月裏座の観客
一
雨宮凪が自分の死亡記事を手にしたのは、午前零時まで十三分という時刻だった。
駅前のコンビニ。そのコピー機から、応募用の台本を十九枚印刷したはずだった。
ところが最後の一枚だけ、新聞記事の体裁になっている。
《元女優・雨宮凪さん急死 二十二歳
十七日未明、旧第八撮影所跡で発見》
十七日は、明日の日付だった。
記事には、凪が転落死したこと、争った形跡がないこと、二年前の舞台事故をきっかけに芸能活動を休止していたことまで書かれていた。遺族のコメントはない。写真は、十八歳のころに撮られた宣材写真だ。笑顔がぎこちなくて嫌いだった一枚。
凪は紙を裏返した。
墨で地図が描かれていた。
行き先は、記事にある旧第八撮影所。地図の下には、細い筆文字が一行。
《月裏座 午前零時開演
主演募集
報酬――奪われた役と名前を返す》
紙の右下には、小さな三日月の印があった。
凪はその印を知っていた。
十四年前、舞台袖から消えた母の化粧箱にも、同じ印が焼きつけられていた。
雨宮澄江。舞台女優。
拍手を浴びるより、開演五分前の静けさを愛した人だった。
「幕が下りても、役は死なないの」
母はよくそう言った。
その最後の公演の夜、楽屋には衣装も財布も残されていた。けれど澄江だけが消えた。警察は失踪と判断し、劇団はほどなく解散した。
凪は母を待つのをやめる代わりに、役を待つようになった。
十二歳で児童劇団に入り、そこで森野真理と出会った。
真理は華があった。廊下を歩くだけで、そこが舞台になった。反対に凪は、普段は誰の目にも留まらないのに、役に入ると別人になった。
二人はうまく噛み合った。
真理がオーディションを受ける前夜、凪が相手役をした。
真理が泣けないとき、凪が泣く理由を探した。
撮影で危険な動きがあれば、体格の近い凪が影役を務めた。
やがて真理は「鳳代茉莉」という芸名を得て、誰もが知る若手女優になった。
凪にも遅れて、初主演映画の話が来た。
その製作発表の舞台で、吊り下げられていた巨大な月の装置が落ちた。
真下にいた茉莉を、凪が突き飛ばした。
茉莉は助かった。
だが、事故直前の防犯映像には、凪が装置の操作盤に触れる姿が映っていた。
記者会見で茉莉は震えながら言った。
「凪は前から、主役を返してほしいって……」
その一言で、凪は親友を妬んで事故を起こした女になった。
事情を説明しても、誰も耳を貸さなかった。
操作盤に触れたのは、異音に気づいて非常停止を押したからだ。そう訴えても、映像は肝心な部分だけ途切れていた。
《主役を返して》
その言葉は切り抜かれ、笑われ、見出しになった。
映画は降板。事務所は契約解除。代役として主演したのは、鳳代茉莉だった。
そして今、凪の手元には、未来の死亡記事と、「奪われた役と名前を返す」という招待状がある。
まともな人間なら警察へ行くだろう。
だが、まともな人間の忠告なら、この二年間で十分に聞いた。
凪は十九枚の紙を抱え、夜の街へ出た。
二
旧第八撮影所は、半年前に取り壊されたはずだった。
錆びたフェンスの向こうには更地が広がっている。雑草と、重機の轍と、捨てられたコーヒー缶。それだけだ。
地図には「月光の届かない影を三度踏め」とあった。
凪は街灯の影を三つ選んで踏んだ。
一つ。
二つ。
三つ。
三つ目の影が、靴の下で水面のように揺れた。
顔を上げると、更地の中央に古い劇場が建っていた。
赤煉瓦の外壁。金色の庇。看板には《月裏座》とある。
入口には長い列ができていた。
客たちは、皆、顔を隠している。
狐や鳥の面をつけた者もいれば、黒いレースを垂らした者もいる。首から上が古いテレビになっている男もいた。画面には、凪が事故会見で唇を噛んだ瞬間が繰り返し映っていた。
誰も話さない。
ただ、紙の切符を指で撫でる音だけがした。
凪は出演者用と書かれた脇口へ回った。
受付には、燕尾服を着た少年が座っていた。
十歳ほどに見える。だが、瞬きをするたび、瞳の中で客席が増えたり減ったりした。
「出演料は先払いです」
「私が払うの?」
「こちらが払うのは、終演後。入るためには、忘れたい記憶を一つ」
少年が白い手を差し出した。
「持っていない人はいません」
凪は帰ろうとした。
そのとき、劇場の奥から、かすかな鼻歌が聞こえた。
母が本番前に歌っていた旋律だった。
たった四小節。
題名も知らない。凪だけが覚えている歌。
「……それを払う」
凪が言うと、少年は彼女の耳元から透明な糸を引き抜いた。
糸の先で、誰かの鼻歌が震えた。
凪は追いすがろうとしたが、もう旋律を思い出せなかった。
「確かに」
少年は糸を飲み込み、扉を開いた。
劇場の中は、外観よりはるかに広かった。
三層の桟敷席。
天井いっぱいに描かれた夜空。
舞台の緞帳には、無数の人の顔が刺繍されている。泣く顔、笑う顔、怒る顔。遠目には花畑のようで、近づくと全員の目が凪を追った。
「雨宮凪さん」
舞台上から声がした。
黒い礼服の男が立っていた。
年齢は三十にも六十にも見える。髪は白く、指先だけが墨で汚れている。
「月裏座へようこそ。私は綴。この劇場の記録係であり、今夜の演出家です」
「母はどこ」
「ずいぶん急ぐ。女優なら、まず台本を読むものでは?」
綴が指を鳴らすと、凪が抱えていた紙がひとりでに開いた。
第一頁には、さっきまでなかった題名が浮かんでいた。
《二人の娘と、顔のない王》
配役。
娘・甲――雨宮凪。
娘・乙――鳳代茉莉。
そして王の欄だけが、空白だった。
「茉莉も来るの」
「もうお待ちです」
客席の中央に、白いドレスの女が座っていた。
鳳代茉莉。
長い髪。隙のない化粧。カメラがなくても、彼女の周囲だけ照明が当たっているように見える。
茉莉は立ち上がった。
胸元には、銀の三日月をあしらった髪飾りが留められていた。
母のものだった。
「久しぶり、凪」
茉莉は、二年前の会見と同じ、今にも泣きそうな声で言った。
「ずっと、あなたに会いたかった」
三
「返して」
凪の視線は髪飾りに釘づけだった。
「何を?」
「とぼけないで。母のよ」
茉莉は銀の三日月に触れ、少し困った顔をした。
「事務所の会長からもらったの。前の持ち主は、もういらないからって」
「前の持ち主は、私の母」
「知ってる」
客席のどこかで、舌なめずりする音がした。
綴が舞台の端まで歩み出る。
「説明しましょう。人間は、昔ほど妖怪を信じなくなった。夜道の怪異より、画面の中の人物を信じるようになった。そこで我々も住処を変えたのです」
「我々?」
「面継ぎ」
綴の顔が一瞬、ずれた。
皮膚の下に別の顔が何枚も重なり、すぐ元に戻った。
「役者が一つの役を長く演じると、世間は本人と役を混同し始める。清純な役を演じれば清純だと思い、悪人を演じれば私生活にも悪を探す。その誤解、その視線、その熱が、第二の顔をつくる。我々はそれを縫い合わせ、食べ、受け継ぐ」
綴は客席を見渡した。
「今夜お集まりの皆様は、かつて神、鬼、獣、幽霊と呼ばれた方々です。今は制作会社、広告代理店、配信網、後援会、匿名アカウント――いろいろな名で、人の注目を動かしておられる」
客席のテレビ頭が、砂嵐を笑い声のように鳴らした。
「鳳代茉莉は、面継ぎ一門の次代の座主候補です。そして雨宮凪、あなたは、それを覆せる唯一の役者だ」
「私が?」
「あなたのお母様は、面継ぎの天敵――返し鏡の最後の一人でした。奪われた視線を持ち主へ返す者。彼女は十四年前、この舞台で敗れた」
「殺したの」
「役者は、忘れられたときに死ぬ」
綴は淡々と言った。
「澄江さんの名を覚えている人間は、もうほとんどいません。映像も記事も、少しずつ別の女優に置き換わった。あなたが覚えていたから、完全には消えなかった。それだけです」
凪は茉莉を見た。
「あなたは、いつから知ってたの」
茉莉は答えない。
「事故の前? 私が代役をしていたころ? 最初から?」
「最初からじゃない」
「じゃあ、いつ」
「あなたの主演が決まった夜」
茉莉の声から、涙の気配が消えた。
「あの夜、私は初めて、何の役も来ない日が怖いって思った。みんな私を好きだと言ったけど、台本を外した私を見ている人はいなかった。私には、凪みたいに役の心を見つける力がなかった」
「だから、私から取った?」
「そう」
あまりにも素直な答えだった。
「会長が言ったの。あなたの影を縫いつければ、私は空っぽじゃなくなるって」
茉莉が胸に手を置く。
その影が床で揺れた。よく見ると、影は一人分ではない。少女、老婆、母親、殺人犯、聖女。彼女が演じてきた役の輪郭が、何十人も折り重なっている。
「最初は一役だけのつもりだった。でも一つもらうと、次が必要になる。拍手が止まるたび、自分が消える気がした」
「だから、あの会見で嘘をついた」
「うん」
「私が全部失うって分かってたのに」
「分かってた」
茉莉は目を逸らさなかった。
「ごめん、と言えば楽になるのは私だけだから、言わない」
凪の胸の奥で、二年間消えなかった火が、急に冷たくなった。
憎んでいた相手が怪物なら、迷わず倒せた。
だが目の前にいるのは、怪物になることを選び続けた、昔の友人だった。
綴が拍子木を打った。
乾いた音が劇場を裂いた。
「第一幕。『母との別れ』」
緞帳が上がった。
四
舞台は、凪の幼いころの家になっていた。
擦れた畳。
母の化粧箱。
窓辺の黄色いカーテン。
細部まで記憶どおりだ。
舞台奥に、母の背中がある。
十四年前の夜と同じ衣装を着ている。
凪は息を止めた。
「お母さん」
母は振り返らない。
台本には、娘の台詞が一つだけ書かれていた。
《行かないで》
まず茉莉が演じる。
白いドレスが、いつの間にか八歳の少女のワンピースに変わっていた。
茉莉は母の背中を見つめる。
唇を開きかけ、閉じる。
子どもが、大人を困らせないために泣くのを我慢する、ほんのわずかな間。
「行かないで」
声は小さかった。
客席が静まり返る。
次の瞬間、割れるような拍手が起きた。
拍手のたび、舞台の景色が震えた。
黄色いカーテンが白くなる。化粧箱の三日月が消える。母がゆっくり振り返る。
「真理」
母は茉莉の本名を呼んだ。
凪の頭の中でも、記憶が書き換わり始めた。
母に抱かれていたのは誰だったか。
あの家で眠っていたのは。
十四年間、待っていたのは。
違う、と凪は歯を食いしばった。
これは私の記憶だ。
「次はあなたです」
綴の声がする。
舞台は最初の状態へ戻った。
ただし黄色かったはずのカーテンは、もう白いままだ。
凪は母の背中を見た。
《行かないで》
台詞は同じ。
泣けばいい。
怒鳴ればいい。
十四年分の孤独を、客席に叩きつければいい。
けれど、それでは茉莉の後をなぞるだけだ。
凪は、母の化粧箱を開けた。
中には何もない。
幼いころ、母は本番前に必ず凪へ聞いた。
――今日は、どんな役で見送ってくれる?
凪は思い出した。
あの夜、自分は泣かなかった。
母が戻ってこられるように、「いつもどおりの娘」を演じたのだ。
凪は台本を閉じた。
「行ってらっしゃい」
母の背中が震えた。
「私はここにいるから。帰ってくる場所を、なくさないから」
客席は静かだった。
誰かが退屈そうに咳をした。
一人、二人と、仮面の下で欠伸をする。
凪は続けた。
「だから、行かないでとは言わない」
母が振り返る。
その顔はなかった。
目も鼻も口もない、白い空白。
それでも凪には分かった。
母は泣いていた。
客席の最上段で、三回、指が手すりを叩いた。
とん、とん、とん。
母が開演前、凪に送っていた合図だった。
忘れたはずの鼻歌の代わりに、その音だけが胸へ届いた。
凪は、空白の顔に微笑んだ。
「おかえり」
最初の拍手は、最上段から聞こえた。
たった一人分。
だが、それに呼ばれるように、客席のあちこちで小さな拍手が起きた。大きくはない。熱狂でもない。
それでも舞台のカーテンが、少しだけ黄色に戻った。
綴の口元から笑みが消えた。
五
第二幕は、二年前の製作発表だった。
銀色の巨大な月が、舞台上に吊られている。
司会者。
記者。
主演席。
すべて人形だった。頭の代わりにカメラがついている。
当時と同じ順番で、茉莉が中央へ立つ。
凪は袖にいる。
ぎ、と金属が軋んだ。
凪は見上げた。
月を支えるワイヤーに、黒い指が絡みついている。
人間のものではない。
舞台天井の闇から伸びた、細長い手。指先は墨で汚れていた。
綴と同じように。
ワイヤーが切れる。
凪は操作盤へ走り、非常停止を押す。
止まらない。
もう一度押す。
月が落ちる。
凪は茉莉を突き飛ばした。
轟音。
白煙。
人形のカメラが一斉に凪を向く。
「見たでしょう」
凪は舞台上の茉莉へ言った。
「あなたは、全部見てた」
「見てた」
「綴がやったことも?」
「そのときは、手の主までは見えなかった。でも、凪が助けたことは分かってた」
舞台が記者会見へ変わる。
茉莉の前に、何十本ものマイク。
凪は客席の暗がりへ追いやられる。
台本の台詞が、舞台上に白く浮かんだ。
《凪は前から、主役を返してほしいと言っていました》
茉莉はそれを見上げた。
「言わないで」
凪の声が、二年前の自分と重なった。
茉莉は唇を噛んだ。
「言わなければ、会長はあなたを事故で殺すと言った」
「それで、社会的に殺した?」
「そうよ」
茉莉は白い台詞を睨んだ。
「私はあなたの命を言い訳にして、自分の席を守った」
客席がざわめく。
期待している。
皆、知っている結末を待っている。
茉莉はマイクを握った。
「凪は前から――」
凪の耳から、何かが剥がれた。
自分の名前を呼ぶ声。
監督の声。
友人の声。
ファンレターに書かれた文字。
客席の拍手が始まる。
「主役を返してほしいって――」
「真理」
凪は芸名ではなく、昔の名を呼んだ。
茉莉の言葉が止まる。
「今度も同じ台詞を言ったら、あなたはもう、二年前の自分を演じ続けるしかない」
「黙って」
「それが、欲しかった主役?」
「黙って!」
茉莉がマイクを床へ叩きつけた。
「私は怖かったの! あなたは役がなくても、いつか何かになれる。でも私は、誰かに見られていないと、何者でもなかった!」
その叫びは台本になかった。
客席の拍手が止まる。
茉莉の背後で、影が一斉に身を起こした。
彼女が演じてきた役たちが、細い腕で首や肩にしがみつく。
聖女が囁く。
母親が責める。
殺人犯が笑う。
少女が泣く。
「もっと愛される台詞を」
「もっと美しく」
「もっと可哀想に」
「もっと、もっと」
茉莉は耳を塞いだ。
凪は舞台を横切り、彼女の胸元から銀の三日月を引き抜いた。
髪飾りの裏側は、鏡になっていた。
鏡を向けると、茉莉の顔に細い縫い目が無数に浮かんだ。
「見て」
「いや」
「これは、あなたの顔じゃない」
「取ったら、何も残らない!」
「残るかどうかは、取ってから決める」
凪は三日月の先で、最初の縫い目を切った。
茉莉の頬から、別人の笑顔が一枚剥がれ落ちた。
次に、涙。
次に、怒り。
床へ落ちた表情は紙のように燃え、灰になった。
茉莉は叫んだ。
その下から現れた顔は、鳳代茉莉ほど美しく整ってはいなかった。
泣いて腫れ、疲れ、二十二歳よりずっと幼く見える。
森野真理の顔だった。
「返して」
凪は言った。
「私の役を」
真理はしばらく凪を見つめ、やがて、舞台中央の主演席を降りた。
「返す」
その瞬間、天井の夜空が割れた。
六
亀裂の向こうに、巨大な目があった。
瞳の中に、この劇場が映っている。
劇場の中の目にも、また劇場が映っている。果てしなく続く客席。
綴の声が、全方向から響いた。
「実に良い」
舞台上に立つ彼の礼服が、紙の束へほどけていく。
一枚一枚に、人間の顔が印刷されていた。
「友情、嫉妬、贖罪、自己発見。人間が好む要素を、余すところなく演じてくださった」
「事故を起こしたのは、あなたね」
「きっかけを作っただけです。役者を輝かせるには、適切な障害が必要ですから」
「母にも同じことをした?」
「澄江さんは優秀でした。しかし最後まで、観客を敵だと思っていた」
綴の紙の指が、凪の台本をめくる。
そこには、今しがた凪が即興で言った台詞が、一字違わず印刷されていた。
《残るかどうかは、取ってから決める》
次の頁。
真理が主演席を降りる場面。
さらに次。
天井が割れ、巨大な目が現れる場面。
「即興も反抗も、演じられた瞬間に筋書きとなる。あなた方は自由を演じただけです」
最後の頁に、新しい配役が浮かび上がる。
《顔のない王――雨宮凪》
「次代の座主に、鳳代茉莉では器が足りなかった。彼女は多くの顔を持てても、顔と顔の間に自分を残してしまう。だが、あなたは違う」
綴の声が甘くなる。
「あなたは空になれる。役を迎え入れるために、自分を消せる。返し鏡とは、最も完全な面継ぎでもあるのです」
客席の仮面が一斉に凪へ向いた。
「今夜、あなたは奪われた名を取り戻す。そして同時に、すべての名を持つ王になる」
床から黒い糸が伸び、凪の足首へ絡みつく。
真理が糸を引きちぎろうとするが、手を触れた瞬間、彼女の指先からまた顔が生え始めた。
「やめて!」
「動かないで」
凪は客席を見た。
最上段。
顔のない案内係が立っている。
母だ。
母は声を持たない。
それでも両手を上げ、ゆっくり、舞台と客席を指した。
交互に、何度も。
舞台。
客席。
舞台。
客席。
凪は理解した。
面継ぎが力を持つのは、演じる者と見る者が分かれているからだ。
片方が顔を差し出し、片方が値踏みする。
拍手は、その取引が成立した合図。
ならば。
「綴」
「はい」
「最後の役を始める」
凪は黒い糸を引きずり、舞台のいちばん前まで歩いた。
「私が演じるのは、観客」
綴の笑みが、初めて止まった。
凪は舞台から降りた。
客席の第一列、中央。
最も高価な席に座る。
そして舞台を見上げ、手を叩いた。
一度。
その音で、真理の足元に光が当たる。
「立って。あなたの番」
「何をすればいいの」
「自分を演じて」
「そんな役、知らない」
「だから、今から探すの」
凪はもう一度、手を叩いた。
真理は舞台中央へ立った。
台本も、衣装もない。
ただ、自分の名前を言った。
「森野真理です」
声が震えた。
「私は、親友を裏切りました。怖かったから。羨ましかったから。助けたかった気持ちも、少しはあった。でも、一番助けたかったのは自分です」
客席の仮面たちが騒ぎ始める。
「もっと泣け」
「言い訳をしろ」
「美しく後悔しろ」
「悪女になれ」
「被害者になれ」
真理は首を振った。
「どれにもならない」
凪は客席で笑った。
「次は、皆さんの番です」
三日月の鏡を、天井の目へ向ける。
目の光が反射し、客席を真昼のように照らした。
仮面の下が露わになる。
狐面の下には、売れない役者の顔。
鳥の面の下には、かつて拍手を求めた踊り子の顔。
テレビ頭の画面が割れ、中から老いた男が転がり出る。彼は何十年も、人の失敗する瞬間だけを集めていた。
皆、最初から怪物だったわけではない。
見られずに消えた者。
見られすぎて壊れた者。
他人の顔を奪うことでしか、自分を保てなくなった者。
「やめろ!」
綴の声が劇場を揺らす。
「観客に役を与えるな!」
「役のない人なんていない」
凪は、第一列の狐面へ手を差し出した。
「舞台へ」
狐面の男は震えた。
だが、後ろの客が彼を押した。
男は通路へ転がり出て、そのまま舞台に上がった。
次に鳥の女。
次に鹿角の子ども。
次にテレビ頭だった老人。
一人、また一人。
客席が空き、舞台が埋まっていく。
見ていた者が、見られる側へ回る。
値踏みしていた者が、自分の名を問われる。
仮面が割れる音は、雨に似ていた。
やがて舞台には数百人が立ち、客席には凪一人だけが残った。
凪は立ち上がる。
「これで、観客はいない」
「あなたがいる!」
綴が叫んだ。
凪は自分の席を見た。
そして三日月の鏡を、その座面へ置いた。
鏡の中の凪だけが、客席に座っている。
「それは私じゃない。私の顔を借りた、最後の観客よ」
鏡に細い亀裂が走った。
亀裂は床へ、壁へ、天井へ広がる。
巨大な目が白く濁った。
劇場全体が、息を吸い込むように軋んだ。
綴の体から紙が舞う。
そこに印刷された名前が、次々に剥がれ、光る虫となって飛び立つ。
雨宮澄江。
森野真理。
そして、凪が知らない何千もの名前。
光の群れが、舞台上の人々へ戻っていく。
最上段の案内係にも、一つの光が入った。
白い顔に、目が生まれる。
鼻が生まれる。
口が生まれる。
十四年ぶん年を重ねた母の顔だった。
「凪」
その一声で、失った鼻歌が凪の中へ戻ってきた。
四小節の旋律。
本番前の化粧の匂い。
手すりを三度叩く指。
忘れたものが、痛みを伴って一気に帰ってくる。
「お母さん」
凪が駆け寄ろうとしたとき、母は首を振った。
「幕は下りない」
澄江が言った。
「誰か一人でも、続きを見たがるかぎり」
劇場の奥で、赤い光が点いた。
映写室。
小さなカメラが回っている。
綴が笑った。
体の半分を紙吹雪にしながら、それでも穏やかに。
「客席とは、椅子のことではありません」
カメラのレンズの向こうに、無数の四角い光が見えた。
携帯電話。パソコン。窓。鏡。
どこかで誰かが、この舞台を見ている。
「物語になった時点で、観客は外へ増え続ける」
凪は走った。
舞台袖の非常斧を掴み、映写室の扉を叩き壊す。
カメラへ斧を振り下ろした。
レンズが砕ける。
同時に、月裏座は音もなく崩れ始めた。
壁が黒い文字になり、天井が行間になり、客席が白い余白へほどけていく。
真理が凪の腕を掴んだ。
澄江が出口を指す。
三人は走った。
背後で、綴の声がした。
「良い終幕です」
「終わってない」
凪は振り返らずに答えた。
「私たちは、生きて出る」
赤い扉を押し開ける。
夜明け前の更地へ、三人は転がり出た。
振り返ると、劇場はなかった。
雑草と、重機の轍と、捨てられたコーヒー缶。
東の空が薄く青んでいる。
凪の手には、自分の死亡記事が残っていた。
見出しの文字が滲み、別の記事へ変わる。
《旧撮影所跡で三名保護
長期行方不明の舞台女優も》
記事の日付は、今日だった。
七
月裏座の夜から半年後、雨宮凪は小さな劇場の舞台に立っていた。
客席は百二十席。
照明は古く、楽屋は狭い。
けれど、誰の影役でもない。
事故の再調査で、当時の舞台装置に重大な整備不良が見つかった。防犯映像が改ざんされていたことも公表された。
世間は手のひらを返し、凪を「悲劇の女優」と呼んだ。
凪は、その呼び名も断った。
悲劇は役名ではない。
自分の人生を、他人に分かりやすい一語へ縫いつけさせるつもりはなかった。
森野真理は芸名を捨てた。
鳳代茉莉が出演した映像からは、少しずつ彼女の姿が薄れている。主役だったはずの場面に別の女優が立ち、受賞記録から名が消えた。
真理は、郊外の演劇教室で子どもたちに台詞を教え始めた。
二人が元の親友に戻ることはなかった。
凪は許していない。
真理も許しを求めなかった。
ただ、ときどき稽古場で向かい合い、台本を読む。
相手役が必要な夜だけ。
澄江は十四年間の記憶をほとんど失っていた。
月裏座で案内係をしていたことも覚えていない。
だが、開演五分前になると、無意識に手すりを三度叩いた。
とん、とん、とん。
それを聞くたび、凪は舞台へ出た。
その晩の公演も無事に終わった。
最後の客を見送り、楽屋へ戻る。
机の上に、見覚えのない小型端末が置かれていた。
画面には、文章ファイルが一つ。
《月裏座の観客.txt》
凪は開いた。
最初の一行を読んで、指が止まる。
《雨宮凪が自分の死亡記事を手にしたのは、午前零時まで十三分という時刻だった。》
あの夜のすべてが記されていた。
自分と真理しか知らない会話。
母の合図。
鏡が割れた瞬間。
綴の最後の言葉。
凪はファイルを削除した。
端末を初期化し、電源を切り、劇場裏の金属ごみへ捨てた。
翌朝、自宅のパソコンに同じファイルがあった。
削除した。
昼には真理の携帯電話へ届いた。
夜には、澄江の病院のテレビに文章が流れた。
三日後、知らない誰かがインターネットへ転載した。
読んだ者は、「よくできた作り話だ」と笑った。
別の者は、凪の復帰に合わせた宣伝だと疑った。
続きを望む者もいた。
映像化してほしいと書く者もいた。
そして、文章の末尾には、凪が読んだときには存在しなかった配役表が加わっていた。
《出演》
雨宮凪――自分
森野真理――自分
雨宮澄江――母
綴――記録係
最後の一行だけ、読むたびに文字が濃くなった。
《観客――この文章を最後まで読んだ者》
その下で、縦棒のカーソルが、
誰もしていない拍手の速さで点滅していた。