未処理案件:世界

――読み切り小説――

 月曜日の朝八時四十三分、小野寺惟司は、会社というものが三種類の音で目を覚ますことを知っていた。

 給湯室で電気ポットが沸く音。

 営業部のプリンターが紙詰まりを訴える音。

 そして、誰かが総務部総務課の内線番号を押す音である。

 東都ラベル株式会社は、食品の原材料表示から工場の危険表示まで、あらゆるものに名前と注意書きを与える会社だった。社員は八十三人。自社ビルは築四十一年。雨が強い日は三階西側の窓から少しだけ水が入り、夏になると四階会議室の冷房だけが冬のように働いた。

 小野寺は総務課に二十六年いた。役職は課長補佐。社内でいちばん早く切れる蛍光灯と、いちばん遅く出す経費精算書を知っていた。

 その朝、四つ目の音がした。

 正面玄関の自動ドアが、誰も触れていないのに、拍手のように二度開閉したのである。

「本日からお世話になります」

 受付に立っていたのは、二人の若者だった。

 一人は朝戸ハルと名乗った。年齢欄が空白の履歴書を持ち、季節外れに薄い麻のシャツを着ていた。髪の先に、窓から入るより少し早い朝日が引っかかっているように見えた。

 もう一人は暮木シズと名乗った。黒いスーツに黒い鞄、黒い折り畳み傘。履歴書の職歴欄には、細い字で「終端処理」とだけ書かれていた。

「派遣の方ですね。伺っています」

 小野寺はそう言ったものの、実は何も伺っていなかった。

 ただし総務では、伺っていない来客を「伺っていません」と言って帰すと、たいてい別の問題になって戻ってくる。そこで彼は二人を応接スペースに通し、派遣元の書類を確認した。

 会社名は「天端スタッフサービス」。

 所在地は「当地より上方」。

 電話番号は十二桁あり、最初の四桁がすべてゼロだった。

「担当者のお名前は」

「輪番制です」とシズが答えた。

「連絡のつきやすい時間帯は」

「祈りが少ない時間なら」とハルが言った。

 小野寺は一秒だけ考え、書類の余白に鉛筆で「要確認」と書いた。

 世の中には、今すぐ確認できることと、確認すると今より面倒になることがある。

「では、まず入館証を作ります。生年月日をお願いします」

「まだ暦がなかった頃です」とハル。

「暦が終わった後です」とシズ。

「システム上、西暦でないと入りません」

 二人は顔を見合わせた。

「人間の仕組み、厳格ですね」

「こちらより厳しいかもしれない」

 小野寺は人事システムを開いた。すると、登録した覚えのない二人のデータがすでに存在していた。

 朝戸ハル、社員番号E―000。

 暮木シズ、社員番号E―999。

 所属は、総務部総務課。

 契約期間は、月曜日から金曜日まで。

 備考欄には、たった一行。

〈現地運用更新監査〉

「監査というのは」

 小野寺が尋ねると、ハルは笑った。

「研修みたいなものです。地上の暮らしを見て、続ける価値があるか調べます」

「派遣契約の更新を、という意味ですか」

「まあ、似ています」

 シズが答えた。彼女の声は、使い終えた会議室の照明を消すときのように静かだった。

 午前九時、総務課の朝礼が始まった。

 山岸課長は二人を見て、「あれ、今日からだっけ」と言った。若手の西尾美咲は、歓迎用の社内チャットを投稿しながら、ハルの髪が逆光でもないのに光って見えることを気にしていた。

「総務の仕事は多岐にわたります」

 小野寺は二人に説明した。

「備品、設備、契約、慶弔、衛生、安全、防災、社内行事、落とし物。だいたい、誰の仕事か決まっていないけれど、放っておくとみんなが困ることです」

 ハルは感心したようにうなずいた。

「世界にも必要そうな部署ですね」

「世界にはないのですか」

「昔はあったらしいです」

「効率化で廃止されました」

 シズが補った。

 午前九時十二分、営業部から「プリンターが動かない」と内線が入った。

 小野寺が二人を連れて行くと、プリンターの液晶には「用紙を確認してください」と表示されていた。トレイを開けると、A4用紙に混じって、見たことのない紙が一枚挟まっていた。

 紙は薄いのに、夜空のように奥行きがあった。銀色の文字が浮かんでいる。

〈第三惑星・現地運用更新審査票〉

〈審査期限 金曜日 現地時刻一七時三〇分〉

 シズは素早く紙を抜き取り、四つ折りにして鞄へ入れた。

「機密文書です」

「廃棄方法は」

「終了後、存在ごと消えます」

「機密文書用の廃棄記録が必要です」

 シズは、初めて困った顔をした。

 小野寺はプリンターの中から、丸まったラベル台紙を取り除いた。機械は何事もなかったように動き始めた。

 ハルは小声でシズに言った。

「この人、強いね」

「規則の種類が違うだけです」

 昼休み、最初の騒ぎは冷蔵庫で起きた。

「私のプリン、知りませんか」

 経理部の藤本が、給湯室から険しい顔で出てきた。冷蔵庫には、彼女が油性ペンで「藤本 絶対に食べないで」と書いたプリンの容器だけが残り、中身がきれいになくなっていた。

 全員の視線が、新人二人に集まった。

 ハルは首を振った。

「私は食べていません。ただ、名前を書いて供える形にすると、こちら側に届きやすくはなります」

「こちら側?」

「気にしないでください」

 シズが冷蔵庫をのぞいた。容器の底に、金色の小さな輪が焼きついている。

「受領済みの印です」

「やっぱり届いてるじゃないですか」と西尾が言った。

 小野寺は事情を聞き、近所のコンビニで同じプリンを二つ買ってきた。一つを藤本に渡し、もう一つを冷蔵庫の上に置いた。

 ラベルには、こう書いた。

〈共有物ではありません。祈願・奉納・転送を含む一切の取得を禁止します〉

 ハルは真剣な顔で読んだ。

「抜け道がない」

「総務の注意書きですから」

 午後、ハルは備品棚の整理を任された。ところが彼が「新しい箱を始めましょう」と言うたび、封を切っていないコピー用紙やボールペンが勝手に開封された。シズにシュレッダーを頼むと、不要書類だけでなく、そこに書かれていた会議そのものが終わった。

 三時から予定されていた営業会議は、参加者全員が突然「もう結論は出た気がする」と言い出して、七分で散会した。

 山岸課長は感激した。

「暮木さん、会議改革の才能があるよ」

「終わらせるだけなら得意です」

 シズは無表情で答えた。

 小野寺は、彼女にシュレッダー以外の仕事を任せることにした。

 火曜日の朝、四階会議室の冷房が十八度から動かなくなった。

 企画部は「頭が冴える」と主張し、営業部は「顧客まで凍る」と抗議した。リモコンを握る二部署のあいだで、会議室の温度より冷たい言葉が飛び交った。

「夏を終わらせますか」

 シズが尋ねた。

「それは設備修理の範囲を超えます」

「では、涼しい朝を始めましょう」

 ハルが窓に手をかけた。外では七月の太陽が照っているのに、指先から薄い春風が入り、書類を一斉に舞い上げた。

 顧客名簿が天井に張りつき、見積書が観葉植物に刺さった。

「いったん、普通の方法に戻しましょう」

 小野寺はブレーカーを確認し、設備会社へ連絡した。修理までの二時間、会議室を使う部署を入れ替え、寒がりの社員には防災備蓄のアルミブランケットを配り、暑がりの社員には倉庫から扇風機を出した。

「全員を同じ温度にするのではないんですね」

 ハルが言った。

「人によって快適は違いますから」

「基準を一つにしたほうが、管理は簡単です」

「管理は簡単になります。人は少し困ります」

 シズはタブレットのような黒い板に何かを記録した。

「非効率。個別対応。資源追加」

「減点ですか」と小野寺。

「監査内容はお答えできません」

 その日の午後、配送センターから段ボール箱が届いた。中には、壊れた折り畳み椅子と一枚の紙が入っていた。

〈座ると必ず昔の失敗を思い出す。処分希望〉

 送り主は倉庫担当の相原だった。

「粗大ごみですね」と西尾が言った。

 シズが椅子に触れると、金属の脚がかすかに鳴った。

「本当に記憶が付着しています。終わらせられます」

「待ってください」

 小野寺は相原に電話した。事情を聞くと、椅子は二十年前、相原が新人だった頃に、初めて大きな誤出荷をして叱られた会議室で使われていたものだった。

「捨てたいなら捨てます。ただ、修理すれば休憩所で使えますよ」

『見るたび嫌な気分になるんですよ』

「その誤出荷のあと、再発防止の二重確認を作ったのは相原さんでしたね。今も使っています」

 電話の向こうで、少し沈黙があった。

『……じゃあ、座面だけ替えてください』

 小野寺は椅子の脚を締め直し、新しい座面を発注した。

 シズは不思議そうに尋ねた。

「失敗を終わらせないのですか」

「終わった失敗でも、役に立っている部分があります」

「痛みも残ります」

「残るでしょうね。ですから、座るところだけ替えます」

 ハルが笑った。

「人間は、ずいぶん半端な直し方をするんですね」

「全部取り替える予算がないもので」

 水曜日、清掃員の水越奈津江が来なかった。

 水越は東都ラベルの社員ではない。ビル管理会社から派遣され、毎朝七時半から十時まで、床と洗面所と給湯室を掃除していた。

 九時を過ぎても清掃カートが倉庫に置かれたままだったが、ほとんどの社員は気づかなかった。床が汚れて初めて、床をきれいにしていた人を思い出すからだ。

 小野寺は気づいた。

 前日に水越が「明日は雨になるから、傘袋を多めに出しておきます」と言っていたのを覚えていた。

 管理会社へ電話すると、担当者は「本人から欠勤連絡はない」と答えた。契約上、安否確認は家族の範囲だとも言った。

「緊急連絡先を教えてください」

『個人情報なので』

「では、そちらから連絡を」

『出ないんですよ』

「住所は把握していますね」

『していますが、訪問までは契約外でして』

 小野寺は受話器を肩に挟み、山岸課長に外出許可を取り、西尾に午前の電話番を頼んだ。

「契約外の仕事です」

 シズが言った。

「そうですね」

「東都ラベルの社員でもありません」

「そうですね」

「なぜ行くのですか」

 小野寺は上着を着た。

「昨日までここに来ていた人が、今日は来なくて、連絡がつかないからです」

 それ以上うまい説明を思いつかなかった。

 ハルとシズもついてきた。

 水越のアパートは会社から歩いて十五分の場所にあった。呼び鈴を押しても返事はない。だが、郵便受けの奥から携帯電話の着信音が聞こえた。

 管理会社と救急に連絡し、大家を呼んだ。

 水越は玄関脇で倒れていた。朝、めまいを起こし、助けを呼ぼうとして動けなくなったらしい。意識はあり、搬送後に命に別状はないとわかった。

 救急車を見送ったあと、シズは黒い板を開いた。

「予定では、あと三時間発見されませんでした」

 ハルの顔から、いつもの明るさが消えた。

「三時間後だと?」

「終了していました」

 小野寺は二人を見た。

「知っていたのですか」

「私は終わりが近いものを感じます。ただし監査対象へ直接干渉することは禁止されています」

「それで、ついてきた」

「あなたが何をするか確認するためです」

 小野寺は怒りかけて、やめた。

 監査に腹を立てても、水越の血圧は下がらない。彼は病院への連絡先を確認し、会社へ戻った。

 午後、雨が降った。

 玄関には、水越が前日に用意していた傘袋が、人数分より少し多く置かれていた。誰も足を滑らせず、床も濡れなかった。

 ハルは、傘袋の箱を長いあいだ見ていた。

「本人がいなくても、仕事は残るんですね」

「残る仕事もあります」

「監査記録には載っていません」

「そういう仕事ほど、載らないものです」

 シズは黒い板に何かを入力した。だが画面は赤く点滅し、文字を受けつけなかった。

「項目がない」

 彼女は小さくつぶやいた。

 木曜日になると、二人は会社にずいぶん馴染んでいた。

 ハルはコピー用紙を勝手に開封しなくなり、シズは電話を切る前に相手が話し終えたか確認するようになった。昼休みには二人で近所のスーパーへ行き、ポイントカードを作った。

「千円買うと一ポイントです」

 シズは真剣に説明した。

「永遠に貯めれば、何でも買える」

「有効期限が一年ですよ」と西尾が教えた。

「残酷な制度です」

 二人は会社の借り上げアパートで同居していた。出張規程上、二名一室しか認められなかったらしい。

「ハルが毎朝、日の出と同時にカーテンを開けるんです」

「朝は始めるものだから」

「私は夜を終わらせたくない日もあります」

「洗濯物は終わらせて。昨日から回ってる」

 超越的な存在にも、洗濯機の終了音を聞き逃すことはあるらしかった。

 その日の午後、経営会議用の資料を印刷していると、複合機から再び夜空の紙が出てきた。

 今度は小野寺が先に取った。

〈第三惑星・現地運用更新審査〉

〈暫定評価 四九・八〉

〈更新基準 五〇・〇〉

〈推奨処置 運用終了〉

 下部には、細かい評価項目が並んでいた。

 資源効率。

 生存者間の公平性。

 将来世代への負債。

 暴力発生率。

 虚偽申告。

 不要な会議。

 冷蔵庫内の所有権侵害。

 最後の項目だけ、二重線で消されていた。

「第三惑星というのは、地球ですか」

 小野寺は尋ねた。

 ハルは答えなかった。

 シズが紙を受け取り、まっすぐに折った。

「明日の一七時三〇分に、正式な結果が出ます」

「更新されない場合は」

「現地運用が終わります」

「派遣契約ではなく」

「現地すべてです」

 複合機が、普通のコピー用紙を一枚吐き出した。そこには何も印刷されていなかった。

 小野寺は紙の白さを見つめた。

「どうして、うちの会社を」

「無作為抽出です」とシズ。

「正確には、文明を支える最小単位の一つとして選ばれました」とハルが言った。「家庭は閉じすぎている。政府は大きすぎる。会社くらいが、ちょうどいい」

「東都ラベルで地球を決めるんですか」

「どこを選んでも、その世界はだいたい入っています」

 窓の外では、雨上がりの歩道を人が急いでいた。宅配便の運転手。犬を連れた老人。透明な傘を差した高校生。信号を渡れず焦る人。信号が変わってもスマートフォンを見ている人。

 小野寺は審査票の数字を思い出した。

 四九・八。

 ひどく人間らしい点数だと思った。合格には少し足りず、落第と言い切るには惜しい。

「異議申立ては」

「ありません」

「再審査は」

「ありません」

「決裁者は」

「自動判定です」

 小野寺はため息をついた。

「いちばん話が通じない相手ですね」

 金曜日、会社はいつもどおり忙しかった。

 営業部では納期を一日早く約束した者がいて、製造部ではラベルの糊が予定より強く、経理部では一円合わない伝票が見つかった。

 総務には、鍵をなくした、椅子が低い、観葉植物に虫がいる、取引先から弔電を送りたい、非常口の前に段ボールがある、という連絡が続いた。

 世界が終わる日にしては、用件が細かすぎた。

 午前十一時、水越から電話があった。

『昨日はありがとう。来週には戻れるって先生が』

「無理はしないでください」

『傘袋、足りました?』

「余るくらいでした」

『あれは余るくらいでいいのよ。足りないと、みんな困るでしょう』

 小野寺は受話器を置き、ハルを見る。

 ハルは黒い板に「傘袋」と入力しようとしていた。やはり項目が見つからないらしく、困っていた。

「採点に入らないなら、やめますか」

 小野寺が聞いた。

「何をですか」

「記録することを」

「……わかりません」

 ハルは黒い板を伏せた。

 午後五時。社員たちは週末の気配をまとい始めた。机の上を片づける者、メールをもう一通だけ送る者、退勤後の店を相談する者。

 午後五時二十分、山岸課長が「今日はみんな早く帰ろう」と言った。

 午後五時二十五分、営業部から「月曜でいいので、会議室のプロジェクターを見てほしい」と連絡が入った。

 小野寺は付箋に書いた。

〈月曜 九時 プロジェクター〉

 午後五時二十九分。

 社内のすべての時計が止まった。

 秒針は十二の手前で震え、空調の音が消えた。西尾はマグカップを持ち上げた姿勢のまま動かない。山岸課長の口から出かけた「お疲れさま」が、音にならず空中に残っている。

 窓の外では、雨粒が宙に浮いていた。信号は黄色のまま。道路を走る車も、羽ばたく鳩も、すべてが一枚の写真になっている。

 動いているのは、小野寺と、ハルと、シズだけだった。

 蛍光灯が一度消えた。

 次に点いたとき、天井はなくなっていた。

 オフィスの上に、底のない星空が広がっている。机も椅子も書類棚もそのままなのに、床の向こうには青い地球が浮かび、さらに遠くには、番号を付けられた無数の星が並んでいた。

 それぞれの星には小さな札が貼られていた。

〈稼働中〉

〈観察中〉

〈縮小運用〉

〈処理済〉

 〈処理済〉の札が貼られた星は、光っていなかった。

 ハルの背後に、朝焼けのような輪が開いた。

 シズの足もとから、夜のような影が伸びた。

「私たちは、始動管理官と終端管理官です」

 ハルが言った。声は普段と同じだったが、遠い山々から同時に聞こえるようでもあった。

「第三惑星の更新監査は、基準未達となりました」

 シズが黒い鞄から、巨大な紙の束を取り出した。束は彼女の身長ほどもあるのに、机へ置くと一枚の書類に収まった。

〈第三惑星現地運用終了届〉

「予定どおり、一七時三〇分をもって終了します」

「今は二十九分ですね」

「あと一分です」

 小野寺は書類を受け取った。

「一分あれば、目は通せます」

 シズが初めて、わずかに目を見開いた。

「止めようとは思わないのですか」

「止めたいですよ」

「では、訴えてください。人間には価値がある。未来がある。愛がある。そういう主張をする方が多いです」

 ハルの声には、少し期待が混じっていた。

 小野寺は周囲を見た。

 机に伏せたままの西尾のマグカップ。

 月曜日に直す予定のプロジェクター。

 水越が置いた傘袋。

 相原の椅子の新しい座面。

 誰かが食べて、補充されたプリン。

「人間に価値があるかどうか、私には決められません」

 ハルの輪が暗くなった。

「正直ですね」

「価値のないことも、かなりしますから。嘘もつくし、約束も破る。人の仕事を自分の手柄にする人もいる。非常口の前に段ボールを置く人もいます」

「監査結果と一致します」とシズ。

「ただ、終了の書類としては不備があります」

 小野寺は胸ポケットから赤いボールペンを出した。

「まず、終了時刻が『現地時刻一七時三〇分』になっています。現地には複数の標準時があります。どの地域を基準にしますか」

「天務庁標準時です」

「注記がありません」

 赤い丸を付ける。

「次に、対象資産一覧。陸地、海洋、大気、生物、人工物はありますが、預かり物がありません」

「預かり物?」

「人から借りた本。返すと約束したお金。亡くなった人から託された言葉。そういうものです。所有者と使用者が違う資産は、終了前に返却が必要です」

「終了すれば、所有者も消えます」

「だから返さなくていい、とは規程に書いてありません」

 もう一つ、赤い丸。

「未完了業務の引継先が空欄です。育てている子ども、治療中の患者、焼いている途中のパン、送信中のメール。終わったあと、どこが引き継ぎますか」

「引継ぎは発生しません」

「発生しない根拠資料を添付してください」

 シズの影が、わずかに揺れた。

「通知対象者の受領確認もありません。人間だけでは足りません。犬や鳥や菌にも影響があります」

「文字を読めない存在に通知はできません」

「では、代替手段の検討記録を」

 ハルが口もとを押さえた。笑いをこらえているように見えた。

「さらに、情報資産の消去計画が不十分です。地球から出た光は、すでに宇宙へ広がっています。遠くの星には、これから昔の地球が届く。現物を終了しても、記録が残ります」

「それは天文現象です」

「記録媒体の所在が遠いだけです」

 赤い丸が増えていった。

 一七時三〇分まで、あと四十秒。

 星空のどこかで、低い警告音が鳴り始めた。

 シズが書類を取り返そうとした。

「緊急終了条項があります。対象が周辺環境に重大な損害を与える可能性が高い場合、通常手続きは省略できます」

「承認欄を見せてください」

 小野寺は最終ページをめくった。

 そこには、三つの欄があった。

〈始動管理官〉

〈終端管理官〉

〈現地総務責任者〉

 最初の二つには、光と影の印が押されている。

 三つ目は空白だった。

「現地総務責任者とは」

 ハルが小野寺を見た。

「その世界で、記録に載らない用件を引き受けている者です」

「私は一会社の総務です」

「水越さんは、あなたの会社の社員ではありませんでした」

「そうですが」

「それでも行った」

 シズの黒い板がひとりでに開いた。画面に文字が浮かぶ。

〈候補者照合〉

〈小野寺惟司〉

〈適合率 九九・七〉

「〇・三は何ですか」

「冷蔵庫の古いドレッシングを三か月放置しています」

「月曜に捨てる予定です」

 警告音が強くなる。

 あと二十秒。

「ここへ印を」

 シズが、黒い印章を差し出した。

「あなたが承認すれば、規程上の不備は補完されます」

「承認しなければ」

「終了処理は保留になります」

 ハルが言った。

「ただし、あなたはこの世界の欠点も知っている。続けることで起きる苦しみも、終わらせれば防げる苦しみもあります。押さないことも、判断です」

 小野寺は印章を見た。

 押せば、すべてが終わる。

 押さなければ、すべてが続く。

 正しい方など、彼にはわからなかった。

 総務の仕事は、正しさを決めることではない。

 決まっていないことを、決まっていないまま放置せず、困る人を探し、足りないものを数え、次に渡せる形にすることだ。

 小野寺は印章を机に置いた。

「承認できません」

「理由は」

「終了後の問い合わせ窓口が空欄です」

 シズは黙った。

「世界がなくなれば、問い合わせる人もいません」

「問い合わせがないことと、問い合わせ先が不要なことは別です」

 あと十秒。

「それに、月曜日の九時にプロジェクターを直す約束があります」

「月曜日は来ません」

「来ないと決まっているなら、なおさら、変更連絡が必要です」

 あと五秒。

 ハルが、声を立てて笑った。

 シズは目を閉じた。口もとに、ごく小さな笑みがあった。

 三、二、一。

 星空を裂くように、巨大な鐘が鳴った。

 終了届の三つ目の欄が赤く点滅する。

〈現地承認なし〉

〈引継先未定〉

〈問い合わせ窓口未設定〉

 やがて、書類全体に黄色い印が押された。

〈未処理〉

 止まっていた秒針が、十二を越えた。

 午後五時三十分。

 天井は普通の天井に戻り、空調が動き出した。雨粒が落ち、車が走り、鳩が羽ばたいた。

「――さま」

 山岸課長の口から、途切れていた言葉が出た。

「お疲れさま。今日はみんな帰ろう」

 西尾がマグカップを置いた。

「あれ。朝戸さんと暮木さんは?」

 二人の姿はなかった。

 机も、入館証も、黒い鞄も消えていた。人事システムからE―000とE―999の記録もなくなっている。

「派遣の人なんて来てましたっけ」と山岸課長が言った。

 給湯室の冷蔵庫には、〈祈願・奉納・転送を含む取得禁止〉のラベルだけが残っていた。西尾はそれを見て首をかしげた。

 小野寺の机には、黒い折り畳み傘と、スーパーのポイントカードが置かれていた。カードには二ポイント貯まっている。

 その下に、小さな付箋があった。

〈更新保留。現地窓口を引き継ぎます。ドレッシングも忘れずに。〉

 月曜日。

 小野寺はいつもどおり、八時四十三分に出社した。

 給湯室で電気ポットが沸き、営業部のプリンターが紙詰まりを訴え、総務課の内線が鳴った。

 プロジェクターを修理し、観葉植物の虫を取り、冷蔵庫の古いドレッシングを捨てた。

 午前十一時、机のいちばん下の引き出しが、ひとりでに開いた。

 中には見覚えのないものが入っていた。

 欠けた石板。

 錆びた銅の札。

 木でできた割符。

 戦時中の配給証。

 古い工場の入門証。

 どれにも、同じ小さな印が刻まれていた。

〈現地総務〉

 いちばん上には、新しい入館証があった。

 写真は小野寺。

 氏名も小野寺惟司。

 所属欄だけが変わっている。

〈天務庁総務局 第三惑星現地窓口〉

 有効期限は、空白だった。

 机の隅で、コードのつながっていない黒電話が鳴った。

 小野寺は三回目の呼び出しで受話器を取った。社内電話は三回以内に取るのが総務課の決まりだった。

「はい、総務部総務課、小野寺です」

 遠い風のような雑音の向こうから、か細い声がした。

『そちら、第三惑星の窓口でしょうか』

「はい」

『第四惑星です。海を一つ、なくしてしまいまして』

 小野寺はメモ用紙を引き寄せた。

「承知しました。最後に確認できた日時と、だいたいの大きさを教えてください」

『ずいぶん昔なので、記録が……。もう処理済みだと言われました』

「処理済みでも、記録が残っているなら確認できます」

 窓の外で、朝の太陽が一瞬だけ揺れた。

 遠い宇宙のどこかで、暗い星に貼られていた〈処理済〉の札が、端からゆっくり剥がれた。

 小野寺は受話器を肩に挟み、引き出しから新しい用紙を出した。

 誰の仕事か決まっていない。

 けれど、放っておくと誰かが困る。

 それなら、総務の仕事だった。

 未処理の用件があるかぎり、世界には、まだ閉めるべき時間ではなかった。