『月牢を抜けて、眠らない都へ』
一 赤い釘
明日の正午、ツバメ棚は空へ落ちる。
その知らせは、役人たちが家々の扉へ打ちこんだ赤い釘の形でやってきた。
ツバメ棚は、浮遊大陸オルドの西端、雲海へ突き出した崖にへばりつく町だった。家は岩棚の上だけでなく、太い鎖や梁で崖の腹にも吊られている。風が強い夜には町全体がきしみ、鍋も寝台も、住人の歯まで同じ調子で鳴った。
帝国の通知には、こうあった。
――第九鉱脈採掘のため、明日正午をもって全建造物を撤去する。
――居住権の買い戻しを望む者は、王金八百枚を納めよ。
「八百枚だって」
十四歳のチタナは、玄関の赤い釘を両手で引っぱりながら言った。
「町じゅうの財布を逆さにして、靴底まで振っても八十枚あるかどうかだよ」
「じゃあ、十回逆さにすればいい」
ナメトが真顔で答えた。十三歳。針金のように細く、いつも耳の後ろへ小さなねじ回しを挟んでいる。
「おまえは算術を発明からやり直せ」とヨルドルが言った。
ヨルドルは十五歳で、パン屋の息子だった。肩幅は大人より広いが、暗いところと虫と大きな音と小さな音が苦手だった。つまり、だいたい何でも怖がった。
最後の一人、十二歳のミミは、役人が置いていった撤去通知を丸め、望遠鏡のようにのぞいた。
「向こうの官舎、窓が開いてる。いまなら獄侯ザフィアンに、この紙を食べさせに行けるよ」
「食べさせても明日は来る」
チタナは赤い釘から手を離した。指の皮がむけていた。扉の奥は父の工房で、壁という壁に地図が掛かっている。雲の流れ、浮島の高度、星鯨の回遊路。けれど父のセドは二年前からいなかった。
帝国の測量官だった父は、第九鉱脈の地図を改ざんした罪で、崖の上の月牢へ送られた。月牢は三日月形の石造監獄で、外壁の半分が断崖から突き出している。逃げれば雲海へ落ち、残れば一生出られない。そういう場所だった。
「八百枚、か」
チタナが呟いたとき、天井裏で何かが落ちた。
乾いた音が一つ。続いて、ころころと床を転がってきたのは、真鍮の魚だった。父がよく使っていた、方角を測るための小さな重りだ。
ナメトが拾い上げる。
「腹に継ぎ目がある」
ねじ回しを差しこむと、魚は二つに割れた。中から細く巻かれた皮紙が出てきた。
地図だった。
ただし、描かれているのはツバメ棚でも大陸でもない。月牢の断面と、その地下へ伸びる一本の水路。さらに下には、黒い湖。そして湖の真ん中に、塔の群れが逆さまに描かれている。
余白に、父の字があった。
――影なき月の夜、牢の乾いた喉を下れ。
――眠らぬ都で、与えられたものだけを取れ。
――王金千枚より重いものが、そこにある。
――チタナへ。これを見つけたなら、私はまだ失敗している。
四人は、しばらく黙って地図を見た。
窓の外では、三つある月のうち二つが重なり始めていた。残る一つは雲に隠れ、地上へ影を落としていない。
「今夜だ」とナメトが言った。
「月牢だぞ」とヨルドルが言った。「帝国で一番、出られない牢だぞ」
「入るのは簡単だよ」
ミミが役人そっくりの声で言った。
「『貴様ら、全員逮捕だ!』ってね」
チタナは地図を畳んだ。父の字を見たせいか、胸の中で二年間固まっていたものが、ひび割れる音がした。
「入る。父さんを連れ出す。それから都へ行く。朝までに帰って、町を買う」
ヨルドルが青ざめた。
「その計画、途中に無理が四つある」
「五つだよ」とナメト。「帰り道がない」
ミミは笑った。
「じゃあ、帰り道を盗もう」
二 月牢は内側から開く
月牢へ運びこまれるものは三種類ある。
罪人。食料。洗濯物。
四人はそのうち、いちばん臭そうで、いちばん調べられないものを選んだ。
夜の鐘が八つ鳴るころ、月牢の裏門へ、汚れた囚人服を満載した荷車が入っていった。御者台にはナメトが作った木製の人形が座り、ばね仕掛けの腕でときどき鞭を振っている。声は荷台に潜ったミミが出した。
「第六洗濯場より、三十七袋!」
門番は鼻をつまんだ。
「今日は三十五袋のはずだ」
「二人、余計に汚したんでしょうな」
「囚人が?」
「看守が」
門番は笑い、荷車を通した。
うまくいったのは、そこまでだった。
月牢の中庭で、車輪が外れた。
荷車は横倒しになり、囚人服の山と一緒に四人が転がり出た。木製の御者はまっすぐ走り続け、井戸へ落ちた。
看守たちは一瞬、何が起きたかわからない顔をした。
ミミが獄侯の声で叫んだ。
「見なかったことにしろ!」
三人ほどは本当に目をつぶった。残りは笛を吹いた。
四人は十分後、受付牢へ放りこまれていた。
「入るのは簡単だったね」
ミミが言った。
「黙れ」とヨルドルが答えた。
牢の隅から、拍手が聞こえた。
そこには一人の男が座っていた。黒い長衣、灰色の髪、鳥のくちばしのように曲がった鼻。両手には鉄の枷がはまっているが、なぜか右手だけ枷の外に出ていた。
「見事な侵入だった。特に、井戸へ消えた御者がいい。あれは二度と捕まらん」
「誰?」
チタナが聞くと、男は立ち上がり、礼をした。
「ラズ・カラス。牢から人を出す仕事をしている」
「自分が入ってるじゃないか」とナメト。
「仕事場には出勤するものだ」
ラズは左手を軽く振った。枷が床へ落ちた。
「月牢には、壊せない錠が百二十。越えられない壁が十四。看守が九十七人。犬が十一匹。料理人が一人。料理人がいちばん危険だ。去年、スープを飲んで三人死んだ」
「どうやって出るの?」
「今夜は客が多いな。君たちのほかに、もう一人いる」
ラズはチタナの手にある真鍮の魚を見た。
「地図師セドの娘だろう」
チタナは皮紙を背中へ隠した。
「父さんを知ってるの?」
「彼を出すために来た。依頼人は名乗らなかったが、金払いはよかった。半分は偽金だった」
「それ、金払い悪いって言わない?」とミミ。
「残り半分が本物なら、冒険としては上等だ」
廊下の向こうで鉄の鐘が鳴った。
ごごご、と牢全体が震え始める。
「何の音?」ヨルドルが壁へしがみついた。
「月牢の名物だ」
ラズは楽しそうに言った。
受付牢の壁が横へ動いた。いや、壁ではない。牢の並ぶ円筒そのものが、巨大な水車のように回転しているのだ。石造りの廊下がゆっくり傾き、天井だった面が壁へ、壁だった面が床へ変わっていく。
「七分ごとに内郭が回る。すべての牢は、決められた時刻にだけ中央通路とつながる。掘っても、扉を破っても、外へは出られない」
「父さんはどこ?」
「零号房。設計図に存在しない牢だ」
ラズはナメトを見た。
「ねじ回しの坊や。歯車を止められるか」
「見れば」
「大男。三百斤の重りを持てるか」
「怖くなければ」
「声の娘。獄侯の命令を盗めるか」
「本人より上手に」
最後に、ラズはチタナを見た。
「地図師。回る迷路で、道を覚えられるか」
チタナは答えず、床へ耳を当てた。
七分ごとに回る。回転には二十三秒。西側の継ぎ目で水音。北側で鎖が二度鳴る。父の地図に描かれた「乾いた喉」は、牢の回転軸の内側を通っている。
「覚えるんじゃない。次に来る道を描く」
チタナは床の埃へ指を走らせた。
「零号房は下じゃない。回転軸の中だ」
ラズの笑みが深くなった。
「今夜の客は、当たりらしい」
脱走は、料理人から始まった。
ミミが伝声管へ口をつけ、獄侯ザフィアンの太い声をまねた。
「全看守へ。厨房のスープに毒が入った。料理人を捕らえろ!」
月牢じゅうから歓声が上がった。
看守が厨房へ殺到する間に、ナメトは小さな機械虫を鉄格子の外へ放った。六本脚の虫は床を這い、監視室の歯車箱へ潜りこむ。ナメトが糸を引くと、虫の腹から砂鉄が噴き出し、油まみれの歯車へ絡みついた。
内郭の回転が、半分のところで止まった。
廊下は斜めになった。扉が天井近くへ移り、看守たちが転げ落ちる。
ヨルドルは唸り声を上げながら、回転を戻そうとする釣り合い重りを抱えた。腕が震え、顔が赤くなる。
「これ、怖くない種類の三百斤じゃない!」
「怖くない三百斤って何だよ!」ナメトが叫ぶ。
「パン生地とか!」
ラズは看守の腰から鍵束を抜き、走りながら次々と牢を開けた。
「祭りだ! 出口はないが、廊下はあるぞ!」
囚人たちが飛び出し、月牢はたちまち怒号と笑い声と食器の飛ぶ音で満たされた。
チタナたちは傾いた廊下を駆け上がり、回転軸の点検口へ入った。中は人一人がやっと通れる空洞で、中心を太い鉄柱が貫いている。
その奥に、扉のない石室があった。
床に、父のセドが座っていた。
二年前より痩せ、髭は胸まで伸びていた。けれど、目は昔と同じだった。地図を見るときだけ、世界の端まで届くように澄む目。
「チタナ」
父が立ち上がろうとして、膝をついた。
チタナは抱きつきたいと思った。殴りたいとも思った。どちらもできず、代わりに言った。
「町が明日、壊される」
「わかっている」
「地図を残したね」
「ああ」
「私はまだ失敗している、って何」
セドは答える前に、石室の奥を見た。
「ここで話すには、月牢は耳が多すぎる」
そのとき、鉄柱の向こうから拍手が聞こえた。
獄侯ザフィアンが立っていた。
赤銅色の甲冑。首から上だけでもヨルドルの胴ほど太い。背後には弩を構えた看守が並んでいる。
「感動の再会だな、地図師」
ザフィアンは片目を細めた。
「そして、さすがはラズ・カラス。私の雇った脱獄屋は、期待どおりに零号房まで来た」
チタナがラズを見る。
ラズは肩をすくめた。
「依頼人が名乗らなかったと言っただろう。趣味の悪い甲冑を着ているとは聞いていなかった」
「貴様にはセドを牢から出してもらいたかった。零号房の中では、いくら痛めつけても都への道を話さなかったからな」
ザフィアンが手を上げる。
「全員、生け捕りにしろ」
ラズはため息をついた。
「生け捕りは嫌いだ。料金が安い」
彼は鉄柱の根元へ、一本の針を投げた。
ぱちん、と小さな音がした。
次の瞬間、止まっていた内郭が一気に回った。
石室が横倒しになり、看守も獄侯も、チタナたちも、まとめて暗い穴へ投げ出された。
三 牢の乾いた喉
落下は、三秒続いた。
チタナには三十秒に思えた。
最後に全員が、灰だらけの斜面へ突っこんだ。そこは月牢の回転軸から下へ続く、古い排水路だった。水は一滴もない。父の地図にあった、乾いた喉。
「全員いる?」
チタナが咳こみながら叫ぶ。
「いる」とナメト。
「死んでる」とヨルドル。
「しゃべる死体は運ばないよ」とミミ。
ラズがセドを肩へ担いでいた。父の右足には古い傷があり、うまく動かないらしい。
上の穴から、ザフィアンの怒鳴り声が落ちてきた。
「追え! 都へ先回りしろ!」
セドの顔色が変わった。
「先回りの道を知っているのか」
「第九鉱脈を爆破するつもりなんだ」とチタナ。「町ごと崖を削って、地下へ入る」
セドは目を閉じた。
「私が地図を改ざんしたのは、鉱脈を隠すためじゃない。あれは鉱脈ではない。都の外壁だ」
乾いた水路を走りながら、父は話した。
昔、オルド大陸がまだ地上にあり、雲海がただの海だったころ、黒い湖のほとりにナヴァルという都があった。
ナヴァルの人々は、湖の南に住む葦の民を「泥の子」と呼び、獣より下に扱った。葦の民は人とは少し違っていた。指が長く、瞼が三枚あり、水の中でも歌えたという。
ある年、ナヴァル王は葦の民の祭壇を襲い、「月の骨」と呼ばれる白い石を奪った。都はその石を王冠にはめ、征服の証として大宴会を開いた。
翌朝、ナヴァルは消えていた。
湖の水も、塔も、十万人の住民も。
残ったのは、岸に並んだ十万足の靴だけだった。
「それから三百年に一度、影なき月の夜だけ、都は湖へ戻る」
セドは息を切らしながら続けた。
「都の宝物庫には、建国期の月王金が眠っている。一枚で普通の王金二百五十枚分。四枚あれば町を買える」
「どうして今まで取らなかったの?」ミミが聞いた。
「取ろうとした者はいた。誰も帰らなかった」
「父さんも?」
チタナの声が尖った。
「二年前、私は入口まで行った。だが、都を起こせばザフィアンに知られる。戻って地図を消そうとしたところで捕まった」
「じゃあ、私たちが見つけなかったら、ずっと牢にいるつもりだった?」
父は黙った。
「町も、私も置いて?」
「守るつもりだった」
「地図を?」
「おまえたちをだ」
「同じじゃないよ」
言葉は水路の石壁にぶつかり、遠くまで響いた。
その先から、別の音が返ってきた。
ぬるり、ぬるりと、濡れたものが這う音。
「水はないんだよな」
ヨルドルが小声で言った。
「ああ」とセド。
「じゃあ、あれは何が濡れてるんだ」
闇の中で、青白い目が二つ開いた。
洞鰻だった。脚の生えた巨大な鰻で、口が縦に裂けている。さらに二匹、三匹。乾いた水路の壁穴から這い出してくる。
「走れ!」
ラズの号令で全員が駆けた。
洞鰻は腹の吸盤を石へ貼りつけ、信じられない速さで迫った。最後尾のヨルドルが泣き声を上げる。
「僕、鰻も怖い!」
「知ってる!」
ナメトが機械虫を投げた。虫の腹が光り、洞鰻の一匹が食いつく。直後、ぱん、と破裂して煙を噴いた。
「僕の最高傑作が!」
「さっき歯車で使ったのと同じじゃないか」とミミ。
「兄弟機!」
水路の先は行き止まりだった。
丸い石蓋。中央に、皿ほどのくぼみがある。
セドが叫ぶ。
「水門だ。水圧で開く!」
「水がない!」チタナが言う。
洞鰻が迫る。
ヨルドルは背負っていた袋から、平たいパンを三枚取り出した。
「非常食、ごめん!」
パンをくぼみへ重ね、拳で押しこんだ。さらに水筒の水をかける。パンは膨らみ、隙間を塞いだ。
「ナメト、空気を!」
ナメトはふいご式の火起こし器を差しこみ、全力で踏んだ。
空気圧が上がる。
石蓋が、低い音を立てて開いた。
全員が隙間へ滑りこむ。最後のラズが、飛びかかってきた洞鰻の口へヨルドルの残りのパンを放りこんだ。
「パン屋の息子、君を雇いたい」
「食べ物を怪物に投げる仕事は嫌です!」
石蓋が閉じた。
向こう側は、突然ひらけた空間だった。
天井も壁も見えない。
足元には、鏡のように黒い湖が広がっている。岸辺には白い葦が生え、風もないのに、一斉に同じ方向へ傾いていた。
湖の中央で、何かが水面を押し上げていた。
まず、尖塔の先が現れた。
次に屋根。橋。像。広場。
水を滴らせながら、ひとつの都が、音もなく浮上してくる。
三つの月が空で重なった。
黒い湖には、四つ目の月が映っていた。
四 眠らない都
都へ続く橋は、途中で切れていた。
向こう岸まで十歩ほどの隙間がある。下は黒い水で、水面には見知らぬ星が映っている。空を見上げても、そんな星はない。
「跳ぶ?」とミミ。
「跳べる距離じゃない」とヨルドル。
ナメトが縄を取り出したところで、セドが止めた。
「待て。ナヴァルの道は、見えるものと同じ場所にない」
橋のたもとには、古い文字が刻まれていた。
――客は水を歩き、盗人は石を歩く。
チタナは湖を見た。
水面には、切れていない橋が映っている。
「下を見るんだ」
彼女は切れ目の縁へ立ち、反射の橋だけを見ながら足を出した。
靴底が、何もない空中で硬いものへ触れた。
「道がある」
「ないよ」とナメト。
「ある。目で探すと消える道」
チタナは水面から視線を外さず、一歩ずつ進んだ。背後でヨルドルが祈り、ミミがその祈りをからかい、ラズが「客から先に」と言って父を押し出した。
全員が渡り終えると、見えない橋は水音を立てて崩れた。
ナヴァルの門は開いていた。
町並みは、人間のために造られたようで、どこか少しずつ間違っていた。
階段は一段ごとに高さが違う。窓は家の内側へ開く。扉の取っ手は天井近くにあり、通りの角を曲がると、さっきまで背後にあった塔が正面に立っている。
広場には大勢の像が並んでいた。
王冠をかぶった男。杯を掲げる貴族。楽器を持つ奏者。皿を運ぶ召使い。
全員が宴の最中らしい。
だが、像の顔だけが削り取られていた。
「十万人の靴って話、嘘じゃなさそう」
ミミは道端を指した。
石畳の上に、靴が一足ずつ並んでいた。
どれも、つま先を湖へ向けている。
ナメトが一軒の家をのぞきこんだ。食卓には腐っていない果物、湯気を立てる肉料理、まだ泡の消えない酒。三百年に一夜しか現れない都で、宴だけが続いている。
椅子には誰もいない。
ただ、座面がゆっくり沈み、見えない誰かが腰かけた。
「見なかったことにしよう」とヨルドル。
「賛成」とチタナ。
彼らは都の中心、王宮を目指した。
地図は役に立たなかった。通りが歩くたびに形を変えるからだ。そこでチタナは、建物ではなく靴を目印にした。すべての靴が湖を向くなら、逆へ進めば王宮へ着く。
途中、彼らは葦の民を描いた壁画を見つけた。
長い指。三枚の瞼。頭に白い葦の冠。
最初の壁画では、彼らはナヴァルの人々へ魚や薬草を渡していた。二枚目では、兵士に鎖でつながれていた。三枚目では、燃える集落の前で、一人の王が白い石を掲げている。
最後の壁画は黒く塗りつぶされていた。
黒い絵の具だと思ったものが、ゆっくり垂れた。
水だった。
壁の中から、誰かが爪を立てる音がした。
セドはチタナの肩へ手を置いた。
「宝物庫は王宮の地下だ。月王金を四枚だけ取る。ほかには触れるな」
「与えられたものだけを取れ、って書いてあった」
「あれは私の推測だ」
「推測?」
「最初に都へ入ったとき、門の近くで声を聞いた。『盗むな』と」
「それを先に言ってよ」
「牢の中では、もう少し勇敢に思い出せた」
ラズが笑った。
「父親はみんな、子の前で自分を一割ほど立派に語るものだ」
「あなた、子どもいるの?」ミミが聞く。
「いたら、この仕事はしていない」
答えは軽かったが、それ以上聞かせない重さがあった。
王宮の階段へ着いたとき、背後で爆音がした。
都の外壁が崩れ、炎と煙の中から、獄侯ザフィアンが現れた。二十人ほどの看守と鉱夫を連れている。彼らは第九鉱脈を爆破し、岩盤を貫いてきたのだ。
「地図師!」
ザフィアンの声が都へ響く。
「先導に感謝する!」
ラズは舌打ちした。
「客が追いついてきた。追加料金を取るべきだった」
看守の弩が一斉に上がる。
チタナたちは王宮へ逃げこんだ。
玄関広間には、千枚の鏡が立っていた。
走る彼らの姿が、千通りに映る。幼い姿。老いた姿。王冠をかぶる姿。鎖につながれる姿。水の中で口を開く姿。
ミミが足を止めた。
鏡の一つに、赤い釘のないツバメ棚が映っていた。家々は新しく、住人は笑い、ミミ自身はきれいな服を着て、誰かの娘として食卓に座っている。
鏡の中の母親が手を招いた。
「ミミ」
本物のチタナが呼ぶ。
「それは道じゃない」
ミミは唇を噛み、鏡へ背を向けた。
次の瞬間、鏡の中の母親の顔が縦に割れ、濡れた葦があふれ出した。
ヨルドルが悲鳴を上げた。
四人と大人二人は鏡の間を走り抜け、地下への螺旋階段を下った。
最後の一段で、ザフィアンが待っていた。
別の階段から先回りしたらしい。
彼の鉄拳がラズの腹へ入り、脱獄屋は壁へ叩きつけられた。看守たちがセドと子どもたちを取り囲む。
「遊びは終わりだ」
ザフィアンはチタナの手から地図を奪った。
「ここからは、大人が宝を数える」
五 与えられたもの
宝物庫には、金がなかった。
扉の向こうにあったのは、円形の広間と、中央の浅い池だけだった。
池の底に、白い石が沈んでいる。
人の頭ほどの大きさで、骨のように白く、ときどき内側から脈打つ。石を囲むように、四つの小さな台座があった。
「月の骨だ」
セドが青ざめる。
「王金はどこだ!」ザフィアンが怒鳴った。
その声に応えるように、広間の壁がきらめいた。
壁一面へ、金貨が現れた。
山。川。波。床から天井まで、数えきれない月王金が積み上がっている。一枚一枚が淡い光を放ち、広間を昼のように照らした。
看守たちが息をのんだ。
セドが叫ぶ。
「見るな! 触るな!」
遅かった。
一人が金貨の山へ駆け寄り、両手ですくった。
金貨は手の中で水になった。
男の影が、床から剥がれた。
黒い影は持ち主の足首をつかみ、壁の中へ引きずりこんだ。男は悲鳴を上げ、指で石床を掻いた。爪が割れ、血がにじんだ。だが次の瞬間、男も影も消えた。
床には、一足の靴だけが残った。
ほかの看守が後ずさる。
ザフィアンは笑った。
「臆病者め。罠には仕組みがある」
彼は槍で池の白い石を突いた。何も起きない。
「本物の宝はこれだ」
「やめろ!」セドが身を乗り出す。
ザフィアンは池へ入り、白い石を持ち上げた。
その瞬間、都じゅうで宴の鐘が鳴った。
ごうん。
ごうん。
ごうん。
壁の金貨が一斉に溶け、黒い水となって広間へ流れこんだ。
天井からも水が落ちる。
鏡のような水面に、白い葦の冠をかぶった影が立っていた。一人。十人。百人。
三枚の瞼が、順番に開く。
口はない。
それでも声は聞こえた。
――返せ。
誰の耳にも、別の声で。
チタナには母の声に聞こえた。ナメトには死んだ祖父の声。ヨルドルには自分自身の泣き声。ミミには、顔を知らない母親の声。
ザフィアンは白い石を抱え、出口へ走った。
「退却だ! 宝は手に入れた!」
「それを持ち出したら都がもう一度滅びる!」セドが叫ぶ。
「知ったことか!」
看守たちも逃げ始めた。
黒い水が床を覆う。水中から、見えない手が足首を探る。
ラズは倒れたまま、片目だけ開けた。
「声の娘」
ミミが近づく。
「死んだ?」
「料金をもらうまでは死なん。獄侯の声で、『子どもを連れていけ』と言え」
ミミはうなずき、ザフィアンそのままの声で怒鳴った。
「そこの四人を盾にしろ! 連れてこい!」
混乱した看守二人が、チタナたちの腕をつかんで出口へ引っぱった。
ラズはその背後から起き上がった。手には、いつ抜いたのか看守の短剣がある。二人の帯だけを切り、足を払う。
「命令変更だ。子どもが大人を連れていく」
ヨルドルがセドを背負い、ナメトがラズの肩を支えた。六人は階段へ駆け戻った。
王宮が震えていた。
鏡の間では、鏡の中から水が噴き出している。宴会場では、顔のない像が動き始めていた。石の杯を掲げ、誰もいない席へ乾杯している。
通りへ出ると、都は別の姿になっていた。
家々の窓から灯りが漏れ、透明な住民が歩いている。彼らは笑い、歌い、踊っているが、全員の足が地面から少し浮いていた。そして誰も、自分たちの背後に迫る黒い水を見ようとしない。
三百年前の最後の夜が、繰り返されている。
ザフィアンは白い石を抱え、外壁の爆破口を目指していた。
「追わなきゃ」とチタナ。
「町へ戻るなら逆だ」とセド。
「あれを持ち出されたら、湖の底にいるものが追ってくる。都だけじゃない。月牢も、ツバメ棚も巻きこまれる」
「どうしてわかる」
「地図を見れば」
チタナは、父から取り返した皮紙を広げた。
都の塔。湖。月牢。ツバメ棚。
一本の線でつながっている。
それは道ではなかった。巨大な何かの背骨のようだった。
「全部、同じものの上に建ってる」
父がうなずいた。
「この大陸が浮いている理由を、帝国は知らない」
地下から、心臓のような振動が響いた。
一度。
湖面が盛り上がる。
二度。
都の塔が傾く。
三度。
遠くで月牢の鐘が鳴り、崖全体が沈んだ。
「白い石を戻す」
チタナが言った。
ラズは口の血を拭った。
「いい計画だ。無理が一つしかない」
「何?」
「獄侯から奪う」
「さっきより少ない」
四人は走った。
屋根が道へ倒れ、道が壁へ変わる。透明な住民たちが踊りながら崩れていく。その間を、ザフィアンの赤銅色の甲冑が進んでいた。
ナメトは腰の袋を探った。
「機械虫はもうない」
「ねじ回しは?」チタナ。
「ある」
「十分」
前方に、都の昇降塔があった。丸い籠が鎖で吊られ、爆破口の近くまで上がっている。ザフィアンが籠へ乗りこむ。看守が巻き上げ機を回した。
チタナたちは塔の下へ滑りこんだ。
「ナメト、止めて」
「止めるだけ?」
「落として」
「それなら得意」
ナメトは巻き上げ機の覆いを外し、ねじ回しを歯車へ突っこんだ。
火花。
鎖が止まり、逆回転した。
籠が急降下する。
ザフィアンが吠えた。途中の窓枠へ腕を伸ばし、白い石を片手に抱えたまま、塔の外壁へ飛び移る。
人間離れした力だった。
彼は壁をよじ登り、屋根へ上がった。
ラズが笑う。
「獄侯は逃げる才能がある。惜しいな、性格が悪い」
ヨルドルが四つん這いになった。
「乗って!」
「何に?」ミミ。
「僕に! 屋根まで届く!」
ミミとチタナがヨルドルの背へ乗り、ナメトが肩へ乗る。三人を支えたまま、ヨルドルが立ち上がった。ナメトが屋根の縁をつかみ、ミミを引き上げ、最後にチタナが上がる。
「僕も!」下でヨルドルが叫ぶ。
「すぐ戻る!」
「その言葉、冒険では信用できない!」
屋根の上で、ザフィアンが振り返った。
その背後には黒い湖。正面には三人の子ども。
「どけ」
獄侯の声は低かった。
「その石を返して」とチタナ。
「これは帝国を買える宝だ」
「町一つも持ってないくせに」
ミミが言った。
ザフィアンの顔が歪む。
彼は白い石を脇へ抱え、剣を抜いた。
ナメトがねじ回しを投げた。
ねじ回しは剣に当たって跳ねた。何の役にも立たなかった。
「十分って言っただろ!」ナメトが抗議する。
「気をそらすには!」
その一瞬に、ミミがザフィアンの背後へ回っていた。
獄侯そっくりの声で、彼の耳元へ囁く。
「後ろだ」
ザフィアンが反射的に振り向く。
チタナは白い石へ飛びついた。
二人でもつれ、屋根を転がる。
石が手を離れ、宙へ跳ねた。
屋根の端。
黒い湖の上。
ザフィアンとチタナが同時に手を伸ばす。
先に石をつかんだのは、チタナだった。
その手首を、ザフィアンがつかんだ。
「よこせ」
「嫌だ」
「町を救いたいのだろう。これを売れば、町どころか大陸を買える」
「それは、もらったものじゃない」
「子どもの理屈だ!」
「大人の理屈で都が滅びた!」
屋根が割れた。
チタナの足元が崩れる。
ザフィアンは彼女の手首を放し、屋根の反対側へ飛びついた。
チタナは白い石を抱いたまま落ちた。
黒い湖へではない。
下から跳んだヨルドルの腕の中へ。
「戻ってきた!」ヨルドルが泣きながら言った。
「すごい!」
「怖かった!」
「それもすごい!」
屋根の向こうで、ザフィアンが立ち上がった。
だが彼の影は立たなかった。
影だけが屋根へ残り、両腕を長く伸ばして獄侯の足をつかむ。
ザフィアンは剣を振り下ろした。影に刃は通らない。
「私は帝国の獄侯だぞ!」
影は答えず、彼を屋根の中へ引きずりこんだ。
最後に残ったのは、赤銅色の靴一足だった。
六 空へ落ちる前に
白い石を池へ戻すには、崩れかけた都を逆戻りしなければならなかった。
黒い水は腰まで増えていた。
透明な住民たちはもう踊っていない。全員が湖の方角を向き、静かに立っている。三百年前と同じように。
チタナたちは王宮へ走った。
父を背負うヨルドル。ラズを支えるナメト。先へ進むミミ。白い石を抱くチタナ。
石は冷たいのに、鼓動していた。
どくん。
そのたびに、チタナの頭の中へ景色が流れこんだ。
白い葦の村。水中の歌。魚の骨で編んだ冠。笑う子どもたち。
次に、火。
鎖。
王の手。
奪われる白い石。
最後に、都の宴会。
ナヴァルの人々は、自分たちが勝ったと思っていた。葦の民を滅ぼし、湖も神も財宝も手に入れたと思っていた。
けれど湖は、勝ち負けを知らなかった。
ただ、取られたものを取り返した。
王宮の地下へ着いたころ、黒い水は胸まで上がっていた。
池の周りに、葦の民の影が立っている。
百人。千人。
三枚の瞼が、ゆっくり開く。
――返せ。
チタナは白い石を池へ沈めた。
鼓動が止まった。
都の鐘も止まった。
完全な静けさの中で、池の底から四つの泡が上がった。
ぱちん、ぱちん、と水面で弾ける。
四つの小さな金貨が、池の縁へ転がった。
片面には三つの月。もう片面には、白い葦の冠。
月王金だった。
「与えられた」
ミミが囁いた。
チタナは一枚だけ取った。ナメト、ヨルドル、ミミも一枚ずつ取る。
セドもラズも手を出さなかった。
葦の民の影が道を開けた。
その先には、来たときにはなかった扉がある。
扉の向こうから、ツバメ棚の風の匂いがした。
「帰り道だ」
チタナが言う。
ラズは首を振った。
「違う。これは出口だ。帰り道は、自分で作ったほうだ」
背後で都が沈み始めた。
彼らは扉へ飛びこんだ。
落ちた先は、月牢の中庭だった。
夜明け前の空が見える。牢の囚人たちはほとんど逃げ、看守たちは厨房で料理人に追い回されていた。内郭は斜めに止まり、木製の御者だけが井戸の中でまだ鞭を振っている。
「生きてた!」ナメトが歓声を上げた。
「どっちが?」とミミ。
「御者!」
遠くで爆破用の鐘が鳴った。
正午にはまだ早い。
ザフィアンは、計画を早めていた。
月牢の外へ出ると、崖の上には兵士と鉱夫が集まり、ツバメ棚を支える梁へ火薬筒を取りつけていた。導火線にはもう火がついている。
町の住人たちは広場へ追い立てられ、荷物を抱えて泣いていた。
「止めろ!」
セドが叫ぶ。
現場監督が振り返る。
「獄侯の命令だ!」
「獄侯は戻らない」
「証拠は?」
ラズが赤銅色の靴を放り投げた。
「片方だけだと、もっと説得力があったんだが」
現場監督は靴を見た。導火線を見た。セドを見た。
「命令は取り消せん。買い戻しの期限も過ぎた」
そのとき、チタナが前へ出た。
「まだ太陽が出てない」
東の空は白み始めていたが、地平から光は出ていない。
「通知には正午と書いてある。買い戻す」
彼女は月王金を一枚、監督へ差し出した。
監督の顔から血の気が引いた。
「これは……建国王朝の保証貨だ」
「一枚、王金二百五十枚」
ナメト、ヨルドル、ミミも金貨を出す。
「四枚で千枚」とナメトが言った。「八百枚払って、お釣りが二百枚」
「算術、できるじゃない」とチタナ。
「昨日、発明した」
監督は震える手で金貨を受け取った。
帝国の法律では、保証貨の受領を拒むことは反逆にあたる。彼は兵士へ怒鳴った。
「火を消せ! 全員、導火線を踏め!」
兵士と鉱夫がいっせいに走る。
一本目。二本目。三本目。
最後の導火線だけが、崖下の梁へ伸びていた。
火はもう火薬筒のすぐ手前まで来ている。
「間に合わない!」
ヨルドルが叫ぶ。
ラズ・カラスは、崖から飛んだ。
住人たちの悲鳴が上がる。
彼は垂れ下がった鎖を片手でつかみ、振り子のように崖下へ回りこんだ。靴の裏で導火線を踏み消し、そのまま梁へぶら下がる。
火薬筒から、細い煙が一筋上がった。
爆発はしなかった。
「引き上げろ!」チタナが叫ぶ。
皆で鎖を引いた。
パン屋も、鍛冶屋も、洗濯女も、元囚人も、なぜか料理人まで加わった。ラズは崖の縁へ引き上げられ、仰向けに転がった。
「料金に危険手当を足す」と彼は言った。
「依頼した覚えないよ」とチタナ。
「では、友人割引で無料だ」
太陽が昇った。
光がツバメ棚を照らす。
赤い釘の打たれた家々。曲がった煙突。つぎはぎの屋根。崖に吊られ、風のたびに軋む、みすぼらしい町。
それでも、落ちなかった。
住人たちの歓声が、雲海の向こうまで響いた。
三日後、月牢は閉鎖された。
囚人の半分が逃げ、看守の半分が料理人を恐れて辞職し、内郭が斜めのまま戻らなくなったからだ。
セドはツバメ棚へ帰った。
父と娘は、すぐに昔どおりには戻らなかった。チタナは二年分怒り、セドは二年分謝った。地図一枚では埋まらない距離もある。けれど二人は毎朝、同じ机で新しい町の図面を描いた。
ナメトは井戸から木製の御者を救出し、「世界で最初に自力脱獄した人形」として見世物にした。
ヨルドルの家のパン屋には、「洞鰻も食べる」という看板が出た。売り上げは三倍になった。
ミミは月牢の伝声管を一本盗み、町の広場へ取りつけた。夕方になると獄侯の声で「宿題をしろ」と叫ぶので、子どもたちからは嫌われ、大人たちからは愛された。
ラズ・カラスは、ある朝いなくなった。
チタナの机に、真鍮の魚だけが置かれていた。腹の中には小さな紙があり、こう書かれていた。
――世界には、外から開かない牢が多すぎる。
――次は、君たちだけで破れ。
――追伸。八百枚の買い物で釣りを受け取らないのは、算術ではなく交渉の失敗だ。
「やっぱり二百枚、返してもらえるんじゃない?」
ナメトが言った。
「帝国へ取りに行く?」ミミが目を輝かせる。
ヨルドルは両手で顔を覆った。
「今度はどこの牢に入るの」
チタナは笑い、真鍮の魚を窓辺へ置いた。
その夜、雲海のはるか下で、白い葦の花が四つだけ咲いた。
風もないのに、花はツバメ棚の方角へ頭を下げた。
チタナたちは誰にも言わず、崖の上から小さく手を振った。
眠らない都は、もう見えなかった。
けれど湖の底で何かがようやく目を閉じたことを、四人は知っていた。
(完)