欠員
新田一郎は、人を減らす仕事をしていた。
正式な肩書きは人事企画課長だったが、ここ半年で彼が企画したものといえば、早期退職者向けの説明会と、希望退職に「希望」という言葉を残すための言い回しくらいだった。
「会社としても苦渋の決断でして」
「あなたの能力を否定するものではありません」
「次の環境でのご活躍を、心よりお祈りしております」
どれも嘘ではない。嘘ではないが、本当でもない。
新田はその中間に、社員番号と年齢と扶養家族の数を並べ、上から引かれた赤線に沿って人を切った。
その夜、最後の面談を終えたのは十一時を回ってからだった。
退職を勧めた相手は、二十七年間、同じ工場の設備を見てきた男だった。男は封筒を受け取ると、怒りも泣きもせず、新田に一つだけ尋ねた。
「俺がいなくなったあと、誰がやるんです」
「業務は再編されます」
「誰がやるんです」
新田は答えなかった。
誰かがやるのだ。
会社とはそういうものだった。人が消えても、席と仕事は残る。残った人間が少しずつ引き受け、やがて最初からそうだった顔をする。
男が出ていったあと、新田は会議室に一人残り、面談記録をシュレッダーにかけた。
廊下の照明は半分落ちていた。執務室へ戻ると、複合機だけが目を覚ましていた。
低い駆動音がして、白い紙が一枚、ゆっくり吐き出される。
新田は立ち止まった。
夜間に印刷予約をした覚えはない。
紙には、社内書式によく似た枠が印刷されていた。
欠 員 補 充 票
募集職種:午前七時四十八分、中央線快速で席を譲る人
勤務地 :三鷹―新宿間
契約時間:約十二秒
報酬 :なし
応募資格:膝に痛みがなく、他人の視線を過度に気にしない方
欠員理由:現任者の見て見ぬふりによる自動解任
募集人数:一名
最下部に、小さなQRコードがあった。
その下にはこう書かれていた。
――あなたにふさわしい人生をご紹介します。
人事部 別室
新田は紙を丸めて捨てた。
翌朝、七時四十八分。
中央線快速の車内で、新田は昨夜の紙を思い出した。
目の前に杖をついた老女が立っていた。
優先席ではない。周囲の乗客はみなスマートフォンを見ている。新田も同じように画面へ目を落としたが、黒い画面に自分の顔が映った。
自動解任。
馬鹿げた言葉だった。
新田は立ち上がった。
「どうぞ」
老女は驚き、何度も頭を下げた。
新田がつり革につかまった瞬間、胸ポケットで携帯電話が震えた。
見知らぬ通知が一件。
採用が決定しました。
ご勤務ありがとうございました。
通知はすぐに消えた。
その日の昼、複合機はまた勝手に紙を吐いた。
欠 員 補 充 票
募集職種:駅前商店街、歳末抽選会の一等当選者
報酬 :温泉旅行券二名分
応募資格:抽選券を三枚以上お持ちの方
欠員理由:当選予定者が抽選開始前に帰宅
募集人数:一名
新田の財布には、昨日の昼食でもらった抽選券が三枚あった。
今度は紙を捨てなかった。
QRコードを読み取ると、白い画面に「応募する」というボタンが一つだけ現れた。会社名も利用規約もない。
新田は数秒迷い、ボタンを押した。
面接も入力項目もなかった。
ただ、「あなたの経験を確認しています」という文字が三度点滅し、やがて表示が変わった。
採用が決定しました。
十二月二十四日、午後六時までに就業場所へお越しください。
半信半疑のまま抽選会場へ行き、三回目に回したガラポンから、金色の玉が出た。
鐘が鳴り、係員が大声を上げた。
通行人が振り返り、拍手をした。
新田は旅行券の入った封筒を受け取りながら、列の後ろにいた女を見た。
買い物袋を両手に下げた、五十代くらいの女だった。
女は抽選券を握りしめ、呆然と金色の玉を見ていた。足元には、小さな旅行鞄の広告チラシが落ちていた。
「お母さん、早く」
女のそばで、中学生くらいの少女が袖を引いた。
少女は毛糸の帽子をかぶっていた。眉が薄く、顔色が悪かった。
「温泉、行けると思ったのにな」
少女が笑った。
女も笑い返した。
「また今度ね」
新田の封筒が、急に重くなった。
その夜、QRコードの画面に初めてメニューが増えた。
応募履歴。
おすすめ求人。
お問い合わせ。
新田は「お問い合わせ」を押した。
画面が暗転し、地図が表示された。
示された場所は、新田の会社の地下二階だった。
地下二階にあるのは、資料倉庫と、十年以上使われていない印刷室だけのはずだった。
エレベーターの表示にはB1までしかない。
だが午前零時ちょうど、閉じかけた扉の横に「別室」というボタンが浮かび上がった。
押すと、エレベーターは音もなく下った。
扉の向こうは、小さな受付だった。
壁も床も灰色で、病院と役所を混ぜたような部屋だった。観葉植物は造花で、時計には針がなかった。
カウンターの中に、濃紺のスーツを着た女が座っていた。
年齢は三十にも五十にも見えた。髪は一筋の乱れもなく、口元だけが職業的に微笑んでいる。
「人事部別室へようこそ、新田一郎様」
「あなたは、うちの社員ですか」
「この建物には長くおります」
「何の部署なんです」
「欠員の補充と、配置の最適化を担当しております」
女は名刺を差し出した。
社名も氏名もない。中央に「担当者」とだけ印刷されていた。
「さっきの抽選は、どういう仕組みです」
「適任者を、空いている役割に配置しただけです」
「当たるはずだった人がいた」
「当選予定者です。採用予定者と同じで、内定は権利ではありません」
「俺が応募しなければ、あの人が当たっていたんですか」
「現任者が辞退しておりますので、確率の高い候補者へ再配分されたでしょう」
「なら、あの親子が――」
「新田様」
女は笑みを崩さなかった。
「誰かが席に座るとき、別の誰かが立つことは、電車でご経験済みかと存じます」
新田は返す言葉を失った。
受付の奥には、天井まで届く書類棚が並んでいた。
ラベルが見える。
母親。
親友。
事故の目撃者。
告白を断る人。
最期に手を握る人。
戦争を始めない人。
そのどれにも、薄いファイルが何十冊も収められている。
「人生は役割の集合です」と女は言った。
「人は自分を一つの存在だと思いたがりますが、実際には無数の職務を兼任している。誰かの息子であり、隣人であり、客であり、被害者であり、時には加害者でもある。役割には適性があり、空席があり、応募者がいる。私どもは、それを整理しているだけです」
「現任者がいる役割にも応募できるんですか」
「可能です」
「空席じゃない」
「より適した方が採用されれば、空席になります」
新田は女を見た。
「それは、奪うってことじゃないですか」
「人事では、配置転換と申します」
女は初めて、少しだけ楽しそうに笑った。
翌日から、複合機が吐き出す求人票は増えた。
雨の日に最後の一本の傘を買う人。
会議で部長の誤りを指摘する人。
病院の待合室で財布を拾う人。
遅刻した飛行機が墜落を免れる人。
新田は応募しなかった。
紙を破り、捨て、複合機の電源を抜いた。
それでも朝になると、排紙トレイに新しい求人票が積まれていた。
ある金曜日、束のいちばん下に、その紙があった。
欠 員 補 充 票
募集職種:朝木美緒の夫
勤務地 :杉並区内、分譲マンション
契約期間:原則として終身
待遇 :食卓、寝室、家族旅行、共有名義の預金ほか
応募資格:朝木美緒を現在も愛している方
欠員理由:現任者の共感性不足、および長期的な配置不良
募集人数:一名
新田は、紙を持ったまま動けなかった。
朝木美緒は、以前同じ会社にいた。
同期で、三年間、新田と付き合っていた。
別れた理由を、新田は「仕事が忙しかったから」と説明していた。
実際は、結婚の話を切り出した美緒に、もう少し待ってほしいと言い続けたからだった。課長になれば。住宅手当が増えれば。次の異動が決まれば。
彼女は待つのをやめた。
五年前に退職し、取引先の男と結婚した。
年賀状には男と並んだ写真があった。二年前からは、男の腕に抱かれた幼い男の子も加わった。
新田は年賀状を捨てられず、机のいちばん下の引き出しにしまっていた。
求人票を裏返した。
白紙だった。
もう一度表を見る。
応募資格:朝木美緒を現在も愛している方。
その日の午前零時、新田は別室にいた。
「現任者は、どうなるんです」
「配置を外れます」
「死ぬんですか」
「役割から外れることと、生命活動の停止は同義ではありません」
「どうなるのかと聞いてるんです」
「その方から見た世界と、その方を見ていた世界の結びつきが解消されます。以後の配属は、ご本人の適性と空席状況によります」
「子供は」
「『朝木美緒の息子』という役割に変更はありません」
「父親が変わって、平気なわけがない」
「記憶は職務に付随します。引き継ぎは円滑に行われます」
女は申請書を差し出した。
氏名欄には、すでに新田一郎と印字されていた。
「一点だけ、ご承知おきください。採用後も、より適した応募者が現れた場合は、契約を解除することがあります」
「俺より、彼女を愛している人間はいない」
「適性は愛情の量だけで決まりません」
女はペンを置いた。
「よくお考えください」
新田は考えた。
美緒が笑った顔を思い出した。
大学通りの桜。安いワイン。二人で選んだ青いマグカップ。別れ際、泣かずに「待つ才能がなくて、ごめん」と言った声。
それから、写真の中の夫を思い出した。
名前も知らない男。
美緒を待たせなかった男。
新田は署名した。
翌朝、目覚ましが鳴る前に、子供の声で起こされた。
「パパ、朝だよ」
見知らぬ寝室だった。
隣で美緒が眠っていた。
五年前より髪が短くなっていた。左手の薬指には、銀色の指輪がある。
新田の左手にも、同じ指輪があった。
ベッドの脇には、男の子が立っていた。
年賀状で見た子だった。
「今日、サッカー見に来るって言ったじゃん」
新田は返事ができなかった。
美緒が薄く目を開け、笑った。
「一郎、聞いてる?」
その呼び方は、五年前と同じだった。
新田は男の子の試合を見に行った。
夕方には三人でスーパーへ行き、夜は鍋を囲んだ。美緒は白菜を入れすぎる癖が治っていなかった。男の子は椎茸だけを器用によけた。
家の中には新田の写真があった。
結婚式で美緒の隣に立っている。
産院で赤ん坊を抱いている。
海辺で三人、日に焼けて笑っている。
新田には、どの場面の記憶もあった。
記憶は頭の中へ、最初からそこにあったように収まっていた。
だが、よく見るとどの思い出にも、わずかな継ぎ目があった。
結婚式で誓いの言葉を言った瞬間だけ、音がない。
息子が初めて歩いた日の部屋だけ、匂いがない。
家族旅行の帰り道だけ、助手席から見えるはずの景色が真っ暗だった。
そこには誰かがいた。
新田ではない誰かが。
夜中、書斎の引き出しから一冊の手帳が出てきた。
表紙には「隆志」と名前がある。
中身はほとんど白紙だった。
ただ、最後のページに、震えた字で一行だけ残っていた。
俺がいなくなったあと、誰がやるんです。
新田は手帳を閉じた。
翌日、会社へ行くと、誰も新田が結婚したことを不思議がらなかった。
人事データの配偶者欄には朝木美緒。五年前の慶弔申請には結婚祝い金の記録がある。
世界は訂正されていた。
ただ一つ、複合機だけは訂正されていなかった。
排紙トレイに、求人票が載っていた。
欠 員 補 充 票
募集職種:朝木美緒の夫
現任者 :新田一郎
応募者数:一名
選考状況:書類審査中
新田は紙を破った。
翌日は応募者数が三名になった。
その翌日は八名。
一週間後には四十二名。
求人票には、応募者の職歴が簡単に表示されるようになった。
小学校教諭。三十六歳。家事分担実績あり。
看護師。四十一歳。夜泣き対応経験あり。
現任者の元同級生。三十九歳。朝木美緒との共通の趣味多数。
匿名。年齢非公開。息子のサッカーチームでコーチ経験あり。
どれも新田より、夫らしかった。
新田は早く帰宅するようになった。
皿を洗い、洗濯物を畳み、息子の宿題を見た。美緒の話を遮らずに聞いた。結婚記念日を調べ、予約困難な店を押さえた。
応募者数は減らなかった。
百二十名。
三百六名。
千八百四十一名。
世界中に、朝木美緒を知らない人間がそれほどいるはずはない。
だが別室の女は言った。
「知ることは、採用後でも可能です。あなたも、息子さんの好物を配属後に知ったでしょう」
「募集を止めろ」
「求人は役割そのものが行います。私どもは仲介にすぎません」
「美緒が、俺を辞めさせたがってるのか」
「必ずしも、現任者への不満だけが欠員を生むわけではありません。役割が安定し、待遇がよく見えるほど、応募は増えます」
「どうすれば、契約を守れる」
「適性を示し続けることです」
「いつまで」
「原則として終身です」
女は同情するように微笑んだ。
「会社員でいらした新田様なら、終身という言葉の意味をご存じでしょう」
その夜から、新田は眠れなくなった。
美緒が携帯電話を見るたび、応募者と連絡を取っている気がした。
息子が学校の話をするたび、担任の名を疑った。
宅配便の男、マンションの管理人、テレビの中の俳優まで、自分の席を狙っているように見えた。
家族を愛する時間より、家族を失わないための査定対策に費やす時間が増えた。
ある朝、美緒が言った。
「一郎、最近、怖いよ」
「何が」
「ずっと誰かと比べてるみたい」
「比べられてるんだ」
「誰に?」
「君には分からない」
美緒はしばらく黙り、それから静かに言った。
「分からないままでいさせてるのは、あなたでしょう」
その日の午後、複合機は一枚だけ紙を吐いた。
契 約 更 新 通 知
職種 :朝木美緒の夫
現任者 :新田一郎
審査結果:更新見送り
契約終了:本日二十三時五十九分
理由 :役割の維持を目的とした行動が、役割本来の目的を上回ったため
新田は紙を握りつぶし、地下へ走った。
「取り消せ」
別室の女は、いつもの姿勢で座っていた。
「決定事項です」
「前の夫を戻せ。隆志を戻せばいい」
「当該者は現在、別の役割に配属されています」
「どこに」
「守秘義務がございます」
「だったら、俺を別の役割に移せ。何でもいい」
「おすすめをお出ししましょうか」
女が端末を操作すると、卓上プリンターから何枚もの紙が出た。
深夜のコンビニで怒鳴られる店員。
火災報知器を最初に信じる住人。
病院で臓器提供に同意する兄。
踏切の向こうで手を振る幽霊。
誰にも読まれない遺書を書く人。
「ふざけるな」
「いずれも、現在の新田様の適性に近い役割です」
「俺の人生はどこにある」
「どの人生を指しておられますか」
女は首をかしげた。
「独身の人事企画課長でしょうか。朝木美緒の夫でしょうか。それとも、午前七時四十八分に席を譲った方でしょうか」
「全部、俺だ」
「いいえ」
女の声から、初めて接客の温度が消えた。
「すべて役割です」
時計のない壁に、赤い数字が浮かんだ。
23:57:03
新田はカウンターを叩いた。
「応募を取り下げればよかった。最初から、こんなもの――」
「最初から?」
女は一枚の古い書類を取り出した。
黄ばんだ紙だった。
新田の会社のものでも、現代のものですらない。毛筆のような文字で、しかし見慣れた書式が記されている。
欠 員 補 充 票
募集職種:新田家の長男
勤務地 :東京都下
契約期間:出生より死亡まで
応募資格:なし
欠員理由:第一候補者の流産
募集人数:一名
採用者 :新田一郎
新田は、紙から目を離せなかった。
「あなたが最初に応募したのは、これではありません」と女は言った。
「応募したのは、あなたになる前の何かです。皆様そうです。空席に入り、役割を自分だと思い込み、やがて席を立つ」
「じゃあ、俺は……」
「採用された方です」
「契約が終わったら、どうなる」
「次の役割をご案内します」
赤い数字が進む。
23:58:41
「嫌だ」
「承知しました。辞退として処理いたします」
女は端末のキーを押した。
新田は安堵しかけた。
だが女は続けた。
「ただし、役割を持たない方は、どなたからも認識されません」
「待て」
「辞退を撤回なさいますか」
23:59:02
新田は美緒の顔を思い浮かべた。
息子が椎茸をよける指。
眠る前に「おやすみ」と言う声。
借り物の記憶でも、愛情まで偽物だとは思えなかった。
少なくとも、そう思いたかった。
「どうすれば残れる」
「欠員を埋めていただきます」
「誰の」
女は、受付の奥にある扉を指した。
これまで気づかなかった扉だった。
曇りガラスに、黒い文字がある。
面 接 室
「本日付で、面接官に欠員が出ております」
「面接官になれば、家に帰れるのか」
「面接が終了すれば」
「何人だ」
「一名です」
赤い数字は、23:59:48。
新田は扉を開けた。
中には机が一つと、椅子が二脚あった。
片方の椅子に座ると、背後で鍵がかかった。
机の上に、一枚の履歴書が伏せてある。
新田はそれをめくった。
氏名欄は空白だった。
顔写真の場所には、鏡のような銀色の紙が貼られている。覗き込むと、新田の顔ではなく、暗い部屋で何かを読んでいる誰かの顔が映った。
男か女か、若いのか老いているのか、よく見えない。
ただ、その人物の目が、文字を追ってゆっくり動いているのだけは分かった。
机の端末が点灯した。
新規応募者を確認しました。
募集職種:この物語を最後まで読んだ人
主な業務:面接室の現任者と交代し、次の応募者を待つこと
契約期間:次の採用が決定するまで
報酬 :元の生活への復帰
応募資格:結末を知りたい方
欠員理由:現任者の帰宅希望
募集人数:一名
画面の下に、二つのボタンがあった。
採用する。
不採用にする。
新田は迷わず「採用する」を押した。
端末は短い電子音を鳴らした。
選考中です。
応募者が最後の一行を読み終えるまで、しばらくお待ちください。
新田は銀色の紙を見つめた。
そこに映った人物は、まだこちらを見ている。
そして今、最後の一行を読み終えた。