月沼の七十四人

一 塩町がなくなる前夜

 塩町がなくなる前夜、僕らは祖父の壁から地図を掘り出した。

 正確にいえば、壁を壊したのは港務局の人夫たちだった。翌朝の日の出とともに家々を取り壊すため、赤い印を柱に打って回っていたのである。僕の家の台所で漆喰が剥がれ、煉瓦の隙間から緑青の浮いた銅筒が転げ落ちた。

 人夫は気づかなかった。僕は足で筒を踏み、荷箱を運ぶふりをして隠した。

 塩町は岬都バルカのいちばん古い貧民街だった。海から吹く風はいつも魚と石炭の匂いを運び、屋根は斜めで、路地は猫の背骨のように曲がっていた。王立造船所を広げるため、町ごと買い上げる話が決まっていたが、住民に払われる金では郊外の小屋さえ借りられない。大人たちは「仕方がない」と言い、荷造りをしていた。

 十四歳の僕には、その言葉がひどく卑怯に聞こえた。

 銅筒を持って、僕は夕暮れの樽工房へ走った。そこにはモケクがいた。僕より一つ年上で、腕まくりをすると大人の樽職人より筋が浮いた。時計屋の徒弟ホロは床に散った歯車を拾っており、寺院の聖歌隊にいるキシェレは、明日の立ち退き祈祷で歌うはずの紙を丸めて火吹き筒にしていた。

「荷造りは?」とモケクが訊いた。

「宝を見つけてからする」

 僕が銅筒を置くと、三人とも笑わなかった。塩町の子どもは、笑うべきでない冗談を見分けるのが早い。

 筒の蓋には、見慣れない双頭の鳥が刻まれていた。中から出てきたのは、油を吸って黒ずんだ羊皮紙の地図、薄い手帳、それに針が二本ある羅針盤だった。片方の針は北を指し、もう片方は僕の胸を指した。

「気味が悪い」とホロが言った。「ナユ、おまえの心臓が磁石なんじゃないか」

 地図は祖父ミハルの筆跡だった。

 ミハルじいは四十二年前、岬の向こうにある月沼で倒れているところを漁師に拾われた。背が高く、灰色の目をし、誰にも通じない言葉で三日三晩しゃべり続けたという。やがてこの国の言葉を覚え、石工になり、祖母と結婚した。酒に酔うと「故郷は北ではない。別の空の下だ」と言ったので、町の者は〈星酔いミハル〉と呼んだ。

 僕が七つのとき、祖父は死んだ。最後まで月明かりを嫌い、窓を厚い布で塞いでいた。

 羊皮紙の上には、塩町の古い井戸から岬の内部へ続く道が描かれ、その先に、地図には存在しない月沼があった。沼の中央には黒い船。余白に祖父の字で、こう記されていた。

 ――月が空から落ち、足もとで二度目に昇る夜、故郷への船は泥の底から帰る。

 その下に、別のインクで一行。

 ――船倉の金は、ひとつの町を買い戻してなお余る。

 僕らは顔を見合わせた。

 その夜は、十二年に一度、青い満月が昇る〈二重月の夜〉だった。

「行くの?」とキシェレが訊いた。声だけは震えていたが、彼女はもう聖歌隊の白い上着を脱ぎ、動きやすいズボンに履き替えていた。

「行かない理由がある?」とモケク。

「死ぬかもしれない理由なら、二十個くらいある」

 ホロはそう言いながら、工具袋を肩に掛けた。

 僕は祖父の羅針盤を握った。二本目の針は、今度は岬の方角を指していた。

 日が沈み、港の鐘が七つ鳴った。

 僕らは塩町を買い戻すため、家出をした。

二 笑う崖

 地図の入口は、共同井戸の底にあった。

 水はすでに抜かれていた。造船所の測量隊が井戸を埋めるため、昼のうちに汲み上げたのだ。縄梯子を下りると、底の煉瓦に魚の骨の印があり、ホロが釘を差し込むと壁が音もなく横へずれた。

「この仕掛け、少なくとも百年は前のものだ」とホロは嬉しそうに言った。「百年放っておかれた扉ってのは、だいたい開かないか、開いたら落ちる」

「先に言って」とキシェレが言った。

 扉の向こうには、潮の匂いがする狭い階段が続いていた。岬の内部は空洞で、昔、密輸商たちが海から荷を運び込む道に使ったらしい。壁には樽、王冠、絞首台などの落書きがあり、角を曲がるたび、どこかで笑い声に似た風が鳴った。

 最初の罠は、石の食卓だった。

 長い部屋の中央に皿が十二枚並び、それぞれに石の魚が載っている。出口の扉には「腹を満たせ。されど食い過ぎるな」と古語で刻まれていた。

 ホロが魚を一匹持ち上げた途端、天井から鉄の槍が落ち、彼の帽子を床に縫いつけた。

「食い過ぎるなって書いてある!」とキシェレが叫んだ。

「一匹で食い過ぎなら、この密輸商はずいぶん小食だ!」

 僕は地図の隅にある十二個の点に気づいた。大きい点が三つ、小さい点が九つ。石魚の腹には重さの違う鉛が入っていた。三枚の皿に大きな魚を、残りに小さな魚を置き直すと、床の秤が釣り合い、扉が開いた。

 二つ目は、音の罠だった。

 洞窟いっぱいに青銅の管が立ち、踏み石ごとに違う音が鳴る。誤った石を踏むと、横穴から海水が噴き出した。僕らは膝まで水に浸かり、キシェレが青ざめた顔で耳を澄ませた。

「ミハルさんの手帳に歌がある」

 彼女は濡れた頁を押さえ、見慣れない文字の下に書かれた音符を読んだ。

「子守歌みたい。低い音から、五つ上がって、二つ戻る」

 僕らはキシェレの指示どおりに踏み石を渡った。最後の音が鳴ると、青銅管の奥で誰かがため息をついた。水が引き、壁が開いた。

 三つ目は、底なしの裂け目だった。

 橋は腐っていた。向こう岸まで十歩ほどだが、下には青白い蟹が星空のように光っている。モケクが樽工房から持ち出した綱を岩角に掛け、一人ずつ渡った。ホロの工具袋が裂け目に落ち、蟹の星が一斉に動いた。

「僕の商売道具!」

「命が残っただけ得したと思え」

「命じゃ歯車は回せない!」

 最後に僕が渡ろうとしたとき、後ろの闇に灯が見えた。

「誰か来る」

 声も聞こえた。港務局の徴発官ラドだった。昼に僕の家の壁を検分していた男で、赤い外套を着ている。人夫を二人連れ、僕らの足跡を追ってきたのだ。

「小僧ども!」ラドの声が響いた。「持ち出したものは港務局の財産だ。戻れ!」

「町を盗る人に、盗人って言われたくない!」とモケクが叫び返した。

 彼女は僕が渡り終えると綱を切った。ラドたちの灯が裂け目の向こうで揺れ、怒鳴り声が遠ざかった。

 僕らは走った。

 道は急に下り、湿った風が強くなった。石壁がなくなり、足もとが滑った。僕らは悲鳴を上げながら泥の斜面を転がり、葦の茂みに放り出された。

 そこで、笑う崖の声はぴたりと止んだ。

 目の前に、空より広い沼があった。

三 月沼の舞踏

 岬の向こうに沼などない。少なくとも、どの地図にもそう書いてある。

 だが月沼はそこにあった。

 黒い水面が地平まで続き、銀色の葦が風もないのに揺れていた。空には青い満月が一つ。その同じ月が、沼のあちこちに丸く浮かんでいる。水たまりの反射ではなかった。どの月にも雲が流れ、どの月にも違う角度の光が差していた。

「帰ろう」とホロが言った。

「賛成」とキシェレ。

「宝を見てから」とモケク。

 羅針盤の二本目の針は、沼の中央を指していた。

 地図には、石を並べた古い道が描かれている。僕らは葦をかき分け、泥の中の踏み石を探した。一歩外せば腰まで沈む。泥は生ぬるく、ときどき足首を指でなぞるように動いた。

 半分ほど進んだとき、鈴が鳴った。

 最初は一つ。次に十。やがて沼じゅうから、細く乾いた音が返ってきた。

 葦の間に、人が立っていた。

 白い服を着た男だった。顔は月明かりで見えない。隣に女、その隣に子ども。次々と影が現れ、僕らを囲んだ。服は古びた外国風で、胸元には双頭の鳥の徽章があった。彼らは手を取り、ゆっくりと踊り始めた。

 足は泥に沈まない。

 鈴の音に合わせて、七歩進み、七歩退く。首だけをこちらに向ける。顔のあるべき場所には、濡れた葦が束ねて詰められていた。

 キシェレが息を呑んだ。

「数えてる」

「何を?」

「自分たちを。だけど、途中で同じ数に戻る。ずっと、一人足りない」

 影たちは歌っていた。祖父の手帳にあった言葉と同じ響きだった。

 ホロがふらりと踏み石を外れた。目を開けたまま、踊りの輪へ向かっていく。モケクが襟を掴んだが、泥の中から白い手が伸び、彼の足首を抱いた。

「キシェレ、あの歌を!」

 僕は叫んだ。

 キシェレは震えながら、洞窟で読んだ子守歌を歌った。

 低い音から五つ上がり、二つ戻る。澄んだ声が沼を渡ると、踊る影が一斉に止まった。葦の顔がキシェレへ向いた。

 彼らの輪がゆっくり開いた。

 その先に、船があった。

 沼の中央から、黒い鉄の船首が斜めに突き出している。帆柱は折れ、船腹の半分は泥に埋もれていた。側面に剥げかけた白い文字があり、その下に双頭の鳥。

 祖父の手帳で、何度も見た印だった。

 影たちは僕らを追わなかった。ただ、通り過ぎる僕らに向かって手を差し出した。掌には一人ずつ、錆びた名札を載せていた。文字は泥で読めない。

 船には縄梯子が下がっていた。

 僕らが甲板へ登ると、沼の鈴が一度だけ大きく鳴った。

 その音の中に、祖父の声を聞いた気がした。

 ――遅かったな、ナユ。

四 海のない航海

 船の名は〈聖なる鴎〉号といった。

 船室の壁に、祖父がこちらの文字で訳していた。もとはヴェレス帝国という国の調査船で、乗員は七十四人。月の反射を通って「世界の外海」へ出る実験に使われたらしい。

 船長室には、湿気を免れた航海日誌が残っていた。

 最初の頁に祖父の本名がある。

 ミハイル・ボロディン。二等測量士。二十一歳。

 僕の知っている石工の祖父よりずっと若い字で、彼はこう記していた。

 ――帝国暦八〇三年、乗員七十四名、月門を通過。

 ――同年、帰還装置故障。未知世界の湿原に座礁。

 ――救援は来ず。

 その後の頁は、水染みと、短い記録ばかりだった。

 熱病。食料不足。沼の歌。夜ごと消える乗員。船長は名簿を守れと命じた。死人は名を失うと沼に取られる。最後の冬、ミハイルだけが崖を越え、人里へたどり着いた。

 最後の一行は、僕が生まれるずっと前の日付だった。

 ――私は帰れない。せめて彼らの名だけを帰したい。

「金は?」とホロが小さな声で言った。

 船倉には箱がいくつもあった。けれど中身は腐った制服、測量器、石炭、割れた瓶ばかり。金貨の箱は見つからない。

「一つの町を買える金って書いてあった」とモケクが言った。「嘘だったの?」

 僕は返事をしなかった。

 船長室の机に、羅針盤と同じ形の窪みがあった。二本目の針は激しく震え、そこへ嵌めろと命じるように机を叩いた。

 外で怒鳴り声がした。

 徴発官ラドが沼を渡ってきたのだ。人夫はおらず、外套は泥まみれだった。片手に剣を持ち、もう片方で名札を握り潰している。

「その船は王室のものだ!」

 彼の背後で、白い影たちが踊りを始めていた。

 ラドは気づかない。甲板へ飛び移り、僕に剣を向けた。

「羅針盤を寄越せ」

 モケクが樽用の木槌で剣を叩き落とした。ホロがラドの足へ工具箱を投げ、キシェレが悲鳴を上げた。船が揺れたのだ。

 僕の手から羅針盤が落ち、机の窪みに嵌まった。

 二本の針が重なった。

 船腹の奥で、巨大な心臓が一度鳴った。

 沼の月が全部、こちらを向いた。

 泥に埋もれていた船体が浮き上がる。黒い水が甲板を越え、空へ流れた。僕らは壁に叩きつけられた。ラドは滑って舷側へ落ち、白い影の腕に受け止められた。彼の叫びが鈴の音に呑まれる。

 次の瞬間、空も沼も裏返った。

 〈聖なる鴎〉号は、星の海に浮かんでいた。

 上にも下にも星があり、波はなかった。船は見えない流れに運ばれ、帆もないのに進んだ。遠くで、月ほど大きな魚が腹を光らせて泳いでいた。

 僕らは十一日漂流した。

 最初の二日は、冒険だった。

 三日目から、飢えだった。

 船倉の乾パンは石のように硬く、樽の水は鉄の味がした。ホロは壊れた加熱器を直し、モケクは帆布で雨受けを作った。雨など降らなかったが、夜になると甲板に透明な露が溜まった。キシェレは毎日、同じ時刻に歌った。歌っているあいだだけ、遠くの巨大な魚が近寄らなかった。

 僕は航海日誌を読み続けた。祖父の知らない若さ、恐れ、怒りが頁に残っていた。

 七日目、ホロが言った。

「帰ったら、時計屋を継ぐのをやめる」

「どうして?」

「時計なんか信じられない。ここじゃ朝が来ない」

 九日目、キシェレが水を飲まなくなった。残りが少ないから、自分の分を僕らに回そうとしたのだ。モケクが彼女の鼻をつまみ、無理やり飲ませた。

 十日目、僕は羅針盤の二本目の針が、もう僕を指していないことに気づいた。

 遠い星の一つを指していた。

 十一日目、その星が白い裂け目になった。

 船は裂け目へ落ちた。

 冷たい風と雪が甲板を叩いた。空が戻り、海が戻り、僕らは高い波の谷へ沈んだ。右も左も氷山だった。

 水平線の向こうから、鐘を鳴らす黒い船団が現れた。

 船首に、双頭の鳥の旗が翻っていた。

 祖父の故郷だった。

五 雪の国の春

 ヴェレス帝国の人々は、僕らを幽霊だと思った。

 四十二年前に失われた船が、子ども四人だけを乗せて氷海から現れたのだから当然かもしれない。僕らは毛皮の服を着せられ、港の石造りの建物に閉じ込められた。扉には衛兵が立ち、窓の外では見物人が十重二十重に集まった。

 言葉はまったく通じなかった。

 ただし、祖父の手帳があった。左頁にヴェレス語、右頁に僕らの言葉。食べ物、方角、身体、祈り、悪態。最後の項目がいちばん多かった。

 ホロは三日で「腹が減った」と「それを分解してもいいか」を覚えた。モケクは五日で衛兵と腕相撲をし、七日で勝った。キシェレは港の礼拝堂で歌い、老司祭を泣かせた。

 僕は祖父の名を何度も言った。

「ミハイル・ボロディン」

 その名だけは、誰にでも通じた。

 役人たちは顔色を変え、僕らをさらに奥の部屋へ移した。

 やがて通訳が来た。ターニャという二十歳ほどの書記官で、髪を短く切り、片目に丸い硝子をはめていた。彼女は帝国大学で「外界語」を研究していたが、実際に話す相手が現れるとは思っていなかったらしい。

「あなたがたは、ボロディンの子孫?」

 ぎこちない僕らの言葉で、彼女は訊いた。

「孫です」

 僕が言うと、ターニャは椅子から立ち上がった。

「彼は、生きた?」

「生きました。結婚して、子どもをつくって、石工になって、七十まで」

 ターニャは窓の方を向いた。雪明かりで、頬を流れるものが見えた。

 彼女の曽祖父は〈聖なる鴎〉号の機関士で、公式には「任務中の反逆により消息不明」とされていた。

 帝国は僕らを首都へ送ることにした。

 帰るためには、女帝の許可が必要だという。

 旅は八十七日かかった。

 凍った海を橇で渡り、針葉樹の森を抜け、煙を吐く鉄道に乗った。町ごとに空気の味が違った。黒パンと酸っぱい汁を食べ、蒸気風呂でのぼせ、夜の二時にも沈まない太陽を見た。

 僕らは珍獣のように見物されたが、同時に客として丁重にもてなされた。子どもたちは僕らの服を触り、老人は祖父の話をせがんだ。どの家にも、海で消えた親族の肖像があった。ヴェレス帝国は広大で、豊かで、そして帰らない人の話に慣れすぎていた。

 春になるころ、僕らは日常会話ができるようになっていた。

 そのことが、僕を怖がらせた。

 朝起きてヴェレス語で夢を思い出し、塩町の路地の名がすぐ出てこない日があった。モケクは鍛冶場の親方から弟子になれと誘われた。ホロは帝国の時計がぜんまいでなく小さな蒸気筒で動くことに夢中だった。キシェレは礼拝堂の合唱で独唱を任された。

 僕だけが毎晩、地図を描いた。

 港から首都までの道。泊まった村。川の曲がり。雪原で見た一本杉。忘れないためではない。僕らの家が地図の外へ流されないよう、線で繋ぎ止めるためだった。

 首都レドリュゼルは、凍った大河の両岸に広がっていた。金色の屋根が百も並び、宮殿の窓は夕日を燃やしていた。

 その宮殿で、僕らは女帝に会った。

六 帰国願い

 女帝セヴェリナは、玉座に座っていなかった。

 長い机の端で、湯気の立つ茶を飲んでいた。白髪まじりの髪を後ろで束ね、軍服の上に黒い肩掛けを羽織っている。僕らが礼をすると、彼女は椅子を四つ出させた。

「座りなさい。漂流者を立たせて話す国は、文明国ではない」

 ターニャが訳すより先に、意味がわかった。

 女帝は祖父の手帳を一頁ずつ読んだ。途中で何度も指を止めたが、表情は変えなかった。

「ミハイル・ボロディンは、帝国の記録では反逆者です」

「違います」

 僕は即座に言った。

 部屋の奥にいた海軍卿ドルガン公が鼻を鳴らした。痩せた老人で、胸に勲章を重ねている。

「調査船を奪い、乗員を扇動し、国家機密である月門を敵国へ渡した。記録は明白だ」

「敵国じゃありません。僕らの町です」

「ならば、なお悪い」

 モケクが立ち上がりかけ、僕は袖を掴んだ。

 女帝は手帳の最後を閉じた。

「あなたがたは何を望む?」

「帰国を」

「月門は四十年前に閉鎖された。再起動には莫大な費用がかかる。しかも出口は、あなたがたの世界のどこに開くかわからない」

「月沼です。祖父の羅針盤が道を知っています」

「その羅針盤を帝国に渡し、ここに留まるなら、あなたがたを保護し、教育を与えよう。家族にも、可能なら使節を送る」

 部屋が静かになった。

 僕は返事ができなかった。

 ここにいれば、飢えることはない。モケクは鍛冶を学べる。ホロは好きなだけ機械を分解できる。キシェレは大聖堂で歌える。僕は帝国大学で、世界と世界の地図を描ける。

 塩町はもう取り壊されているかもしれない。

 帰る場所が、すでにないかもしれない。

 そのときキシェレが、静かに歌い始めた。

 月沼で歌った、祖父の子守歌だった。

 ターニャの顔が強張った。女帝も海軍卿も、その歌を知っていた。

「第九海軍の葬送歌です」とターニャが言った。「出征者の名を読み上げる前に歌います」

 キシェレは歌い終えた。

「沼に、七十三人います。名前を忘れて、ずっと帰れない人たちが」

 ドルガン公が机を叩いた。

「迷信だ!」

「なら、なぜ名簿がないんです?」僕は訊いた。「船の日誌には七十四人とある。でも帝国の記録は祖父一人しか名前を出さない。残りはどこです?」

 ドルガン公は答えなかった。

 女帝が、初めて茶から手を離した。

「名簿は存在するのね、海軍卿」

「陛下、古い失敗を掘り返せば、帝国の威信が――」

「存在するのね」

 長い沈黙のあと、老人は頷いた。

 四十二年前、帝国海軍は月門の実験を急ぎ、帰還装置が未完成のまま〈聖なる鴎〉号を送り出した。失敗を知った海軍上層部は救援を断念し、乗員を「反逆者」として記録から消した。祖父は一人で生き延び、真実を書いた。

「名簿をください」と僕は言った。「僕らが持ち帰ります」

「名簿は旧海軍省の封印庫にある」とドルガン公。「国家反逆資料だ。皇帝の印がなければ開かない」

 女帝は窓の外を見た。春の薄明が凍った大河を青くしていた。

「明日の夜、月食がある。月門を開ける唯一の時機よ」

 彼女は僕らに視線を戻した。

「今ここで命令を出せば、名簿は夜明けまでに焼かれるでしょう」

 ドルガン公の顔色が変わった。

「陛下!」

「私は何も命じていない」

 女帝は立ち上がり、祖父の手帳を僕へ返した。その下に、小さな金の鍵があった。

「漂流者は、ときに道を間違えるものです。今夜、宮殿の西門は修理中で、衛兵が少ない」

 モケクが笑った。

 ホロが鍵を拾った。

 キシェレはもう一度、子守歌の最初の音を口ずさんだ。

 僕らの帰国願いは、宝探しに変わった。

七 皇宮の地下

 旧海軍省は、宮殿の地下に埋まっていた。

 三十年前の火事で上階が焼け、その上に新しい舞踏館が建てられたという。地下へ通じる正式な階段は封鎖されていたが、ホロは暖房管の図面を一目見て、台所の石炭庫から入れる道を見つけた。

「どこの国も、秘密の部屋より煙突の方が正直だ」

 僕らは煤だらけになって管を這った。

 途中、舞踏館の床下を通った。頭上で貴族たちが月食前夜の宴を開き、靴音と音楽が響いている。僕らは腹這いで、その真下を進んだ。ホロがくしゃみをし、音楽が一瞬止まった。四人とも息を止めた。

 やがて管が崩れ、僕らは古い文書室へ落ちた。

 棚が迷路のように並び、革表紙の記録が天井まで積まれている。紙は湿気で波打ち、インクと黴の匂いがした。

 金の鍵は、最奥の鉄扉に合った。

 中には、黒い箱が一つだけあった。

 箱の蓋に〈第九外海調査・永久封印〉と刻まれている。鍵穴はなかった。代わりに、七つの回転盤があり、数字ではなく音符が並んでいた。

「また歌?」とモケク。

 キシェレは祖父の手帳を開いた。子守歌の旋律は七音で一巡する。彼女が回転盤を合わせると、箱の中で七つの錠が外れた。

 名簿は、薄い紙束だった。

 一番上に船長。次に航海士、機関士、医師、兵士、炊事夫。七十四番目に、ミハイル・ボロディン。

 ターニャの曽祖父の名もあった。

 キシェレは頁を胸に抱いた。

 背後で拍手がした。

 ドルガン公が扉に立っていた。

 衛兵を六人連れている。

「子どもは便利だ。陛下がどこまで知っているか、勝手に証明してくれる」

 僕らは後ずさった。

「名簿を渡せ。船も羅針盤も帝国が管理する。おまえたちは、雪原で病死したことにする」

 モケクが僕の耳元で囁いた。

「走れる?」

「どこへ?」

「走ってから考える」

 彼女は棚を蹴った。

 古い記録が雪崩れ、衛兵の前へ崩れ落ちた。僕らは横の小扉へ飛び込み、螺旋階段を駆け上がった。背後でドルガン公が叫ぶ。警鐘が鳴った。

 階段の先は舞踏館だった。

 月食の仮面舞踏会の真ん中へ、煤まみれの子ども四人が飛び出した。音楽が止まり、何百もの仮面がこちらを向く。

 ホロは楽団の大太鼓を倒した。モケクは料理を運ぶ台車を奪った。僕らは台車に飛び乗り、磨かれた床を滑った。貴族たちが逃げ、皿が飛び、果物と燭台が宙を舞う。

「西門!」と僕は叫んだ。

 台車は扉を突き破り、階段を下り、中庭を横切った。キシェレが名簿を服の中へ入れる。衛兵の銃声がして、石壁が欠けた。

 西門には、ターニャが馬車で待っていた。

「道を間違えたのね」と彼女は言った。

「盛大に!」とホロ。

 馬車は凍った大河へ向かった。

 月門の装置は、首都から五里下流の旧観測所にある。月食まで一刻。追手の橇が後ろに迫った。

 川の氷は春で薄くなっていた。馬車の車輪が割れ目を跨ぐたび、水が黒く口を開けた。ドルガン公の橇は軽く、距離を詰めてくる。

 観測所の尖塔が見えたとき、砲声がした。

 馬車の後輪が吹き飛んだ。

 僕らは氷の上へ投げ出された。名簿がキシェレの手から滑り、風に舞った。ドルガン公の橇がその上を通り、老人が紙束を掴む。

「これで死人は永遠に黙る」

 彼は火を点けた。

 名簿は青い炎を上げた。

 ターニャが膝をついた。

 僕は声も出なかった。

 そのとき、キシェレが歌った。

 子守歌ではない。

 名前だった。

「アレクセイ・グロモフ。パーヴェル・イリイン。ソーニャ・メレホワ――」

 彼女は封印庫で名簿を見た短いあいだに、七十四人の名を旋律として覚えていた。

 一人の名を一音節ずつ、切らさず歌った。

 ドルガン公の顔から血の気が引いた。

 月が欠け始めた。

 凍った川の下で、巨大な鐘が鳴った。

八 七十四番目の名

 旧観測所は、氷の上に建つ石の円環だった。

 中央に〈聖なる鴎〉号と同じ形の船が繋がれていた。新しい船ではない。四十二年前、救援に出るはずだった二番船だった。甲板には石炭と水、食料、それに三つの箱が積まれている。

 兵士たちが月門を起動していた。

 女帝の命令書を持つ近衛隊が、先に到着していたのだ。

 ドルガン公は橇を止めた。追ってきた衛兵たちも、誰の命令に従うべきかわからず動けない。

 女帝セヴェリナは、船の前に立っていた。

「海軍卿」と彼女は言った。「帝国の威信とは、罪を隠す厚さではない。罪を認めても立っていられる強さだ」

 ドルガン公は何も答えず、燃え残った名簿を氷へ落とした。

 月が半分消えた。

 円環の内側に黒い水が湧いた。氷の上なのに波が立ち、そこへ星空が映った。祖父の羅針盤の二本目の針が、僕の胸と黒い水のあいだを行き来した。

「船は四人をあなたがたの世界へ送り届ける」と女帝は言った。「箱の一つは、塩町への滞在料。帝国は四十二年間、あの町に一人の漂流者を養ってもらった。利息をつけた」

 モケクが箱を叩いた。金属の重い音がした。

「二つ目は、月門の共同管理を求める国書。あなたがたの王が賢ければ、町を壊す代わりに港を造るでしょう」

「三つ目は?」とホロ。

「工具よ。あなたが途中で全部落としたと聞いた」

 ホロは初めて女帝へ深々と頭を下げた。

 ターニャが僕に、小さな包みを渡した。中には七十三枚の新しい名札が入っていた。一枚ずつ名前が刻まれている。

「曽祖父に、遅くなったと伝えて」

「あなたも来ればいい」

 僕は思わず言った。

 ターニャは笑った。

「私はここで、帰ってくる人の名を記録する」

 別れの時間は短かった。

 モケクは鍛冶場の親方からもらった鉄の腕輪を握り、ホロは蒸気時計を胸に入れ、キシェレは礼拝堂の楽譜を抱えた。僕は女帝に祖父の手帳を見せた。

「これは持って帰ります」

「当然です。帰国者の言葉は、帰国者のものよ」

 月が細い環になった。

 僕らは船へ乗った。

 円環の黒い水が立ち上がり、壁になり、空になった。女帝、ターニャ、近衛兵、凍った都が遠ざかる。

 最後に見えたのは、ドルガン公が帽子を脱ぎ、燃え残った名簿へ頭を垂れる姿だった。

 船は星の海を一息で越えた。

 次に揺れたとき、月沼の泥が船底を擦っていた。

 空には、出発した夜と同じ青い満月があった。

 塩町では、まだ夜が明けていなかった。

 だが沼の踊りは続いていた。

 七十三の白い影が船を囲み、鈴を鳴らしている。僕らが名札を持って甲板へ出ると、影たちは踊るのをやめた。

 キシェレが一人目の名を歌った。

 僕が名札を沼へ投げる。

 白い影の一人に顔が戻った。髭の濃い、若い船長だった。彼は驚いたように自分の手を見て、それから遠い故郷へ礼をした。身体が光になり、月へ昇った。

 二人目。三人目。

 機関士、医師、炊事夫、兵士、測量士。

 名を呼ばれるたび、影は人に戻り、船へ乗り、光になった。

 ターニャの曽祖父は、油まみれの帽子を被った大男だった。ホロの新しい工具箱を見て笑い、親指を立てて消えた。

 七十三枚目の名札がなくなると、沼は静かになった。

 けれど鈴が一つだけ鳴り続けていた。

 葦の奥から、最後の影が歩いてきた。

 背が高く、片足を少し引きずっている。石工の手。僕が知っている祖父の歩き方だった。

「名札がない」とキシェレが囁いた。

 祖父は名簿では七十四番目だった。だが彼は船とともに死んだのではない。この世界で生き、この世界で葬られた。ターニャが作った名札は、沼に残った七十三人分しかない。

 白い影が僕の前に手を差し出した。

 僕は祖父の羅針盤を掌に載せた。

「ミハイル・ボロディン」

 ヴェレス語で呼んだ。

「あなたは帰れなかった。でも、ここでミハルと呼ばれて、祖母を愛して、父を育てて、僕に地図を残した」

 影の葦がほどけ、祖父の顔が現れた。

 僕の記憶より若く、航海日誌の文字より穏やかな顔だった。

「あなたの故郷を見た。雪の国だった。みんな、あなたを待っていた」

 祖父は笑った。

 そして羅針盤を僕の手へ戻した。

 二本目の針は、塩町を指していた。

「七十四番目、ミハイル・ボロディン。帰還」

 キシェレが歌った。

 祖父は船へ乗らなかった。

 僕の頭に手を置く仕草をしてから、七十三人の光とは反対に、塩町の方へ歩いた。朝靄の中で姿は薄れ、最後に石工の槌の音だけが残った。

 月沼の水が引き始めた。

 星の船は泥の上に静かに着き、もう二度と動かなかった。

九 朝日の港

 僕らが井戸から這い出したとき、東の空が白んでいた。

 塩町には人夫が集まり、最初の家に縄を掛けているところだった。徴発官ラドは共同井戸の脇で毛布に包まれ、昨夜から「葦の顔が踊る」と繰り返していた。僕らを見ると悲鳴を上げ、泥の中へ逃げた。

 父は僕を殴ろうとして、抱きしめた。

 モケクの母は娘を抱きしめてから殴った。ホロの親方は新しい工具箱を見て、殴るのを忘れた。キシェレの老司祭は、彼女が歌い始めた七十四人の名を、黙って最後まで聞いた。

 港務局の役人は、女帝の国書を偽物だと言った。

 そこでモケクが一つ目の箱を開けた。

 中には、青銀貨がぎっしり詰まっていた。こちらの国にはない金属で、朝日に当たると雪のような匂いがした。王立鑑定官が一枚を削り、火に入れ、酸に浸け、最後には帽子を脱いだ。

 箱の底には、塩町の土地代を三度払って余るだけの価値があった。

 国書は王宮へ運ばれた。

 三日後、取り壊しは中止された。

 三月後、塩町は〈外海使節港〉に指定された。

 大人たちは、すべてが子どもの作り話から始まったことを、なるべく忘れようとした。月沼の場所を尋ねられても、地図には岬しか描けない。二重月の夜でなければ、笑う崖の出口はただの岩壁になる。ヴェレス帝国から次の船が来たのは、それから十二年後だった。

 そのころ、僕らはもう子どもではなかった。

 モケクは塩町で最初の異国式鍛冶場を開いた。ホロは蒸気時計を改良し、世界が違っても同じ時を刻む時計を作ろうとして、三度工房を爆発させた。キシェレは寺院を出て、帰らない船乗りの名を歌う旅の歌い手になった。

 僕は地図師になった。

 海岸線や山脈だけでなく、人がどこから来て、どこへ帰りたがったかを地図に書くようになった。道のない場所には、道がないと記した。帰れなかった者の名は、余白に残した。

 祖父の羅針盤は、今も机の上にある。

 一本の針は北を指す。

 もう一本は、日によって違う場所を指す。雪の都。樽工房。古い寺院。壊れた時計屋。ときには、もう水のない月沼。

 僕は長いあいだ、それを故障だと思っていた。

 けれど今は違う。

 二本目の針が指すのは、故郷ではない。

 帰りたいと願った誰かのいる方角なのだ。

 満月の夜、塩町の石畳に雨水が溜まると、そこに知らない空が映ることがある。

 耳を澄ませば、遠い雪の国から七十四人ぶんの鈴が鳴る。

 そして僕は、帰還者の名を一人ずつ、地図の余白に書き足していく。