『月喰み城と灰の子ら』

一 赤い印

 その町では、家が死ぬ前に赤い×印をつけられた。

 夜明け前、王都から来た測量兵たちは、ベルガの家々を黙々と歩き、煤けた扉に刷毛で印を描いていった。パン屋にも、共同浴場にも、三百年鳴っていない鐘楼にも。

 最後に、谷のいちばん高い崖へ張りつくように建った地図屋の扉へ、刷毛が近づいた。

「そこは、まだ生きてる」

 屋根の上から声がした。

 測量兵が見上げると、白い木の仮面をかぶった少年が、煙突に片足をかけていた。灰色の外套。細い手足。仮面には、笑っているとも泣いているともつかない線が一本だけ彫られている。

「降りろ、仮面小僧」

「印をつけるなら、せめて戸を叩いてからにしろ」

「正午までに未納の鉄税を納められなければ、町は王領へ接収される。命令だ」

 兵が刷毛を上げた瞬間、石ころが飛んできて、赤い塗料の壺へ落ちた。

 ばしゃり。

 兵の長靴が血まみれのように染まる。

「外した!」

 路地の向こうで、赤毛の少女が舌打ちした。鍛冶屋の娘チザレだった。肩には炉かき棒、腰には工具袋。彼女の横で、大柄な少年ドルが両手にパンを抱え、さらにその後ろで、薬草師見習いのセラが顔をしかめている。

「当てたらもっとまずいでしょ」とセラが言った。

「逃げろ!」

 四人は鐘楼裏の坂を転がるように駆け下りた。

 ベルガは、鉄雨谷の底に押しこまれた町だった。両側の崖から黒い水が糸のように落ち、屋根という屋根へ煤が積もっている。谷の奥には七つの溶鉱炉が並び、夜になると赤々と燃えて、町全体を巨大な獣の口の中のように照らした。

 だが今、火がついている炉は二つだけだ。

 森から切り出す炭は尽き、鉱山の坑道は崩れ、谷の上の〈眠り樹海〉では、木々が人間の斧を飲みこむようになった。三日前には、荷車隊が白い角を持つ獣に襲われた。生き残った者は、森そのものが立ち上がった、と言った。

 王都の監督官ヴォランは、町の広場へ布告を掲げた。

 ――本日正午までに鉄税を納めよ。叶わぬ場合、住民を退去させ、森を焼き、新坑道を開く。

「正午って、あと六時間しかないぞ」

 パンをくわえたまま、ドルが言った。

「だからって測量兵に石を投げる?」セラが息を切らせる。「町を救う前に牢屋行きよ」

「町がなくなれば牢屋もなくなる」

 チザレは胸を張った。

「それ、賢いこと言った顔で言わないほうがいい」とドル。

 クオンだけは黙っていた。

 仮面の奥で、彼は鐘楼を振り返っていた。

 三百年鳴っていないはずの大鐘が、ごうん、と低く震えた気がしたのだ。

 耳ではなく、骨の内側で。

二 鐘の中の地図

 地図屋の老人キュベルは、四人を裏口から入れるなり、チザレの耳をつまんだ。

「王都の兵へ石を投げるなと何度言えばわかる」

「七回」

「八回目だ!」

 店の中は、巻いた地図と測量器具で足の踏み場もない。壁には、ベルガ周辺の古い地形図が何十枚も重なっていた。森が今より小さかった頃のもの。谷に川が流れていた頃のもの。月喰み王国が滅びる前の、文字すら読めないもの。

 クオンはキュベルに拾われ、ここで育った。

 町の者は、彼が幼い頃に火傷を負ったのだと思っている。だから仮面をかぶり、昼間はあまり外へ出ず、地図屋の屋根裏で暮らしているのだと。

 キュベルは、それを否定しなかった。

「じいさん」クオンが言った。「鐘が鳴った」

 老人の手が止まった。

「風だ」

「谷に風はない」

「なら古い金具が軋んだ」

「石のほうから聞こえた」

 キュベルはしばらくクオンを見つめた。片目は白く濁り、もう片方はいつも眠そうに細い。

「聞こえても、返事をするな」

「何に?」

 老人は答えなかった。

 そのとき表の戸が叩かれた。

「監督官の命により、建物を調査する!」

 キュベルが舌打ちし、表へ向かう。チザレはすぐに窓を指した。

「鐘楼へ行く」

「今?」とセラ。

「今だからよ。大人はみんな広場に集められてる」

「おれ、パンを置いてくる」

「持っていけ。冒険には食料がいる」

「冒険なの?」

「今、決めた」

 四人は屋根裏窓から外へ出た。

 鐘楼は地図屋と同じ崖棚に立っている。石造りの階段は途中で崩れ、上へ行くには外壁の排水管を登らなければならない。チザレが先頭、ドルがその後ろ、セラがぶつぶつ祈り、クオンは最後に続いた。

 鐘室には、町より古い青銅の鐘が吊られていた。

 ひび割れ、鳥の巣と蜘蛛の糸に覆われている。人の背丈の三倍はあり、表面には、王冠をかぶった月を巨大な口が飲みこむ図が刻まれていた。

 クオンが近づくと、また音がした。

 ごうん。

 今度ははっきり、鐘の内側から。

「誰かいる?」ドルがパンを盾のように構えた。

「鐘の中に入れるわけないでしょ」

 チザレは鐘の下へ潜りこんだ。錆びた舌を揺らすと、根元で何かがかさりと鳴る。

 油布に包まれた細長い筒だった。

 中には、黒ずんだ羊皮紙が一枚。

 地図である。

 ベルガの鐘楼から始まる赤い線が、廃坑、地下水路、森の根の下を抜け、山中に描かれた城へ続いている。城の名は、古い文字で記されていた。

 クオンには、なぜか読めた。

「月喰み城」

 紙の隅には、乱暴な筆跡でこうある。

 ――王の蔵は空ではない。灰冠の下、町ひとつを買える財宝を見た。だが門は、夜の子にしか開かぬ。

 署名は〈片目のラウ〉

 百年前、王の財宝を探して消えた盗掘屋の名だ。

 四人は顔を見合わせた。

「町ひとつを買える」とドルがつぶやいた。

「正午までに戻れば、ベルガを買い戻せる」チザレの目が輝く。

「百年前の盗掘屋の書き置きよ。罠に決まってる」

 そう言いながら、セラは地図を覗きこんでいた。

 クオンは最後の一文を指でなぞった。

 夜の子にしか開かぬ。

 指先から、紙の下の鐘へ、鐘から鐘楼の石へ、石から谷の奥へ、細い震えが走った。

 遠くで何かが、彼を待っている。

「行こう」とクオンは言った。

 チザレが笑った。

「これで全員一致ね」

「一致してない」とセラ。

「反対しながらついてくる人は、ベルガでは賛成に数える」

三 王の喉

 地図の入口は、第五溶鉱炉の裏にある灰捨て水路だった。

 かつては炉から出た灰を川へ流していたが、川が枯れてから封鎖され、今は鼠と熱い蒸気の棲み家になっている。

 四人は工具、縄、油灯、薬草、そしてドルのパン十二個を背負った。チザレは母の鍛冶場から火打ち器と小型の炸裂筒を一本失敬した。

「それを冒険に持ってくる人は、たいてい冒険を短くする」とセラが言った。

「いい意味で?」

「悪い意味で」

 水路の鉄格子は錆びついていた。ドルが梃子を差し、チザレが蹴り、クオンが石のひびへ手を当てる。

「右下」

「何が?」

「そこが弱い」

 チザレが右下を叩くと、格子はあっけなく外れた。

 セラがクオンを見る。

「どうしてわかったの」

「音が違う」

「叩いてないのに?」

 クオンは答えず、先へ進んだ。

 水路はすぐに狭くなった。四つん這いで進むと、壁の石がぬるりと濡れ、天井から白い根が垂れている。根は彼らの髪や服に触れるたび、指のように縮んだ。

「森の根が、こんな下まで来てる」セラが囁いた。

「燃やすって布告、根にも聞こえたかな」とドル。

「聞こえてるよ」

 クオンが言うと、全員が黙った。

 やがて水路は円形の縦穴へ出た。

 底は見えない。向こう側へ細い石梁が一本渡り、梁の表面に大小の丸い石板が並んでいる。壁には、喉を開けた王の顔が彫られていた。

 地図には〈王の喉――歌わぬ者は落ちる〉とある。

「歌うの?」ドルが青くなる。「おれ、歌は苦手だ」

「落ちるよりはましでしょ」

 チザレが最初の石板へ足を乗せた。

 ぼうん、と低い音が響いた。

 別の石板へ移ると、甲高い音。三枚目で梁の一部が崩れ、暗闇へ落ちた。

「待って」

 クオンは膝をつき、石梁へ手を当てた。

 音が、並んでいる。

 人の耳には聞こえないほど低く、古い歌が石の中を巡っている。鐘楼で聞いたものと同じ旋律だった。

 クオンは安全な石板を順番に指した。

「低い、低い、高い。次は二つ飛ばして、割れた月の印」

「ほんとに?」

「たぶん」

「そういうときは、ほんとって言うのよ」

 チザレが進む。音が歌になる。

 ぼうん、ぼうん、きん、ぼうん。

 ドルが続き、セラが続く。最後にクオンが渡ると、王の彫像の口が震え、石の扉が開いた。

 向こうは広間だった。

 長い食卓。石の皿。石の杯。椅子には、王冠や兜をかぶった骸骨が二十体、宴会の途中のように座っている。

 食卓の中央に、金貨が山になっていた。

「財宝!」

 ドルが飛びつこうとし、セラが襟首をつかんだ。

「百年前の盗掘屋が見た財宝が、入口から十分の場所にあると思う?」

「思いたい」

 チザレが金貨を一枚、炉かき棒で弾いた。

 金貨は床へ落ち、薄い殻のように割れた。中から黒い粉が噴き出す。

 骸骨たちが一斉に顔を上げた。

「走って!」

 骨の指が食卓を掴み、がらがらと立ち上がる。目の穴から黒い蛾が溢れた。

 四人は広間を駆け抜けた。

 ドルがパンを一個投げると、骸骨がそちらへ飛びついた。

「食べるのかよ!」

「百年ぶりなんでしょ!」

 チザレが扉の鎖を切り、セラが蛾除けの煙草を投げる。クオンは最後尾で、迫る骨の足音を聞いた。

 その中に、ひとつだけ違う音がある。

「伏せろ!」

 全員が床へ飛びこむ。

 壁から巨大な石斧が振り抜かれ、骸骨の群れをまとめて粉砕した。

 石斧は勢い余って柱へ食いこむ。天井が崩れ始めた。

「おれのパンが!」

「あと十一個ある!」

「今ので二個投げた!」

「数えてる場合?」

 四人は転がりこむように次の扉を抜けた。

 背後で広間が潰れ、闇の中に蛾だけが舞った。

四 逆さ星の川

 地下には、空があった。

 洞窟の天井一面に青い茸が光り、星のように瞬いている。その下を、黒い川が音もなく流れていた。水面へ星が映り、上下がわからなくなる。

 川には石の舟が一艘つながれていた。

「罠よ」とセラ。

「便利なものを全部罠って呼ぶの、やめない?」チザレが言った。

「便利そうなものほど罠なの」

「でも乗るんだろ?」

 ドルはもう舟にいた。

 四人が乗ると、縄がひとりでにほどけた。舟は流れへ押し出される。

 櫂はない。

 左右の岸には、根に飲まれた石像が並んでいた。人の体に鹿の脚を持つ像。枝の角を生やした子供。顔のかわりに、滑らかな仮面をつけた王。

 クオンの仮面と、よく似ていた。

「月喰み王国の人たち?」チザレが聞く。

「人じゃないかも」とセラ。

 クオンは像から目をそらした。

 舟が洞窟の中央へ来たとき、水面の星が消えた。

 黒い何かが、舟の下を横切った。

 次の瞬間、川から白い腕が何十本も伸びてきた。舟べりを掴み、子供たちの足首を探る。

「やっぱり罠!」

 チザレが炉かき棒で腕を叩く。ドルはパン袋を頭上へ掲げた。セラが塩と灰を撒くが、腕は離れない。

 クオンの足首を、ひときわ長い腕が掴んだ。

 冷たくない。

 むしろ、懐かしい温度だった。

 水の中から声がした。

 ――帰れ。

「どこへ」

 クオンが思わず聞き返す。

 腕が彼を引いた。仮面の紐が舟縁に引っかかり、ぷつりと一本切れる。

 チザレがクオンの外套を掴んだ。

「こいつは、私たちと帰るの!」

 彼女は迷わず、残った炸裂筒へ火をつけて水へ投げた。

「短くするやつ!」セラが叫ぶ。

 どん、と水柱が上がった。

 白い腕がほどけ、舟は波に押されて猛然と進む。洞窟の出口へ突っこみ、石段を滑り、根の網を破り――最後には空中へ放り出された。

 四人は舟ごと、柔らかな苔の山へ落ちた。

 しばらく誰も動かなかった。

「生きてる?」セラが言う。

「パンが四個になった」とドル。

「生きてるわね」

 クオンは起き上がり、仮面を押さえた。紐が一本切れ、少し傾いている。

 チザレが直そうと手を伸ばす。

 クオンは反射的に身を引いた。

「触るな」

 声が強くなった。

 チザレの手が止まる。

「……悪かった」

 クオンは謝ろうとしたが、言葉が出なかった。

 キュベルは、仮面を決して外すなと言った。

 外せば、お前を知っている者まで、お前を知らない顔で見るようになる。

 その意味を、クオンは聞けずにいた。

 苔の丘の向こうに、城があった。

 月喰み城。

 地上の城ではない。巨大な樹の根と黒い岩を組み合わせて造られ、塔は下向きに伸び、洞窟の底へ突き刺さっている。窓という窓に青い火が灯り、城全体が眠る獣の肋骨のように見えた。

 そして城門の前には、王都の黒鉄兵が立っていた。

 監督官ヴォランもいる。

「ずいぶん派手な道案内だったな」

 長身の男は、濡れた黒い外套を絞りながら言った。

 その手には、鐘楼で見つけた地図の写しがあった。

五 黒鉄の監督官

「どうしてそれを」チザレが言った。

「地図屋の老人は嘘が下手だ」

 ヴォランの後ろに、黒鉄兵が三人。皆、森獣を狩るための長槍と火薬銃を持っている。

「地図を渡せ。お前たちは町へ戻れ」

「戻ってる間に、町がなくなる」

「だから私が来た。王の財宝が本当にあるなら、接収を取り消せる」

「あなたが持って帰ったら、王都のものになるだけでしょ」

 チザレが食ってかかる。

 ヴォランは眉ひとつ動かさなかった。

「王都のものになれば、少なくともベルガの未納分として計上できる」

「少なくとも、って何よ」

「全部を救える約束など、役人はしない」

 冷たい言葉だったが、その声には疲れがあった。

 ヴォランは若く見えた。三十を少し過ぎたくらい。右頬に、獣の爪痕が三本ある。

 セラがその傷を見た。

「白角にやられたの?」

「七年前にな。あれは私の隊を襲い、弟を殺した」

「人間が先に森を焼いた」

「死者に順番は関係ない」

「生きている森には関係ある」

 二人の間に、張りつめた沈黙が落ちた。

 そのとき、城門の青い火が大きく揺れた。

 石扉に、仮面をかぶった四本腕の像が浮かび上がる。像の胸には、クオンの仮面と同じ一本線。

 扉から声がした。

 ――夜の子よ。名を告げよ。

 黒鉄兵たちがざわめく。

 ヴォランがクオンを見る。

「お前は、何者だ」

「地図屋の見習いだ」

 クオンは扉へ手を置いた。

「名は、クオン」

 石の奥で、無数の歯車が回り始めた。

 門が開く。

 誰も言葉を発しなかった。

 クオンは自分の手を見た。

 細く、青白い、人間の手。

 けれど門は、彼を知っていた。

「先へ進む」ヴォランが言った。「子供たちを中央に。何かあれば守れ」

「捕まえるんじゃなくて?」ドルが聞く。

「牢へ入れるにも、生きて帰す必要がある」

「ちょっと好きになった」とドル。

「早い」と三人が同時に言った。

 城内は、外から見たより広かった。

 廊下の壁は黒い鏡でできている。だが鏡に人の姿は映らず、その者が通ってきた場所を映した。

 チザレの鏡には、火の落ちた鍛冶場と、ひとりで炉を叩く母。

 ドルの鏡には、パン窯の前で咳をする父。

 セラの鏡には、切り株だらけの森で、薬草の種を植える老女。

 ヴォランの鏡には、炎の中で倒れる若い兵士。

 クオンの鏡だけは、何も映さなかった。

 真っ暗なまま、彼の動きに合わせて、向こう側から何かが歩いてくる。

 長い腕。

 折り畳まれた翅。

 枝分かれした影。

 クオンは鏡から離れた。

 廊下の突き当たりに、巨大な扉があった。中央の窪みは王冠の形をしている。

 地図には〈灰冠の間〉

 扉の前の床へ、古い文字が刻まれていた。

 ――王の蔵を欲する者よ。まず、王が隠したものを見よ。

 扉の両脇に二つの道が開く。

 一方には金色の光。

 もう一方には、湿った風と、遠い獣の息遣い。

「金色」とドル。

「獣のほう」とセラ。

「意見が割れたね」とチザレ。

 ヴォランはためらわず、獣の道を選んだ。

「財宝を隠す者は、金色の道など作らない」

 ドルが小声で言う。

「やっぱり好きかもしれない」

六 黒い水の顔

 獣の道は、城の地下へ続いていた。

 壁から根が突き出し、ところどころ石を砕いている。根には矢じりや斧の刃が刺さり、黒い血のような樹液が流れていた。

 やがて一行は、円形の広間へ出た。

 中央に、鏡のような黒い池がある。

 周囲の壁一面には、色石で古い物語が描かれていた。

 空から落ちる青い星。

 星に触れて病み、争う人々。

 地の底から現れる、仮面の民。

 彼らは巨大な樹を育て、その根で青い星を包みこんだ。樹は森になり、森から白い角の守り手が生まれる。

 最後の絵では、人間の軍勢が仮面の民の城を焼いていた。

「月喰み王国は、森を作ったの?」チザレが言う。

 セラは壁へ触れた。

「森は、何かを封じてる。私たちは、その上を掘ってたんだ」

 ヴォランが首を振る。

「昔話だ」

「だったら、どうして根が血を流してるの」

 答える代わりに、監督官は池の向こうの石台を見た。

 灰色の王冠が置かれている。

 金でも銀でもない。細い枝と獣の骨と、曇った金属が絡み合い、生き物のようにゆっくり脈打っていた。

 〈灰冠〉

 王冠の下には、小さな金庫が三つ。隙間から金貨と宝石が覗いている。

「町ひとつ分」とチザレが囁いた。

 ヴォランが池へ足を踏み入れた。

 水面は沈まない。黒い硝子のように彼の靴を支える。

 兵たちも続く。

 クオンが一歩踏み出すと、池が波打った。

 黒い水から無数の手が現れ、彼の足首、腕、外套を掴む。

「クオン!」

 チザレが手を伸ばす。

 だが今度は、クオンのほうが引いた。

「来るな!」

 手は彼を池の中央へ運んだ。

 仮面の残った紐が、ひとりでにほどけていく。

 キュベルの声が蘇る。

 外すな。

 誰にも見せるな。

 けれど池の底から、もっと古い声がした。

 ――隠したままでは、門を閉じられぬ。

 仮面が落ちた。

 黒い水面に、クオンの顔が映る。

 それは、人間の顔ではなかった。

 額から頬へ、淡い銀色の殻が薄く重なっている。目は二つではなく、こめかみに小さな黒い眼がもう一対。口元は人より細く長く、耳の後ろには閉じた翅の名残のような膜がある。

 怪物というより、夜だけに咲く花に似ていた。

 だがクオンには、怪物にしか見えなかった。

 彼は振り返った。

 チザレが目を見開いている。

 ドルは口を半分開け、セラは息を呑んでいた。

 黒鉄兵のひとりが槍を構えた。

「夜種だ」

 ヴォランが低く言った。

「月喰みの民は滅んだはずだ」

 その言葉で、クオンの中の何かが切れた。

 彼は池の向こうへ走った。

「待って!」

 チザレの声を振り切り、石台の裏の暗い通路へ飛びこむ。

 背後で足音が追う。

 クオンは走った。自分の手が急に異様に見えた。指が長い。爪が黒い。息をすると、喉の奥で人間には出せない高い音が鳴る。

 なぜ町の犬が彼に吠えたのか。

 なぜ石の歌が聞こえたのか。

 なぜキュベルが、鏡のない屋根裏で彼を育てたのか。

 全部わかった。

 わかってしまった。

 通路の先は行き止まりだった。

 クオンは壁へ背をつけた。

 最初に現れたのは、チザレだった。

 炉かき棒を構えている。

 クオンは笑おうとした。仮面がないので、どう笑えばいいかわからなかった。

「近づくな」

「嫌」

「見ただろ」

「見た」

「怖くないのか」

「怖い」

 クオンの胸が沈んだ。

 チザレは続けた。

「急に走って消える奴は怖い。こっちは足が短いんだから」

 ドルとセラも追いついた。

 ドルはクオンの顔をまじまじ見てから、パンを一個差し出した。

「食う?」

「それだけ?」

「ほかに何て言えばいい」

 セラはクオンの頬の殻へ触れようとして、途中で手を止めた。

「触っていい?」

 クオンは少し迷い、うなずいた。

 指先は温かかった。

「森の虫に似てる」とセラが言った。

「慰めてる?」

「かなり」

 チザレは床に落ちていた仮面を拾い、クオンへ渡した。

「かぶるかどうかは、自分で決めな」

 クオンは仮面を見た。

 一本線の顔。

 地図屋の少年の顔。

 彼はそれを外套の内側へしまった。

 その瞬間、城全体が震えた。

 遠くで銃声。

 獣の咆哮。

 そしてヴォランの怒鳴り声。

「灰冠を持て! 地上へ戻るぞ!」

七 白角の来る道

 池の広間へ戻ると、石台の金庫は開けられ、黒鉄兵たちが金貨を袋へ詰めていた。

 ヴォランは灰冠を両手に持っている。

「それを置け!」セラが叫んだ。

「この冠は、森の守り手を従えるためのものだ」

「誰が言ったの」

「読める者がいる」

 ヴォランはクオンを見た。

 王冠の内側に、細い文字が浮かんでいた。

 クオンには読めた。

 ――冠する者、守り手の痛みを負い、守り手は冠する者の願いを負う。

「命令する道具じゃない」クオンが言った。「痛みを分けるものだ」

「同じことだ。痛みを与えれば、獣は従う」

「違う!」

 城が再び揺れた。

 天井の根が裂け、黒い樹液が降る。

 通路の奥から、白い角が現れた。

 最初は、枯れ枝の束に見えた。

 次に、巨大な頭。

 鹿にも狼にも似ていない。白い骨の面を持ち、体は苔と樹皮と黒い毛で覆われている。肩から矢が何本も突き出し、脇腹には鉄の罠が食いこんでいた。

 〈白角〉

 森の守り手。

 その足元から草が生え、同時に石が腐った。

 黒鉄兵が火薬銃を向ける。

「撃つな!」

 ヴォランの命令より早く、一人が引き金を引いた。

 爆音。

 弾は白角の骨面へ当たり、火花を散らす。

 白角が吠えた。

 音ではなく、城そのものが叫んだ。黒い池が逆立ち、壁画の石が剥がれ、兵たちは床へ投げ出された。

 ヴォランは灰冠を頭へ載せた。

 王冠の枝が伸び、こめかみへ食いこむ。

「止まれ!」

 白角が一瞬、動きを止めた。

 同時にヴォランの脇腹が裂け、獣と同じ場所から血が噴いた。

 彼は膝をつく。

 白角の目に、さらに激しい痛みが燃えた。

「外して!」セラが叫ぶ。「傷を分けてる!」

「ならば、どちらかが先に折れるまでだ」

 ヴォランは立ち上がり、白角へ歩いた。

「七年前、弟を殺したな」

 白角の喉から、低い唸りが漏れる。

 クオンには、その奥の声が聞こえた。

 ――火を持つ者が、幼木を焼いた。

 ――鉄を持つ者が、眠る星を掘った。

 ――私は止めた。

「弟は兵士だった」とヴォラン。

 ――森には、同じ顔に見えた。

 ヴォランの顔が歪む。

「人間にも、お前たちは同じ獣に見える」

 彼は冠へ手をかけ、さらに深く押しこんだ。

 白角の脚が折れる。

 同時にヴォランの脚も折れ、二者は向かい合って倒れた。

 そのとき、地上から三度、鈍い轟音が響いた。

 チザレの顔から血の気が引く。

「発破だ」

「正午前よ!」

「監督官が消えたから、代理が予定を早めたんだ」黒鉄兵が言った。「森を焼く前に、新坑口を開く命令が出ている」

 四度目の爆発。

 壁画の青い星に亀裂が走った。

 亀裂の向こうから、青白い光が漏れる。

 白角が恐怖の声を上げた。

 森が封じていたもの。

 地の底へ落ちた星。

 人間が鉱石と呼び、炉で燃やしてきたもの。

 クオンには、その光が歌っているのが聞こえた。

 飢えた歌だった。

「ここが崩れたら、どうなる?」チザレが聞く。

 セラは青ざめた壁画を見た。

「森も町も、たぶん谷ごと死ぬ」

 ドルが金庫の袋を見た。

「財宝を持って逃げる時間は?」

「ない」

「じゃあ、町ひとつ分の金があっても、町がなくなるのか」

「そういう罠だったのね」とセラ。

 チザレがクオンを見る。

「地図屋。道を探して」

 クオンは床へ手を当てた。

 崩れる石。裂ける根。青い星の脈動。

 その下に、もうひとつの音があった。

 大量の水。

 城のさらに下を流れる、古い地下川。

 壁画の最後に描かれた、仮面の民の儀式が頭に浮かぶ。

 灰冠は王の証ではない。

 門の鍵だ。

「冠を壊す」クオンが言った。

 ヴォランが顔を上げる。

「これはベルガを救う唯一の力だ」

「これを使って獣を倒しても、星が起きる」

「財宝を持ち帰れば、人々を移住させられる」

「間に合わない」

 五度目の爆発。

 城の塔が一本、暗闇へ落ちていった。

 クオンは白角へ近づいた。

 獣の骨面に、四つの目を持つ自分の顔が映る。

 白角は唸らなかった。

 ただ、疲れた目で彼を見た。

 ――門の子。

 クオンは灰冠へ手を伸ばした。

 ヴォランが彼の手首を掴む。

「お前は人間ではない」

「知ってる」

「なぜ人間の町を救う」

 クオンは、チザレの煤だらけの顔を見た。ドルの潰れたパン袋を見た。セラの泥だらけの手を見た。

「住んでるからだ」

 それだけ言って、冠を掴んだ。

八 王の蔵

 灰冠は、冷たくなかった。

 熱かった。

 森の火傷、獣の銃創、切られた根、焼かれた巣。何百年もの痛みが一度にクオンへ流れこむ。

 彼は叫んだ。

 白角も叫んだ。

 ヴォランの頭から冠の枝が抜け、代わりにクオンの掌へ絡みつく。

 世界が二つになった。

 一方では、彼は城の床に膝をついている。

 もう一方では、森の上に立っていた。

 雨を葉で受け、根で地下川を抱き、無数の小さな命の足音を聞く。森の外にはベルガの炉。森の中には、斧を恐れる獣たち。どちらも腹を空かせ、どちらも自分の子を守ろうとしている。

 青い星は、その下で目を覚ましかけていた。

 クオンは灰冠の声を聞いた。

 ――命じよ。

 白角を町へ向けることもできる。

 町の炉を踏み潰し、人間を谷から追い払うことも。

 逆に白角へ死を命じ、森を沈黙させることも。

 古い王たちは、きっとそうした。

 だから滅びた。

「命じない」

 クオンは冠の両端を掴んだ。

「開ける」

 力をこめる。

 灰冠が軋んだ。

 ヴォランが叫ぶ。

「やめろ! それがなければ森を制御できない!」

「森は、炉じゃない!」チザレが彼を押さえた。

 ドルとセラも冠へ手をかける。

「痛っ!」ドルが悲鳴を上げる。「これ、ほんとに灰か? 焼けた鍋より熱いぞ!」

「引っ張って!」

 四人で力を合わせた。

 灰冠は折れなかった。

 白角が立ち上がった。

 折れた脚を引きずりながら近づき、巨大な角を冠の中央へ差し入れる。

 ヴォランはしばらくそれを見ていた。

 やがて、血まみれの手で冠を掴んだ。

「弟は、森を焼く命令に従った」

 誰にともなく言う。

「私は、その命令を書いた者の名を忘れていた」

 彼も引いた。

 ぱきん。

 小さな音がした。

 灰冠が二つに割れた。

 城中の青い火が消える。

 一瞬の完全な闇。

 次いで、地の底から巨大な扉が開く音が響いた。

 黒い池が割れた。

 底から水が噴き上がる。

「走れ!」

 全員が金庫の袋を捨て、通路へ向かった。

 黒鉄兵のひとりが名残惜しそうに金貨を一掴みしたが、ドルがその襟をつかむ。

「死んだら使えないぞ!」

「お前が言うな!」

 地下川は城を飲みこんだ。

 水は青い星の亀裂へ流れこみ、白い蒸気を上げる。根が水を吸い、黒かった樹液が緑へ変わる。城の壁が次々に開き、古い水路が何百年ぶりに息を吹き返した。

 だが出口までの道も、濁流になった。

 チザレが叫ぶ。

「舟!」

「さっき落ちた!」

「作る!」

 彼女は灰冠の間の扉を炉かき棒で外し始めた。ドルが蝶番を蹴り、兵たちが槍を梃子にする。セラは傷ついたヴォランの脚へ薬草布を巻く。

 クオンは白角を見た。

「一緒に来る?」

 白角は首を振った。

 ――根の道は、我が道。

 獣は崩れる壁へ角を突き立て、通路を支えた。

 クオンはその骨面へ手を置く。

「また会える?」

 ――森が森であり、お前がお前であるなら。

「それ、会えるってこと?」

 白角の目が、ほんの少し細くなった。

 笑ったのかもしれない。

「外れた!」

 扉が倒れ、即席の筏になった。

 十人近くが飛び乗る。濁流が筏をさらい、廊下から廊下へ、階段を滝のように滑り落ちた。

「右!」クオンが叫ぶ。

 チザレと兵が槍で壁を突き、筏の向きを変える。左の通路は直後に崩れた。

「次、低い!」

 全員が伏せる。石梁が頭上すれすれを通る。

「パン!」ドルが叫んだ。

 最後の一個が袋から飛び出し、水へ落ちる。

 彼は身を乗り出した。

 セラが耳を引っぱる。

「命とどっちが大事!」

「焼きたてだったんだぞ!」

 筏は逆さ星の川へ飛び出した。

 青い茸の星が流星のように後ろへ飛ぶ。白い腕が水から伸びたが、今度は筏を掴まず、押してくれた。

 ――帰れ。

 声はもう、追い払う響きではなかった。

 王の喉の縦穴を、水が逆流して上がっていく。筏も持ち上げられ、崩れた石梁の間を抜け、灰捨て水路へ突っこんだ。

 前方に、朝の光が見えた。

「頭を下げろ!」

 鉄格子を筏ごと吹き飛ばし、一行は第五溶鉱炉の裏へ飛び出した。

 その直後、水路から巨大な水柱が上がり、町の上空で朝日に砕けた。

九 朝の地図

 ベルガの人々は、谷に川が戻るところを見た。

 灰捨て水路から溢れた水は、乾いた旧河道を走り、七つの炉の間を抜けた。燃えかけていた森の端を消し、発破口へ流れこみ、青い鉱石の光を覆った。

 地面は何度も揺れたが、谷は裂けなかった。

 森の木々は、町へ伸ばしていた根をゆっくり引いた。

 正午、ベルガの広場には、赤い×印を消す人々がいた。

 王都の監督官ヴォランは、脚を添え木で固定したまま布告台へ立った。

「本日発見された地下水路および古代封鎖施設は、王国保存令の対象とする。調査終了まで、ベルガの接収、新坑道の開削、眠り樹海の伐採を停止する」

 群衆がどよめく。

「停止って、いつまでだ!」誰かが叫んだ。

「役所の調査は長い」ヴォランは答えた。「少なくとも、私が生きている間には終わらんだろう」

 笑いが起きた。

 未納の鉄税は消えなかった。

 財宝の大半も、城とともに水の底へ沈んだ。

 ただ、黒鉄兵が最後に掴んだ金貨が七枚、ドルの靴から宝石が一個、チザレの髪から小さな金の鍵が出てきた。ドルは宝石について「知らない、勝手に入った」と主張した。

 七枚の金貨は未納分のほんの一部だったが、ヴォランは古代遺物保全への協力金という名目で、不足を王都へ請求した。

 そして地下川の水は、谷の深い場所から熱を運んできた。

 炉長マレイは、炭を燃やさずに湯気で槌を動かす仕組みを考え始めた。薬草師たちは森の境へ苗床を作り、伐った木の数だけ植える約束をした。森の獣がすぐ人間を許したわけではないし、人間も白角への恐れを忘れなかった。

 それでも、境界には一本の新しい道が描かれた。

 燃やすための道でも、攻めるための道でもない。

 話し合うために、途中まで行く道だった。

 夕方、クオンは地図屋の前へ立っていた。

 仮面は手に持っている。

 町の人々が、彼を見る。

 四つの目を。

 銀色の殻を。

 ひそひそ声が起きた。泣き出す子供もいた。祈りの印を切る老人もいた。

 クオンの足は、屋根裏へ逃げたがっていた。

 チザレが右に立った。

 ドルが左に立った。新しいパンを六個抱えている。

 セラが正面に立ち、クオンの頬へ薬草の汁を塗った。

「何」

「地下の煤。顔についてる」

「今さら?」

「今だから」

 扉が開いた。

 キュベルが出てくる。

 老人はクオンの素顔を見ても驚かなかった。

「知ってたんだな」クオンが言う。

「拾ったとき、お前は卵の殻を頭にかぶっていた」

「先に言えよ」

「言えば、お前は自分を決める前に、昔話に自分を決めさせただろう」

「だから仮面を?」

 キュベルは申し訳なさそうに、白く濁った目を伏せた。

「守るつもりだった。隠すことと守ることを、同じだと思っていた」

 クオンは手の中の仮面を見た。

 嫌いではなかった。

 これをかぶって過ごした日々も、自分の一部だ。

 彼は仮面を店の看板へかけた。

「これからは、雨の日に使う」

「木だから腐るぞ」とドル。

「雰囲気の話だよ」

 キュベルが笑った。

 その夜、三百年鳴らなかった鐘が鳴った。

 誰も綱を引いていないのに、谷じゅうへ深い音が広がった。

 ごうん。

 森の上で、白い角が一度だけ月を横切った。

 クオンは新しい羊皮紙を机へ広げた。

 ベルガの地図。

 旧河道を青く塗り、森との境に細い道を引く。月喰み城のあった場所には、城ではなく小さな門の印を描いた。

「そこ、もう沈んだんだろ?」チザレが聞いた。

「門は、場所じゃない」

「地図屋みたいなこと言うな」

「地図屋だよ」

 ドルがパン屑を落とし、セラが払い、チザレが勝手に地図の端へ四人の似顔絵を描いた。クオンの目は六つあった。

「多い」

「暗いところでは増えるの」

「増えない」

 言い争う声の上を、鐘の余韻がゆっくり渡っていった。

 世界には、まだ地図にない場所がたくさんある。

 地図にない顔も。

 地図にない道も。

 だから彼らは、次の朝も出かけることにした。

 赤い印を消したばかりの町から。

 森と、人と、そのどちらでもあるものが暮らす、灰色の谷から。