月を噛む九十九折荘

【起床票・第零号】

一、あなたは自分の意思で目を覚ましましたか。

 [ ]はい [ ]いいえ [○]先に影が起きた

二、あなたの氏名を記入してください。

 ナギ。姓は忘れた。

三、昨夜、月を噛みましたか。

 噛んでいない。たぶん。

四、三の回答は真実ですか。

 その質問をした人間から先に噛む。

五、現在この文章を読んでいるのは、あなたですか。

 ――ここで筆跡が乱れ、紙面の右下が半月形に欠損している。

一 白い部屋には出口が多すぎる

 ナギが目を覚ましたとき、最初に聞こえたのは鐘だった。

 ゴン。

 一つ。

 ゴン。

 二つ。

 十二まで数えたところで鐘はやみ、十三打目だけが頭蓋骨の内側で鳴った。

 目を開くと、白い天井があった。白い壁、白い床、白い寝台。窓は黒く、扉には取っ手が七つ付いていた。どれが本物かは、目覚めたばかりの人間に対する嫌がらせとしか思えない。

 寝台の脇には、丸眼鏡の男が立っていた。白衣も髪も眉も白い。ただし靴だけが赤かった。

「お目覚めですな、被検者十三号」

「ナギだ」

「それは仮称です」

「じゃあ、あんたは仮に赤靴と呼ぶ」

 男は咳払いをした。

「私は覚醒衛生院の記録官、セツと申します。あなたの安全のため、簡単な検査を行います。痛みはありません」

 寝台の下で、何かが笑った。

 ナギの影だった。

 照明は真上にあるのに、影は寝台の下から細長く這い出し、白い歯を並べてセツを見上げた。影に歯があること自体おかしいが、その歯が欠伸をするのはさらにおかしい。

「痛くない、ね」

 ナギが言うと、影は床を走り、検査台の角をひと噛みした。

 がぶり。

 厚い鉄板が豆腐のように欠けた。

 セツの丸眼鏡がずれた。

「……多少の圧迫感はあります」

 影は満足そうに喉を鳴らした。嘘を食べたのだ、とナギにはなぜかわかった。

 彼女は自分のことをほとんど覚えていなかった。名前。たぶん二十歳前後であること。右拳より左拳のほうが少し速いこと。甘い豆を煮た匂いが嫌いなこと。それから、自分の影が嘘を食べること。

 それだけだった。

「昨夜、環楼都市ネムルの月に、巨大な歯形が発見されました」

 セツは慎重に言った。

「現場に残された咬合痕と、あなたの影の歯並びが一致しています」

「月に歯形?」

「南東の縁が三分ほど欠けました」

「月って食べられるのか」

「そこから疑いますか」

「味から疑うよりは学術的だろ」

 セツは書類をめくった。

「あなたは危険です。しかし当院は、危険な方を閉じ込める施設ではありません。正しく目覚めていただくための施設です」

 影がまた口を開けた。

「閉じ込めない?」

「ええ」

 がぶり。

 今度は扉の下半分が消えた。

 ナギは寝台から降りた。裸足だったが、床は妙に温かい。まるで大きな生き物の腹の上を歩いているようだった。

「帰る」

「どちらへ?」

「思い出したら教える」

 七つの取っ手のうち、一番汚れているものを回した。扉は天井へ開き、向こう側には青空があった。

 ナギは一歩踏み出し、空へ落ちた。

 悲鳴を上げる暇はなかった。

 三秒後、彼女は洗濯籠に頭から突っ込んだ。

二 九十九折荘では家賃が真実より重い

 洗濯籠は、曲がりくねった路地の真ん中に置かれていた。

 環楼都市ネムルは、どこを見ても曲がっていた。家は互いの肩にもたれ、煙突は空で結び目を作り、石畳は酔っ払いの筆跡のように右へ左へ蛇行している。遠くの高塔だけが一本、針のようにまっすぐ立ち、その先に銀色の月が引っかかっていた。

 月の右下には、確かに歯形があった。

「見事な落ち方だねえ」

 声をかけたのは、洗濯籠の持ち主だった。

 小柄な老婆で、紫の上着に金色の腹巻き、頭には鍵を何十本も簪のように挿している。片手に帳面、もう片手に湯気の立つ茶碗を持っていた。

「死人なら埋葬料、生きてるなら洗濯代。どっちだい」

「たぶん生きてる」

「たぶんは一割増しだ」

 老婆は帳面を開いた。

「名前」

「ナギ」

「職業」

「逃亡中」

「安定した職だね。最近は誰も彼も何かから逃げてる」

 老婆はナギの背後を見た。影は洗濯籠の底から這い出し、濡れた靴下を嫌そうに吐き出している。

「そいつは?」

「影」

「犬は家賃半分、猫は四分の一、影は初めてだ。食事は?」

「嘘」

「この町じゃ食べ放題だね」

 老婆は即座に帳面へ何か書き込んだ。

「九十九折荘の大家、オモトだ。空き部屋がある」

 路地の奥に、建物があった。

 九十九折荘は、誰かが十二軒の家を泥酔しながら積み上げ、翌朝になって反省を放棄したような長屋だった。二階の廊下は途中で三階になり、三階の窓から一階の共同便所へ梯子が延びている。門には『満室』の札が出ていた。

 ナギの影が札をひと噛みした。

「空き部屋、あるんだろ」

「満室のほうが景気がいい」

 影は二口目を食べようとしたが、オモトが帳面でその鼻先を叩いた。

「商売上の愛嬌まで食うんじゃないよ」

 部屋は十三号室だった。

「十二号室までしか見えないけど」

「十三号室は、必要な者にしか見えない」

「便利な説明だな」

「便利だから家賃が高い」

 オモトが壁を蹴ると、十二号室と共同台所の間に細い扉が現れた。中は六畳ほど。寝台、机、丸い窓。窓の外には、さっきまで反対側にあったはずの月が見えた。

「前金三日分」

「金がない」

「じゃあ働きな。明日の朝、定規会が立ち退きに来る。あいつらを追い返したら一日分まける」

「一日だけ?」

「成功報酬を先に値切る奴は長生きする」

 共同台所では、住人たちが夕食をとっていた。

 麺屋のホウは、樽のような肩をした大男で、眠そうな目のまま一本の麺を延々とすすっていた。洗濯屋のスイレンは背が高く、指が針のように細い。靴直しのコルクは小さく丸く、椅子から落ちるほど深く頭を下げた。

 ほかに、十歳ほどの少年レティアがいた。彼だけは何の店も持たず、町中の噂を運んで小銭を稼いでいるらしい。

「月を噛んだ人だ!」

 レティアはナギを見るなり叫んだ。

「噛んでない」

 影が、ナギの踵を軽く噛んだ。

「痛っ」

「自分の嘘も食うんだねえ」

 オモトが笑った。

 ホウは麺をすすりながら言った。

「月は硬かったか」

「知らない」

 影は動かない。

 これは本当らしい。

 スイレンが濡れた布をナギへ投げた。

「顔を拭きな。覚醒院の匂いがする」

「知ってるのか」

「昔、夫が連れていかれた」

 彼女はそれだけ言って、物干し竿に視線を戻した。影は動かなかった。

 コルクが小声で付け足した。

「この町じゃ、正しく目覚めるっていうのは、役所の言う夢を見ることです」

 影の歯が、かちりと鳴った。

 真実なのか、嘘なのか、腹を決めかねた音だった。

 夕食は、ホウの麺だった。汁は薄く、麺は異様に長く、一本食べ終えるころには自分が何を悩んでいたか少し忘れる。

 食後、レティアが紙で作った月を見せた。右下に、ぎざぎざの歯形が描いてある。

「町じゃもう英雄だよ。月は覚醒院の監視灯だって噂だから」

「別の噂は?」

「月は巨大な獣の目玉。町は獣のまぶたの裏にある」

「ほかは」

「月は本物で、町のほうが偽物」

「どれが本当だ」

 レティアは肩をすくめた。

「本当の噂は、噂屋には値打ちがないよ」

 その夜、ナギは十三号室の寝台に横たわった。

 眠りかけたころ、壁の中から声がした。

 ――起きろ。

 男の声だった。

 ――おまえはまだ眠っている。

 ナギの影が床いっぱいに広がり、壁へ口を開いた。

 しかし噛まなかった。

 声が嘘ではないのか、それとも、影にも食えない種類の嘘なのか。

 どちらにせよ、眠れる気はしなかった。

三 三つの履歴書は全部本人が書いた

 夜半、十三号室の丸窓が勝手に開いた。

 風は入ってこなかった。代わりに、折り畳まれた紙が一枚、ひらひらと机へ落ちた。

 紙には、ナギと同じ筆跡でこう書いてあった。

『最初に、おまえが誰であるかを教える者を信じるな』

 その下に矢印があり、机の裏を指していた。

 机をひっくり返すと、底板に小さな鍵穴があった。ナギの首には、いつからそこにあったのか、真鍮の鍵が下がっていた。短く太く、先端が犬歯の形をしている。

 鍵を差し込む。

 机の底から、三冊の薄い冊子が落ちた。

 一冊目の表紙には『軍務記録』。

 二冊目には『診療記録』。

 三冊目には『舞台台本』。

 どれもナギ自身の署名があった。

 軍務記録によれば、彼女は北方小国アガルタの王女ナギアであり、滅亡寸前の祖国を救うため、星喰い獣の幼生を脊椎へ宿した戦士だった。変身のたびに記憶を失い、最後には敵味方三万人を踏み潰した、とある。

 診療記録によれば、彼女は天文台放火事件の唯一の生存者、渚木ナギ。罪悪感から、町も長屋も獣も作り出した長期昏睡患者であり、覚醒衛生院は彼女の治療者だという。

 舞台台本によれば、彼女は名もない替え玉役者。『月を噛む王女』という人気芝居の主演が逃げたため、記憶を消す薬を飲まされ、本物らしく振る舞わされている。観客は空の向こうにいる、と書かれていた。

 三冊とも細部まで精密だった。

 幼い日に飼っていた青い鳥の名。放火の夜に嗅いだ油の臭い。舞台袖で足首を捻った痛み。

 読めば読むほど、どの人生も自分のものに思えた。

 ナギは冊子を閉じた。

「ふざけるな」

 影が三冊へ近づいた。

 まず軍務記録を噛んだ。表紙の半分が消えた。

 次に診療記録も噛んだ。

 舞台台本も噛んだ。

「全部、嘘か」

 影は腹を膨らませ、げっぷをした。

 だが三冊は完全には消えなかった。食い残された文が、床にばらばらと散った。

『祖国を救うため』

『唯一の生存者』

『観客は空の向こう』

 嘘の中に真実が混じっているのか。真実の形をした嘘なのか。

 壁の向こうから、また声がした。

 ――ナギ。鐘が鳴る前に、こちらへ来い。

「誰だ」

 ――君を目覚めさせる者だ。

 影は壁へ飛びかかった。

 がぶり。

 漆喰が円形に抜けた。

 向こう側は隣室ではなかった。

 白い廊下だった。

 廊下の奥に、黒い礼服の男が立っていた。長身で、顔の右半分を銀の仮面で覆っている。胸には覚醒衛生院の紋章――閉じた目に一本の縦線――が光っていた。

「初めまして、ナギ」

 男は一礼した。

「覚醒総監、白峯だ。君の主治官でもある」

「最初に私が誰か教える奴を信じるなって、私が書いてた」

「賢明だ。だから私は、君が何者かを教えに来たのではない」

 白峯は微笑んだ。

「君以外の全員が何者かを教えに来た」

 九十九折荘を指差す。

「彼らは、君が殺した人々の記憶だ」

 床の影が、ゆっくり口を開いた。

 しかし、噛まなかった。

四 定規会は曲がった玄関から入れない

 翌朝、定規会が来た。

 そろいの灰色服、そろいの角刈り、そろいの四角い鞄。総勢四十人。歩幅まで同じで、路地の曲がり角へ来るたび列の後ろが前へ衝突した。

 先頭の男だけは、身の丈ほどある鉄製の定規を背負っていた。名をガンゾという。

「九十九折荘に告ぐ!」

 ガンゾは玄関前で書面を広げた。

「当該建造物は曲率過多、傾斜過剰、間取り不健全につき、覚醒都市整備令第八百八条に基づき、本日正午をもって直線化する!」

「直線化って何だ」

 ナギが訊いた。

「潰して平らにすることさ」

 オモトが茶をすすった。

「家賃の滞納者ごとね」

「私は昨日来たばかりだぞ」

「昨日分が滞納してる」

 ガンゾが鉄定規で門を叩いた。

「住人は直ちに退去せよ。抵抗は曲がった思想の証明とみなし、矯正する!」

 ナギは玄関から出た。

 背後でレティアが囁いた。

「月を噛んだって言えば逃げるかも」

「噛んでない」

 影がまた踵を噛んだ。

 ガンゾが目を細めた。

「その影……貴様、昨夜の月蝕犯か」

 四十人が一斉に半歩退いた。

 ナギは考えた。ここで恐ろしい怪物を演じれば、戦わずに済む。戦わずに済めば、家賃が一日分浮く。きわめて合理的だった。

「そうだ」

 彼女は腕を組んだ。

「私が月を三口で食べた。昨夜は腹八分でやめておいたが、今朝は角刈りが食べたい気分だ」

 影が歓喜した。

 嘘が大きすぎた。

 黒い口が路地いっぱいに広がり、家々の壁を舐め、歯が屋根より高く伸びた。定規会の四十人は悲鳴を上げ、互いを踏み越えて逃げようとした。

「止まれ!」

 ガンゾが鉄定規を地面へ突き立てる。

「直線剛法・一寸千貫!」

 定規が光り、路地を一本の白線が走った。白線に触れた石畳も壁も洗濯物も、強制的にまっすぐ伸ばされていく。

 曲がった路地が悲鳴を上げた。

 影の口も左右から引かれ、薄い帯のようになった。

 ナギは影とつながった腹の奥を締め上げられ、膝をついた。

「ほら見ろ!」ガンゾが笑った。「どんな化け物も、正しい線の上ではただの染みだ!」

 そのとき、ホウが共同台所から出てきた。

 両手には、朝の仕込み途中の麺生地がある。

「玄関先で騒ぐな。麺が驚く」

「住人は下がれ!」

 定規会の一人が棍棒を振り上げた。

 ホウは生地を軽く引いた。

 一本だった麺が十本に、十本が百本に分かれた。白い糸の群れが風を切り、棍棒を絡め取り、四十人の足首を一つに結んだ。

「捏ね手・百八絡み」

 ホウが手首を返す。

 四十人が巨大な団子のように宙へ浮き、路地の端へ転がった。

 スイレンは二階の物干し台から溜息をついた。

「泥靴で洗濯物に触るんじゃないよ」

 彼女が指を鳴らすと、張り巡らされた物干し縄が生きた蛇のように動いた。濡れた敷布が帆となり、風を孕み、ガンゾの白線を持ち上げる。まっすぐだった線は空でたわみ、結び目を作り、定規会の団子をぐるぐる巻きにした。

「晒し布・九天包み」

 ガンゾだけが鉄定規を盾にして耐えた。

「隠れ武術家だと!」

「隠してないよ」

 スイレンは言った。

「あんたらが洗濯屋を見ても、洗濯物しか見ないだけさ」

 ガンゾが怒鳴り、鉄定規を横薙ぎにした。

 ナギの首を狙った一撃だった。

 しかし、その直前、彼の右靴の踵が外れた。

 身体が半回転し、定規は自分の部下をまとめて叩き飛ばした。

 靴直しのコルクが、玄関脇で釘を一本つまんでいた。

「昨夜、皆さんの靴底を見まして」

 申し訳なさそうに言う。

「今朝ここで踏み込めば、ちょうど外れるよう直しておきました」

「それは直したと言わん!」

「未来を直しました」

 ガンゾは最後の力で鉄定規を持ち上げた。

 その前にオモトが立つ。

「婆さん、どけ!」

「うちの玄関を三回叩いたね」

 オモトは帳面を開いた。

「一回につき修繕費銀貨二枚。威嚇料、騒音料、早朝割増。利息は一呼吸ごとに三分」

「何の話だ!」

「返してもらう話さ」

 ガンゾの鉄定規が振り下ろされた。

 オモトは片手で受けた。

 小柄な身体が一寸も沈まない。

「家主拳・敷金返還掌」

 次の瞬間、鉄定規の一撃が、威力を三倍にしてガンゾ自身へ返った。

 彼は路地を、門を、向かいの豆腐屋を突き抜け、遠くの鐘楼に人型の穴を開けた。

 定規会は撤退した。

 正午まで、あと七分だった。

「追い返したぞ」

 ナギは地面に座り込んだまま言った。

「私、何もしてないけど」

「客を呼んだ」

 オモトは帳面に印をつけた。

「呼び込み料を引いて、家賃半日分まけとく」

「一日分って言っただろ」

「成功報酬を先に値切らなかったあんたが悪い」

 ナギは反論しようとした。

 だが、白峯の言葉が胸の奥に残っていた。

 彼らは、君が殺した人々の記憶だ。

 ホウも、スイレンも、コルクも、オモトも。

 実在しないのかもしれない。

 そう思った瞬間、ホウがナギの頭に麺生地を乗せた。

「考えすぎると発酵する」

「何が」

「脳が」

 スイレンが布で生地を叩き落とした。

「その前に頭を洗いな」

 コルクは壊れた彼女の靴を黙って縫い始めた。

 実在するかどうかはわからない。

 だが麺生地は冷たく、布は痛く、針の音は小さかった。

 その感触だけは、三冊の履歴書より確かだった。

五 正しい目覚めはたいてい大音量で来る

 日が沈むころ、空の月が大きくなった。

 近づいているのだ、と誰かが言った。

 いや、町が月へ近づいているのだ、と別の誰かが言った。

 九十九折荘の屋根に立つと、歯形の一つ一つまで見えた。銀色の表面には細かな文字がびっしり刻まれている。

 ナギが目を凝らすと、それは町の住民の名前だった。

 自分の名もある。

 ナギ――十三号――未覚醒。

 背後で靴音がした。

 白峯総監が屋根の棟を歩いてきた。傾斜しているのに、彼の身体だけは垂直だった。

「定規会は前座だ」

 彼は月を見上げた。

「今夜十三時、覚醒鐘を鳴らす。町は消え、君は現実へ戻る」

「十三時なんてない」

「目覚める時計にはある」

「住人たちはどうなる」

「記憶は本来の場所へ還る。死者は死者へ。妄想は無へ」

「私が殺したのか」

 白峯はすぐには答えなかった。

 その沈黙を、影は食べられない。

「君の中には、星喰い獣ヴォルグの夢核がある」

 白峯は言った。

「かつて北方戦役で、君はその力を解放した。敵軍も、味方の城も、避難民も、一夜で踏み潰した。九十九折荘の住人は、その夜に死んだ者たちの断片だ。君が罪から逃げるため、自分の中へ建てた避難所なのだよ」

 軍務記録の頁が頭に蘇った。

 王女。獣。滅びた国。

「証拠は」

「君の影だ」

 白峯が指を鳴らす。

 影が屋根から盛り上がった。

 黒い毛。角。無数の歯。背中には街路のような筋が走り、その一本一本に、泣き叫ぶ人影が見えた。

 ナギは吐き気を覚えた。

「やめろ」

「見なさい。君が食べた者たちだ」

 影の腹の中で、三万人が拳を上げた。

 声は聞こえない。

 だが皆、ナギを責めているように見えた。

「目覚めれば、罪を償える」

 白峯は手を差し出した。

「夢を終わらせるのだ。偽物の住人に縋るのをやめ、現実の責任を引き受けなさい」

 正しい言葉だった。

 あまりに正しく、まっすぐで、逃げ場がなかった。

 影は噛まない。

 ナギが手を伸ばしかけた、そのとき。

 屋根瓦が一枚、白峯の後頭部へ飛んできた。

 彼は首を傾けて避けた。

 オモトが煙突の陰から現れた。

「人の店子を、家賃も払わず連れていくんじゃないよ」

「あなたは記憶だ」

 白峯は冷ややかに言った。

「だから何だい」

「実在しない」

「実在しない私に瓦をぶつけられた感想は?」

 白峯の仮面の端に、ひびが入っていた。

 オモトはナギの横へ来た。

「こいつの話を全部嘘だとは言わないよ」

「否定しないのか」

「昔のことなんざ、年寄りほど都合よく覚えてる。私が死者の記憶かもしれない。あんたの夢かもしれない。誰かが書いた端役かもしれない」

 オモトは帳面でナギの胸を小突いた。

「でも今日、あんたはうちで麺を食べた。明日の家賃をまだ払ってない。それで十分だ」

「十分なわけあるか」

「十分かどうか決めるのは、総監じゃない」

 白峯の銀仮面が、月明かりを反射した。

「情緒的な詭弁だ」

「家主拳では、詭弁も家財だよ」

 町中の鐘が、一斉に鳴った。

 ゴン。

 一打目。

 まだ十三時ではない。にもかかわらず、空に一本の亀裂が走った。

 白峯が両腕を広げる。

「では、予定を早めよう」

 路地という路地から、灰色服の兵が現れた。定規会の残党だけではない。覚醒衛生院の白衣、仮面の執行官、巨大な判子を担ぐ僧兵。建物の屋根には、黒い鐘が運び上げられている。

 鐘の表面には一語だけ刻まれていた。

『現実』

「全員、起床せよ」

 白峯が命じた。

六 長屋武術は生活費から生まれる

 二打目が鳴った。

 九十九折荘の窓が一斉に開いた。

 住人たちが顔を出す。

「家賃を払った者は残りな!」

 オモトが叫んだ。

「払ってない者は?」とナギ。

「戦って稼げ!」

 覚醒兵が路地へなだれ込んだ。

 先頭の僧兵が巨大な判子を振り下ろす。石畳に赤い文字が焼き付いた。

『臆病者』

 文字を踏んだホウの身体が震え出した。

 判子僧兵が笑う。

「定義印から逃れる者なし! 名付けられたものは、その名のとおりになる!」

 ホウは歯を鳴らしながら、麺生地を掴んだ。

「怖い」

 彼は正直に言った。

 影は動かない。

「怖いから、手がよく震える」

 震える指から、細さの違う麺が千本生まれた。太い麺、細い麺、波打つ麺。予測不能の軌道で僧兵たちの手足を巻き上げる。

「震手・千条麺雨!」

 僧兵が空を舞った。

 三打目。

 スイレンの足元に『役立たず』の印が押された。

 彼女の物干し竿が力を失い、洗濯物がばさばさ落ちた。

「役立たずの布など捨てろ!」

「そうだね」

 スイレンは穴の空いた靴下、破れた敷布、片袖だけの上着をまとめて空へ投げた。

「だから、好きに使える」

 役に立たない布は、役目に縛られない。

 靴下は石を包む投石器になり、敷布は風を受ける翼になり、片袖は敵の目を塞ぐ蛇になった。空一面を古着が飛び回り、覚醒兵を屋根から叩き落とした。

「古布・万象更生」

 四打目。

 コルクには『弱者』の印。

 小さな身体がさらに縮み、兵士たちの膝より低くなる。

「踏み潰せ!」

 十人が一斉に踏み込んだ。

 だが、コルクはもうそこにいない。

 彼は敵の靴底を一目見ただけで、次の一歩がどこへ落ちるか知っていた。弱いから正面に立たない。小さいから視界に入らない。彼が通り過ぎた後、兵士たちの靴紐は互いに結ばれ、十人まとめて前転した。

「小足・七歩先縫い」

 五打目。

 オモトには『老朽』の印。

 白髪が増え、背が曲がり、杖なしでは立てないほど老いた。

 白峯が屋根の上から見下ろす。

「古いものは消えなさい」

 オモトは杖で地面を叩いた。

「古い借金ほど、利息がつくんだよ」

 彼女へ向けて放たれた百本の矢が、空中でぴたりと止まった。

 一本につき一年分の利息。

 百本は千本となって射手へ返った。矢は服だけを縫い止め、兵士たちを壁一面の洗濯物にした。

「家主拳・延滞利息千倍返し」

 六打目。

 九十九折荘そのものに『不要建造物』の印が押された。

 柱が透け、壁が崩れ始める。

 住人たちの輪郭も薄くなった。

 レティアがナギの袖を掴んだ。

「僕ら、消えるの?」

 ナギは答えられなかった。

 白峯は屋根から降り、路地の中央へ立った。手には人の背丈ほどある白い判子を持っている。

「君だけが終わらせられる」

 ナギの額へ、判子を押す。

『怪物』

 熱が頭蓋骨を貫いた。

 影が膨れ上がる。

 屋根を押しのけ、塔を呑み込み、黒い獣の頭となって月へ届いた。角は雲を裂き、歯は城門ほどもある。

 白峯は二つ目の印を押した。

『殺人者』

 影の腹で、三万人が泣いた。

 三つ目。

『偽物』

 ナギの手が透けた。

 四つ目。

『夢』

 町全体が揺らいだ。

 七打目。

 住人たちの顔が、知らない死者の顔へ変わる。ホウの顔も、スイレンも、コルクも、オモトも。血に濡れ、泥にまみれ、ナギを見上げている。

「見なさい」

 白峯の声が鐘と重なった。

「これが君の真実だ」

 ナギは膝をついた。

 影の獣が口を開く。

 空の月を噛み砕くために。

 レティアだけが、彼女の袖を離さなかった。

「ナギ」

「離れろ。私は――」

「何?」

 怪物。

 殺人者。

 偽物。

 夢。

 どれを口にしても、影は喜んで食うだろう。

 それらは嘘なのかもしれない。

 それらは全部、本当なのかもしれない。

 八打目。

 ナギはレティアを突き飛ばした。

 次の瞬間、影の口が彼女自身を呑み込んだ。

七 月の裏側には真相保管庫がある

 落ちていく。

 黒い喉の中を、ナギはどこまでも落ちた。

 九打目の鐘が遠く鳴った。

 着地した場所は、白い廊下だった。

 最初に目覚めた部屋と同じ白。左右に無数の扉が並び、それぞれ札が下がっている。

『王女』

『患者』

『役者』

『兵器』

『孤児』

『加害者』

『被害者』

『獣』

『人間』

『読者』

 最後の札だけは裏返っていた。

 廊下の中央に、ナギの影が座っていた。

 今は子犬ほどの大きさで、角もなく、歯だけがやけに立派だった。

「おまえ、何者なんだ」

 影は首を傾げた。

「私が殺した人間を食べたのか」

 影は答えない。

「白峯は本当のことを言ってるのか」

 影は大欠伸をした。

 ナギは『王女』の扉を開けた。

 向こうには燃える城があった。幼いナギが王冠を投げ捨て、巨大な獣の背へ剣を突き立てている。兵士たちが歓声を上げる。次の瞬間、獣の足が彼らを押し潰した。

 扉を閉める。

『患者』を開ける。

 白い寝台。窓の外に焼けた天文台。両親らしい男女が布をかけられ運ばれていく。若いナギが泣きながら、壁に曲がった町を描いている。

『役者』を開ける。

 舞台。客席には顔のない観客。ナギが獣の着ぐるみを着せられ、台本にない台詞を叫ぶ。監督が「最初から」と鐘を鳴らす。

『兵器』。

 鉄の棺。身体に何百本もの管。

『孤児』。

 九十九折荘の門前。オモトが幼い彼女に茶を差し出す。

 どの部屋にも、肌でわかるほど本物の匂いがあった。

 煙。薬。埃。古い布。麺の湯気。

 十打目。

「全部、本当なのか」

 影は床へ鼻をつけた。

「全部、嘘なのか」

 影は尻尾を振った。

 そのときナギは気づいた。

 影は、嘘を見抜いているのではない。

 嘘を食べているだけだ。

 誰かが嘘だと思って口にしたもの。信じ切れずに差し出したもの。自分を守るため、他人を縛るため、形を整えた言葉。

 影はそれを食べる。

 だが真実を教えてはくれない。

「おまえも知らないんだな」

 影は初めて、こくりと頷いた。

 十一打目。

 廊下の奥から白峯が現れた。

「だからこそ、私が必要なのだ」

 彼は銀の仮面を外した。

 その下に顔はなかった。

 白い紙が一枚貼られ、中央に『主治官』と印刷されている。

「人は、自分が何者かを知らずには生きられない。王女か、患者か、兵器か。正しい札を一つ選び、それ以外を捨てるのだ」

「選んだ札が間違ってたら?」

「正しくなるまで矯正する」

「誰にとって?」

「現実にとって」

 白峯は裏返った最後の札を指した。

「そこに真相がある」

 ナギは扉へ近づいた。

 首の真鍮鍵が熱くなる。

 扉の札を返す。

『空室』

 鍵穴は、犬歯の形をしていた。

「開けなさい」

 白峯の声が震えた。

「君が何者だったのか、すべてわかる」

 十二打目。

 外から、かすかな音が届いた。

 どん。

 鐘ではない。

 誰かが影の腹を殴っている。

 どん。どん。どん。

 ホウの太い拳。スイレンの物干し竿。コルクの小さな金槌。オモトの帳面。たぶんレティアの頭突きも混じっている。

 声も聞こえた。

「家賃を払え!」

 オモトだった。

 ナギは笑った。

 真相の扉の前で、腹を抱えて笑った。

「何がおかしい」

「私が王女でも患者でも怪物でも、あの婆さんは家賃を取る」

「それは偽物の反応だ」

「今日の私には本物だ」

 ナギは鍵を抜いた。

 そして扉を開ける代わりに、鍵穴へ逆向きに差し込んだ。

「何をする!」

「閉める」

「真実を知りたくないのか!」

「知りたいさ」

 ナギは鍵を回した。

「だから、あんたに一つへ決められるのは御免だ」

 空室の扉が、内側から封じられた。

 廊下中の扉が震える。

 王女も、患者も、役者も、獣も、人間も、札が外れて床へ落ちた。

 白峯の紙の顔から『主治官』の文字が剥がれた。

「札がなければ、君は何者でもない!」

「今から決める」

 ナギは真鍮鍵を影へ投げた。

 影はぱくりと飲み込んだ。

 歯の一本が金色に光る。

「まずは――九十九折荘の十三号室だ」

 十三打目が、頭蓋骨の内側で鳴った。

 影が白峯へ飛びかかった。

 彼の白い身体は、無数の書類へほどけた。診断、軍歴、戸籍、判決、台本、死亡届。人を一語へ押し込めるための紙が、黒い口へ次々吸い込まれる。

 白峯は最後まで叫んだ。

「君は何者だ!」

 ナギは答えなかった。

 答えは名札ではなく、次の一歩で示すことにした。

八 曲がり角の拳は到着するまで行き先を知らない

 ナギは影の口から飛び出した。

 町は崩壊寸前だった。

 空の月は半分まで獣の歯に挟まれ、覚醒鐘は十三打目の余韻を引きずっている。九十九折荘は透け、住人たちは今にも風へ消えそうだった。

 白峯も戻っていた。

 銀仮面は砕け、顔には何もない。彼は鐘楼の上で、巨大な撞木を振り上げている。

「最終打で、すべてを現実へ戻す!」

「現実ってのは、そんなに耳が遠いのか」

 ナギは立ち上がった。

 額の四つの印――怪物、殺人者、偽物、夢――はまだ残っている。

 だが文字の上へ、影が金色の歯で一つの印を噛みつけた。

『店子』

 それだけだった。

「ナギ!」

 ホウが麺の束を投げた。

 彼女は両手で受ける。

「力に逆らうな。まず捏ねろ!」

 スイレンが物干し縄を投げる。

「行き先がなけりゃ、風に決めさせな!」

 コルクが直した靴を滑らせた。

「踏む場所ではなく、踏んだ後を見てください!」

 最後にオモトが帳面を投げた。

「借りたものは返しな。利息をつけて!」

 白峯が撞木を振り下ろした。

 最終の鐘が鳴る。

 音は目に見えるほど白く、まっすぐな柱となって町を貫いた。触れた建物が紙になり、人々が文字になり、空が一枚の診断書へ変わっていく。

 ナギは白い音を両手で受けた。

 骨が軋む。

 逃げず、押し返さず、ホウのように捏ねる。

 直線だった音が、掌の中で柔らかな塊になる。

 スイレンの縄を振り、音の塊を結ぶ。

 風が縄をさらい、月の周りへ大きな輪を描く。

 コルクの靴で一歩踏む。

 鐘の響きが次に落ちる場所、その半歩先へ。

 白峯の背後に出た。

「そんな技は、どの流派にもない!」

「今、作った!」

 ナギは縄を引いた。

 白い音が九十九回折れ曲がり、町中の路地を巡る。麺屋の鍋を鳴らし、洗濯物を膨らませ、靴屋の釘を震わせ、各部屋の扉を叩く。

 借りた力が、町の一軒一軒から利息をつけて戻ってくる。

「寄せ集め我流――九十九折返し!」

 ナギの拳が白峯へ届いた。

 殴ったのは顔ではない。

 彼が立つ『正しい一本線』の、ほんの指一本ぶん横だった。

 足場を失った白峯は、まっすぐ落ちた。

 曲がることを知らない者は、落下の途中でも曲がれない。

 彼は覚醒鐘の中へ頭から突っ込み、鐘ごと塔を滑り落ち、定規会の本部へ飛び込んだ。

 白い音は空へ返った。

 利息は、月一個分。

 音が月へ衝突する。

 銀色の表面に亀裂が走った。

 月が割れた。

 その向こうに、巨大な金色の眼があった。

 町より大きな瞳。

 空だと思っていたものが、ゆっくり瞬きをする。

 レティアの噂どおり、環楼都市ネムルは、とてつもない獣のまぶたの裏にあるのかもしれなかった。

 あるいは、眠っている誰かの眼球の奥にあるのかもしれない。

 金の眼はナギを見た。

 ナギの影が、獣の形で立ち上がる。

 二つは似ていた。

 親子のようにも、鏡像のようにも、同じものの内側と外側のようにも見えた。

 声が、空全体から降ってきた。

 ――名を告げよ。

 それは命令ではなかった。

 問いだった。

 ナギは一瞬だけ迷った。

 王女ナギア。

 患者・渚木ナギ。

 替え玉役者。

 星喰い獣の核。

 どれも口元まで来て、消えた。

「九十九折荘十三号室、ナギ」

 彼女は答えた。

「職業は、いま探してる」

 金の眼が細くなった。

 笑ったのだ、とナギは思った。

 巨大なまぶたが閉じる。

 割れた月の破片が集まり、再び銀色の円を作った。右下の歯形だけは残った。

 町を覆っていた白い診断書が破れ、夜空へ舞う。

 九十九折荘に色が戻った。

 ホウの鍋から湯気が上がり、スイレンの布が風を孕み、コルクの釘が床へ落ちた。

 オモトは帳面の埃を払った。

「今ので屋根が三枚、壁が二面、月が一個」

「月まで私に請求する気か」

「破損箇所は破損箇所だ」

「助けただろ!」

「英雄割引で月は半額にしとく」

 ナギの影が、帳面へ噛みつこうとした。

 だが口を閉じた。

 どうやら本気らしい。

九 朝はいつも仮説として昇る

 覚醒衛生院は、その後三日間だけ閉鎖された。

 四日目には『睡眠文化保存局』と看板を掛け替え、何事もなかったように営業を再開した。定規会は『曲線安全協会』へ改称し、路地の曲がりすぎを測って回る仕事に就いた。ガンゾは鐘楼の穴から救出された後、鉄定規を捨て、柔らかい巻き尺の行商人になった。

 白峯総監の行方はわからない。

 町ではさまざまな噂が流れた。

 彼は現実へ目覚めた。

 月の裏で受付をしている。

 ナギの影に食われ、今では時々げっぷとして出てくる。

 どれもそれらしく、どれも決め手に欠けた。

 ナギは九十九折荘に残った。

 朝はホウの店で麺を運び、昼はスイレンの洗濯物を屋根へ上げ、夕方はコルクの使い走りをした。どの仕事も長続きしなかったが、喧嘩の仲裁だけは妙にうまかった。

 なにしろ、相手が吐いた嘘を影が食べる。

 ただし真実までは教えてくれないので、最後は自分で考えなければならない。

 それが商売になった。

 十三号室の扉には、新しい札が下がった。

『身の上相談・喧嘩仲裁・怪物応相談』

 料金の半分はオモトが持っていった。

「場所代」

「部屋代を払ってるだろ」

「部屋は場所じゃない。生き方だ」

「うまいこと言って二重取りするな」

 影がオモトの帳面へ鼻を近づけたが、やはり噛まなかった。

 ある朝、門前の洗濯籠へ一人の少女が落ちてきた。

 白い服。裸足。首には、鍵穴の形をした首飾り。

 少女は目を開き、怯えた声で言った。

「ここは、どこですか」

 ナギは洗濯籠の縁へ腰掛けた。

「九十九折荘」

「私は、誰ですか」

 少女の足元で、小さな影が身じろぎした。

 ナギは少し考え、手を差し出した。

「それは後で決めればいい」

 背後からオモトが帳面を突き出す。

「家賃は先だよ」

 少女は泣きそうな顔になった。

 ナギは笑った。

 空では朝の月が、まだ薄く残っていた。

 丸いまま。

 ただし右下に、誰かが笑ったような歯形を一つ残して。