『残り〇・八秒の空』
体育館の窓を、春の雨が細い指で叩いていた。
瀬尾奏汰は、誰もいないコートの中央に立っていた。
床に落ちたボールを一度だけつき、ゴールを見る。リングまでの距離は、ほんの四メートル。中学生のころなら、目を閉じても届くと思っていた距離だ。
奏汰は膝を曲げた。
右手のひらにボールを乗せ、左手を添える。
けれど、指先は動かなかった。
頭の奥で、二年前のブザーが鳴る。
残り三秒。
同点。
目の前には誰もいない。
打てばよかった。外れても、打てばよかった。
なのに奏汰は、右隣の味方へパスを出した。
受け取った仲間は準備ができていなかった。ボールは指先を弾き、コートの外へ転がった。
次の瞬間、試合終了の音が鳴った。
負けたあと、誰も奏汰を責めなかった。
それが、いちばん苦しかった。
「また、打たないのか」
背後から声がした。
振り返ると、潮見高校バスケットボール部主将の琴坂烈が、入口にもたれていた。三年生。身長百八十八センチ。肩幅が広く、黙って立っているだけでゴール下の壁に見える男だ。
「自主練は自由だけど、照明は七時までだぞ」
「知ってます」
「じゃあ、早く打て」
「今、打とうとしてました」
「三分前から同じ姿勢だ」
奏汰はボールを下ろした。
「琴坂先輩、見てたんですか」
「見えるところで止まってるやつが悪い」
烈は奏汰の手からボールを奪うと、ゴールに背を向けたまま片手で放った。無造作な軌道を描いたボールは、リングの手前に当たり、大きく跳ね返る。
「外したじゃないですか」
「外したな」
「格好悪いですよ」
「でも、お前より一本多く打った」
烈は跳ね返ったボールを拾い、奏汰の胸へ強く押しつけた。
「瀬尾。パスは、逃げ道じゃない」
雨音が一瞬だけ遠くなった。
「知ってます」
「知ってる顔じゃない」
烈はそれ以上何も言わず、体育館を出ていった。
奏汰はしばらく動けなかった。
やがて、濡れた窓の向こうにぼやける街灯を見上げ、もう一度ボールを構えた。
シュートはリングに届かなかった。
潮見高校男子バスケットボール部は、強豪ではない。
部員は七人。
専用の監督はいない。
顧問の野宮は数学教師で、バスケットボール経験は大学の同好会まで。戦術ボードに書く字だけは、県大会常連校の監督よりも整っていると言われていた。
前年の公式戦は一回戦負け。
その前も一回戦負け。
さらにその前は、部員不足で出場辞退。
そんな部に奏汰が入ったのは、烈に誘われたからだった。
入学式の翌日、奏汰は校庭の隅で、転がってきたバスケットボールを拾った。持ち主へ返すつもりで投げたパスが、二十メートル先にいた烈の胸へ、吸い込まれるように届いた。
烈は驚かなかった。
ただ、ボールを抱えたまま言った。
「そのパス、体育館で使え」
奏汰は断った。
「もう、バスケはやりません」
「じゃあ、どうして今のパスに回転をかけた」
「癖です」
「癖なら、毎日使えるな」
三日後、奏汰は体育館にいた。
ボールを持つと、コートの線が光って見えた。
味方の足の向き。守備の重心。空いている場所へ走り込むまでの時間。奏汰には、まだ起きていない一秒先の景色が、うっすら見えることがあった。
ただし、シュートだけは打たなかった。
パスをさばき、守り、走る。
それだけでも、七人しかいない潮見では貴重な戦力だった。
けれど、二年生エースの鷹野陸は、奏汰のプレーを気に入らなかった。
「お前さ、いい加減にしろよ」
地区予選を一週間後に控えた練習試合で、陸は奏汰の胸ぐらをつかんだ。
残り十秒。
一点負け。
奏汰はフリースローライン付近まで切り込み、相手守備を二人引きつけた。そのまま打てた。だが、奏汰は外にいた陸へパスを出した。
陸の三点シュートは外れ、潮見は負けた。
「俺は外した。そこは謝る。でもな、お前、俺を使って逃げただろ」
「二人来たから、空いてる人に出しただけです」
「嘘つけ」
陸の目は、怒っているというより傷ついていた。
「お前のパス、たまに冷たいんだよ。『俺は正しい選択をした。あとはお前の責任だ』って言われてるみたいでさ」
「考えすぎです」
「だったら、次は打て」
「状況によります」
「またそれかよ!」
「やめろ、鷹野」
烈が二人の間に腕を差し入れた。
陸は舌打ちをして手を放した。
「主将。こんなやつを先発で使うんですか」
「使う」
「シュートを打てないポイントガードですよ」
「違う」
烈は奏汰を見た。
「こいつは、打たないんじゃない。まだ、自分の番が来てないと思い込んでるだけだ」
奏汰には、その言葉の意味がわからなかった。
わかりたくもなかった。
地区予選一回戦。
対戦相手は白峰学院だった。
組み合わせ表を見た瞬間、体育館の空気が止まった。
白峰学院は前年の県大会ベスト四。平均身長は潮見より十センチ近く高く、ベンチ入りメンバーは十五人。ウォーミングアップでは、次々とリングにボールが吸い込まれていく。
「くじ運、終わってるだろ……」
三年生の海井健太が、乾いた笑いを漏らした。
野宮顧問は眼鏡を押し上げ、整った字で戦術ボードに書いた。
『最初から、最後まで、走る』
陸が眉をひそめる。
「先生、それ戦術ですか」
「気持ちの話ではない。相手は高さで勝る。止まったら負ける。攻撃は五秒以内に形を作る。守備は全員で戻る。交代要員が少ないのは承知しているが、走るしかない」
「倒れたら?」
「立てる者が手を引け」
野宮はチョークを置いた。
「勝てるとは言わない。ただし、負けると決まった試合でもない」
奏汰は白峰の列を見た。
その先頭に、鶴崎蒼真がいた。
中学時代、同じ地区で何度も対戦した選手だった。奏汰より五センチ高く、速く、左右どちらの手でもドリブルできる。県選抜にも選ばれた司令塔。
蒼真も奏汰に気づいた。
驚いたように目を見開き、すぐに笑った。
「まだバスケやってたんだ、瀬尾」
「悪い?」
「別に。意外だっただけ」
蒼真はボールを指先で回した。
「今日は安心してパスできるな。受け取ったやつが外してくれるかもしれないけど」
奏汰の背中に、冷たいものが走った。
二年前の試合を、蒼真は観客席で見ていた。
烈が一歩前へ出た。
「知り合いか」
「昔の」
「そうか」
烈は蒼真ではなく、奏汰の肩を叩いた。
「じゃあ、昔の続きは今日で終わらせろ」
試合開始の笛が鳴った。
最初の三分で、潮見は十点を失った。
白峰は速かった。
一本目、潮見のパスを蒼真が奪い、そのまま速攻。
二本目、百九十センチを超えるセンターが、烈の上から押し込む。
三本目、奏汰が陸へ通そうとした横パスを読まれ、また蒼真に走られた。
「奏汰! 切り替えろ!」
烈の声で、奏汰はようやく自陣へ戻った。
攻撃では、白峰の守備が奏汰から離れていた。
パスコースだけを消し、シュートは打たせる。
「ほら、空いてるぞ」
蒼真が二メートル先で両腕を広げた。
「打ってみろよ」
奏汰は陸へボールを回した。
陸には二人がついた。無理に放ったシュートはリングを外れる。
「瀬尾!」
陸の怒鳴り声が響く。
奏汰は聞こえないふりをした。
第一クォーター終了。
九対二十四。
ベンチに戻ると、全員の肩が大きく上下していた。白峰の選手たちは涼しい顔で交代し、次の五人がコートへ出ていく。
潮見には、休ませられる選手が二人しかいない。
「瀬尾、後半まで温存させる。いったん下がれ」
野宮の指示に、奏汰は無言でうなずいた。
第二クォーター、潮見は烈を中心にゴール下で粘った。陸も強引に得点を重ねた。しかし、点差は縮まらない。
白峰は奏汰がいなくても強かった。
蒼真はベンチへ下がらず、潮見の疲労を見透かすように走り続けた。
前半終了。
二十七対四十六。
控室に戻る廊下で、観客席から声が聞こえた。
「まあ、相手が悪かったよ」
「二十点差なら、よくやってる方じゃない?」
「後半はもっと離れるだろ」
悪意のない声だった。
だからこそ、胸に刺さった。
控室では、誰も口を開かなかった。
陸はタオルを頭からかぶり、海井は床に寝転がって呼吸を整えている。烈の左膝には、氷の入った袋が当てられていた。
奏汰は壁際に座り、自分の手を見た。
汗で濡れている。
震えている。
前半に出したパスは六本。そのうち得点につながったのは三本。悪くない数字だ。
自分にそう言い聞かせた瞬間、陸がタオルを床へ叩きつけた。
「数字の顔すんなよ」
奏汰は顔を上げた。
「何ですか」
「今、『自分はそんなに悪くない』って考えてただろ」
「考えてません」
「顔に出てる」
「鷹野先輩は、俺にどうしてほしいんですか」
「責任を取れって言ってんだよ!」
「俺が全部打てば満足ですか? それで外したら、今度は何て言うんです?」
「外せよ!」
陸の声が、狭い控室を揺らした。
「外して、俺たちに拾わせろ! お前だけ失敗しない場所に立ってんじゃねえ!」
奏汰は言葉を失った。
烈が、膝の氷袋を外した。
立ち上がる動きは遅かったが、声は静かだった。
「瀬尾。中学の最後の試合、お前はどうしてパスした」
「……味方が空いてたからです」
「本当に、それだけか」
「そうです」
「なら、今ここで俺の目を見て言え」
奏汰は顔を上げられなかった。
二年前。
残り三秒。
目の前にリング。
右隣から「奏汰!」と呼ぶ声。
奏汰は、外した自分を想像した。
責められる自分を想像した。
怖くなって、ボールを手放した。
あれは信頼ではなかった。
判断でもなかった。
ただ、失敗を誰かに渡しただけだった。
「怖かったんです」
声が、勝手に出た。
「外すのが。俺のせいで負けるのが。だから……あいつに渡した。あいつなら決めると思ったんじゃない。俺じゃなければいいと思った」
控室が静まり返った。
野宮は何も言わず、戦術ボードを奏汰の前へ置いた。
そこには、一本の矢印が書かれていた。
奏汰が中央を突破し、そのままゴールへ向かう線。
「後半最初の攻撃だ」
野宮が言った。
「君が打て」
「入る保証はありません」
「そんなものは、誰にもない」
烈が奏汰の頭を軽く叩いた。
「外したら、俺が拾う」
海井が床に寝たまま手を上げる。
「俺もいる」
陸はそっぽを向いた。
「俺は走る。だから、入っても外れても、さっさと戻れ」
奏汰の喉が熱くなった。
野宮が時計を見る。
「後半だ。負け方を選びに行くんじゃない。勝ち方を探しに行くぞ」
第三クォーター最初の攻撃。
奏汰は中央でボールを受けた。
蒼真が前に立つ。
やはり一歩、距離を空けている。
「またパスか?」
奏汰は右手で一度つき、左へ切り返した。
蒼真の反応が半歩遅れる。
ゴールまで四メートル。
春の雨の日、届かなかった距離。
奏汰は跳んだ。
右手からボールが離れる。
指先の感覚が消える。
軌道は低かった。
ボールはリングの手前に当たり、高く跳ねた。
「リバウンド!」
烈が白峰のセンターとぶつかりながら、片手でボールを外へ弾いた。
そこへ陸が走り込む。
「戻れって言っただろ!」
陸のシュートが決まる。
二十九対四十六。
たった二点。
点差はまだ十七。
なのに、奏汰の胸の中で何かが割れた。
壊れたのではない。
固まっていたものが、ようやく砕けた。
「もう一本!」
烈が叫ぶ。
次の守備で、奏汰は蒼真のドリブルへ身体を寄せた。
抜かれてもいい。後ろには烈がいる。
右を切り、左へ追い込む。蒼真がクロスオーバーした瞬間、陸が横から手を伸ばした。
ボールがこぼれる。
奏汰は飛び込んだ。
床に胸を打ちつけながらボールを抱え、倒れたまま陸へ投げる。
陸が走る。
白峰の選手が二人戻る。
奏汰には、その間に一本の道が見えた。
「陸先輩、左!」
陸が左へボールを放る。
そこへ海井が走り込み、レイアップを決めた。
三十一対四十六。
白峰の監督が立ち上がる。
蒼真の笑みが消えた。
潮見は走った。
守って、走る。
外して、拾う。
拾えなければ、また守る。
奏汰は二本目のシュートを打った。
今度はリングの奥に当たり、外れた。
烈が拾い、押し込んだ。
三本目。
入った。
フリースローラインからのジャンプシュート。
網が鳴った瞬間、白峰の守備が初めて奏汰へ一歩近づいた。
その一歩を、奏汰は待っていた。
奏汰が切り込む。
守備が寄る。
烈へ低いバウンドパス。
烈がゴール下で二人を引きつけ、外の陸へ戻す。
陸の三点シュートが決まる。
第四クォーター残り六分。
五十四対六十二。
点差は八まで縮まっていた。
潮見のベンチは総立ちだった。
観客席の空気も変わっている。最初は白峰の得点にだけ上がっていた歓声が、今は潮見の守備にも降ってくる。
だが、白峰は強豪だった。
蒼真が速攻で一本返す。
次の攻撃では、奏汰の頭上から三点シュートを沈めた。
「追いつけると思った?」
着地した蒼真が、奏汰の耳元で言う。
「弱いチームって、惜しいところまでは来るんだよ。そこからが違う」
五十四対六十七。
残り四分十二秒。
海井が足をつり、ベンチへ下がった。
代わって入った一年生の葉山奏は、公式戦初出場だった。顔色が真っ青になっている。
「無理です、俺。手、動かないです」
コートに入る直前、奏が奏汰へささやいた。
「俺も怖い」
奏汰は答えた。
「でも、怖いまま走ればいい。ボールが来たら、取れ。取れなかったら、また追え」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないから、五人でやるんだろ」
自分で言ってから、奏汰は少し驚いた。
再開直後、白峰は奏を狙った。
蒼真がドリブルで揺さぶり、鋭いパスを通す。
奏は反応できない。
そう見えた。
だが、ボールが相手の手に届く寸前、奏は両手を伸ばした。
指先に当たったボールが軌道を変える。
「奏汰!」
奏が叫ぶ。
奏汰はボールを拾い、前を見る。
陸が右を走る。
烈が中央を走る。
白峰の守備は二人とも、その二人を見ていた。
奏汰は自分で運んだ。
ゴール下で蒼真が待つ。
「来いよ」
奏汰は一歩目を右へ踏み、空中で身体をひねった。
蒼真の手が迫る。
奏汰はボールを胸元へ引き、リングの反対側へ放った。
ボードに当たったボールが、リングを一周する。
落ちるまでが、ひどく長く感じられた。
入った。
笛が鳴る。
蒼真のファウル。
「よしっ!」
烈の咆哮が体育館を揺らした。
追加のフリースローも決まり、五十七対六十七。
そこから、潮見は一つずつ削った。
陸の三点シュート。
烈のリバウンドシュート。
奏の必死の守備。
奏汰のスティール。
残り一分。
六十七対七十。
白峰の攻撃。
蒼真は時間を使い、残り十秒で動き出した。
奏汰を抜き、ゴールへ向かう。
烈が前に出る。
蒼真は空中でパスへ切り替えた。
その先にいた白峰のセンターが、両手でボールを受ける。
決まる。
誰もがそう思った瞬間、奏が背後から跳んだ。
ボールだけを叩き落とす。
「取った!」
奏の声。
奏汰が拾う。
残り四十六秒。
陸が右へ走る。
奏汰はパスを出すふりをして、自分で左へ切り込んだ。白峰の守備が奏汰へ寄る。
今度こそ陸へ。
三点シュート。
リングに当たり、高く跳ねる。
「外した!」
白峰の声。
烈が跳ぶ。
相手センターも跳ぶ。
二人の手の上で、ボールがさらに高く弾かれた。
落下地点へ走り込んだのは、奏だった。
奏はボールをつかむと、振り向きざまに放った。
フォームも何もない。両手で押し出しただけのシュート。
ボードに当たり、入る。
六十九対七十。
残り三十一秒。
白峰はタイムアウトを取った。
潮見の選手たちはベンチへ戻る途中で、言葉もなく互いの肩を叩いた。
全員、限界だった。
烈は膝を引きずっている。
陸のユニフォームは汗で色が変わっている。
奏は息を吸うたび、喉の奥で変な音を立てた。
野宮は戦術ボードに、白峰の最後の攻撃を想定した守備を書いた。
「ファウルはするな。一本守れば、勝つ機会は残る」
「一本、取られたら?」
奏が聞いた。
「そのときは二本取り返す」
陸が笑った。
「先生、急に雑になりましたね」
「時間がない」
ブザーが鳴る。
コートへ戻る直前、烈が奏汰を呼び止めた。
「最後のボール、お前が持て」
「まだ守備です」
「守ったあとの話だ」
「取れる保証は」
「ない。だから取る」
烈は奏汰の胸を拳で軽く叩いた。
「今度は、自分の番を見落とすな」
白峰の攻撃は、蒼真に託された。
残り三十一秒。
白峰は二十四秒をぎりぎりまで使うつもりだ。
蒼真はゆっくりとドリブルした。
奏汰は腰を落とす。
残り十秒。
蒼真が右へ動く。
奏汰もついていく。
残り七秒。
スクリーンが来る。
烈が前へ出る。
蒼真は切り返し、二人の間を抜けた。
残り四秒。
フリースローラインで跳ぶ。
奏汰も跳んだ。
届かない。
蒼真の手からボールが離れる。
リングの奥に当たった。
外れた。
烈が相手センターと競り合う。
ボールは二人の指先をかすめ、床へ落ちた。
奏が身体を投げ出す。
白峰の選手も飛び込む。
ボールはコートの外へ転がった。
笛。
潮見ボール。
時計は、残り六・四秒を示していた。
野宮が最後のタイムアウトを取った。
ベンチの周りに全員が集まる。
観客の声は大きいはずなのに、奏汰には仲間の呼吸しか聞こえなかった。
野宮が作戦を書き始める。
「鷹野に二人つく。琴坂がスクリーンをかけ、瀬尾は――」
「先生」
奏汰が遮った。
全員が見る。
「俺が、最後まで持ちます」
陸が口元を上げた。
「遅えよ」
烈は何も言わず、うなずいた。
野宮は奏汰の顔を数秒見てから、ボードの線を書き直した。
「瀬尾が運ぶ。鷹野は右へ。琴坂は中央。二人を囮にして、瀬尾が左から入る。相手が寄ったら、選べ」
選べ。
その言葉が、奏汰の胸に残った。
打つか。
渡すか。
正解は、先に決まっているものではない。
その瞬間に、自分で背負うものだ。
六・四秒。
奏から奏汰へボールが入る。
蒼真がすぐに前へ出た。
もう距離を空けてはいない。
奏汰は左手でドリブルする。
残り五秒。
陸が右へ走る。
守備がついていく。
烈が中央で身体を張る。
白峰のセンターが塞ぐ。
残り三秒。
奏汰は左へ加速した。
蒼真が肩をぶつけてくる。
「打たせない!」
ゴールまで三メートル。
奏汰は踏み切った。
蒼真も跳ぶ。
白峰のセンターも手を伸ばす。
奏汰には、右隅の陸が見えた。
一瞬だけ、完全に空いている。
渡せば打てる。
けれど、残り時間は少ない。
奏汰は空中で腕を振った。
パスの動き。
守備の二人が右を向く。
奏汰はボールを離さなかった。
そのまま身体をひねり、左手でリングへ放る。
蒼真の指先が、わずかに触れた。
ボールは高く上がり、リングの手前に落ちる。
入らない。
そう思った瞬間、烈が飛んだ。
膝の痛みを忘れたように、誰よりも高く。
烈の指先がボールを押す。
ブザーが鳴る。
ボールはリングの上で一度跳ねた。
二度目は、真上へ。
体育館にいる全員が、残り時間のなくなった空を見上げた。
ボールが落ちる。
リングの内側へ。
網が、静かに揺れた。
七十一対七十。
一瞬の沈黙のあと、音が爆発した。
奏が叫びながら奏汰へ飛びつく。
海井がベンチから走ってくる。
陸が烈の背中を何度も叩く。
奏汰は床に座り込んだまま、ゴールを見上げていた。
「俺のシュート……外れました」
烈が息を切らしながら笑った。
「だから、俺が拾った」
「最後、先輩の得点です」
「お前が打たなきゃ、俺の得点もない」
陸が奏汰の頭を乱暴につかむ。
「次は最初から打て。心臓に悪い」
「外したら?」
「拾うって言ってんだろ」
奏汰は笑った。
声を出して笑ったのは、いつ以来かわからなかった。
整列のあと、蒼真が奏汰の前に立った。
負けた白峰の選手たちは、みな悔しさを押し殺した顔をしていた。
蒼真も唇を噛んでいたが、奏汰と目が合うと小さく息を吐いた。
「最後、パスすると思った」
「俺も、途中まで思ってた」
「何だそれ」
「でも、俺の番だったから」
蒼真はしばらく黙り、やがて右手を差し出した。
「次は止める」
奏汰はその手を握った。
「次も打つよ」
控室へ戻る廊下には、試合前と同じ観客たちがいた。
「すごかったな、潮見」
「あの一年、最後よく行ったよ」
「次の試合も見ようぜ」
奏汰は足を止めなかった。
賞賛が欲しかったわけではない。
過去を消したかったわけでもない。
二年前のパスは、なくならない。
失敗した記憶も、怖さも、たぶんこれから何度でも戻ってくる。
それでもいい。
怖いまま、打てばいい。
外れたら、仲間が拾う。
仲間が外したら、自分が拾う。
それが五人でコートに立つということなのだと、今ならわかる。
体育館の外へ出ると、空は夕焼けに染まっていた。
雨上がりの雲の切れ間を、一羽の鳥が横切っていく。
烈が隣に並ぶ。
「明日、二回戦だ」
「知ってます」
「相手は去年の地区優勝校だ」
「また強豪ですか」
「くじ運が悪い」
「でも、負けると決まった試合じゃない」
奏汰が言うと、烈は少し驚いた顔をしてから笑った。
「ようやく、潮見の選手らしくなったな」
奏汰は右手を開いた。
最後に放ったボールの感触が、まだ指先に残っている。
残り〇・八秒。
ボールは自分の手を離れた。
けれど、責任まで手放したわけではなかった。
あの瞬間、奏汰は確かに空を見た。
逃げ道ではなく、仲間とつながった一本の軌道として。
明日もまた、そこへ投げる。
今度は、最初から。
了