月を喰う船と、死者の宿
一
釘浜の朝は、空から魚が落ちてくる音で始まる。
雲より高いところを流れる「上の海」から、銀鱗の小魚が雨どいへ迷い込み、屋根をぱらぱら叩くのだ。釘浜の子どもたちは、それを拾って朝飯にする。大人たちは、洗濯物に鱗がついたと文句を言う。
その朝、落ちてきたのは魚ではなかった。
赤い板だった。
板は広場の掲示柱に、黒い制服の役人によって打ちつけられた。
――鎖税滞納につき、釘浜区は三日後の日没をもって切り離す。
「切り離すって、どこから?」
パン屋の息子ポッケが、焼きたての丸パンを両手に抱えたまま訊いた。
「世界からよ」
廃品屋の娘ツザエが言った。十四歳にして大人より背が高く、髪にはいつも銅線が絡んでいる。「釘浜は島の腹に鎖でぶら下がってる。鎖を切られたら、家も店も学校も、雲の底まで真っ逆さま」
「住民はその前に退去させる、と書いてある」
地図師見習いのニケクは、赤い板を睨みつけた。「命は助けてやるから、町は諦めろってこと」
釘浜は、浮島ベルカの裏側にへばりついた古い港町だった。家々は岩から突き出した梁の上に建ち、道は縄梯子と吊り橋でつながり、窓の外を帆船が上下逆さに通る。立派な人々は島の上面に住み、釘浜のことを『靴底の染み』と呼んだ。
だがニケクにとっては、祖父の地図工房があり、ツザエの廃品置き場があり、ポッケの家の石窯がある場所だった。
役人が去ると、住民たちは広場に集まった。泣く者、怒鳴る者、荷造りを始める者。町長は「交渉する」と言ったが、誰も本気にはしなかった。鎖税は金貨三千枚。釘浜中の鍋や靴や差し歯を売っても届かない。
「金貨三千枚なら、あるかもしれない」
ニケクが言った。
ツザエが片眉を上げた。ポッケはパンを落とした。
「祖父ちゃんの、開かずの戸棚」
三人は走った。
地図工房は、島の岩肌に半分埋まっていた。亡くなった祖父オルタは、世界中の空路を描いた地図師だった。最後の十年は誰にも会わず、毎晩、壁の向こうから槌の音を響かせていた。
開かずの戸棚には鍵穴がなかった。
ツザエは鼻歌を歌いながら蝶番を外した。
「鍵の意味を考え直したほうがいいわね」
戸棚の中には、羊皮紙が一枚と、真鍮でできた人間の耳が入っていた。
羊皮紙は真っ白だった。
「すごい宝だね」ポッケが言った。「紙と耳。金貨三千枚まで、あと二千九百九十九枚とちょっと」
ニケクは真鍮の耳を拾った。耳の裏には、祖父の字でこう刻まれていた。
――雷の話を聞かせよ。
工房の窓の外で、ちょうど上の海が唸った。雲の中を青白い稲妻が走る。ニケクが真鍮の耳を窓へ向けると、耳は雷鳴を吸い込み、ぶるぶる震えた。
白い羊皮紙の上に、銀色の線が浮かび始めた。
釘浜の地下。忘れられた排水路。宵待市場。終点館。そして、世界の裏側を航る巨大な船。
地図の端には、牙のような筆致で記されていた。
――月喰い号。船王ナブラの遺産。生者は死者の道を行け。
その下に、祖父の小さな走り書きがあった。
――ニケクへ。町が空から捨てられる日が来たら、この地図を開け。
ニケクは顔を上げた。
「行くよ」
「どこへ?」とポッケ。
「死者の道」
「聞かなかったことにしていい?」
「だめ」
ツザエは地図を覗き込み、にやりと笑った。
「三日ある。宝を見つけて、帰って、町を買う。余ったら空飛ぶ風呂桶を作ろう」
「余らなくていいから、生きて帰ろうよ」
ポッケは落としたパンを拾い、埃を払って食べた。
こうして三人は、町の大人たちに黙って、祖父の工房の床板を剥がした。
その下には、口を開けた闇があった。
二
排水路は、巨大な獣の喉のようだった。
石壁には塩の結晶が歯のように並び、上の海から漏れた水が天井を逆向きに流れている。三人は縄を伝い、古い保守通路へ降りた。
ツザエは工具袋を背負い、ニケクは地図と真鍮の耳を胸元にしまい、ポッケは食料袋を三つ持ってきた。
「なんで食料が三つもあるの」
「一つは行き。二つは帰り」
「増えてるじゃない」
「帰りはお腹が減るから」
最初の仕掛けは、百本の針だった。
通路の床に足を置いた瞬間、壁から鉄針が飛び出した。ツザエがポッケの襟首を引かなければ、彼は穴あきチーズになっていた。
床には、古代文字で一行。
――盗人は軽く、王は重い。
「体重の軽い人だけ通れる?」ポッケが青ざめた。
「それならあんたはここまでね」
「ひどい」
ニケクは地図を透かした。銀線の端に、小さな王冠の印がある。真鍮の耳を当てると、床下から、かすかな歯車の音が聞こえた。
「重さじゃない。持ち物だ」
三人は荷物をすべて床に置いた。何も持たずに歩くと、針は出なかった。
「盗人は、宝を抱えて帰ろうとする。王は、何も持たずに先へ行く」
「じゃあ帰りは?」ポッケが訊いた。
三人は顔を見合わせた。
「別の道を探す」とニケクは言った。
次の広間には、石の骸骨が六体、円卓を囲んでいた。中央に置かれた銀杯へ水を注ぐと、骸骨たちが一斉に笑い出した。笑い声はだんだん大きくなり、天井から砂が落ちた。
「笑い返せ、って書いてある!」
ニケクが壁の銘文を読み上げる。
ツザエは骸骨の顎を工具で叩き、陽気な拍子を作った。ポッケはパン屋に来た酔客の物真似をした。ニケクは笑おうとしたが、町の赤い告示板を思い出して、うまく笑えない。
骸骨たちの目が赤く光った。
「ニケク、何か面白いこと!」
「いま考えてる!」
「地図師が迷子になった!」ポッケが叫んだ。
「それ、私の悪口?」
「笑って!」
ニケクは腹が立って、そして本当に笑ってしまった。
石壁が左右に開いた。
その向こうから、薬品の臭いが流れてきた。
通路の床に、男が倒れていた。
いや、男だったものが。
皮膚は蝋のように白く、胸には縦一文字の縫い目。両腕には銅の管が刺さり、背中の革袋が、呼吸のたびにふくらんでいる。男はゆっくり顔を上げた。片目は灰色、もう片方は青い硝子玉だった。
「おや」
死体が言った。
ポッケが悲鳴をあげた。
「静かに。せっかく死んでいるのに、耳が痛い」
死体は立ち上がり、胸の縫い目から落ちた糸を結び直した。
「あなた、生きてるの?」ニケクが訊いた。
「失礼だな。ちゃんと死んでいる。週に二度、医師からも確認される」
男は胸を張った。
「私はロク。元・王立郵便配達人、現・死体助手。君たちは生きた子どもだな。こんな場所にいると、先生に部品を取られるぞ」
「先生?」
遠くで、金属の車輪が鳴った。
ロクの硝子の目がくるりと回る。
「来た。隠れろ」
三人は崩れた石棺の陰へ飛び込んだ。
黒い外套の長身の男が、鉄輪の担架を押して現れた。髪は雪のように白く、鼻には銀の医療鏡をかけている。担架には三つの死体が積まれ、指先から細い煙をあげていた。
「ロク」男が言った。「地図の気配がした」
「気のせいです、ウェイク先生。ここには苔と私しか」
医師ウェイクは立ち止まり、空気を嗅いだ。
「焼きたてのパンの匂いがする」
石棺の陰で、ポッケが自分の食料袋を抱きしめた。
「生者だ」
ウェイクが指を鳴らすと、担架の死体たちが一斉に起き上がった。
「走れ!」
ロクが担架を蹴り倒した。
三人は通路を駆けた。背後で死体の足音と、ウェイクの冷静な声が追ってくる。
「地図を渡しなさい。子どもが月喰い号へ行けば、死ぬ」
「死体を歩かせてる人に言われたくない!」ツザエが叫んだ。
「歩かない死体ほど、役に立たないものはない」
行き止まりだった。
正面には、黒い水が垂直に流れる滝。地図の銀線は、その中へ続いている。
「飛ぶよ!」ニケクは言った。
「それ、落ちるって意味だよね?」
「世界の裏では同じ!」
三人は手をつなぎ、滝へ飛び込んだ。
上下が裏返った。
冷たい水に叩かれたと思った次の瞬間、彼らは夜空へ放り出されていた。
三
夜空には、町が浮かんでいた。
黒い川の両岸に、千もの屋台と灯籠が連なっている。魚の頭をした商人、傘だけで歩く客、首を小脇に抱えた騎士。透き通った馬車が石畳を走り、どの窓にも違う月が映っていた。
宵待市場。
死者が次の旅へ出る前に、最後の買い物をする場所。
ニケクたちは川岸の葦むらへ落ちた。服から水を絞っていると、どこからか小さな声がした。
「生きてる匂いがする」
三人は凍りついた。
灯籠の陰から、少女が顔を出した。年はニケクと同じくらい。白い髪を耳の下で切り揃え、終点館と刺繍された赤い制服を着ている。足元は透けていた。
「やっぱり生きてる」少女は鼻をひくつかせた。「市場で見つかったら、珍味屋に瓶詰めにされるよ」
「助けて」ポッケが即答した。
「いいけど、代わりにパンを一つ」
「二つでも」
「ポッケ」
「命の値段だよ」
少女はパンを受け取ると、三人の顔に灰を塗った。
「これで葬式帰りの匂いになる。あと、誰かに本名を呼ばれても振り返らないで。ここでは名前に返事をすると、その名前が死者名簿に載る」
「あなたは?」とニケク。
「ルゥ。たぶん」
「たぶん?」
「死ぬときに、ほとんど忘れたから」
ルゥはくるりと背を向けた。
「地上へ戻る出口は、終点館の地下にある。でも今夜は大渡り祭。宿は満室、裏口も封鎖。従業員になれば入れる」
終点館は、市場の中央に立つ巨大な建物だった。
十三階あるのに、階段は十二段しかない。屋根の煙突からは鳥が吐き出され、正面玄関では骸骨の楽団が、楽器を持たずに演奏していた。壁の無数の窓には、雪原、砂漠、海底、誰かの子ども部屋が映っている。
女将ギルゼアは、六枚の羽を持つ大きな蛾だった。
彼女は帳場の天井から逆さにぶら下がり、金色の眼鏡を三つかけていた。
「生者三名」
ギルゼアは帳面をめくった。「働き口は、皿洗い、靴磨き、悪夢の煮込み係」
「悪夢は煮込むんですか?」ポッケが訊いた。
「生では苦いからね」
大広間では、死者たちが旅立ち前の晩餐をしていた。
首のない貴婦人には帽子を皿にしてスープを運び、百年間眠っていた兵士には固いものを出さず、火事で死んだ客の近くではロウソクを消しておく。ツザエは皿洗い機を三度爆発させ、ポッケは味見で悪夢を一鍋減らし、ニケクは迷子の影を持ち主へ届けた。
ルゥは館内を飛ぶように働いた。死者のくせに、笑うと頬にえくぼができた。
「ずっとここにいるの?」
休憩中、ニケクが訊いた。
「覚えてない。ギルゼアさんが川で拾ったって。次の船に乗れって言われるけど、行き先を決められない」
「帰りたい場所は?」
ルゥは考え、首を振った。
「ない。たぶん、あったんだけど」
そのとき、館の表で鐘が鳴った。
黒い外套の客が入ってきた。
ウェイク医師だった。
後ろにロクと、縫い合わされた死体助手たちを従えている。彼らは大きな硝子棺を運んでいた。棺の中には、白い服の少女が眠っていた。
ルゥの手から皿が落ちた。
硝子棺の少女は、ルゥと同じ顔をしていた。
ウェイクが帳場へ進む。
「地下船着場を借りたい。月喰い号へ渡る」
ギルゼア女将の触角が揺れた。
「生者が死者の船を起こすつもりかい」
「娘を起こす」
ウェイクは硝子棺へ手を置いた。「十年前、私は熱病からこの子を救えなかった。だが体は保った。月喰い号の心臓なら、魂を呼び戻せる」
ルゥが一歩、前へ出た。
ウェイクは彼女を見た。
銀の医療鏡が、床に落ちた。
「リュシア」
その名が広間へ響いた。
ルゥが振り返った。
瞬間、天井の死者名簿がひとりでに開き、黒いインクが走った。
リュシア・ウェイク。
ルゥの胸に、名札のような文字が浮かぶ。彼女の体が硝子棺へ引かれた。
「いや!」
ニケクはルゥの腕をつかんだ。冷たい。だが確かに、そこにいる。
ウェイクの顔には、喜びとも恐怖ともつかない表情が浮かんだ。
「魂まで残っていたのか。リュシア、父さんだ。帰ろう」
「知らない」ルゥは震えた。「あなたなんか、知らない」
「記憶が欠けているだけだ。体へ戻れば、すべて直る」
「直るって、誰が決めたの?」ニケクが言った。
ウェイクは初めて、子どもたちを見た。
「地図を持っているのは君だな」
死体助手たちが広間を囲んだ。
ギルゼア女将が羽を広げる。
「館内での魂の強奪は禁止だよ、医師」
「ならば正式に宿代を払う」
ウェイクは黒い鞄から、小瓶を一本取り出した。中で青い炎が揺れている。
「王侯七名分の最期の言葉だ」
女将の眼鏡が一斉に曇った。終点館では、それは金貨の山より高価だった。
「地下船着場を一刻。ほかの客へ危害は加えない」
ギルゼアは長い沈黙のあと、鍵を差し出した。
「契約だ。ただし、その子の意思は宿代に含まれない」
ウェイクは鍵を受け取った。
「意思は、健康になってから聞く」
ツザエが小声で言った。
「最悪の医者ね」
「よく言われる」ウェイクは答えた。
次の瞬間、ツザエは皿洗い場からくすねていた胡椒袋を火鉢へ投げ込んだ。
大広間が白煙に包まれた。
「地下へ!」
四人は走った。
四
終点館の地下には、川が流れていた。
水は真っ黒で、星だけを映した。岸には棺桶の形をした小舟が並び、行き先の札には「昨日」「忘却」「まだ先」などと書かれている。
月喰い号行きの舟だけが、鎖で封じられていた。
ツザエが鍵穴へ針金を差し込む。
「女将の鍵はウェイクが持ってる」
「鍵があると思うから、鍵穴が威張るのよ」
かちり。
鎖が外れた。
四人が舟へ飛び乗ると、棺舟はひとりでに岸を離れた。直後、ウェイクと死体助手たちが地下へ現れた。
「ロク!」
ウェイクが命じる。
ロクは別の舟へ乗り、櫂を構えた。しかし一度だけニケクたちを見て、わざと反対向きに漕ぎ始めた。
「すみません先生! 死後、左右の感覚がどうも!」
「解雇するぞ!」
「すでに一度、人生から解雇されています!」
ウェイクは硝子棺ごと三隻目の舟へ乗り込んだ。
黒い川が急流になった。
市場の灯が遠ざかり、岸が消える。頭上には無数の扉が浮かび、その隙間から、生者の世界の音が漏れていた。赤子の泣き声。雨。鍛冶場の槌。誰かが「ただいま」と言う声。
ルゥは振り返らず、前だけを見ていた。
「思い出した?」ニケクが訊いた。
「少し。白い部屋。薬の匂い。父さんの手」
「戻りたい?」
「わからない」
「わからなくていい。決めるのは、あんた」
棺舟が滝へ落ちた。
今度は誰も叫ばなかった。叫ぶ暇がなかった。
四人は星の海へ投げ出され、舟ごと巨大な甲板へ墜落した。
月喰い号は、死んだ空鯨の骨から造られた船だった。
全長は町ひとつ分。肋骨が帆柱となり、白い帆には夜空が縫い込まれている。船首は大口を開けた鯨の頭蓋で、その歯の間に半分欠けた月が挟まっていた。
船は世界の裏側、重力も風も届かない暗闇を漂っていた。
甲板中央の扉に、三つのくぼみがあった。
耳。舌。心臓。
ニケクが真鍮の耳をはめると、船全体が低く唸った。扉の一つが開く。
「舌と心臓も要るの?」ポッケが言った。「持ってきてないよ」
扉の横に碑文があった。
――真実を語る舌。恐れながら進む心。
「本物の臓器じゃない」ニケクは言った。「たぶん」
「たぶんをつけないで」
第二のくぼみの前で、床から銀の蛇が現れた。
蛇は四人を見回した。
『宝を望む者よ。もっとも欲しいものを語れ』
「金貨三千枚!」ポッケが即答した。
蛇が牙を剥いた。
「嘘ってこと?」ツザエが訊いた。
ポッケは唇を噛んだ。
「……町がなくなっても、みんな一緒ならいいと思ってた。でも本当は嫌だ。新しい町で友だちができなかったら怖い。パン屋がなくなって、父ちゃんと母ちゃんが笑わなくなるのも怖い。だから、釘浜へ帰りたい」
第二のくぼみが光った。
ツザエは鼻を掻いた。
「私は、すごい機械を作りたい。誰にもガラクタって言わせないやつ。でも本当は、母さんが捨てられない物を集めてるのと同じ。壊れたものが、まだ使えるって証明したい」
光が強くなる。
ニケクは言った。
「祖父ちゃんみたいな地図師になりたい。でも祖父ちゃんが残した道を歩くだけじゃなくて、まだ誰も描いてない場所を見つけたい」
ルゥは長く黙った。
「私は、生き返りたいのかもしれない」
三人が彼女を見る。
「でも、あの体へ戻るのは怖い。昔の私になったら、ここで会ったみんなを忘れるかもしれない。父さんを嫌いになりたくないし、好きだったことにされるのも嫌。私は……私のままで、行き先を選びたい」
第二の扉が開いた。
その向こうは、船王ナブラの遊戯甲板だった。
床が傾き、砲弾が転がり、天井から海賊の幽霊が「右!」「左!」「そっちは罠!」と勝手なことを叫ぶ。四人は肋骨の橋を走り、逆さにぶら下がる帆を渡り、巨大な羅針盤の針に乗って深部へ降りた。
途中、ポッケは金貨の山を見つけた。
「三千枚どころじゃない!」
彼が一枚拾うと、金貨が目を開けた。
『いただきます』
金貨の山が口になった。
四人は全速力で逃げた。
「宝が人を食べるなんて聞いてない!」
「宝からすれば、盗人が食べ物なんでしょ!」
最後の扉は、脈打っていた。
心臓のくぼみへ手を置くと、触れた者の恐怖が形になる。
ツザエの前には、空へ落ちていく釘浜が現れた。
ポッケの前には、誰もいないパン屋。
ニケクの前には、真っ白な地図。どこへ進んでも道が描かれず、自分だけが取り残される。
ルゥの前には、硝子棺の中の自分が立っていた。生きた瞳で笑い、手招きする。
『戻れば楽になるよ』
ルゥは震えながら、一歩進んだ。
「楽じゃなくていい。私が選ぶ」
四人は恐怖の幻を突き抜けた。
扉が開いた。
五
月喰い号の心臓室は、夜明け前の空の色をしていた。
中央に、巨大な青い心臓が浮かんでいる。血管の代わりに無数の光る航路が伸び、世界中の浮島へつながっていた。心臓の下には、船王ナブラの石像が立っていた。
像の台座に、最後の碑文。
――この船は宝を運ばぬ。捨てられた土地を運ぶ。
ニケクは息を呑んだ。
「月喰い号は、町を助ける船だ」
かつて空の王たちは、税を払えない村や、戦で焼かれる国を島ごと切り捨てた。船王ナブラは月喰い号でそれらを拾い、誰の地図にもない場所へ運んだのだ。
金貨の宝ではない。
だが釘浜を救える。
心臓の前には、二本のレバーがあった。
一方には「帰還」。もう一方には「航行」。
そして警告。
――心臓は一度だけ、失われたものを呼ぶ。人ひとりか、土地ひとつか。
「航行を選べば、釘浜をここへ呼べる」ツザエが言った。
「でも、ルゥは……」
ポッケが言い終える前に、拍手が響いた。
ウェイク医師が入口に立っていた。
死体助手たちが四人を囲む。ロクもいたが、縄で両手を縛られている。
「よく辿り着いた」
ウェイクは硝子棺を心臓の下へ運んだ。「十年探した扉を、子どもが半日で開けるとは。私は教育制度を見直すべきだと思う」
「ルゥをどうするつもり」ニケクが言った。
「生き返らせる。それだけだ」
「本人が嫌がってる」
「病人は治療を怖がるものだ」
ルゥがウェイクを見た。
「父さん」
医師の顔が崩れた。ほんの一瞬、恐ろしい蘇生術師ではなく、疲れ果てた父親の顔になった。
「リュシア」
「私が死んだあと、何人を使ったの?」
ウェイクは答えなかった。
ロクが静かに言った。
「百四十七人です。墓地から許可なく連れてきた者が九十二。刑務所から買った者が三十一。自ら志願した愚か者が二十四。私を含みます」
「黙れ」
「死体は口が軽いのです、先生。生前ほど失うものがない」
ルゥは硝子棺の自分を見た。
「私のため?」
「そうだ」
「私が頼んだ?」
ウェイクの指が震えた。
「子どもは死を頼まない」
「だからって、ほかの人を死後まで使っていいの?」
ウェイクは「帰還」のレバーへ手を伸ばした。
「生きればわかる」
ツザエが工具を投げた。ウェイクが避ける。ニケクはルゥを引き、ポッケはロクの縄へ噛みついた。死体助手たちが襲いかかる。
心臓室はたちまち戦場になった。
ツザエは死体の背中の革袋から管を抜いた。死体は「失礼」と言ってしぼんだ。ポッケは食料袋を振り回し、干し肉で二体を転ばせた。ロクは縄がほどけるなり、自分の左腕を外して棍棒にした。
「郵便は迅速に!」
ニケクはレバーへ走った。
ウェイクが先に「帰還」を倒した。
青い心臓が大きく脈打つ。
硝子棺が砕けた。
眠っていた少女の体が宙へ浮かび、目を開いた。瞳は空っぽだった。
ルゥの体から光の糸が引き出される。
「いや!」
彼女が床を掴む。指が透け、輪郭がほどけていく。
ウェイクは娘の体へ腕を伸ばした。
「もう少しだ。帰ってこい」
空っぽの少女が口を開いた。
「お、とう、さん」
その声は、心臓室の壁から鳴っていた。記憶を真似ただけの音。
ウェイクは立ち止まった。
少女の胸元から黒い根が伸び、心臓へ食い込んでいる。帰還の力は、死んだ体を生かす代わりに、ルゥの記憶を燃料にしていた。
「止めて!」ニケクが叫ぶ。「このままじゃ、戻るのはルゥじゃない!」
碑文の文字が赤く変わった。
――選択の変更には、呼んだ者の命を要す。
ウェイクは読んだ。
ルゥの顔から、えくぼが消えかけていた。
「父さん」
声は弱かった。
「私、パンの味を覚えた。友だちの声も。ここで働いた日も。いま、それが消えてる」
ウェイクは娘の生きた体と、消えかけた魂を見比べた。
「私は、君を救うために」
「じゃあ、私が選んだ私を救って」
長い間、医師は動かなかった。
やがて、銀の手袋を外した。
その手は薬焼けで黒く、無数の縫い傷があった。
「君が初めて歩いた日、私は手を放せなかった」
ウェイクは笑った。ひどく下手な笑いだった。
「十年経っても、同じ間違いをしている」
彼は「帰還」のレバーを戻し、「航行」を倒した。
青い光が彼の体を貫いた。
空っぽの肉体は静かに床へ降り、灰になった。ルゥを引く糸が切れる。ウェイクの髪が、皮膚が、外套が、光の粒へほどけていく。
「先生!」ロクが叫んだ。
ウェイクは消えかけた手で、ルゥの頬に触れた。
今度は、彼女は逃げなかった。
「行き先を決めたら、地図を送ってくれ」
「死者に郵便は届く?」
「優秀な配達人を知っている」
ロクが胸を叩き、胸板を落とした。
ルゥは泣きながら笑った。
ウェイクの姿は青い光になり、月喰い号の心臓へ吸い込まれた。
次の瞬間、船全体が目を覚ました。
六
死者の道で過ぎた一夜は、生者の空では三日だった。
釘浜では、三日目の日没が迫っていた。
黒い制服の役人たちが、巨大な切断鋏を鎖へ取りつけた。住民は島の上面へ避難させられ、町長は最後まで赤い告示板へしがみついていた。
「規則です」と役人は言った。「日没と同時に切る」
太陽が雲へ触れた。
鋏の歯が閉じる。
そのとき、雲の底から、鯨の歌が響いた。
空が割れた。
巨大な白い頭蓋が、雲を突き破って現れた。肋骨の帆柱、夜空の帆、歯の間に月をくわえた船首。
月喰い号は釘浜の真下へ滑り込み、町を丸ごと背中で受け止めた。
鎖が切れた。
だが釘浜は落ちなかった。
家々の煙突から魚が舞い上がり、吊り橋が鐘のように鳴る。港町は月喰い号に乗り、浮島ベルカの腹からゆっくり離れた。
操舵室では、ニケクが祖父の地図を舵輪へ広げていた。
「行き先は?」ツザエが訊く。
地図には、もう銀の線がなかった。
代わりに、真っ白な空白が広がっていた。
ニケクは笑った。
「これから描く」
ポッケは船王ナブラの厨房を発見し、百年前の缶詰と戦っていた。ロクは船首に立ち、釘浜の住民へ向かって帽子を振っている。帽子ごと頭が飛び、慌てて追いかけた。
ルゥは甲板の端にいた。
終点館から迎えの棺舟が近づいてくる。櫂を持つギルゼア女将が、六枚の羽を不機嫌そうに畳んでいた。
「無断欠勤。皿三十二枚破損。悪夢一鍋盗み食い」
「戻ったら働きます」
「戻るのかい?」
ルゥは月喰い号を見渡した。釘浜の子どもたちが甲板へ駆け出し、大人たちが泣きながら家を確かめ、パン屋の煙突から最初の煙が上がる。
「まだ決めてない」
それからニケクへ、小さな赤い名札を投げた。
リュシア、と書かれている。
「預かってて。次に会ったとき、返して」
「ルゥじゃなくていいの?」
「どっちも私。たぶん」
「たぶん?」
「たぶんがあるほうが、冒険っぽいでしょ」
ルゥは棺舟へ飛び乗った。
舟が黒い川の裂け目へ消える直前、ロクが叫んだ。
「お嬢さん! 先生への地図は私が配達します!」
ルゥは大きく手を振った。
夜になった。
月喰い号は、誰のものでもない空へ帆を張った。
役人たちは遠ざかる町を見て、規則集を最初の頁からめくり直した。移動する港町に鎖税をかける条文は、どこにもなかった。
釘浜の広場では、赤い告示板が焚き火にくべられた。
町長が演説を始め、誰も聞かなかった。ツザエは船の機関室へ潜り、ポッケは百年前の缶詰に勝利し、ニケクは祖父の真鍮の耳を舵輪に取りつけた。
耳は風の声を聞き、かすかに震えた。
新しい航路が、真っ白な地図の上へ銀色に伸びていく。
その先には、まだ名前のない島々があった。
そして雲の向こうから、朝の魚が降り始めていた。
了