に」

「もっと早く言いなさい」

「風が強くて」

 彼女が端末を閉じた。

「つまり内部犯行」

「しかも、俺を犯人にする予定だった」

「あなたほど便利な濡れ衣は珍しいもの」

「褒められると照れる」

 そのとき、取調室の照明が一度だけ明滅した。

 俺とマヤは同時に天井を見た。

 換気口から小さな銀色の球が落ちてくる。

「伏せろ!」

 俺はテーブルを蹴り上げた。

 球が炸裂し、青い電撃が室内を走る。端末が破裂し、壁の監視カメラが火花を散らした。

 扉の外で銃声。

 続いて、何か重いものが倒れる音。

 マヤは拳銃を抜き、俺はテーブルの陰で手錠を見せた。

「片手が空いてると助かるんだが」

「逃げない?」

「ここより居心地の悪い場所を探す方が難しい」

 彼女は手錠を外した。

「その言葉、記録したわ」

「機械は今壊れた」

「私が覚えてる」

「それが一番厄介だ」

 扉が吹き飛んだ。

 黒い装甲服の男が二人、短機関銃を構えて入ってくる。

 俺は倒したテーブルの脚をつかみ、男の足元へ滑らせた。一人がつまずく。マヤがもう一人の銃を正確に撃ち抜く。

 つまずいた男が起き上がる前に、俺は椅子を畳んで首へ引っかけた。

「予約のない面会は困る」

 男を壁へ叩きつける。

 もう一人が腰からナイフを抜いた。

 マヤは拳銃の弾倉を交換しようとしたが、男が距離を詰める方が早い。

 俺は床の電撃球を蹴った。

 球は男の足元へ転がり、残っていた電荷を放つ。

 男は妙な踊りを三秒披露して倒れた。

「ダンスは悪くない。衣装が重すぎるな」

 マヤが廊下を確認する。

 警官たちは気絶していたが、呼吸はある。

 倒れた襲撃者の肩には、金色の獅子をかたどった徽章があった。

 クラウン・ヒルズ最大の企業、蛍沢堂グループの私設警備隊〈ゴールド・ライオン〉の印だ。

「蛍沢堂征司……」とマヤが言った。

 蛍沢堂征司。空の街の半分を所有し、残り半分に金を貸している男。ノクターン美術館の理事長で、今夜の名宝展の主催者でもある。

「大物だな」

「証拠がない」

「今、証拠が取調室を爆破したぞ」

「私設警備隊の装備を盗んだ可能性もある」

「君はいつもそんなに慎重なのか?」

「あなたがいつもそんなに雑だから、世の中は均衡を保てるのよ」

 遠くで非常警報が鳴り始めた。

 俺は襲撃者のポケットを探り、黒い招待状を取り出した。

 金文字で〈ソラリス・タワー完成十周年記念舞踏会 午後十一時三十分〉とある。

「蛍沢堂の本社ビル。今夜もう一つパーティーか」

 マヤが腕時計を見る。

 午後十時五十八分。

「どうして今夜に限って金持ちは二度も着替えるの」

「一度目の服で税金を払わなかったからじゃないか」

 招待状の裏に、小さく暗号化された時刻が浮かび上がっていた。

 〇〇:〇〇。

 午前零時。

「月の起動時刻だ」と俺は言った。「蛍沢堂は零時に何かする」

「あなたの依頼人は、その計画を知っていた?」

「匿名通信は一度きりだった。ただ、こんな言葉を残した」

 俺は記憶をたどる。

「『月が歌えば、街は過去を失う』」

 マヤの顔から冗談の余地が消えた。

「司法記録の消去……」

「犯罪歴、資金洗浄、企業の不正、ぜんぶきれいにする気だ。ついでに自分へ都合のいい所有権を書き込めば、明日の朝には街そのものが蛍沢堂の私物になる」

「そんなことが可能なの?」

「金持ちが『不可能』と言うときは、たいてい値段交渉だ」

 廊下の奥でエレベーターが動き出した。

 新手が来る。

 マヤは拳銃をホルスターへ戻し、俺の手首へもう一度手錠をかけた。

「おい」

「あなたは容疑者のままよ」

「この状況で?」

「だから片方だけ」

 手錠のもう一方を自分の手首へはめる。

「一緒に来てもらう」

「デートの誘いなら、もう少し照明のいい場所で聞きたかった」

「次にそれを言ったら、反対の手にもかける」

「情熱的だ」

 エレベーターの到着音が鳴った。

 俺たちは窓を蹴破り、二十七階から外へ飛び出した。

 正確には、窓の外を走る清掃用ゴンドラへ飛び乗った。

 それでもマヤは着地した直後、俺を殺しそうな目で見た。

「先に言いなさい!」

「言ったら飛ばなかっただろ」

「当たり前よ!」

「だから言わなかった」

 背後の窓から襲撃者たちが銃を撃つ。

 俺たちは手錠でつながれたまま、ゴンドラの制御盤へ転がり込んだ。

「運転できる?」

「清掃員の経験は?」

「ない」

「じゃあ俺より適任だ」

 俺はレバーを最大まで倒した。

 ゴンドラが悲鳴を上げ、ビルの外壁を横滑りする。洗浄ブラシが回転し、窓ガラスへ泡を撒き散らす。

 追手の視界が真っ白になった。

「これで連中も少しはきれいになる」

「あなたはならないわね」

「内面は洗剤に弱い」

 ゴンドラは隣の立体道路へ接近した。

 俺たちはタイミングを合わせ、走行中の無人タクシーの屋根へ飛び移る。

 手錠の鎖が伸び、二人の腕が引っ張られた。

「右!」とマヤ。

「君から見て?」

「人類共通の右!」

 タクシーが急旋回し、俺たちは屋根を滑る。

 俺はアンテナをつかみ、マヤは俺のベルトをつかんだ。

「そこは高級品だ!」

「偽物でしょう」

「見抜くな!」

 車内の乗客が窓越しにこちらを見上げた。白髪の老婦人だ。

「相乗りです」と俺は言った。

 老婦人は親指を立てた。空の街にも話のわかる人間はいる。

 追手の黒い車が三台、後方から迫る。

 銃弾がタクシーの後部を叩いた。

 マヤは片手で拳銃を抜き、後ろ向きに二発撃った。

 一発は先頭車のタイヤ制御器に命中。車は安全装置を作動させ、強制停止した。後続二台が派手に追突する。

「うまいな」

「射撃訓練は首席」

「冗談は?」

「あなたを撃たずにいる程度には上手よ」

 タクシーの自動音声が鳴る。

『目的地を入力してください』

 俺は屋根を拳で叩いた。

「ソラリス・タワー!」

『聞き取れませんでした』

「ソ・ラ・リ・ス!」

『“空にリス”で検索します』

「未来は便利だな」

「窓を開けなさい!」

 老婦人が後部窓を開けた。

 俺たちは手錠を外すため、二人同時に車内へ滑り込む。

「騒がしくしてすみません」とマヤ。

「いいのよ」と老婦人はにっこりした。「夫との結婚記念日以来、こんなに楽しいタクシーは初めて」

「ご主人は?」

「そのとき別れたわ」

 俺は老婦人に敬意を表して帽子を取ろうとしたが、給仕帽は屋上に置いてきた。

 マヤが手錠の鍵を開ける。

「ソラリス・タワーへ直行して」

『目的地、ソラリス・タワー。予想到着時刻、午後十一時三十二分』

「二分遅刻ね」とマヤ。

「パーティーは主役が遅れて始まるものだ」

「私たちは招待されていない」

「それなら、もっと主役らしい」

 ソラリス・タワーは、夜空へ突き刺さる金色の針だった。

 最上階の舞踏会場には、政治家、企業家、芸能人、そしてその三種類を相手にする弁護士が集まっていた。

 正面入口には顔認証ゲートと武装警備員。

 俺とマヤの服は、俺が破れた給仕服、彼女が煤だらけのパンツスーツ。

 どう見ても招待客ではない。

「裏口を探す」とマヤ。

「それじゃ時間がかかる」

「正面から入れる格好じゃないでしょう」

「格好は入ってから何とかする」

 俺はタクシーを降り、玄関前に停まっていた豪華な白いリムジンへ向かった。

 ちょうど若い男女が降りてくる。男は白いタキシード、女は真珠色のドレス。二人ともこちらを見て眉をひそめた。

「車両保安検査です」と俺は言った。「最近、リムジンが相次いで逃亡しています」

「何を言ってるんだ?」

「この車にも反抗的な目つきがある」

 男が警備員を呼ぼうとした瞬間、マヤが警察バッジを見せる。

「緊急捜査です。お召し物をお借りします」

「服を?」

「国家の安全に関わります」

「俺たちは結婚式帰りだぞ!」

 マヤは男の白いタキシードと俺を見比べた。

「サイズは近いわね」

「待て」と俺は言った。「国家の安全にも限度がある」

 五分後、俺は白いタキシード、マヤは真珠色のドレスを着ていた。

 新婚夫婦はリムジンの中で毛布に包まり、俺たちへ恨みのこもった視線を送っている。

「必ず返却します」とマヤが言った。

「俺の専門だ」

 新郎が叫んだ。

「靴だけは返せ!」

「サイズが合わない!」と俺は返した。

 顔認証ゲートの前で、俺は新郎の招待状をかざした。

『ご夫妻のお名前をどうぞ』

「ロミオとジュリエット」

 マヤが肘で俺を突く。

『登録がありません』

「それは残念だ。古い名簿を使ってるな」

 警備員たちが近づいてくる。

 俺はマヤの腰を抱き、彼女の耳元へ囁いた。

「笑って」

「今?」

「幸せな夫婦に見せる」

「あなたと?」

「演技力が試される」

 彼女は満面の笑みを浮かべた。

 見た者が遺言を書き直したくなる種類の笑顔だった。

「あなた」と甘い声で言う。「招待状、また忘れたの?」

「ハニー、君の笑顔があれば扉は開く」

「開かなかったら?」

「夫が責任を取ります」

「すぐに未亡人ね」

 警備員が止まり、気の毒そうに俺を見た。

 その同情の隙に、マヤが袖から警察端末をゲートへ接触させる。非常時権限が一秒だけ認証を上書きした。

『ようこそ、蛍沢堂夫妻』

「出世したな」と俺。

「離婚届を急がないと」

 俺たちは堂々と会場へ入った。

 舞踏会場は巨大なガラスドームで、足元に街の夜景が広がっていた。中央では弦楽団が演奏し、空中を給仕ドローンが飛び交う。

 正面の壇上に、蛍沢堂征司がいた。

 六十代、銀髪、黒い燕尾服。穏やかな笑顔は、他人の家を差し押さえるときにも崩れなさそうだった。

 その隣には赤いドレスの女。

 仮面は外している。

 蛍沢堂の保安統括責任者、エレナ・ヴァイス。

 元軍情報部。空の街で最も高価な護衛であり、最もよく似合う武器は微笑みだと言われる女だ。

「月泥棒は理事長の部下だった」とマヤ。

「内部犯行としては教科書通りだ。教科書を爆薬で閉じた点を除けば」

 蛍沢堂が壇上でグラスを上げた。

「皆さま。あと二十分で、クラウン・ヒルズは新しい時代を迎えます」

 拍手が起きる。

「新しい時代は、古い領収書を捨てるところから始まります」

 客たちが笑った。

 俺は笑わなかった。

 蛍沢堂の胸元には〈シュリウスの月〉がペンダントのように下がっている。

「見せびらかしてる」とマヤ。

「盗んだ物ほど首から下げたくなる。人間の悪い癖だ」

「あなたも?」

「俺は似合う物だけ」

 会場の天井には巨大な時計が映し出されていた。

 午後十一時四十分。

「地下の中央サーバーへ月を接続するはず」とマヤ。「蛍沢堂が下へ移動する前に押さえる」

「ここで逮捕する?」

「証拠不十分」

「胸にぶら下げてるぞ」

「彼の所有物として登録されている」

「世界は書類が好きだな」

 俺は近くを飛んでいた給仕ドローンからグラスを二つ取った。

「何をするの」

「夫婦らしく乾杯する」

「時間がない」

「だから近道する」

 俺は一つをマヤへ渡し、もう一つを持って蛍沢堂へ歩き出した。

 エレナがすぐに俺へ気づいた。

 その目が細くなる。

「また会ったわね、給仕さん」

「今夜は昇進が早くてね」

 蛍沢堂がこちらを見る。

「どなたかな?」

「城戸レイ。返却屋です」

「返却?」

「あなたが持っている物を、持つべき相手へ返しに来た」

 会場が静まり返る。

 弦楽団だけが二小節ほど演奏を続け、気まずそうに止まった。

 蛍沢堂は微笑んだ。

「興味深い職業だ。しかし、この宝石は私の所有物だよ」

「書類ではね」

「世の中は書類で動く」

「だから今夜、書類を全部消す?」

 客たちがざわめく。

 蛍沢堂の笑顔がほんの少し硬くなった。

「酔っているようだ」

「まだ一口も飲んでない。あなたの酒は信用できなくて」

 エレナの手が腰の銃へ動く。

 俺はグラスを掲げた。

「乾杯しよう。過去のない未来に」

「警備!」

 蛍沢堂が叫んだ瞬間、俺はグラスを床へ落とした。

 割れなかった。

 床から十センチのところで静止し、ふわりと浮かび上がる。

 会場の重力制御が切れたのだ。

 客、テーブル、料理、楽器、そして警備員たちが、一斉に宙へ浮いた。

「何をしたの!」とマヤ。

「入口で非常時権限を借りた」

「私の端末を?」

「夫婦の共有財産だろ」

 俺は空中を泳ぎ、蛍沢堂へ向かう。

 エレナが銃を撃つが、反動で自分が後方へ飛んだ。弾はシャンパンのボトルを砕き、黄金色の泡が星雲のように広がる。

 蛍沢堂は胸のペンダントを握り、壇上の手すりへしがみついた。

「月を離せ!」

「断る!」

「その返事、短くて助かる」

 俺は浮遊するチェロを蹴り、蛍沢堂へ突進した。

 彼の胸元へ手を伸ばす。

 あと一歩。

 エレナのワイヤーが俺の足首へ巻きついた。

 彼女は天井の照明器具に固定され、空中で逆さまになっている。

「今度はあなたが吊られる番よ」

「その台詞、屋上で聞きたかった」

 エレナがワイヤーを引く。

 俺は蛍沢堂から遠ざけられた。

 マヤが空中のテーブルを蹴り、こちらへ飛んでくる。

 途中で銀のトレーをつかみ、エレナのワイヤーへ投げた。

 トレーが絡まり、巻き取り装置が止まる。

「真似したな!」と俺。

「押収した技術よ!」

 重力が復旧した。

 全員が落ちた。

 俺はケーキの上へ。

 マヤはソファへ。

 蛍沢堂は幸運にも警備員三人の上へ。

 エレナは不運にも氷の彫刻へ。

 巨大な白鳥の首が折れた。

「芸術に謝って」とマヤ。

「白鳥の方から来たのよ」とエレナ。

 警備員たちが起き上がる。

 俺は顔からクリームを拭い、マヤへ叫んだ。

「地下へ行くぞ!」

「宝石は?」

 蛍沢堂の胸元を見る。

 ペンダントは消えていた。

 エレナの右手にある。

 彼女は床の非常ハッチを開け、細い保守用シャフトへ飛び込んだ。

「女性を追いかけるのは得意でしょう」とマヤ。

「追いついた後が苦手だ」

 俺たちも続いて飛び込んだ。

 保守用シャフトは、タワーの地下中央まで一直線に伸びていた。

 エレナは磁気ブーツで壁を滑り降りる。

 俺とマヤにはブーツがない。

「減速手段は?」とマヤ。

「ある」

「確実?」

「人生に確実なのは税金と、こういう質問の後に困ることだけだ」

 俺は壁から配線ケーブルを引き抜き、二人の腰へ巻いた。端を非常梯子へ通し、摩擦で速度を落とす。

 火花が散る。

 地下二十階、三十階、四十階。

「もっとゆっくり!」

「後ろから警備員が来てる!」

 上を見ると、装甲服の男たちが小型降下機で追ってくる。

 俺はケーブルの固定を外した。

「速くする!」

「逆よ!」

 俺たちは落下した。

 風が耳元で吠える。

 エレナの姿が近づく。

 俺は途中の標識板を蹴り飛ばした。板が回転しながらエレナへ向かう。

 彼女は身をひねって避けるが、その一瞬で俺たちが追いついた。

 マヤがエレナの腕をつかむ。

 三人が絡まり、シャフト内を落ちていく。

「警察よ! 宝石を渡しなさい!」

「落下中に逮捕状を読むの?」

「黙秘権は着地後!」

 エレナが肘でマヤを突き放す。

 俺は彼女の手首をつかみ、宝石へ手を伸ばす。

「しつこい男は嫌われるわよ」

「好きな男は?」

「生きている男」

「条件が厳しい」

 シャフトの底が迫る。

 巨大な換気ファンが回転している。

 マヤが壁の緊急レバーを撃った。

 ファンが停止する。

 俺たちは羽根の上へ転がり落ちた。

 上から追手が降ってくる。

 ファンの上は急に人口密度が高くなった。

「レバーを戻して!」と俺。

「私たちも乗ってる!」

「人生には刺激が必要だ!」

 マヤがレバーを撃つ。

 ファンが再起動した。

 羽根が回り、俺たち全員を周囲へ弾き飛ばす。

 追手は保守通路へ次々と転がった。俺とマヤは同じ扉へ飛び込み、エレナだけが反対側の中央サーバー室へ滑り込む。

 扉が閉じる直前、彼女は投げキスをした。

「趣味が悪い」とマヤ。

「少し嫉妬してる?」

「あなたの観察力、今だけ故障してるわ」

 俺たちは扉の制御盤へ駆け寄った。

 ロックされている。

 時計は午後十一時五十六分。

 中央サーバー室のガラス越しに、蛍沢堂が別ルートから現れた。燕尾服は破れ、髪は乱れていたが、笑顔だけはまだ金持ちだった。

 エレナが〈シュリウスの月〉を円形端末へはめ込む。

 青い光が広がり、巨大な輪状装置が回転を始めた。

『起動まで、三分』

 機械音声が告げた。

「扉を破る」とマヤ。

「厚さ三十センチの合金だ」

「別の入口は?」

「換気口」

 二人で天井を見る。

 幅二十センチ。

「あなたなら入れる?」

「俺を何だと思ってる」

「細長い犯罪歴」

「名誉毀損だ。そこまで細くない」

 俺は制御盤を開き、配線を調べた。

「扉は無理だが、室内放送には入れる」

 マヤがガラス越しに蛍沢堂を見る。

「話して時間を稼ぐ?」

「いや。怒らせる」

 俺はマイクを起動した。

「蛍沢堂さん、聞こえるか?」

 室内の蛍沢堂が振り向く。

「城戸レイ。君は実に不愉快な男だ」

「よく言われる。だが請求書には書かないでくれ」

『起動まで、二分三十秒』

「もう止められん」と蛍沢堂は言った。「零時になれば、司法記録も債務記録も所有権も書き換わる。この街は完全に私のものになる」

「大変だな」

「何が?」

「ゴミ収集日も全部、あんたが責任を持つのか」

 蛍沢堂のこめかみが動く。

「くだらん」

「道路の穴、給水管、学校の雨漏り、老人ホームの暖房。街を持つってのは、夜景を眺めるだけじゃない。壊れた物を直す仕事だ」

「金で人を雇えばいい」

「その金の記録も消すんだろ?」

 マヤが横で、小さく笑った。

 蛍沢堂は端末へ手を伸ばし、何かを操作する。

「エレナ。外の二人を始末しろ」

 エレナは動かなかった。

「命令だ」

「契約では、月をここへ運ぶまで」

「追加料金を払う」

「記録を消した後で?」

 エレナは肩をすくめた。

「信用できないわ」

「賢いな」と俺はマイク越しに言った。

「あなたほどじゃないわ、給仕さん」

 エレナが宝石へ手を伸ばす。

 蛍沢堂が隠し持っていた小型拳銃を抜き、彼女の肩を撃った。

 エレナが倒れる。

 マヤの表情が変わった。

「扉を開ける」

「方法は?」

「作る」

 彼女は取調室の襲撃者から奪っていた予備の電撃球を一つ取り出し、制御盤へ押し込んだ。

「それ、爆発するぞ」

「知ってる」

「先に言え!」

 青白い閃光。

 扉が爆発し、俺たちは煙と一緒にサーバー室へ飛び込んだ。

『起動まで、一分四十秒』

 蛍沢堂が拳銃をこちらへ向ける。

「動くな!」

 俺とマヤは止まった。

「宝石から離れろ」とマヤ。

「警察か。ちょうどいい。零時になれば君のバッジも私が発行したことになる」

「その前に逮捕する」

「何の容疑で?」

 蛍沢堂は笑った。

「記録はすべて消える」

「記録がなければ犯罪が消えると思うか?」と俺。

「法は記録だ」

「違うね。法は、人が忘れないための約束だ」

「気取った台詞だな」

「今夜一番高かった。あとで請求する」

 俺はゆっくり両手を上げた。

 蛍沢堂の視線が俺へ集中する。

 その隙に、床に倒れたエレナが足を伸ばし、蛍沢堂の踵を払った。

 銃声。

 弾が天井を撃つ。

 マヤが蛍沢堂へ飛びかかる。

 二人が端末の前で組み合う。

 俺は〈シュリウスの月〉へ駆けた。

『起動まで、一分』

 宝石を引き抜こうとする。

 動かない。

 端末が磁気固定している。

「解除コードが必要よ!」とエレナ。

「知ってるか?」

「蛍沢堂の生体認証」

「本人ならそこにいる」

 蛍沢堂はマヤを投げ飛ばし、拳銃を拾った。

 俺へ狙いを定める。

「月から手を離せ!」

「予約が先なんだ」

 彼が引き金を引く。

 弾は俺の胸を打った。

 白いタキシードが赤く染まる。

 マヤが息をのむ。

 俺はゆっくり床へ倒れた。

 蛍沢堂は笑い、宝石へ近づく。

「軽口ばかりの男には、ふさわしい最期だ」

「同感だ」

 俺は起き上がった。

 胸元から、つぶれたトマトが落ちる。

 舞踏会のケーキに載っていた飾りだ。

 蛍沢堂が目を見開く。

「空砲?」

「さっき取調室で拾った電磁妨害片を、あんたの銃へ仕込んだ。弾は発射されたが、照準補正が狂った」

「では、なぜ倒れた!」

「一度やってみたかった」

 マヤが額を押さえる。

「今それを?」

「観客がいたから」

『起動まで、三十秒』

 蛍沢堂が俺へ殴りかかる。

 俺は避け、彼の手首をつかんで端末へ叩きつけた。

『生体認証を確認』

 磁気固定が解除される。

「ありがとう」と俺は言い、宝石を引き抜いた。

『接続が切断されました』

 輪状装置が減速する。

 蛍沢堂が絶叫した。

「馬鹿め! 途中で切断すれば、蓄積データが外部へ放出される!」

「知ってる」

 俺は宝石を掲げた。

 サーバー室の壁面が一斉に点灯し、蛍沢堂グループの裏帳簿、賄賂記録、違法な土地取得、脅迫映像が次々と表示される。

 同じ映像が、舞踏会場の巨大スクリーンへ、街じゅうのニュース端末へ、警察本部へ送信されていく。

「誰がそんな設定を!」

「俺の依頼人だろうな」

 床の隅で、エレナが笑った。

「違うわ」

 彼女は肩の傷を押さえながら立ち上がる。

「依頼したのは私」

 俺とマヤと蛍沢堂が、同時に彼女を見た。

「あなたが?」とマヤ。

「三年前、蛍沢堂は私の部隊を違法作戦に使い、失敗すると記録を消して全員を犯罪者にした。私は月を盗み、中央サーバーへ接続し、証拠を公開する必要があった」

「俺を雇った理由は?」

「失敗したときの保険」

「安い保険だな」

「成功報酬は払うわ」

「記録が残っていれば?」

 エレナが微笑む。

「現金で」

「信用した」

 マヤが俺を睨む。

「簡単ね」

「現金は嘘をつかない。数え間違えるだけだ」

 午前零時を告げる鐘が鳴った。

 街の時計が一斉に光る。

 しかし、過去は消えなかった。

 代わりに、隠されていた過去が空いっぱいに映し出された。

 蛍沢堂は逃げようとした。

 マヤが足を払って床へ倒し、手錠をかける。

「蛍沢堂征司。殺人未遂、司法妨害、違法侵入、武器使用、その他について逮捕します」

「その他とは何だ!」

 マヤはちらりと俺を見る。

「あとで増える予定よ」

「警察は柔軟だな」と俺。

「あなたのおかげでね」

 エレナが宝石を俺へ投げた。

「返却屋。仕事を終えて」

 俺は受け取り、青白い月を見つめた。

「持ち主は誰だ?」

「この街の人間全員」

「配るには少し小さい」

 マヤが手を差し出す。

「証拠品として警察が預かる」

「それが一番安全?」

「少なくとも、あなたのポケットよりは」

「傷つくな」

「心があるの?」

「今朝、質屋から取り戻した」

 俺は宝石を彼女の手へ置いた。

 事件から三日後。

 蛍沢堂征司は起訴され、彼の所有していた企業は監査に入り、空の街では百人を超える役人と経営者が眠れない夜を過ごしていた。

 ノクターン美術館は〈シュリウスの月〉を市民信託へ移すと発表した。

 エレナ・ヴァイスは事情聴取の翌朝、病院の窓から消えた。

 請求書だけは残していった。俺への成功報酬より、治療費の方が高かった。

 俺はクラウン・ヒルズ警察の玄関前で、星野マヤを待っていた。

 彼女はいつものパンツスーツで現れ、分厚い封筒を俺へ差し出した。

「感謝状?」

「損害賠償請求」

 中を見る。

 美術館の天井、警察署の窓、清掃ゴンドラ、無人タクシー、リムジン、新郎新婦の衣装、舞踏会のケーキ、氷の白鳥、ソラリス・タワーの扉。

「白鳥まで俺なのか?」

「あなたの共犯者が壊した」

「エレナとは友達じゃない」

「屋上で会話が弾んでいた」

「君、やっぱり嫉妬してる?」

 マヤは封筒でもう一度俺の胸を叩いた。

「それから、これ」

 彼女は小さなカードを渡した。

 クラウン・ヒルズ警察の臨時捜査協力員証。

「警察が俺を雇う?」

「監視しやすくするため」

「給料は?」

「損害賠償と相殺」

「夢のない雇用条件だ」

「嫌なら断って」

 俺はカードを光へかざした。

 顔写真は取調室で撮られたものらしく、ひどい顔をしている。

「写真を撮り直せる?」

「それが条件?」

「男には譲れないものがある」

 マヤが初めて、はっきり笑った。

「図書館の本を返したら考える」

「まだ覚えてたのか」

「私は記録がなくても忘れない」

 通りの向こうで、派手な爆発が起きた。

 金庫輸送車が煙を上げ、空中バイクに乗った覆面集団が飛び去っていく。

 マヤは拳銃へ手をかけた。

 俺は協力員証を胸ポケットへ入れる。

「勤務開始はいつから?」

「今」

「残業代は?」

「走りながら交渉して」

 彼女は駆け出した。

 俺も後を追う。

「ところで警部補!」

「何!」

「新婦に靴を返すの、忘れてないか?」

 マヤが足を止め、自分の履いている白い革靴を見下ろした。

 覆面集団は遠ざかっていく。

 俺は笑った。

「月は盗めても、午前零時は待ってくれない。だが泥棒は、靴を返すまで少しくらい待ってくれるかもな」

「待たなかったら?」

「そのときは追いついて、丁寧にお願いする」

「あなたが?」

「君が銃を向けて、俺が丁寧に」

 マヤは白い靴のまま走り出した。

「交渉成立ね!」

 空の街にサイレンが鳴る。

 朝日はまだ遠い。

 俺の仕事は、これからだった。